11/17/2007

キャンティ物語










キャンティ物語

ヘアーについて(黛敏郎)のコメント
夢を欠く自己陶酔
舞台は、ただ耳を聾するボリュームによってしかダイナミズムを表現できない音響と、絶叫することが迫真性だと錯覚するセリフの洪水・・・・。劇の芸術的感動というものは、決して体当たり精神だけで与えられるものではなく、まず的確な表現力が前提となることは、どんな前衛劇にも当てはまる真理である。ついでに前衛性についていえば、客席と交流したり、ギリシャ劇のコロスのような役割を群衆が果たしたりする程度の「ヘアー」の前衛性は、いわば使い古された前衛性である。
とにかく、それでも客席では、いささか白けた顔の大人たちをしり目に、若者たちはムード的に熱狂し興奮する。それはそれで良いことかもしれない。しかし、「大人なんかに分かるもんか」式自己陶酔には、学生紛争のヒロイズムと同質のものが感じられて極めて日本的だ。

アーティストになるにはコツコツやるしかない。それでなければ、ひとつの技術を身につけることはできない。他のことを捨ててもコツコツやる人でないとアーティストにはなれない。

象郎、日本には体得するという学び方がある。たとえば、日本舞踊の世界を考えろ。四つや五つの小さな女の子に、恋の仕草や艶っぽい踊りを何度も何度も稽古させる。何年も稽古してるうちに、その子も年頃になって人を恋する気持ちが分かってくる。その時、舞台の上で気持ちと踊りがひとつになる。ある時期が来ればやってることの意味は分かる。人が体で覚えたことは、その時期が来れば、その人に才能があれば必ず分かる。それまでは黙って型を覚えていればいいんだ。

自分でプロデュースの仕事をするようになってから、親父が言ってたことが、体の中にしみ込んでいることが良く分かった。

加賀まりこ・芸能人がすべて気安いテレビタレントになってしまったいま、彼女はプロフェショナルの気配を感じさせる数少ない女優のひとちと言える。

11/16/2007

スローライフでいこう~ゆったり暮らす8つの方法







Take your time/Eknath Easwaran

「スローライフでいこう~ゆったり暮らす8つの方法」エクナット・イーシュワラン

速く働く心は病んでいる。
ゆっくり働く心は健全である。
不動の心は神聖である。

私たちは、絶えずお金を稼いでいたり、物を作っていたりする代わりに、人生が投げかける深い問いについて思索する時間をもつことが必要です。ただ静かに考える時間がときどき必要なのです。私たちを癒し、感受性を豊かにし、生命全体をとらえる機会を与えてくれるのは、心のなかの静けさなのですから。

とらわれのない心で人生を楽しむ-自覚をもって生きる-ためには、感覚器官を、自分の命令に従うよう訓練していかなければなりません。なぜなら、心はどうしても感覚に引きずられてしまうからです。でも、そのためにいい食べ物や楽しい娯楽などをあきらめることはありません。ただ、有益なことを楽しみ、あとで後悔しそうなことを無視するだけでいいのです。

1、スローダウン
・一日をばたばたと過ごさないためには、まず早起きをすることが肝心です。
・朝の30分間を、冥想および内省に当てる。この時間は一日の中で最も貴重な時間ですので、どんなことにも邪魔をされないように。
・栄養のある食事をとる。
・どのようなことも、時間ギリギリではなく、少し早めにやるようにする。
・出来ること、やりたいことを全てやろうとしない。今日やるべき一番大切なことに専念する。
・忍耐を養う。
・生活のあらゆる場面で、人間関係を養うようにする。

2、一点集中
・一時に複数のことをやらないようにする。可能でもしないこと。
・活動は全て、心を完全に集中させて行うに値するのであるべきだ。

3、感覚器官の制御
・食べているもの、本、映画等には、自分の好き嫌いが強く反映される。長年のうちに身につけてきた習慣から自由になり、まわりの人や自分にとってためになるよう、気楽に楽しみながら、好き嫌いを減らすようにする。
・意見や考え方についても自分の好き嫌いに執着しない。
・苦手な人とも楽しくやれるようになる。
・食事も本も映画も注意して選ぶこと。自分の体に良いものを選ぶ。
・心の中で思うことが、自分自身を作っていくことを忘れないこと。

4、人を優先させる
・自分のことより人のためになることを優先させる。
・誰とも競争をすべきではない。
・人と意見が食い違っても、別に対立する必要はない。
・子供たちの幸せを優先させる。

5、精神的な仲間をつくる
・精神的に高めてくれる人と過ごすようにする。
・精神的に同じ価値観をもつ人と、定期的に会うことは大きな助けになる。

6、啓発的な本を読む
・啓発的な本を毎日30分で良いから読む習慣をつける。
・そのような読書は、夜の冥想の後か床につく前が良い。
・歩むべき道を注意深く選ぶ。

7、マントラ

8、冥想

11/14/2007

いのちの力








いのちの力 気とヨーガの教え 望月勇


トルコからインドへの旅の途中も、腹の立つことが多くて、いつも心の中で人々を批判ばかりしていました。
その結果、人々からあまり印象のよい待遇を受けませんでした。むしろひどい仕打ちを受けました。人々からだけではありません。
犬や牛や、はたまたバスや汽車やホテルまでもが、私に反感を抱いているように感じられたのです。


だいたい、最初に感じたことを無視して行動した後に、「あの時、最初に思った通りにやっておけばよかったのに」と後悔することが、
案外多いのではないでしょうか。


執着する物を手放す


病から抜け出す方法とは、潜在意識からネガティヴな思い込みを開放することであることを学びました。


自分の体を非難すると、非難した部分から仕返しを受ける


恐いと思う気持ちが、恐い状況を作ってしまう


今現在は、将来の原因、将来は、現在の結果であることに気付いた人は、よりよい将来を望むなら、今をよりよく生きる生き方を選ぶことでしょう。


スポーツでも、楽器の演奏でも、くり返し反復練習を積み重ねることによって、上達してゆくのです。
それと同様に、願望を現実化するには、くり返しイメージすることが最も重要なのです。くり返すことで、そこに宇宙の無限の力が働いてくるからです。


いったん、心に願望を思い描いたら、よほどの理由がない限り、途中でその想念の計画を変更しないことです。
あなたの心に思い描いた願望は、あなたが眠っている間も想念の波動となって、宇宙へ働きかけられています。
そうして働きかけられた宇宙の無限のエネルギーは、徐々に、あなたの願望を現実のものとするように、宇宙を動かしてくれます。


私は、自分の死のことについて、いつもこんな風にイメージすることにしています。元気で長生きして、ボケなくて、自分のことは自分でできて、なおかつ、
周りの人のことも少しはしてあげられる。そして、亡くなる二日前に、ちょっと老化現象が出て、「ああ、もうすぐあちらの世界へ行くのだな」ということが
わかって、身の回りを整理し、ふとんを敷いて寝る。この世の死は、あの世へ生まれること、あの世の死は、この世へ生まれること、と思う。
すると、落ち着いてくる。そして、リラックスすると、脳にベータ・エンドルフィン(脳内麻薬)が、いっぱいに分泌される。すると、恐怖心が完全に消え、
素晴らしく心地よくなって、恍惚とした気分であちらの世界へ旅立つ。誰かが、よく眠っているな、と思って枕もとへ来て見ると、すでに大往生を遂げていた。
とまぁこんな風に、勝手にイメージしています。


人体の右半身がプラス(陽)で、左半身がマイナス(陰)です。また、上半身がプラス(陽)で、下半身がマイナス(陰)になります。
腕でいうと、右手はエネルギーが出て行く方で、左手はエネルギーが入ってくる方です。
目では、右目からエネルギーが出て行きますが、左目からは、エネルギーが入ってきます。


思いと言動が違うと、体がゆがむ


願望を話すと、言葉で成就したことになり実現しにくい


自分の願望は、志を同じくする数人の仲間になら話してもよいと思いますが、なるべく黙って胸に秘めておくべきです。その他大勢の人々に話してしまうと、
その話した願望が現実化する一歩手前で、言葉の世界で実現したことになり、現実にならないことがあるからです。


朝起きた時にはよい言葉を、夜寝る前には心をきれいに


「人間は、この宇宙では、わからないことの方が、圧倒的に多いのだから、よほど自分で確信がない限り、相手の言ったことを否定しないことです。
否定すると、自分の器量が狭くなります。器量は、相手をゆるし、認め、受け入れる心の広さと考えれば、あなたの上司は、いつも、あなたの言う
ことを否定しているために、段々器量が狭くなったのですね。たとえば、五人分の器量しかない上司には、五人しか部下がいないはずです。現に、
あなたも、その部長についていけなくなっているではないですか」


とにかく、どんな問題であろうが、自分の人生で起きてくる問題は、最後は、自分が決断するべきです。たとえ、その選択が間違っていたとしても、
それを自分が選択したことで、自分が自分を生きることになり、そのことで今、生きている実感が得られ、その実感が生きている証になっていくのでは
ないでしょうか。長い目でみると、本当は、間違った選択なんて、ないのかもしれません。


人間は、表面では、個々一人一人独立していますが、心の深い所では、一つにつながっているのです。
すると、自分を卑下し、自信を無くすと、相手の心は自分が卑しめられ、見下されたと感じてしまうので、そんな相手に対して反発してしまう気持ちが
出てくるのだと思います。
したがって、彼女の、自分を卑下し、自虐するという心の持ち方が、無意識のうちに、相手に不快で、生意気で、横柄な印象を与え、そのために反発を
まねく結果になっていたのです。
反対に、自分を大切にし、自信を持っている人は、相手に好感を与え、話し方や動作に謙虚さを感じさせます。自分を大切にする心が、そのまま相手の
心に通じているので、相手は自分が大切にされていると感じるのです。ですから、自身のある人は周囲から大切にされ、尊敬されるようになるのです。


自分で見よ、自分で考えよ、自分で生きよ、でした。
実際、日本人は、誰かが大義名分を唱えると、誰もがすぐそれに賛同してしまう傾向があります。自分で考えるよりも、皆の意見に同調した方が、
確かに楽ですが、それは自分の生き方を放棄していることと同じです。


