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3/20/2008

山本五十六






山本五十六

苦しいこともあるだろう。
言い度いこともあるだろう。
不満なこともあるだろう。
腹の立つこともあるだろう。
泣き度いこともあるだろう。
これらをじっとこらえてゆくのが男の修行である。

3/01/2008

雇われない生き方









雇われない生き方

1.雇われている間にあなたが売っているのは時間
(Income for dummies.)

 ●あなたの本当の売り物は何か?
 ●何が収入の源泉になっているのか?
 ●雇われていると、それが分かりづらくなる
 ●もし、時間を切り売りしているとしたら、
 ●それは、あなたでなくてもできる
 ●大切なのは、あなたの価値とあなたの時間は別物であるということ
 ●あなたが生み出すものに価値がある限り、
 ●あなたがそれにどれだけの時間をかけたかは、
 ●それに価値を見いだす人にとっては無関係
 ●時間を切り売りする限りは、その価値は時間でしか値踏みできなくなる


2.得られるのは特定の目的にしか役に立たない経験
(Limited experience.)

 ●経験は何をしていても得られる
 ●そして、何もしていなくても得られる
 ●雇われている間に得られる経験は特定の目的にしか役に立たない
 ●特定の仕事に必要な専門知識と、
 ●お金の問題に悩まされることなく生きていくための知識と、
 ●どちらを選ぶか


3. 生涯続く放し飼い
(Lifelong domestication.)

 (割愛)


4. “分け前”をシェアする相手が多すぎる
(Too many mouths to feed.)

 ●雇われている間は、“分け前”をシェアする相手が多すぎる
 ●あなたは自分の働きの一部しかもらえていない
 ●そして、一握りの人たちが残りの大半を手にしている
 ●投資家、あるいはオーナー経営者


5. 実態はプロのギャンブラー
(Way too risky.)

 ●会社ではその中のルールに従うのが当然
 ●フリーランスはルールフリー
 ●会社員の収入源は1本
 ●フリーランスの収入源は複数
 ●会社員は安定、フリーランスは不安定、と言われる
 ●いつでも解雇される可能性がある状況を安定と呼べるのか?
 ●収入の手段を自分の手の届かないものに任せている
 ●あなたの本当の職業は、プロのギャンブラーと言うべきだ


6. そもそも「ボス」という言葉は…
(Having an evil bovine master.)

 ●ボスというのは最終的に倒す相手だ
 (注:日本語では「上司」ですが…)。


7. 稼いでいるというより施しを受けている
(Begging for money.)

 ●お金を稼ぐことが、人の許可に左右されるのと、
 ●自分の裁量で決められるのと、どちらがよいか


8. クローズドな社会生活
(An inbred social life.)

 ●置かれる環境を選べない
 ●勤務地、職場、人間関係


9. 余計なことを考えなくて済むという不自由
(Loss of freedom.)

 (前半割愛)
 ●自分が好きなことをして、もっと楽しもう


10. 幻想の前に骨抜きにされる
(Becoming a coward.)

 ●今の職場が働きやすく居心地も良い、ということは
 ●《何か》がそのように感じるように仕向けているに過ぎない

2/18/2008

自分らしく生きたかったらエゴイストになりなさい









自分らしく生きたかったらエゴイストになりなさい ヨーゼフ・キルシュナー



平和の唱道者たちはこれまで以上に戦争で大もうけするでしょう。ぐうたらのなまけ者どもは、これからも有能な
者たちの汗と努力の結晶を食いものにしてしてのらくらと暮らしつづけるでしょう。有能な者たちはなんのためとも
知らず、ただ死にものぐるいで働くだけのことでしょう。健康産業はますます活状を呈し、ブームはさらに続くでしょう。
それでも、人類の病気がますますふえていくことに、誰も疑問を投げかけたりはしないでしょう。


***


その期待はものの見事に裏切られるでしょう。なぜなら二十一世紀もこれまで同様に三階級社会という人類最古の
システムが引き続き私たちを支配することになるからです。これは絶対に疑いありません。ここでいう階級とは次の三つをさします。

*愚かな人たち
*ずるがしこい人たち
*真にかしこい人たち

どうしたらいいかわからない愚かな人たちは、自分が何を信じ、何を考え、何を望み、何を買えばいいかを教えてくれる人たちを、
これからも探し求めるでしょう。そして、ずるがしこい人たちは、親切に笑って愚かな人たちにあれこれ助言を与えてたっぷりもうけて、
甘い汁を吸うことでしょう。


***


(エゴイストの十戒)

1.権利より先に義務がある。

2.お金がなければつかわない。

3.仕事ができるなら勤め口はかならずある。自分の値打ちは自分で決める。

4.自分と調和できるのなら、世界とも調和できる。

5.人を責めるのは自分自身を責めるのとおなじこと。それは自分への怒りを相手にぶちまけているだけのこと。

6.何がやりたいかわかっているなら、誰も口出しなどできない。

7.誰にでもなまける権利がある。しかし自分の有能さを犠牲にしてまでなまけることはない。

8.有能というのは自分自身にとってであって、他人にとってではない。

9.あることについて語れば語るほど、それがわからなくなる。

10.多くを知れば知るほど、ますますそれについて語る必要はなくなる。内容のないことを百回言うよりは、黙っているほうが時として効果的。


***


かしこい人たちは自己を解放することによって自由を獲得しようとするのですが、それは自分の人生に対して、
はっきりとしたイメージをもつことによってのみ得られます。


***


「誰も他人に幸福を与えることはできないし、他人から幸福を奪うこともできない。自分の責任は自分にしか負えない」


***


「人生の舵は自分でとる、最後の決定は自分で下す」


***


「どうやらこれが、賢者の階級に所属するための鍵のようです。自分が不幸なのは他人のせいだと逃げ口上ばかりならべるのは、
おろかな人だけがすることです。
指図したり取り締まったりするのがずるがしこい人たちの習性だとすれば、どうしてよいかわからずに服従するのが愚かな人たちの
習性といえそうです。だから、両者はたがいに依存しあっています。


***


イメージしたら信じることです。信じればこれまで疑っていたことも実行する力がわきます。信じるということは、
想像はできるというレベルから一歩踏み出して、想像もできないことを実現することなのです。ただし正当な方法をとること。


***


しっくりくる人生を送るには、何がほんとうに必要なのかを知ることです。必要なものを手に入れるには、何をあきらめなくては
ならないかを知ることです。


***


教育というのはどんな教育であれ人を不安がらせ、おどし、こわがらせるのが常套手段です。人は不安になると言いなりに
なってしまうものだからです。しかし、あなたは自分で自分を教育するのですから、他人の言いなりにはなりません。


***


あなたの言うことが正しい必要はありません。人がそれをほんとうだと信じてさえいればいいのです。権威というのは、
あなたが正しいことを言っているからではなく、あなたが正しいことを言っていると人々が信じているから成立するのです。
あなたが権威をを利用するときは、もしそれが見抜かれたときには逆にあなたに不利なかたちで利用されることもお忘れなく。


***


もっとも強い説得力をもつのは権威などではなく、あなたが日々の行動のなかで着々と積み重ねている自分への確信に
ほかなりません。


***


けなしたりほめたりするのは、相手をゆさぶるための手段です。人からほめられないとやっていけない人、人からけなされるのを
恐れる人、こうした人たちは他人に左右されています。

何がしたいのかはっきりさせましょう。自分を信じて自分のものさしで行動してください。そうすれば誰も、ほめたりけなしたりして、
あなたを不利な状況へ追いやることなどできません。

