「デタラメ思考」で幸せになる!・ひろさちや
昔の国王は税金泥棒でしたが、明治以後の日本の天皇制国家は、もっと質が悪い。誰かが言ってましたが、「大日本帝国憲法」や法律は、
兵役の義務があって・・・われわれの生命を奪い、
納税の義務があって・・・われわれの財産を奪い、
教育の義務があって・・・われわれの魂を奪った、
のです。泥棒なんかじゃない。人間をまるごと盗んだのが国家です。
だから、国家というものは悪いものです。できればなしですませたい。ないほうがいい。それがインドの原始仏教の考え方でした。
道徳というものは、一時代、一地域でしか通じないのです。
日本の道徳は、よその国では通じません。日本の国内においてだって、戦前の道徳は時代に通じません。
道徳というものは、強い者はそれに拘束されません。そして弱い者だけが道徳に縛られます。道徳は、強者が弱い者いじめをするための道具ではないでしょうか。すると、われわれは、道徳なんて馬鹿にしたほうがいいのです。
我々日本人であれば、自然に日本の風物に愛着を感じますが、そのような愛国心で、これを、-心情的自発的愛国心-と呼べばいいでしょう。
だとすると、そのような心情的自発的愛国心は、教育によって強制されるものではありません。教育によって教えられる愛国心は義務的強制的愛国心--脱税摺るな!脱税した政治家に投票するな!!--だけです。そこのところを、保守的な政治家がわかっていないのです。
釈迦が教えられたことは、あなたたちは、
--世間にふりまわされるな--
--世間を馬鹿にせよ--
ということでした。それは、つまりは、あなたが、
――自由人であれ!――
のメッセージです。
--世間の奴隷になるな--
--欲望の奴隷になるな--
――自由に生きよう!――
奴隷の反対は自由人です。われわれは自由人になるべきです。
庶民はあくせく働いて金儲けをしたところで、それで貴族になれるわけがありません。だから、ヨーロッパの庶民たちはのんびりと生活を楽しみます。また、仲間同士が助け合って生きるのです。その結果が、ヨーロッパ型の資本主義になったのです。
それに対してアメリカ型の資本主義は、競争原理に立脚しています。アメリカは階級のない社会ですから、全員が(タテマエ的には)平等です。そこで「よーい、ドン」で競争して、その競争に勝った者が成功者になります。この場合、競争において求められるのは、フェアプレイの精神です。フェアで自由な競争こそが、アメリカ型の資本主義の底を流れる精神です。
今、アメリカ社会は危機的状況にあります。下層労働者のあいだでは競争に参加しようという意欲がなくなったのですが、ではヨーロッパ社会の労働者が持っている連帯感・仲間意識が醸成されるかといえば、それは無理です。社会そのものが競争原理に基づいているのが、仲間同士の足の引っ張りあいです。妬み・嫉みの感情しか生まれません。とくに人種のあいだの反目からくる妬み・嫉みが、アメリカ社会を根底から腐敗させています。わたしは、アメリカの没落はもうすでにはじまっていると思います。
自由とは、自分の意見をしっかりと肯定することである。
つまり、ここで大事なことは、わたしたちにはほとけさまの物差しは、
--わからない--
ということです。それがどういう物差しかわからないから、わたしたちにはそれがデタラメに見えるのです。
わたしたちは、仏教を勉強して、
--人生は「空」だ--
と見るようにしましょう。「空」なる人生を、世間の人はあくせく、忙しく生きています。でも、われわれはそんな生き方をしないでもいいのです。もちろん、したってかまいませんよ。あくせく、いらいら、ガツガツと生きたい人は、どうぞそう生きてください。そのことを知っておいてください。そうすると、もっともっと人生をラクに生きられます。
--あきらめ--
です。きれい、さっぱりあきらめてしまえばいいのです。
ただし、あきらめることは、ギブ・アップすることではありません。そうではなくて「明らめる」のです。そのことが、自分の思うがままになることではないことを、しっかりと明らかにするのです。
人生を旅に譬えるのであれば、人生のたびには目的地はありません。というより、目的地があってはならないのです。たとえば東京から出発して、目的地である大阪に着いて、それで「はい、終わり」というわけではありません。
人生のたびは、その道中がすべてです。プロセスだけが全てです。
人間がある方向を目指して歩んでいく、その歩みそのものが人生です。
だとすれば、人生は急いではいけません。走るなんてとんでもない。
ゆったりとした旅をしましょう。目的地なんでないのです。
目的地があると、わたしたちは目的地に着いてからおいしい物を食べようと思い、旅の途中では粗食になってしまいます。馬鹿げた考えです。それじゃあ、かりに目的地に着けずに途中で死んでしまえば、おいしい物を食べずに終わるのです。人生の旅では、死んだ後ではおいしい物は食べれませんよ。
毎日毎日、おいしい物を食べればいいのです。
いや、おいしい物を食べるのと、おいしく物を食べるのとは違います。おいしい物は金がなければ食べられないかもしれませんが、おいしく物を食べるのは誰にでもできます。今日から早速、おいしく物を食べるようにしませんか。
人間らしく生きるには、ゆったりとしたいい加減のペースで、人生の旅を続けることです。
途中でいっぱい寄り道をしながら・・・・。
