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3/14/2008

音楽観







音楽観
ライブの前に彼のソロアルバムをなんども聞いていたのだが、 生演奏には音楽する心の表情のすべてが伝わってくる音楽にはこれがどうしてもかかせないものだと思う。 映像に写しても、それはつたわらない。
永遠に私の心を揺さぶり続ける音楽を奏でる人。

3/13/2008

1つの「曲」を構成する3つの要素








1つの「曲」を構成する3つの要素/烏賀陽弘道コラム

「曲作りの力が秀でているミュージシャン」
「曲」を構成する3つの要素に分解する。

(1)メロディー(旋律)
(2)リズム
(3)ハーモニー(和音)

「メロディーを書く力」だろう。人の耳に残る、美しいメロディーを書く才能はミュージシャンとして何より強い。
ここで言う「メロディー」は何もボーカル・メロディーのことだけとは限らない。

2番目に、すぐれたリズムを書く力。これは意外に理解されていないというか、評価の対象から見落とされがちである。
最後の「ハーモニー」について。これは別にボーカルハーモニーのことだけを指すのではない。新しい音の重ね方、それまでになかったようなコードの響きを楽器で演奏してみせるミュージシャンも有能な作曲家だと言るだろう。

藤原ヒロシブログ02/16/2007









藤原ヒロシブログ02/16/2007
http://blog.honeyee.com/hf/




いわゆるお洒落な音楽が携帯でダウンロードされるとは思えない。
EXILEとか倖田來未とかドメジャーな曲がどんどん売れる状況。
でもこれが正解。これで良いんですよ、音楽業界は。
メジャーレコード会社は初心に戻り本当に売れるものだけ売れば良い。
売れるかどうかわからないけど、とりあえず、、みたいな税金対策アーティストはどんどん解約して会社自体はシュリンクして純利益を伸ばす。
本当に売れる本当に良いメジャーなアーティストになるための敷居をもっと高くする。

で、売れる売れないはさほど考えずに良い音楽を追求している人たちはどんどんインディペンデントになり、CDの売り上げに頼らずライブその他で稼ぐ。

音楽というのは心を豊かにするもの。懐を豊かにするのはおまけみたいなものだから。

ライブやフェスは盛り上がっているわけだし音楽自体は全然死んでない。

3/12/2008

音楽のレッスン






音楽のレッスン

Seth's Blogより:http://sethgodin.typepad.com/seths_blog/2008/01/music-lessons.html

あなたが音楽業界(の崩壊)から学べること
1.新しいものは古いものより決してよくない、少なくとも今は

2.過去の業績は、将来の成功の保証にはならない

3.コピープロテクションは、デジタル時代の空しい夢(pipe dream)だ

4.インタラクティビティはコピーできない

5.パーミッションは将来の資産である

6.消費者に恐怖を与えても幸福にはできない

7.これは重要:ビジネスモデルを変えるのは、過去の勢いがあるうちだ

8.ボブ・ディランのルールを思い出せ:これはただのレコードではなく、運動なのだ

9.新しいビジネスモデルが古いものほど「クリーン」でなくても、パニックになるな

10.壁に書かれた言葉を読め(*)

11.ロングテールを捨てるな

12.デジタルの力を理解しろ

13.有名人は過小評価されている

14.価値は、多数から少数に行くとき、あるいはその逆のとき生まれる

15.可能なときは、つねにサブスクリプションを売れ


コメント:これは音楽業界に対する教訓ではなく、他のビジネスが音楽産業の失敗を繰り返さないための教訓である。企業に生存権はない。消費者に見離されたビジネスは、消滅するのが資本主義のルールだ。かつてレコードが出てきたとき演奏家の組合が反対したのと同じ失敗を、レコード業界が繰り返しているのは、悲しい笑い話だ。

(*)コメントで指摘された:これは旧約聖書で「悪い前兆」の意味だが、ブログなどの「落書き」とかけている。

1/29/2008

鈴木カツ音楽対談














鈴木カツ音楽対談

鈴木惣一朗
パッケージがなくなったら、演奏と歌っていうのがすごく大事になるんじゃないかな。



ジャック・ジョンソンを聴いて「フラット・ミュージック」っていうの。つまり舞台の高さにない音楽、目の前で演ってくれる音楽っていうのがこれから支持させるんじゃないかな。歌うってことに対して抵抗感がない、すごくカジュアルな行為なんですよ。Jポップが行き詰まったのは、力が入りすぎたんじゃないかなと思う。
いい音楽っていうにはジャンルの隙間にあるよね。エアポケットっていうかさ。
最近思うのは、Jポップを聴いてJポップを作るっていうミュージシャンが多い。アコギの弾き方といかを見ててもわかる。ニール・ヤング見ろよって言いたい。ギターってもっとグラインドさせて弾くもので、タッチでセンスが変わる、すごく表情豊かな楽器なんですよ。それを、サウンドホールに対して平行に弾いてる人は、絶対Jポップしか聴いてないんですね。
今のジャズには、かってのロックのようなサブカルの勢いがありますね。ノラ・ジョーンズもブルーノートなのに内容はカントリーでしょ?要するにジャズというフォーマットを使いながら、実はなにをやってもいいわけ。でもロックではもうやりつくされてしまった。僕もプロダクトを始めるときに、最近はジャズを基盤にしてフォークとかカントリーをぶつけていく。オルタナっぽくロックをやろうとか、今いちばんダメ。ルーツ・ミュージックとしてのモダン・フォークとかブルースの方が、今は過激だと思う。

沢野ひとし
クラプトンは思想のある音楽家だから、若い子にも伝わるんだよ。その辺のギター小僧には真似できないよ。思想のないやつは絶対ダメ。

山内雄喜
巧いとかヘタじゃなくてさ、やるってことが大事なんだよ。音楽を聴いてもらうんじゃなくて、音楽のあるところに入っていって、一緒に楽しむってほうが最近いいなぁって思うの。聴き手も弾き手も一緒でね。ガチンコで聴くんじゃなくて。
僕は、沖縄もハワイとの共通点ってのがある気がする。メロディのことじゃなくて、なんかフラットな気分なんだよね。演奏するほうも聴き手も、みんなが音楽を共有している感じ。

1/28/2008

ROCK AND ROLL HEART 鳥井賀句














ROCK AND ROLL HEART 鳥井賀句


お前は小さなアングラ劇団で芝居をやりながら、隣街のジャズ喫茶でバイトしたり、美術大学で絵のヌード・モデルをやっていた。
お前の好きなものはパティ・スミスにランボー、エッシャーの版画、アントニオーニの映画に寺山修司の演劇だった。
相変わらず俺の暮らしは貧しかったけど、俺たちは互いの仕事の休みの日を見つけては、映画やロック・コンサートに出かけて行った。


シンプルなコード進行、ティーン・エイジ特有のフラストレーションや性への欲望を赤裸々に歌いあげた詞、イギーの狂おしいヴォーカルは、まさにこれぞ“元祖パンク”と呼べるものである。


イギーとストゥージズに関しては、他の追随を許さない暴力的なステージ・アクト・・・熱くなったワックスを体に塗りたくる、割れたガラスの破片でわが身を切り裂く、折れたドラム・スティックで自分を打つ等々が語り草になっている。
今回、イギーにその辺のことを尋ねてみると、「当時は、俺たちの音楽なんか別に好きでもない奴らに対して“注目を集めるためなら何だってやってやる!!”っていう理論を持っていたんだ。
“できないことなんてないんだ。人を殺さなきゃいけないなら殺してやる!”ってね。
それと同時に、俺はアーティストとして、パフォーマーとして、自分が観客である場合に欲求しうるものすべてを観客に与えようという理論を持っていたんだ。
俺にとってのロックとは、テレビよりも真実の自分自身を世界にアピールする方法なんだと思う。
俺が見た多くのコンサートに欠如していた深くてへヴィなものを提示したかったんだ。


『Michigan Brand Nuggets』


69年にデトロイトをベースに創刊されたロック・マガジン『クリーム』も、ストゥージズやMC5を大いにバックアップした。
後にパティ・スミス・グループのギタリストとなるレニー・ケイも寄稿者の一人で、彼は“デトロイト~アン・アーバーにはロックン・ロール・カルチャーとも呼ぶべき強い共同体が存在する。この地のロックンロールは中産階級的道徳や抑制をぶち破り、ストリートの上でドラッグやあらゆるタブーをワイルドに展開している”と書いている。


こうして60年代末、西海岸を中心としたヒッピーたちのフラワー・ムーヴメントがアメリカ全土を支配していた中で、デトロイトのストゥージズやMC5は、決して“愛と平和”などに惑わされることなく、常にロック本来のエナジーと怒りを、エモーションに求め続けたのである。



何よりもイギー・ポップ自身がロックン・ロールという音楽と行為と思想を、自らの存在のすべてを賭けて求め続けてきたからに他ならない。どうでもいいようなくだらないロックのレコードを1000枚集めて聴くよりも、イギー・ポップのアルバムを10枚だけ100回ずつ聴いたほうが、きっとずっと深くロックという音楽を認識できるだろう。