あなたをほめる人は、あなたを味方につけたがっているのです。あなたをけなす人は、あなたをおとしめることで自分が上に
行きたいのです。あるいはあなたの失敗にあげつらうことで自分の失敗の言い訳をしようという魂胆でしょう。ほめたりけなしたり
というのは、相手をゆさぶるための戦術です。この戦術をつかって、ずるがしこい人たちは愚かな人たちを統率しているのです。

他人をけなす人は、それによって自分の権威を打ち立てようとしているのです。あなたは自分自身の確信で人を説得するので
あって、自分の権威を前面に打ち出す必要はありません。権威にだまされるのは自分に権威のない証拠です。

それが利益をもたらすなら、あなたもほめたりけなしたりの戦術を駆使して相手をゆさぶってみてください。他人が不利益を
こうむるのは知ったことではありませんが、あなたが利益を得るのは大事なことです。

誰でも自分に対して責任をもたねばなりません。だから他人にたくみにあやつられて油揚げをさらわれたからといって、
なんの弁解もできません。


***


どんな協力関係にせよ、はじまりはあなた自身です。あなたが自分を信じて、自分自身と調和がとれていれば、
あなたは自分自身のもっとも信頼のおけるパートナーです。

自分自身と調和が取れているとは次のようなことをいいます。

*敗北を喫しても自分を責めたり言い逃れを考えたりせずに、敗北から学ぼうとする。
*自分自身を信じていて、誰もその自信をゆるがすことができない。
*自分に対して責任を負っていて、誰もその責任を肩代わりしようなどとちょっかいを出さない。
*自分を信じて、決して自分を否定しない。ただし、誰かをたくみにあやつってひともうけするために自分をいつわるというのなら話は別。


パートナーシップを結ぶ意味は、一人で問題を解決するよりは二人でいっしょに取り組んだほうがうまくいくということにあります。

パートナーシップでいちばん大事なのは、平等ということではなく、相互補完ということです。

パートナーシップとは、パートナーに対する思いやりではなく、創造的なぶつかりあいのなかで相互理解を深めることをいいます。

パートナーシップとは、相手を尊重すると同時に自分も尊重されることです。

パートナーシップとは、それぞれが投資したよりもたくさん返ってくるということを意味します。

パートナーシップにおいては、それぞれが自分なりに正しいのです。つまりあなたはパートナーの真理を尊重するけれども、むこうもあなたの
真理を尊重するのです。たとえパートナーがあなたの真理を尊重しなかったとしても、それがあなたの真理であることには変わりはないのです。
おなじく、あなたがパートナーの真理を尊重しなくても、それはやはり相手の真理であることに変わりはないのです。

パートナーシップがあなたによろこびよりも苦痛を与えるようになったら、それは意味を失います。そのときは相手にかまうことなく決定を下すことです。

あなたが自分自身と幸せな関係でないのなら、どんなパートナーとも幸福にはなれません。自分を愛していないのに、人を愛せるはずがありませんから。

あなたが他の誰よりもあなた自身を信じているのなら、どんなパートナーにも幻滅することはないでしょう。

パートナーシップの原理は、階級組織の原理と真っ向から対立するものです。パートナーシップにおいては、
何よりもまず個人個人が自分に対して責任を負い、連帯責任はあとになります。


***


社会に庇護を求めるものは、自分で自分を守ることができない人間です。こういう人は庇護者たちからいいようにあやつられて貢がされてしまうでしょう。

モラルというのは、自分のものさしをもたない愚かな人たちをあやつるためのよい口実になります。

モラルをもてあそんで金もうけをしているずるがしこい人たちは、モラルの基準をひじょうに高く設けていて、愚かな信奉者たちがいくら努力しても、
その基準を満たすことはとうていできないのです。そのために信奉者たちはつねにダメ人間のレッテルをはられ、彼らの人生はたくみにあやつられてしまうのです。
しかし何より自分を信じ、自分のものさしだけで生きている人は、罪悪感などで人のいいなりになったりはしないのです。


***


あなたは次のような三階級社会のなかで生きています。

*ずるがしこい人たちの階級―彼らは愚かな人たちに何を考え、何を信じ、何を望み、何を買ったらよいかをあれこれ指図してぼろもうけしている。
*愚かな人たちの階級―彼らは自分が何を考え、何を信じ、何を望み、何を買ったらいいのか自分で判断できないので、ずるがしこい人たちのいいなりになってしまう。
*真にかしこい人たちの階級―彼らは自分が何を考え、何を望み、何を買うべきかをよく心得ていて、自分のものさしにしたがって行動する。


***


自由な社会というのは自分自身が自由である人にとってのみ存在するものです。自由であるためには、できることはすべて
やってみることです。そうすれば、あなたはいつでもどんな社会でも自由でいられます。


***


文化というのは、あなた自身の心のなかにあります。だから、あなたの生き方そのものが文化のあらわれなのです。
文化というのは生命のあるがままの姿であり、誰かに指図されたり管理されたりするものではないのです。


***


マスメディアというのは正義やモラルをかかげるのが大好きですが、彼らは決して倫理的な集団ではありません。
彼らはスポンサーの利害にかなうように言論を操作する企業なのです。

マスメディアは人工的な世界をつくりあげ、視聴者や読者はそれを見たり聞いたり読んだりして、現実では満たされない
欲求のはけ口を見つけるのです。つまりマスメディアは自分の人生でナマで生きることのできない人たちのために、
作りものの人生を提供しているのです。

毎日現実とむきあって、あなた自身のナマの人生を生きてください。あなたはあなたにしかない人生を体ごと生きているのであり、
傍観しているのではないのです。

マスメディアなんていうものは、あなたの役に立つように、あなたのものさしにあわせて利用すればいいのです。

あなたの人生を毎日の現実のなかで精いっぱい生きてください。そして現実に背を向けて映像の世界に逃げ込んだりしないで、
自分の手で問題を解決してください。

自分の夢を見ましょう。自分の苦しみを苦しみ抜きましょう。そして自分の力で、自分にあった世界をつくりましょう。

自分の手で人生をつむぎだす人は、メディアのヒーローに自分の幸福を重ね合わせる必要などないのです。


***


宗教や政党は信者や支持者たちに全員が幸福になることを約束しますが、そのかわりに個人の自由は失われます。


***


自分を変えれば自分が住む世界も変わります。これは個人主義の考え方で、誰もが自分自身の世界を築くことができるというものです。
ただし、その責任は自分が引き受けなければなりません。

自由競争社会では、誰もが他人を犠牲にして自分の利益をものにするチャンスにめぐまれています。
だから自由競争社会というのは計算ずくめのゲームのための格好の舞台なのです。

自由競争では思いやりという視点はありえません。自然界における弱肉強食の原理とおなじく、誰もがわが身かわいさだけで生きているのですから。

ずるがしこい人たちは、なにかにつけ平和・平等・隣人愛などといった希望を説いて、愚かな人たちを自分たちの利害にしばりつけます。
残された唯一の自由は、ずるがしこい人たち、愚かな人たち、そしてかしこい人たちのいずれの階級に所属するかを自分で決定するということだけです。

いかなる選択をするにせよ、一市民として知っておかねばならないのは、自分の人生を意味あるものにするには、何かをあきらめなければならないということです。

あなたが自由でいられるのは、他人と比較しないときだけです。なぜなら、そのときのあなたは自分が何をしたいのか、ほんとうにわかっているからです。


***


潜在意識に埋め込まれた障害は、あなたが意識的な意志決定をしても取り除くことはできません。それを取り除くには、あなたの潜在意識にあなた自身の
プログラムを植えこむしかありません。そのプログラムとは、あなたが自分で自分を教育するということなのです。

