11/09/2007

健全な肉体に狂気は宿る






健全な肉体に狂気は宿る


基本的に人間というのは、困難な場所においては、自分の世界を狭めるものなんですよ。
健康なときだったら、全世界を相手にして生きることができる。でも、困難な状況では、とても世界全部を相手にすることなんてできません。だから、とりあえず一番小さなところまでキューっと絞るんです。


コントロール願望の強い人というのは、相手と自分の区別がつかないわけで。区別がつかないから、自分が思う幸せを相手に強要する。親はよかれと思ってやってることが、子どもにとってはいい迷惑だということは間々あることなんです。
でも、自他の基準が違うということがわからない。そうやって育てられた子どももまた自分が母親になると、同じことを自分の子ども相手に繰り返す。世代を超えても少しも「変化」しない。


子どもに対する親の仕事というのは、どうすれば子どもが気持ちよくなるのかということを考えることに尽くされると思うんです。


子どもの身体感覚にさえ目配りしていれば、あまり余計なことは言わなくても済む。快適というのがどういうことか、人から気づかわれるというのがどういうことかを気づかわれる側として子どもが経験していれば、そのうち自然に他人の快適さを気づかうことができる人になれると思うんです。そういうものって実地経験で覚えるしかないから。


「自分はこれがしたい」ということは一生懸命言うんだけれど、「自分は他人のために何ができるのか?」という問い方は思いつかない。
でも、「誰が自分の支援を必要としているか?」という問いを自分に向ける習慣のない人間は社会的には本当は何の役にも立たないんです。


ファンタスティックな「ライフスタイル・マガジン」が売れるというのは、言い換えると、自分のライフスタイルを自分で決めることができない人がすごく多いということでしょうね。子どものころからマニュアルで育ってきた世代が、三十代、四十代になっても、相変わらずマニュアルがないと暮らせないということなんじゃないですか。


「強く念じれば望みは実現する。ただし、自分の望んだ時期には実現しない」って書いてありました(笑)。
歳をとってみると、なるほどなあと思うんですよね。


自分自身が時間とともにどんどん変わっていくのに、遠い昔に立てた「人生設計」にいつまでも固執することに何の意味があるのか、一度ゆっくり考えて欲しいです。


ロングスパンとショートスパンと、どちらもないといけないんですけどね。例えば、ビジネスというのはショートスパンなんです。
四半期決算で収益が出たかどうかで測るわけだし、現にやったことに対してすぐにリアクションが返ってくる。ビジネスってある意味ほとんど無時間モデルなんです。
でも、例えば、家族なんてものすごいロングスパンじゃないですか。結婚生活とか親子関係みたいなものというのは、自分のやったことが正しかったかどうかなんて、四十年、五十年経たなければわからない。だからビジネス的に四半期の収益で成否を測ることのできる家庭生活なんてありえないですよね。だから、ロングとショートの両方がいるんです。


いま家庭がうまくゆかなくなっている原因の一つは、全部がショートスパンになってきて、本来ロングスパンで成否を見るはずの結婚や親子のあり方を「早く決断しろ、早く結果を出せ」というビジネス的な時間感覚が歪めているせいじゃないかな。


人間がまわりから受ける影響ってすごいですよ。無意識のうちに、信じられないくらい簡単に影響される。精神レベルだけじゃなく、身体レベルでも。誰にも経験があると思うんですが、ある種のフィジカルな波動みたいなものがあって、その人のそばにいるだけで、こちらの生命エネルギーがどんどんすり減っていってしまうような人間が現にいるんです。


もう少し広い視野を持つとか、もう少し高い視点から自分自身を含む風景を鳥瞰的に見取るということができないと、マジョリティとともにあるべきか否かの判断はできない。生態系の全体のバランスが崩れないなら、ある集団が全滅することだってあり得るんですから。
そのとき、そのマジョリティにとどまるかはずれるかの判断ができる人間とできない人間がいるわけです。マジョリティを見切ってそこから逃げる能力というのは、ふつうの家庭教育や学校教育では教えてくれない。当たり前ですけどね。特に母親は絶対教えない。だって、母親にとって子どもは「弱い生物」としてインプットされているんですから。母親は本能的に子どもに対して「つねにマジョリティと行動をともにしなさい」という圧力をかけてきますね。


「変人」戦略というものを採用する人がいるわけですね。春日先生とかぼくとか。「変人」というのは最初からマジョリティの端っこの方にいるわけですよね。群れの中にはいるんだけれど、いつでも逃げられるように端にいる。真ん中にいると逃げられないから。マジョリティの中にいれば絶対に安心だと思っている人は、どのへんに立ち位置をとるかなんてことはあまり気にしないんですよ。


