1/30/2008
自己嫌悪ってなんだ?
自己嫌悪ってなんだ?
人間は二つに分かれる。
こういう言い方はじじい臭いな。
「やってみます。」という人間と、「むりですよ。」という人間と、である。
どうやったらできるかを考える人間と、すぐにできない理由ばかりを考える人間と、である。
そして、できる人間は自分でできるようになるのであり、できない人間は外からなにを言われてもできない。自分で決めて、自分で成長するしかない。
口先だけで偉ぶりたがるがまったく口ほどにもないサラリーマンは、ただ楽をしたいだけ、マイペースを崩したくないだけである。
職人のように技量が見えないから、ごまかしだきく。他人のせいにできる。
どちらがプロであるかは一目瞭然である。「そこなでやることはない」ではない。「そこまでやる」のがプロの仕事なのだ。
伊丹はこのようにも書いていた。
「私の経験では勉強のできない奴は概してずるい奴だった」(『女たちよ!』新潮文庫)。
「勉強」といってしまうとちょっとニュアンスがちがってくるが、頭が悪いということは、自分(の行動や思考)を客観視することができないということだ。
自分は認められていないと心で感じる者は、他人につらくあたる。このバアサンのようにである。だが自分を認めすぎている者もまた他人につらくあたる。
強さとは心の強さだ。
強いとは、心が強いことである。
復元する心であり、破れてもつくろうことのできる心だ。
さまざまな感情をしることによって、心は深くなりうる。
さまざまな経験をすることによって、心は広くなりうる。
ひとつの物事をつきつめることによって、心は粘り強くなることができる。
人と人の関係とは、心と心の関係のことである。
人間は心で生きている。
しかし、関係が無ければ心もない。
心は生じない。
関係が無ければ心は動かない。
人から認められたいと思うのは、心である。
認めてくれないといって神経がささくれ立つのは、心である。勝ったと思うのは心であり、負けたと思うのは心である。
試合に負けたのに、負けてないと強弁するのではない。
人生は試合ではない。
苦しみや重さを知るのは、心があるからである。
生きるとは、心が生きていくことである。
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