潜在意識に到達するには、欲しいと思うものをねばり強く思い続けることです。どのくらいねばり強く思いつづけるのかというと、あなたの行動をさまたげている
すべての潜在意識よりもさらに深く根強くあなたの思いが植えこまれるまでです。

そこまで思いつづけると、あなたは思いどおりの自分になることができます。そしてこうしたことが、ごく自然に堂々と行なえるようになります。

このように潜在意識の世界にあなたのプログラムを植えこむのは、あなたがリラックスしているときにかぎります。リラックスするには、静かな場所で
楽な姿勢をとり、静かに深呼吸して、あなた自身に精神を集中することです。

リラックスした姿勢、深呼吸、そして自分自身へ意識を集中することによって、あなたは他人が押しつけた生活のリズムを脱却して、
自分に合ったリズムに乗り換えることができるのです。


***


忘れてならないことは、どんな行動もトレーニングを積み重ねた上でなければ実現しないということです。あなたがなにかを
なしとげようとするならば、それが自分のイメージどおりに自然にできるようになるまで、一歩一歩ねばり強く実践を通じて
改善していかなければならないのです。

つまり、それはどういうことかというと「計画と決断の段階では頭をつかってよく考えよ、しかし、行動するときには疑う気持ちなど
かけらももたずに、ただ成功の確信だけをもって行動せよ」ということなのです。


***


問題を解決するには、その問題を把握しなければなりません。問題を把握するには三つの段階があります。

*その問題がどんな影響を及ぼしているかを知る。
*その問題が他のこととどう絡みあっているかを知る。
*その問題の原因を知る。


問題とのつきあい方には、次の二つがあります。

*問題がどんな影響を及ぼしているかわかっているのに解決しようとせず、それを忘れてしまおうとする。もちろんそれで問題は解決しません。
*問題の因果関係を把握してよりよい状況をつくりだそうとする。


問題の因果がわかっている場合は、次の三つを駆使してください。

*あなたもしくは人の経験。
*あなた自身の直感。
*あなたの創造力と想像力。


ねばり強く調べあげ、きちんと問いただしていけば、問題の因果関係はかならずつかめます。

問題の原因を解明するもっとも重要な問いは「なぜ?」ということです。


***


健全なエゴイズムをぞんぶんに発揮しながら人生の達人になるというのは、まったく個人の問題です。ずるがしこい文化人や
政財界の幹部どもは、何かにつけ芸術がどうの文化がどうのとこせついた定義づけをしたがりますが、人生の達人になるという
ことはこんなやからのおせっかいとはなんの関係もない事柄なのです。なぜなら、人生の達人になるわざというのは人の役に立つ
ような代物ではなく、もっぱら自分を豊かにするために自分で身につけるものだからです。
そもそも文化とか芸術というものは、愚かな人たちの哀れな人生を少しでもくつろげていくらかでも面白いものにしてやろうと考え
出されたものです。そして、そのなかでもっとも秀でているのは、この人生の達人芸とでもいうべきものなのです。人生の達人芸
というのは、ただ食うために生きているのではなく、自分を乗り越えようという志をもった者なら誰でも自分のものにすることができます。
その際に重要なことは、この人生の達人芸というのは自分を豊かにすること以外に何の役にも立たないということです。人生の
達人は、人から尊敬されるためにパフォーマンスをする必要などまったくないのです。自分というものを最高に尊敬していれば、
それで十分なのです。


***


心配するというのは、あなたが自由でない証拠です。あなたが自由人ならば自分のメロディーで自分にあった踊りを踊るで
しょうし、人の評価など必要としないでしょう。

あなたが自由人で自分のメロディーにあわせて踊りを踊る人ならば、あなたは自分の自然の欲求にしたがって生き、自分の
生き方を無理やり型にはめたりはしないでしょう。だから自由人であるためには自由な創造力が必要なのです。


***


人がとうてい思いつかないようなことを考えてください。型にはまった考え方しかできない人たちには、とうてい思いつかないような
解決策を見つけ出してください。人がとうてい不可能だと思っていることをやってください。

自由というのは、人があなたに与えてくれるものではないのです。自由はあなたのなかにしかありません。やってできない
ことはないと、あなたが自分を信じたその瞬間に自由が生まれるのです。

自由人になるわざを身につければ、目標をかんたんに定めることが出来るようになります。しかも、その目標が実現しようが
しまいがどちらでもへいちゃらなのです。なぜなら自由人にとっては、そこへ至る道すじそのものが目標だからです。もちろん
途中で放棄してしまっては、自由人としての面子は丸つぶれかもしれませんが。


***


自由というのは偶然手に入るものではありません。いまここで頭をはたらかせてあなたの自由を磨いてください。
いまここで自由ならば、「明日はどうなるのだろう?」なんて考えたりしないこと。頭のなかが自由ならば、どこにいても自由になれるのです。

あなたの思考をコントロールする能力が増せば増すほど、あなたの自由も大きくなります。あなたの潜在意識に思考や
イメージをプログラムするときは、よく注意を払いましょう。そのときの合言葉はつねに「今日何が起ころうと、私はいつも自由で幸福」
というものです。

あなたの精神に自由が根付いていれば、いくら人から束縛されても、あなたの心のなかは自由です。これが自由人でいる
ための秘訣なのです。


***


人に勝って自分が優秀であることを証明してみせることはありません。あなたが自分で知っていれば十分です。

人生で大切なのは人よりすぐれていることではなく、自分の力でできるかぎりのことをすることです。ゲームに負けたなら
敗北から学べばよいのです。自己不信に陥ったり言い訳したりせずに、敗北から学ぶ。これこそが自分に勝つということです。


***



ずるがしこい人たちは愚か者どうしを戦わせて利益を得ています。これがゲームをたくみにあやつる彼らの戦略です。
かしこい人たちは人のために戦いませんから誰からも征服されることはありません。

戦いに勝ちたいという願望は、人を攻撃することからはじまります。しかし人を攻撃するということは自分を攻撃することに
ほかならないのです。

自分に対する攻撃は問題が解決できないおのれの不甲斐なさに対するいらだちからはじまります。自分の存在証明が
出来ない人は、他人を攻撃することでそれを得ようとするのです。

あなた自身と仲良くすること。自分の問題は自分で解決すること。人をおとしめて自分をもちあげたりしないこと。
これができれば、あなたは戦わずして人生に勝つことができます。


***


あなたは幸福を味わうことによって成熟を重ねますが、同時に不幸な体験によっても成熟は増していきます。
不運に見舞われたことがなければ、ほんとうに幸福になることはできません。不自由を重ねてようやく自由の境地にたどりつく
ことができるのです。だから一つ学んではまた次へという姿勢をなくしてはいけません。


「残された人生は自分の欲求と気持ちのおもむくままに生きて、人からあれこれ指図されるような関係は全部捨ててしまおう」

2/15/2008

最近のメモ帳2/15









最近のメモ帳2/15

やや過激に言うなら、50歳からの人生はすでに自分のものではない、と思い切ってもいいくらいだと私は思っている。
自分のものではない、他者のものだ、と思い切ったときに、はじめて再び自分のものに戻るのである。
「私は毎日、何百回となく自分の精神や肉体が、すでに亡くなった人や生きている人々の労働によって支えられていることを思い返している。だから、私も同じように人々のために献身しなければならないのだ」
これは、20世紀最大の知の巨人、アルバート・アインシュタインの言葉だ。

物理的な遺書から精神的な遺書へ、それは教育であったり、文章であったり、絵であったり、言葉であったり、さまざまな形をとるだろうが、多分それらはいずれも文化的なものに違いない。


