11/11/2007

身体の言い分・内田 樹と池上六朗








身体の言い分・内田 樹と池上六朗

武術の質の高さと人間的な質の高さは本来は合致するはずのものだと僕は思っていたんです。術技の高い人は、それなりに努力家だから人間的に立派であるはずだといレベルの経験的なリンゲージじゃなくて。
武道の修行そのものが、ダイレクトに、修行する人間の総合的な能力を高めていく。身体も知性も感受性も判断力も統率力も胆力も生命力も・・・・およそ人間の総合的な能力の全体を高めてゆくのが武道修行の本来の目的であると僕は漠然と信じてきたんですけど、そういうことを明確に理論化して、それを修行プログラムとして体系化している武道家って、ほとんど存在しないんですよ。「心技体の一致」とか「心身一如」とか「文武両道」とか、言葉はありますけど、じゃあ、どうやって「心技体」を一致させるのか、「心身一如」とはどういうプログラムなのか、ということを精密に研究して、言語化している武道家というのはほんとにレアなわけで。多田先生はそのまことに希有な武道家の1人だったわけです。

人間の体というのは、非常に汎用性の高い装置だと思うのです。だから、一つ出来ると全部に応用が利く。「武芸十八般」とか「武芸百般」とか言いますけど、たぶん一つ出来ると全部に応用できるような基礎的なOSがあって、それを開発しているんじゃないかと思うのです。

予言する人というのは有利ですね。時間的に先に行っているから。人間って、時間的に先に行っている人には絶対に勝てないんです。「ぼくは未来がどうなるか知っているよ」と言う人には絶対に勝てない。気後れしちゃうんですよ。
断言に根拠がなければないほど、言われたほうは「どうして何の根拠もないのに、こんな自信たっぷりに断言できるんだろう・・・・何かオレの知らない根拠があるのかしら・・・」というふうに疑心暗鬼になって、気後れしちゃう。予言というのは、根拠がわからないものほど遂行性が高いですよね。

武道の立会いというのは、「先を取った」ほうが勝ちなんです。「先を取る」というのは、別に物理的・空間的なポジションに相手より早く着く、ということではないんです。空間的に「速い」んじゃなくて、時間的に「早い」んです。時間的に早く動き出したものに、遅れた人間は必ずついてゆく。ついてゆかない。これはもうどうしようもないんですよ。空間だったら四方に逃げ場があるけれど、時間の流れって一方向しかないから、一秒でも先にいかれたら、あとはずっーとついていかなければならない。

武道の稽古で結局何をしているかというと、体を強く、早く動かす、ということではないんですよ。そんなことをしてもしようがないんです。そうではなくて、細かく動かすということなんです。
伝導性が高まるんですよ。身体的なシグナルの通りが良くなるんです。だから、体と体の接点から、わずかなシグナルを送るだけで、相手の体が大きく変化するんです。

子供の時に、自分は世界と調和している、世界の必然的な一要素なんだということを理屈じゃなくて実感できるような環境というのは、ある程度周りが整えてあげないと子供の能力では構築できないですね。社会的に整備してあげないといけない。

合気道をやっているとわかるんですけど、自分のことをどこまでだませるか、なんですよ。自分が自分のことをだましだまし、自分の持っているポテンシャルが増していくようにもっていく。そういうことなんですよ。つまり頭の仕事なんですけどね、知性の活動を妨害するファクターってやっぱり自分自身の知性にあって、まあイデオロギーとか思い込みみたいなもんですね。体もそうなんですよ。自分自身の身体イメージとか、自分の体はこうだ、と思い込む。それで体のシステムってかなりの程度まで構築されてしまう。

子供の時、すごく親に愛された人というのは、孤立することが怖くないんですよ。百人中九十九人があっちに行っても、「あ、そうなの。でも、僕はこっち」って、平気でこっちに行けちゃう。
だけど、承認された経験の乏しい人は、他社の承認がないと立ちゆかないから、絶えず周りの人の顔色をうかがってしまう。こっちがいいのかな、あっちがいいのかな、どっちをやったら褒められるのかなって、いつでも何かを達成しなくてはならないという強迫観念にとらわれている。自分の高い目標を設定して、これだけのことを達成したら、このアチーブメントに対してきっとみんなが褒めてくれるに違いないという期待をエンジンにして仕事をしちゃうから、ずーっと苦しいわけですよ。

親たちが子供を条件づけで愛するというやり方を止めてくれないような気がするんですよ。「これこれのことを達成したら愛してあげる」という、排便のしつけができたらとか、字をおぼえたらとか、ピアノの練習をちゃんとやったからとか、とにかく子供に対して承認を取引材料に使うようなことをしてしまうと、子供はもう一生その呪縛から逃れられないわけでしょう。どうして無条件にかわいがるということができないのかなぁ。

例えば、子供を幼稚園から有名なところへ入れて、小学校も名門校に入れて、中学もそのままエスカレーター式に進ませて。そうやって育てるのが愛情だと思っている人が多いみたいですね。でも、それだとやっぱり、常に、そういう価値観のもとで評価されている生き方なわけで、何か基準がないと、自分自身がなんだかよくわからない、という人間が育つと思いますよね。人から評価されないと、安心感が得られない。安心ってそういうものじゃないと思うんですが、なんだかそんな世の中になってしまった。

