11/03/2007
日本の遺伝子を変える 濤川栄太
日本の遺伝子を変える 濤川栄太
田中角栄氏がしみじみと語った言葉が忘れられない。「とにかく敵をなるたけつくらないこと。一人の敵は千人の敵になる」は、けだし名言だ。
何が弱いのかといえば、まず情報そのものに対する執着力が弱い。ある意味でインターネットとは「個」だ。一人が世界をひっくり返せる可能性をもつ。その点、集団主義をメインとし、基本的には群れて生きてきた日本人は、どうしても「個の確立」を苦手にする部分もある。
とくに目立つのは「国家意識の欠落」。日本人ほど国家を愛さない国民が多いのは、世界に類例がない。
これは何回でも強調する。個人を大切にし、自由と民主主義でいく。しかし、そういうアメリカ、イギリス、フランス・・・、いずこの国民もみな自国を愛している。
「人間は自分の為に生きなければ生きられないが、他人の為に生きる意志のない者は幸福になれない」、という方程式。私にはどうしてもそうとしか考えられない。
だから仏教でいう「菩薩性」の強い人が、人間として強い。豊かであり、輝く。そして「知足」―、足るを知っている。エンジンをふかす時と、ブレーキをかける時の判断力も高い。孫子は「敵を知り、己を知るは百戦危うからず」というが、やはりすべては「知ること」から始まる。「知は力」だ。
MIT教授ジョン・ダワー氏はかつてピュリッツアー賞を受賞したが、日本経済の復興を研究する彼はいう。「経済システムについてもアメリカのまねをして、日本がもっていた良さをなくそうとしているように思います」。「アメリカのまねをして、日本の優れたシステムを棄ててはならぬ」。繰り返すが、アメリカの良き所を吸収し、悪しき所は同化しない術を身につけないとこの国は本当にダメになってしまう。
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11/02/2007
親より稼ぐネオニート・今一生
親より稼ぐネオニート・今一生
受験勉強や集団生活は、ガマン比べに強い奴が勝ち上がっていく。
だが、「どうせガマンするなら自分のしたいことを実現させるためにガマンしたい」と望むほうが精神的に健康な考えであり、実際に発揮できるはずだ。「みんなと同じ」人生を踏み外す不安に負けて、周囲の望む通りに生きて後悔しても、親も友人も恋人も誰もあなたの人生に責任なんてとってくれない。だから、やりたいことがハッキリとあるときは、みんなの輪から離れても自分が納得できるまでやってみるしかないのだ。
「親が子供に教育すべきことは自分一人で食べる技術を身につけさせることだ」と痛感した。
親は子供に学歴を与えることに躍起になるよりも、自力で稼いでいる姿を見せたほうが、子供にとっては自分が生きている社会がどんなものかがわかる。家庭や学校における教育ではまだまだ学歴信仰が根強い。だが、そこから一歩でも早く目覚めて自力で稼げる技術を磨かせることが、楽しく稼ぐ子=働くのが好きな子に育てる第一歩なのだ。
会社に雇われるより自営したほうが儲けられるなら、雇われる必要などない。資本主義社会では自営で暮らす自信のない若者は学歴にすがって待遇の良い企業への入社を目指す。だが、職業能力や実績に自信のある人は早々と独立する。つまり正規雇用は本来、自営業を安定させることに自信のない弱者の選択にすぎないのだ。
「(下流層は)コミュニケーション能力、生活能力、働く意欲、学ぶ意欲、消費意欲、つまり総じて人生への意欲が低いのである。その結果として所得が上がらず、未婚のままである確率の高い。そして彼らの中には、だらだら歩き、だらだら生きている者も少なくない。その方が楽だからだ。」
衣食住がいつもあるのを当然と感じ、趣味や遊びにも満足なお金をかけて育てられた世代の子供たちにとっては、わざわざ苦役である労働に自分の時間や体を投げ出さなければいけない理由がピンと来ない。自分の趣味に時間とお金を使うことで、その趣味と向き合っているときの自分が自分らしいと感じてしまった世代にとっては、自分らしさから離れることは自尊心を奪われるのと同じであり、「酸欠」状態だからだ。
