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3/17/2008

お金は銀行に預けるな/勝間和代








お金は銀行に預けるな/勝間和代

家計がリターンの高い金融資産を持ち、労働収入にすべてを頼らない収入を持つことだと私は考えます。
日本において労働収入によってこれまでと同じ収入を稼ぎ続けようと思えば思うほど、よりきつく難しい仕事を長時間せざるをえなくなるのです。

自分の資産を現金・預金として持つことは、リスク資産で運用するのと比べて大きな機会損失を生んでいるということです。そして、リスクとリターンがどのようなものかをより深く理解する。

金融でしっかり儲ける方法の基本5原
     
1、分散投資、分散投資、分散投資
2、年間リターンの目安として、10%はものすごく高い、5%で上出来
3、タダ飯はない
4、投資にはコストと時間が必要
5、管理できるのはリスクのみ、リターンは管理できない

金融リテラシーを身につけるための10のステップ
1、リスク資産への投資の意思を固める
2、リスク資産に投資をする予算とゴールを決める
3、証券会社に口座を開く
4、インデックス型の投資信託の積み立て投資を始める
5、数ヶ月から半年、「ながら勉強」で基礎を固める
6、ボーナスが入ったら、アクティブ型の投資信託にチャレンジ
7、リスクマネジメントを学ぶ
8、リターンが安定したら、投資信託以外の商品にチャレンジ
9、応用的な勉強に少しずつチャレンジ
10、金融資産構成のリバランスの習慣をつける

「金融の勉強をしないから、いつまでも労働でしか対価を得られないために忙しい」のであって、かつ、「運用しないから、いつまでも資金がすくないまま」なのです。


投資原資の生み出し方
1、住宅ローンを組まないこと
2、車を買わないこと
3、生命保険を定期漸減型にすること

参考資料
「リスク 神々への反逆(上下)」ピーター・バーンスタイン
「敗者のゲーム」チャールズ・エリス
「新・賢明なる投資家(上下)」ベンジャミン・グレアム
「投資の科学」マイケル・J・モーブッシン
「ソロスの錬金術」ジョージ・ソロス
「根拠なき熱狂」ロバート・j・シラー
「行動ファイナンス」ヨアヒム・ゴールドベルグ
「ジム・クレイマーの株式投資大作戦」
「投資4つの黄金則」ウィリアム・バーンシュタイン

3/08/2008

続 「ウェブ時代 5つの定理 」









続 「ウェブ時代 5つの定理 」梅田望夫



パラノイア(病的なまでの心配性)だけが生き残る。── アンディ・グローブ

遅かれ早かれ、ビジネス界の基本的なものは変わる。── アンディ・グローブ

最高の倫理観を持って、物事に対してオープンで正直であれ。決して隠し事をしてはいけない。── スティーブ・ウォズニアック

明らかに世界は「良い場所」になっているよ。
これまでは大金を持った大きな組織の人たちでなければできなかったことも、個人ができるんだから。── スティーブ・ジョブズ





不動産における三つの重要な要素は、「場所、場所、場所」とよく言われる。同じように、スタートアップの形成で重要なのは、「人、人、人」である。── ゴードン・ベル

チームワークは木のようなもの。コミュニケーションが幹の部分を形成し、根っこの部分には、お互いの尊敬と共通の目標の認識がなくてはならない。── ゴードン・ベル

好きな人と働かなければならない。── ロジャー・マクナミー

Aクラスの人は、Aクラスの人と一緒に仕事をしたがる。Bクラスの人は、Cクラスの人を採用したがる。── シリコンバレーの格言

世界を変えるものも、常に小さく始まる。

理想のプロジェクトチームは、会議もせず、ランチを取るだけで進んでいく。チームの人数は、ランチテーブルを囲めるだけに限るべきだ。── ビル・ジョイ

トップレベルのチームはマネジメント重視でなく行動重視でなければ駄目だ。── ゴードン・ベル





偉大なプログラマは金に関心がない、と言われることがある。これは必ずしも正しくない。ハッカーたちが本当に大切にしているのは、面白い仕事をすることだ。
でも、十分な金を稼げば、それからはやりたい仕事ができる。そしてこの理由から、ハッカーは莫大な金を稼ぐことに惹かれる。── ポール・グラハム

音楽会社に頭のいい人間はたくさんいる。でも問題は、音楽会社の人間はみんな、テクノロジーピープルでないことだ。── スティーブ・ジョブズ

私は自分のことをビジネスパーソンだとは思っていない。一度もそう思ったことがない。ビジネスのやり方は知っているけれど、一度も楽しんだことはない。私はテクノロジーを愛する。未来を愛する。解決策を考えることを愛する。そしてその解決策を信じるに至ったら、それを伝道するのを愛する。── ビノッド・コースラ

技術的な転位(大変化)は、常に勝者と敗者を生む。勝者とは、より早くその技術を導入できる企業であり、敗者は、立ち往生し、転換をはかれず、新たな技術をうまく使いこなせない企業だ。── エリック・シュミット





いま、世界は(以前とは)まったく違う。それは、君たち一人ひとりが世界中のどんなことについても「情報を得る力」を持ったからだ。私が学校に通っていた頃と、本当にまったく違う世界だ。── サーゲイ・ブリン

インターネットは、人間の最も基本的な要求、つまり知識欲と、コミュニケーションをはかること、そして帰属意識を満たすことを助けるものである。── エリック・シュミット

「すごい(Great)」だけじゃ不十分だ。いつも期待されている以上の結果を出せ。グーグルは「(誰かと比較して)ベストである」ことを到達点と甘んじない。それはあくまでも出発点だ。── グーグ10カ条の10





真に偉大な企業は、欲によってではなく、情熱によってつくられる。現在の市場環境は、強い情熱を持ったアントレプレナーを見つけるための素晴らしいフィルターである。── ウィリアム・ガーレイ

偉大な仕事をする唯一の方法は、あなたがすることを愛することだ。まだ見つかってないなら探し続けろ。落ち着いちゃいけない。まさに恋愛と同じで、見つかればすぐにそれとわかる。そして素晴らしい人間関係と同じで、年を重ねるごとにもっと良くなる。だから見つかるまで探し続けろ。探すのをやめてはいけない。── スティーブ・ジョブズ

「ウェブ時代 5つの定理 」梅田望夫






「ウェブ時代 5つの定理 」梅田望夫



1、アントレプレナーシップ

「アントレプレナーシップ」を支える「常軌を逸した熱」は、「やりたいことをやる」という気持ちと、「社会をより良くしたい」という思いの組み合わせによって持続する。お金が最優先事項では長期にわたってそういう熱が持続しない。倫理性と経済性が融合したシリコンバレーのそんな独特の論理が、仕事の面白さを倍化させ、強い「働く意欲」の源になっている。



2、チーム力

創造性を生むための第2定理は「チーム力」である。どんな優れた人も1人では何もできない。自分にできないことができる人たち、自分にない能力を持った人たちと、どうチームを組んでいかに仕事をするか。ここに社会として組織として創造性を生むカギがある。

突出した一握りの天才だけがユニークな創造性を発揮して、革新的な技術や製品、新しいビジネスモデルをつくり出したわけではない。そこにあるのはワンマン主義ではなく、むしろ透徹したチーム力である。

「強い力を持った個」同士がスポーツ感覚で戦略的にチームを組んで疾走するイメージ。異分野の「その道のプロ」が組むことで相乗効果をたたき出す世界だ。

Aクラスの人はAクラスの人と一緒に仕事をしたがる。Bクラスの人はCクラスの人を採用したがる。



世界を変えるものも、常に小さく始まる。理想のプロジェクトチームは、会議もせず、ランチを取るだけで進んでいく。チームの人数は、ランチテーブルを囲めるだけに限るべきだ。。「世界を変える」イノベーションを生む一番大切なことは、資金でも設備でもなく、情熱を持ったわずか数人の力を結集して爆発させる「チーム力」にある。

高いモチベーションを持続する少数精鋭からチームが成り立ち、目標を共有し、会社や作品の成長を目指し、チーム全員が同じ目標に向かって走る。その幸福感、高揚感から、創造性やイノベーションが生まれるのだ。



