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1/11/2008

ノヴァーリスの言葉









ノヴァーリスの言葉。
人々がすべて死すべき運命を共有していることを悟る時、虚しい諍いは止み、地上に平和が訪れると言う。
自分の限界を知れば傲慢にはなれず、他人もまた自分と同様に限界に悩みつつ生きると知れば、その過ちに対して居丈高になる自分の醜さが見えてくる。
人間の限界を知れること。
それがすべての知恵の根源となる。

柴田翔 12/26/2007 日経夕刊

1/08/2008

「あの世、自然の摂理」









「あの世、自然の摂理」

会社にイエスマンばかり残した結果、一種の奴隷根性がとても発達した社員ばかりが残っているというような組織が珍しくない。

人は表向きは書いたモノや理屈で動くように見せるが、最後の決断は「心」が決める。

[あの世]
自分のことは二の次
名前など不要
まとめて考える
区別、差別なし
秘密がない
例外こそ大事
比較しない
感性と良心に従う
本音と建前が一緒
競争は悪、しないほうがよい
自由

[自然の摂理]
単純である
効率的である
調和している
自由である
あけっぱなし
共生している
ストレスはない

[貧しさ]
他人に思いやりが持てないのは貧しさゆえ。
上昇志向が強いのも貧しさゆえ(そういう点では、ハングリー精神がときに限定された領域での、いわゆる成功に必要とされるのはもっともなこと)。
他人と同じことをしたがるのも貧しさゆえ。ここでいう貧しさとは、経済的な貧しさではない。

[大人]
大人になれば、自分で自分の人生を決定することができるが、しくじれば責められるのも自分。自己決定と自己責任、それが大人の掟だ。
「他人が欲しがるものをあなたも欲しがりなさい」と教えてきた日本の教育。

12/24/2007

人生はサッカー?










人生はサッカー?

この世の九九パーセントの人にとっては、人生はサッカーみたいなものですよ。
ほとんど毎日が忍耐でしかない。忍耐で耐えて耐えて、日常を営々と繰り返す中に、一生に一度、シュートのチャンスがあるかないかぐらい。ほとんどいつも抑制されて、ずっと忍耐を強いられて。でもたまにはそういうチャンスがある。
そういう中でも、ドリブルを楽しめたり、一人、二人パスを抜いてみたりという喜びがあって、そういう演出を自分なりにして、あるいは人に仕掛けたりして、そういう能動的な動き方、それがたぶん人生の生活を楽しむいちばんの基本形だと思うんです。人生を楽しめる人というのはそういう人でしょうね。


人は、自分で感じたり、老いたり、習慣をやめるようになってしまうと、他人がどう言おうと、自分が好きなら好き、と主張できなくなってしまいます。しだいに大勢の中の一人として
しか振る舞えなくなってしまうのです。
そうすると大人数を相手にした数値のようなものに縛られはじめます。「この曲が好き」ではなくて、「この曲は売り上げベストテンに入っているから好き」になってしまうのです。
ある種の数値化されるようなものに縛られていると、人はだんだん生き方まで支配されることになってしまいます。物事の順番、上下関係、経済効率だとか、そういうものに自分の生き方や価値観を絞り込んでしまったような人は、数値にしばられ、自分の生きる時間を浪費するようになる。そして、だんだん楽しみに気づけなくなってしまうんです。


「人と同じ」ことではなく、「人と違う」ことに価値観を見出すということが、初めて「健全なる個人主義」なんです。
でも、人と違うことに価値がある、という伝統が残念ながら日本には少なすぎる。
今の時代の若者は「個人主義」のように見えるけれど、じつはそうじゃないんです。個性的なファッションろいいながら、みんな個性的なつもりで同じファッションを身につけている。
僕らの頃はみんなと同じことをするというのは何か恥ずかしいという、気概、ちっちゃなプライドみたいなものはみんな持っていたけれど、今は、特に若者は「みんなと同じことをやらないと駄目」みたいでしょ。
これはむしろ全体主義の始まりです。
みんながやっていることも、もしかしたらみんな、楽しくないかもしれない。
でも、みんながやっているから、やっているだけでね。
みんながやっているだけで楽しいぞ、というノリになっているだけなら、こんなつまらないことない。