ファッション雑誌やテレビ番組でよく報じられるように、流行の服を着ることや毎年水着を買い換えることがおしゃれの基本だろうと、そんな「みんなと同じ」ことにお金を支払うよりも自分らしい趣味にお金を出すほうが楽だから、暮らしぶりは放っておくと自堕落になりがちだ。
その「自分らしい人生」がテレビゲーム三昧の日々だろうと、低収入のために家の外で友人と交際する機会を減らすしかない人生だろうと、「世間様には及ばないが、マイペースの人生で良いじゃないか」と思うことで自尊心を保つしかない。
現実での職場の人間関係は、学校で嫌いな人を無視してやり過ごすようなポーカーフェイスでは立ち行かないし、自分の仕事ぶりは常に同期の人たちと比べられる。
人と競争しながら自分の能力を磨くことに既に疲れきっていたり、人と争いながらも妥協点を探って絆を深めていけるようなコミュニケーション・スキル(交際能力)を鍛えるにも及び腰で、毎日同じ会社に通勤する規則正しい生活を維持する体力も根性も欠如しているという一群が、「エヴァ世代」の若者には珍しくないからだ。
プロは自分の高度な技術を取引先の企業に高く売るために、ギャラの額面を吊り上げていくことに腐心する。その結果、「IT弱者」には払えない額面になってしまうからだ。
そこにこそ、職にあぶれたニートたちが「自分にとって難なくできるレベルのもの」を発見する余地が生まれる。自分ひとりが食っていける程度の労働市場は自力で作れるのだ。誰もやらないことほど独占市場を作れるチャンスなのだから。
ネオニートは、世間体より自分の基準を優先してきた。世間体なんか気にして「普通並み」の暮らしを求めても、自分には無理そうだからあきらめ、不労所得→自営の道を歩いてきたのだ。その経緯を忘れずに、収入能力が同世代のサラリーマンの平均年収以上になった時点で世間に合わせた消費スタイルに変えていく必要がある。
自分が好きな古着を着て路上で歌っていたインディーズ・ミュージシャンも、メジャー・デビューしたらプロのスタイリストにお金を払って、自分の個性をもっと魅力的に見せる眼をあつらえてデビュー・アルバムのジャケット写真を撮影する。それが、「メジャー」に上るだけの商品価値があることを世間に証明する通過儀礼だからだ。
このように、自分が世間からプロとして認められるには、自分のできないことのできるプロにお金を払って自分を磨きながら、いろんなプロたちの輪に入って自分の存在を訴えていくことが求められる。収入能力や資産の増大に伴うべき変化は、消費スタイルだけではない。儲けの大きさに応じて会社法人化したり、せめて確定申告するなどの税申告の明瞭化を図ったり、IT関連だけでなく、IT以前のマスメディアとの連動を図って世間から認められるように振舞っていかないと、時代の変化で市場が頭打ちになったり、ライバルの追従を許してしまう。
人前に出る機会が増えればそれなりの服を買う必要が出てくるし、「安い定食屋の味しか知らない」というわけにはいかなくなる。だが、それこそが世間に合わせるということなのだ。そのように世間に受け入れられるように振舞えば、自分自身が社会的に存在価値が高いことを自他共に認められ、自分の仕事ぶりにもっと確かな自信を持つことができるようになり、新たに労働意欲が補填されるというわけだ。
稼ぐ速度はその人の自分の人生に対する責任感(自尊心)によってまちまちだ。
個人資産が莫大になれば、なるだけ広く社会(それも多数の弱者)に還元していく。このあり方は、不断の拡大再生産を余儀なくされる資本主義の最終形態(解脱)だ。だから、個人では使い切れないほどの資産ができれば、労働者から引退してもボランティアで社会に役立つために動くことだ。それが本物の成功者たちの人生といえる。
下流層は、物欲も性欲も食欲も弱い。人と競争せず自分らしく暮らせれば満足。
11/01/2007
オープンソースの開発とは?
オープンソースの開発とは?