「俺は失敗し続けていたいとは思わない。俺は過去に多くの失敗を犯してきた。だから俺は成功したいと思っている。俺は本当に心底素晴らしいアーティストになりたいんだ。俺は自分がグレイトであるとは思っていない。だから俺には俺の望む者になるまでやり続けねばならない多くの仕事がある。それが、俺が決してギブ・アップしない理由なんだ」(イギー・ポップ、1986年)


もっといまわしく、もっとワイセツに、もっと毒々しく、もっとよこしまに・・・・・・


当時のシーンにあってヴェルヴェットの革新性そして孤高性とは、ひとつにはリアリズムに徹し、あくまでも都市の狂気と喧騒の中に身を置きながら、人間存在の真実と苦悩を見つめていこうとするその姿勢にあった。


西海岸の連中が“髪に花を飾ってピース、ピース”と能天気なエコロジストを気取り、カントリー~田園思考に走っていったのに対し、ヴェルヴェットはあくまでも都市ニューヨークにとどまり、多くの人々がタブー視していた麻薬による歓喜と苦悩、サドマゾ、同性愛、死・・・等の人生の暗黒部を照らし出すような題材を詞のテーマに揚げていった。


西海岸の連中のような花柄Tシャツにジーンズではなく、黒いサングラスにレザー・ジャケットといった彼らのルックスも、そのモノクロな質感とイメージを決定づけた


ヴェルヴェットの功績とは、他の誰もがタブー視していた人生の暗部(本質)に一切の妥協なく深く入り込んで行ったこと、アヴァンギャルドとポップの精神を融合させたこと、“都市音楽”としてのロックを常にストリートに立って描き出したこと、そしてロック・ミュージックというものが、単なる娯楽以上の意味を語ることができるのだということを、身をもって表現したことだと言えるのではないだろうか。


“ルー・リードは最も過小評価されている現代アメリカの詩人である。”


その意味において音楽の中に歌という形で、歌詞という言葉の表現領域が参入してきた時、我々は演奏力やメロディに対する感覚的な対応とはまた違った形で、否応なしにその言葉に対峙せざるを得ない。たとえばここにどんなに素晴らしい歌唱力と演奏力を誇るバンドがいたとしても、彼らが歌っているその歌詞がどうしようもなく差別的な発言や愚鈍な言い廻しに満ちていた時、あなたはその歌や演奏を心底楽しめないどころか嫌悪感を抱いてしまうかもしれない。つまりメロディやインストゥルメンタルに対しては気分的に対応できても、言葉というものは常に観念を、思考の内実を語ってしまうから、あなたはその歌に対し意識的に意味づけをせざるを得なくなるだろう。


私はロックという音楽が現代においてこれ程の影響力を持ち得たことのひとつは、肉体を開放しようとするその強烈なビートや、あらゆるものを雑食的に取り入れようとしてきた自由でフレキシブルな精神以上に、ロックン・ロールが歌という形で、常に言葉による批評性を媒介としてきた表現形態であったことが大きいように思う。ビートルズやローリング・ストーンズ、ボブ・ディランやこのルー・リードといったアーティストたちは、それまでのティン・パン・アリー的な三文ラヴ・ソングとしてのポップスではなく、ある種の文学的感受性とビートニク的自己探究、旧世代に対するカウンター・カルチャー側からのステイトメント・・・といったものをロックの歌詞の中に詩的に織り込むことによって、ポピュラー・ソングの歌における歌詞の表現の幅を拡大しただけでなく、歌詞の言葉を通して彼らの思想や批評精神を社会に伝達してきたのだ。それは詩というものがロックン・ロールという音楽と一体となる事によってもたらされた極めて浸透力の強いコミュニケーションであり、ひとつの新しいメディアとして存在していた。故に、彼らの歌の多くはその思想の過激さや表現のリアルさによって、ラジオやレコード倫理規定委員会や世のPTA連中から度々の規制や弾圧を受けてきたのである。



①ヘヴィ・メタルの様式美的な、あるいは直線的な発散型サウンドではなく、ブルースやブギ、ブリティッシュ・ビートをルーツとする横揺れのロックン・ロール型ハード・ロックの復権
②ダルでルーズな乗りに絡むファンキーなうねり
③“セックス、ドラッグス&ロックン・ロール”に代表される、不良の音楽としてのロックのかっこ良さへの再認識
④現代性を取り入れながらも、常にルーツとなるブルース・フィーリングを失ない
⑤アメリカの20代の若者たちにとっての少年時代のロック・ヒーロー
・・・・・・こういった事項が要因となって、現在のエアロスミス・リヴァイヴァルが成り立っているのだと思う。


早いハナシが、結局、ロックン・ロールっていうのは、セクシーで悪っぽくて、ルーツを極め、カッコイイ、ファンキーな音楽だったってこと。それがエアロスミスだったんだよ。


ロック・ミュージシャンは常にストリートやキッズの気持ちを忘れてはならないと思っている。
高度な芸術家としてのミュージシャンや崇高な哲学者としてのアーティストが存在することは別に否定しないが、僕はあくまでもストリートに立ち続けるロック・ミュージックにこだわり続けたい。


つまり俺の言いたいのは、パンクでもロックでもヘヴィ・メタルでも、イメージや他人様の作りあげた概念に捉われるなよ・・・ということさ。結局のところパンクであろうとなかろうと、人は自らの1回限りの人生を、自らの個有性において生きていくだけだということだ。精神パンクだろうとファッション・パンクだろうと、営業パンクだろうと、そんなもんは勝手にやってくれよ。安全な道を行くのも、ヤバい橋を渡るのも、アンタのやり方次第さ。ロックで世界は変わりはしないが、人の心を変えられるかもしれない。だがそれをどう受け止めて行くのかは、全く個々の存在においてでしかない。要は変わったアンタが何をし、どうなって行くかだ。その時“パンク”というお題目はそれだけの意味でしかない。万物は流転するのみだ。


頭脳警察は“反抗と怒り”をテーマに“ふざけるんじゃねぇよ、テメエの善人ヅラをいつかぶっ飛ばしてやらあ!!”と歌い、当時のドロップ・アウトの若者の気持を代弁していたのである。それは今から考えると“早すぎたパンク・ロック”と呼べるものだったのだと思う。


ストーンズのキース・リチャーズが最近あるインタビューで言っていた。“ロックっていうのはガキの音楽で、10代の子がデュラン・デュランを聴いているっていうイメージしか持たれてないけど、俺はブルース・マンのマディ・ウォーターズが50過ぎまで本物のブルースをやり続けたみたいに、50になってもロックンロールをやり続けられるんだってことを証明したいんだ”と。
これからの日本のロックがより本物を目指すのなら、海外の聴衆や、30過ぎの洋楽ファンをも納得させてしまうだけの存在感と音楽的才能を持ったアーティストがどんどん登場しなくてはならないと思う。そうでないと、いつまでたっても真の意味でのロックが日本に浸透することはないだろう。


ロックン・ロールというのは、ピンナップ雑誌のアイドルの写真のように、20歳を過ぎたからといって“卒業”してしまえるものではないのだ。ロックン・ロールとはいつまでも夢を見続ける奴らの、おしきせの人生を拒み続ける奴らの、いつまでも不良少年のマインドを忘れない奴らの、そして目一杯カッコよく決めたい奴らの、永遠の子守唄なんだ。


(済)極論をい言えば、歌詞のくだらない歌は結局下らないというのが僕の考えだ。


ロックン・ロール・プリズナー

1/27/2008

こんなバンドがプロになれる! 高垣 健










こんなバンドがプロになれる! 高垣 健


君たちは、自分自身だけが頼りじゃないか。

使い捨ての業界なんだよ。

一生とは言わないが、少しでも長く、大好きなロックを続けるために、デビューについては、慎重に真剣に、自分の音楽を鍛えてほしい。

才能を磨いてほしい。

この世界では、「持続力」が最大の武器になるんだよ。
そしてスタッフの皆さん。

どんなにすばらしいアーチストでも、横にいるスタッフによって、大きく成長するか全くダメになるかが分かれてしまうんだ。

僕が、ライブハウスで、とてもステキなロックバンドに出くわしても、彼らについているマネージャーと話が合わなくて辞退させてもらったことがいっぱいある。
その後の結果を見ると、そのまま他社からデビューしたものの全く売れないまま終わったか、新しいマネジメントに交代して成功したか、のどちらかだ。
プロダクション、レコード会社のスタッフの役割は、一人のアーチスト、一組のバンドの人生を変えてしまうくらいの、責任の大きい、重要なものである。

これだけ新人のアマチュアバンドが増えて、そのレベルも高くなっているというのに、それに見合うスタッフは圧倒的に不足している、だから、新人アーチストを探す前に、優秀なマネジメントスタッフを探そうということが、僕たちの合言葉になっているほどだ。