そうじゃなくて、勉強も教えるけれども「勉強ができなくたって、人生はこんなに楽しく送れるよ」ということを学校でも教えてもいいんじゃないかと思うんです。昔は家や地域がちゃんと教えていたのですが、今、親にそれを教える能力がないのなら、そういうことを学校で教えること、少なくともゆとり教育の中で教える、ということがすごく大事なのではないでしょうか。大きな言い方をすると、これが現在のアメリカが持っている最大の強みなんです。娯楽でも、世界的な特許でも、何でもいろんな分野で世界一流クラスの人材をそろえられる。


日本は中途ハンパなんです。というよりも、世界一を目指さない。せいぜい目指すのは日本一。どの分野でもいいから世界一を目指せ、と言われたら、みんなもっとギラギラしてきます。韓国や中国のように。韓国や中国はもう日本を追い越せなんてセコイことは思わないです。追いついたと思っているから。だから彼らは世界を目指します。香港に行ったって、上海に行ったって、ソウルに行ったって、みんなギラギラしてる。をのギラギラが大事なのですよ。

こころ・と・からだ/五木寛之














こころ・と・からだ/五木寛之
本に書かれている事や、人の言う事、社会の常識となっていることを鵜呑みに信じて、自分が今感じている本音を歪めてはならない。僕は、自分の直感に従ってそう思います。

その時に両親が全身全霊で自分たちの愛情を息子さんに伝えた。つまり、精神的な<熱伝導>をしたわけです。息子さんは論理に屈したわけではなく、すべてを投げ打って彼を理解しようとした、その両親の熱に考えを変えたのではないでしょうか。

人間はできるだけたくさん笑い、できるだけたくさん涙を流し、ときには目いっぱい怒る必要がある。そういう喜怒哀楽の感情を深く味わって、自分のなかの<熱を高めることが、結局はその人がいきいきと健康に生きていく上で、大事なことではないかという気がするのです。

以前、作家で探検家のCWニコル氏と話した事があります。そのときに、彼が言ってたのは、極地探検のようなときに最後まで頑張れるのは、”礼儀正しい人"だということでした。
ニコル氏によれば、体育会系の一見バンカラで、物凄く強そうな人が、脱落していったりする。逆に、そんな極地のサバイバル生活のなかでも、きちんとヒゲを剃ったり、身だしなみを忘れない人のほうが、最後まで粘ったというのです。

「あきらめる」というのは、実は「あきらかに究める」ことだと言われてます。物事を明らかにし、その本質を究めること。勇気を持って真実を見つめ、それを認めることが、本当の「あきらめる」ということであるらしい。

強くあるだけが生きていく術ではないと、僕は思います。静かな強さ、優しい心を持つことは、それ以上に大切なことです。永遠の勝利を信じるなかからではなく、いつかは死によって敗れる者としての「あきらめ」のなかから、もう一度再生する人間。

自分を守るということは、いわば自立した人間の第一歩です。自分を守れない人間が他人を守ることなどできません。子供の頃から管理され、守られることに慣れた人間は、いつまでたっても一人前の大人になれないんじゃないかと思います。

ひとつは、薬によって簡単に頭痛がなおせるとするならば、結果的に人間にとってそれは悪い結果をもたらすであろう、ということです。もうひとつ、現在最もありふれた頭痛であるところの筋収縮性頭痛に悩まされている人たちは、実は欲望に踊らされ、欲望を掻き立てる社会の中で平安を失い、押しつぶされそうになっている人たちだ、ということです。

12/23/2007

若いということ???







