12/29/2007
おそうじ風水術 林秀静
幸せが舞い込む おそうじ風水術 林秀静
(1)安心・安全であること
(2)快適であること
(3)家や町が栄えているかどうか
“ゴミには悪人がつく”という傾向があります。玄関にゴミを溜めたり、散らかし放題にしたりしていると、よからぬ客ばかりが訪れるようになります。あるいは、幸運を運ぶお客様が訪れなくなってしまいます。
嫌いなこと、絶対にしたくないことを、紙に書き出して、それらを捨てましょう。嫌いなことを自分の中からスパッと切り捨てると、かえって大好きで真っ直ぐに取り組めることが見つかりやすくなります。
「娯楽・遊興」の運で経済のバブル期でした。それが一転して、「土地、農業、信用」などを意味する新たな20年間に変わったのです。
最近、めっきり運が悪くなったと感じるあなた、運が悪くなるというのは、今までの自分の考え方ややり方が、時代に合わなくなってきたという証拠でもあります。もっといえば、あなたの頭の中がコチコチに凝り固まっているために、にっちもさっちもいかなくなっていて、「この辺でそろそろ頭の中も、身の回りもいっぺんキレイにする必要があるんだよ」というシグナルが発信されているのです。
12/28/2007
究極の人生論・ひろさちや
究極の人生論・ひろさちや
勇気のない人間は「奴隷」という。
「お母ちゃんはあんなお客さんに頭を下げているのと違うねんで、お金に頭を下げているねんで」
どちらでもいいことは、どちらでもいいんだよ。
ところがそういう時人間は、論理で決めようとする。どちらでもいいことは、論理では決めたれないのにな。
相談するのもダメ。うまく行かなくなったときに、その人を恨んでしまうからだ。
経済的には日本はもう滅んでいる。政治的にはとっくに滅んでいる。そして社会的にも滅んでいる。教育現場は混乱し、犯罪も自殺者も増えている。
言葉を換えれば、これは資本主義の崩壊だ。突出した資本主義国家は、日本とシンガポールぐらいしかない。米国にしても、フランスやイギリスにしても立派な農業国だからだ。
このところ、中国の食料自給率が落ちている。米国から食料を買っているから、中国は米国と戦争できない。食料自給率が低い資本主義国家は、日本とシンガポールくらいなのだ。それで国がもつわけがない。もう日本は、もっと家族を大事にする農業国家に生まれ変わるしか道はない。
宗教のない人間は、私は家畜だと思っている。私が思う宗教とは、「人間としての生き方を教えるもの」、ときには「人間としての生き方を強制的に押し付けるもの」だ。
今の日本人は、ときに「無宗教です」とか、「無心論者です」とか言う。それは、「私は人間としての生き方をしてません」ということを表明していることになる。では、そういう人は何かといえば、エコノミック・アニマルなんだ。持っている物差しはお金、それで畜生的な生き方をしている人たちだ。
葬式というものには三つの役割がある。
一つは死体の処理、もう一つは死んだ人間の魂の処理、最後が遺族の心の処理。
死体の処理は、宗教とは全く関係がない。
キリスト教徒とイスラム教徒は、ちっとも対立などしていない。対立をしているのは、似非キリスト教徒と似非イスラム教徒だ。戦争をしたがるのは、いつだって利権に目がくらんだ金持ちと政治家だ。
多くの日本人には自分のことを語る能力に欠けている。私たちは、どうもそれを磨いてこなかった。私自身も反省を込めて言うことだけど、「自分の気持ちは誰にも分かってもらえない」「女房にわかるはずがない」などと、人はよく言うね。でも違う。自分の気持ちが一番分からないのは、自分自身だ。
友達とはどういう存在か。たとえて言えば、その人間の借金を全部肩代わりしてやれる人間だ。その人間が困っているときは、自分の全財産を投げ打っても救ってあげる人間だ。しかも、相手も同じ気持ちでなければ友達とは言えない。極端に言えば、命だって投げ出すことができる関係が親友関係だ。
そんな友達はそうはいない。だから人間は皆、孤独なんだ。メル友は、友達ではないんだ。日本人はそのところを凄く誤解している。