昔の国王は税金泥棒でしたが、明治以後の日本の天皇制国家は、もっと質が悪い。誰かが言ってましたが、「大日本帝国憲法」や法律は、
兵役の義務があって・・・われわれの生命を奪い、
納税の義務があって・・・われわれの財産を奪い、
教育の義務があって・・・われわれの魂を奪った、
のです。泥棒なんかじゃない。人間をまるごと盗んだのが国家です。
だから、国家というものは悪いものです。できればなしですませたい。ないほうがいい。それがインドの原始仏教の考え方でした。
道徳というものは、一時代、一地域でしか通じないのです。
日本の道徳は、よその国では通じません。日本の国内においてだって、戦前の道徳は時代に通じません。
道徳というものは、強い者はそれに拘束されません。そして弱い者だけが道徳に縛られます。道徳は、強者が弱い者いじめをするための道具ではないでしょうか。すると、われわれは、道徳なんて馬鹿にしたほうがいいのです。
我々日本人であれば、自然に日本の風物に愛着を感じますが、そのような愛国心で、これを、-心情的自発的愛国心-と呼べばいいでしょう。
だとすると、そのような心情的自発的愛国心は、教育によって強制されるものではありません。教育によって教えられる愛国心は義務的強制的愛国心--脱税摺るな!脱税した政治家に投票するな!!--だけです。そこのところを、保守的な政治家がわかっていないのです。
釈迦が教えられたことは、あなたたちは、
--世間にふりまわされるな--
--世間を馬鹿にせよ--
ということでした。それは、つまりは、あなたが、
――自由人であれ!――
のメッセージです。
--世間の奴隷になるな--
--欲望の奴隷になるな--
――自由に生きよう!――
奴隷の反対は自由人です。われわれは自由人になるべきです。
庶民はあくせく働いて金儲けをしたところで、それで貴族になれるわけがありません。だから、ヨーロッパの庶民たちはのんびりと生活を楽しみます。また、仲間同士が助け合って生きるのです。その結果が、ヨーロッパ型の資本主義になったのです。
それに対してアメリカ型の資本主義は、競争原理に立脚しています。アメリカは階級のない社会ですから、全員が(タテマエ的には)平等です。そこで「よーい、ドン」で競争して、その競争に勝った者が成功者になります。この場合、競争において求められるのは、フェアプレイの精神です。フェアで自由な競争こそが、アメリカ型の資本主義の底を流れる精神です。
今、アメリカ社会は危機的状況にあります。下層労働者のあいだでは競争に参加しようという意欲がなくなったのですが、ではヨーロッパ社会の労働者が持っている連帯感・仲間意識が醸成されるかといえば、それは無理です。社会そのものが競争原理に基づいているのが、仲間同士の足の引っ張りあいです。妬み・嫉みの感情しか生まれません。とくに人種のあいだの反目からくる妬み・嫉みが、アメリカ社会を根底から腐敗させています。わたしは、アメリカの没落はもうすでにはじまっていると思います。
自由とは、自分の意見をしっかりと肯定することである。
つまり、ここで大事なことは、わたしたちにはほとけさまの物差しは、
--わからない--
ということです。それがどういう物差しかわからないから、わたしたちにはそれがデタラメに見えるのです。
わたしたちは、仏教を勉強して、
--人生は「空」だ--
と見るようにしましょう。「空」なる人生を、世間の人はあくせく、忙しく生きています。でも、われわれはそんな生き方をしないでもいいのです。もちろん、したってかまいませんよ。あくせく、いらいら、ガツガツと生きたい人は、どうぞそう生きてください。そのことを知っておいてください。そうすると、もっともっと人生をラクに生きられます。
--あきらめ--
です。きれい、さっぱりあきらめてしまえばいいのです。
ただし、あきらめることは、ギブ・アップすることではありません。そうではなくて「明らめる」のです。そのことが、自分の思うがままになることではないことを、しっかりと明らかにするのです。
人生を旅に譬えるのであれば、人生のたびには目的地はありません。というより、目的地があってはならないのです。たとえば東京から出発して、目的地である大阪に着いて、それで「はい、終わり」というわけではありません。
人生のたびは、その道中がすべてです。プロセスだけが全てです。
人間がある方向を目指して歩んでいく、その歩みそのものが人生です。
だとすれば、人生は急いではいけません。走るなんてとんでもない。
ゆったりとした旅をしましょう。目的地なんでないのです。
目的地があると、わたしたちは目的地に着いてからおいしい物を食べようと思い、旅の途中では粗食になってしまいます。馬鹿げた考えです。それじゃあ、かりに目的地に着けずに途中で死んでしまえば、おいしい物を食べずに終わるのです。人生の旅では、死んだ後ではおいしい物は食べれませんよ。
毎日毎日、おいしい物を食べればいいのです。
いや、おいしい物を食べるのと、おいしく物を食べるのとは違います。おいしい物は金がなければ食べられないかもしれませんが、おいしく物を食べるのは誰にでもできます。今日から早速、おいしく物を食べるようにしませんか。
人間らしく生きるには、ゆったりとしたいい加減のペースで、人生の旅を続けることです。
途中でいっぱい寄り道をしながら・・・・。
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