武道家や気功家は、みんなそれぞれ自分の型を教えますが、覚えたら、最後にはその型を捨てなければなりません。
あなたが形や型にこだわっているうちは、本当の進歩はありません。そのこだわりを捨てた時、あなたは、初めて内的世界の広がりに気づき、
次元の異なる世界の入り口に立つことができるのです。


心の中で、日常的に、無意識に、子供の短所を批判していたことに気が付いた人は、どうか意識的に、心の中での批判をやめてみてください。
そして、その代わりに、長所を見つけて、褒めてあげてみてください。すると、私たちは、子供が、確実に変わってゆく姿を、目撃することになるでしょう。
さらに、私たちは、輪廻転生という考え方を、受け入れることができれば、こんなふうにも考えることができるのです。
つまり、私たちの子供は、理由があって、私たち両親を選んで生まれてきたというのです。私たちは、あらゆる体験をするために、生まれる前に、シナリオを
作って、生まれてきました。宇宙の何か偉大な力が、私たちを通して、あらゆる体験をするために、今、現在、ここに存在するのです。
もし、あなたが、あなたの言うことを聞かないから、という一方的な理由で、自分の子供に不満を持つようなことがあったら、あなたの心の中で、次のように
祈ってみてください。
「息子(娘)よ!私たちを選んで生まれて来てくれて、本当にありがとう。感謝します。あなたが、これから最善の人生を選択して歩むことを、信じています」
祈りには素晴らしい力があります。子供のことで悩む時間があったら、是非、このように祈ってみてください。



三木成夫(1925~87年)氏は、東京大学医学部を卒業し、東京大学解剖学教室、東京医科歯科大学解剖学教室を経て、東京芸術大学教授を
勤めていた学者(医学博士)ですが、彼は、人間の心(魂)は頭(脳)にあるのではなくて、内臓にあると主張しているのです。

11/13/2007

オンリーワンのつくり方







オンリーワンのつくり方 谷口正和


「アイデア発想法7箇条」

1.あたえられた課題はそれが決定項である場合、肯定的に見る。否定するとアイデアが出てこない。
2.持っている情報を肯定的に見る。使える素材として見る。長所、特徴としてみる。具体的に活用法を考える。
3.自分が顧客の立場になってみる。顧客の立場からどんな情報が必要か考えてみる。一般的に考えていてもアイデアは出てこない。
4.あれこれ人にヒアリングしてみる。丘目八目、他人のほうが優れたアイデアマンであるケースは多い。このとき大切なのは、「聞き方」、「質問の設定」。何が知りたいのかを伝える「核心を突いた質問力」。
5.成功事例を研究する。アイデアは転用、活用、組み合わせであり、自己のオリジナリティにあまりこだわり過ぎない。
6.問題を多角的に見る。狭い業界視点からだけ見ない。他ジャンル情報を適用してみる。異なる文脈の情報を衝突させ結合したとき、それが新鮮なアイデアとなる。
7.その課題を常に頭から離さない。頭の隅に置き続ける。どんなことがヒントになって問題が一挙に解決するかも知れないのだから。


文化が発生すると、そこに経済が引きずられるように発生する。


本気でないものは必ず見抜かれてしまう、そういう怖い時代なのである。


メッセージの力は偉大である。優れた宗教者は、みな偉大なメッセージ・メーカーだった。
なぜ宗教者から学ぶかといえば、オンリーワンを作ることはある種「布教活動」だからである。
時代の価値観は「良い・悪い」「好き・嫌い」を超えて、「信じる・信じない」の段階に入ってきた。
CSR(企業の社会的責任)などが問われ始めてきたのは、信じられる企業の選択が始まった証拠だろう。


イエスの話の四つのポイント
1.イエスの言葉は徹底的に圧縮されている。新しい弟子がほしいときは「私についてきなさい」とだけ言った。
2.イエスの言葉は実に単純である。形容詞がない。「種を蒔く人が種を蒔きに出ていった」
3.イエスの言葉には限りない誠実さがある。本心から出たものだからである。「あなたは私の友である」
4.イエスは繰り返すことの大切さを知っていた。つまり「圧縮」「単純化」「繰り返し」が強力なメッセージの本質である。


リーダーには「三つの気」が必要だという。勇気、人気、落ち着きだ。人望とは、この三つの気を備えているということだ。


「鬼十訓」
一、仕事は自ら創るべきで、与えられるべきではない。
二、仕事とは、先手先手と働きかけて行くことで、受身でやるものではない。
三、大きな仕事と取り組め。小さな仕事はおのれを小さくする。
四、難しい仕事を狙え。そしてこれを成し遂げるところに進歩がある。
五、取り組んだら放すな。殺されても放すな。目的完遂までは・・・・・・。
六、周囲を引きずりまわせ。引きずるのと引きずられるのとでは、長い間に転地の開きができる。
七、計画を持て。長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。
八、自信を持て。自信がないから、君の仕事には迫力も粘りも、そして厚みすらない。
九、常に頭は全回転。八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ。サービスとはそのようなものだ。
十、摩擦を恐れるな。摩擦は進歩の母。積極の肥料だ。でないと君は卑屈未練になる。


勇気あるオンリーワンは、必ず支持される時代なのだ。


仮説と検証にはサイクルがある。それは情報収集→整理・分析→仮説作り→顧客に提案→検証→再情報収集→整理・分析→再仮説作り→顧客に再提案・・・・・・の流れである。



ここを押さえてオンリーワン!

●ファーストワンを目指す
最初にやれば必ず「最新」。最新以上の話題情報はない。ファーストワンはオンリーワンとイコール。直感を大切にする。

●自分をファーストカスタマーにする
誰を満足させれば、全員満足のスターと地点に立てるか。それは「自分」。最初の顧客満足は自分に与えよ。決して妥協してはダメ。

●情熱がエネルギーであることを知る
最大のエネルギーは資本でも企業規模でも仲間の数でもない。絶対にやり遂げる!という自己エネルギー。思いの力。

●仮説を持つ
ぼんやりでもゴールは見えているか。その道筋はおぼろげでも描いているか。こうやればこうなるはず、という仮説をまず描け。

●小さくスタートする
顧客接点と回数は小さく回す。顧客の顔が見えるサイズで、自分が先頭に立って。小回転イコール高回転イコール実回転。



現場観察の原則は三つある。
1.定場観察・・・一日中、ずっとそこにいる
2.定時観察・・・一定間隔を置いて、定期的にそこに行く
3.定点観察・・・同じ場所からずっと見つづける


「Company Positioning Statement」
Who is your target customer?
 〔誰があなたの主たる顧客なのか?〕
Who is your target compertitor?
 〔誰があなたの主たる競争相手なのか?〕
What business are you in?
 〔あなたの企業はどんなビジネス領域に存在しているのか?〕
Why do your customers choose you?
 〔あなたの顧客はなぜあなたの企業を選ぶのか?〕
How are you able to accomplish this?
 〔どのようにしてこれらを達成するのか?〕


Who is your target omployee?
 〔誰があなたの主たる従業員なのか?〕
What business are you in?
 〔あなたの企業はどんなビジネス領域に存在しているのか?〕
Why do your people choose you?
 〔あなたの従業員はなぜあなたの企業を選ぶのか?〕
How are you able to accomplish this?
 〔どのようにしてこれらを達成するのか?〕


新しいことをすること、これはオンリーワンの作り方の絶対条件である。一見軽薄に見えるくらいの新しさへの
ノリ、これがオンリーワンには必要なのだ。



ここを押さえてオンリーワン!
●現場を見る
顧客は現場のなかにしかない。だから見る、見る、見る、飽きるまで見る。表情を見、目を見、見えない心を見る。

●想定顧客に聞く
あなたが獲得したい理想の顧客に、あれこれ注文を聞く。うるさい顧客ほどいい顧客。あなたのベスト顧客を追いつづける。

●業界発想を捨てる
業界は狭い。生活は広い。貴方のビジネスは顧客の生活の小さな一部分。提供者からみてはダメ、顧客の生活の視点から見る。

●テストする、フィードバックする
まずは何でもテストの気持ちでスタート。テストと修正を繰り返す。その過程で、あなたのオンリーワンが磨かれていく。

●新しい価値を探しつづける
市場を切り開くのは常に「新」。新しいコトが常に価値のリーダー。物の新価値から物を包む文化の新価値へ。


つまり小さいほうが特徴を出しやすく、保ちやすいのである。オンリーワンを目指すなら、小さくスタートし、その小ささを保たねばならない。
小さいほうがコンセプトが凝縮され、顧客に特徴が伝わりやすい。


最も間違いのない、しかも強力なアイデア多層化戦略は、コラボレーションである。他者と手を組む共同開発戦略である。



「行列の法則」
1.リミテッド
  時の限定、場の限定、個数限定、対象者限定、生産過程の限定。本書の眼目である「限定」が行列の法則の第一条だ。

2.プレ・アクション
  先行性、前倒し、先取性、テスト、プレ実験などによる実験革新。先にやる、まだ誰もやっていないことをやる。早いほうが勝つ。

3.オンリー
  独自性、特徴、オリジナリティー、ブランド力、記銘性、パーソナリティー。唯一を目指す。

4.キーパーソン
  熱意ある心を持って汗をかく個人、リーダーシップの発揮、人気者の創出。人が行列の求心力である場合が増えている。

5.ライブ&ショー
  感動、実感、体験学習、今を生きる。実演販売の力に学ぶ。ライブコンサートの集客力に学ぶ。お祭りの熱狂力に学ぶ。

6.ハッピー&ヒーリング
  幸福感、癒し、充足感、安心感。気持ちを幸福で満たす。並んでいること自体が幸福の証明になるようにする。豊かな参加感。

7.コレクション
  回数性、リピート率、ストックカルチャー。人はコレクションに並ぶ。限定発売、シリーズ発売に並ぶ。

8.パーソナルユース
  個人を対象に据えた手軽なデザイン、大きさ、価格。並ぶのはいつも個人。個人のニーズを満たせ。

9.ニュース&ジャーナル
  話題性がある。ニュースが人を呼ぶ。



圧倒的なビジュアル・コミュニケーションの時代なのだ。コンピュータは、あらゆるものの視覚化を可能にした。



ここを押さえてオンリーワン!
●独自の特徴を持つ
他にない価値の創造と提供。独自こそオンリーワン創造の原点。真似しない、あるいわニューアレンジでひねる。

●アイデアを何層にも重ねる
ひとつのアイデアに他のアイデアを加える。簡単には真似されない複合独自性の開発。それが強力なオンリーワンを作り出す。

●徹底的に「限定」でいく
限定はオンリーワン戦略の要戦略。何重もの限定オブ限定で、オンリーワンの独自性をさらに高めていこう。

●決定的な支持層を作り出す
あなたのオンリーワンを触れ歩く熱狂的な支持者を作り出せ。一人で何十人分もの作用を果たすコア顧客を作り出せ。

●デザインを重視する
オンリーワンを視聴的に伝達するビジュアル戦略を構築する。デザインは強力なオンリーワンメッセージだ。



ネーミングは非常に大事で、話題発信力の鍵になるのが、コンセプトを言い当てていて、なおかつユニークなネーミングである。


無限のサービススプリットさえあれば、それはオンリーワンになれるということだ。


それに対してワンツーマン・マーケッターは、
・一人の顧客にできるだけ多くの商品を売ろうとする
・顧客の差別化に努める
・既存の顧客から絶えず新しいビジネスを獲得しようとする
・範囲の経済を重視する
・顔が見える個々の個客志向
・個別化された商品
・個別化された流通
・個別化されたメッセージ
・個別化されたインセンティブ
・双方向へのメッセージ
・個客意識におけるシェア
・利益を与えてくれる顧客に売ろうとする
・個客保持に傾注する