ジェントルマンシップにおいては、ギャンブルも嗜みなんだそうだ。ただ彼らは負けることを承知で、「オレはこんな負けには動じないぞ」という胆力を養うためにギャンブルをやるという。
誰が言っていたが、「ゆっくり負けるのを楽しみながらギャンブルをやる」んだ。そういう人生は素晴らしい。
『負けを承知で共に戦うのが、あるべき家族の姿』
人の生き方を変えたければ、まず自分が変われ。
いじめは競争社会につきものだということがわかる。だとすれば、競争社会を止めさせない限り、いじめはなくならない。
少なくとも、義務教育の段階では競争をやらせるなと言いたい。だから、何につけ一切点数をつけない。評価しない。
ただし、高校以上は好んで進学するのだから、徹底的に点数をつけて、点数が足りなければ落第させる。温情主義はご法度である。
いずれにせよ、競争社会はいじめを伴うのだから、いじめはあるのだと思って欲しい。
我々の本質は、老いであり、死なのだ。老いつつあるのが人間なのだ。そうだとすれば、より老いた年寄りの義務は、若い者に老いの惨めさをできるだけ示してやることだ。
嘘をついて、本質を見誤らせてはいけない。嘘の情報に翻弄されてしまえば、そのときなって慌てる。
世の中の人や、政府は、年寄りは皆、はつらつ老人でいてほしいと期待を寄せている。そのほうが国は手間がかからないし、お金もかからない。マスコミも、こぞって「はつらつ老人」を特集する。
そんなことに騙されるな。
もっともっと、老いの惨めさを、赤裸々に示さなければいけない。それが年寄りの慈悲というものだ。
老人には、しょぼくれて生きる権利がある。しょぼくれて、ケチョンケチョンになって生きる権利がある。
12/27/2007
ギャンブラーのバイブル
12/26/2007
知的な大人へのヒント・林望
知的な大人へのヒント・林望
もてなしの心は金では買えない。やたら高い金をかけて特別の食器なんかを買い込んで、それを意気揚々と出す、そういう心がけはもてなしの美しい心から遠いものです。
大きな声を出さないということは、たとえばイギリスなんかでは、紳士の必須の教養の一つです。大声で話すだけで、もうその人間は無教養だと見なされる。だからともかく小声で話すように意識したい。
できるだけ、相手に嫌な感じを与えない。温かい感じを与える。そして、言っていることがはっきりとわかるように話す、ということはインテリジェンスを感じさせる良い話し方の最大の要件です。
人間四十になったら自分の顔に責任を持たないといけないといいますが、本当にそのとおりだと思います。たとえば、必死に勉強している受験生を見ると、いかにも勉強で磨いた顔をしている、という感じが見えることがあります。
顔というのは内面の窓、その人の人間性の看板のようなもので、内なるものが如実に顔に出ます。
叡智はただでは得られません。身銭を切ってこそ内奥にしみ込ませることができる。その対価を払わなければ、本当の情報を身につけることはできないと、このことだけはよくよく肝に銘じてください。
インテリらしい話し方ってのは、「自慢話」はだめなんです。その反対に行きたい。自分を戯画化しておのれを低くして話す、それが、まずもってインテリらしい話し方の基本です。
人間の心の修養というものは「どうやって自己宣伝をしないように自分を抑制するか」ということじゃないか、とこの頃つくづく思うことがあります。
インテリらしく、ということからすると、まさにここが人間関係の最代の留意点で、自己を抑制できるのがインテリジェンスです。そう思って、誰もがその点に注意して人と接したら、ずいぶん生きやすい社会ができるような気がします。
自己宣伝というのうは、実は「自信」ということと裏腹の関係にあります。「空き樽良く鳴る」と福沢諭吉の諭していますが、自己宣伝というのは、ある意味で未熟な自己を悟られまいとする防衛反応のようなもんであります。
12/24/2007
人生はサッカー?
人生はサッカー?