長く一つの会社、職業についていると、考え方が固定化し、融通がきかなくなります。そのために新しい組織になかなか適応できない。

「大馬鹿者と言われるような非常識性」ということになるかと思います。要するにどでかい非常識と思われる発想をする。そして実現のために綿密な計画をつくり、知恵を出して最後には実現してしまう。」

「よいことを思えば、よいことが来る。悪いことを思えば悪いことが来る」

定年になれば、相手が頼んで来てくれていくらの世界です。

うぬぼれは早く捨てるべきなのです。あなたの代わりはいくらでもいて、皆があなたの職を狙っていると考えるべきなのです。

勉強するということは自分の脳の効率をよくし、記憶を高め、情緒も豊かにすることになるのです。ですから年をとっても勉強し、能力を高めようとすることは自分の人生をより豊かにすることであり、それは自分のためになることです。



知識や学歴は、金銭的に評価されるための手段としての側面を強めてきました。逆言すれば、金にならなければ、知識には意味がない。

官僚や政治家が賄賂を受け取るのは、欲に目が眩んでの行為だと思われていますが、実はそれだけではないように、私は感じています。彼らは自分のしている仕事が重要であり、大切であることの証明として、多額の金が自分のところに渡らされるのを望んでいる、という気持ちがあるのではないでしょうか。

ちなみに、子供からはなれて自分が社会参加(復帰)したいという母親の対極にあるのが、子供と密着して、その子を「いい子・優等生」に育て上げることにすべての情熱を傾ける母親です。
しかし両者は実は同じものですね。というのは、前者は自分が積極的に社会から評価されたいと思っているのに対して、後者は子供を「いい子・優等生」に育てることで自分が母親として優秀であると社会的に評価されたいと望んでいるにすぎないからです。このどちらにも「子供自身のため」という視点が欠落しています。そしてそれだけではなくて、親自身の視点さえもなくて、ただ世間からどう見えるのかというおびえだけがある、という状況に陥っています。

彼らは家に閉じこもっているのがいやだったり、家事から逃げたいのでしょうか。本人はそう思っているかもしれませんが、実はもっと深い理由があるような気がしてなりません。
実はみんな、自分自身とほんとうに向き合うのが嫌だから、それから逃げるために働きに出たがっているのではないでしょうか。子供と向き合うということは、ごまかしようもなく自分自身を見つめ直すということです。

だから逆言すると、自分らしく生きている人間は、たとえその生き様が不器用でも、正直で真剣に生きているのであれば、子供はそのことを見て取るのです。太宰のケースのように。

だから子供には、誠心誠意、率直に接したいと思います。それは子供と友達のように接することではないし、子供に自分の期待をぶつけることでもありません。親が真剣に自分本位の行き方を模索することが、親自身、幸福になるための第一歩であり、そんな親の姿を見せてやれたなら、子供のために何よりの贈り物となるでしょう。

自分に出来ることを精一杯やる。虚しく思われても、滑稽に見えても、他人が評価してくれなくても、子供のために種を蒔き、子供の心に種を蒔くのが、親というものです。

2/05/2008

プロ










『おまえ、明日、クビって言われたらどうする。明日、そのことを家族や友だち、お世話になった人たちに伝えなきゃいけない。きっとプロの思い出を語ることもあるだろう。そのとき、おまえは胸を張って、プロの思い出を語れるか。悔いが残らないほど練習したか。』

1/30/2008

自己嫌悪ってなんだ?















自己嫌悪ってなんだ?


人間は二つに分かれる。

こういう言い方はじじい臭いな。

「やってみます。」という人間と、「むりですよ。」という人間と、である。

どうやったらできるかを考える人間と、すぐにできない理由ばかりを考える人間と、である。

そして、できる人間は自分でできるようになるのであり、できない人間は外からなにを言われてもできない。自分で決めて、自分で成長するしかない。



口先だけで偉ぶりたがるがまったく口ほどにもないサラリーマンは、ただ楽をしたいだけ、マイペースを崩したくないだけである。

職人のように技量が見えないから、ごまかしだきく。他人のせいにできる。

どちらがプロであるかは一目瞭然である。「そこなでやることはない」ではない。「そこまでやる」のがプロの仕事なのだ。





伊丹はこのようにも書いていた。

「私の経験では勉強のできない奴は概してずるい奴だった」(『女たちよ!』新潮文庫)。

「勉強」といってしまうとちょっとニュアンスがちがってくるが、頭が悪いということは、自分(の行動や思考)を客観視することができないということだ。





自分は認められていないと心で感じる者は、他人につらくあたる。このバアサンのようにである。だが自分を認めすぎている者もまた他人につらくあたる。





強さとは心の強さだ。

強いとは、心が強いことである。

復元する心であり、破れてもつくろうことのできる心だ。

さまざまな感情をしることによって、心は深くなりうる。

さまざまな経験をすることによって、心は広くなりうる。

ひとつの物事をつきつめることによって、心は粘り強くなることができる。





人と人の関係とは、心と心の関係のことである。

人間は心で生きている。

しかし、関係が無ければ心もない。

心は生じない。

関係が無ければ心は動かない。

人から認められたいと思うのは、心である。

認めてくれないといって神経がささくれ立つのは、心である。勝ったと思うのは心であり、負けたと思うのは心である。

試合に負けたのに、負けてないと強弁するのではない。

人生は試合ではない。

苦しみや重さを知るのは、心があるからである。

生きるとは、心が生きていくことである。

1/20/2008

他人と深く関わらずに生きるには










他人と深く関わらずに生きるには・池田清彦


大人になっても、だれかにかまってもらいたい、だれかに面倒を見てもらいたい、だれかに甘えたい、というのは、赤ん坊の感性を引きずっているのである。赤ん坊と母親は非対称だから、赤ん坊はひたすら甘える身であり、母親はひたすら面倒を見る身であるのはやむを得ない。しかし、大人になれば、自分と他人は対称だから、自分だけ甘えたり、自分だけわがままを言うことはできない。自分が甘えるということは、相手の甘えを許すことであり、自分がわがままを言えば、相手のわがままも許さざるを得ない。
だから、他人に自分の心の中にズカズカと侵入されたくない人は、自分も他人に甘えてはいけないのである。

ルールは守れるなら、守った方が良いが、絶対に守らなければならないものではない。状況によっては守らない方が都合がよい時には、守らなくてもよいのである。ただし、どんな状況の時にどんなルールなら守らなくてよいかは自分で判断する他ない。与えられたルールをただ墨守するよりも、最終的には自分で判断して行動する方がステキではないか。

日本の学校は、個人の自立を妨げるように機能しているとしか思えない。他人を当てにして、他人にものを平気で頼み、断られるとムカつくような人を育てているように思える。知人や親友や時に知らない人に何かを頼むことはよくあるだろうし、そのこと自体は別にとがめられるようなことではない。しかし、人には色々事情があり、あなたの頼みを常に聞いてくれるとは限らない。頼みを聞いてくれた時は素直に感謝し、断られてもムカついてはいけないのである。

自由に生きることは結構しんどい。他人を当てにして生きた方が楽かもしれない。しかし、他でない自分の人生なんだから、最後は自分で決める他ないのである。
あなたはあなたにとって世界で一人しかいない唯一の個人である。世間の物語が通用するかどうか、それもあなたが決める他ないのである。他人を当てにしないで生きるとは、社会と隔絶して生きるということでもないし、他人とコミュニケーションをもたずに生きるということでもない。自分の食いぶちは自分でかせぎ、自分の人生は自分で決定する、というごく当たり前のことにすぎない。