口コミの原則

1.短縮=伝えやすい
2.キーワード化=流布しやすい
3.自分の情報生活県内の出来事=仲間に速く伝えたい
4.中間的情報=「知っていた」と「知らなかった」の中間である
5.伝える(教える)=確認する(教わる)
6.情報リーダー力=瞬時でも情報優位に立つ
7.拡大と変形=虚実が混在しやすい



ひとつは通常のメディアに頼らないことである。今までメディアでないと思っていたものが、新しいメディアなのだ。
新しいメディアであればあるほど、注目率も鮮度も高い。その分魅力の浸透度も高い。


自分のメディアで、自分の情報を、自分の顧客に向けて受発信できれば、それが最高のカスタマーメディアなのだ。



ここを押さえてオンリーワン!
●独自のコミュニケーション作法を編み出す
コミュニケーションの中心は「すてきなお話」。そのお話が次々と伝播していき、オンリーワンの神話を作り出す。

●パーソナル・コミュニケーションを重視する
マス・コミュニケーションよ、さらば。一人から一人へとつながっていく“個人的波紋の輪”の波に乗れ。

●核なるキーワードを創り出す
最大のコミュニケーション・ワードは「キーワード」。鍵になる短い言葉。伝えやすく、面白く、耳に残りやすい言葉を作れ。

●サイン、シンボル、ロゴタイプ=アイデンティティを創造する
ビジュアル・アイデンティティ創造はオンリーワン戦略の核心。オリジナリティとアイデアに富んだ視覚的同一性を。

●セルフメディアを持つ
自前のメディアを持つ。そこで自前のメッセージを発信する。自前の顧客から丁寧に受信する。あなたのメディアの創造を。



宗教的なビジネスが伸びる。人生の問題はほとんど心の問題であり、心のソリューションが最大のライフソリューションだからだ。



ここを押さえてオンリーワン!
●限定=予約が最大の販売力であることを知る
徹底的に「予約」を活性化する戦略をとる。作ってから売るのではない、売ってから作る。この逆転構造を戦略化する。

●コレクション・カスタマーをつくる
集めてくれる顧客が最大のヘビーユーザー。だから集めてくれるようにコレクション・マーチャンダイジングを設計する。

●ライフウェイ産業になる
顧客の「人生設計」を応援する。日々の消費ではなく、人生へのライフウェイ投資を応援する。

●「顧客立場」で考える
目線を徹底的に「顧客目線」に置く。100%提供者論理から脱する。あなたの理想の顧客の「立場」で考え抜く。

●「感性価値」を重視する
数字と理屈で考えすぎない。感性と直感で飛躍してみる。想い、閃き、想像力に身を任せてみる。

11/12/2007

ハイポロジックス

ハイポロジックス
ハイポロジックスの発想法を身につけるためには、以下の四つの誤解や思い違いという束縛から解き放たれ、自由であることの必要性を説いている。

①常識という誤解
②権威主義という誤解
③唯物史観という誤解
④実証主義という誤解

これらハイポロジックスの発想を身につけた人をハイポロジストと呼ぶが、そのための十カ条は次の通りである。

①空想であれ願望であれ、考えとして存在するものは、すべて実現可能なことである。
 [ハイポロジックスの原理]
②新たなものをつくり出すことは、それ自体、社会正義である。これを否定する者は、正義の名のもとに排除されなければならない。
 [変革(Break Through)の原則]
③単一専門領域をいくら深く掘り下げても、新しいものは生まれない。広い視界が、深い理解と新しい発想には不可欠である。
 [超視界(Hyper Vision)の原則]
④社会の不条理な抵抗や否定にあうような発想の中から、真に価値ある発想を探し求めよ。みんなが良いということは、どうでもよいことである。
 [反撃(Counterattack)の原則]
⑤行きづまり状況下には、従来の論理のもっとも基本的なところを否定せよ。修正主義は状況をさらに悪化させる。
⑥発想は長い間寝かせよ。短期間で成果を得ようと思うな。本を読む前、データをとる前に思考せよ。
⑦パイオニアは、その良き理解者とペアで一人前である。
⑧高次元の問題を扱うときほど、人間は低次元の感情にかかずらう可能性が大きいと心得よ。
⑨実力以上に自分の可能性を信じ、能力以上の問題に挑戦せよ。大風呂敷を広げよ。
⑩技術者にとって技術的主張は、個人の思想、信条であり、基本的人権と不可分なものである。誰からも拘束される必要はない。

11/11/2007

気楽体からだ道場・宮城英男







気楽体からだ道場・宮城英男

・心の健康のために、からだの嫌がることはしない
 だまされたふりであれ、心身一如ともなれば、人生、相当シンプル(簡素)になろう。たとえば、からだの嫌がることイコール心が嫌、とシンプルそのものだ。

・不安定を必要以上に怖れると、首がネックになる
一般に、二足歩行に伴って様々に人間的弱点も生じたとされ、首もその一つとされている。首は司令塔であり、バランス調整の役割をも担うため、心身に不安定があれば、首に負荷がしわ寄せされて、その結果、過剰緊張、固定化し、一層のアンバランスを生じ・・・。

身体の言い分・内田 樹と池上六朗








身体の言い分・内田 樹と池上六朗

武術の質の高さと人間的な質の高さは本来は合致するはずのものだと僕は思っていたんです。術技の高い人は、それなりに努力家だから人間的に立派であるはずだといレベルの経験的なリンゲージじゃなくて。
武道の修行そのものが、ダイレクトに、修行する人間の総合的な能力を高めていく。身体も知性も感受性も判断力も統率力も胆力も生命力も・・・・およそ人間の総合的な能力の全体を高めてゆくのが武道修行の本来の目的であると僕は漠然と信じてきたんですけど、そういうことを明確に理論化して、それを修行プログラムとして体系化している武道家って、ほとんど存在しないんですよ。「心技体の一致」とか「心身一如」とか「文武両道」とか、言葉はありますけど、じゃあ、どうやって「心技体」を一致させるのか、「心身一如」とはどういうプログラムなのか、ということを精密に研究して、言語化している武道家というのはほんとにレアなわけで。多田先生はそのまことに希有な武道家の1人だったわけです。

人間の体というのは、非常に汎用性の高い装置だと思うのです。だから、一つ出来ると全部に応用が利く。「武芸十八般」とか「武芸百般」とか言いますけど、たぶん一つ出来ると全部に応用できるような基礎的なOSがあって、それを開発しているんじゃないかと思うのです。

予言する人というのは有利ですね。時間的に先に行っているから。人間って、時間的に先に行っている人には絶対に勝てないんです。「ぼくは未来がどうなるか知っているよ」と言う人には絶対に勝てない。気後れしちゃうんですよ。
断言に根拠がなければないほど、言われたほうは「どうして何の根拠もないのに、こんな自信たっぷりに断言できるんだろう・・・・何かオレの知らない根拠があるのかしら・・・」というふうに疑心暗鬼になって、気後れしちゃう。予言というのは、根拠がわからないものほど遂行性が高いですよね。

武道の立会いというのは、「先を取った」ほうが勝ちなんです。「先を取る」というのは、別に物理的・空間的なポジションに相手より早く着く、ということではないんです。空間的に「速い」んじゃなくて、時間的に「早い」んです。時間的に早く動き出したものに、遅れた人間は必ずついてゆく。ついてゆかない。これはもうどうしようもないんですよ。空間だったら四方に逃げ場があるけれど、時間の流れって一方向しかないから、一秒でも先にいかれたら、あとはずっーとついていかなければならない。

武道の稽古で結局何をしているかというと、体を強く、早く動かす、ということではないんですよ。そんなことをしてもしようがないんです。そうではなくて、細かく動かすということなんです。
伝導性が高まるんですよ。身体的なシグナルの通りが良くなるんです。だから、体と体の接点から、わずかなシグナルを送るだけで、相手の体が大きく変化するんです。

子供の時に、自分は世界と調和している、世界の必然的な一要素なんだということを理屈じゃなくて実感できるような環境というのは、ある程度周りが整えてあげないと子供の能力では構築できないですね。社会的に整備してあげないといけない。

合気道をやっているとわかるんですけど、自分のことをどこまでだませるか、なんですよ。自分が自分のことをだましだまし、自分の持っているポテンシャルが増していくようにもっていく。そういうことなんですよ。つまり頭の仕事なんですけどね、知性の活動を妨害するファクターってやっぱり自分自身の知性にあって、まあイデオロギーとか思い込みみたいなもんですね。体もそうなんですよ。自分自身の身体イメージとか、自分の体はこうだ、と思い込む。それで体のシステムってかなりの程度まで構築されてしまう。