3、技術者の眼

21世紀のビジネスは、科学と技術を抜きにして考えることはできない。これまでに述べたアントレプレナーシップとチーム力を、その根底で突き動かしているのが「技術者の眼」だ。

「大きな技術の流れ」に逆らって何かを達成し、短期的にどうにかなっても、長期的には成功を持続できない。そんな経験則が、社会の隅々にまで存在する「技術者」系リーダーたちのすべての意思決定の前提として、根強く存在している。そんな基盤があってこそ、グーグルのようなスケールの大きい創造的イノベーションが生まれるのである。



4、グーグリネス

グーグリネスとは、ウェブ時代をリードするグーグルという会社の気質やグーグルらしさを表す言葉だ。

グーグルの経営・組織・文化における独自の論理は、ここまで取り上げた「アントレプレナーシップ」「チーム力」「技術者の眼(め)」が、高いレベルで統合された最新で最良の実例と言える

オープンソースの世界では、経済的な取引という概念も、雇用関係を基盤とする組織的指示命令系統も存在しない。つまり他者に何かを強制する道具立てがまったくないのだ。にもかかわらず、参加者の自発性だけに委ねられて、大きな価値を生み続けている。インターネットが私たちに突きつけている現代の謎の一つである。

インターネットと情報は、肉体ではなく頭脳の限界を大きく拡張するから、21世紀は「頭脳の拡張」の世紀となる。

となれば、行き着く先は「時間」。「時間」だけが私たち一人一人に平等に与えられた貴重な資源だ。グーグルは「頭脳の拡張」の世紀のリーダーであるとともに、私たちが自発的に過ごす「時間」からしか創造的イノベーションは生まれない、という思想の信奉者なのである。



5、大人の流儀

若い世代への信頼と励まし

インターネットは、特に若い世代の「時間」と「距離」と「無限」についての概念を揺さぶり、人々の世界感覚を進化させている。そんな「時代の大きな変わり目」においては、異なる価値観を持つ世代の間で軋轢(あつれき)が起こりやすくなる。

そのときにいちばん大切なのは、成熟した大人の側こそが若者たちに向け、心が萎(な)えるような言葉を浴びせるのではなく、前を向いて生きる希望を生み出すような素晴らしい言葉を発し続けることである。そのためには、新しい技術や新しい事象を前にして、何歳になっても前向きにそれを面白がる気持ちを持ち続けなければならない。そしてオプティミズムに満ちた未来志向のわくわくする言葉で、若者たちを勇気付け、鼓舞するのである。言葉の力を信じて、大人たち一人一人がそういう営みを続けていくことによってしか、創造的な社会は生まれないと私は思う。



どんな人も最初は何者でもない。グーグルの創業者も普通の大学院生だったし、ジョブズがアップルを始めるときに何の実績があっただろうか。「世界を変える」新しいものを作り出す人は、何者でもないところからいきなり出てくる。それをシリコンバレーの大人たちは皆、過去の経験から骨身にしみてわかっているから、若者たちとの接し方が他の地とは、特に日本とは明らかに違う。

若者たちに志向性の追求と個性の発揮を奨励し、挑戦を促し、真摯(しんし)な失敗に対してはおおらかな態度で接していく。そんな成熟した「大人の流儀」がイノベーションを育む苗床(なえどこ)となるのだ。

3/06/2008

脳を鍛えれば今までの10倍うまくいく









『脳を鍛えれば今までの10倍うまくいく』ビル・ルーカス:著・牧野元三:訳

脳を正しく扱うための10のアドバイス

1.十分に水分を補給しておくこと。
 あなたの脳は、「電気回路」を効果的に機能させるために多量の水を必要としている。

2.定期的に休憩して、身体を伸ばすこと。
 脳が十分に機能するためには、酸素を含んだ大量の血液が必要である。立ち上がるだけで、血液の流れが20%も増大する。

3.いつも最初に全体像を示すこと。
 あなたの脳は絶えずつながりを作ろうとしている。したがって、最初に全体像を示しておくことにより、細部に注意を向けることを好む人にも、物事の意味を理解したり、特定のテーマに関して自分が知っていることをすべて集めたりするための時間が与えられる。

4.人々に向かって長時間一方的に話し続けないようにすること。
 あなたの脳は、一度に一定量の新しい情報しか取り入れることができない。話し手の力量が大変優れているのでない限り、聞き手の脳は20分ほどで停止してしまう。

5.情報を伝える方法に変化を持たせること。
 私たちの頭は一人ひとり異なっている。視覚的な情報を好む人もいれば、聴覚的な情報を好む人もいる。また、立ち上がって何かをすることによって情報を取り入れることを好む運動型の人もいる。

6.集中力の持続する時間についても考慮すること。
 流れに乗っているときは仕事を続けると効果的であるが、20~30分ごとに定期的な小休止を入れると頭は仕事を継続しやすくなる。

7.大きな課題はいくつかの小さな部分に分けて、取り組みやすくすること。
 いくつかの小さな要素に分解することによって、頭は大きな問題に取り組みやすくなる。

8.ユーモアを用いること。
 笑うと、緊張をほぐす働きを持つエンドルフィンと呼ばれる化学物質が分泌されることがわかっている。

9.よりよい成果を出させたければ、恐怖心を与えないこと。
 わたしたちの脳は、ストレス下では、生き残ることしか考えることができず、より高度な思考作用が効果的に行なわれることはなくなる。

10.必ず十分な睡眠をとるようにすること。
 必要な睡眠時間は人によって異なるが、多くの人にとって、夜の睡眠は7時間以上なければ十分とはいえない。脳が疲労しているとき、脳はうまく働かない。

今から24時間前までを振り返ってみましょう。あなたは、脳の世話をどの程度心がけてきましたか?
あなたは10の簡単なヒントの中で、十分に生かしているものはいくつありますか?
あなたの生活には、どこかアニーの日常と共通している部分がありますか?

意識していないしできない

意識しているができない

意識していてできる

意識しないでもできる

「他者を模倣することによって確実に恩恵を受けるための10の方法」

1.組織の中であなたが最も尊敬する人々と共に時間を過ごすこと。
 わたしたちは、非常に短時間のうちに、身近にいる人々の持つ行動様式や物事への取り組み方から影響を受ける。したがって、分別のある時間の過ごし方をすることはとても大事である。

2.あなたが選んだ仕事の現場の中で、最も尊敬できる人を見つけて、彼らが実際に仕事をする様子を観察できる方法を考えること。
 もし、自分の関わっている分野における最高の人々を見習うことができれば、あなたの成功の確率は高くなる。

3.自分の仕事ぶりを改善したいと思う領域を選んで、組織の中でそれを一番よくこなす人物を見つけること。
 この種の具体的な模倣は、スキルを改善するための非常に積極的な方法となり得る。
例:会議の司会。フィードバックの方法。

4.模倣するための良い手本と提供するテレビ番組や映画を探す。
 あなたの脳には、真似をする特性が備わっているので、脳に吸収させる情報には注意を払わばければならない。

5.尊敬する人々の伝記を読む。
 伝記には、わたしたちの見習うべき、成功を招く行動についての洞察が含まれている場合が多い。

6.意識的に、職場であなたが見習いたいと思う人々と昼食を共にする。
 わたしたちは昼食の時間を無駄に過ごしてしまう場合が多い。あなたが尊敬する人々と交友関係を持つことができれば、彼らの成功の方程式を発見するチャンスは高まる。

7.様々な分野において、あなたが手本にしたいと思うような行動をとっている人々を見つけて、彼らと交友関係を結ぶこと。
 自分とは異なる仮説を持っている人々と一緒にいるときに、有用な洞察が得られることが多い。

8.職場にいる否定的な傾向を持つ人々と、不要な時間を共に過ごすことのないように留意すること。
 あなたは何らかの形で、彼らの持つ否定的な傾向の影響を受けてしまうことになる。