親が自分のなし得なかった夢を子供に託す気持ちも判らないでもないが、才能の半分くらいは遺伝するのだから、あなたもできなかったし、子供の興味を示さないことを無理強いしても時間とお金のムダである。子供が真にやりたいことをサポートしてやることと、無理強いすることは違うのである。ない才能をたたいても普通は埃しかでないものだ。

他力を頼まず自力で生きて、力が尽きたら死ぬのが最も上品な生き方だ、ということだ。働けなくなったら、金を稼げなくなったら、誰かに面倒を見てもらうのは当然ではないのである。そうなったら野垂れ死ぬのが当然なのだ。それは自分ひとりで自給自足の生活や狩猟採集的生活をすれば、当たり前の帰結である。
自由に自力だけで行きようする人は、最後は野垂れ死にを覚悟する必要がある。自由に生きたいけれど、死にそうになったら助けてくれという人は、自由に生きる資格はない。そういう人は、不自由に生きて不自由に死ねばよい。ただし、不自由に生きて不自由に死ねよりも、自由に生きて、野垂れ死ぬ方が、はるかにカッコイイと思うだけだ。死んだ後まで戒名など付けて、ウジウジと現世とつながっているのは下品である。人は死ねば死にきりである。それでよいではないか。

1/06/2008

色川大吉先生









色川大吉先生 「公」意識できない自分勝手は危ない 8/16/2006

目に余るような人たちはよく・自己チュー・と言われるが、その態度は個人主義とは違う。

なぜならその自分とは、社会や公的な世界と対峙した自立した自己ではない。

自己責任の欠けた自己、容易に全体主義に揺さぶられる危ない存在でもある。




柳田國男さんは敗戦後、こうんなことを書いている。

日本人の事大主義にあるようだ。時々の強い力をもつ、より大きな者になびく。そういう性格を、日本人は封建時代から持ち続けている。

そうした人たちを、どうやったら時代の大勢に対してもノーと言えるような国民にすることができるか、それが戦後の自分の使命である、と。




そのためには一人ひとりが思考力、判断力をつけることが先決と柳田さんは考え、国語教育に力を注いだ。
今こそ思考力を持った自立した個人をつくらなければならない。

1/05/2008

「権力(パワー)に翻弄されないための48の法則」












「権力(パワー)に翻弄されないための48の法則」

法則1 主人より目立ってはならない
法則2 友を信じすぎず、敵をうまく使え
法則3 本当の目的は隠しておけ
法則4 必要以上に多くを語るな
法則5 名声は大いに頼りになる - 生命をかけて名声を守れ
法則6 ぜひとも人の注目を集めよ
法則7 他人を自分のために働かせよ、ただし手柄は決して渡すな
法則8 他人に足を運ばせよ - 必要ならば餌を使え
法則9 言葉ではなく行動によって勝て
法則10 感染を避けよ - 不幸な人間や不運な人間とはつきあうな
法則11 他人を自分に依存させておくすべを覚えよ
法則12 意図的な正直さや寛大さで敵の武装を解け
法則13 他人に助力を求めるときは相手の利益に訴えよ。情けや感謝の念に頼ってはならない
法則14 友を装ってスパイを働け
法則15 敵は完全に叩き潰せ
法則16 姿を見せないようにして周囲の敬意と賞賛を高めよ
法則17 予測不能の雰囲気をかもしだして、相手をつねにおびえさせておけ
法則18 保身のために砦を築くな - 孤立は危険である
法則19 相手の性格を見きわめよ
法則20 誰にも深く肩入れするな
法則21 だまされやすい人間を装って人をだませ - カモよりも自分を愚かに見せよ
法則22 降伏戦術を使って、弱さを力に変えよ
法則23 自分の力を結集せよ
法則24 完璧な廷臣を演じよ
法則25 新しい自分を創造せよ
法則26 自分の手を汚すな
法則27 何かを信じたがる人間の性向を利用して、盲目的な崇拝者をつくれ
法則28 大胆に行動せよ
法則29 終わりにいたるまで計画を立てよ
法則30 努力は人に見せるな
法則31 選択肢を支配せよ - 自分に都合のいいカードを引かせる
法則32 幻想に訴えよ
法則33 人の摘みネジを見つけろ
法則34 自分のやり方で王になれ - 王のように振舞えば、王のように扱ってもらえる
法則35 タイミングをはかる技術を習得せよ
法則36 手に入らないものは相手にするな。無視する事が最大の復習である
法則37 壮大なものを見せて人の目を釘付けにしろ
法則38 考えは自由でも、行動は他人にならえ
法則39 魚をつかまえるために水をかきまわせ
法則40 ただ飯を軽蔑せよ
法則41 偉大な人間の靴に足を入れるな
法則42 羊飼いを攻撃せよ、そうすれば羊は散り散りになる
法則43 相手の頭や心に働きかけよ
法則44 ミラー効果で敵を武装解除させ、あるいは激しく怒らせろ
法則45 変革の必要性を説け、ただし一度に多くを変えるな
法則46 あまり完璧に見せてはならない
法則47 狙ったところを超えて進むな、勝ったら引きどきを心得よ
法則48 かたちあるものなどない

12/28/2007

究極の人生論・ひろさちや












究極の人生論・ひろさちや



勇気のない人間は「奴隷」という。



「お母ちゃんはあんなお客さんに頭を下げているのと違うねんで、お金に頭を下げているねんで」



どちらでもいいことは、どちらでもいいんだよ。

ところがそういう時人間は、論理で決めようとする。どちらでもいいことは、論理では決めたれないのにな。

相談するのもダメ。うまく行かなくなったときに、その人を恨んでしまうからだ。



経済的には日本はもう滅んでいる。政治的にはとっくに滅んでいる。そして社会的にも滅んでいる。教育現場は混乱し、犯罪も自殺者も増えている。

言葉を換えれば、これは資本主義の崩壊だ。突出した資本主義国家は、日本とシンガポールぐらいしかない。米国にしても、フランスやイギリスにしても立派な農業国だからだ。

このところ、中国の食料自給率が落ちている。米国から食料を買っているから、中国は米国と戦争できない。食料自給率が低い資本主義国家は、日本とシンガポールくらいなのだ。それで国がもつわけがない。もう日本は、もっと家族を大事にする農業国家に生まれ変わるしか道はない。



宗教のない人間は、私は家畜だと思っている。私が思う宗教とは、「人間としての生き方を教えるもの」、ときには「人間としての生き方を強制的に押し付けるもの」だ。

今の日本人は、ときに「無宗教です」とか、「無心論者です」とか言う。それは、「私は人間としての生き方をしてません」ということを表明していることになる。では、そういう人は何かといえば、エコノミック・アニマルなんだ。持っている物差しはお金、それで畜生的な生き方をしている人たちだ。



葬式というものには三つの役割がある。

一つは死体の処理、もう一つは死んだ人間の魂の処理、最後が遺族の心の処理。

死体の処理は、宗教とは全く関係がない。



キリスト教徒とイスラム教徒は、ちっとも対立などしていない。対立をしているのは、似非キリスト教徒と似非イスラム教徒だ。戦争をしたがるのは、いつだって利権に目がくらんだ金持ちと政治家だ。



多くの日本人には自分のことを語る能力に欠けている。私たちは、どうもそれを磨いてこなかった。私自身も反省を込めて言うことだけど、「自分の気持ちは誰にも分かってもらえない」「女房にわかるはずがない」などと、人はよく言うね。でも違う。自分の気持ちが一番分からないのは、自分自身だ。