また、その逆に、マネジメント・プロダクションもレコード会社のスタッフを徹底的に吟味するというのが常識になっている。
才能豊かなアーチストと、それにふさわしいスタッフがめぐり会えば、作品としてのCDは、必ず売れる。



初めて見るアマチュアバンドのライブで、何だか今までに聞いたことのない曲や、言葉づかいや、ブッ飛んだライブパフォーマンスを見たりしたとき、僕は迷わず楽屋にかけつける。

そんな個性を磨いてほしい。

個性=オリジナリティがあれば、ジャンルは全く関係ない。

しかも、君の努力と研究次第で個性は育つということを、ぜひ、忘れないでほしい。



現在のロックシーンをふり返ってみると、先にも言ったが、ジャンルは関係なくなっている。

楽曲である。
メロディである。

歌詞である。

歌である。

特に、歌詞の内容が、時代を反映しているか、本音の気持ちをあらわしているか。


特に、ロックは個人的な音楽だ。

ごく数人の共感者が、まず最初に現れる。

彼らが「共犯者」となって、ジワジワとその輪を広げていく。

時間がかかる。

根性も必要だ。

挫折するときも多い。

しかし、いつの日にか、これが社会現象になって、君はビッグスターの勲章を獲得する。


テレビCMのタイアップなどで、大々的にデビューを飾ったアーチストの転落は実にみじめだが、ライブハウスで鍛えぬかれたバンドが、何年もかかってトップスターの座に登りつめるのは、最高に気持ちがいい。


アーチストが、自分にふさわしいオリジナルのメディアを作ってしまうことがあってもいいじゃないか。
かつて佐野元春がみずから発行した雑誌「THIS」は、そんな勇気ある試みだったんだ。


大きな威力を発揮するのは、ズバリ「ライブパフォーマンス」である。


こんな興奮や感動を与えられるのは、ライブでしかないと思う。

ライブは君たちを宣伝する最大のチャンスだ。
迷っていた人は、間違いなくその翌日に、君たちのCDを手に入れるだろう。

ライブハウスでもCD即売を見かけることが多くなったが、すばらしいライブが終わったあとのCD売り場にはファンが殺到している。

僕も、関係するライブでのCD即売はいつも気になっている。
特に、新人としてデビューしたばかりのころは、レコード店にそう多くの枚数が出ていないから、ライブ会場で初めてファンの目にCDがふれることも多い。

だから、ライブの良いバンドは、とても貴重な存在なんだ。
最初は、数十人のお客だけを前にしていたバンドも、内容さえ良ければ確実にそのファンの数は増えていく。
次に百人。

さらに、二千人の渋谷公会堂へ、ついには、一万人の日本武道館へ・・・・・・。

順調に進んでも、まぁ五年はかかると思っていいだろう。



年齢層を考えると、ロックに興味を持っている人は、深夜番組や衛星放送のほうが確実に多いはずだ。
ロック専門テレビを見る人の全体数は少ないが、その100%の人が、新人バンドになにがしかの興味を持って見ているはずだ。

また、このようなテレビ局のスタッフは、噂を聞きつけて新人のライブに足を運ぶことも多い。



電波メディア(ラジオ、テレビ関係)のスタッフは、その番組を作ること自体に大きな目標をもっているようだ。
つまり、番組自体が評判となり影響力を持つことが、彼らの製作スタッフとしての達成感を支えている。

しかし、特に音楽専門誌のスタッフに関しては、雑誌全体よりも、自分が担当している一つの記事、一組のアーチストの評価や動向が、次の自分の仕事を左右する。

雑誌全体の売れ行きや評判を気にしているのは、おそらく編集長だけだろう。


プロとしての大きな変化は、制限された時間の中で最大の成果を求められることにある。これまでに書いたような、マスコミとのつきあいや取材が増えるのはまちがいない。

限られた時間と環境のなかで、どれだけベストの作品を作り出すことができるか。プロとアマチュアの最大の違いは、ここにあると言えるだろう。



ロックは、自分の身を削っての自己表現だ。

スタッフがいくら優秀であっても、アーチストみずからが切り開いて音楽を作っていく。

しかし、映画やテレビドラマは、監督が絶大な力を持っている。

その要求のなかでいかに自分を表現していけるかが、役者の使命になっていく。


スタッフの条件としては、ポイントが四つある。

「愛情」「知識」「企画」「行動」だ。

アーチストを本当に愛しているか。
議論するときに必要な音楽の知識が、どのくらいあるか。他人をノセルためのプラン、企画力があるか。

誰よりも早い行動力を持っているか。
この四つのポイントは、努力次第で、誰にでも身につけることができるはずだ。

音楽がすきなのは、スタッフとしての常識。
プロフェッショナルに、ビジネスとして「スタッフ」を名乗るのなら、このポイントに向けて、最大の努力を傾けるべきだろう。


オーディションを見るとき、最も気になるポイントは? よく質問されることである。

ずばり、ヴォーカルと楽曲だ。
一、二曲しか聴けないことが多いのでこれがすべてではないが、まずこの二点からすべてが始まる。

いい声、いい歌であってほしいのはあたりまえだが、それ以上に個性的であること、オリジナリティを感じられることが重要なんだ。

他のアーチストにはないものが聞こえてくることである。

ライブパフォーマンスやサウンドは、この歌と曲を引き立たせるものだから、元が悪ければすべてダメと言ってもいいだろう。


よく、ルックスやファッションのセンスを話す審査員がいるようだが、これは、他に話すことが見つからないための言いわけにすぎない。

すべてが揃っているにこしたことはないが、見ばえだけで音楽は語れない。

しかし、いい音楽があれば、そこからファッションとルックスを作り出すことは可能だ。

僕たちは、まずは音だけで仕事を始めるのだから、楽曲、ヴォーカル、本音の会話、この三つが揃えば、ファーストステップはクリアである。


フライング・キッズの再生と成功の例は、音楽活動を長く続けて実を結ぶ、すべてのミュージシャンに当てはまる教訓になると思う。

持続力と、チームワーク。

メンバー間のチームワーク。

メンバーとスタッフのチームワーク。

ロック、ポップスという音楽ジャンルは、アーチストの才能がすべてを左右する世界だから、持続力とチームワークという二点は最大の武器だといっていいだろう。


プロデビューをめざしての練習は、まず、レパートリーを増やすことだ。

つまらない曲が大半でも結構。

百曲作れば、ヒット曲の可能性がその中に一曲はあるはずだし、いろんな意見を聞いているうちに、君の曲作りの内容も自然に進歩してくるはずだから。
アップテンポ、バラード、ロックンロール、ブルース、レゲエ、16ビートのファンク、4ビートのジャズ、6/8のポップス、ビートルズ風、ストーンズ風、ディラン風、ビーチボーイズ風、ギターサウンドのブリットポップ・・・・・・。


僕の個人的な考え方だが、甘い曲には辛い歌詞を、激しい曲には優しい歌詞を。そんな逆説が一曲にまとまっていると、個性が浮きぼりになって、他との差別化をはかりやすいことがよくあるようだ。


リズムの練習を徹底的にくり返すこと。

リズムボックス(ドンカマ)を使って、一定のリズムをキープするように心がけよう。
「ロックンロールはノリ一発だから、ドンカマなんて使わないよ」と言う人もいるが、これは、よっぽど自分のリズム感に自信を持っている人だけのセリフだ。

とにかく、理屈を言う前に、ドンカマを使ってリズムを鍛えよう。

僕が新人バンドをチェックする
ポイントは楽曲とヴォーカルだが、リズムがいいのはその大前提なんだよ。


バンドのメンバーは、一人一人が大事な役割を持っている。

しかし、ヴォーカリストは誰が見ても、バンドの顔である。
バンドのすべてではないが、ヴォーカルによって、そのバンドの表現は一変するんだ。

歌の内容、そのキャラクターは、そのバンドを代表する。

演奏がド下手なバンドだが、ヴォーカルがすばらしいということがある。

時間がたてば、演奏は目に見えて上達してくるものだ。

しかし、その逆には出会ったことがない。

楽器演奏は、個人での練習よりも、チームワークによってうまくなることが多い。

バンドマジックとよく言うが、やはり、バンドのアンサンブルが個人の技術をカバーすることができるからである。


コピーをすることで、あこがれの洋楽アーチストの本音が聞こえてくる。

初めて出会ったミュージシャンとセッションをする機会が増え、新しい音楽仲間ができる。

君が作るオリジナル曲へのヒントになって、作品の幅が広がり、可能性も大きくなる。

リハーサルで煮つまったときには、息抜きのセッションで盛り上がる。

日本語の歌詞をつけて歌ってみたら、思わぬ言葉が浮かんできた。
歌い方にも、新しいトライができる。

ロックンロールの名曲をレゲエに変えて演奏してみると、自分たちのサウンドに近づいた曲になった。

ライブでコピー曲を一曲だけはさんで演奏したときに、ファンが総立ちの大合唱になって、今までになかったような盛り上がりになった・・・・・・。

1/26/2008

デジタル音楽の行方/2005年12月














デジタル音楽の行方/著者: デヴィッド・クセック&ゲルト・レオナルト


レコードレーベルが果たせる残された役割は、アーティストが従来のレコード契約を結ぶ際に譲り渡す法外な経済的、芸術的、そして個人的な権利に明らかに釣り合わなくなっている。