子供の時、すごく親に愛された人というのは、孤立することが怖くないんですよ。百人中九十九人があっちに行っても、「あ、そうなの。でも、僕はこっち」って、平気でこっちに行けちゃう。
だけど、承認された経験の乏しい人は、他社の承認がないと立ちゆかないから、絶えず周りの人の顔色をうかがってしまう。こっちがいいのかな、あっちがいいのかな、どっちをやったら褒められるのかなって、いつでも何かを達成しなくてはならないという強迫観念にとらわれている。自分の高い目標を設定して、これだけのことを達成したら、このアチーブメントに対してきっとみんなが褒めてくれるに違いないという期待をエンジンにして仕事をしちゃうから、ずーっと苦しいわけですよ。

親たちが子供を条件づけで愛するというやり方を止めてくれないような気がするんですよ。「これこれのことを達成したら愛してあげる」という、排便のしつけができたらとか、字をおぼえたらとか、ピアノの練習をちゃんとやったからとか、とにかく子供に対して承認を取引材料に使うようなことをしてしまうと、子供はもう一生その呪縛から逃れられないわけでしょう。どうして無条件にかわいがるということができないのかなぁ。

例えば、子供を幼稚園から有名なところへ入れて、小学校も名門校に入れて、中学もそのままエスカレーター式に進ませて。そうやって育てるのが愛情だと思っている人が多いみたいですね。でも、それだとやっぱり、常に、そういう価値観のもとで評価されている生き方なわけで、何か基準がないと、自分自身がなんだかよくわからない、という人間が育つと思いますよね。人から評価されないと、安心感が得られない。安心ってそういうものじゃないと思うんですが、なんだかそんな世の中になってしまった。

子育てなんて合理的なはずがないんです。なにしろ、無から有が生まれてくるんだから。それ自体異常な出来事なんだから、そこに合理性を持ち込もうとすること自体に無理があるのに、近代のどこかで、これからはこの方法でいきましょう、と、日本全体で暗黙のうちに合意してしまったような気がするんですよ。

他の人はいったい自分に何を求めているのか、自分はこの社会でどんな仕事ができるのかということをいつも考えている人の前には自然にドアが開くし、梯子も下りてくる。どんなことをやったらみんなに喜んでもらえるのか、自分の個性や力量は、どんなかたちでみんなの役に立つのかということをある程度集中的に考えないと、そういうことは起きないのです。
でも、出世を望む人たちは、考え方が違う。そういう他者からの求めというものは目に入らないんです。自分がこんなことをやったら誰が喜ぶかな、とかそんなことは誰も考えてない。自分がどうやったら褒められるかということは考えているんだけれど、その時の基準は自分で勝手に作った思い込みか、誰かに教えられた世間知みたいなものを後生大事に守って。

絶対にこれはやりたくない、ということを選びなさい、と言うんです。絶対にやりたくないことを選んだら、あとは全部できるでしょう、ということです。それで、私はこういう者です、と世間に対して知らせたら、あ、じゃあこの仕事をやってください、って向こうから来るから。自分でやりたいことを選ぶなんて言ったって、外から見てよさそうに見えることにはもう先人がいてね、その人にはすでに加速度もついているわけだから。後からのこのこ参入したって追いつくわけはなんだから、そういう選び方はやめて。絶対にこれはやらない、ということを選べば、あとはどんな仕事だって出来るわけですから。

「怒るな、恐れるな、悲しむな、憎むな、妬むな、悪口を言うな(言われても言い返すな)、取り越し苦労をするな」中村天風の七戒

取り越し苦労って、無限の可能性の中から限定した不幸な選択肢だけをよりのけて、「これが私の未来だ」と思い込むということですよね。
取り越し苦労をしている人って、傲慢な人間だと思うんです。何が起こるか自分はわかっていると思っているという点でまず傲慢だし、お気楽に過ごしているほかの人間に比べて、自分のほうがずっと濃密で重厚名人生を送っていると思っている点でも。態度悪いですよ。

日常生活のところをルーティンで固めて、微妙な空気の変化のようなものを感知する感受性を研ぎ澄ましておくと、実際に危機的状況の時に、他の人たちより流れの変化と言うか、場の空気が変わる時の潮目を見切るのが早くなるんじゃないかと思うんです。

毎日判で押したように平凡な暮らしをして、できるだけ通勤時間を短くするのが一番良いんですよ。アフターファイブに用もないのにどこかへ行ったりしない、とかね。まっすぐ家に帰るのが一番です。そういうことを誰もアナウンスしなんですね。逆のことばかり言う。

新しいものを追いかけるということは一切しなくても、自分にとって必要なものは全部、向こうからやって来るものですから。

そういう姿勢を貫いていたら、出会うべき人に出会うわけで。ちゃんとそこにいれば、それを信じていれば、素敵なことは向こうからやって来るんです。

おとなしく家でじっとして、きちきちと判で押したような生活をしていれば、必ず「あちら」からいいことが来るよって言っても、ぜんぜん信じてくれない。

学生で、心身が安定しているのは田舎育ちで家族が親密な子が多くて、情緒不安定で、ちょっと危ない子というのは、都市生活者で、両親とも高学歴で、母親が過干渉という家の子ですね。過干渉する親というのは放任する親より、ある意味でもっとも子供との距離が遠いんですね。

努力して、我慢して、不愉快な思いに耐えて、その結果、周りの人に嫌われる人間て凄く多い。そんなことしても誰も幸福にならないんだから、自分の中に生物学的に備わっている快不快の感受性を、もっと信じていいと思うんです。気持ちのよいことをしっかり追求していると、人間としてそんなに大きく間違うことってないですよ。

恰好よくなくちゃいけない。人に、これをやれば儲かるよとか、しんどい仕事はやめてこっちをやったら、と言われたら、それは確かにそうかもしれないけれど、恰好よく、というのは不合理でいいんです。

人間って、自分が死んだ時のことを考えている人と、全然考えていない人とでは生きている構えが全然違うと思うんです。今目の前で起きている事柄に対する気配りとか注意力とか、あるいは物事の儚さとかかけがえのなさとか美しさとかに対する感受性が、死ぬことを考えている人と考えていない人とでは、まるで違うでしょ。

「今生きていてつまらない」と言う人というのは、要するに、自分が死んだ時に人生を回顧してどんなふうに思うだろうという種類の想像を働かせる習慣がない人、ということですね。想像力の射程が短い人は、人生つまらないと思いますね。
人生を本当に楽しめる人というのは、いつだって自分が死んだ時のことを考えいるはずなんです。

話が通じない人と暮らし始めるとね、人間の器が大きくなるんです。器を大きくしないと生きていけないから。話が通じなくてもノープログレム、という方向への頭の切り替えが大事なんです。通じなくて困ったな、やだな、不愉快だな、と思っていたら結婚なんてやってられませんね。でも、それこそが結婚生活の「そこから出発すべき現実」なわけです。
結婚は契約なんですね。

みんな、日本人が一斉に同じ方向に行く、ということの恐ろしさをわかってないんですね。

11/09/2007

健全な肉体に狂気は宿る






健全な肉体に狂気は宿る


基本的に人間というのは、困難な場所においては、自分の世界を狭めるものなんですよ。
健康なときだったら、全世界を相手にして生きることができる。でも、困難な状況では、とても世界全部を相手にすることなんてできません。だから、とりあえず一番小さなところまでキューっと絞るんです。


コントロール願望の強い人というのは、相手と自分の区別がつかないわけで。区別がつかないから、自分が思う幸せを相手に強要する。親はよかれと思ってやってることが、子どもにとってはいい迷惑だということは間々あることなんです。
でも、自他の基準が違うということがわからない。そうやって育てられた子どももまた自分が母親になると、同じことを自分の子ども相手に繰り返す。世代を超えても少しも「変化」しない。


子どもに対する親の仕事というのは、どうすれば子どもが気持ちよくなるのかということを考えることに尽くされると思うんです。


子どもの身体感覚にさえ目配りしていれば、あまり余計なことは言わなくても済む。快適というのがどういうことか、人から気づかわれるというのがどういうことかを気づかわれる側として子どもが経験していれば、そのうち自然に他人の快適さを気づかうことができる人になれると思うんです。そういうものって実地経験で覚えるしかないから。


「自分はこれがしたい」ということは一生懸命言うんだけれど、「自分は他人のために何ができるのか?」という問い方は思いつかない。
でも、「誰が自分の支援を必要としているか?」という問いを自分に向ける習慣のない人間は社会的には本当は何の役にも立たないんです。


ファンタスティックな「ライフスタイル・マガジン」が売れるというのは、言い換えると、自分のライフスタイルを自分で決めることができない人がすごく多いということでしょうね。子どものころからマニュアルで育ってきた世代が、三十代、四十代になっても、相変わらずマニュアルがないと暮らせないということなんじゃないですか。


「強く念じれば望みは実現する。ただし、自分の望んだ時期には実現しない」って書いてありました(笑)。
歳をとってみると、なるほどなあと思うんですよね。


自分自身が時間とともにどんどん変わっていくのに、遠い昔に立てた「人生設計」にいつまでも固執することに何の意味があるのか、一度ゆっくり考えて欲しいです。


ロングスパンとショートスパンと、どちらもないといけないんですけどね。例えば、ビジネスというのはショートスパンなんです。
四半期決算で収益が出たかどうかで測るわけだし、現にやったことに対してすぐにリアクションが返ってくる。ビジネスってある意味ほとんど無時間モデルなんです。
でも、例えば、家族なんてものすごいロングスパンじゃないですか。結婚生活とか親子関係みたいなものというのは、自分のやったことが正しかったかどうかなんて、四十年、五十年経たなければわからない。だからビジネス的に四半期の収益で成否を測ることのできる家庭生活なんてありえないですよね。だから、ロングとショートの両方がいるんです。


いま家庭がうまくゆかなくなっている原因の一つは、全部がショートスパンになってきて、本来ロングスパンで成否を見るはずの結婚や親子のあり方を「早く決断しろ、早く結果を出せ」というビジネス的な時間感覚が歪めているせいじゃないかな。


人間がまわりから受ける影響ってすごいですよ。無意識のうちに、信じられないくらい簡単に影響される。精神レベルだけじゃなく、身体レベルでも。誰にも経験があると思うんですが、ある種のフィジカルな波動みたいなものがあって、その人のそばにいるだけで、こちらの生命エネルギーがどんどんすり減っていってしまうような人間が現にいるんです。