若いということ

若いことに価値がある、というのは危うい考え方であり、貧しい考え方だ、という気がしてならない。

年を取ると、若いときの張りとか艶とか、そういうものは失われていく。
しかし、年輪を重ねていくことで、それを補ってあまりあるものが生まれてくる、あるいはそれよりもはるかに魅力的なものが生まれてくる可能性があるわけです。

そのあたりは、大人の責任でもあるでしょう。
ほかならぬ大人たちが、一方的に若さにこだわり、若さが失われていくのを不安に思っているわけですから。

12/07/2007

渋沢龍彦









渋沢龍彦


カサノヴァ

ゲーテ

ジャン・コクトー

李白

ディオゲネス

ピストロ・アレティノ

ブリア=サヴァラン

深沢七郎




ユーモリストは、人生の失敗にくじけない、強い柔軟な精神をもった快楽主義者です。世の中のばかばかしさを
横目でながめ、すべてを冗談で笑い飛ばしてしまう精神は、男らしく、爽快なものではありますまいか。


アルフレッド・ジャリ


マルキ・ド・サド


このリベルタンという言葉は、少しばかり説明を要する言葉です。もともと、リベルタンという言葉には、宗教的な
意味があって、「信仰および宗教的義務に従うことを拒否する自由な精神」を意味しておりました。
日本では「自由思想家」と翻訳することもあります。そうした意味の言葉が、いつごろからか、徐々に転化して、
道徳上の放埒を意味するようになったのです。つまり、宗教的戒律に対する不服従から、性的束縛に対する
不服従へと意味が転化したわけです。
男女の愛欲の行為において、リベルダンは、種族維持の自然法則をできるだけのがれようとします。カトリックでは、
中世の聖者トマス・アクィナス以来、子どもを生むことを性交の第一の目的としており、性を遊びの対象とすることを
きびしく戒めておりますが、リベルダンはまず、そうした宗教上の束縛をすすんで打ち破ろうとします。あたりまえの話ですが、
娼婦と遊ぶのは、子どもを生むのが目的ではありません。
第二に、リベルダンの特徴は、情熱的な恋愛に我を忘れることを、みずから警戒します。つまり、男女の愛欲は、
あくまで誘惑したり誘惑されたりする性の遊びなのであって、快楽以外には何の目的もないのです。ロメオとジュリエットとか、
トリスタンとイゾルデとかいった純情可憐な男女の、身を滅ぼすような情熱的な恋愛は、リベルダンのもっとも
軽蔑するところです。
なぜかというと、情熱的な恋愛に身をまかせることは、リベルダンがいちばんだいじにしている自己の主体性、自己の自由を
失うことを意味するからです。リベルダンという言葉は、自由(リベルテ)と関係があるので、何よりもまず、伝統や因習を
打破する、精神の自由を意味していたのです。一言をもってすれば、遊びの精神、自由の精神、―これがリベルダンの
特徴といってよいでしょう。



おもしろいことに、岡本さんもまた、夫婦子どもなんかもたず、いつも自由な独身生活を楽しんでいる人です。親子とか
夫婦とかいった関係が、人間の自由な冒険的な生き方を拘束し、世の中をじめじめした、不潔なものにするということを、
芸術家の直観で、本能的に知っているのです。だから、そういうわずらわしい世の中のきめごとや、愚劣な約束ごとを、
避けてとおるのです。
小心翼々とした人間や、けちな占有欲のある人間、反抗精神や破壊精神に欠けた、優等生のエリートだけが、家庭だとか、
会社だとか、―あるいはもっと広くいって、国家だとか、社会だとかいった欺瞞の秩序に、必死になって、かじりついているわけです。
なんの意味もない、くだらないものでも、しっかり手に握っていないと、不安になるのかもしれません。


