1/20/2008
他人と深く関わらずに生きるには
他人と深く関わらずに生きるには・池田清彦
大人になっても、だれかにかまってもらいたい、だれかに面倒を見てもらいたい、だれかに甘えたい、というのは、赤ん坊の感性を引きずっているのである。赤ん坊と母親は非対称だから、赤ん坊はひたすら甘える身であり、母親はひたすら面倒を見る身であるのはやむを得ない。しかし、大人になれば、自分と他人は対称だから、自分だけ甘えたり、自分だけわがままを言うことはできない。自分が甘えるということは、相手の甘えを許すことであり、自分がわがままを言えば、相手のわがままも許さざるを得ない。
だから、他人に自分の心の中にズカズカと侵入されたくない人は、自分も他人に甘えてはいけないのである。
ルールは守れるなら、守った方が良いが、絶対に守らなければならないものではない。状況によっては守らない方が都合がよい時には、守らなくてもよいのである。ただし、どんな状況の時にどんなルールなら守らなくてよいかは自分で判断する他ない。与えられたルールをただ墨守するよりも、最終的には自分で判断して行動する方がステキではないか。
日本の学校は、個人の自立を妨げるように機能しているとしか思えない。他人を当てにして、他人にものを平気で頼み、断られるとムカつくような人を育てているように思える。知人や親友や時に知らない人に何かを頼むことはよくあるだろうし、そのこと自体は別にとがめられるようなことではない。しかし、人には色々事情があり、あなたの頼みを常に聞いてくれるとは限らない。頼みを聞いてくれた時は素直に感謝し、断られてもムカついてはいけないのである。
自由に生きることは結構しんどい。他人を当てにして生きた方が楽かもしれない。しかし、他でない自分の人生なんだから、最後は自分で決める他ないのである。
あなたはあなたにとって世界で一人しかいない唯一の個人である。世間の物語が通用するかどうか、それもあなたが決める他ないのである。他人を当てにしないで生きるとは、社会と隔絶して生きるということでもないし、他人とコミュニケーションをもたずに生きるということでもない。自分の食いぶちは自分でかせぎ、自分の人生は自分で決定する、というごく当たり前のことにすぎない。
親が自分のなし得なかった夢を子供に託す気持ちも判らないでもないが、才能の半分くらいは遺伝するのだから、あなたもできなかったし、子供の興味を示さないことを無理強いしても時間とお金のムダである。子供が真にやりたいことをサポートしてやることと、無理強いすることは違うのである。ない才能をたたいても普通は埃しかでないものだ。
他力を頼まず自力で生きて、力が尽きたら死ぬのが最も上品な生き方だ、ということだ。働けなくなったら、金を稼げなくなったら、誰かに面倒を見てもらうのは当然ではないのである。そうなったら野垂れ死ぬのが当然なのだ。それは自分ひとりで自給自足の生活や狩猟採集的生活をすれば、当たり前の帰結である。
自由に自力だけで行きようする人は、最後は野垂れ死にを覚悟する必要がある。自由に生きたいけれど、死にそうになったら助けてくれという人は、自由に生きる資格はない。そういう人は、不自由に生きて不自由に死ねばよい。ただし、不自由に生きて不自由に死ねよりも、自由に生きて、野垂れ死ぬ方が、はるかにカッコイイと思うだけだ。死んだ後まで戒名など付けて、ウジウジと現世とつながっているのは下品である。人は死ねば死にきりである。それでよいではないか。
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