オープンソース開発の特徴としては、スケジュールよりも、クオリティが重視されます。いつまでに作るのではなく、それを作り上げることが大事なのです。また、開発者がやりたいものを自発的に制作するので、完成させるためには勉強や実験といった努力も惜しまないのです。そして、無駄を気にしないというのも特徴のひとつです。普通の企業の業務なら、分散して効率よく作業するのが普通でしょうが、オープンソース開発では皆が同じ作業をしていることもよくあります。やりたいことをやって、出来のよいほうを採用するというスタンスなのです。
しかし、オープンソースにもメリットとデメリットはあります。メリットとしては、ソフトウェアの出来が最優先されるということ、開発者が自分で作業の方向性を決められるということ、作りたいものを勝手に開発できること、などが挙げられます。その半面、開発者が必要性を感じないものは出来が悪かったりします。また、きちんとしたロードマップやスケジュールの作成が難しいため、人材を無駄なく動かせることができないのも問題ですね。
オープンソース開発は参加強制力がなく、金銭的な利害も発生しません。それでもあえて開発に携わるということは、やる気があるということ。このように、自発的な心構えの優秀なメンバーが集まりますから、一般的なソフトライターとは異なる集合知に近い感じ、つまり今でいうWeb2.0に近い動きで仕事を進めることができます。ですから、出来上がるソフトウェアも必然的に質の高いものが多くなるのでしょう。
ただ労働集約型の開発など、オープンソースが向かないものもあります。また、オープンソースをよく知らない人との溝が深く、そのよさを理解してもらうことの大変さがありますが、最近ではオープンソース開発をビジネスで取り入れる企業も出てきたので、啓蒙活動次第で解消することは可能だと思います。
「いかに開発すること自体を楽しめるか」が、クリエーティブな開発現場には欠かせないと思います。開発者がやりたいことをやらせてもらえる、命令を受けた業務から自分なりに面白さを見いだして取り組むなど、楽しみ方は人それぞれでしょう。オープンソースはどこまでも追求して開発していくことができます。ビジネス的な制約があまりなく、深追いできるような現場が理想的ですね。
10/31/2007
留学で人生を棒に振る日本人/栄 陽子
留学で人生を棒に振る日本人/栄 陽子
中国やインドの人たちがアメリカの大学に留学するのは、より高いレベルの学歴を身につけて母国でステップ・アップするためであり、アメリカで人脈を作ることによって高い地位を獲得すること、そして母国の発展に寄与することを目的にしています。
決断力と行動力と勘が良ければ、集中力と記憶力と自己管理力がちょっと劣っていても人生の致命傷にはならない。
アメリカの教育
・大学の数が世界一多く、しかも日本の大学のように理系、文系、芸術系、体育系に分かれていない。
・専攻をふたつ取ることも可能で、音楽と物理など全く違う分野を同時に専攻することができる。また、パフォーマンスを大事にする国柄から、音楽や演劇、美術などの芸術分野はどの大学にもあり、まったくピアノを弾いたことがない人でも音楽を専攻することができる。
・医学、法学、獣医学、歯学、カウンセリングなど大学院からしか始まらない学部がある。
・国家ができる前からハーバード大学などの私立大学があり、州立の歴史は私立と比べて短い。
・私立大学は社会のリーダーを養成するための「全人教育」を大きな理念としている。全人教育とは、人格的な高みを目指す教育で、理系や文系に分けることなく様々な教育を受けて、芸術を愛し、科学に興味を持ち、スポーツができ、法律や経済について語れるような、芸術を含めてあらゆる分野の人間を育てることを目的としている。
・州立大学は新しい州の開拓民の教育水準を上げ、開拓の援助ができるように農業や工業などの実学を中心とした。
・州立は日本の公立高校のシステムに似た方式が採られていて、ひとつの州に、レベルの高いところから誰でも入れるようなレベルのところまでがある。自分が住んでいる州なら必ず入学できる州立大学があり。