そもそも、しあわせな家庭などというものを築いたら、もう、若者のエネルギーは、行きどまりだということを知るべきです。
妻子ある家庭を思えば、冒険もなにもできやしません。大学をうまく卒業し、一流会社へ就職し、課長の媒酌できれいな
奥さんをもらい、一姫二太郎をこしらえ、モダンなアパートに住み、車を買い、ステレオを買ったら、まあ、あとはせいぜい、
女の子のいるバーで、奥さんの目をぬすんで、ちょっとした浮気をするぐらいが関の山でしょう。まことに、なさけない。こんなのは、
快楽主義者として、最低の部類に属します。
わたしは、現代の社会に生きる快楽主義者の代表として、二人の人物の名をあげましたが、むろん、これは、たまたま、わたしの
頭に思い浮かんだ偶然の選択による結果にすぎません。もっと広く世の中を見渡せば、あるいは、さらにおもしろい無名の人物が
見つかるかもしれない。


父母も江戸っ子だったので(ボクは父系で4代目、母方では14代目だそうだ)、大橋家の価値体系は、江戸風であるか無いか
だったようである。江戸風といっても解りにくいだろうが、「粋か無粋か」といったら解るだろうか。特に母はそうであった。
粋とはぜい沢なものを着ることではない、と言っていた。袷(あわせ―裏地のついた着物)の時季には袷を着、浴衣の時季には
浴衣を着ること。時と場合(今でいうTPO)に合ったものを着るべきだとも言った。
食べ物も同じで、そばや寿司をくちゃくちゃ噛んで食べるのは野暮の骨頂と教えられた。ああいうものは「のど越し」で
食べるものだからと言っていた。
「噛みたければ、うどんを食べればいいのさ」


灰皿と金持ちはたまるほど汚くなる


常に収入の四分の一と臨時収入の全部を蓄えることは富をなす基礎であるだけでなく、それがすでに克己心の強い発露である。


人は貧乏すれば、自分が苦しいだけでなく、義理を欠き、人にも迷惑を及ぼし、心ならずも嘘をつくようになり、ついには
世間の信用を失う。


人生の幸福に家庭平和が必要であることは繰り返すまでもないが、実際に家庭が平和でさえあれば、自然健康も勇気も
増して、必ず相当に成功できるものである。


今日の時世に、とくに必要なのは、できるだけ人の手を借りず、人の世話にならずに自分で自分を始末して生きていくということである。
たとえば自分の寝床の上げ下げはもちろん、自分の身のまわりのことはいっさい自分でやる習慣をつけ、旅行の際は手荷物なども
自分で持つことにすれば、時間も省け、紛失の心配もなく、金もかからずに済んで、どれだけ楽になるかわからない。


学者であっても、独立した生活ができるだけの財産をこしらえなければいけない。そうでないと金のために自由を奪われ、
精神の独立も生活の独立もおぼつかないようになる。財産をつくるための基本は勤倹貯蓄であり、貯金ができたらこれを
有利な事業に投資しなければならない。貯金を貯金のままにしておいたのではたかが知れている」。


「人生で最大の幸福は家庭生活の円満と職業の道楽化である」


①努力して職業を道楽化する、②努力と生活の単純化によってそのかすをためる、③そのかすを精神的享楽に使う、
の三つである。本多博士の職業の道楽化を、私はやや近代的に「自己実現」と理解している。私の言う「自己実現」は
「自分の好きなことを精一杯やって、十分に食えるだけでなく、それが他人によって高く評価されること」である。


①縁の下の力持ちになれ、②他人とは長所でもって交われ、③言動を慎み反感を買うな、④施した恩は忘れ受けた恩は
忘れるな、


「頼まれごとはよく考えた上で返答する」と「一度引き受けた用事は、どんなに些細なことでもできるだけ親切確実にする」


成功と人づきあいの秘訣は勤勉、正直と「思い上がりをしないこと」の三つということになる。


「何ごとがあろうと、けっして卑屈になったり、弱気になったりせずに、常に堂々と生き、堂々と失敗し、堂々と設け、
堂々と傷つき、堂々と老い、堂々と死ぬ」

12/06/2007

長岡 貫







長岡 貫


「どの先輩も食うや食わずで新しい日本を作ろうという気概に満ちていました。明治維新の志士に通じるものがあった」


「恥ずかしいことをしてはいけない。潔くあらねばならない。明治の人びとは現代人が忘れかけている信念を抱いていました。たとえば列強の属国になるのは恥ずべきことだという考えです。背伸びをしてでもほかのアジアの国とは違うという証しをたてたい。この信念は指導者層に特有のものと思うでしょうが、実はほとんどの国民が同じ思いだった」


