12/28/2007

究極の人生論・ひろさちや












究極の人生論・ひろさちや



勇気のない人間は「奴隷」という。



「お母ちゃんはあんなお客さんに頭を下げているのと違うねんで、お金に頭を下げているねんで」



どちらでもいいことは、どちらでもいいんだよ。

ところがそういう時人間は、論理で決めようとする。どちらでもいいことは、論理では決めたれないのにな。

相談するのもダメ。うまく行かなくなったときに、その人を恨んでしまうからだ。



経済的には日本はもう滅んでいる。政治的にはとっくに滅んでいる。そして社会的にも滅んでいる。教育現場は混乱し、犯罪も自殺者も増えている。

言葉を換えれば、これは資本主義の崩壊だ。突出した資本主義国家は、日本とシンガポールぐらいしかない。米国にしても、フランスやイギリスにしても立派な農業国だからだ。

このところ、中国の食料自給率が落ちている。米国から食料を買っているから、中国は米国と戦争できない。食料自給率が低い資本主義国家は、日本とシンガポールくらいなのだ。それで国がもつわけがない。もう日本は、もっと家族を大事にする農業国家に生まれ変わるしか道はない。



宗教のない人間は、私は家畜だと思っている。私が思う宗教とは、「人間としての生き方を教えるもの」、ときには「人間としての生き方を強制的に押し付けるもの」だ。

今の日本人は、ときに「無宗教です」とか、「無心論者です」とか言う。それは、「私は人間としての生き方をしてません」ということを表明していることになる。では、そういう人は何かといえば、エコノミック・アニマルなんだ。持っている物差しはお金、それで畜生的な生き方をしている人たちだ。



葬式というものには三つの役割がある。

一つは死体の処理、もう一つは死んだ人間の魂の処理、最後が遺族の心の処理。

死体の処理は、宗教とは全く関係がない。



キリスト教徒とイスラム教徒は、ちっとも対立などしていない。対立をしているのは、似非キリスト教徒と似非イスラム教徒だ。戦争をしたがるのは、いつだって利権に目がくらんだ金持ちと政治家だ。



多くの日本人には自分のことを語る能力に欠けている。私たちは、どうもそれを磨いてこなかった。私自身も反省を込めて言うことだけど、「自分の気持ちは誰にも分かってもらえない」「女房にわかるはずがない」などと、人はよく言うね。でも違う。自分の気持ちが一番分からないのは、自分自身だ。



友達とはどういう存在か。たとえて言えば、その人間の借金を全部肩代わりしてやれる人間だ。その人間が困っているときは、自分の全財産を投げ打っても救ってあげる人間だ。しかも、相手も同じ気持ちでなければ友達とは言えない。極端に言えば、命だって投げ出すことができる関係が親友関係だ。

そんな友達はそうはいない。だから人間は皆、孤独なんだ。メル友は、友達ではないんだ。日本人はそのところを凄く誤解している。



ジェントルマンシップにおいては、ギャンブルも嗜みなんだそうだ。ただ彼らは負けることを承知で、「オレはこんな負けには動じないぞ」という胆力を養うためにギャンブルをやるという。

誰が言っていたが、「ゆっくり負けるのを楽しみながらギャンブルをやる」んだ。そういう人生は素晴らしい。



『負けを承知で共に戦うのが、あるべき家族の姿』



人の生き方を変えたければ、まず自分が変われ。



いじめは競争社会につきものだということがわかる。だとすれば、競争社会を止めさせない限り、いじめはなくならない。

少なくとも、義務教育の段階では競争をやらせるなと言いたい。だから、何につけ一切点数をつけない。評価しない。

ただし、高校以上は好んで進学するのだから、徹底的に点数をつけて、点数が足りなければ落第させる。温情主義はご法度である。

いずれにせよ、競争社会はいじめを伴うのだから、いじめはあるのだと思って欲しい。



我々の本質は、老いであり、死なのだ。老いつつあるのが人間なのだ。そうだとすれば、より老いた年寄りの義務は、若い者に老いの惨めさをできるだけ示してやることだ。

嘘をついて、本質を見誤らせてはいけない。嘘の情報に翻弄されてしまえば、そのときなって慌てる。

世の中の人や、政府は、年寄りは皆、はつらつ老人でいてほしいと期待を寄せている。そのほうが国は手間がかからないし、お金もかからない。マスコミも、こぞって「はつらつ老人」を特集する。

そんなことに騙されるな。

もっともっと、老いの惨めさを、赤裸々に示さなければいけない。それが年寄りの慈悲というものだ。

老人には、しょぼくれて生きる権利がある。しょぼくれて、ケチョンケチョンになって生きる権利がある。

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