・それぞれの大学に独自の入学基準があり、原則として入学テストはなく、書類選考が基本。全国的な学力テストはアメリカにもあるが、それで足切りをしたり、学力テストの結果のみで合否を決定するのではなく、あくまでも入学基準の一要素としている。
・私立大学は成績やテストの点数だけでなく全人的な要素を見るため、エッセイ、推薦状、面接などを重視するところが多い。成績やテストの結果を見る時も、上位グループから20%、その下のグループから10%、さらに下のグループから5%というように、バラエティに富んだ生徒構成にしないとディスカションが活性化しないと考える大学が多い。
・州立大学にも、自分の州の学生を必ず入れるほか、州内にあるすべての高校からトップクラスの生徒を中心に入れるというところ、黒人や中南米からの移民を10%程度入学させると決めているところ、親が大学を出ていない学生を10%程度入学させると決めているところなど、様々な入学基準がある。
・何より「バラエティとバランス」を好むため、大学生の出身校が偏ることがなく、同じ大学から大学院に優先的に入れることもない。エスカレーター式は、アメリカではあり得ない。
・昔から交通手段がない場所に大学があるため、もともと自宅から通えなかった。また、先生と学友と一緒に住んで勉強することで人間関係を学び、親離れをすることが大切とされていたので、今でもアメリカの大学のほとんどは寮制になっている。
・学期はセメスター制といって9~12月、翌年1から5月各16週間のふたつの学期で一年とするのが一般的で(三学期制の大学もある)、それぞれの学期に入学と卒業があるなど、完全に独立している。つまり、9月入学もあれば1月入学もあり、日本の大学のように前期と後期の通年で同じ授業を受けるという発想がない。
・日本のような入学式もなければ、親切なオリエンテーションもない。入学すると、すぐに授業がはじまってしまう。
・大学は単位制で、各学期で12~18単位とることができる。早く単位を取れば、三年や三年半で卒業することもできるが、ゆっくり単位を取って五年で卒業もよい。
・ひとつの学期が16週間で、8週間ごとに中間、期末テストがあるため、とてもめまぐるしい。
・大学で成績が二学期続けて四段階評価のC評価平均、大学院でB評価平均を下回ると、退学になる。大学院への進学や、一流企業の就職を目指すには、大学でもB平均をしていることが不可欠。
・大学や大学院を卒業するためには必要な単位数は、大学で120、修士課程で30~60、博士課程で90.多くの大学は卒業に必要な120単位のうち、60単位はどこから持ってきてもよいとされ、留学生は母国の大学で取った単位を認めてもらえる。
留学は、やる気、学力、心身ともにタフであること。
習得能力のよさだけでなく、物事を深く考え、自分なりの考えをまとめることができる能力を持ち、そして努力することを苦としない子どもは、どんな会社に入っても、どんな国へ行っても、そしてどんな時代になっても困らないものです。
私が留学を若い人たちに勧めるのは、何より自分の目で他国での生活を通して、日本を見つめ直して欲しいからです。そして、日本でしか通用しないような価値観をひっくり返し、自分の足で生きていく力を身につけて欲しい、そんなことも思ってます。
留学ほど、スリルと興奮とサスペンスに満ちたものはありません。価値観も習慣も違う人達とうまくやっていきながら、自分の意思を通す強さも必要なら、学校が要求する単位をしっかり取るために厳しい勉強を続ける努力も必要です。遊びたいという気持ちとも闘わなくてならないし、自分の甘さや至らなさを突きつけられても、それを受け入れつつ、そこでめげずに頑張る意地も欠かせないでしょう。
親元を離れて遠い外国で勉強し、卒業を迎えるためには、多くの精神的苦痛が伴います。しかし、それを乗り越えて得られるものこそが生きる力であり、自分に対する自信ではないでしょうか。
また、外国にいると自分の国や家族、そして自分自身について客観的に、そして深く考えることが多くなります。「愛国心」と言いますか、自分の国のよさは、外国に出て初めて知ることも多々あるものです。これは、とても大切なことだと思います。
10/30/2007
感動をつくれますか?/久石譲
久石譲 感動をつくれますか?
