1/24/2008
なぜ、この人だけが成功するのか 谷沢永一
なぜ、この人だけが成功するのか 谷沢永一
百の名言百の知恵
なまじ経験を積んだがために、人柄がすれっからしになって卑しく、他人の顔色を見るだけが能、みんなに嫌われる男がある。
最も厄介で迷惑なのは、博学多識を鼻にかける天狗たちであろう。歩く百科事典(ウォーキング・ディクショナリー)という揶揄(からかい)の呼び名がある。なるほど記憶力は抜群で、詰まらんことまで細かく知っているが、映写幕のように頭脳が受動的にしか働かない。どこに解決すべき問題の、その取っ掛かりが伏在しているか、進んで見出す機能がないから、飾り物にしかならない人もいる。
世間では昔からお喋りに悪人はいないと言い慣わすが、その観察はかなりの率で当たっていよう。
つまりお喋りは他人をほとんど念頭においていないから、他人に計略を施すという企みにまで頭が回らないのである。
そこから直ちに予想される如く、黙っている奴は物騒だから気をつけろ、と言い伝える。
そういうときに閃きを発する人物にかぎって、平素はもの静かに黙っている。いつも黙っている人の九〇パーセント以上は無能であるが、そのなかに純金の素質が交じっているのだから厄介である。しょっちゅうやかましく騒ぎ立てている奴は無視すればよい。職場における自分のまわりに向かって、自分を偉そうに見せている型は問題外である。
自信があって機会を狙っている者は、一挙に真価をあらわす日を期して待っている。
一連の施策にこめられた神谷の構想は、モータリゼーションが進展しやすいように、社会が動いてゆくための環境づくりであった。真当な販売は押し売りではない。欲しい人に商品を提供するのが筋道である。
欲しがる人がいないのに物が売れるか。納得ずくで取引を広げるためには、欲しがる気持が世間一般に高まっていなければならない。それゆえ車の便利さ宜しさを、実感でわかる人を増やせばよい。
世の人は他人を応援してやろうと待ち構えているのではない。人間は誰でも必ず猜疑心のかたまりである。
そして何かを成しとげようと努める者には、できるものかと冷たい軽蔑の視線を注ぐ。能力もないくせに力んでいやがると不愉快になる。世に出て何かを為すとは、世に逆らい世間を敵にまわす謀叛の行為である。どこの誰が同情してくれるものか。
成功とは世間を味方に引き寄せた段階を言う。あくせくと血の汗を流して苦しんでいるとき、鐚一文貸してくれなかった悪鬼羅刹が、満面に笑みをたたえて借りてくれと躙り寄ってくる。当方の人格がすぐれているからではない。すべては信用であり見込みであり賭けであり投機である。
ちょっとまわりを見渡してごらんなさい。老人は一方的に自分のことを喋っているだけ、ほとんど会話になっていないのが普通である。中年以上の同窓会で、健康問題と薬の効き工合を封じたら、途端に話題がなくなって座が持たない。六十歳を越すあたりから、自分自身のことにしか興味を示さなくなる。相手が話しかけている間はひたすら辛抱している。先方の声がやっと終るのを待って、たちまち喋りだすのは自分のことばかり、お互い他人の言うことなど、聞いているふりして聞かない。
ほぼ六十歳を越すあたりから、家庭でも職場でも会合でも、無意味な自己主張が一方通行で発射されている。このあたりに精神の定年が訪れるのを常とする。
人を悪く言うと一種の自己催眠のようなものにかかって、その人を悪く言わなかったとき以上に、その人が悪く思われる。反対に人をほめると、ほめる前以上にその人がいいように思われる。だから、なるべく人を悪く言ってはいけないのだ。
映画は元来、不良青年がつくるものだ。僕が言い出した言葉に「不良性感度」というのがあるが、これが鈍いと面白い映画にできない。 岡田茂
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