いずれはマネージャーがマーケティングからツアーやマーチャンダイジングにいたるまで、ビジネス上の決定の際に中心軸としてもっと大きな役割を演じることになりそうだ。マネージャーの名声と富は直接彼らが手がけるアーティストと結びついているので、マネージャーが指導的な役割を果たすのだ。それはアーティストにとってとても好ましい構造であり、伝統的なレコードレーベルよりもずっと深いレベルの強調関係につながりうる。マネージャーが流通経路、マーケティングの代理店、広報担当者、技術に関する契約、そしてスポンサーを選択するのだ。賢明なマネージャーならば、独立したミュージシャンビジネスとしてアーティストを成功に導くことで新たな音楽経済を成長させるだろう。



人間である以上、そこから生まれる感情的なつながり、つまりトーク番組の訴求力がラジオの魅力を保つかもしれない。ラジオが生き残りたいのなら、音楽やニュースを提供する個人的なつながりを維持しなくてはならないけれども、衛星ラジオネットワークのシリウスやXMラジオが行っているように、デジタル技術も受け入れないといけない。


アーティストがレコードを五十万枚以上売らなければ成功とはいえないという考えは、おおかた音楽企業カルテルが自分達の巨大な間接費を埋め合わせようと広めた奇妙な神話である。
















種を撒いてきちんと手入れすれば、ニッチ市場は非常に儲かる可能性がある。音楽のような無形の商品の場合は特にそうだ。
この分野には、サービスやテクノロジーの企業だけでなく抜け目のない新参の企業家にも大きなチャンスがある。



我々みんなにとって幸運なことに、ひとつのサイズをすべてにあてはめるタイプのマスマーケティングや、世界規模のオーディエンスを相手にする世界規模のスーパースターの時代は急速に終わりを迎えつつある。もうまもなく、流通は――そしてさらに重要なことに、マーケティングも――デジタルな手法に移行するだろう。最終的にはマーケティングは流通と同義になる。消費者はすでに音楽を発見し購入する場所、そして音楽を受け入れる形式にし関してとても多くの選択肢を手にしている。それが音楽を借りるのか、所有するのか、あるいは「失敬する」のかは関係ない。デジタルの力を得た音楽ファンは、ある種の流行の仕掛け人であり音楽ビジネスの活力となる。



 間違いなく、インターネットはオンラインでアーティストを売り込み、アーティストとファンの間の有益な関係を育てる大変効果的なツールである。そのわかりやすい例が、音楽をダウンロードして視聴できたり、CDが購入できるアーティストのウェブサイトである。そこではアーティストの関連商品も販売できる。ウェブサイトはそこで落ち合って音楽についておしゃべりするファンのコミュニティを主催できるし、メーリングリストを運用し、アーティストとファンの間に直接的なつながりを確立する素晴らしい媒体の機能を果たせる。
 ウェブは、アーティストが自分達のキャリアより自覚的にコントロールするための優秀なプラットフォームを提供する。ダイレクトマーケティングを通じて、アーティストとそのマネージメントは、すべての仕事をこなすレーベルの働き詰めのスタッフに頼る必要なくファンにアピールする宣伝活動を管理できる。


 アーティストはウェブを介してツアー、ショー、コンサートの宣伝ができるが、もし会場でアーティストが直接チケットの予約ができれば、チケットの販売さえ可能である。これは一般に大きな会場であったり、主要なコンサートプロモーター経由ではできないが、小規模なクラブやショーのチケットであれば、多くの場合オンラインで販売できる。少なくともショーの宣伝はできるし、コンテストやその他のオファーがファンを引きつける――コンテストのグランプリはバックステージパスが、アーティストに直接会って話をするチャンスが得られるというわけだ。
 当然ながら、インターネットはニッチ市場を対象にするとき最大限の力を発揮する。アーティストがギグで演奏したり、ショーの会場でレコードを販売したり、何らかの草の根運動を起こすことで潜在的なオーディエンスを見つければ、インターネットがこのオーディエンスをターゲットとし、その数を増やすのに利用できる。オーディエンスを知り、彼らの関心を引き、友達に進めるよう促し、似ている他のアーティストを見つけ、そして関係性を広げることすべてが、アーティストのキャリアを前進させる原動力になりうる。音楽が実際に売られる場所は関係ない。だが、アーティストが直接販売すれば、ずっと割がよいかもしれないのだ。



ニッチマーケティングにより、レーベルは小規模なファンに集中して取り組めるようになり、特定のグループのニーズを実現すべく彼らへのマーケティングメッセージに磨きをかけることができる。アーティストとファンの間で個別のアプローチや直接的なつながりを提供するレーベルは、似たジャンルの他のアーティストやレーベルとの相互リンクを検討すべきだ。「友達に紹介(Tell-a-friend)」の署名は、サイトメンバー登録やメーリングリストへの登録を促すインセンティブを与える。あるいはアーティストとのライブチャット、バックステージパス、優先チケット、個人向け商品、衣料品、ポスター、ゲーム、そしてまもなく発売されるアルバムからの曲を含む有料音楽サブスクリプションサイトは、音楽ファンにまったく新しい体験と、企業と消費者の間で強い関係性を生み出すだろう。



皆かつてないほど携帯電話に依存しており、その依存度は増え続けている。携帯電話だけでネットサーフィンできるし、電子メール、テキストメッセージ、スポーツのスコア、そして株式相場のチェック、着信音の取得、画像転送といった幅広い活動に参加できる。オンラインコミュニケーションはもはやコンピュータが独占する領域ではない。情報とコミュニケーションの広大なネットワークが、携帯電話を持てば誰でも利用できるのだ。



自分達の携帯電話のカスタマイズ


持続的な関係性の見返りとして無料コンテンツを提供することは、ミュージシャンとファンの間に直の接触を育む素晴らしい機会になる。これが音楽を売り込む非常に有力な手段になるだろう。



現在大手のレコード会社は、音楽の製作会社というよりも映画の配給会社のような役割を果たしている。新しい音楽を一般大衆に与えるための組織、資本、影響力はあるが、次代のホットなアーティストを自ら開拓する能力はほとんどない。インディーは、明日のスーパースターを試す非常に貴重な場なのである。



「メジャーレーベルはマクドナルドがハンバーガーを売るみたいに音楽を売りたいようだが、我々はそれよりむしろ角を曲がった通りにある小さなグルメ向きのレストランのチェーン店でありたいんだ」とインディーレーベルのアリゲーター・レコードの創始者ブルースイグロアは語っている。「重要なのは料理だ――いくつ料理を出しているかではなくてね」独立レーベルは芸術性でも創造性の面でも新しい音楽最先端にいる。また新しい音楽とは一時の流行ではなく、音楽市場からのもっとも成長率が高い分野である。


音楽は今後ますますデジタルネットワーク上で直接販売、配信されるようになるだろう。今ではオーディエンスに直接手を差し伸べ、インターネット経由で音楽を届けたり、ほぼ毎日新しいサービスが登場するオンラインで、人気が爆発中のデジタル音楽配信サービスを活用できる。さて、もっとも重要なのは忠実なファンや消費者と有意義な関係性を作り上げることである。アイランド・レコードの前社長であるダビット・シガーソンは次のように語る。「支配権が流行の仕掛け人や門番の手から大衆の手に移る傾向が加速している」。



サンクチュアリのビジネスには、レコード音楽、ビジュアルエンターテインメント、アーティストやプロデューサーのマネージメント、ツアーのサポーート、ライブのブッキング、音楽出版やライセンシング、ニューメディア、マーケティングのサービス、レコーディングスタジオ、書籍やDVDの出版、そしてマーチャンダイジングが含まれる。


この戦略はアーティストが長く生き残れる可能性が潜在する。


敬意。 もともと著作権が上げる信条の根本目的、クリエーターの権利と利用者の権利の健全なバランス、そしてフェアユースとファーストセール・ドクトリンに敬意を払わなくてはならない。

共有。 音楽はオーディエンスの間で共有できてしかるべきだ。そのプロセスで実際のメディアファイルをやりとりするかどうかは、音楽を共有するコミュニティの持続可能性に比べれば重要ではない。

携帯性。 人々はますますモバイルになっているので、デジタル音楽もモバイル、かつ「無線」になる必要がある。

透明性。 すべての関係当事者(つまり、消費者、供給者、クリエーター)はどのように利益が分割、分配されるべきかということについて相互理解を醸成し、維持するよう努力しなければならない。透明性がその鍵になる。

公正な価格設定。 音楽製品や音楽サービスは市場主導で、ロケーション、タイミング、アクセスレベル、ユーザーの権利、そして他メディアとの比較価値に関し、常に実際の市場価値に従って価格設定がなされる必要がある。