「初の外国人教師として東大などで教えた英国人チェンバレンは欠点も挙げています。付和雷同を常とする、外国のまねをするなどです。日露戦争後、国全体が過信状態に陥り、やがてあの無謀な戦争に突入して完膚なきまでにやられちゃう。悪いのは軍閥だが、なかには尻馬にのってやれやれと言った国民もいた。付和雷同の典型でしょう」


「昭和三十五年の国民所得倍増計画は立派な政策だし国民に受けた。衣食足りて礼節を知るといけばよかったのですが、物質的な豊かさを求めるあまり、心の問題が置き去りにされなかったか。戦後の占領政策によって小中学校で価値観のようなものを教える機会が減り、家庭教育は金銭面の豊かさを実現するための進学や就職に主眼が置かれた。月並みですが、この世に生まれた以上、やりがいのある仕事を求め努力を傾注すれば、結果として経済的に恵まれなくてもいいじゃないか」

11/04/2007

しあわせになる禅






しあわせになる禅・ひろさちや



家の中で使われる物差しが、世間の物差しのままではいけないと思う。世間の物差しは、人間を「役に立つ、役に立たない」といった観点で評価するから。



要するに、親が世間の奴隷になって、わが子に世間の物差しを押し付けていたのでは、問題は解決できないのです。



宗教を持たない人間が、宗教の代用品として持っているもの(持たされているもの)が、

―美学―

です。「日本人の美学」「男の美学」なんて言いますが、立派な死に方をせねばならない、立派な生き方をせねばならないという強迫観念が美学です。

こんなもの、宗教の代用品にはなりませんよ。



1、莫妄想(まくもうぞう)→余計なことを考えるな!

2、一得一矢→なんだっていい。

3、自灯明→他人のことはほっとけ!

4、放下著(とうげぢゃく)→常識を捨てろ!

5、竿頭進歩(かんとうしんぽ)→がんばるな!

8/23/2007

黒井千次




黒井千次(7/26/2007日経夕刊)


老いは自分の内側から訪れると言うより、他人によってある日突然もたらされるという面があります。

自分は結構若いし、何でもできると思っていたのに段々身体が付いていかなくなる。少しずつ自分で老いに気付くということは確かにある。

でも、それ以上にショックが大きいのは、全然意識していないことを他人から言われたときでしょう。

放っておくと、人は自分が年を取ったとは本気で思いたくないのかもしれない。

生涯青春ということがさかんにいわれます。そうなると人生の終盤に近い老人の老人らしい生き方というのはなくなる。時代は理想的な老人像がない時代なのです。

世の中全体がそれを求めていない。老いは否定的なイメージでしか語られない。しかし、老いたからこそ手に入れることができる何か、老いの果実があるではないか。それを意識しないまま最期まで行っちゃうのはちょっと寂しい。

時代の変化に調和できない方が老人として自然です。変化に上手に適応している人の中にはありようもない貴重なものが、時代に取り残された人の中にはある。みんなが一斉に走っている時に、そうじゃないだろってブツブツ言いながら歩いている人間を書きたい。



8/09/2007

「狂い」のすすめ



「狂い」のすすめ・ひろさちや

「まともな意見」=常識。赤提灯で得々として語っているサラリーマン親父の「意見」なんてものは、商業新聞や週刊誌に書いてあることと同じです。いわゆる体制護持的な思想、それを弱者は自分の「意見」だと思っている。思わされているのです。世間の奴隷、常識の奴隷になっているのです。