もう少し広い視野を持つとか、もう少し高い視点から自分自身を含む風景を鳥瞰的に見取るということができないと、マジョリティとともにあるべきか否かの判断はできない。生態系の全体のバランスが崩れないなら、ある集団が全滅することだってあり得るんですから。
そのとき、そのマジョリティにとどまるかはずれるかの判断ができる人間とできない人間がいるわけです。マジョリティを見切ってそこから逃げる能力というのは、ふつうの家庭教育や学校教育では教えてくれない。当たり前ですけどね。特に母親は絶対教えない。だって、母親にとって子どもは「弱い生物」としてインプットされているんですから。母親は本能的に子どもに対して「つねにマジョリティと行動をともにしなさい」という圧力をかけてきますね。


「変人」戦略というものを採用する人がいるわけですね。春日先生とかぼくとか。「変人」というのは最初からマジョリティの端っこの方にいるわけですよね。群れの中にはいるんだけれど、いつでも逃げられるように端にいる。真ん中にいると逃げられないから。マジョリティの中にいれば絶対に安心だと思っている人は、どのへんに立ち位置をとるかなんてことはあまり気にしないんですよ。


人間というのは、他人から聞いた話というのはあまり軽々には信用しないくせに、自分がいったん口にしたことばというのは、どれほど不合理でも信用するんですよ。だって、自分で口にしたことばの現実変成力を自分の人生を賭けてでも証明しようとするから。
自分の口で言ったことは、言わないことよりも実現可能性が高いですから、他人のことばはどれほど合理的でも信用しないが、自分のことばはどれほど不合理でも信用するというのは、ある意味「正解」なんです。


身体は正直ですからね。そして、身体の方が賢いんです。身体は本能的になんとか生き延びようとしているわけですから、長生きできない方向に人間が行こうとすると、「やめなさい」と言ってくれるはずなんです。


「身体が感じる違和感に、忠実になれ」ということですよね。


ぼくもときどき人に対してひどいことを言うことがあるんですが、そのときの基準は一つだけ。悪口を言ったあとで気分が良くなるかどうか(笑)。
やっぱり身体に訊いてみるしかないわけです。だから、学生にもよく言うんですよ。「とにかくデートしなさい」と。そして、一緒にご飯を食べてみて、美味しかったら相性がいい、一緒に食べてご飯がまずかったら相性が悪い、と。


甲野善紀先生や竹内敏晴先生や光岡英稔先生も、みんな身体の内側の変化をみつめるといういうことをされているでしょう。
その方たちに共通するのは、何が「正しい」かじゃなくて、何が「気持ちがいいか」ということを探求しているということですよね。
身体のどこにも無理がなく、詰まりもなく、凝りもない、気持ちがいい状態を探り当てられれば、どのような条件に置かれても、その「いちばん気持ちのいい状態」にまっすぐ戻ることができるでしょう?そのときの「安定状態に一気に戻る」動きが爆発的なエネルギーを生み出すわけだから。身体的な気持ちよさというのは、そのまま武道的な意味での強さにつながっているんです。


ひとりひとりの人間にはその人にとっての「最適サイズ」というものがあって、それよりも大きくしても小さくしても、身体には障害が出てきます。
ぼくたちが探さなければいけないのは、今の自分にとっての最適サイズなんです。生存に一番有利で、身体的ポテンシャルが発揮できて、かつどこにも過負荷のかからないぴったりの体型というものがひとりに一体ずつ必ずあるはずなんです。それより太っても痩せても、どちらにしてもパフォーマンスは下がる。


人間が精神的に健康である条件について、四つばかり挙げておきたい。
●自分を客観的に眺められる能力。
●物事を保留(ペンティング)しておける能力。
●秘密を持てる能力。
●物事には別解があり得ると考える柔軟性。


客観的に自分を眺める能力が必要なことは当たり前であろう。反省とか良識とか羞恥心とかバランス感覚といったことに通じるわけで、これがないと育ちの悪いガキと変わらない。

ペンディングする能力、あるいは(精神的な意味で)中腰の姿勢に耐えられるだけの余裕といったものもきわめて大切である。
それは忍耐力とか不安に耐える力と言い換えられるかもしれない。あるいは一種の能天気さとか楽天性、「ま、何とかなるさ」とやり過ごせるだけのいい加減さに近いものかもしれない。気取って言えば、希望を持ち続けられる能力と称してもよかろう。

おしなべて我々は待つことが苦手である。待っているとイライラする。不安になる。猜疑心を抱いたり、悪い想像をしてそれに振り回されたり、被害者的になったり、ときには妄想レベルにまで思考が暴走する。基本的に、待つことは精神衛生上きわめて悪い。

だが世間の諸事は、すぐに結果や結論が出ることは少ない。大概はじっと待ちつづけたり保留しておいたりしなければならない。つまり生活にメリハリがつかな。生殺し状態にされる。保留がいくつも生じることで将来への準備や心構えは困難となり、未来は不透明で曖昧となる。不条理感が立ち上がってくる。

だが我々はそうした生煮え状態に耐えなければならない。焦ったり捨て鉢になっては、元も子もなくなる。待つ能力、保留しておける能力は、本人のみならず周囲の人々にも安定した気分を与えてくれる。

秘密を持てる能力に関しては、本文で語られているから特に付け加えることはない。わたしとしては、胸にそっと秘密を持つことにもっと楽しさを感じるべきだと思う。心の闇といったものではなく、むしろ光学写真機の暗箱のような豊かな闇を持つことが我々には必要なのである。


では、物事には別解があり得ると考える柔軟性についてはどうか。しばしば世間では心を病んだ人々の思考は支離滅裂とかデタラメに近いものと捉えている。だがそれは間違いである。彼らは往々にしてきわめて論理的である。いや、あまりにも論理的で整合性があり過ぎることが問題となる。

11/08/2007

内田樹


内田樹(うちだ たつる)


私たちの社会からはすでに献酬の習慣がなくなった。今また喫煙の習慣も消えようとしている。共同体の存続よりも個人の健康を優先する人々が支配的になる社会において、人が今より幸福になるように、私は思えない。

デートでご飯に誘うのは、一緒にご飯を食べて、もし同じものがいつもより美味しく感じられたら、それは「この人とはうまくゆく」という指標だし、ご飯の味がしないなら、他の条件が揃っていても、うまくゆかない。こういう判断においては消火器の方が脳よりも賢いのである。

しゃべれば、しゃべるほど、言葉がうつろになっていく。

何でも今を基準にして考えちゃいけません。どちらかというと、昔から流れて来ているから今があるんですからね。歴史を逆に見ちゃいけないということですよ。

音楽の伝播というのは、人々が思っているほど一方向的なものではないし、時代とともに「進化する」というものでもありません。それは時間と空間を行きつ戻りつし、さまざまな非音楽的なファクターをも吸い寄せて、絶えざる変容と増殖を続ける不定形的でワイルドな運動なのです。

ご臨終メディア


ご臨終メディア 森達也・森巣博





森:森巣さんが指摘するように、高収入によって醸成される保守性が今のメディアのスポイルの大きな要因だとしたら、
  その既得権益を自発的に捨てさせることができるかどうかは疑問です。やはり外圧がないと・・・。
森巣:しかしそれなら庶民の味方みたいな面するなと。年に3000万円近くも取っておいて、自分の使命を果たさず、
  夜は会社の金で酒飲んで、「領収書切ってね。あっ、日付は入れないで」なんて言うのですよ(笑)。だからやっぱり給料を、
  15分の1にせいと。
森:森巣さん、減額の割合がどんどん増えてますよ(笑)。



森巣:森さんがおっしゃったとこで、一つの重要な論点が浮かび上がりました。相手を知らないゆえに憎悪しているという点。
  だからこそ知りたくないわけですよね。
森:そうですね。知ってしまったら憎悪できなくなってしまう。それをどこかで感知してしまうから、目をそむけてしまうのかもしれない。
  まぁ、オウムの場合はこれに加えて、彼らに対しての嫌悪が突出して強いですから。それも含めて考えねばならないとは思うけれど。


実際には巨悪を黙認し、かつそれに加担しつつ、正義を背負っているように振舞うジャーナリストたちには反吐が出ます。しかも倒れるのを
待っている。不正を告発するのがジャーナリズムのはずでしょうが。ところが、倒れたものを叩くのがジャーナリズムとなってしまった。


そもそも、ジャーナリズムという仕事―メディアの仕事と言い換えてもいいですが―には、他人の不幸を食い物にして成立する領域が
とても大きい。だから、生来的に後ろめたさがあって当たり前の仕事なんです。賎業くらいに思ったほうがちょうどいいと僕は思っています。
ところが今は、後ろめたさがどんどん希薄になっています。この負い目や後ろめたさが消えたとき、メディアは、暴走するんです。


権力は腐敗する。絶対的権力は絶対に腐敗する。
その権力の腐敗を、国民の代わりに監視するのが、ジャーナリズムの役割なのです。


レン・マスターマンが指摘した、メディアは現実を反映しているのではなく、再構成してから提示するという考えそのものですね。


メディアにおけるリアリティは、本物ではなく、本物らしいということです。これは決して皮肉ではなく、受け取る側の感応力が重要なんです。
だからこそ、メディアが発達することで、リアリティは増大せずに逆に消失するんです。ベトナム戦争とイラク戦争のリアリティを比べてみたらいい。
あるいは三〇年前のビアフラと今のスーダンの飢饉。規模や被害は同じようなものです。むしろ今のほうが悲惨かもしれない。でもメディアが
リアルタイムに、わかりやすく、情報量が増大する過程と並行して、受容する側の想像力が消えていくんです。


今、メディアに携わる人間も、確信犯的に状況を悪くしようと思って仕事をしているわけではなく、どこかで日本を長くしよう、自分たちの
理念を全うしようと考えているとは思います。それが硬直し、麻痺し始めている。さらに、僕が危惧している一番の点は、自分たちが
手を汚しているという自覚があれば、まだ改善の余地が存在するんですが、それすら消えてしまったときに、まさに自動律が始まるんです。


