7/31/2007

実践冥想ヨガ・生活編


実践冥想ヨガ・生活編/沖正弘

自分が本当の意味で自由自在にいきていてこそ、相手も自由自在に生かすことができるのです。こちらがとらわれると相手もとらわれ、こちらが嫌うと相手も嫌ってしまう。このように自分も生き、相手も生きる世界が悟りの世界です。無になるための修行法が禅であるのです。

人間的霊能者とは、感謝心、懺悔心、下坐心、奉仕心を持ち、愛の心で愛の生活が出来る人のことです。愛とは一番正しく物事を把握し、一番正しく物事を実行することですが、この基本が感謝、懺悔、下坐、奉仕の心なのです。このためには体を柔らげること、心は安らげること、生活は楽しむことが必要なのです。ヨガの肉体的訓練はすべて体を柔らげるものであり、この原則が笑いです。そして、体全体を笑わせるものが呼吸法なのです。心を柔らげるには喜びを感じる必要があり、喜びを感じるには感謝心がなければならないのですが、おかげを感じないと感謝心は出てきません。楽しみは相手に喜びを与えたときに自分の手にすることができるものです。自分だけ喜んでも本当の楽しみは与えられません。仕事においても、仕事が喜んでくださるような仕方をしたときに、こちらも楽しくなれるのです。

本当の儲けとは、自分の儲けと相手の儲けと社会の儲けとがピタリと一致した場合をいいます。自分だけの儲けでは偏りがあります。自分と相手と社会の儲けを併せると大きな儲けになります。

引けば引かれ、いじめればいじめられ、泣かせば泣かされる。困らせれば困らされる、騙せば騙される。これが自然の法則です。私は、日々の生活と仕事は、どれだけ自分の全力を投球できるかを見るためにあるのであり、このすべてへの全力投球の生き方が自己にノルマをかけることであり、この自己にノルマをかけた仕事の仕方をするとき、はじめてその仕事が自分の仕事になるのであると思っています。

才能は喜びを感じる刺激を与えた時に伸び、良い人間にもなりえます。体が喜べば健康になり、心が喜べば幸福になるのです。ですから、どうしたら喜べるか、どうしたら喜ばすことができるかを意識的に考えるのです。喜びを感じない生き方をしていると疲れてしまいます。疲れないための原則は、心、体、仕事に対して柔軟性を持つことです。出来るだけ広く学ぶと人生が面白く、愉快で楽しくてたまらなくなり、よいアイディアも浮かんできます。

教育とは、自分が犠牲になる覚悟でするものです。相手を裁きたかったら、先ず自分から裁くのです。

私たちは何を学ぶにも、先ず自己流の考えを無にして正しい型に入り、その型の中で正しい方法を体得するのが自己の開発法であり、ものを正しくなすコツに至る道であると思います。これを「心眼を開く(開眼)」というのです。体の働きを正しくし、心を鎮めて、永遠の安らかさ(ニルヴァーナ)の中で、自然に出てきた感じを音に表すのが音楽家であり、色にするのが画家であり、文章にするのが文筆家で、事業にするのが事業家ではないでしょうか。心の成熟は「次第に」ですから、何事も年期を入れなくてはならないと思います。あせらず、しかし怠らずにです。表現は心身の練磨と、心身の環境の調和によってなされるものですから、自分がどういう状態であるかということが決定点です。

一切の煩悩から離脱して、身構え正しく、一物に心を込めて、無心にことをなすのが真実(コツ)に至る道ではないでしょうか。すなわち冥想行法の実践です。
その意味で、日本の生花や茶道や武道の発生、その発達によって教えられることの多いことを感じます。これらの、心を静め、心を清める芸道は、生死の真っ只中に立たされている武士たちによってつくられたものです。
私は華道とか茶道とかは美の宗教であり、武道やスポーツは道の宗教であり、日本文化の特徴は求道を中心にしているところにあると思います。求道を目的としている武道やスポーツは、勝負がその目的ではなく、心の修養がその第一目的となっていて、修行を通じて大自然の法則を体得して、その真理に沿った生き方の工夫をする自己完成の道です。静的な求道でも動的な求道でも、その原則は心を統一し、安定した姿勢をとり、丹田力を充実させ、意識を明確にしうる呼吸で行うことです。とくに動的訓練は、千変万化の動作をして、しかも乱れない心と安定した体をつくるのがその目的です。

