ヨガの喜び・沖正弘
活用能力とは、敵を味方にする力のことだ。あれはだめ、悪い、害だ、などの否定的な言葉を言う前に、相手をどうしたら救えるか、高められるかを考えるべきだ。
相手が敵だと思っている間は、こちらはおどおどしていなければならない。そんな否定的で消極的な気持ちでいるうちは、心は安定していないし、強い心を持っているとは言えない。
相手に何度背かれても、最後まで愛することだ。自分が腹を立てたら、自分の負けになる。
活用能力のことを、「愛」という。
嫌いな友達とも付き合い、病気にかかっても感謝する。そしてその友達を好きになる方法、病気を活かす方法を考える。これは「祈る」ということでもある。
例え嫌でも、とにかくやろうとするところから強い心、しなやかな心は生まれる。
現代人のように、考える力ばかり練習していると、感じる力は衰え、生活は間違ったものになるのだ。
でも、この考える力は、人間はどんなに進化しても、生命があるかぎりその基本として働きつづけている。いま見えなくとも、ただうずもれているだけだ。「第六感」、「虫の知らせ」、「嫌な予感」というのがそうだ。
瞑想方法は、感じ方、考え方を正し、高めるために行う。その行法では、まず無心になることを説くが、その前段階が一心になること(ダラーナ)である。
一心とは、たったひとつのことだけに、心を集中することである。見る時には見ることにだけ徹する。聞くこと、歩くこと、考えることも、徹すれば、感じる力が協力してくれるようになる。一心をつづけていると無心になるのである。
心が分裂していては、感じる力は働かない。だから、困った時ほど騒がず黙っている。心を静かにしていれば、どうしたらよいか自然にわかってくる。
いまの教育は、知性開発の訓練ばかりしていて、感じ方開発の訓練をおろそかにしている。芸術科目だけは感じる能力の訓練になるはずなのだが、その 時間はごく少ないし、型にはめる練習法しかやっていない。絵を描くときも、お手本のようにきれいに描くことだけが念頭にある。これでは何にもならない。
ほんとうは、自分がどう感じたかそのままを、色や形で表現したものが絵である。
踊りや音楽も同じだ。うれしさや悲しさを、無心になってそのとおりに体や音で表現するのが芸術のはずだ。
無心になってのものごとをじょうずに行うコツは、遊びにあるかもしれない。
金があると思うから心配したり、不安になったり、疑ったりして少しも落ち着かない。心が執着してやまいものから、しばらく心を意識的につきはなし、 自己の心身のありようを客観的に見つめてゆく。あっても、ない。あるいは、なくても、ある。自分をいつも反対の状態、極限の状態に置いて、意識的に練習を つづけてゆく。
壁にぶつかったら、心を集中して何度でも、挑戦する。そして、もう打つ手がなく、力を出し尽くして、心を無にしたときに、壁の向こうが見えはじめる。
だから、自分がとことん打ち込める何かを発見することは大切なことだ。努力しつくさないと本当に信ずることは出来ない。考えに考えないと、その考えの渦から抜け出すことはできない。
「おまえにこの人間をあずけるから、その問題の解決に手を貸してあげなさい。それがおまえのためでもあるのだ。この人間が救われなかったら、おまえも救われないよ。」
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