音楽への容易なアクセス。 すべてのものが常にいかなる場所でも入手でき、どの機器でも再生可能であるべきだ。



我々は未来の音楽企業は、アーティストのマネージメント、出版、ツアー、マーチャンダイジング、そしてレコーディングをはじめとする複数のビジネスに携わるようになると考える。アーティストのブランドがビジネスの原動力となり、アーティスト、企業、そしてファンの間のウィン―ウィン―ウィンの経済状態がリスクを緩和し、投資へのリターンの予測をしやすくする。ごく少数のアーティストの大きなCDセールスに依存する、従来の一割の成功に期待するモデルに賭けるよりも、現在進化中のビジネスモデルならばアーティストをより効果的に市場テストできるので、リスクを複数の収入源や多様な形態の「製品」に分散することで、現在よりもずっと小規模でやっていける。


この新しいミュージシャンのビジネスモデルは、レコードレーベル、マネージメント会社、出版社、そしてマーチャンダイザーの役割を単一の事業体、さもなくばサンクチュアリ・グループのように関連する企業体の集合に結びつける。


企業は、アーティストが原版所有権を保持し、その企業に限られた期間ライセンスのみを与える(リースする)契約をアーティストと結ぶ。アーティストはレコーディングを行ない、企業はそれを固定化されたデジタル形式で市場に出し、販売する製品を作り、マネージメントとライブツアーの手配を行なう。企業はまた契約期間内に書かれた全楽曲の出版社の役割も果たす。これが、アーティスト、マネージャー、レコード会社、そして出版社の利害をすべての収入源を分割する単一の事業体にまとめることで、契約したアーティスト毎の投資に対する
潜在的なリターンを増加させる。このモデルは、新しいミュージシャンに資金を調達するリスクを最小化することで――また潜在的リターンを最大化することで――関係者にかかる制作、流通、宣伝のコストを低減することを踏まえている。


「結局のところクリエイティブ産業は、ことによるとアーティストの収益から手数料を得ることで、配給業者というより宣伝係として活動するという新しい役割に順応しなくてはならないのかもしれない」。



突き詰めれば、デジタルコンテンツに関して一番重要なことは、常に露出の機会を得て知ってもらい、そしてその後でファンをお金につなげることである。これこそ、大半のメジャーレーベルの戦術の中でいまだに手が届いていないように見える重要な課題である。デジタル技術は、料金所の先のほうに動かすわけだ。手前ではない――もし消費者が自分の欲しいものだと十分納得できれば、消費者はいつでもそれにお金を支払う。



http://www.futureofmusicbook.com



Berkleemusic
http://www.berkleemusic.com


音楽が高度に産業化していく家庭であまりにも中間業者の力が大きくなり過ぎてしまい、アーティストと消費者(ファン)の距離が離れてしまっていたのだ 。

「ヒットと音楽ビジネスの可能性」他メモ、メモ










「ヒットと音楽ビジネスの可能性」

「いい企画を出せる人の習慣術」(小泉十三著、河出書房新社)

『セレンディピティ』という言葉がある。『求めずして思わぬ能力を発見する能力』
「偶然からモノを見つけ出す本」(澤泉重一著、角川書店)
「ごく当たり前のことが、ごく当たり前のままに書かれている」ということだそうです。

読者の多くは、新奇な考え方、生き方の提案を求めているのではなく、じつは、日々を生きる中で8割がたは理解できている当たり前の考え方、生き方を求めている。
あと残りの2割について、少しだけ自分の知らない生き方があることが確認できればいい。そういう考えに至ったとき、筆者はベストセラーの秘密をかいま見たような気がしたと言っています。

日本人はともすると、成功した人間のあら探しをたがるか、少なくとも企画する人間は、他社のヒット作を生きたテキストに変える必要があるのではないか、と言っています。

僕らが売っている楽曲だったり、作っているヒット曲というのは、楽曲を売っているのではなくて、実はアーティストを売っていることではないか

アーティストの生み出す本でもライブでもTシャツでもCDでもいいのですけれども、それに対して対価としてお金を払って所有したい、というような魅力のあるアーティストを僕らが次から次に輩出していかないと、この問題というのは止まらない

予定調和になったらだめ、負けると思っているのです。

テレビもそうでしたが、最大公約数の時代から最小公倍数の時代に来ている

僕らの世界というのは千に三つではないですか。皆が怪しい種を持っていて、どれが当たるか分からないという、これが大事なのです。

ヒットを出すというのは思い込みだと思う。正解がないですから、自分で思い込むしかないのです。

今あれが流行っているから、今、流行っていないものをやるべきだというのが僕の理論なのです。
俺はこれだ、もう絶対これが好きというものをやり続けるということが一番なのではないか。

ヒットを出すためには、そこにいかに止まっていられるか、自分の思い込み、この次はこれだと信じて疑わないということに強い人が、ヒットを出し続けるのではないかなと思うのです。

12/14/2007

小椋佳









小椋佳

人はいくつになっても迷いを抱えて生きている。

その本当の人生をしっかり受け止め、未熟を良しとして生きる。一種の開き直りです。

歌詞を音としてはめ込んでいるようなくだらない歌が出回っている現状に、うんざりしてね。

僕にとって歌は戯言ではなく、真剣は遊びなんです。

12/09/2007

海外、音楽、日本









海外、音楽、日本


1、 海外留学で腕を磨き、海外にも拠点を持ち、年に何度も日本との往復を繰り返しながら創作活動を行う人が増えた。
2、 そんな人たちは、きっかけはどうであれ、海外で通用する実力と音楽性を備えている。
3、 彼らにとって、音楽の舞台は初めから世界なのである。
4、 常に目は世界を向き、あらゆる国のアーティストの共演を視野に入れ、世界各国の聴衆に向けて音楽を発信している。
5、 もうひとつ、彼らには言葉の壁はない。言葉だけではない。民族を超え国境を越え、高いハードルを簡単飛び越えて活動の場を広げていく。
6、 そのパワーは今まで世界の人が抱いていた日本人のイメージ「おとなしい」「音楽が優等生的でおもしろくない」という“常識”を塗り替えた。


ポップス編
ヨーロッパのポップスの中心であるイギリスの音楽環境も日本にやや似ていて、仕掛けをしてヒットをつくることができる。言い換えれば、音やビジュアルのおもしろさがあれば、日本人でもシングル・ヒットを狙える可能性がある。ただし、アーティスト自身が受け入れられるわけではないので、望みは薄い。
いずれにしても、アジアやヨーロッパの音楽市場は、世界的規模で見れば、所詮ローカルであって、本当の意味での世界的ヒットは、アメリカからしか生まれない。アメリカには白人のネットワークががっちりとあり、そこに黒人のネットワークが15,6年かけて築かれ、いまではさらにヒスパニックのネットワークが融合している。
日本のポップスの世界的ヒットはあり得るか?今後、アジア人のネットワークを築くかが、課題だか、その前に最大の障害となるのが言葉だ。歌い手ではない。仕掛け人が売り込むための言葉である。プロデューサーなり営業部門の人間が、曲をアメリカのネットワークにのせられるだけの言葉の力を持ってないと、聴く人たちの耳に音を届けることができない。
チボマットや少年ナイフがアメリカに受け入れられたのは、彼女たちが、ちゃんとした英語、聞き取れる英語で仕事をしているからだ。ただし、受け入れられたといっても、カレッジチャートの域をでないが。英語と言う壁を問題にしない受け入れられ方を探るとすれば、雅楽の東儀秀樹か。欧米人が逆立ちしてもかなわないオリエンタル・ブランドの力がある。

でゲームは?
世界標準になっているのではないか。
浮世絵と漫画、アニメにヒントあり。
どちらも西洋的な2次元とは異なる独特な空間表現があるから。それが世界に評価されてる?
デジタルなからくり玩具

11/20/2007

中島みゆき最新歌集・1987-2003





中島みゆき最新歌集・1987-2003



私の気に入った詩



クレンジング・クリーム

十二月

たとえ世界が空から落ちても

夜を往け

ふたりは

トーキョー迷子

殺してしまおう

誕生

あどけない話

かもめの歌

空と君のあいだに

バラ色の未来

風にならないか

思い出させてあげる

永遠の嘘をついてくれ

阿檀の木の下で

誰だってナイフになれる

わたしの子供になりなさい

4.2.3.