人間は文化生活と称する不自然な生き方をしていますから、このアンバランスな生活の中でバランスを回復し、維持する能力を身につけない限り喜びは与えられません。自然法則とは「絶え間なく変化しながら、しかも安定性を保っている」働きです。アンバランスをバランス化してしまうことが救われる原理なのです。

今時分が困っているのは、誰が悪いのでもなく、今までほかを困らせてきたことの証明書なのです。自分を支配している法則と、社会を支配している法則は共通の法則です。生活の上で悪いことは心身の上でも悪く、仕事の上でも悪いのです。人間として成功する者は、そのまま生活で成功し、仕事で成功し、社会で成功することができます。自分が自分に成功することは、自分を大切にすることです。宗教的な言葉で「自分を拝むことが出来る者がはじめて他を拝むことが出来、自分を愛することの出来る者が、はじめて他を愛することが出来、自分を大切にすることが出来る者が、はじめて他を大切にすることが出来るのです。そして、自分を活かすことの出来る者がはじめて他を活かすことが出来、自分を管理できる者が、はじめて他を管理出来る」と教えています(自業自得の原理)。

筋肉を柔らげるためには心の力を抜くことが肝要で、このコツが呼吸を深く静かにすることです。頭にカッとくるようではダメです。いかなるときも冷静さを保っていることが心の修養であり、その秘訣が宗教心を身につけることです。そしてその第一歩が意識的に有難いと思うこと、依頼心を捨てることです。依頼心を持っている限り、そこには憎しみ、不平、不満が生じてきます。一切のことを自分でやるのだと思えば不平、不満をいう相手はなくなるはずです。心の平安を保つには「乞食根性」と「ヤクザ根性」を持ってはいけません。他に依頼心を持つことは、乞食根性を持っていることです。恩を売るのをヤクザ根性といいます。恩はただひたすらにかんじるべきものであって売るものではありません。無条件の善事がまことの善事であり、このまことの善事なら、業を残さないから、自然的に無執着心になれるのです。

頭を軽くし筋肉の力を抜くコツは呼吸をととのえることです。胸を張って肩を下げて、わきの下の力を抜いて下さい。感情をコントロールするのは胸であり、欲望をコントロールするのは腰であり、思考をコントロールするのは首であります。

冥想行法は、自己流の考え方や囚われた考え方から離れる修行ですから、どのようなことにも、引っかかったりしないことが肝要で、悟ろうと求めたり、奇蹟や神助を祈ったり、治りたいと願ったり、真理とは何かなどと、求めても考えてもいけないのです。ただ無条件に行うのです。すなわち生じるままに生じさせ、滅するままに滅しさせるおまかせの心になるのです。見性、見神による信仰心が最高のおまかせの心であり、この心は安定していて静寂ですから、明鏡止水の状態とか、超えた心とかと形容し、何も求めていないかのような状態なので、無心というべきものです。

私は自由に求道したい心から、生涯何にも属さず、できる限り多くのことを体験するという生き方を続けて、約五十種のちがった職種の体験を持っています。商売とは、お客様に喜んでもらい、ほかの売り上げも伸ばしてあげるという、商道にまで引き上げてこそ価値があるのです。

安易な道を選ぶのは商売をする者のとるべき道ではありません。売れない商品を仕入れると、売るためには、どうしても全力投球しなければなりません。あらゆる知恵を総合しなければならないのです。自然に、あらゆる方法を研究し、知恵を高めていくことができるのです。

科学がそのまま哲学であり、哲学がそのまま科学であり、医学がそのまま宗教であり、宗教がそのまま医学であり、心理学がそのまま体育学であるというようになったとき、はじめて人間育成の学ということができると思います。それはこれらの学が人間とその生活に直結するものだからです。心の注意力と体の注意力が最高の状態で協力結合して、ある一つの目的物へ全力を集約傾注できるようになったときが統一状態で、このことを繰り返して行っているうちに相手のことがそのまま自分のことのように分かるようになったら、これが自他一如の境地です。この自他一如になったときが合掌礼拝の境地であり、相手のことがそのまま自分のこととして考えられ、感じれるようになったときが、本当の意味の和合(三昧)であり、ここに真の平和と自由の世界が生まれるのです。

「生命力を弱めている者ほど、心身の働きの失調者ほど、外的条件を多く要求するのである」

直感、直覚を働かせる秘訣は、何に対しても同じことです。それは、好きになることです。関心を持つことです。愛の心をそそぐことです。発見、発明はこの心から生まれるものです。仕事が好きになれば、仕事の方が感じ方、読み取り方、やり方を教えてくれるようになります。これが三昧です。

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