武道の力 時津賢児
目は二つあるから遠近感がでて物の奥行きを捉えることができるが、目が一つしかなかったら物は立体的には見えない。
それと同じで、日本のことを立体的に捉えるためには、日本の外から日本を眺める目を持たなければならない。
言い換えると、日本の中だけに住んでいたら、日本の姿は立体的に捉えることはできない。
外から日本を見る第二の視点が必要なのだ。
だが、日本社会の延長のような海外生活をいくら長くしても、第二の目を得る持つことは難かしい。
その国の生活習慣の中にどっぷりと浸って、数々のカルチャー・ショックを通過することによって初めて第二の目を持つことができる。
そのためには頭が柔らかく感受性の高い若者のエネルギーが必要だ。
しかし、余り幼いうちに異国の生活にどっぷり浸ってしまうと、言葉は上手になるに違いないが、日本人としての自己の確立がなければ、日本人としての第一の目さえ持つことができない。
日本人としての自分があるから異質な文化と衝突してショックを受け、それによって自分を鍛えることができる。
そうした経験をするのは二〇代の前半が最も適していると私は思う。
日本に帰っていつも驚くのは、自分本位の見方の人が圧倒的に多く、なかなか物を相対的に見ようとはしないことだ。
世界の情勢を客観的に捉え、諸外国との関係を相対的に把握し、日本が置かれている状況を正確にキャッチできる目を養うことが、これからの日本の若者には必要なのだ。
原水爆をかかえた現代世界で、最も戦略的効果の高いのは平和状態をもたらすアクションである。
だがそれは、「平和、平和」と叫べば得られるものではなく、対立しあうさかざまな力関係を認識でき、それらのバランス状態に持っていく彗眼と意思力が必要だ。
武道は戦略と戦いの技術を基にしている。
武的発想でいえば、平和というのは、「相手のことをよく知り、同時に自分のこともよく知っているから、戦いはできない。」そういったバランス状態のことである。つまり、バランスが壊れると戦いはいつでも起こりうる、ということを前提としている。
残念ながら、人間にとって平和というのはユートピアではなく、対立する多数の力の均衡状態である。
こんな言い方は日本人には受けないかもしれないが、長い間、絶えず国境を守って生きてきたヨーロッパ人にとっては常識的な感覚である。
内と外の緊張関係をはらむ国境感覚はヨーロッパ人にとって常識であるが、それが日本人には欠落している。
カルチャー・ショックは相対的に物を見る目をつくるために格好な体験だと思う。
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