友達とはどういう存在か。たとえて言えば、その人間の借金を全部肩代わりしてやれる人間だ。その人間が困っているときは、自分の全財産を投げ打っても救ってあげる人間だ。しかも、相手も同じ気持ちでなければ友達とは言えない。極端に言えば、命だって投げ出すことができる関係が親友関係だ。

そんな友達はそうはいない。だから人間は皆、孤独なんだ。メル友は、友達ではないんだ。日本人はそのところを凄く誤解している。



ジェントルマンシップにおいては、ギャンブルも嗜みなんだそうだ。ただ彼らは負けることを承知で、「オレはこんな負けには動じないぞ」という胆力を養うためにギャンブルをやるという。

誰が言っていたが、「ゆっくり負けるのを楽しみながらギャンブルをやる」んだ。そういう人生は素晴らしい。



『負けを承知で共に戦うのが、あるべき家族の姿』



人の生き方を変えたければ、まず自分が変われ。



いじめは競争社会につきものだということがわかる。だとすれば、競争社会を止めさせない限り、いじめはなくならない。

少なくとも、義務教育の段階では競争をやらせるなと言いたい。だから、何につけ一切点数をつけない。評価しない。

ただし、高校以上は好んで進学するのだから、徹底的に点数をつけて、点数が足りなければ落第させる。温情主義はご法度である。

いずれにせよ、競争社会はいじめを伴うのだから、いじめはあるのだと思って欲しい。



我々の本質は、老いであり、死なのだ。老いつつあるのが人間なのだ。そうだとすれば、より老いた年寄りの義務は、若い者に老いの惨めさをできるだけ示してやることだ。

嘘をついて、本質を見誤らせてはいけない。嘘の情報に翻弄されてしまえば、そのときなって慌てる。

世の中の人や、政府は、年寄りは皆、はつらつ老人でいてほしいと期待を寄せている。そのほうが国は手間がかからないし、お金もかからない。マスコミも、こぞって「はつらつ老人」を特集する。

そんなことに騙されるな。

もっともっと、老いの惨めさを、赤裸々に示さなければいけない。それが年寄りの慈悲というものだ。

老人には、しょぼくれて生きる権利がある。しょぼくれて、ケチョンケチョンになって生きる権利がある。

12/22/2007

年を取ってから女性にモテる条件











年を取ってから女性にモテる条件

「知性」にあふれている
「ウィット」「ユーモア」のセンスがある
おこずかいに余裕がある
誰にも負けないスポーツをひとつできる

12/08/2007

失楽園の向こう側










失楽園の向こう側 橋本治

「社会から脱落しないように」のガイドラインがまずあって、人がそれに合わせるのは、私にとって、「なんかへんだ」でしかない。ところが、いつの間か、「金儲けする社会のあり方に合致しない考え方をするのはバカだ」というような考え方が一般的になってしまった。それは私にとって「バカじゃねーの」というようなものなのだが、「それを考えられないやつはバカ」という風潮があるのだから仕方ない。「社会のあり方」なんてことをああだこうだ考えもしたが、「もういいだろう」である。知ったこっちゃない。「自分は自分の道を行く」がノーマルに肯定されなかったら、社会もへったくれもない。

日本人が信じる「本来性」とは、「多くの日本人が共通して信じる建前」である。だから、こういう建前に従って立派に日本社会への適合をとげた人達の愚痴や説教は、くだくだしいばかりでよく分からない。「人と付き合う」とは、そのくだくだしさに我慢する時間のことだったりする。

それまでの日本社会は、「完成度の高い社会」だった。それが、「単一化された社会」に変わった。「完成度の高い社会」というのは、めんどうな社会である。なぜかと言えば、これが、「完成度の高さの維持」を求めるからである。一方「単一化された社会」は、そんなめんどうを要求しない。みんなと同じことをしていればいいのである。

単一化した社会への適合をうまく果たしたエリート達は、「決められたプロジェクトの実行」には有能であっても、「なにを新たになすべきか?」の知恵がない。

「”自分たちより上にあるもの”を想定して、しかし劣等感に取り憑かれない(とりつかれない)」というには、「セレブ」というとんでもないものに憧れる今となっては難しいことだが、節倹の美学が生きていた時代には、たいして難しいことではなかった。「それは自分たちには似合わない」という美学がりさえすれば、似合わないものの存在に心を動かされる必要がないからである。「美学を持つ」ということには、それだけの力がある。

閉鎖的なムラ社会で生きるためには「そこでの平均値」である。だから、閉鎖的なムラ社会の中で育った人間以外の社会に出て、それまでの自分の生活jパターンで暮らせなくなった時には、新しい「ここでの平均値」を探す。「よく分かんないけど、みんなこんな風にしているみたいだから、それに合わせておけば大丈夫だろう」という発想である。若いやつが、みんな同じような格好をして「よくいる若いやつ」になるのは、それをする彼や彼女が「自分もみんなと同じような若者の一人だ」と思うからである。

他人と同化するために、共有出来る”平均値”を探す。しかし「新しい平均値を探す」ということは、その人間がそれまで「閉鎖的なムラ社会で生きて来た」ということをあらわすものなのである。「流行」とか「社会の変化」と称するものに翻弄されて、平均値から平均値への移動を、まるでレミングの群れの一個体になったみたいに繰り返していたら、いやになってしまう。その愚を避けたいのだったら、それをしてしまう自分の頭の中をまず疑ってみることである。

自己主張が必要になるのは、先ず第一に、そこに危険がある時である。自分の権利が奪われそうになる、自分の存在が危うくなる―そういう時に”自分”を主張しなかったら、権利は奪われっ放しになるし、存在だって危ゆくなる。こう言えば「そんなの当たり前だ」と思うかもしれないが、しかし存外、こういう主張は少ないのである。

日本人は「自己主張の必要」を、根本のところで理解していない。「わざわざ”自己”なんてめんどうなもんを主張しないで済むのがいい社会だ」くらいに思っている。だから、肝心の自己主張が必要になった時、その”度合い”が分からない。

「自己主張の必要」を理解しない日本人は、「自己主張の必要がない世の中」に生きていることの幸福を楽しんでいる。「自己主張の必要がない世の中」とは、問題が起きてその問題を「ないことにしてしまおう」とする世の中である。”問題”をつきつけられても、「分からない」で逃げてしまう。なにか意見を求められても、「意見を言う」ということが大切な自己を主張することだとは思っていないから、それが言えない。「自分の意見」を言うかわりに、まず、「どういう意見を言えば、世間的に”いい意見”としてほめられるか?」という、模範解答を探す。自分が思ってなくても、「こう言えば”いい意見だ”とほめられそうだな」というウケ狙いをする。小学生みたいなもんだが。そのテの訓練が小学生の段階で止まっているから、それ以上のものが出てこない。
なんでそんな情けないことになるのかと言えば、日本人が、「自己主張をする人間は、周囲とは調和の取れない逸脱した人間だから、あまり意見なんかは言わない方がいい」と錯覚しているからである。だから、大勢順応のおとなしいノッペラボー人間ばかりになってしまう。それを、「まともな社会人のあり方」と信じているからである。

劣等感の強い男は、その劣等感を打ち消すため、自分を強引に「いい男」だと錯覚させる。「いい男」でもないのに、「いい男の真似」をする。その結果、「似合わない」という採点表が、「周囲からの視線」という形で送られて来る。それを見るも見ないも勝手で、「似合わない」とい採点結果を送られて来るそばから捨ててしまえば、「なんかへんだな・・・・」とう不調和が起こるだけである。