みんな一緒の社会のほうが、ずっと怖いのです。異質なものを混ぜて一緒にやる。これが本来の意味での多元主義の立場です。
異物はわからないからといって、排除してしまったら終わり。そこで思考は止まります。わからないものはわからないまま。置いておいて、
一緒に考えればいい。
自分も考える、向こうも考える。自分が何かしようとしたら、嫌なヤツも入れる。好きなものだけで集まっても、仲良しグループができるだけで、
つまらないものしかできない。だから、メディアには、多元性があっていいはずなのに、一元化されて、みんなでいい子グループをやっている。
「救う会」にしろ、「新しい教科書を作る会」にしろ、下部で働いてる人たちは、自分はいいことをしていると、きっとみんなそう信じているので
しょう。福音を伝道しているのだと思っている。


ところが、わからない、理解できない相手は、はじいてしまう。北朝鮮の手先だ、アルカイダの兵士だ、テロリストだ、非国民だと排除してしまう。
なぜかは理解できないけれど、テロリストたちがあれだけのことをするには、それなりの理由があるんだと考えることができない。わからないのなら、
なおのこと相手を知ろうとするために、その考えを聞き、知ろうとするべきにもかかわらず、わからないからといって徹底的に差別する、排除する。


暴走します。悪意は暴走しない。ただし、開き直ります。
森巣:悪意には、ある程度までの、底というべきか天井があるのかもしれない。ところが、善意というのはどこまでも突き進んでしまう。


その無自覚性の積み重ねの先にある社会こそが「怖い」のです(笑)。いつの間にか、私みたいな人間がサヨクと思われるような世の中になってしまった。
私の立場は明瞭です。左翼は難解、右翼は厄介(笑)。アメリカでは、愛国者法(反テロ法)が成立しました。日本もその方向に進んでいる。
愛国者法を成立させたUSAは、私がセックス・ドラッグス・ロックンロールをやっていた頃のUSAではありません。敵を作り、敵を攻撃することが正義と
なりました。おまけに、それに反対すれば非国民です。


今のメディア自身も、善意を体現しようとして、そこに正義という言葉を入れ替えて、その御旗の下、麻痺し始めている状況ですから、社会全体の
善意による暴走という構造は、拍車がかかるばかりの状態になりつつある。
森巣:それでも、表現することを恐れてはいけない。意義申し立ては必要なのです。周囲に気を取られて、保身しているようでは、奈落しか待ち受け
ません。森さんが書かれていたことですが、表現することによって傷つく人がいるかもしれない。それは絶対どこかにいるのです。それを気にしてばかりいたら、
何も書けなくなってしまう。表現とは誰かを傷つける可能性を含むものなのだという自覚は必要です。その加害者性を受容して、表現が開始される。


傷つくであろう人がいるということは、気にはしてほしいし、忘れてほしくない。だからといって、気にしすぎてしまったら、それで機能しなくなってしまう。
後ろめたさを思いっきり持って、ああ、こんなに毎日毎日多くの人を傷つけているって、めそめそ泣きながら仕事をするくらいの気持ちを持続してほしい。
その自覚もないのに、ジャーナリズムや表現に携わってはほしくないですね。


人を刺すのは、自分も刺されることを受け入れて、はじめての成立可能な行為です。自分が刺されることを受け入れないから、現状のように、どんどん
抗議のこないほうに向かってしまった。
森:・・・・・・でもね、刺される窮地にまで自分を追い込む必要はないんです。メディアの特権は、人のことを刺すけれど、自分は刺されない位置にいること
です。とんでもない特権です。だからこそ、それに見合うだけの自覚と働きは、当然要求されるべきなんです。


自分がくだらない、虫けらみたいな人間なんだというところから出発したほうがいい。正義であったり、公共の福祉であったり、知る権利とか、
表現の自由がどうだとか、そういったことを持ち出すから、どんどんどんどん錯覚していってしまう。
一回原点に立ち返ればいい。メディアという仕事は、ほとんどが人の不幸をあげつらうことで成り立っている。不幸でなくとも、聞かれたくないような
ことまで取材しなければならない場合もあるし、取材方法だって家族には見られたくないようなことばかりしています。そしてその結果、常に誰かを
傷つけることで成立しているんです。そのことに対する後ろめたさを持ったほうがいい。それだけは、絶対なくすべきではないと思っている。
卑しい仕事なんです。その視点から、もう一度、メディアというこの重要なジャンルと、向き合うべきと思っています。


長い博奕体験から、私には言えることが一つある。それは、希望が絶望に変わるのは諦めたときなんです。諦めちゃいけない。
絶望に陥ってはいけないのです。

11/07/2007

奥田民生、日経


奥田民生、日経
音程って揺れるでしょ。ビブラートをかけるとごまかせる。

カラオケ的歌い方と言うか。本当にうまい人はビブラートをコントロールしてやってますから、さらにうまくなる。

ごまかしてる人は、うまく聞こえるけどちっともうまくない。

ソングブック/ニック・ホーンビィ


ソングブック/ニック・ホーンビィ

ピンクフロイドの音は、風通しが悪くて人工的だった。おまけにプログレッシグ・ロックのやつらは、まるでクラッシクの音楽家になりたがっているみたいで、なぜだかポップを見下している感じだった。彼らについて行っても、その先は袋小路。未来はどこにも通じちゃいなかった。

イングランドのポップ・ミュージックを聴いてもイングランドは聞き取れない。・・・・セックス・ピストルズはストゥージスの歯並びを悪くして、やり手のマネージャーを付け加えたようなもの。

出来の悪いものでも許せる気持ちになったのは、最良の歌とはただただ美しく、そして美しいものとは、とくにポップ・ミュージックにおいて、稀少品であるからだ。そう考えてみれば、美しいものを抱きしめずにいるなんて、自傷行為にひとしい。もうぼくは、ポップ・スノッブでいる余裕などない。

ジャクソン・ブラウンの音楽には、若いころなら反応できなかっただろうと思わせるものがたくさん存在している。当時だったら、その繊細さやはかなさを、ただつまらないと勘違いしたはずだ。

ぼくは新しいものを発見しつづけたい。証券取引所に名前があるような店では、発見なんて出来やない。だからあなたには、ウッドや、あなたの家の近所にある似たような店で買物をして欲しい。でなければ、いつかきっとこうかいするはずだから。

音楽を愛してはいるけれど才能のない人間でも素晴らしい音を創造できる。必要なのは耳と、ソフトウェアと、センスのよさだけ。ファンという人種だけが持つ大いなる魅力が、これでようやく世に認めらるようになったわけだ。

音楽を創造するとは―どんな芸術でもおなじだが―空気の薄いところから何かを引きづりだし、もともと何もなかったところに何かを生みだすことであるはずだ。

11/06/2007

最高の自分を生きる 丸山敏秋






最高の自分を生きる 丸山敏秋



◎感謝や感動の心が大きいこと
◎自分の身に起きることはすべてプラス、ととらえること
◎先のことはあまり考えず、目の前のことに精一杯取り組むこと
◎志を高く持つこと
◎ギブ・アンド・ギブの精神で生きること


稽古とは、自分の身体を型にはめ込んでいく訓練である。稽古がはっきりとした目的に
向けて行われるとき、それは修行となるのだ。


修行とは、世俗的な日常経験の場における生活規範より以上のきびしい拘束を自己の心身に対して
課することである。そしてそれによって、社会の平均的人間が送っている生き方より以上の「生」の
Leben mehr alsに至ろうとすることである。「人格の向上」とか「人間形成」とよばれるものは、具体的には、
このような実践的訓練の過程を意味する。
そうした修行には、主として外界の事物に向かう外向的実践(たとえば修道院生活の労働のように)と、
瞑想修行のような自己の心の内部に向かう内向的実践に大別できる。世阿弥が稽古を禅の修行になぞらえたように、
技芸の稽古が修行に進んでいくとき、日本の場合では無我の境地をめざす仏教思想が大きな役割を果たすこととなった。



技芸あるいは求道の世界でその「道」を究めるためには、よき師に就き、その師を心から尊敬信頼して、技能を修得しなければならない。
道元いわく、「正師を得ざれば学ばざるに如かず」。
技芸の師は普通、あまり教えない。師自身もかつて就いた師から教えられることはなかったし、技芸の蘊奥は教えられるものでもないことを、
経験的によく知っているからだ。型ならば教えられるが、それもあえて無理には教えない。そもそも、「教える」という言葉は稽古の世界にふさわしくない。
なぜなら、日本の技芸では身体などの動きがない、いわば空白余白のところに無限の妙趣を見出そうとするからだ。「せぬところがおもしろき也」
(世阿弥『花鏡』)、「目に見えぬ所をさとって知る事」(宮本武蔵の『五輪書』第七戒)と言うがごときである。動きのないところ、目に見えないことを、
どうやって教えられようか。
したがって弟子は、真似をするしかない。技芸でも学問でも、学びの道は「まねび」、すなわち師の技芸や知識をひたすら謙虚に模倣することからしか
始まらない。模倣するとは、一定の型に身を入れる修練を積むことである。



①善いしつけ
②自分の選んだ芸術に対する情熱的な愛
③師に対する批判抜きの尊敬


まず弟子は最初、師がやって見せることを、良心的に模倣すること以外には、何一つ要望されることがない。
師は長ったらしい説教や理由付けを嫌って、簡潔な教示をするにとどめ、弟子が質問することなどは勘定に入れていない。
彼は弟子の模索的な数々の骨折りを落ちつきはらって静かに眺めており、別に弟子の独立心や創意工夫を期待しないが、
弟子が成長し成熟するのをじっと待っている忍耐心を持っている。両者共に時間をたっぷり持っており、師はせきたてず、弟子は
あわてて手をさし出さないのである。
時期尚早に弟子を芸術家に目覚めさせようなどとは毛頭考えず、師は彼を、手業が無上によくできる有能者に仕立てることを、
自分の最初の使命と考えている。弟子はたゆまぬ勤勉によって師のこの意図に添おうと努める。彼はまるでそれ以上の高い要求は
全然持っていないかのように、いわば自分に愚鈍な心服状態を背負わせる。こうして彼は、何年か経って初めて、完全に自己のものと
した形式が、もはや自分を圧迫せず、かえって自己を解放するという経験を持つようになるのである。彼は一日一日と次第に容易に、
どんな芸術的霊感にも、技術的には造作なく従うことができるようになる、が同時にまた心をこめた観察の中から、霊感をぞくぞくわかせる
こともできるようになる。例えば、筆を持つ手は、彼が心の中で創作活動を始めるのと同じ瞬間に、いち早く狙い誤たず頭に浮かんで
いるものを仕上げてしまうのである。そしてついに弟子は、精神か手か両者のどれが、その作品の責を負うかをもはや知らなくなるのである。
しかしそこまで行くためには、すなわちその技量が“精神的に”なるためには、弓道の場合と同様に、心身の全力の集中が必要なのであって、
これは、どんな事情の下においても放棄され得ないものである。(傍点・引用者)


