整体的生活術 三枝誠
ただし、転地、転職、転婚で人生を変えろといっても、それは、コロコロと職を変えろといっているわけではありません。でも何かひとつ、少し無理をしてでも新しいものを手に入れたりすると、そこからガラガラガラッと人生が変わってくるんです。
それから服装を変えるだけでも人生は違ってきます。そこで大事なのは、ちょっと無理をすること。転機の時、品物はバーゲンで買わないことです。私は安売りという概念が嫌いです。
涙が出るほど無理をして、高くても良い物をエーイと思いきって買うと、そういうエーイと思いきって買った苦しさの部分には運が上がる秘訣があるものです。
ある人が偉大な能力を持っていた場合、それと一緒に大きな欠落部分も持っています。
才能というのは言葉を換えれば、欠落ですからね。でも、その欠落を補ってくれるものがあって、初めて物事は動きだします。欠落を埋めた瞬間、初めて市民権を持ち、超人的な力が発揮されてきます。
仮に、才能ということを言おうとするなら、才能がある人ほど、間主体を大切にしなければなりません。人は、どんな人間関係を結ぶかによって、あっけないくらいに変わるものです。
天与の才能というものが少しはあるとするなら、自分自身を潰すような場所からは立ち去って、自分自身を活かしてくれる場所に出向く能力のことだと思います。ですから、ちゃんと「ノー」が言えることも大切な才能のひとつです。
大事なことは、気のパイプを自分は誰とつなげるかということです。
やはり人はクリエイターとして、なにかを生み出さなければいけないと私は思っているんです。
クリエイターに条件があるとするなら、その一番の条件は、孤独を知っていることでしょうね。
孤独は悪いことではないし、悲しいことではない。
大切なのは、孤独、忍耐、そして笑顔。クリエイターは孤独、忍耐、笑顔、そして、マメでなければいけない。
さらには、丈夫であることも大事。自分が健康であって、初めてものを作ることができるし、人間として生きていけるものなのです。
色恋沙汰で自分が狂った時期がないと、わからないということはある。狂われるのも迷惑ですが、狂ったことのない人間には語れないということもあるわけです。
好きとか嫌いとかいう感情は、非常に主観的な感情でしょう。でも、この主観的な感情も、ある外部的な事件が起こったり、社会的な制裁を受けたりして地獄をみると、人間は主観的な感情から距離を置くという、客観視を覚えるようになってきます。
自分の外側にもう一人の自分がいるという意識を持って、その俯瞰的な客観視の能力で、つらくてもしばらく頑張ってみる。
そうすると、そのあとに何がくるかというと、前向きの諦観というか、明るい絶望感みたいなものが出てくるのです。
つらい出来事があって、とても苦しい気持ちを体験すると、最初はだだっ子のようだった主観性が、客観性に変わって、そのあとにちょっと弛むんです。
自分では天動説だと思いこんでいたものが、ある時、絶望や挫折を味わって地動説になり、もう一度天動説に戻る。自分のつらい体験でそれを知る。
私のいう「身体尺度」とはそういうことです。
手首を切って血を流したり、身体ごといろんなものを抜けた人間が主観を超えて、客観を覚えて、もう一度、自分を中心に考えるところまで戻ってくる。
ユーモアがわかるというのも、自分を客観視できる人間かどうかということでしょう。
逆に、絶望感というのも、知性や忍耐力がない人には味わうことができないものです。
人間には、“溜め”の時期というのもあって、悲嘆とか慟哭といった状態を味わうような、自分にとっての耐え難い出来事と出会ってしまう時期があるんです。
そのときに激しく混乱した感情、あるいは深い悲しみをぐーっと我慢していると少しずつ抜けてきて、何かが見えてくるというのはあるものなんです。
要するに平均値でものを考えないようにしているんです。
自分の考えていることが、たまたま大多数の人の意見と一致するならそれはそれでいい。
ただ平均的なことが、即、正常なことだという考え方は大変危険だと思ってる。
「平均的なものは、別に正常でも健康でもない!」
私は、感謝という感情は、センスの問題であって、努力の問題ではないと思っています。
たとえば男女が別れる時だって、相手に嫌われているならば修繕は可能。
だけど、愛の反対は憎しみや嫌悪じゃなくて無関心だし、別れの際にとにかく一番こわいのは、感謝の言葉です。
別れの際の女性に「ありがとう」と心底言われた日には、どういう修繕も男女関係にはできません。