「風狂」とは、風雅に徹すること一休禅師は「風狂の禅者」でした。狂った時代にあって狂った生き方を選んだ一休は、だから自由人であったのです。世間が押し付けてくる道徳なんかに囚われることなく、自由ののびのびと、そしてあっけらかんと生きています。

日本の企業の管理者に奴隷根性の持ち主が多いから、自分が奴隷であるから、社員までも奴隷にしたいのです。そして、奴隷になっている社員がまじめでいい社員と評価されるのです。日本はそういう狂った社会です。狂った社会に忠誠を誓えば、その人は奴隷になってしまう。だから、狂った社会にあっては、こちらが狂う以外に自由人になることはできません。
「ただ狂え!」の『閑吟集』の言葉、あれが自由への呼びかけなんです。

目的意識があると、われわれはその目的を達成することだけに囚われてしまい、毎日の生活を灰色にすることになります。失敗したっていいのです。出世できなくてもいいのです。下積み生活でもいい。それでも楽しく生きることができるのです。

本当の「人生の危機」は、あなたが世間から「生き甲斐」を押し付けられたときなんです。まさにそのとき、あなたは奴隷になったのであり、自由人としてのあなたは死んでしまったのです。それが、それこそが、本当の意味での「危機」だったのです。

-カタツムリが旅に出て、ナメクジになって帰ってくる-わたしたちは常識や既成概念、世間の物差しを持っています。そういう殻を背負ったカタツムリです。旅をするのは、そうした殻を捨てるため。殻を捨ててナメクジになって帰ってくる。そうした気持ちでする旅こそ、最高の旅なんです。

人生を目的地主義で生きると、60年、70年の生涯が、たった4ヶ月と6日になってしまいます。人生に目的を設定してはいけません。意味を持たせてはいけません。生き甲斐なんてないのです。

明日できる仕事を今日するな。他人ができる仕事を自分がするな。
ともかく、ゆったりしましょう。家康のように重荷を背負ってあくせくする必要はありません。重荷は他人に背負わせるとよい。そういう気持ちを持つことが大事です。

家族制度は封建的だという理由で、家の解体をやってもけたのです。その結果、見事な「核家族」になりました。こんな国は、アメリカの中下層と中国、それにイスラエルだけです。その他の国では、家族制度はしっかり残ってます。

-正しいことは言わないでおこう-
正しいことというのは、わざわざあなたが相手に言ってあげなくても、相手がよく知っていることです。言う必要はありません。

7/28/2007

ひと、死に出あう



ひと、死に出あう・週刊朝日










横尾忠則
この直感は肉体的な作用でもある。精神は常に変化し流動しているが、肉体感覚は「私自身」に忠実であろうとする。この「私自身」がぼくにとっては霊魂である。「私自身」は考えや理性から生じたものではなく、肉体と魂が結ばれて生じる「真の私」ということである。この状態がぼくに霊魂の存在を教えてくれるのだ。












邱永漢
私は自分が死ぬ時が現役を退く日と心得ているので、仕事がなくなる前に次の仕事をつくる永年の習慣を生かして、いまも忙しく世界中をとびまわっている。
中国では49歳とか、59歳とか、69歳とか、大台がかわる前の年が厄年である。











天本英世
「情熱の国スペイン」と言われるが、スペインは喪服と死の国である。その情熱は死への情熱なのだ。強烈な死があるから、生もまた強烈なのだ。今の日本では強烈な生もないのは当然であろう。


坂田誠
裁判を笑い、人生をも笑う。そのしたたかな笑いは、泣きわめくより、相手を恐がらせただろう。生には笑いがともなうが、死には笑いは似合わない。葬式の冷厳さがその象徴である。
笑いを失った時、人は自殺を考える。笑いを失わない人間は死をも笑う。笑っているうちは人間は死なないのである。
笑いが失われたところには死がある。日本の中で、もっとも笑いのないところは会社であり、そこに過労死なるものがある。