9.困難な状況が見事に処理されるのを見たら、そのやり方を書き留めておくこと。
 物事がうまく行ったと感じる自分の感受性を大事にすること。

10.あなたが手本にできる人々のネットワークを広げるための、交友と学習の機会を探すこと。
 これはあなたが、「あらゆる種類の鳥たちの群れに加わる(フロッキング)」ことができるようにする方法である。

2/27/2008

群像 2005 4 高橋源一郎+山田詠美+島田雅彦









群像 2005 4 高橋源一郎+山田詠美+島田雅彦


島田 それが本当に古いのかという問題ね。確かに、日本人はよそへ行っても、結局自分を見ているわけですよ。
    だから、外国に行っても私小説を書くんです。何か導入しようというか、外部的なものを輸入しつつ日本に
    抵抗しようとするために。今は完全にその風潮自体がなくなってきたかもしれない。自我を見つめる儀式として
    の旅はもう必要なくなった。旅の終わりは近代文学の終わりと対応しているんです。
高橋 新しい古いでいえば、古いものなんだと思う。明治以来ずっとだから。何か足りないんで、海外へ行って見つけて、
    輸入して、一応埋めてみるけど、やっぱ足りないんでまた行く。その繰り返し。
島田 そういう意味でいえば、江戸に帰ったんでしょう。
高橋 自足していた時代にへね。
島田 運賃は安いし行こうと思えば幾らでも行けるんだけど、あえて江戸の鎖国の時代に戻った。裏を返せば、
    今現在の日本風俗とかサブカルのたぐいをそのままやっておけば、向こうの方が関心を持ってくれる、
    そういうたかのくくり方はあると思う。だけど、文学はそれにうまく乗っているかというと、乗ってはいない。
    相変わらずやっぱりグローバル文学みたいな形で、村上春樹やよしもとばななが出ているだけ。
    グローバル文学の条件というのが、実はこの座談会のテ-マである顰蹙をなるべく買わないことなんです。
    要するに、どのジェネレーションでもどの地域でも受け入れられるようにするためには、徹底的に無毒化ていかなきゃいけない。
    ここでお二人が顰蹙ということを語られる場合は、ある意味、グローバル商品化に抵抗しながら、普遍を目指すということでしょう。


島田 顰蹙作家の条件は、やはり失敗作を書かなければいけない。
山田 そうなんだよね。私、江藤淳さんにいわれたんだ。パーティで会って、何々を読んだよというので、どうでしたと聴いたら、、「失敗作」。中上(建次)さんなんかも同じことを私によく    いっていたけど、「ああ、やっぱり失敗ですか」といったら、「十個失敗して一個成功すればいいんだから、どんどん書きなさい」といわれたことがあった。

2/21/2008

ユリウス・カエサルにみるリーダーの条件










「ローマ人の物語」より、ユリウス・カエサルにみるリーダーの条件
WIND BENEATH MY WINGSより
2008-01-05 22:09:25

http://blog.goo.ne.jp/mamiko-kouhei



ユリウス・カエサルは
「リーダーとはかくあるべし」というお手本のような人だ。

ローマの教科書に習うと・・・。

①知性
■常に先を読んでいる。
■行動しながら、考えることが出来る。
■大局的に物事をみながら、同時に緻密に計算もしている。
■文章が上手い

②説得力
■演説が上手い
■手紙を書くのが得意。しかも筆まめ。
■女性にもてる。
■何人も愛人を持ちながら、誰ひとりとして(妻すらも)怒らせていない。
■部下(将官や兵士)は、どこへでもついて行きます状態。
■敵すらも自分の側に引き入れる。

③肉体上の耐久力
■暗殺されるまでは病気知らず。
■馬を御するのが上手い。
■行動が素早い、反射神経は鋭い。
■厳冬期も半ズボン。

④自己制御の能力
■いつも元気で冷静沈着、上機嫌。
■嫉妬や憎悪とは無縁、感情によって判断は狂うことはない。
■凹み知らず
■目先の利益、私利私欲とは無縁

⑤持続する意志
■常に大局的に物事をみつめ、
目的を達成するためにどうすればいいかを
考えている。
■目的を達成するたにめはどうすればいいかを、
具体的かつ現実的に考えて、実行に移す。
■苦しい時期には耐える意志、
成功したときには有頂天にならずにおさえる意志の強さを持っている。
■自らがなすべきことを完璧に理解しており、決してあきらめない。

そしてカエサル自身は、こう言っている。

「人間ならば誰にでも現実のすべてがみえるわけではない。
多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」。

彼には、過酷な現実がすべて見えていたのだと思う。
いくら楽観的な人だとしても、ルビコンを越えて、
軍団の命運まで背負った心のうちはいかなるものだったろう。
そんなすべての逆境をひっくりかえしての、勝利はひときわ輝く。

1/31/2008

日経8/17/2006








日経8/17/2006
本を読み考える。

ヒトの根源の活動の前に先ず検索。

「ネットには答えがあるし早いもん」手軽さが好奇心を鈍らせ、近道への欲求が募る。

検索上手でもさまざまな刺激や体験から培う”知的体力”は零点になりかねない。
「その場の空気が分からなければ、利用者をひきつけられない」ネットビジネスの最先端にいるからこそ、妄信する危険性を肌で感じる。

自分の目や耳で確かめ、必要なサービスを考え抜く。

「本当に必要なものは手に入らない」
ネットはヒトの感性や知覚に影を落とし、時に脅威ともなる。

その欠陥をどう克服し、過去と違う進化の階段を上るか。

12/13/2007

司馬遼太郎2










司馬遼太郎2




祖父のような、損をしても操を売らないタイプは、むしろ庶民のなかによくいる。その点では、普遍的だとも言えます。どこの町にも村にもいる庶民の一タイプです。庶民は、そういうことで時代の動きに一足づつ遅れていくんですね。

土方の新撰組における思考法は、敵を倒すことよりも、味方の機能を精妙に、尖鋭なものにしていく、ということに考えが集中していく。これは同時代、あるいはそれ以前の人々が考えたことのない、おそるべき組織感覚です。

封建武士道というのは、人間はどのように生き、どう行動すれば美しいか、ということを究明するもので、美意識でしょう。

だいたいものをモラルで考える人は、人間理解が浅いところがあります。

美意識は、教養のかなりの蓄積がないと出てこないんです。教養の蓄積がなければでてこなかったと思います。

人間、どうふるまい、どう行動することがもっとも美しいか、という精神の美意識のありかが、人のもっとも肝要なものだということは、いつの時代のどの社会もかわらない。しかしその精神の美意識は、多くの場合、誇りをもたされた階級が数百年の年月をかけてはじめて完成させるもので、日本では徳川時代がそれに相当し、日本人はそこで自分自身の美的精神像をつくりあげた。

殉死ー乃木
自分を自分の精神の演者たらしめ、それ以外の行動はとらない陽明学ー山鹿素行
郎党ー山岡鉄舟

帝にとって、この忠良な老郎党のたたずまいは、一種の愛嬌とおかしみを帯びた。愛嬌とおかしみがあればこそ帝にとって郎党なのであろう。
山県有朋、伊藤博文、西園寺、桂太郎には、そういうところがなかった。彼らは帝にとって、能力の提供者であり、希典は、帝にとって誠実の提供者であり、誠実はときとして滑稽感をともなう。

11/25/2007

司馬遼太郎/開口健










司馬遼太郎のコメントから、




商人というものは、借りたカネを返す仕事なんだ。

侍たるものが、いやしくも下屋敷という名目で土地を所有してはいけないという意識があった。

明治四年に日本は金納性になります。税金をカネで納めることになる。農民たちは困りました。二宮尊徳的な自給自足の精神をもっていましたから、商品経済を排除してきた。現金はなるべく持たないようにしていたからで、そのため村の醤油屋や造り酒屋のところに、小作にしてくださいと頼みにいった。その後に日本の酒造業者の中から政治家を多く輩出したのは、このとき大地主になったからです。そしてそのとき、農民たいてゃ酒一升を持って頼みにいったという話が全国のどこに行っても残っている。造り酒屋たちが喜んで地主になったわけではなく、逃げ回ったからです。それはどこか心のなかに、土地をそんなに持ったり、小作を持ったりするのはよくないことだという気持ちがあったからだと思うのです。




