10/08/2007

不運のすすめ 米長邦雄


不運のすすめ 米長邦雄


・落ち目になった時に人間の真価が問われる


思えば昭和三十年代前半の日本は、人と人との距離が今よりずっと近かった。そして誰もが率直で、がむしゃらだった。
先生が怒って生徒を殴ったり、廊下に立たせることなどは日常茶飯事だったが、そこには絆というものがあった。
だから、生徒も当たり前のことのように思っていたのである。
 今はそれがなく、人間同士の距離や間合いが離れすぎているような気がする。「カミさんとの距離がだいぶ遠くなった」と
言う人は多いであろう。昔は息づかいが聞こえるくらいに親近感があったように思う。
 酒、ケンカ、バカ騒ぎの類も少なくなった。子供の世界も、上品でよそよそしいお坊ちゃまとお嬢様だけになり、「ガキ」という
ものがいなくなったのは残念なことである。


人生で最も大切なことは、じっと耐えるか、それとも反論したり動きまわったりした方が良いかを的確に判断できるかどうかにある。
その判断に基づいて実行できるかどうかが次に大切である。動いた方が勝ちなら動く、静の方が後になって勝てるのなら動かない。
動か静か。この見極めこそが人生の岐れ目になる。


問題なのは、何をもって勝者、敗者とするのか、ということである。今、巷にあふれている「勝ち・負け」のスケールは、自分ではなく
他人が決めたものである。受動的な基準にばかり反応し、自らの価値観に基づいた能動的な幸福が軽視されている。
自分自身で幸福かどうかの判断ができないのは、当人にとって実に不幸なことであり、社会としても憂うべき問題だと私は思っている。


大切なのは頂点に立つことではなく、頂点へと続くはずの「道」を倦まず弛まず歩むことである。それを忘れた時、人は自ら「福」や「運」から遠ざかっていくのだ。


思えばこれまでの人生に、「不運だ」と思うことは山ほどあった。ほぼ手中にしていたタイトルを落としたとか、失言から喧嘩になったとか、株で損をしたとか、失敗も数々ある。
しかし、失敗をしても、「このあと、どうするか」を、いつも考えてきたつもりである。それは、いつも人生の節目となり、新たな幸運を私にもたらしてくれた。
「不運とは、実は幸福の根源なのです。考え一つで幸運に変えることができるのです」

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