この世の九九パーセントの人にとっては、人生はサッカーみたいなものですよ。
ほとんど毎日が忍耐でしかない。忍耐で耐えて耐えて、日常を営々と繰り返す中に、一生に一度、シュートのチャンスがあるかないかぐらい。ほとんどいつも抑制されて、ずっと忍耐を強いられて。でもたまにはそういうチャンスがある。
そういう中でも、ドリブルを楽しめたり、一人、二人パスを抜いてみたりという喜びがあって、そういう演出を自分なりにして、あるいは人に仕掛けたりして、そういう能動的な動き方、それがたぶん人生の生活を楽しむいちばんの基本形だと思うんです。人生を楽しめる人というのはそういう人でしょうね。
人は、自分で感じたり、老いたり、習慣をやめるようになってしまうと、他人がどう言おうと、自分が好きなら好き、と主張できなくなってしまいます。しだいに大勢の中の一人として
しか振る舞えなくなってしまうのです。
そうすると大人数を相手にした数値のようなものに縛られはじめます。「この曲が好き」ではなくて、「この曲は売り上げベストテンに入っているから好き」になってしまうのです。
ある種の数値化されるようなものに縛られていると、人はだんだん生き方まで支配されることになってしまいます。物事の順番、上下関係、経済効率だとか、そういうものに自分の生き方や価値観を絞り込んでしまったような人は、数値にしばられ、自分の生きる時間を浪費するようになる。そして、だんだん楽しみに気づけなくなってしまうんです。
「人と同じ」ことではなく、「人と違う」ことに価値観を見出すということが、初めて「健全なる個人主義」なんです。
でも、人と違うことに価値がある、という伝統が残念ながら日本には少なすぎる。
今の時代の若者は「個人主義」のように見えるけれど、じつはそうじゃないんです。個性的なファッションろいいながら、みんな個性的なつもりで同じファッションを身につけている。
僕らの頃はみんなと同じことをするというのは何か恥ずかしいという、気概、ちっちゃなプライドみたいなものはみんな持っていたけれど、今は、特に若者は「みんなと同じことをやらないと駄目」みたいでしょ。
これはむしろ全体主義の始まりです。
みんながやっていることも、もしかしたらみんな、楽しくないかもしれない。
でも、みんながやっているから、やっているだけでね。
みんながやっているだけで楽しいぞ、というノリになっているだけなら、こんなつまらないことない。
そうじゃなくて、勉強も教えるけれども「勉強ができなくたって、人生はこんなに楽しく送れるよ」ということを学校でも教えてもいいんじゃないかと思うんです。昔は家や地域がちゃんと教えていたのですが、今、親にそれを教える能力がないのなら、そういうことを学校で教えること、少なくともゆとり教育の中で教える、ということがすごく大事なのではないでしょうか。大きな言い方をすると、これが現在のアメリカが持っている最大の強みなんです。娯楽でも、世界的な特許でも、何でもいろんな分野で世界一流クラスの人材をそろえられる。
日本は中途ハンパなんです。というよりも、世界一を目指さない。せいぜい目指すのは日本一。どの分野でもいいから世界一を目指せ、と言われたら、みんなもっとギラギラしてきます。韓国や中国のように。韓国や中国はもう日本を追い越せなんてセコイことは思わないです。追いついたと思っているから。だから彼らは世界を目指します。香港に行ったって、上海に行ったって、ソウルに行ったって、みんなギラギラしてる。をのギラギラが大事なのですよ。
こころ・と・からだ/五木寛之
こころ・と・からだ/五木寛之
本に書かれている事や、人の言う事、社会の常識となっていることを鵜呑みに信じて、自分が今感じている本音を歪めてはならない。僕は、自分の直感に従ってそう思います。
その時に両親が全身全霊で自分たちの愛情を息子さんに伝えた。つまり、精神的な<熱伝導>をしたわけです。息子さんは論理に屈したわけではなく、すべてを投げ打って彼を理解しようとした、その両親の熱に考えを変えたのではないでしょうか。
人間はできるだけたくさん笑い、できるだけたくさん涙を流し、ときには目いっぱい怒る必要がある。そういう喜怒哀楽の感情を深く味わって、自分のなかの<熱を高めることが、結局はその人がいきいきと健康に生きていく上で、大事なことではないかという気がするのです。
以前、作家で探検家のCWニコル氏と話した事があります。そのときに、彼が言ってたのは、極地探検のようなときに最後まで頑張れるのは、”礼儀正しい人"だということでした。
ニコル氏によれば、体育会系の一見バンカラで、物凄く強そうな人が、脱落していったりする。逆に、そんな極地のサバイバル生活のなかでも、きちんとヒゲを剃ったり、身だしなみを忘れない人のほうが、最後まで粘ったというのです。
「あきらめる」というのは、実は「あきらかに究める」ことだと言われてます。物事を明らかにし、その本質を究めること。勇気を持って真実を見つめ、それを認めることが、本当の「あきらめる」ということであるらしい。
強くあるだけが生きていく術ではないと、僕は思います。静かな強さ、優しい心を持つことは、それ以上に大切なことです。永遠の勝利を信じるなかからではなく、いつかは死によって敗れる者としての「あきらめ」のなかから、もう一度再生する人間。
自分を守るということは、いわば自立した人間の第一歩です。自分を守れない人間が他人を守ることなどできません。子供の頃から管理され、守られることに慣れた人間は、いつまでたっても一人前の大人になれないんじゃないかと思います。
ひとつは、薬によって簡単に頭痛がなおせるとするならば、結果的に人間にとってそれは悪い結果をもたらすであろう、ということです。もうひとつ、現在最もありふれた頭痛であるところの筋収縮性頭痛に悩まされている人たちは、実は欲望に踊らされ、欲望を掻き立てる社会の中で平安を失い、押しつぶされそうになっている人たちだ、ということです。
老人力:赤瀬川源平
12/23/2007
若いということ???
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