開口健

狂気の文明からの偉大な逃走

彼はいかにもその道の魔にふさわしく、私生活は徹底的にスパルターンである。タバコを吸わず、酒を飲まず、美食せず、大食もしない。筋と骨だけのような体つきをしている。鋭いユーモアの精神を持っているが、口数は少なく、それでいてそばにいてまったく気にしないでいられる。

11/09/2007

健全な肉体に狂気は宿る






健全な肉体に狂気は宿る


基本的に人間というのは、困難な場所においては、自分の世界を狭めるものなんですよ。
健康なときだったら、全世界を相手にして生きることができる。でも、困難な状況では、とても世界全部を相手にすることなんてできません。だから、とりあえず一番小さなところまでキューっと絞るんです。


コントロール願望の強い人というのは、相手と自分の区別がつかないわけで。区別がつかないから、自分が思う幸せを相手に強要する。親はよかれと思ってやってることが、子どもにとってはいい迷惑だということは間々あることなんです。
でも、自他の基準が違うということがわからない。そうやって育てられた子どももまた自分が母親になると、同じことを自分の子ども相手に繰り返す。世代を超えても少しも「変化」しない。


子どもに対する親の仕事というのは、どうすれば子どもが気持ちよくなるのかということを考えることに尽くされると思うんです。


子どもの身体感覚にさえ目配りしていれば、あまり余計なことは言わなくても済む。快適というのがどういうことか、人から気づかわれるというのがどういうことかを気づかわれる側として子どもが経験していれば、そのうち自然に他人の快適さを気づかうことができる人になれると思うんです。そういうものって実地経験で覚えるしかないから。


「自分はこれがしたい」ということは一生懸命言うんだけれど、「自分は他人のために何ができるのか?」という問い方は思いつかない。
でも、「誰が自分の支援を必要としているか?」という問いを自分に向ける習慣のない人間は社会的には本当は何の役にも立たないんです。


ファンタスティックな「ライフスタイル・マガジン」が売れるというのは、言い換えると、自分のライフスタイルを自分で決めることができない人がすごく多いということでしょうね。子どものころからマニュアルで育ってきた世代が、三十代、四十代になっても、相変わらずマニュアルがないと暮らせないということなんじゃないですか。


「強く念じれば望みは実現する。ただし、自分の望んだ時期には実現しない」って書いてありました(笑)。
歳をとってみると、なるほどなあと思うんですよね。


自分自身が時間とともにどんどん変わっていくのに、遠い昔に立てた「人生設計」にいつまでも固執することに何の意味があるのか、一度ゆっくり考えて欲しいです。


ロングスパンとショートスパンと、どちらもないといけないんですけどね。例えば、ビジネスというのはショートスパンなんです。
四半期決算で収益が出たかどうかで測るわけだし、現にやったことに対してすぐにリアクションが返ってくる。ビジネスってある意味ほとんど無時間モデルなんです。
でも、例えば、家族なんてものすごいロングスパンじゃないですか。結婚生活とか親子関係みたいなものというのは、自分のやったことが正しかったかどうかなんて、四十年、五十年経たなければわからない。だからビジネス的に四半期の収益で成否を測ることのできる家庭生活なんてありえないですよね。だから、ロングとショートの両方がいるんです。


いま家庭がうまくゆかなくなっている原因の一つは、全部がショートスパンになってきて、本来ロングスパンで成否を見るはずの結婚や親子のあり方を「早く決断しろ、早く結果を出せ」というビジネス的な時間感覚が歪めているせいじゃないかな。


人間がまわりから受ける影響ってすごいですよ。無意識のうちに、信じられないくらい簡単に影響される。精神レベルだけじゃなく、身体レベルでも。誰にも経験があると思うんですが、ある種のフィジカルな波動みたいなものがあって、その人のそばにいるだけで、こちらの生命エネルギーがどんどんすり減っていってしまうような人間が現にいるんです。


もう少し広い視野を持つとか、もう少し高い視点から自分自身を含む風景を鳥瞰的に見取るということができないと、マジョリティとともにあるべきか否かの判断はできない。生態系の全体のバランスが崩れないなら、ある集団が全滅することだってあり得るんですから。
そのとき、そのマジョリティにとどまるかはずれるかの判断ができる人間とできない人間がいるわけです。マジョリティを見切ってそこから逃げる能力というのは、ふつうの家庭教育や学校教育では教えてくれない。当たり前ですけどね。特に母親は絶対教えない。だって、母親にとって子どもは「弱い生物」としてインプットされているんですから。母親は本能的に子どもに対して「つねにマジョリティと行動をともにしなさい」という圧力をかけてきますね。


「変人」戦略というものを採用する人がいるわけですね。春日先生とかぼくとか。「変人」というのは最初からマジョリティの端っこの方にいるわけですよね。群れの中にはいるんだけれど、いつでも逃げられるように端にいる。真ん中にいると逃げられないから。マジョリティの中にいれば絶対に安心だと思っている人は、どのへんに立ち位置をとるかなんてことはあまり気にしないんですよ。


人間というのは、他人から聞いた話というのはあまり軽々には信用しないくせに、自分がいったん口にしたことばというのは、どれほど不合理でも信用するんですよ。だって、自分で口にしたことばの現実変成力を自分の人生を賭けてでも証明しようとするから。
自分の口で言ったことは、言わないことよりも実現可能性が高いですから、他人のことばはどれほど合理的でも信用しないが、自分のことばはどれほど不合理でも信用するというのは、ある意味「正解」なんです。


身体は正直ですからね。そして、身体の方が賢いんです。身体は本能的になんとか生き延びようとしているわけですから、長生きできない方向に人間が行こうとすると、「やめなさい」と言ってくれるはずなんです。


「身体が感じる違和感に、忠実になれ」ということですよね。


ぼくもときどき人に対してひどいことを言うことがあるんですが、そのときの基準は一つだけ。悪口を言ったあとで気分が良くなるかどうか(笑)。
やっぱり身体に訊いてみるしかないわけです。だから、学生にもよく言うんですよ。「とにかくデートしなさい」と。そして、一緒にご飯を食べてみて、美味しかったら相性がいい、一緒に食べてご飯がまずかったら相性が悪い、と。


甲野善紀先生や竹内敏晴先生や光岡英稔先生も、みんな身体の内側の変化をみつめるといういうことをされているでしょう。
その方たちに共通するのは、何が「正しい」かじゃなくて、何が「気持ちがいいか」ということを探求しているということですよね。
身体のどこにも無理がなく、詰まりもなく、凝りもない、気持ちがいい状態を探り当てられれば、どのような条件に置かれても、その「いちばん気持ちのいい状態」にまっすぐ戻ることができるでしょう?そのときの「安定状態に一気に戻る」動きが爆発的なエネルギーを生み出すわけだから。身体的な気持ちよさというのは、そのまま武道的な意味での強さにつながっているんです。


ひとりひとりの人間にはその人にとっての「最適サイズ」というものがあって、それよりも大きくしても小さくしても、身体には障害が出てきます。
ぼくたちが探さなければいけないのは、今の自分にとっての最適サイズなんです。生存に一番有利で、身体的ポテンシャルが発揮できて、かつどこにも過負荷のかからないぴったりの体型というものがひとりに一体ずつ必ずあるはずなんです。それより太っても痩せても、どちらにしてもパフォーマンスは下がる。


人間が精神的に健康である条件について、四つばかり挙げておきたい。
●自分を客観的に眺められる能力。
●物事を保留(ペンティング)しておける能力。
●秘密を持てる能力。
●物事には別解があり得ると考える柔軟性。


客観的に自分を眺める能力が必要なことは当たり前であろう。反省とか良識とか羞恥心とかバランス感覚といったことに通じるわけで、これがないと育ちの悪いガキと変わらない。

