12/07/2007
渋沢龍彦
渋沢龍彦
カサノヴァ
ゲーテ
ジャン・コクトー
李白
ディオゲネス
ピストロ・アレティノ
ブリア=サヴァラン
深沢七郎
ユーモリストは、人生の失敗にくじけない、強い柔軟な精神をもった快楽主義者です。世の中のばかばかしさを
横目でながめ、すべてを冗談で笑い飛ばしてしまう精神は、男らしく、爽快なものではありますまいか。
アルフレッド・ジャリ
マルキ・ド・サド
このリベルタンという言葉は、少しばかり説明を要する言葉です。もともと、リベルタンという言葉には、宗教的な
意味があって、「信仰および宗教的義務に従うことを拒否する自由な精神」を意味しておりました。
日本では「自由思想家」と翻訳することもあります。そうした意味の言葉が、いつごろからか、徐々に転化して、
道徳上の放埒を意味するようになったのです。つまり、宗教的戒律に対する不服従から、性的束縛に対する
不服従へと意味が転化したわけです。
男女の愛欲の行為において、リベルダンは、種族維持の自然法則をできるだけのがれようとします。カトリックでは、
中世の聖者トマス・アクィナス以来、子どもを生むことを性交の第一の目的としており、性を遊びの対象とすることを
きびしく戒めておりますが、リベルダンはまず、そうした宗教上の束縛をすすんで打ち破ろうとします。あたりまえの話ですが、
娼婦と遊ぶのは、子どもを生むのが目的ではありません。
第二に、リベルダンの特徴は、情熱的な恋愛に我を忘れることを、みずから警戒します。つまり、男女の愛欲は、
あくまで誘惑したり誘惑されたりする性の遊びなのであって、快楽以外には何の目的もないのです。ロメオとジュリエットとか、
トリスタンとイゾルデとかいった純情可憐な男女の、身を滅ぼすような情熱的な恋愛は、リベルダンのもっとも
軽蔑するところです。
なぜかというと、情熱的な恋愛に身をまかせることは、リベルダンがいちばんだいじにしている自己の主体性、自己の自由を
失うことを意味するからです。リベルダンという言葉は、自由(リベルテ)と関係があるので、何よりもまず、伝統や因習を
打破する、精神の自由を意味していたのです。一言をもってすれば、遊びの精神、自由の精神、―これがリベルダンの
特徴といってよいでしょう。
おもしろいことに、岡本さんもまた、夫婦子どもなんかもたず、いつも自由な独身生活を楽しんでいる人です。親子とか
夫婦とかいった関係が、人間の自由な冒険的な生き方を拘束し、世の中をじめじめした、不潔なものにするということを、
芸術家の直観で、本能的に知っているのです。だから、そういうわずらわしい世の中のきめごとや、愚劣な約束ごとを、
避けてとおるのです。
小心翼々とした人間や、けちな占有欲のある人間、反抗精神や破壊精神に欠けた、優等生のエリートだけが、家庭だとか、
会社だとか、―あるいはもっと広くいって、国家だとか、社会だとかいった欺瞞の秩序に、必死になって、かじりついているわけです。
なんの意味もない、くだらないものでも、しっかり手に握っていないと、不安になるのかもしれません。
そもそも、しあわせな家庭などというものを築いたら、もう、若者のエネルギーは、行きどまりだということを知るべきです。
妻子ある家庭を思えば、冒険もなにもできやしません。大学をうまく卒業し、一流会社へ就職し、課長の媒酌できれいな
奥さんをもらい、一姫二太郎をこしらえ、モダンなアパートに住み、車を買い、ステレオを買ったら、まあ、あとはせいぜい、
女の子のいるバーで、奥さんの目をぬすんで、ちょっとした浮気をするぐらいが関の山でしょう。まことに、なさけない。こんなのは、
快楽主義者として、最低の部類に属します。
わたしは、現代の社会に生きる快楽主義者の代表として、二人の人物の名をあげましたが、むろん、これは、たまたま、わたしの
頭に思い浮かんだ偶然の選択による結果にすぎません。もっと広く世の中を見渡せば、あるいは、さらにおもしろい無名の人物が
見つかるかもしれない。
父母も江戸っ子だったので(ボクは父系で4代目、母方では14代目だそうだ)、大橋家の価値体系は、江戸風であるか無いか
だったようである。江戸風といっても解りにくいだろうが、「粋か無粋か」といったら解るだろうか。特に母はそうであった。
粋とはぜい沢なものを着ることではない、と言っていた。袷(あわせ―裏地のついた着物)の時季には袷を着、浴衣の時季には
浴衣を着ること。時と場合(今でいうTPO)に合ったものを着るべきだとも言った。
食べ物も同じで、そばや寿司をくちゃくちゃ噛んで食べるのは野暮の骨頂と教えられた。ああいうものは「のど越し」で
食べるものだからと言っていた。
「噛みたければ、うどんを食べればいいのさ」
灰皿と金持ちはたまるほど汚くなる
常に収入の四分の一と臨時収入の全部を蓄えることは富をなす基礎であるだけでなく、それがすでに克己心の強い発露である。
人は貧乏すれば、自分が苦しいだけでなく、義理を欠き、人にも迷惑を及ぼし、心ならずも嘘をつくようになり、ついには
世間の信用を失う。
人生の幸福に家庭平和が必要であることは繰り返すまでもないが、実際に家庭が平和でさえあれば、自然健康も勇気も
増して、必ず相当に成功できるものである。
今日の時世に、とくに必要なのは、できるだけ人の手を借りず、人の世話にならずに自分で自分を始末して生きていくということである。
たとえば自分の寝床の上げ下げはもちろん、自分の身のまわりのことはいっさい自分でやる習慣をつけ、旅行の際は手荷物なども
自分で持つことにすれば、時間も省け、紛失の心配もなく、金もかからずに済んで、どれだけ楽になるかわからない。
学者であっても、独立した生活ができるだけの財産をこしらえなければいけない。そうでないと金のために自由を奪われ、
精神の独立も生活の独立もおぼつかないようになる。財産をつくるための基本は勤倹貯蓄であり、貯金ができたらこれを
有利な事業に投資しなければならない。貯金を貯金のままにしておいたのではたかが知れている」。
「人生で最大の幸福は家庭生活の円満と職業の道楽化である」
①努力して職業を道楽化する、②努力と生活の単純化によってそのかすをためる、③そのかすを精神的享楽に使う、
の三つである。本多博士の職業の道楽化を、私はやや近代的に「自己実現」と理解している。私の言う「自己実現」は
「自分の好きなことを精一杯やって、十分に食えるだけでなく、それが他人によって高く評価されること」である。
①縁の下の力持ちになれ、②他人とは長所でもって交われ、③言動を慎み反感を買うな、④施した恩は忘れ受けた恩は
忘れるな、
「頼まれごとはよく考えた上で返答する」と「一度引き受けた用事は、どんなに些細なことでもできるだけ親切確実にする」
成功と人づきあいの秘訣は勤勉、正直と「思い上がりをしないこと」の三つということになる。
「何ごとがあろうと、けっして卑屈になったり、弱気になったりせずに、常に堂々と生き、堂々と失敗し、堂々と設け、
堂々と傷つき、堂々と老い、堂々と死ぬ」
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