帰省

粉雪は忘れ薬

街路樹

銀の龍の背に乗って

寄り添う風



田家秀樹

中島みゆきという人は、きっと発表していない作品を沢山持っているのだと思う。それをその時代やその時の心境や気分に合わせて発表してゆく。もちろん新作とともにだ。この歌集が、発表年順になっているのは、そういうことでもあるのだと思う。重要なのはいつ作られたかではなくいつ発表されたかということだ。

11/07/2007

奥田民生、日経


奥田民生、日経
音程って揺れるでしょ。ビブラートをかけるとごまかせる。

カラオケ的歌い方と言うか。本当にうまい人はビブラートをコントロールしてやってますから、さらにうまくなる。

ごまかしてる人は、うまく聞こえるけどちっともうまくない。

ソングブック/ニック・ホーンビィ


ソングブック/ニック・ホーンビィ

ピンクフロイドの音は、風通しが悪くて人工的だった。おまけにプログレッシグ・ロックのやつらは、まるでクラッシクの音楽家になりたがっているみたいで、なぜだかポップを見下している感じだった。彼らについて行っても、その先は袋小路。未来はどこにも通じちゃいなかった。

イングランドのポップ・ミュージックを聴いてもイングランドは聞き取れない。・・・・セックス・ピストルズはストゥージスの歯並びを悪くして、やり手のマネージャーを付け加えたようなもの。

出来の悪いものでも許せる気持ちになったのは、最良の歌とはただただ美しく、そして美しいものとは、とくにポップ・ミュージックにおいて、稀少品であるからだ。そう考えてみれば、美しいものを抱きしめずにいるなんて、自傷行為にひとしい。もうぼくは、ポップ・スノッブでいる余裕などない。

ジャクソン・ブラウンの音楽には、若いころなら反応できなかっただろうと思わせるものがたくさん存在している。当時だったら、その繊細さやはかなさを、ただつまらないと勘違いしたはずだ。

ぼくは新しいものを発見しつづけたい。証券取引所に名前があるような店では、発見なんて出来やない。だからあなたには、ウッドや、あなたの家の近所にある似たような店で買物をして欲しい。でなければ、いつかきっとこうかいするはずだから。

音楽を愛してはいるけれど才能のない人間でも素晴らしい音を創造できる。必要なのは耳と、ソフトウェアと、センスのよさだけ。ファンという人種だけが持つ大いなる魅力が、これでようやく世に認めらるようになったわけだ。

音楽を創造するとは―どんな芸術でもおなじだが―空気の薄いところから何かを引きづりだし、もともと何もなかったところに何かを生みだすことであるはずだ。

10/30/2007

感動をつくれますか?/久石譲





久石譲 感動をつくれますか?





創造力で大きな仕事をしている人たちは予定調和を嫌う。

「作曲家として最もプライオリティを置いていることは何ですか?」と問われたら、僕は迷わず「とにかく曲を書き続けること」と答える。



仕事は”点”でなく”線”だ。集中して物事を考え、創作する作業を、次へ次へとコンスタントに続けられるかどうか。それができるから、作曲家です、小説家です、映画監督ですと名乗って生きていける。



優れたプロとは、継続して自分の表現をしていける人のことである。

一流とは、ハイレベルの力を毎回発揮できることだ。

確実にたくさんの曲を作り続けていくことは、気分の波に流されない、という意識が僕には強くある。



結局、いかに多くのものを観て、聴いて、読んでいるかだ大切だということだ。創造力の源にある感性、その土台になっているのは自分の中の知識や経験の蓄積だ。そのストックを、その絶対量を増やしていくことが、自分のキャパシティ(受容力)を広げることにつながる。



ドラマのストーリーも音楽のメロディも、通俗的すぎるくらいのほうがインパクトが強いことがある。つくり手がへんに気取っているようなものは、人間味が感じられず結構つまらないものになりやすい。あざとくても、下世話でも、そういうものが求められているのならば、堂々とやりきってしまうほうがよい。



楽な人生などない。みんな何かしら人知れず苦労しているものだ。だから自分から進んで苦労する必要はない。苦労自慢をする人には、自分を冷静に見つめる第三の脳、客観視能力がない。ひいては、知性が感じられない。

普通の苦労は人間の幅を広げることにはならない。幅を広げたかったら、知性を磨くことと本当の修羅場をくぐりぬけることである。



才能豊かな人は劇薬みたいなものだ。プラスの影響力も強いが、毒もある。間違えて服用したら死ぬ。そういう人たちと互角に与していくにはそれ相当の覚悟が要る。専門的な能力が試されるだけではない。強靭な精神力が問われる。

ものをつくる人間に必要なのは、自分の作品に対してのこだわり、独善に陥らないバランス感覚、そしてタフな精神力、この三つだと思っている。どれが欠けてもうまくいかない。



音を出すことで何を伝えたいのか。音楽をやることで表現しなければならないのは、そこだ。ところが、技術的なところで自分の立派を追い求め、そこに価値を置いているだけだと、どんなにうまくても、音楽にはならない。ピッチやリズムではない。



「トップの地位に登りつめたことのある人間は、根本的に何かが変わる」



僕は、一等賞を取ることが人間としての目的だとは考えないし、勝ち負けの結果や人の序列といったものにも意義を感じてはいない。むしろ、そんなものは人間の本質とは関係ないと思っている。だが、結果としてトップを取るだけの力を持った人は、精神的に誰よりも強さを身につけているということは歴然たる事実だと思う。他者との戦いに勝てる力のある人は、自分の身にふりかかる難題やさまざまな誘惑も克服していけるだろう。今日のように行く先を見据えにくい時代には、そういう強さを持つことが有益なのではないだろうか。





10/18/2007

Jポップの心象風景


「Jポップの心象風景by烏賀陽弘道」



「うたや歌い手・演奏者が聴き手に与える情報」とは、必ずしもレコードディスクに記録された音楽の内容だけを指すのではない。歌手やバンドのふるまい、行動、発言、コンサートのあり方、テレビCMで作られるイメージ、彼らを囲む大衆の反応、あるいはメディア上の報道のされ方など、歌手やバンドが主体ではない情報まで、大衆が受け取る情報はすべて含まれる。こうした情報をすべて受け取ったうえで、大衆は認識を形成するからである。

ユーミンについて、

鶴見はさらに、日本の歴史に登場するアメノウズメの後継者たちを何人か同書で分析し、彼女たちに共通する要素を次のように分類している。

(一)美人ではない。しかし、魅力がある。
(二)なりふりかまわない。世間体にとらわれぬ自由な動きをする。
(三)その気分に人びとをさそいこんで一座をたのしくする。
(四)生命力にあふれている。それが他の人たちの活気をさそいだす。
(五)笑わせる。人のおとがいをとき、不安をしずめる。嘘をついてでも、安心させる。
(六)わいせつを恐れない。性についての抑制をこえるはたらきをする。
(七)外部の人が、その一座に入ってきても、平気である。開かれた心を持っている。

鶴見がいう「アメノウズメたち」には、こんな名前が挙がっている。オカメ、オタフク。ストリッパー・一条さゆり。終戦間近から歌説法で天皇制を批判した天照皇大神宮教の教祖・北村サヨ。小説家・瀬戸内晴美(寂聴)。同じく田辺聖子。私は、鶴見が指摘するアメノウズメ像は、ユーミンにもよくあてはまると思う。


前述の林真理子との対談で、ユーミンは「お客様の前でマゾです。サービス業じゃないけど、ステージで、これでもか、というぐらいサービスする」と冗談めかして語っている。ファンであれ一見であれ、客が楽しめないと気が済まないらしい。「コンサートでは、ファンじゃなくても楽しめるものをやろうと思っている。(・・・)私はプロレスも映画も歌舞伎も(含めた――引用者注)、全部の娯楽の中で並べられるようなステージをやりたいと思っている」(同前)


つまりユーミンは、大衆が経験しながら言葉にできない感情を、歌に乗せて言葉にする。すなわち、普通の人間には聞くことのできない「心の発する声」に耳を傾け、それを誰にでも理解できるような「言葉」と「歌」に翻訳し、表現する媒介者が彼女なのだ。

ブルーハーツ(ハイローズ)について、

この『人にやさしく』(八七年)という歌のタイトルがそのまま示すように、甲本の詞には、精神世界の価値を追求する傾向が強い。そんな歌が、物質主義に酔いしれる社会にぽんと出ると、本人の自覚とは無関係に「異議申し立て」「反抗」といった俗語で理解されてしまう。これが、当初ブルーハーツが「パンク」と呼ばれた理由である。ブルーハーツをよく聴くと、七〇年代末に英国に現れた一群のパンクバンドのように攻撃的でも否定的でも、冷笑的でもない。むしろその逆である。

ニューヨークの近郊、「テレビ二台とキャデラック二台」を持つ、物質的に裕福な家庭に育つ少女が、物質的な豊かさとはうらはらの精神的な空虚感、不安を、ラジオからふと流れてきたロックンロールによって一瞬のうちに救われてしまう。このルー・リードの歌う世界に、甲本が語る十二歳のときのロックとの出会いは、文化や国の違いを飛び越えて酷似している。理性を超えた神秘体験という意味では、音楽は文化を超えて宗教的ともいえる「救済体験」をもたらすようだ。


今もロックは「生きることの不安から解放してくれる救済体験」であるがゆえに、甲本はデビュー以来十五年以上、休むことなくバンド活動を続けているのではないか。つまり彼は、今も自分自身の救済を求め続けているのだ。だからその視点は低い。聴き手と同じ救済を求める者の側にいる。甲本ヒロトの姿がどこか布教者に似ている理由は、そんなところにあるのかもしれない。