ペンディングする能力、あるいは(精神的な意味で)中腰の姿勢に耐えられるだけの余裕といったものもきわめて大切である。
それは忍耐力とか不安に耐える力と言い換えられるかもしれない。あるいは一種の能天気さとか楽天性、「ま、何とかなるさ」とやり過ごせるだけのいい加減さに近いものかもしれない。気取って言えば、希望を持ち続けられる能力と称してもよかろう。

おしなべて我々は待つことが苦手である。待っているとイライラする。不安になる。猜疑心を抱いたり、悪い想像をしてそれに振り回されたり、被害者的になったり、ときには妄想レベルにまで思考が暴走する。基本的に、待つことは精神衛生上きわめて悪い。

だが世間の諸事は、すぐに結果や結論が出ることは少ない。大概はじっと待ちつづけたり保留しておいたりしなければならない。つまり生活にメリハリがつかな。生殺し状態にされる。保留がいくつも生じることで将来への準備や心構えは困難となり、未来は不透明で曖昧となる。不条理感が立ち上がってくる。

だが我々はそうした生煮え状態に耐えなければならない。焦ったり捨て鉢になっては、元も子もなくなる。待つ能力、保留しておける能力は、本人のみならず周囲の人々にも安定した気分を与えてくれる。

秘密を持てる能力に関しては、本文で語られているから特に付け加えることはない。わたしとしては、胸にそっと秘密を持つことにもっと楽しさを感じるべきだと思う。心の闇といったものではなく、むしろ光学写真機の暗箱のような豊かな闇を持つことが我々には必要なのである。


では、物事には別解があり得ると考える柔軟性についてはどうか。しばしば世間では心を病んだ人々の思考は支離滅裂とかデタラメに近いものと捉えている。だがそれは間違いである。彼らは往々にしてきわめて論理的である。いや、あまりにも論理的で整合性があり過ぎることが問題となる。

11/08/2007

内田樹


内田樹(うちだ たつる)


私たちの社会からはすでに献酬の習慣がなくなった。今また喫煙の習慣も消えようとしている。共同体の存続よりも個人の健康を優先する人々が支配的になる社会において、人が今より幸福になるように、私は思えない。

デートでご飯に誘うのは、一緒にご飯を食べて、もし同じものがいつもより美味しく感じられたら、それは「この人とはうまくゆく」という指標だし、ご飯の味がしないなら、他の条件が揃っていても、うまくゆかない。こういう判断においては消火器の方が脳よりも賢いのである。

しゃべれば、しゃべるほど、言葉がうつろになっていく。

何でも今を基準にして考えちゃいけません。どちらかというと、昔から流れて来ているから今があるんですからね。歴史を逆に見ちゃいけないということですよ。

音楽の伝播というのは、人々が思っているほど一方向的なものではないし、時代とともに「進化する」というものでもありません。それは時間と空間を行きつ戻りつし、さまざまな非音楽的なファクターをも吸い寄せて、絶えざる変容と増殖を続ける不定形的でワイルドな運動なのです。

ご臨終メディア


ご臨終メディア 森達也・森巣博





森:森巣さんが指摘するように、高収入によって醸成される保守性が今のメディアのスポイルの大きな要因だとしたら、
  その既得権益を自発的に捨てさせることができるかどうかは疑問です。やはり外圧がないと・・・。
森巣:しかしそれなら庶民の味方みたいな面するなと。年に3000万円近くも取っておいて、自分の使命を果たさず、
  夜は会社の金で酒飲んで、「領収書切ってね。あっ、日付は入れないで」なんて言うのですよ(笑)。だからやっぱり給料を、
  15分の1にせいと。
森:森巣さん、減額の割合がどんどん増えてますよ(笑)。



森巣:森さんがおっしゃったとこで、一つの重要な論点が浮かび上がりました。相手を知らないゆえに憎悪しているという点。
  だからこそ知りたくないわけですよね。
森:そうですね。知ってしまったら憎悪できなくなってしまう。それをどこかで感知してしまうから、目をそむけてしまうのかもしれない。
  まぁ、オウムの場合はこれに加えて、彼らに対しての嫌悪が突出して強いですから。それも含めて考えねばならないとは思うけれど。


実際には巨悪を黙認し、かつそれに加担しつつ、正義を背負っているように振舞うジャーナリストたちには反吐が出ます。しかも倒れるのを
待っている。不正を告発するのがジャーナリズムのはずでしょうが。ところが、倒れたものを叩くのがジャーナリズムとなってしまった。


そもそも、ジャーナリズムという仕事―メディアの仕事と言い換えてもいいですが―には、他人の不幸を食い物にして成立する領域が
とても大きい。だから、生来的に後ろめたさがあって当たり前の仕事なんです。賎業くらいに思ったほうがちょうどいいと僕は思っています。
ところが今は、後ろめたさがどんどん希薄になっています。この負い目や後ろめたさが消えたとき、メディアは、暴走するんです。


権力は腐敗する。絶対的権力は絶対に腐敗する。
その権力の腐敗を、国民の代わりに監視するのが、ジャーナリズムの役割なのです。


レン・マスターマンが指摘した、メディアは現実を反映しているのではなく、再構成してから提示するという考えそのものですね。


メディアにおけるリアリティは、本物ではなく、本物らしいということです。これは決して皮肉ではなく、受け取る側の感応力が重要なんです。
だからこそ、メディアが発達することで、リアリティは増大せずに逆に消失するんです。ベトナム戦争とイラク戦争のリアリティを比べてみたらいい。
あるいは三〇年前のビアフラと今のスーダンの飢饉。規模や被害は同じようなものです。むしろ今のほうが悲惨かもしれない。でもメディアが
リアルタイムに、わかりやすく、情報量が増大する過程と並行して、受容する側の想像力が消えていくんです。


今、メディアに携わる人間も、確信犯的に状況を悪くしようと思って仕事をしているわけではなく、どこかで日本を長くしよう、自分たちの
理念を全うしようと考えているとは思います。それが硬直し、麻痺し始めている。さらに、僕が危惧している一番の点は、自分たちが
手を汚しているという自覚があれば、まだ改善の余地が存在するんですが、それすら消えてしまったときに、まさに自動律が始まるんです。


みんな一緒の社会のほうが、ずっと怖いのです。異質なものを混ぜて一緒にやる。これが本来の意味での多元主義の立場です。
異物はわからないからといって、排除してしまったら終わり。そこで思考は止まります。わからないものはわからないまま。置いておいて、
一緒に考えればいい。
自分も考える、向こうも考える。自分が何かしようとしたら、嫌なヤツも入れる。好きなものだけで集まっても、仲良しグループができるだけで、
つまらないものしかできない。だから、メディアには、多元性があっていいはずなのに、一元化されて、みんなでいい子グループをやっている。
「救う会」にしろ、「新しい教科書を作る会」にしろ、下部で働いてる人たちは、自分はいいことをしていると、きっとみんなそう信じているので
しょう。福音を伝道しているのだと思っている。


ところが、わからない、理解できない相手は、はじいてしまう。北朝鮮の手先だ、アルカイダの兵士だ、テロリストだ、非国民だと排除してしまう。
なぜかは理解できないけれど、テロリストたちがあれだけのことをするには、それなりの理由があるんだと考えることができない。わからないのなら、
なおのこと相手を知ろうとするために、その考えを聞き、知ろうとするべきにもかかわらず、わからないからといって徹底的に差別する、排除する。


暴走します。悪意は暴走しない。ただし、開き直ります。
森巣:悪意には、ある程度までの、底というべきか天井があるのかもしれない。ところが、善意というのはどこまでも突き進んでしまう。


その無自覚性の積み重ねの先にある社会こそが「怖い」のです(笑)。いつの間にか、私みたいな人間がサヨクと思われるような世の中になってしまった。
私の立場は明瞭です。左翼は難解、右翼は厄介(笑)。アメリカでは、愛国者法(反テロ法)が成立しました。日本もその方向に進んでいる。
愛国者法を成立させたUSAは、私がセックス・ドラッグス・ロックンロールをやっていた頃のUSAではありません。敵を作り、敵を攻撃することが正義と
なりました。おまけに、それに反対すれば非国民です。


