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2/17/2008

本は同時に10冊読め!・成毛眞









本は同時に10冊読め!・成毛眞

最初にはっきり言っておこう。みんなと同じような家に住み、みんなと同じような店に行って同じものを食べ、みんなと同じ場所に旅行する人は、いつまでたっても「庶民」である。
「庶民的」なことしかしないから「庶民」になり、「庶民的」な生活しか送れなくなるのである。

成功とはイノベーション、つまる革新性のあることを実現できたときにはじめて成り立つものだ。他の人が思いつかないようなビジネスをして、他の人がマネできない生き方をしてこそ、自分の人生を生きているのではないか。

お金に縛られ、追われる人生を送るのか、知識という一生モノの財産を使って、残高など気にしないでいられるほど稼げる人間になるのか。お金とは、使い方次第で生き金にも死に金にも変わるものである。

みんなと同じ時間の使い方をしている人は「庶民」だ。

「庶民」から抜け出したいのなら、行列に並ばない、混雑している場所に行かない、この2点だけでも徹底するべきである。

水滸伝・岩波書店
積みすぎた箱舟
星を継ぐもの/JP・ホーガン
華麗なる一族
失敗の本質
ご冗談でしょう、ファインマンさん
タオ自然学
資本主義対資本主義
モーゼと一神教
ノアの洪水
利休・茶室の謎
黒死病
セーヌ左岸の恋
鷲は舞い降りた
深夜プラス1

12/26/2007

知的な大人へのヒント・林望









知的な大人へのヒント・林望

もてなしの心は金では買えない。やたら高い金をかけて特別の食器なんかを買い込んで、それを意気揚々と出す、そういう心がけはもてなしの美しい心から遠いものです。

大きな声を出さないということは、たとえばイギリスなんかでは、紳士の必須の教養の一つです。大声で話すだけで、もうその人間は無教養だと見なされる。だからともかく小声で話すように意識したい。
できるだけ、相手に嫌な感じを与えない。温かい感じを与える。そして、言っていることがはっきりとわかるように話す、ということはインテリジェンスを感じさせる良い話し方の最大の要件です。

人間四十になったら自分の顔に責任を持たないといけないといいますが、本当にそのとおりだと思います。たとえば、必死に勉強している受験生を見ると、いかにも勉強で磨いた顔をしている、という感じが見えることがあります。
顔というのは内面の窓、その人の人間性の看板のようなもので、内なるものが如実に顔に出ます。

叡智はただでは得られません。身銭を切ってこそ内奥にしみ込ませることができる。その対価を払わなければ、本当の情報を身につけることはできないと、このことだけはよくよく肝に銘じてください。

インテリらしい話し方ってのは、「自慢話」はだめなんです。その反対に行きたい。自分を戯画化しておのれを低くして話す、それが、まずもってインテリらしい話し方の基本です。

人間の心の修養というものは「どうやって自己宣伝をしないように自分を抑制するか」ということじゃないか、とこの頃つくづく思うことがあります。
インテリらしく、ということからすると、まさにここが人間関係の最代の留意点で、自己を抑制できるのがインテリジェンスです。そう思って、誰もがその点に注意して人と接したら、ずいぶん生きやすい社会ができるような気がします。
自己宣伝というのうは、実は「自信」ということと裏腹の関係にあります。「空き樽良く鳴る」と福沢諭吉の諭していますが、自己宣伝というのは、ある意味で未熟な自己を悟られまいとする防衛反応のようなもんであります。

11/24/2007

橋本治







橋本治
古典芸能の世界で、「自分が出る」というのは、とても恥ずかしいことである。芸というのは、「自分」を消してからでなければ生まれない。「じぶん」が残っていればシロートで、シロートというものは、「自分を消す」という表現の基本をまだマスター出来ていない存在なのである。

キイワード式のダイジェスト型マスターは、「万巻の書を読まなければならない教養主義に対するアンチだ」と、誤解されている。教養というものは、別に万巻の書を読まなければ身につかないものではない。必要なのは、所詮「何冊かの本」だ。何冊かの本の一冊一冊を納得のいくまで読み込まなければ、「教養」を「教養」たしめる構造を理解出来ない。その根本がなかったら、本を何万冊読んでも同じだ。「万巻の書」という発想は、実は「教養」の発想ではない。これは、範囲を決める「一般教養」の発想である。「本を読むのはしんどいな」と思う人間には、その「範囲」が「万巻の書」のような膨大かつ巨大なものに見えるだけである。そして、「範囲」が決まっているからこそ、その「万巻の書」は、「これだけ読んどけば大丈夫」という形で、凝縮されてしまうのである。

たまに街へ出て、自分がよく知っていたはずの街がとんでもない変貌を遂げていることを知ったりして思うのは、ただ「ここはもう自分の知る街ではないな」だけである。「自分にとってはもう必要ではない」とう意識があるから、そんなことしか考えない。「この街をどうするかは、この街を必要とする人の考えることで、この街への批評は、この街を必要とする人の責任だな」としか思えない。

7/16/2007

股倉膏薬?


四文字熟語「股倉膏薬」何て読む?そして、その意味は?

答え:
「またぐらこうやく」
金を稼ごうとして、あっちに貼りついたり、こっちに貼りついたりして汲々としている間に信用を失った挙句に財産まで失ってしまうということ。

上記のことを、五木寛之がエッセイで書いていた。納得。