スピッツについて、

――スポーツや勉強ができるというのは、社会が用意した価値観ですよね。そこで自分は評価されない存在だ、と。
草野 あと「人にあてにされたい願望」っていうか・・・・・・そうですね、今はすごく恵まれているというか、ステージに出て行けばお客さんがわーっと期待して出迎えてくれるような状況があるけど、小学校のころ、「眼中にないっ子」だったころは、川で溺れ死んだところで両親ぐらいしか泣いてくれないのかな、と。


・希望に対する「絶望」
・受容に対する「孤独」
・喜びに対する「痛み」
・自信に対する「不安」
・信頼に対する「不信」
・安定に対する「不安定」


B'zについて、

ゆえに、B'zがエアロスミスやジミ・ヘンドリクスといった「大家」を上手に真似すればするほど、日本人は無意識に認識するはずである。彼らが「権威」である欧米ポピュラー音楽の精神性とその権威の後継者であることを。特に理由もなく感じてしまうはずである。「カッコいいな」「上手だな」と。いずれにせよ、上手なコピーであることは、B'zの権威、あるいは人気を高めこそすれ、減じることはまったくないのだ。

10/17/2007

Jポップとは何か-巨大化する音楽産業-



かなり古い本(3年くらい前??)だが、一応復習兼ねて。

「Jポップとは何か-巨大化する音楽産業-」 鳥賀陽弘道 著



シーケンサー+MIDI+サンプラ-

デジタル化でいちばんのとばっちりを受けたのがスタジオミュージシャンだ。

音楽制作の現場にデジタル技術が入って起きた変化をまとめておく。
①演奏や録音から「手作業」が激減した。
②楽曲をつくり演奏する作業が「集団」から「個人」になった。


その場のミュージシャンの演奏の応酬、やりとりというか化学反応で「とんでもないものができちゃった」というのが少ないんです。


音楽録音が「集団作業」から絵描きや小説家と同じ「個人作業」になりつつあります。
でも第三者の耳が介入しない一人の作業で創ったものは、どうもインターネットで公開されている個人日記のような感じがするんです。
自分で自分のつくった世界に浸って喜んでいるといか・・・・・・。


プレイヤーの独自の楽器の音とかは出てこない。どれも似たような音になる。音楽にとってはマイナスです。
それでも音がきれいなので、スタジオに持ってこられると直しづらいんですよ。

短時間でどんどんつくる、音楽自体が消耗品の時代になった。

音楽は「作品」ではなく「商品」になったんですよ。


これが重なるうちに、日本のメジャーレコード会社は、物議をかもしそうな歌の発売をことごとく自主規制する、神経質なまでのリスク回避体質に陥っていった。
違法行為といった明らかなスキャンダルだけではない。現実の生々しい社会現象を取り上げたり、批判的に歌ったりする、社会性を帯びた作品でさえ敬遠される。


広告は基本的に、最大多数の消費者が商品を購買するよう説得するのが目的であり、そのため 「社会のマジョリティが合意済み、あるいは合意可能」な表現の範囲内でつくられる。


逆に音楽表現は本来、マジョリティの合意を目的としない。
マジョリティが合意していなくても、ふだんは社会に届かないような少数の人々の声を言葉にしたり、マジョリティが気付かないような内容を歌にして世に出したりできる、極めてレンジの広い表現形態である。

しかし、タイアップの成功のせいで、日本のメジャー音楽産業は、この広い表現レンジの大半を自ら放棄してしまった。
その意味で、タイアップの力でヒットチャートの上位に顔を出すような曲は、最初から表現の多様性を放棄し、最大多数が合意可能な範囲でつくられている。


筆者は「音楽が企業の営利活動と手を結ぶことそのものが商業主義で許されない」というような原理主義的な芸術至上主義には、賛同しない。
しかし、ヒットを出すという目的のために広告タイアップの力を借りるなら、音楽は、その表現の自由のかなりのレンジを放棄しなくてはならない。


こうして、通信カラオケの登場以降、消費者が歌手やバンドを見る視点に変化が生じた。
CDを買う動機にも、その音楽や歌手が、購買者のセルフ・アイデンテティーを定義しうるかどうか、つまり購買者にとって「自分にふさわしい音楽や歌手かどうか」が重要な要素になったのである。


そこでは購買動機として「その曲が好きかどうか」以外に、歌い手やバンドのファッション、容姿、マスメディア上での振る舞いや発言、果てはCDジャケットや広告のデザインなど、音楽以外の要素が重みを増す。


自己愛型消費で重要なのは「うた」そのものではなく「そのうたを購入すると、どんな自分になるのか」だからである。


消費者がポピュラー音楽を楽しみたいと思ったとき、日本はその選択の多様性が乏しい環境にある。

まず、価格の多様性がない。日本盤CDの価格は「再販売価格維持契約」(再販制)によって、全国一律にレコード会社が定めた価格が守られているためだ。
日本のレコード産業は、価格競争という他産業ならごく当たり前の競争を公的な「規制」によって免除された特殊な業態だといえる。


特にアメリカと比べると、日本は音楽を公共財として扱う傾向が非常に少ない。

わかりやすい例でいえば、アメリカに比べFM局の数が非常に少ない。
FMラジオとは、CDとちがってお金がなくても音楽にアクセスできる手段である。
したがってニューヨークでは、貧しくても音楽に接する機会が保たれている。

一方、東京圏で聴取可能なFM局はせいぜい十局だ。
しかもその局も内容にそれほど大差はない。トークが多くて音楽が少ない。
音楽はヒットチャートものが多い。

コンテンツの多様性では、ニューヨークには遠く及ばない状態が長く続いている。
こうした環境では、商品として音楽を買うことだけが音楽へのアクセス手段になってしまう。
言い換えれば、お金がなければ、音楽にアクセスする機会が極端に少なくなる(有線放送やCS放送はFMに比べてコストがはるかに高い)。

貧乏か金持ちか、所得によって音楽へのアクセスに差が出る。


日本のレコード価格は再販制度によって固定されている。
おかげでインフレーションの間ずっと、インフレ率分の「実質値下げ」を享受できた。
ところが、消費者物価指数が下がり始め、貨幣価値がデフレーションに突入した九七年ごろを境に、CDの価格は「実質値上げ」に突入した。

レコード産業は「インターネットからのダウンロード」「CDをパソコンで焼けるCD-Rライターが普及してコピーが増加したこと」「携帯電話にお小遣いを奪われた」などと様々な「CDの売れ行きを減らした犯人」を挙げている。
もちろん、どれも多次元方程式の変数のひとつではあるだろう。


CDの売り上げは急減しているが、日本人の音楽への需要は衰えるどころか、むしろ増えている。

「レコード不況」ではあるが「音楽不況」ではないのだ。
着メロやDVDという新しい音楽メディアが登場し、CDが食われているというだけなのだ。
つまり、音楽を消費者へ運ぶメディアの一部が、CDから着メロやDVDという新興メディアへと移行し始めているのである。


モンゴル800がメジャーの力に頼らずに成功できた環境のひとつには、メールやウェブサイトというインターネット・マスコミュニケーションの存在が間違いなくある。
かつて、テレビ・ラジオや雑誌・新聞など、旧型マスメディアにプロモーション媒体としてアクセスするには、専従の宣伝スタッフや予算を持つメジャーレコード会社が独占的に有利だった。

が、インターネットという安価かつ簡便な自己発信型マスメディアが登場したおかげで、インディーズとメジャーの間にマスメディアへのアクセス力に差がなくなってしまった。


インディーズの成功が示したのは、かつてメジャーレコード会社が独占していた財産「コンテンツ(楽曲・歌手)の開発能力」「マスメディアへのアクセス力」「レコード録音施設」「販売・卸しの流通網」「資金力」「組織力」がいずれもメジャーの独占物ではなくなりつつある、という事実である。

つまり、かつては「メジャー会社からデビューするのがプロデビュー」だったのが「プロデビューするのにメジャーレコード会社である必要はどこにもない」という時代が来てしまったのだ。



CDが売れなくなったことについて、「外部の敵」を非難することには熱心だが「自分たちが送り出す楽曲は、今のままでいいのか」という真剣な議論や検討の声が聞こえてこないのだ。

そういう反省がないまま「外部の敵潰し」ばかりを続ければ、リスナーの反感を買うだけの結果に終わりかねない。

そろそろ「タイアップなどなくとも、人々の心に響くうたをつくろう」というごく単純明快な「製品内競争」が始まってもいいころではないだろうか。

10/16/2007

阿久悠語録1998


小室くんがヒットしたのは彼らダンス系の人々に力があって、その間、言葉で闘う側が無力だったと考えるべきです。

文句を言う前に、サウンドを中断してもいいほど引かれる言葉を提示しなくてはいけなかった。。

9/22/2007

8/22/2005 日本経済新聞



8/22/2005 日本経済新聞





膨大な情報が世界を駆け巡る。限りなくゼロに近づく情報交換のコスト、不特定多数につながる開放性・・・・・・。「知」の加工や深化を通じ、物質文明では到達できなかった情報文明へ歩を刻む。

 

 

万人が楽しめる時代が到来した。「現行の補償金制度は権利団体を通じてレコード会社や大先生だけに著作権料が戻る。団体に属さないクリエーターは蚊帳の外だ。彼らにきちんとお金が戻る、新しい仕組みに作り替えるべきだ」(穂口氏)

 

補償金制度のみならず、著作権の仕組み全体を見直す機運もある。小委員会の主査を務める中山信弘・東大教授は「著作権法は(問題の)吹きだまり的様相を呈している。現行法が社会の要請に応じうるものなのか、問い直す必要がある」と主張する。

9/20/2007

再び AOR?