今のメディア自身も、善意を体現しようとして、そこに正義という言葉を入れ替えて、その御旗の下、麻痺し始めている状況ですから、社会全体の
善意による暴走という構造は、拍車がかかるばかりの状態になりつつある。
森巣:それでも、表現することを恐れてはいけない。意義申し立ては必要なのです。周囲に気を取られて、保身しているようでは、奈落しか待ち受け
ません。森さんが書かれていたことですが、表現することによって傷つく人がいるかもしれない。それは絶対どこかにいるのです。それを気にしてばかりいたら、
何も書けなくなってしまう。表現とは誰かを傷つける可能性を含むものなのだという自覚は必要です。その加害者性を受容して、表現が開始される。


傷つくであろう人がいるということは、気にはしてほしいし、忘れてほしくない。だからといって、気にしすぎてしまったら、それで機能しなくなってしまう。
後ろめたさを思いっきり持って、ああ、こんなに毎日毎日多くの人を傷つけているって、めそめそ泣きながら仕事をするくらいの気持ちを持続してほしい。
その自覚もないのに、ジャーナリズムや表現に携わってはほしくないですね。


人を刺すのは、自分も刺されることを受け入れて、はじめての成立可能な行為です。自分が刺されることを受け入れないから、現状のように、どんどん
抗議のこないほうに向かってしまった。
森:・・・・・・でもね、刺される窮地にまで自分を追い込む必要はないんです。メディアの特権は、人のことを刺すけれど、自分は刺されない位置にいること
です。とんでもない特権です。だからこそ、それに見合うだけの自覚と働きは、当然要求されるべきなんです。


自分がくだらない、虫けらみたいな人間なんだというところから出発したほうがいい。正義であったり、公共の福祉であったり、知る権利とか、
表現の自由がどうだとか、そういったことを持ち出すから、どんどんどんどん錯覚していってしまう。
一回原点に立ち返ればいい。メディアという仕事は、ほとんどが人の不幸をあげつらうことで成り立っている。不幸でなくとも、聞かれたくないような
ことまで取材しなければならない場合もあるし、取材方法だって家族には見られたくないようなことばかりしています。そしてその結果、常に誰かを
傷つけることで成立しているんです。そのことに対する後ろめたさを持ったほうがいい。それだけは、絶対なくすべきではないと思っている。
卑しい仕事なんです。その視点から、もう一度、メディアというこの重要なジャンルと、向き合うべきと思っています。


長い博奕体験から、私には言えることが一つある。それは、希望が絶望に変わるのは諦めたときなんです。諦めちゃいけない。
絶望に陥ってはいけないのです。

10/02/2007

車谷長吉


車谷長吉、私小説家。まぁ、変わった人。



それと彼の奥さんの詩人の高橋順子氏の詩を。
蛇足だか、ご両人、確か50歳前後で結婚、お互い初婚だった。かっこいい。



車谷東吉曰く、

「僕は少し貧乏というのが、いまの世における幸福だと思うね。」





貧乏な椅子  高橋順子

貧乏好きの男と結婚してしまった
わたしも貧乏が似合う女なのだろう
働くのをいとう男と女ではないのだが
というよりは それゆえに
「貧乏」のほうもわたしどもを好いたのであろう
借家の家賃は男の負担で
米 肉 菜っ葉 酒その他は女の負担
小遣いはそれぞれ自前である
当初男は毎日柴刈りに行くところがあったので
定収入のある者が定支出を受け持ったのである
そうこうするうちに不景気到来
男の自宅待機が命じられ 賃金が八割カットされた
「便所掃除でもなんでもやりますから
この会社に置いてください」
と頭を下げたそうな
そうゆうところはえらいとおもう
家では電灯の紐もひっぱらぬ男なのである
朝ほの暗い座敷に坐って
しんと煙草を吸っているのである
しかし会社の掃除人の職は奪えなかった
さいわい今年になって自宅待機が解除され
週二日出勤の温情判決が下った
いまは月曜と木曜 男は会社の半地下に与えられた
椅子に坐りにゆくのである
わたしは校正の仕事のめどがつくと
神田神保町の地下の喫茶店に 週に一度
コーヒーを飲みに下りてゆく
「ひまー、ひまー」
と女主人は歌うように嘆くのである
「誰か一人来てから帰る」
わたしは木の椅子にぼんやり坐って
待っている
貧乏退散を待っていないわけではないのだけれど
何かいいことを待っているわけでもない









これ「銭金について」というエッセイから。
いやはや、もはや、というカンジですわ。


どんな人にも、その人に独特の人間毒がある。
それはその人物の味であり、あくであり、いがらっぽさであり、
面白みであり、思い上がりであり、えらさであり、愚かさであり、
哀しさであり、あんぽんたんぶりであり、なつかしさであり、
こだわりであり、奇癖であり、引け目であり、崇高さであり、
どうしようもなさであり、不可能性であり、あわれであり、
こわばりであり、痼りであり、蠍であり、蝮であり、
「虫」であり、「物の怪」であり、掛け替えのなさであり、
骨の髄に刻印されたものであり――。

すでにこういう人間毒を両人はたがいに分泌し合い、
それに辟易し、みずからの毒はさほどではなくとも、
相手の毒にはことにうんざりし、もう充分に中毒し合っていたのだろう。

人はたがいに人間毒を分泌し合うのである。
場合によっては、なすり付け合いをするのである。
それが人と人との確執である。たがいに相手を許せないと思うようになるのである。
仲がよければよいほどに、いつとは知れず、なおのことそうなって行くのである。




「反時代的毒虫/車谷長吉著」より。

1998年から2004年までの間の車谷長吉が行った対談や、妻・高橋順子との句会が掲載されている。

対談相手は、江藤淳、白洲正子、水上勉、中村うさぎ、河野多惠子・奥本大三郎。

以下、私の気に入ったトコロを抜粋。


江藤 戦後は、みんな知らないうちに何らかの思想を信じているわけです。
平和や民主主義を信じなくても、電気冷蔵庫という思想もあり、マイホームという思想もある。
ダニエル・ブーアスティンというアメリカの社会学者  は、「アメリカの哲学は、みんな物だ。
ティッシュペーパー、ヒルトンホテル……。これにかなうものがあるか」と言いましたが、実際、かなうものはなかった。
今でもないんじゃないんですか。


車谷 素人が玄人に勝つという話をぼくはずっと信奉してました。白洲先生も『遊鬼』の中に少女時代に鹿島
清兵衛にお会いになったという話を書きましたね。感動しました。これがプロの芸術家じゃなくてアマチュア
の芸術家の一つの極致で、完全にプロを超えていると白洲先生は御評価されました。


中村 でも、法廷に持ち込めないわけですよ。ヤミ金って。それで、踏み倒すみたいなことをさらっと言うわけで
すよ、若い十九、二十の女の子が。ほんで、エッ、そんなことしてひどい目にあったらどうするんだと言うと、
取立てが来て、てめぇ、風呂に沈めるぞと言われたけど、自分はソープで働いているから、もう風呂に沈
んでますけど何か?と言ってやったとか(笑)。


車谷 酒の味というのは、やっぱり身銭を切って飲む味ですよね。だから、人からただで飲ましてもらう酒の味と
いうのは、本当の酒の味がしないですね。


奥本 若い人は非常に用心深いんですよ。今の生活水準を落としたくないと思ってる。
河野 もっとお金なんて気楽に考えたらどうかと思うくらい、あきれるくらい細かいでしょう。
奥本 都会生活者なんですよね。臆病になってくるし。
車谷 金というのは、根本的に人を脅かすものというか、脅えを誘発するものだと思います。
奥本 金は人を脅かすかもしれないけど、タイプによっては挑発するものでもあるんじゃない。
それこそバルザックなんかは、金の挑発をまともに受けて、破滅型になっちゃった人でしょう。
ヴィクトル・ユゴーは小遣い帳を細かくつけて・・・・・・。谷崎型ですけど。