感謝というのは、本当に過去になってしまったものに対して抱く感情ですからね。
その感謝を現役でつきあっている人間に強制するというのは、非常にむずかしいことなのです。
ですから、感謝ほど自然に出てこないと意味がないものもありません。
身体的に無理な状況で感謝の感情を持とうとすれば、やはり身体を壊します。モラルの強制は、身体を壊す。
モラルというものも強制ではなくて、自然に発生するものなんですから。
物事をはかる尺度も身体に置いておくほうが、圧倒的に正しい。
この身体尺度から離れれば離れるほど、人間は他人の痛みも他人との距離も何もわからなくなってしまいます。
簡単にいえば、身体尺度というのは、わからないことは身体に聞けということなんです。
迷ったら、身体が行きたがっているほうへ行けばいい。そういうことには、いつも敏感でいたほうがいいと思いますね。
家風、なんていうのも身体記憶の一種です。
単なる遺伝よりも、親の教えや家風のほうが影響力を持つ怖いものだと思います。
たとえば、結婚しようとする二人の仲が、家風が違うということで壊れたりすることがありますが、あれは、つまり身体記憶が違いすぎると上手くいかないといういことなんですね。
私が見た一級の人間の特徴は、自分を客観的に見る能力、現状をちゃんと分析できる能力を持っている人ということですね、自分自身を一歩離れたところに置いて、それでいてきちんと自分を愛している。
やはり、一級の人というのは自分の身体に対する意識が高い人です。
二級の人間というのは、優れた編集の能力、情報を取捨選択して再構築する能力を持っている人だと思います。
その編集能力は一級の人間も持っています。
自分でものを作り出すことも、編集する能力も両方持っているのが一級の人でしょうね。
三級の人間というのは、保身的な人です。
地方でちょっと有名な人とか、地方の道場で一番だとか、そういう人は一見したところ他人に対してとても威張っていても、実は非常に脆いということが多いですね。
四級の人達は、いわゆる善男善女です。
不愉快にはならない人たちだけど、いろんな状況に流されて生きている人達ですね。
五級というのは、権力に弱いくせに権力を振り回す人間。なんらかの権威に守られていて、その権威をカサに自分が威張る。
競争社会に身を置かずに、狭い世界でエラソーにしている人達です。
それから一級の人と三級の人との大きな違いは、一級の人には、恐怖心をモチベーションにしないという強さがあるということでしょうね。
生きていく動機づけが、恐怖心ではなくて好奇心なのです。
恐怖心をモチベーションにしない人は、いまや希少価値です。
“考えないで怒る”というのも、とても難しいけれども大切なことです。
なぜならば、頭で考えていると、怒るタイミングを逃してしまう。悪く思われるんじゃないかとか嫌われるんじゃないかとかいろいろ考えているうちに、“怒りの機”を逃してしまうのです。
怒り方がヘタな人は、人の上に立てません。
十歳までの記憶というのは、とても大きいんですね。
記憶というものは本当に身体に染みつきます。
住居の話をしていると、身体記憶の話になってくる。
身についたもの、つまり身体記憶を書き換えるということは身体を変えるということでもあるんです。
たとえば、金持ちには金持ちの身体というものがある。
それから初代の金持ちの身体と2代目の金持ちの身体というのもあるんです。
金を稼ぐ身体と金を管理する身体とは違う。
そうすると、金持ちの身体じゃないかぎり、金持ちになってはいけない、ということが言える。
なぜならば、身体と金は、当然つながっていますから、金持ちの身体を持っていない人がいきなり大金を持っても、使いこなせないから単に貯めこむだけか、あるいは無駄に使ってしまうだけということになります。
身体記憶を入れ替えるしかない。
親と違うことをするというのは大変なことですから、結果としては身体が変わってきます。
自分がこれから親とは違う生き方をしようと思ったら、まず、見た目も変わります。
体つきだけでなく、顔も変わる、歩き方も変わる。逆にいうと、小さなことから変化をつけることで生き方を変えることができます。
住まいもそういうものの延長にあります。ですから当然、身体記憶と住居というのは、とても深い関係があるわけです。
「足湯くん」
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