人間というのは、他人から聞いた話というのはあまり軽々には信用しないくせに、自分がいったん口にしたことばというのは、どれほど不合理でも信用するんですよ。だって、自分で口にしたことばの現実変成力を自分の人生を賭けてでも証明しようとするから。
自分の口で言ったことは、言わないことよりも実現可能性が高いですから、他人のことばはどれほど合理的でも信用しないが、自分のことばはどれほど不合理でも信用するというのは、ある意味「正解」なんです。


身体は正直ですからね。そして、身体の方が賢いんです。身体は本能的になんとか生き延びようとしているわけですから、長生きできない方向に人間が行こうとすると、「やめなさい」と言ってくれるはずなんです。


「身体が感じる違和感に、忠実になれ」ということですよね。


ぼくもときどき人に対してひどいことを言うことがあるんですが、そのときの基準は一つだけ。悪口を言ったあとで気分が良くなるかどうか(笑)。
やっぱり身体に訊いてみるしかないわけです。だから、学生にもよく言うんですよ。「とにかくデートしなさい」と。そして、一緒にご飯を食べてみて、美味しかったら相性がいい、一緒に食べてご飯がまずかったら相性が悪い、と。


甲野善紀先生や竹内敏晴先生や光岡英稔先生も、みんな身体の内側の変化をみつめるといういうことをされているでしょう。
その方たちに共通するのは、何が「正しい」かじゃなくて、何が「気持ちがいいか」ということを探求しているということですよね。
身体のどこにも無理がなく、詰まりもなく、凝りもない、気持ちがいい状態を探り当てられれば、どのような条件に置かれても、その「いちばん気持ちのいい状態」にまっすぐ戻ることができるでしょう?そのときの「安定状態に一気に戻る」動きが爆発的なエネルギーを生み出すわけだから。身体的な気持ちよさというのは、そのまま武道的な意味での強さにつながっているんです。


ひとりひとりの人間にはその人にとっての「最適サイズ」というものがあって、それよりも大きくしても小さくしても、身体には障害が出てきます。
ぼくたちが探さなければいけないのは、今の自分にとっての最適サイズなんです。生存に一番有利で、身体的ポテンシャルが発揮できて、かつどこにも過負荷のかからないぴったりの体型というものがひとりに一体ずつ必ずあるはずなんです。それより太っても痩せても、どちらにしてもパフォーマンスは下がる。


人間が精神的に健康である条件について、四つばかり挙げておきたい。
●自分を客観的に眺められる能力。
●物事を保留(ペンティング)しておける能力。
●秘密を持てる能力。
●物事には別解があり得ると考える柔軟性。


客観的に自分を眺める能力が必要なことは当たり前であろう。反省とか良識とか羞恥心とかバランス感覚といったことに通じるわけで、これがないと育ちの悪いガキと変わらない。

ペンディングする能力、あるいは(精神的な意味で)中腰の姿勢に耐えられるだけの余裕といったものもきわめて大切である。
それは忍耐力とか不安に耐える力と言い換えられるかもしれない。あるいは一種の能天気さとか楽天性、「ま、何とかなるさ」とやり過ごせるだけのいい加減さに近いものかもしれない。気取って言えば、希望を持ち続けられる能力と称してもよかろう。

おしなべて我々は待つことが苦手である。待っているとイライラする。不安になる。猜疑心を抱いたり、悪い想像をしてそれに振り回されたり、被害者的になったり、ときには妄想レベルにまで思考が暴走する。基本的に、待つことは精神衛生上きわめて悪い。

だが世間の諸事は、すぐに結果や結論が出ることは少ない。大概はじっと待ちつづけたり保留しておいたりしなければならない。つまり生活にメリハリがつかな。生殺し状態にされる。保留がいくつも生じることで将来への準備や心構えは困難となり、未来は不透明で曖昧となる。不条理感が立ち上がってくる。

だが我々はそうした生煮え状態に耐えなければならない。焦ったり捨て鉢になっては、元も子もなくなる。待つ能力、保留しておける能力は、本人のみならず周囲の人々にも安定した気分を与えてくれる。

秘密を持てる能力に関しては、本文で語られているから特に付け加えることはない。わたしとしては、胸にそっと秘密を持つことにもっと楽しさを感じるべきだと思う。心の闇といったものではなく、むしろ光学写真機の暗箱のような豊かな闇を持つことが我々には必要なのである。


では、物事には別解があり得ると考える柔軟性についてはどうか。しばしば世間では心を病んだ人々の思考は支離滅裂とかデタラメに近いものと捉えている。だがそれは間違いである。彼らは往々にしてきわめて論理的である。いや、あまりにも論理的で整合性があり過ぎることが問題となる。

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