車谷 逆説的かもしれないけど、志賀さんみたいな人が出てきて、金のことなんか関係ないっていう感じの小説

書いてるわけですよ。

『暗夜行路』なんかに代表されますが。ところが、志賀さんは金に困らない人です。
それが尊敬されたところに、僕は根本的な問題があると思いますね。

小林秀雄でも誰でもみんな、志賀さんを尊敬する。要するに金のことを考えないで、汚れないところで人間

の精神の問題を考えようということでしょう。

その汚れないところでというのが、甘ちゃんじゃないんですかね。



しかし人の偉さには限りがあるけれど、人の愚かさは底なしの沼です。

僕は人間の本質は相当にたちが悪いものだと思うんです。業深いというか。

文学の原質は、世俗の中の下品な、血みどろの欲望の渦巻く、煩悩や迷いが流れ出るようなものだと思うんです。

なりふりかまわないというか、場合によれば人を殺してしまうというか、そういう世界が流出するのが文学だと思います。

だからディーセントななんていうようなことを言ってると、それはきれいごとになっちゃうんじゃないですかね。

例えば東横線なんかに住んでるような人なんていうのは、窓辺にヨーロッパ風に花を飾るような生活してるじゃないですか。

ああいうことをやっていると、それはディーセントかもしれないけども、人間の煩悩というのは――東京の山の手文化というのが、生身の欲望にひと皮きれいなベールをかぶせたような文化ですよね。

ところが、ひと皮めくると、たちの悪い生身の色と欲、迷いがあるわけでしょう。

文学の素材は、僕は俗なものだと思っているんだけれど。それとどう向き合って、痛み、悲しみ・・・・・・。

そこで美学とか倫理とか、そういうことが出てくるんだと思うんだけれども。

9/07/2007

つか版 誰がために鐘は鳴る






つか版 誰がために鐘は鳴る つかこうへい



女を辱しめず裏切らない人間をスターという。



『冬のソナタ』のペ・ヨンジュンも、『ローマの休日』のグレゴリー・ペックも、誠実であり続けようとする。
なぜならスターは、強気をくじき、弱きを助ける正義の味方でなければならないからだ。



韓国では、どのような理由があるにせよ、兵役に行っていない男性は貶められる。
イ・ビョンホンは義務を果たしたが、公益勤務要員ということで6ヶ月に期間短縮され、チャン・ドンゴンもまた気胸という病気で免除されている。兵役に行かなかった者に対して、人は彼らを「腰抜け、卑怯者」と差別する。
ペ・ヨンジュンもチャン・ドンゴンも、その差別の中で生きてきた。
その中で彼らは、必死で不動のスターへの道を模索し続けている。
だからこそ、いま毅然と輝いている韓流スター達の微笑の中に、孤独を見る。
彼らの微笑みの裏には、決してこの社会に完全には受け入れてもらえないという、諦めからくる寂しさがつきまとっているように感じられる。



儒教の国・韓国では、学問を重んじ高学歴であることが重要視される。
そして俳優という仕事は国民にとって自分達の代表であり、高学歴・高身長・鍛え抜かれた肉体・人柄と、完璧さを求められている。



ペ・ヨンジュンは芸術家と呼ばれたかったのであろう。映画好きな韓国の中にあって、知性ある役者と呼ばれたかったのであろう。
が、映画というものは大衆が楽しむエンターテイメントであることを忘れてはならない。



彼女たちは芸術を見たいのではない。夢を見たいだけなのだ。



私はペ・ヨンジュンに、若い娘の将来のために入れ歯をはずさせるような、そんな男気を持つ人間に成長して欲しいと思う。
ペ・ヨンジュンなら、きっとなれる。
なぜなら、スターは相手を、ファンを思いやる心の深さのことであるから。そして、スターの華とは、男気のことであるから。



誠実に生きていこうとするサラリーマンが死ななければならないアメリカ。
アメリカは、心の美しさを鍛えず、『見栄ばかり』鍛えてきたから腐ったのである。
エリザベス・テイラーは、「子供を堕ろすくらいなら、死んだほうがましだわ」と古き良きアメリカ女の心意気を見せていた。



「ペ・ヨンジュンは、威張らないって。偉そうにしないから、日本の女達が、魅かれたと」



「それに日本の亭主たちって、奥さんに対して威張って恩着せがましくするじゃないですか」


「恩着せがましい」


「女って恩着せがましくされるのが嫌いなんですよ。やれ『家買った』『不自由のない暮らしさせた』そのうえ自分は会社の若い女の子と浮気しといて、『定年になったから面倒みろ』『ボケたお袋の介護頼む』。これじゃ女達だっていい加減頭にきますよ」



作法とは人を思いやること、やさしさとは人に恥をかかせないことだと知ったんですよ。



「私も思うんですよ、弱い者の視点で物を見なきゃいけないんじゃないですかね、文学とか芸術とかは。
ペ・ヨンジュンって人はその弱い人への優しい目線があると思うんですよ。」




8/04/2007

2ちゃんねるはなぜ潰れないのか



2ちゃんねるはなぜ潰れないのか?/ひろゆき(西村博之)

フューチャリスト宣言より、共感した。以下、うーんと唸った箇所を。




「○○をしない」と堂々と言うことは「いつか自分は○○するよ」という意味だと、僕は考えています。「人を殴らない」と言う人は、いつか誰かを殴るから、その言葉を使うわけで、そもそも人を殴ることを想像していない人には、そんな言葉は思いつきません。

こうやってグーグルを見ていくと、決して優秀な技術力のある会社ではなく、優秀な企画力と営業力のある会社であることが見えてきてしまうのです。いろいろな方々が、グーグルがすごいとおっしゃっているようですが、僕には、企画・営業力とサーバーメインテナンス以外、スゴイ部分がわかりません。

グーグルやミクシィがWEB2.0企業と呼ばれているのをみると、WEB2.0の裏に隠されているものは、技術力ではなく、いかにクリーンなイメージを押し出すか、そして、いかにユーザーの心を惹きつけられるのか、ということなのかもしれません。

ライブドアは挑戦をしない会社へと変貌してしまいました。結果、今まで安い給料でも面白いことができるからとライブドアに所属していた優秀な人材が、面白いことすらできない状況になったことで外部に流出してしまった。

動画を観る行為自体は暇つぶしのネタです。2ちゃんねるのニュース速報を見ている人は、ニュース自体に興味があるわけではなく、何かちょっとでも自分が絡める話題があれば一言言いたい。ニコニコ動画は、その感情の動画版というだけなのです。

頑張れセカンドライフ
その理由の根幹にあるのが、基本的にお金がないと面白くないというシステムです。物を売買し、自分を着飾ったり、家を作り上げたりするゲームなので、何をするにせよお金を払えとしか言われない。お金を支払わないでできることはチャットくらいという、商行為がゲームの全てでないのです。ゲーム内で楽しむためにお金を支払えと言われて、支払う人がどのくらいいるのでしょうか?お金を支払ってまでセカンドライフの中で楽しまなくても、現実に楽しいことは、たくさんあります。
セカンドライフ内に知り合いが大量にいて、チャットをすれば面白いかもしれない、とも考えましたが、セカンドライフでは一つの空間(1SIM)にユーザーが約50人しか入れないという制限がある。これだけマスメディアがセカンドライフを報じているにもかかわらず、なぜか、この事実にあまり触れません。

日本だけではないのですが、このように法律が技術発展や利益の見えない足かせになっている事実は、確かに存在するのです。

8/03/2007

フューチャリスト宣言・梅田望夫&茂木健一郎



フューチャリスト宣言・梅田望夫&茂木健一郎

本屋に平積みになっていた春に読んで、以下の内容ピックアップ。

梅田さんは理想論者だね。でも、勉強になった。





インターネットの成り立ちのところに、利他性というかボランティア精神的なものがかかわっている。インターネットという素晴らしいものが毎日動いている裏には、いろんな人のただ働きがある、無償の奉仕をしている人がいる。

シリコンバレーのルーツは、フロンティア精神、テクノロジー志向、反権威、反中央、反体制、それからヒッピー文化、カウンター・カルチャーというか、そのへんの組み合わせですね。
日本にも反体制、ヒッピーっぽい人はいますが、その人たちは往々にして技術を持ってない。しかも、うらめしそうな視点(ルサンチマン)を世界に対してもっている。意欲でも権威の側に負けていることが多い。でもアメリカには全然違うタイプがいますよね。

