9/24/2007

一回性の人生/梁石日



『一回性の人生/梁石日』。壮絶な人生を送っている人の言葉は説得力あるね。





管理社会はまだ、真実を大いに隠すシステムである。一種の思考停止状態であり、自分がいま行っている行為が何を意味しているかを自己判断する能力を奪われ、ひたすら没個性的な人間になることを要求させられる。何かに帰属したい。寄らば大樹の陰。

 

人間は本来、他者との関わりなしでは生きていけない。

 

親に米国型の個人主義の習慣がないのに子供にそのような個人主義が育つはずがない。身体の空洞化

 

人生には無駄な時間は不可欠であり、若ければそれだけ無駄な時間が多く過ごせる。無駄のない人生ほど無味乾燥な人生はない。

人生を豊かに過ごすという事は、社会の出来事にもっと関心を持って積極的に関与していく事だ。

ここでいう豊かさはただ単に物質的なそれを言っているのではない。

今の若者が失敗を恐れるのは、そんな豊かさの中で親から失敗への対処法を学ぶ事もなく、親も教える必要がないと思ったせいかもしれない。

 

傲慢と卑屈は裏と表の関係にある。

権力を持てばどんな人間も傲慢になる。権力もないのに傲慢な人間は、自分を錯覚して勝手に肥大化させているだけだ。本当の自分は十しかないのに、百くらいに肥大化させる。他人に対して傲慢な態度を取りながら、実はちっぽけな存在である事が分っているので、その裏に卑屈な心が生まれるのである。

 

文化を育てない経済は衰退していく。文化を育てる事が、とりもなおさず経済の活性化につながるのだ。蒔かぬ種は生えないのである。目先の利益だけを考えて長いスタンスでものを考えない経済人が多すぎる。

 

自分を信じる事は必要だが、自分を錯覚する事は危険である。

 

人間はどうしても楽をしたいと考え、楽なほうを選ぼうとする。だが、今楽な道を選ぶと、その分だけツケとして人生の後半にのしかかってくるのだ。人生のツケを先取りするのは至難の業だからだ。

 

物事は全て相対的なものであり、強い姿勢をとればとるほどその内部では益々大きな不安が膨れあがってくる。

きわめて不確かな未来を前にして、もっと一人一人がじぶんのこととして日本の進むべき道筋にたいしてはっきり声を上げて意見を言うべきだ。

 

金でなんでも買えるようになると、金は人間の欲望と切っても切り離せないものになっていき、権力とも密接につながっていった。

 

金は人間の感情や理性を全てさらけ出し、その人の人格がみごとに反映してしまう。そして、人生を左右するほどの力を持っているのが金だ。

金を儲けた人間は世の中にいっぱいいるが、金を持っていても使い方がわからない人がいる。金に対して強い執着心を持っている人である。「金持ち」といわれる人にこのようなタイプは多く、金儲けそのものが目的化しているのだ。

 

だいたい金儲けをしている人間は俗物なのである。きれいな手のままで金儲けした人間などいないと私は思うし、必ずどこかで手を汚している。一度汚してしまった手をきれいに洗う事などなかなかでくるものではない。

 

「おまえはこれまで友人に何かをやってあげたことあがあるのか」

やはり友情とはお互いに熱い思いがあり、相手のためなら一肌ぬいでもいいと思わせる関係でなければないだろう。互いの資質を認めて評価しあい、受け入れることができなければ友情は成立しない。

親友の付き合いはお互いの生い立ち、性格などを把握してないと成り立たない。利害関係があるかないかはともかく、親友と呼べる友人が一人もいないというは寂しいものだ。

 

土壇場まで目の前の厳しい状況と戦い続けるのはなかなか大変であり、それで事態が好転しないともう逃げる術がなくなってしまう。そうならないためにはたたかいながらもどこかで楽観的な心を持ち、いくつかの退路を残しておくのも必要な事だ。それも複数の退路を残しておく。要するに柔軟性ということである。

 

僕は荷物になるものを一つずつ捨ててきた。肉親、虚栄心、金、書物、最後の砦だったなけなしの自尊心までどぶに捨てた。お陰で身軽だ。いまや何の未練もない。

 

人間はいつかは労働と真剣に向き合わなければならない。働くということは人生そのものであり、人間はさまざまな職業で生きる糧を得ながら生涯を送る。

労働の喜びは創る喜び、達成する喜び、自分の能力を確かめる喜び、社会に貢献する喜びである。

 

若い人たちの中には、企業に勤めながら、音楽が好きであれば仲間を募ってバンドを組み、仕事がオフのときに演奏活動を展開するなどの動きも見え始めた。若者世代が生き方に対して幅広く考えるようになってきたことはいいことだと思う。企業の中での労働に埋没して思考停止状態に陥るのを避けるためにもこのような考えは必要なことだろう。

 

倫理観、道徳観などは権力側が自分達に都合のいいようにつくってきたものだ。

人間性というものは人生の中で絶えず崩壊したり再生したりするものである。一貫して人間性を貫き通せる人は極めて少ないし、とかく過ちを犯すことが良くあるのが人間なのである。

 

人生の時間は絶えず再生の可能性があるのだから、本当にやりたいことがあればいったんは捨ててもまた再開できるはずだ。そこに新たな可能性が生まれる。

自らの運命に楔を打つことは、時代の流れにあえて逆らうことである。いいかえれば、流されていく自分を流されていないようにすることである。

 

自分の過去や記憶を自信に都合よく拡大解釈してしまうと、他者に対してきちんと向き合う事ができかくなる。そうならないためには自分や自分を取り巻く社会などあらゆる物事に対して、常に等距離でみることのできる批評精神を養うことである。

 

人間の意識の変革は簡単にはいかないものだ。自分では変わったつもりでも、本質的に変革をとげるのは至難の業である。

 

 

 

 

 

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