「一夜の愛」は「一夜の錯覚」で、錯覚の多い人ほど「一夜の愛」の数も多い。「一夜の愛」にだけ勤しむ人が、自分の仕事をなおざりにしてしまうのは、愛が人生とは別のところにあって、仕事が人生の真ん中にあるからである。「愛し合った翌朝」においても、まだ「愛の一夜」がそのまんま続いているのは、「まだ愛したりない」という欲求不満があるからであり、それは「永続すかもしれない愛」の初期段階に限ったことである。

愛を持続させるためには、そこに人生を混入させることが必須となる。愛の中に人生が入り込むとは、つまり、愛のさなかに空腹が襲うことである。「愛だけでいい」と思っている時、人は空腹を感じない。空腹を感じても、平気で我慢をしてしまう。
愛とは、「生きる本能」だえある食欲さえも超越してしまう、とてもへんなものなのである。

私は別に、えらくなりたかったわけじゃない。教科書に載りたかったわけじゃない。ただ、「えらくなることを恐れちゃいけない、教科書に載ることを恐れちゃいけない」と思った。

コミック編集という仕事は大きく分けて三つから出来上がっている。雑誌を育てること、作品を育てること、新人作家を育てること、この三つである。

12/05/2007

「杉浦日向子 一日江戸人」









「杉浦日向子 一日江戸人」

☆江戸ッ子度・十八のチェック
 ①衝動買いをすることがよくある。
 ②見栄っ張りだ。借金をしても、人におごったことがある。
 ③早口だ。よく聞き返される。
 ④何でも勝手に略語にしてしまう。
 ⑤気が短い。推理小説は、いつも初めに結末のページを見てしまう。
 ⑥定食より丼飯のほうが好き。
 ⑦意外と潔癖だ。濡れたお箸を気味悪がる。
 ⑧下着は白、必ず毎日取り替える。
 ⑨行きつけの床屋がある。
 ⑩おしゃれに無頓着のように見えるが、本人なりのこだわりがある。
 ⑪履き物にはお金をかけるほうだ。
 ⑫間食が好き。
 ⑬入浴時間は十五分以内、摂氏四十五度以上の熱湯に毎日入る。
 ⑭アガリ性だ。緊張すると、言動が怒っているように見える。
 ⑮異性交際がヘタ。いったんくっつくと、泥沼になりやすい。
 ⑯駄洒落が好き。人に嫌がられるほど駄洒落を連発する。
 ⑰ウソ話を本気で聞いて、後で笑われることがよくある。
 ⑱涙もろいほうだ。

十八項目パーフェクトなら、オメデトウ金箔付きの江戸ッ子。十五以上は、江戸ッ子の末裔の東京ッ子を名乗る資格あり。
十以上は並の東京人、ヒトケタ台は並の日本人です。

11/30/2007

ダバスバイブル






ダバスバイブル


目を見開いてまわりを見ろ。
多様性なんかこれっぽっちもない。
モノはあふれかえってが、どれも同じ。
われわれの表面もつるっとして包装されて皆同じ。
立ち上って叫ぼう、もうたくさんだと。CEOの奴らがブランディングと叫びぶものは洗脳に過ぎない。
今こそ、こんなトレンドを逆流させるべきだ。

11/06/2007

「正しい意思決定の五条件」&「12の徳目」


「正しい意思決定の五条件」&「12の徳目」



これは、私が信じている世の中の仕組みから見つけだしたものです。

①やりたいこと・楽しいことをやる

②自信のあることは、やってもいい

③自分のためだけのことではなく、世のためになること

④責任がとれること

⑤恨まれることはしない





一、 【孝行】親孝行をしましょう。

二、 【友愛】兄弟姉妹は仲よくしましょう。

三、 【夫婦の和】夫婦はいつも伸睦まじくしましょう。

四、 【朋友の信】友だちはお互いに信じ合ってつきあいましょう。

五、 【謙遜】自分の行動・言動を慎みましょう。

六、 【博愛】全ての人を愛し、助けの手を差し伸べましょう。

七、 【修学習業】勉学に励み、職業を身につけましょう。

八、 【知能啓発】知識・教養を身につけ、才能を伸ばしましょう。

九、 【徳器成就】人徳を高め、人格を高めましょう。

十、 【公益世努】社会や公共のために貢献しましょう。

十一、【遵法】法律や規則を守りましょう。

十二、【義勇】正しい勇気をもって、国のために尽くしましょう。


10/26/2007

快楽なくして何が人生




快楽なくして何が人生・団 鬼六

私の身体はガタがきているのか確かなんですが、気持ちだけはどういうわけか年を取れないんです。
それは私が若い頃から楽天家で快楽中心主義の人間だった故かもしれません。
快楽主義で世を過ごしてきた人間は気持ちだけは老け込まないのです。

人口が密集し、猥雑なものが絡み合い、犯罪が多発する中で排気ガスを吸いながら快楽を求める老人というのは絵にもなるし、詩にもなるということです。

大体、老人は年をとればとる程、温和になってきて、のんびりした暮らしを望み、老人ボケになっていくのが普通だが、快楽教団では年をとればとるほで、狡猾になり、卑猥になり、やくざっぽく仕上げていく。

10/12/2007

持たない!生き方 米山公啓


【「持たない!」生き方 米山公啓】


今思うと、捨て去ることの重要さを痛感する。次の生き方を求めるなら、今を捨てなければ、決して次のステップには進めないのだ。
捨て去ることで、喪失感はなくなる。守っていこうとするから、喪失感が起こるのであって、求めていくなら、そんなことはまったく問題はない。
肩書きも持たず、ものも所有しない潔さこそ、新しい人生の生き方である。それができなければ、新しいスタートには立てない。


過去を語らないことこそ、若さの証明であり、まだまだ前向きに生きるという姿勢の現れである。定年になってから、会社では有能だったとか、肩書きがどうだったとか語るのはやめるべきだ。
過去を語れば語るほど、現在の存在ではなくなってしまうからだ。未来を語れることが、若さなのだ。


病気はあくまでも個人の問題として割り切って、もっと前向きな楽しい話題にすべきである。「あいつはいつも自分の病気のことばかりだ」と陰でささやかれているかもしれない。
同情はされても、それだけのことで、自分の健康がそれで取り戻せるわけではない。だったら、病気のことを頭から排除しようと考えるべきだ。


人に教えるということは、自分も非常に勉強になる。素朴な質問に答えられなくなって、いろいろ調べなければいけない場面も出てくる。冷や汗もかくが、それが自分にとっても大きなメリットになるはずだ。
しかも、人に教えることは、自分の表現能力をアップすることにもなる。それが脳を若くする秘訣になる。人に教えられる何かを持っているということは、歳をとってもずっと大きい財産になるだろう。
教えることで社会とのつながりも維持できるのだ。


あえて自分を人前にさらすことが、評価を受けることにもなり、それが尊敬やいい評判となれば、脳が満足という快感を知って、また次の行動を起こそうとするようになる。
芸術家や芸能人が若いのは、常に人から見られているという緊張感を持っているからだ。
緊張感はストレスにもなれば、励みにもなる。年齢とともに人前に出るチャンスが失われることになりやはり、年老いていく原因でもあろう。


同窓会というのは、タイムカプセルを開けるようなもので、友人たちにあう時は、現在の肩書きなど関係なく、昔に戻ることができる。
いわゆる記憶の虫干しとして、過去の記憶を鮮明にさせることも、友人たちと語っていれば、可能である。忘れていたいろいろなエピソードを思い出すことができる。




