10/02/2007
車谷長吉
車谷長吉、私小説家。まぁ、変わった人。
それと彼の奥さんの詩人の高橋順子氏の詩を。
蛇足だか、ご両人、確か50歳前後で結婚、お互い初婚だった。かっこいい。
車谷東吉曰く、
「僕は少し貧乏というのが、いまの世における幸福だと思うね。」
貧乏な椅子 高橋順子
貧乏好きの男と結婚してしまった
わたしも貧乏が似合う女なのだろう
働くのをいとう男と女ではないのだが
というよりは それゆえに
「貧乏」のほうもわたしどもを好いたのであろう
借家の家賃は男の負担で
米 肉 菜っ葉 酒その他は女の負担
小遣いはそれぞれ自前である
当初男は毎日柴刈りに行くところがあったので
定収入のある者が定支出を受け持ったのである
そうこうするうちに不景気到来
男の自宅待機が命じられ 賃金が八割カットされた
「便所掃除でもなんでもやりますから
この会社に置いてください」
と頭を下げたそうな
そうゆうところはえらいとおもう
家では電灯の紐もひっぱらぬ男なのである
朝ほの暗い座敷に坐って
しんと煙草を吸っているのである
しかし会社の掃除人の職は奪えなかった
さいわい今年になって自宅待機が解除され
週二日出勤の温情判決が下った
いまは月曜と木曜 男は会社の半地下に与えられた
椅子に坐りにゆくのである
わたしは校正の仕事のめどがつくと
神田神保町の地下の喫茶店に 週に一度
コーヒーを飲みに下りてゆく
「ひまー、ひまー」
と女主人は歌うように嘆くのである
「誰か一人来てから帰る」
わたしは木の椅子にぼんやり坐って
待っている
貧乏退散を待っていないわけではないのだけれど
何かいいことを待っているわけでもない
これ「銭金について」というエッセイから。
いやはや、もはや、というカンジですわ。
どんな人にも、その人に独特の人間毒がある。
それはその人物の味であり、あくであり、いがらっぽさであり、
面白みであり、思い上がりであり、えらさであり、愚かさであり、
哀しさであり、あんぽんたんぶりであり、なつかしさであり、
こだわりであり、奇癖であり、引け目であり、崇高さであり、
どうしようもなさであり、不可能性であり、あわれであり、
こわばりであり、痼りであり、蠍であり、蝮であり、
「虫」であり、「物の怪」であり、掛け替えのなさであり、
骨の髄に刻印されたものであり――。
すでにこういう人間毒を両人はたがいに分泌し合い、
それに辟易し、みずからの毒はさほどではなくとも、
相手の毒にはことにうんざりし、もう充分に中毒し合っていたのだろう。
人はたがいに人間毒を分泌し合うのである。
場合によっては、なすり付け合いをするのである。
それが人と人との確執である。たがいに相手を許せないと思うようになるのである。
仲がよければよいほどに、いつとは知れず、なおのことそうなって行くのである。
「反時代的毒虫/車谷長吉著」より。
1998年から2004年までの間の車谷長吉が行った対談や、妻・高橋順子との句会が掲載されている。
対談相手は、江藤淳、白洲正子、水上勉、中村うさぎ、河野多惠子・奥本大三郎。
以下、私の気に入ったトコロを抜粋。
江藤 戦後は、みんな知らないうちに何らかの思想を信じているわけです。
平和や民主主義を信じなくても、電気冷蔵庫という思想もあり、マイホームという思想もある。
ダニエル・ブーアスティンというアメリカの社会学者 は、「アメリカの哲学は、みんな物だ。
ティッシュペーパー、ヒルトンホテル……。これにかなうものがあるか」と言いましたが、実際、かなうものはなかった。
今でもないんじゃないんですか。
車谷 素人が玄人に勝つという話をぼくはずっと信奉してました。白洲先生も『遊鬼』の中に少女時代に鹿島
清兵衛にお会いになったという話を書きましたね。感動しました。これがプロの芸術家じゃなくてアマチュア
の芸術家の一つの極致で、完全にプロを超えていると白洲先生は御評価されました。
中村 でも、法廷に持ち込めないわけですよ。ヤミ金って。それで、踏み倒すみたいなことをさらっと言うわけで
すよ、若い十九、二十の女の子が。ほんで、エッ、そんなことしてひどい目にあったらどうするんだと言うと、
取立てが来て、てめぇ、風呂に沈めるぞと言われたけど、自分はソープで働いているから、もう風呂に沈
んでますけど何か?と言ってやったとか(笑)。
車谷 酒の味というのは、やっぱり身銭を切って飲む味ですよね。だから、人からただで飲ましてもらう酒の味と
いうのは、本当の酒の味がしないですね。
奥本 若い人は非常に用心深いんですよ。今の生活水準を落としたくないと思ってる。
河野 もっとお金なんて気楽に考えたらどうかと思うくらい、あきれるくらい細かいでしょう。
奥本 都会生活者なんですよね。臆病になってくるし。
車谷 金というのは、根本的に人を脅かすものというか、脅えを誘発するものだと思います。
奥本 金は人を脅かすかもしれないけど、タイプによっては挑発するものでもあるんじゃない。
それこそバルザックなんかは、金の挑発をまともに受けて、破滅型になっちゃった人でしょう。
ヴィクトル・ユゴーは小遣い帳を細かくつけて・・・・・・。谷崎型ですけど。
車谷 逆説的かもしれないけど、志賀さんみたいな人が出てきて、金のことなんか関係ないっていう感じの小説
書いてるわけですよ。
『暗夜行路』なんかに代表されますが。ところが、志賀さんは金に困らない人です。
それが尊敬されたところに、僕は根本的な問題があると思いますね。
小林秀雄でも誰でもみんな、志賀さんを尊敬する。要するに金のことを考えないで、汚れないところで人間
の精神の問題を考えようということでしょう。
その汚れないところでというのが、甘ちゃんじゃないんですかね。
しかし人の偉さには限りがあるけれど、人の愚かさは底なしの沼です。
僕は人間の本質は相当にたちが悪いものだと思うんです。業深いというか。
文学の原質は、世俗の中の下品な、血みどろの欲望の渦巻く、煩悩や迷いが流れ出るようなものだと思うんです。
なりふりかまわないというか、場合によれば人を殺してしまうというか、そういう世界が流出するのが文学だと思います。
だからディーセントななんていうようなことを言ってると、それはきれいごとになっちゃうんじゃないですかね。
例えば東横線なんかに住んでるような人なんていうのは、窓辺にヨーロッパ風に花を飾るような生活してるじゃないですか。
ああいうことをやっていると、それはディーセントかもしれないけども、人間の煩悩というのは――東京の山の手文化というのが、生身の欲望にひと皮きれいなベールをかぶせたような文化ですよね。
ところが、ひと皮めくると、たちの悪い生身の色と欲、迷いがあるわけでしょう。
文学の素材は、僕は俗なものだと思っているんだけれど。それとどう向き合って、痛み、悲しみ・・・・・・。
そこで美学とか倫理とか、そういうことが出てくるんだと思うんだけれども。
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