要するに自分一人の能力がテクノロジーによって増幅されなければ、必ず権威に負けるわけですね。権威と闘う道具としてのテクノロジーということです。

コンサバティブなことを言うほうが最後は負けるだろう、そのくらい世の中が進歩することが経験的にわかっている。コンサバティブなことを言うほうが陳腐化するだろうなという、逆の常識がある。だから僕なんかも、たとえばブログやウィキペディアを見て、「wisdom of crowds/群集の叡智」だとか「総表現社会の到来」だとか言うのは、そういう逆の常識に導かれているんですね。

今の日本社会は、新しく生まれた大きな存在に対して、「気に入らない」と言っていると何とかなってくれるんじゃないかと思っている。もう後戻りできないほど強力な力が働いているのだから、そのことを前提にどうやっていくか、という議論を本当はしないといけない。
どんなものでも、新しく出てきたものは毒性が強い。

自分の肩書きに頼ってモノをいう奴は本当にダメで、肩書きはいらない。ブログが一個あれば良い。ネットでのプレゼンスをどれだけ高めていけるかという、その戦略というのは大事なんですね。

ネットは絶対に有料にしちゃいけないんです。無料にしてそれで広告が入るかといったら、先進国でまともな生活ができるほどは普通に入らない。一方、リアルというのは不自由だからこそ、お金を使って自由を求めます。だから永久にリアルの世界でお金が圧倒的に回る。この二つの世界での生計の立て方とか、それから知的満足のしかたとか、いろいろ組み合わせて戦略的に考えていく必要があります。

個人が組織に属しているという考えはもう古い。勤務規定とかがあるとして、人事の人たちの顔をつぶしてはいけないから、積極的に反逆することはしないほうがいい。でもそんなことで自分の行為をがんじがらめに縛ったら、これからのネット時代に輝けない。組織と個人の関係をうまくやらなければ日本は活性化しない。組織が大事だと言うならば、シリコンバレーとは違う、日本的な表現があっても良いのです。七割は会社なんだけど三割は個人、そんな考え方もアリだと僕は思っている。

談合社会の中に入って仲間になれという圧力が、日本社会のありとあらゆるところでとても強い。

「可能無限」という概念があります。もともと数学用語で、自然数を1,2、....と数えていった時に、どんな大きな数(n)を考えてみても、さらに大きな数(n+1)を、可能性としてどこまでも提示できるということ。可能無限は、「もう一つ増やす余地がある。」という意味での「空白」によって常に支えられている。他方、実無限(本当の無限)というものは、実際に我々が扱うことはできない。私たちは実無限を決して知りえないし、人生において手に入れることもできません。人間に与えられた時間には限りがある。にもかかわらず、若者が「また次の日がある」と思い続けられるのは、じつはそれは可能性としての無限に過ぎないにもかかわらず、実無限であるかのように感じることができるからです。ただ、そのことの効用は大きい。ネット上はまさに可能無限の宝庫で、それはリンクをどこまでもたどっていくことができるから、実無限は手に入れられないけれど、ネット上ではまさにフリーで、ドンドン歩みを進めることができる、可能無限が実現している。

警戒心を解くというのが、ネットで生きるための大切な知恵だと思います。僕はいろんな情報をネット上で公開していますが、そういうことができない人って、やはり警戒心がある。著作権フリーでおいておくと、悪用されてしまうんじゃないかと。でも、コミュニケーションを阻む最大のものは警戒心ですよね。あるいは、免疫作用というか。自分を守ろうとする気持ち。そういうものを取り払ってオープンにしていかないと。

世の中で求められているのは、創造性とコミュニケーションなんですよ。

僕のプロフェッショナルの定義は簡単です。お金をもらっていることじゃなんです。お金をもらっていても、仕事を楽しんでいなければプロじゃないんです。プロフェッショナルの定義というのは、自分のやっていることに快楽を感じる人。しかも、生物学的に単純な快感じゃつまらない。そうではなく、仕事とか勉強とかをいくらやぅっても飽きない人。

7/16/2007

百の名言百の知・谷沢永一


「なぜ、この人だけが成功するのか~百の名言百の知・谷沢永一」と言う本なんだけど、名言よりもこの人の解説のほうが面白いので、それらを。
 

なまじ経験を積んだがために、人柄がすれっからしになって卑しく、他人の顔色を見るだけが能、みんなに嫌われる男がある。
最も厄介で迷惑なのは、博学多識を鼻にかける天狗たちであろう。
歩く百科事典(ウォーキング・ディクショナリー)という揶揄(からかい)の呼び名がある。
なるほど記憶力は抜群で、詰まらんことまで細かく知っているが、映写幕のように頭脳が受動的にしか働かない。
どこに解決すべき問題の、その取っ掛かりが伏在しているか、進んで見出す機能がないから、飾り物にしかならない人もいる。


世間では昔からお喋りに悪人はいないと言い慣わすが、その観察はかなりの率で当たっていよう。
つまりお喋りは他人をほとんど念頭においていないから、他人に計略を施すという企みにまで頭が回らないのである。
そこから直ちに予想される如く、黙っている奴は物騒だから気をつけろ、と言い伝える。

そういうときに閃きを発する人物にかぎって、平素はもの静かに黙っている。
いつも黙っている人の九〇パーセント以上は無能であるが、そのなかに純金の素質が交じっているのだから厄介である。
しょっちゅうやかましく騒ぎ立てている奴は無視すればよい。
職場における自分のまわりに向かって、自分を偉そうに見せている型は問題外である。
自信があって機会を狙っている者は、一挙に真価をあらわす日を期して待っている。


一連の施策にこめられた神谷の構想は、モータリゼーションが進展しやすいように、社会が動いてゆくための環境づくりであった。
真当な販売は押し売りではない。
欲しい人に商品を提供するのが筋道である。
欲しがる人がいないのに物が売れるか。
納得ずくで取引を広げるためには、欲しがる気持が世間一般に高まっていなければならない。
それゆえ車の便利さ宜しさを、実感でわかる人を増やせばよい。


世の人は他人を応援してやろうと待ち構えているのではない。
人間は誰でも必ず猜疑心のかたまりである。
そして何かを成しとげようと努める者には、できるものかと冷たい軽蔑の視線を注ぐ。
能力もないくせに力んでいやがると不愉快になる。
世に出て何かを為すとは、世に逆らい世間を敵にまわす謀叛の行為である。
どこの誰が同情してくれるものか。

成功とは世間を味方に引き寄せた段階を言う。
あくせくと血の汗を流して苦しんでいるとき、鐚一文貸してくれなかった悪鬼羅刹が、満面に笑みをたたえて借りてくれと躙り寄ってくる。
当方の人格がすぐれているからではない。
すべては信用であり見込みであり賭けであり投機である。


ちょっとまわりを見渡してごらんなさい。
老人は一方的に自分のことを喋っているだけ、ほとんど会話になっていないのが普通である。
中年以上の同窓会で、健康問題と薬の効き工合を封じたら、途端に話題がなくなって座が持たない。
六十歳を越すあたりから、自分自身のことにしか興味を示さなくなる。
相手が話しかけている間はひたすら辛抱している。
先方の声がやっと終るのを待って、たちまち喋りだすのは自分のことばかり、お互い他人の言うことなど、聞いているふりして聞かない。
ほぼ六十歳を越すあたりから、家庭でも職場でも会合でも、無意味な自己主張が一方通行で発射されている。このあたりに精神の定年が訪れるのを常とする。


人を悪く言うと一種の自己催眠のようなものにかかって、その人を悪く言わなかったとき以上に、その人が悪く思われる。
反対に人をほめると、ほめる前以上にその人がいいように思われる。
だから、なるべく人を悪く言ってはいけないのだ。


映画は元来、不良青年がつくるものだ。僕が言い出した言葉に「不良性感度」というのがあるが、これが鈍いと面白い映画にできない。       岡田茂