「身体から革命を起こす/甲野善紀・田中聡」から拾ってみた。
構造とは、認知のためのフィクションである。その構造上の因果関係で説明できる物語は、あらかじめ構造のなかに内包されている順序通りの展開にすぎないから、ウェルメイドな楽しさはありえても、感動にはならない。失敗の苦々しさはありえても、「やられた!」という爽快感などありえない。
いい学校を出て、いい会社に入って、大きな葬式を出しましたという人生がなぜ面白くないのかといえば、その展開が、社会の構造のなかに内包された典型的な筋道のままだからである。
どこをどう頑張れば成功できるかという要点をうまくおさえて要領よく生きることは、競技に必要な筋力を中心にしっかり鍛えようという科学的トレーニングに似ている。トレーニングは、競技でも生活でもない。将来に向けての努力である。鍛えられているのは、生きている今とは無縁な身体である。構造として鍛錬されるのは、時間が止まっている身体なのだ。
受験勉強で「正しい知識」を暗記するように、「正しい筋肉」を鍛える。どちらも生きることと切り離された、時間なき構築だ。
構造には、感覚は存在しない。メカニズムと情報があるだけ。緊張も、力も、運動も、メカニックな経過や
局面にすぎない。
だが感覚に目を向ければ、われわれの日常の体験は、そのようなメカニズムでは説明できないことばかりである。
だから構造をはみ出した現象は、神秘的と感じられると同時に、ごく当たり前なこととも感じられる。なぜなら、これまで機械性に奪われていた身体が、生きているものになるというだけのことなのだから。ただ、生きているもののことを、我々はあまりにも知らない。その未知の領野無限の広がりに神秘性を感じるのもまた当然なのである。
近代における身体観の転換は、生きているものとして人生を失わせたのである。
感覚が、情報を受信し処理することだなどとは思わなかった時代。
人が個人ごとに孤立しているなどとは思わなかった時代。
身体が筋肉をバネにして動くとは思わなかった時代。
そのような時代の人間観を、今日の人は蒙昧というだろう、だが、その時代の人たちは生きているものとして人生を送っていた。
それと引き換えにして我々が得たものは、せいぜい生活の便利さぐらいだろう。
しかも、その便利な環境にあって、ますます我々は生きている感覚を忘れつつある。
甲野の武術に影響を受けたさまざまな人たちの話を聞いてきたが、彼らは、みずからのうちに技的な身体の可能性を見いだし、生きているものとしての人生を歩む覚悟と喜びを選んだ、と言ってもいいのかもしれない。
生きている身体は、他の身体と響きあいながら、その響きや動きを留めようとする観念の檻を破壊してゆくだろう。
スローガンはいらない。
ただ、生きている身体があれば、そうなるはずだ。
これから、きっと日本は危機的な時代を迎えるのだろうが、だからこそ、理念を揚げて制度の延命をはかったりすることより、まず自分の歩き方を見なおしてみたりすることのほうが重要なのだと思う。
悠長で迂遠なようだが、身体観が変わらないかぎり、もはや変革すべき自体の核心には届かないのだ。
いや、そんなことより、なんといっても、生きることが面白く、楽しくなる。それは彊くなることでもある。
それこそ、今、もっとも求められていることではないだろうか。
身体から、すべては変わるのだ。
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