子育てなんて合理的なはずがないんです。なにしろ、無から有が生まれてくるんだから。それ自体異常な出来事なんだから、そこに合理性を持ち込もうとすること自体に無理があるのに、近代のどこかで、これからはこの方法でいきましょう、と、日本全体で暗黙のうちに合意してしまったような気がするんですよ。

他の人はいったい自分に何を求めているのか、自分はこの社会でどんな仕事ができるのかということをいつも考えている人の前には自然にドアが開くし、梯子も下りてくる。どんなことをやったらみんなに喜んでもらえるのか、自分の個性や力量は、どんなかたちでみんなの役に立つのかということをある程度集中的に考えないと、そういうことは起きないのです。
でも、出世を望む人たちは、考え方が違う。そういう他者からの求めというものは目に入らないんです。自分がこんなことをやったら誰が喜ぶかな、とかそんなことは誰も考えてない。自分がどうやったら褒められるかということは考えているんだけれど、その時の基準は自分で勝手に作った思い込みか、誰かに教えられた世間知みたいなものを後生大事に守って。

絶対にこれはやりたくない、ということを選びなさい、と言うんです。絶対にやりたくないことを選んだら、あとは全部できるでしょう、ということです。それで、私はこういう者です、と世間に対して知らせたら、あ、じゃあこの仕事をやってください、って向こうから来るから。自分でやりたいことを選ぶなんて言ったって、外から見てよさそうに見えることにはもう先人がいてね、その人にはすでに加速度もついているわけだから。後からのこのこ参入したって追いつくわけはなんだから、そういう選び方はやめて。絶対にこれはやらない、ということを選べば、あとはどんな仕事だって出来るわけですから。

「怒るな、恐れるな、悲しむな、憎むな、妬むな、悪口を言うな(言われても言い返すな)、取り越し苦労をするな」中村天風の七戒

取り越し苦労って、無限の可能性の中から限定した不幸な選択肢だけをよりのけて、「これが私の未来だ」と思い込むということですよね。
取り越し苦労をしている人って、傲慢な人間だと思うんです。何が起こるか自分はわかっていると思っているという点でまず傲慢だし、お気楽に過ごしているほかの人間に比べて、自分のほうがずっと濃密で重厚名人生を送っていると思っている点でも。態度悪いですよ。

日常生活のところをルーティンで固めて、微妙な空気の変化のようなものを感知する感受性を研ぎ澄ましておくと、実際に危機的状況の時に、他の人たちより流れの変化と言うか、場の空気が変わる時の潮目を見切るのが早くなるんじゃないかと思うんです。

毎日判で押したように平凡な暮らしをして、できるだけ通勤時間を短くするのが一番良いんですよ。アフターファイブに用もないのにどこかへ行ったりしない、とかね。まっすぐ家に帰るのが一番です。そういうことを誰もアナウンスしなんですね。逆のことばかり言う。

新しいものを追いかけるということは一切しなくても、自分にとって必要なものは全部、向こうからやって来るものですから。

そういう姿勢を貫いていたら、出会うべき人に出会うわけで。ちゃんとそこにいれば、それを信じていれば、素敵なことは向こうからやって来るんです。

おとなしく家でじっとして、きちきちと判で押したような生活をしていれば、必ず「あちら」からいいことが来るよって言っても、ぜんぜん信じてくれない。

学生で、心身が安定しているのは田舎育ちで家族が親密な子が多くて、情緒不安定で、ちょっと危ない子というのは、都市生活者で、両親とも高学歴で、母親が過干渉という家の子ですね。過干渉する親というのは放任する親より、ある意味でもっとも子供との距離が遠いんですね。

努力して、我慢して、不愉快な思いに耐えて、その結果、周りの人に嫌われる人間て凄く多い。そんなことしても誰も幸福にならないんだから、自分の中に生物学的に備わっている快不快の感受性を、もっと信じていいと思うんです。気持ちのよいことをしっかり追求していると、人間としてそんなに大きく間違うことってないですよ。

恰好よくなくちゃいけない。人に、これをやれば儲かるよとか、しんどい仕事はやめてこっちをやったら、と言われたら、それは確かにそうかもしれないけれど、恰好よく、というのは不合理でいいんです。

人間って、自分が死んだ時のことを考えている人と、全然考えていない人とでは生きている構えが全然違うと思うんです。今目の前で起きている事柄に対する気配りとか注意力とか、あるいは物事の儚さとかかけがえのなさとか美しさとかに対する感受性が、死ぬことを考えている人と考えていない人とでは、まるで違うでしょ。

「今生きていてつまらない」と言う人というのは、要するに、自分が死んだ時に人生を回顧してどんなふうに思うだろうという種類の想像を働かせる習慣がない人、ということですね。想像力の射程が短い人は、人生つまらないと思いますね。
人生を本当に楽しめる人というのは、いつだって自分が死んだ時のことを考えいるはずなんです。

話が通じない人と暮らし始めるとね、人間の器が大きくなるんです。器を大きくしないと生きていけないから。話が通じなくてもノープログレム、という方向への頭の切り替えが大事なんです。通じなくて困ったな、やだな、不愉快だな、と思っていたら結婚なんてやってられませんね。でも、それこそが結婚生活の「そこから出発すべき現実」なわけです。
結婚は契約なんですね。

みんな、日本人が一斉に同じ方向に行く、ということの恐ろしさをわかってないんですね。

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