稽古が目指すのは「自由」の境地なのである。「型にはまる」だけではその「道」を窮めたとはいえない。型をしっかり踏まえながらその型を
超えていくと、いちいちの動作から心が離れ、自由自在に技が繰り出せるようになり、「我もしらず」という境地に至る。そう、「ゾーンに入る」のだ。
そうした稽古の階梯は「守・破・離」あるいは「序・破・急」と呼ばれた。


◎人は、幸福に暮らしているから朗らかなのではなく、朗らかにしているから、幸福な事情がつぎつぎにあらわれてくるのである。
◎世の人は、身体が悪いから働けない、というように考えているが、それは反対である。・・・・・・病気になってからでも、出来る仕事を心配なく
働きつづけていたら、それ以上悪くならないばかりでなく、次第によくなってくるものである。


習慣は成長の敵なのだが、習慣を突き破るところに成長がある、というべきかもしれない。習慣を突き破る上での導き、それが直感だった。
直感は低次の「爬虫類の脳」ではなく、上位の「人間の脳」と「哺乳類の脳」との間の力動から生まれる。すなわち、「下から上」ではなく
「上から下」に作用する心の機能であった。ちなみに、習慣に依存する怠惰怠慢、あるいは自己保存の心意は、「下から上」によるものである。
技芸の世界における達人の開眼に、直感が大きな働きをするとともに、日々の稽古における向上のプロセスにも直感は欠かせなかった。
このようなことから、「気づいたらすぐする」という実践の意義が明らかになる。気付きという直感は、その時その場の状況に応じて、実に多様に
発現する。それをキャッチして行動する場面場面は、いつも異なっていて、常に新しい。すなわち受動的な習慣を突き破り、われわれは
「新に生きる」ことができる。
実践とは非日常的な行為だったが、あることを実践してそれが出来るようになると、習慣化してしまう場合が多い。日常化してしまえば、もう、
実践ではなくなってしまう。直感による「即行」にそうした習慣化は起こらない。「即行」が非日常に止まりっぱなしということも決してない。
「日常→非日常→日常」の好ましいサイクルが「即行」の実践においてもたらされる。


「純情」の対極がわがまま(エゴイズム)であり、わがままは習慣に安住する。わがままな生き方を変え、機械のように自動操縦されて生きるだけの
人生を乗り越えたいのであれば、「即行」ほど的確な実践はない。


オイゲン・ヘリゲル『日本の弓術』(柴田治三郎訳、岩波文庫、1982年)
同『弓と禅』(稲富栄二郎・上田武訳、福村出版、1981年)
黒田亮『勘の研究』(講談社学術文庫、1980年)

「正しい意思決定の五条件」&「12の徳目」


「正しい意思決定の五条件」&「12の徳目」



これは、私が信じている世の中の仕組みから見つけだしたものです。

①やりたいこと・楽しいことをやる

②自信のあることは、やってもいい

③自分のためだけのことではなく、世のためになること

④責任がとれること

⑤恨まれることはしない





一、 【孝行】親孝行をしましょう。

二、 【友愛】兄弟姉妹は仲よくしましょう。

三、 【夫婦の和】夫婦はいつも伸睦まじくしましょう。

四、 【朋友の信】友だちはお互いに信じ合ってつきあいましょう。

五、 【謙遜】自分の行動・言動を慎みましょう。

六、 【博愛】全ての人を愛し、助けの手を差し伸べましょう。

七、 【修学習業】勉学に励み、職業を身につけましょう。

八、 【知能啓発】知識・教養を身につけ、才能を伸ばしましょう。

九、 【徳器成就】人徳を高め、人格を高めましょう。

十、 【公益世努】社会や公共のために貢献しましょう。

十一、【遵法】法律や規則を守りましょう。

十二、【義勇】正しい勇気をもって、国のために尽くしましょう。


11/05/2007

楽しく上手にお金とつきあう・小林正観


楽しく上手にお金とつきあう・小林正観



たそがれたラーメン屋でお金を使う。

美味しい店、有名な店に入るために行列に並び、20分も、30分も待って食べるというのは、エゴかもしれません。その有名な店の2,3軒隣には、必ずお客さんの入ってない店があります。まずくて有名で、店主の愛想は悪いかもしれません。でも、あえてこのような店に入ってみてください。

役に立つようにお金を使うというのは、「いかに人に、お金に喜んでもらえるか」ということでもあるのです。



お金ができた、と食べ物を変えると運が衰える。

「欲しい、欲しい」と念ずれば念ずるほど、願えば願うほど、「我欲」「執着」「こだわり」のゴミを貯め込んでいることになります。先ずは、その三つの思いを捨てること。



どうお金を使うか、いつも考える。

いざという時に、富をみんなのために放出できる人のところには、お金が集まってくる。「この人のところに貯めておけば、いざというとき助かる」と思われる人は潤うのです。「この人に潤っていて欲しい」と周りの人たちが思っているから、自然とそうなるのです。



喜ばれる存在になると、売り上げはついてくる。

村おこし、町おこしの共通点

1、その町や村で育った人が一度都会に出て生活し、戻ってきて何かを始めた。

2、都会に住んでいた人が仕事を辞め、その町や村に移り住んで何かを始めた。

3、その町や村の外に多くの友人、知人を持っている人が何かを始めた。

外の世界と交流を持ち、外の世界を知っている人が、新しい楽しいアイディアを持ち込み、活性化のきっかけをつくっているようです。ずっとその町や村から出たことがない人が、その地域のよさを認識できないので、そのよさをアピールすることができない。



働くとは「はたをラクにする」こと。

喜ばれる存在になること、それだけですよね。



生きるとは、「頼まれごと」をこなすこと。

自分のやる気や衝動によってつくったものが芸術だと思い込んでいる人が多いのですが、それだけでは、長く世に残るスゴイ仕事はできないようです。

衝動でやったものは、自分のできる範囲でしかやらないことが多い。ところが、「この大きさのもの、こういうものをいついつまでに仕上げてくれ」と言われると、人間は自分を超える力をどこかから借りてこなくてはならない。自分の能力の限界を超えるものを頼まれて引き受けてしまう、ここが重要です。

自分の力を自分で評価・評論できると思っている、それが「傲慢」です。頼まれたら「わかりました」と言ってやってみる、それが「謙虚」。

一般に言う、「傲慢」と「謙虚」とは全然違います。



「イヤなこと眼鏡」を外すと、人生は楽しい。

「お金を貸してくれ」「お金を出してくれ」と言われても、それはお金に用事があるのであって、「私」に用事があるのではありませんから、断っても構いません。

その人はお金に用事があるのですから、「私」ではなくてもどこかお金がでてくればそれでよいわけです。



「夢や希望に満ちあふれた人生」は、「死ぬまで満たされない人生」かも。

努力の反対語は感謝です。もちろん、努力は悪いことではありません。けれども「努力をしなければならない」と思うのは、自分の力しか信じていないこと。つまり、自分の人生をつくっているのは自分だ、という奢り・高ぶり・うぬぼれ・傲慢かもしれません。そういう人は、自分の体の外側のものを全部敵に回しても努力を続ける。それが美徳だと思い込んでいる。

「夢や希望をもちつづけなければならない」と私たちは言われ続けてきましたが、夢や希望に満ちあふれいる人生というのは、つねに今の自分を好きになれず、「まだまだ、もっともっと」と死ぬまで言い続ける、満たされない人生ということなのではないでしょうか。

ちっとも努力してないけど、いつもニコニコと楽しそうで、心に余裕があり、いろいろなことや人に感謝して、周りの人を気持ちよく、明るくさせてくれる人。

「努力、努力」と押しつけがましく、とても偉そうで、一人で頑張っているような顔をして、いつもピリピリと怒っている人。

どちらが楽しそうで、明るく楽しい人が寄り集まってくる人生なのでしょうか。



求めて手に入れるのが人生の前半、折り返しを過ぎたら、捨てて手放す。

「頑張る」「努力する」ことが唯一のよい価値なのだと信じて、そのまま後半生を生きていこうとすると、今度はうまくいきません。後半生では、「頑張る」「努力」が「向かい風」になってしまうようです。人生の折り返し地点を過ぎたな、と思ったら、何かを求めて動くより、今いる場所で「どうしたら喜ばれる存在になるか」、今まで得たもので「どうやってみんなの役に立つか」と考えると、面白い風が吹いてきます。追い風です。



「発想転換」して「執着を捨てる」。

強いものが力を示して上に立つ時代はもう終わり。柔らかなもの、温かいものが協調して力を持つ、そういう時代。「力を持つ」という表現自体が違うかもしれません。強調的なものが中心になっていくのです。



「ありがとう」は神の応援を得る言葉。

本当に幸せを感じる人というのは、足りないものをリストアップするのではなくて、足りているもの、いただいているものをリストアップする人。自分がいかに恵まれているかに気がついた人です。








11/04/2007

暮らしの哲学・やったら楽しい101題






暮らしの哲学・やったら楽しい101題・ロジェ=ポル・ドロワ



身の上をいくつもでっち上げる・人生観が変わる

違う人間を演じてみる・憂鬱の虫を抑える

いい人になったり悪い人になったりする・自分を相対化する

何もしないでただ待つ・気が鎮まる

しあわせになる禅






しあわせになる禅・ひろさちや



家の中で使われる物差しが、世間の物差しのままではいけないと思う。世間の物差しは、人間を「役に立つ、役に立たない」といった観点で評価するから。



要するに、親が世間の奴隷になって、わが子に世間の物差しを押し付けていたのでは、問題は解決できないのです。



宗教を持たない人間が、宗教の代用品として持っているもの(持たされているもの)が、

―美学―

です。「日本人の美学」「男の美学」なんて言いますが、立派な死に方をせねばならない、立派な生き方をせねばならないという強迫観念が美学です。

こんなもの、宗教の代用品にはなりませんよ。



1、莫妄想(まくもうぞう)→余計なことを考えるな!