創造力で大きな仕事をしている人たちは予定調和を嫌う。
「作曲家として最もプライオリティを置いていることは何ですか?」と問われたら、僕は迷わず「とにかく曲を書き続けること」と答える。
仕事は”点”でなく”線”だ。集中して物事を考え、創作する作業を、次へ次へとコンスタントに続けられるかどうか。それができるから、作曲家です、小説家です、映画監督ですと名乗って生きていける。
優れたプロとは、継続して自分の表現をしていける人のことである。
一流とは、ハイレベルの力を毎回発揮できることだ。
確実にたくさんの曲を作り続けていくことは、気分の波に流されない、という意識が僕には強くある。
結局、いかに多くのものを観て、聴いて、読んでいるかだ大切だということだ。創造力の源にある感性、その土台になっているのは自分の中の知識や経験の蓄積だ。そのストックを、その絶対量を増やしていくことが、自分のキャパシティ(受容力)を広げることにつながる。
ドラマのストーリーも音楽のメロディも、通俗的すぎるくらいのほうがインパクトが強いことがある。つくり手がへんに気取っているようなものは、人間味が感じられず結構つまらないものになりやすい。あざとくても、下世話でも、そういうものが求められているのならば、堂々とやりきってしまうほうがよい。
楽な人生などない。みんな何かしら人知れず苦労しているものだ。だから自分から進んで苦労する必要はない。苦労自慢をする人には、自分を冷静に見つめる第三の脳、客観視能力がない。ひいては、知性が感じられない。
普通の苦労は人間の幅を広げることにはならない。幅を広げたかったら、知性を磨くことと本当の修羅場をくぐりぬけることである。
才能豊かな人は劇薬みたいなものだ。プラスの影響力も強いが、毒もある。間違えて服用したら死ぬ。そういう人たちと互角に与していくにはそれ相当の覚悟が要る。専門的な能力が試されるだけではない。強靭な精神力が問われる。
ものをつくる人間に必要なのは、自分の作品に対してのこだわり、独善に陥らないバランス感覚、そしてタフな精神力、この三つだと思っている。どれが欠けてもうまくいかない。
音を出すことで何を伝えたいのか。音楽をやることで表現しなければならないのは、そこだ。ところが、技術的なところで自分の立派を追い求め、そこに価値を置いているだけだと、どんなにうまくても、音楽にはならない。ピッチやリズムではない。
「トップの地位に登りつめたことのある人間は、根本的に何かが変わる」
僕は、一等賞を取ることが人間としての目的だとは考えないし、勝ち負けの結果や人の序列といったものにも意義を感じてはいない。むしろ、そんなものは人間の本質とは関係ないと思っている。だが、結果としてトップを取るだけの力を持った人は、精神的に誰よりも強さを身につけているということは歴然たる事実だと思う。他者との戦いに勝てる力のある人は、自分の身にふりかかる難題やさまざまな誘惑も克服していけるだろう。今日のように行く先を見据えにくい時代には、そういう強さを持つことが有益なのではないだろうか。
10/29/2007
意地悪な人
意地悪な人
意地悪な人は、たいてい仕事はしない。自分の与えられた最低限の仕事はするとしても、他の人まで助けるようなことは絶対しない。
仕事をしないから意地悪が際立つ。
職場と言うのは利益共同体だから仕事さえできれば迷惑な人ではないから、意地悪が意地悪とならない。
意地悪な人は、「自分は正当に評価されていない」とか「不本意な仕事をさせられている」と思っているから、悪循環として仕事以外の方面に気持ちが肥大してしまっている、というわけだ。
そういうことにこだわるということは、意地悪な人はじつは人一倍権威主義者であり、上司の目をとても気にしている。
当然、気も小さい(豪快で意地悪な人というのは聞いたことがない)。
これらを総合すると、意地悪はその人自身の自由意思の次元を超えた現象ということになる。
大きな不安を抱えている人が明るく振舞おうとしても振舞えないのと同じで、その人の中にある職場への不平不満が、その人の行動を、意地悪へ意地悪へと歪めてしまっているのだ。
10/28/2007
「独行道」宮本武蔵
「独行道」宮本武蔵
「独行道」は、武蔵が自ら墨書して壁に張り、
座右の銘として常に自戒していたものとして知られています。
一、世々の道にそむく事なし
一、身にたのしみをたくまず
一、よろずに依怙の心なし
一、身をあさく思世をふかく思ふ
一、一生の間よくしん思わず
一、我事において後悔をせず
一、善悪に他をねたむ心なし
一、いずれの道にもわかれをかなしまず
一、自他共にうらみかこつ心なし
一、れんぼの道思ひよる心なし
一、物事にすきこのむ事なし
一、私宅においてのぞむ心なし
一、身ひとつに美食をこのまず
一、末々代物たる古き道具所持せず
一、わが身にいたり物いみする事なし
一、兵具は格別、よ(余)の道具たしなまず
一、道においては死をいとわず思ふ
一、老身に財宝所領もちゆる心なし
一、仏神は貴し仏神をたのまず
一、身を捨てても名利はすてず
一、常に兵法の道をはなれず