AOR?



当時のカウンター・カルチャー

 

ベテラン勢による原点回帰的な試みから始まったアンプラグド

 

 

AOR=Adult Oriented Rock。お馴染みの図式である。しかし"AOR"という表記

で本書のような作品群をイメージするのは、それこそ日本の音楽ファンだけだ。米国でA

ORといえばAlbum Orientedの略であり、"R"はRockとRadioの双方を意味する。つ

まりシングル・ヒットを指向せず、アルバムをトータルに聴かせようとするロック、あるい

はそれをオンエアするFM局、そんな言葉だった。日本でいうAORはAC(アダルト・

コンテンポラリー)と呼ばれ、ここにはフュージョン系のインストゥルメンタルや、クワ

イエット・ストーム系のブラック・ミュージックも含まれる。しかしアルバム・オリエン

テッドという捉え方は、あながち的外れではない。それは全盛期のAORには、生活を彩

るBGMとしての効用があったからで、アルバム1枚丸ごと楽しめるというのも重要なフ

ァクターだったのだ。

 

最近は1曲良ければOKという傾向が見受けられるが、これには断じてノーと言いたい。

AORと呼ばせるには、トータライズされたテイストが必要なのだ。

 

スタイルを楽しむだけでなく、同時に感情や精神性を共有するための音楽なのである。

 

ポップ・ミュージックに、もっと大人っぽいサウンド、つまりジャズやソウル・ミュージックの

エッセンスを加えてみたら・・・

 

"大人のゆとり"を感じるヴォーカルのセンス

 

トロピカルなリラクゼィション・サウンド

 

センシティヴなアコギと揺れるとようなエレピの音色

 

トロピカル風味とレイド・バックしたムードを品良くまとめてみせた。

 

ぬくもりのあるメロディとハーモニーが素晴らしく、

 

ヒューマンなヴォーカルとまろやかなアコギの響き、

 

これぞ"エヴァー・グリーン・ミュージック"と呼ぶにふさわしいサウンドだ。

若葉が急に萌え出して、街に活気が甦る頃・・・・・・。

あるいは風の色がゆるやかに褪めてゆく夏の終わり・・・・・・。

音楽が決して流行やスタイルではないことを教えてくれる、そんな素敵な"なごみ"の1枚である。

 

キャスティングは相変わらず豪華でも、プレイは実にストイック。

 

ナイーヴかつピュアな心情

 

その芳醇なテイストと深いコクには、丹念に磨かれた技術とスピリットが息づいていた。

 

フランクスのヴォーカルと楽曲の質感は現在までまったく変わっていない。

 

安らぎの時間を演出してくれる。

 

バード・バカラックにも通じる美しいメロディを紡ぎ出す名ソングライター

 

温かい包容力を持たせた

 

妙な先入観や既成概念にあ捕らわれず、音楽のありのままを受け入れる。

 

映画のワンシーンを思わせるジャケットを含め、トータライズされたドラマティックな魅力は本作ならでは

 

圧倒的な歌唱力を持つスーパー・シンガーにして、"ミュージシャンズ・ミュージシャン"と賞賛される

凄腕サウンド・クリエイターでもあるジノ・ヴァネリ。

 

そのヴォ-カルは沸き立つようなエナジーと豊かな声量を持ち、しかもそれをコントロールし得る表現力と

絶対的なスキルも有している。

 



 情感豊かに仕上げた傑作

 

商業主義の業界と距離を置いた彼は、シンプルでシャープな音作りを試みたり、

ジャズに接近しながら、今も自分の音楽家としての欲求を満たすような創作活動を続けている。

 

熱気を孕んだマイアミ・ソウルの甘いムードと、哀愁を帯びたメロディ・ライン

 

無理をして音を重ねずに充分な空間を残している。だからストリングスやブラス、エレピのフェイザーが

とてもヴィヴィッドに伝わってくるのだ。それが彼自身が失わずにいる青臭さと相まって、独特の味にもなっている。

 

人生の光と影をくっきり映し出す。時と運命に翻弄され、ひとときの悦楽にもありつけない。

そんな男の哀愁と孤独を感じさせる、隠れた名盤だ。

 

都市の暗部まで知り抜いたホントの都会人には、彼らこそがリアルなシティ・ミュージックなのかもしれない。

 

どうしてこんなに優しいんだろう、どうしてこんなに穏やかなんだろう・・・・・・。

このアルバムを耳にするたび、そんなことを思う。

 

遅れてきたビートニク。

 

サウンドはスペース感を生かしたフュージョン寄りのハイブリッドなもので、

リズムは滑るようにしなやか。ちょっと投げやりなヴォーカルも、独特の雰囲気を放っている。

 

本末転倒かも知れないが、このアルバムを語る時には、どうしてもグレイドンの演奏及び

プロダクション・ワークを第一義にしておきたい。もちろんそれは本来、マークの才能を活かすために

嵩じた手段だった。

 

筋金入りの極上品だったワケ。

 

この作品もほとんどがミディアム~スローで、郷愁を呼ぶようなノスタルジックな旋律が特徴。

酸いも甘いも知った大人が、まだ青臭かった昔を振り返るようなアルバム

 

今にして思えば、確かに"クリスタル・ブーム"は女性リスナーを獲得し、AORをポピュラーにした。

しかしファッション化させてしまう両刃の剣でもあった。だがその根底を支えていたのは、

レコード店でメンバーを確認して"クレジット買い"するような、純粋な音楽ファンだったと思う。

サラッと聴き流しても雰囲気を楽しめる。それでいて、アレンジやコード進行を分析しても、

感心するほど奥が深い。それが当時のAORだった。

部屋でくつろぐ時、ハンドルを握る時、アウトドアに興じる時、恋人と愛を語る時・・・・・・。

いつもかたわらでAORが鳴っている。それが自然な時代だった。

 

タイアップという暴力的な情報操作でプロモーションを展開する昨今と違い、

良い音楽は口コミで広がってゆく・・・・・・そんな幸せな時代だった。

 

素性は純朴で優しいオッサンという感じ

 

常にマイペースを貫き通して活動しているベテラン・シンガー・ソングライター。

まったく飾り気のないシンプルな作風は、コンサバティヴとも言える。

しかしその素朴な味は、もはや彼の個性として確立。

 

余計なことを考えずにボサッと聴くには、とても気持ちの良いアルバム

 

しっとりした旋律に、フェミニンな詞。恋に悩み、愛に傷つき、それでもまた誰かを求めずには

いられない。そんな男のひとり言を綴った、悲しくホロ苦い詩(うた)の数々。

思春期の頃ならば、誰だってそんな想いをしたことがあるだろう。

 

日々の暮らしに疲れ、自分を見失いそうになった時、

こんなにも優しい音があるのを思い出してほしい。

 

商業化/大衆化を内包しているのが普通だった。なのに彼は実に恣意的で、純粋に音楽的洗練の

プロセスが聞こえてくる。本人の才能もさることながら、恵まれた環境が良質の音を生んだ絶好のサンプルだ。

 

私小説的に詩(うた)を普遍的で大衆にも通用する"歌"へと消化させた彼

 

骨太かつ臨場感のあるサウンドが打ち出された

 

彼らは気負うことなく、自然体で音を創ったという

 

纏ったファッションはその時々で変わっても、中身の人間まで変わってしまうワケじゃない―彼らはきっと

そう言いたかったに違いない。

 

音楽はスタイルじゃない。肝心なのは人間なのだと。

 

あの頃の高揚した空気感が、どれだけAORを輝かせていたか。またAORが自分たちの生活に

どれだけ潤いを与えてくれたか。その一体感の素晴らしさを実感し、次世代に語り継ぐことができるのは、

リアルタイム派だけなのだ。

 

季節やシチュエーションに関係なく、いつも五感で「海」を感じているかどうか。



たとえ都会に住もうとも、喧騒から離れて心を落ち着かせれば、何処からともなくさざ波が聞こえてく

る・・・。



オーガニック・テイスト



リラックスしてオープン・マインド



心に「海」を持っている人



ブルー・アイド・ソウル



ほのぼのした甘いヴォーカルと、ゆるめのアコースティック・グルーヴ