2、一得一矢→なんだっていい。

3、自灯明→他人のことはほっとけ!

4、放下著(とうげぢゃく)→常識を捨てろ!

5、竿頭進歩(かんとうしんぽ)→がんばるな!

11/03/2007

日本の遺伝子を変える 濤川栄太


日本の遺伝子を変える 濤川栄太



田中角栄氏がしみじみと語った言葉が忘れられない。「とにかく敵をなるたけつくらないこと。一人の敵は千人の敵になる」は、けだし名言だ。

 

何が弱いのかといえば、まず情報そのものに対する執着力が弱い。ある意味でインターネットとは「個」だ。一人が世界をひっくり返せる可能性をもつ。その点、集団主義をメインとし、基本的には群れて生きてきた日本人は、どうしても「個の確立」を苦手にする部分もある。

 

とくに目立つのは「国家意識の欠落」。日本人ほど国家を愛さない国民が多いのは、世界に類例がない。

これは何回でも強調する。個人を大切にし、自由と民主主義でいく。しかし、そういうアメリカ、イギリス、フランス・・・、いずこの国民もみな自国を愛している。



「人間は自分の為に生きなければ生きられないが、他人の為に生きる意志のない者は幸福になれない」、という方程式。私にはどうしてもそうとしか考えられない。

だから仏教でいう「菩薩性」の強い人が、人間として強い。豊かであり、輝く。そして「知足」―、足るを知っている。エンジンをふかす時と、ブレーキをかける時の判断力も高い。孫子は「敵を知り、己を知るは百戦危うからず」というが、やはりすべては「知ること」から始まる。「知は力」だ。

 

 MIT教授ジョン・ダワー氏はかつてピュリッツアー賞を受賞したが、日本経済の復興を研究する彼はいう。「経済システムについてもアメリカのまねをして、日本がもっていた良さをなくそうとしているように思います」。「アメリカのまねをして、日本の優れたシステムを棄ててはならぬ」。繰り返すが、アメリカの良き所を吸収し、悪しき所は同化しない術を身につけないとこの国は本当にダメになってしまう。

 

 

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11/02/2007

親より稼ぐネオニート・今一生



親より稼ぐネオニート・今一生





受験勉強や集団生活は、ガマン比べに強い奴が勝ち上がっていく。

だが、「どうせガマンするなら自分のしたいことを実現させるためにガマンしたい」と望むほうが精神的に健康な考えであり、実際に発揮できるはずだ。「みんなと同じ」人生を踏み外す不安に負けて、周囲の望む通りに生きて後悔しても、親も友人も恋人も誰もあなたの人生に責任なんてとってくれない。だから、やりたいことがハッキリとあるときは、みんなの輪から離れても自分が納得できるまでやってみるしかないのだ。



「親が子供に教育すべきことは自分一人で食べる技術を身につけさせることだ」と痛感した。

親は子供に学歴を与えることに躍起になるよりも、自力で稼いでいる姿を見せたほうが、子供にとっては自分が生きている社会がどんなものかがわかる。家庭や学校における教育ではまだまだ学歴信仰が根強い。だが、そこから一歩でも早く目覚めて自力で稼げる技術を磨かせることが、楽しく稼ぐ子=働くのが好きな子に育てる第一歩なのだ。

会社に雇われるより自営したほうが儲けられるなら、雇われる必要などない。資本主義社会では自営で暮らす自信のない若者は学歴にすがって待遇の良い企業への入社を目指す。だが、職業能力や実績に自信のある人は早々と独立する。つまり正規雇用は本来、自営業を安定させることに自信のない弱者の選択にすぎないのだ。



「(下流層は)コミュニケーション能力、生活能力、働く意欲、学ぶ意欲、消費意欲、つまり総じて人生への意欲が低いのである。その結果として所得が上がらず、未婚のままである確率の高い。そして彼らの中には、だらだら歩き、だらだら生きている者も少なくない。その方が楽だからだ。」



衣食住がいつもあるのを当然と感じ、趣味や遊びにも満足なお金をかけて育てられた世代の子供たちにとっては、わざわざ苦役である労働に自分の時間や体を投げ出さなければいけない理由がピンと来ない。自分の趣味に時間とお金を使うことで、その趣味と向き合っているときの自分が自分らしいと感じてしまった世代にとっては、自分らしさから離れることは自尊心を奪われるのと同じであり、「酸欠」状態だからだ。



ファッション雑誌やテレビ番組でよく報じられるように、流行の服を着ることや毎年水着を買い換えることがおしゃれの基本だろうと、そんな「みんなと同じ」ことにお金を支払うよりも自分らしい趣味にお金を出すほうが楽だから、暮らしぶりは放っておくと自堕落になりがちだ。

その「自分らしい人生」がテレビゲーム三昧の日々だろうと、低収入のために家の外で友人と交際する機会を減らすしかない人生だろうと、「世間様には及ばないが、マイペースの人生で良いじゃないか」と思うことで自尊心を保つしかない。



現実での職場の人間関係は、学校で嫌いな人を無視してやり過ごすようなポーカーフェイスでは立ち行かないし、自分の仕事ぶりは常に同期の人たちと比べられる。



人と競争しながら自分の能力を磨くことに既に疲れきっていたり、人と争いながらも妥協点を探って絆を深めていけるようなコミュニケーション・スキル(交際能力)を鍛えるにも及び腰で、毎日同じ会社に通勤する規則正しい生活を維持する体力も根性も欠如しているという一群が、「エヴァ世代」の若者には珍しくないからだ。



プロは自分の高度な技術を取引先の企業に高く売るために、ギャラの額面を吊り上げていくことに腐心する。その結果、「IT弱者」には払えない額面になってしまうからだ。

そこにこそ、職にあぶれたニートたちが「自分にとって難なくできるレベルのもの」を発見する余地が生まれる。自分ひとりが食っていける程度の労働市場は自力で作れるのだ。誰もやらないことほど独占市場を作れるチャンスなのだから。



ネオニートは、世間体より自分の基準を優先してきた。世間体なんか気にして「普通並み」の暮らしを求めても、自分には無理そうだからあきらめ、不労所得→自営の道を歩いてきたのだ。その経緯を忘れずに、収入能力が同世代のサラリーマンの平均年収以上になった時点で世間に合わせた消費スタイルに変えていく必要がある。

自分が好きな古着を着て路上で歌っていたインディーズ・ミュージシャンも、メジャー・デビューしたらプロのスタイリストにお金を払って、自分の個性をもっと魅力的に見せる眼をあつらえてデビュー・アルバムのジャケット写真を撮影する。それが、「メジャー」に上るだけの商品価値があることを世間に証明する通過儀礼だからだ。

このように、自分が世間からプロとして認められるには、自分のできないことのできるプロにお金を払って自分を磨きながら、いろんなプロたちの輪に入って自分の存在を訴えていくことが求められる。収入能力や資産の増大に伴うべき変化は、消費スタイルだけではない。儲けの大きさに応じて会社法人化したり、せめて確定申告するなどの税申告の明瞭化を図ったり、IT関連だけでなく、IT以前のマスメディアとの連動を図って世間から認められるように振舞っていかないと、時代の変化で市場が頭打ちになったり、ライバルの追従を許してしまう。



人前に出る機会が増えればそれなりの服を買う必要が出てくるし、「安い定食屋の味しか知らない」というわけにはいかなくなる。だが、それこそが世間に合わせるということなのだ。そのように世間に受け入れられるように振舞えば、自分自身が社会的に存在価値が高いことを自他共に認められ、自分の仕事ぶりにもっと確かな自信を持つことができるようになり、新たに労働意欲が補填されるというわけだ。



稼ぐ速度はその人の自分の人生に対する責任感(自尊心)によってまちまちだ。



個人資産が莫大になれば、なるだけ広く社会(それも多数の弱者)に還元していく。このあり方は、不断の拡大再生産を余儀なくされる資本主義の最終形態(解脱)だ。だから、個人では使い切れないほどの資産ができれば、労働者から引退してもボランティアで社会に役立つために動くことだ。それが本物の成功者たちの人生といえる。



下流層は、物欲も性欲も食欲も弱い。人と競争せず自分らしく暮らせれば満足。





11/01/2007

オープンソースの開発とは?




オープンソースの開発とは?



オープンソース開発の特徴としては、スケジュールよりも、クオリティが重視されます。いつまでに作るのではなく、それを作り上げることが大事なのです。また、開発者がやりたいものを自発的に制作するので、完成させるためには勉強や実験といった努力も惜しまないのです。そして、無駄を気にしないというのも特徴のひとつです。普通の企業の業務なら、分散して効率よく作業するのが普通でしょうが、オープンソース開発では皆が同じ作業をしていることもよくあります。やりたいことをやって、出来のよいほうを採用するというスタンスなのです。



しかし、オープンソースにもメリットとデメリットはあります。メリットとしては、ソフトウェアの出来が最優先されるということ、開発者が自分で作業の方向性を決められるということ、作りたいものを勝手に開発できること、などが挙げられます。その半面、開発者が必要性を感じないものは出来が悪かったりします。また、きちんとしたロードマップやスケジュールの作成が難しいため、人材を無駄なく動かせることができないのも問題ですね。



オープンソース開発は参加強制力がなく、金銭的な利害も発生しません。それでもあえて開発に携わるということは、やる気があるということ。このように、自発的な心構えの優秀なメンバーが集まりますから、一般的なソフトライターとは異なる集合知に近い感じ、つまり今でいうWeb2.0に近い動きで仕事を進めることができます。ですから、出来上がるソフトウェアも必然的に質の高いものが多くなるのでしょう。



ただ労働集約型の開発など、オープンソースが向かないものもあります。また、オープンソースをよく知らない人との溝が深く、そのよさを理解してもらうことの大変さがありますが、最近ではオープンソース開発をビジネスで取り入れる企業も出てきたので、啓蒙活動次第で解消することは可能だと思います。



「いかに開発すること自体を楽しめるか」が、クリエーティブな開発現場には欠かせないと思います。開発者がやりたいことをやらせてもらえる、命令を受けた業務から自分なりに面白さを見いだして取り組むなど、楽しみ方は人それぞれでしょう。オープンソースはどこまでも追求して開発していくことができます。ビジネス的な制約があまりなく、深追いできるような現場が理想的ですね。