【日本国破産のシナリオ ラビ・バトラ】

『人はいつでも利己的であると考えるのは正しくない。お金が絡んで来ると、人間は利己的になるのだ。



『健康に気をつけてほしい。特に精神的な健全性を維持することが重要だ。残念ながらこういった時期には、絶望的になって自殺する方が増える。やはりこの時期を戦い抜く精神力が必要なのだ。

10/11/2007

禅的生活のすすめ・ティク・ナット・ハン


「禅的生活のすすめ・ティク・ナット・ハン」 

他人の好ましくない言動を目にすると、私たちはすぐ不快になります。
特に自分の子供に対しては、いっそう敏感になるでしょう。
その時に理解と哀れみが充分でないと、私たちはつい相手の言動に刺激され、自分の中の苛立ちの種を発芽させてしまいます。
その結果、身体的な暴力や精神的な暴力を振るいかねません。
誰かに腹を立てているとき、人はその誰かを教え論せる状態ではありません。
そういうとき、どんな言動も慎むべきです。


どうか、自分が今苦しんでいるからといって、他人にひどい言葉を吐いたり、仕返ししたり、罰したり出来ると思わないで下さい。
そういうときも、自分の中の苦しみを受け入れる事によって、あなたは人を助ける事が出来るのです。
そういうときには自分の仏性を思い出すための瞑想を行ってください。
息を吸って、自分の未来の目覚めの力、穏やかさと哀れみをもてる能力を、もう一度深く信頼してください。


平和活動に従事する人は、強く、しっかりしていなければならないと同時に、心底から安らかでなくてはなりません。
平和活動には内面の安定が不可欠です。
自分自身に気付けなければ、人を助けることなど出来ません。
自分自身の悲しみや絶望、又は自分自身の内面の葛藤から逃れる為に、人を助けようとしてはなりません。
自分の内面が本当に穏やかで安定していない限り、いくら努力しても人の助けにはならないでしょう。私たちは先ず自分に対して気づきを実践し、自分に対して哀れみを深めなければなりません。そうすれば自分の中に平和と調和が生まれ、社会の変革にも役立てるようになります。

簡素な暮らしの実践には多くの利点があります。
必死に物を所有しようとしなくなれば、もう多くのお金は必要ありません。
したがって、それほど働かなくてもすむようになります。
そうなれば、有意義なことや楽しいことに多くの時間を費やせます。

これを見事に表した孔子の言葉があります。
「何処で充分となるかを知っていれば、おのずと充分となる。しかし充分になるまで待っていれば、決して充分にならない。」


「陛下、僧はほとんど自分のものを持ちません。ですから所有物を失ったり盗まれたりすることに対する恐怖がいっさいありません。森の中に独りでいても、木下でくつろぎながら安心して眠れます。恐怖から開放されているということは大きな幸せです。僧は富や名声を追い求めません。必要なものしか使わず、欲望とは無縁のままです。こうした何の心配もない安らかな状態で暮らせることは大きな幸せです。それが精神修養のもう一つの成果です。それはこの場でこの瞬間にも味わえます。」


私たちの社会は、名声や富や物質や快楽主義への願望に支配されてきました。
その結果、多くの人が精神的伝統や家族を切り捨ててしまいました。
権力やセックスや財産を追い求めることにしか喜びが見出せないと信じていたら、健全な家族などもてるわけがなく、意思の疎通も望めません。
幸せはモノを消費することからは生まれません。

10/08/2007

不運のすすめ 米長邦雄


不運のすすめ 米長邦雄


・落ち目になった時に人間の真価が問われる


思えば昭和三十年代前半の日本は、人と人との距離が今よりずっと近かった。そして誰もが率直で、がむしゃらだった。
先生が怒って生徒を殴ったり、廊下に立たせることなどは日常茶飯事だったが、そこには絆というものがあった。
だから、生徒も当たり前のことのように思っていたのである。
 今はそれがなく、人間同士の距離や間合いが離れすぎているような気がする。「カミさんとの距離がだいぶ遠くなった」と
言う人は多いであろう。昔は息づかいが聞こえるくらいに親近感があったように思う。
 酒、ケンカ、バカ騒ぎの類も少なくなった。子供の世界も、上品でよそよそしいお坊ちゃまとお嬢様だけになり、「ガキ」という
ものがいなくなったのは残念なことである。


人生で最も大切なことは、じっと耐えるか、それとも反論したり動きまわったりした方が良いかを的確に判断できるかどうかにある。
その判断に基づいて実行できるかどうかが次に大切である。動いた方が勝ちなら動く、静の方が後になって勝てるのなら動かない。
動か静か。この見極めこそが人生の岐れ目になる。


問題なのは、何をもって勝者、敗者とするのか、ということである。今、巷にあふれている「勝ち・負け」のスケールは、自分ではなく
他人が決めたものである。受動的な基準にばかり反応し、自らの価値観に基づいた能動的な幸福が軽視されている。
自分自身で幸福かどうかの判断ができないのは、当人にとって実に不幸なことであり、社会としても憂うべき問題だと私は思っている。


大切なのは頂点に立つことではなく、頂点へと続くはずの「道」を倦まず弛まず歩むことである。それを忘れた時、人は自ら「福」や「運」から遠ざかっていくのだ。


思えばこれまでの人生に、「不運だ」と思うことは山ほどあった。ほぼ手中にしていたタイトルを落としたとか、失言から喧嘩になったとか、株で損をしたとか、失敗も数々ある。
しかし、失敗をしても、「このあと、どうするか」を、いつも考えてきたつもりである。それは、いつも人生の節目となり、新たな幸運を私にもたらしてくれた。
「不運とは、実は幸福の根源なのです。考え一つで幸運に変えることができるのです」

10/03/2007

リバタリアン宣言・蔵研也



リバタリアン宣言・蔵研也



 



リバタリアンこそが自己の価値観に従って行動しながらも、その相対性を認めているのです。他人の独立した価値観にも敬意を払いつつ、同時に説得をみるという、真に市民的で健全な精神の持ち主たちだと言えるのです。



 



アイン・ランドの客観主義の主張する「利己主義」とは、日本語で言う自分勝手という意味の利己主義とはだいぶ違います。もちろん金銭的な利己性の問題ではありません。それはつまり「人間は一人一人が自分自身の価値観と、それを達成するという目的を持ち、その実現のためにのみ生きるべきだ」という意味での利己主義だといってもいいでしょう。



 



他人から独立した確固なる価値観の構築というのは、日本人にとってはまさに鬼門だと思います。科学からスポーツまで、私たち日本人は他人の価値観を気にしすぎなのです。そこからは横並びの文化は生まれ、それはそれで評価するべきことかもしれません。しかし、他人の批判にもかかわらず追求する自主独立の精神こそが、新たなる地平を作り出し、基準を設定してゆくのです。



人が素晴らしい価値だと思うものがあるなら、それがなんであれ、自分のもっている私有財産を投じてそれを支援すべきです。「自分の価値を社会に押し付けるために、誰か他人のポケットからお金を取り出そうなどとゆめゆめ思うことなかれ」というのが健全は道徳というもではないでしょうか。



「権力は腐敗する。絶対的な権力は絶対的に腐敗する。」



MITのコンピューター・サインティストのリチャード・ストールマンは「知の共産主義者」とでもいうべきカリスマです。彼は、あらゆる人類の知的資産は非排他的なものであり、前人の知的遺産の上に構築されている以上、すべてが共有されるべきだというのです。これは科学的な知識をみれば、想像できるかもしれません。科学上の知識は、まさに人類の共有財産であり、その成果は発見者の名誉と共にすべての人類に開かれているというのです。