12/08/2007
失楽園の向こう側
失楽園の向こう側 橋本治
「社会から脱落しないように」のガイドラインがまずあって、人がそれに合わせるのは、私にとって、「なんかへんだ」でしかない。ところが、いつの間か、「金儲けする社会のあり方に合致しない考え方をするのはバカだ」というような考え方が一般的になってしまった。それは私にとって「バカじゃねーの」というようなものなのだが、「それを考えられないやつはバカ」という風潮があるのだから仕方ない。「社会のあり方」なんてことをああだこうだ考えもしたが、「もういいだろう」である。知ったこっちゃない。「自分は自分の道を行く」がノーマルに肯定されなかったら、社会もへったくれもない。
日本人が信じる「本来性」とは、「多くの日本人が共通して信じる建前」である。だから、こういう建前に従って立派に日本社会への適合をとげた人達の愚痴や説教は、くだくだしいばかりでよく分からない。「人と付き合う」とは、そのくだくだしさに我慢する時間のことだったりする。
それまでの日本社会は、「完成度の高い社会」だった。それが、「単一化された社会」に変わった。「完成度の高い社会」というのは、めんどうな社会である。なぜかと言えば、これが、「完成度の高さの維持」を求めるからである。一方「単一化された社会」は、そんなめんどうを要求しない。みんなと同じことをしていればいいのである。
単一化した社会への適合をうまく果たしたエリート達は、「決められたプロジェクトの実行」には有能であっても、「なにを新たになすべきか?」の知恵がない。
「”自分たちより上にあるもの”を想定して、しかし劣等感に取り憑かれない(とりつかれない)」というには、「セレブ」というとんでもないものに憧れる今となっては難しいことだが、節倹の美学が生きていた時代には、たいして難しいことではなかった。「それは自分たちには似合わない」という美学がりさえすれば、似合わないものの存在に心を動かされる必要がないからである。「美学を持つ」ということには、それだけの力がある。
閉鎖的なムラ社会で生きるためには「そこでの平均値」である。だから、閉鎖的なムラ社会の中で育った人間以外の社会に出て、それまでの自分の生活jパターンで暮らせなくなった時には、新しい「ここでの平均値」を探す。「よく分かんないけど、みんなこんな風にしているみたいだから、それに合わせておけば大丈夫だろう」という発想である。若いやつが、みんな同じような格好をして「よくいる若いやつ」になるのは、それをする彼や彼女が「自分もみんなと同じような若者の一人だ」と思うからである。
他人と同化するために、共有出来る”平均値”を探す。しかし「新しい平均値を探す」ということは、その人間がそれまで「閉鎖的なムラ社会で生きて来た」ということをあらわすものなのである。「流行」とか「社会の変化」と称するものに翻弄されて、平均値から平均値への移動を、まるでレミングの群れの一個体になったみたいに繰り返していたら、いやになってしまう。その愚を避けたいのだったら、それをしてしまう自分の頭の中をまず疑ってみることである。
自己主張が必要になるのは、先ず第一に、そこに危険がある時である。自分の権利が奪われそうになる、自分の存在が危うくなる―そういう時に”自分”を主張しなかったら、権利は奪われっ放しになるし、存在だって危ゆくなる。こう言えば「そんなの当たり前だ」と思うかもしれないが、しかし存外、こういう主張は少ないのである。
日本人は「自己主張の必要」を、根本のところで理解していない。「わざわざ”自己”なんてめんどうなもんを主張しないで済むのがいい社会だ」くらいに思っている。だから、肝心の自己主張が必要になった時、その”度合い”が分からない。
「自己主張の必要」を理解しない日本人は、「自己主張の必要がない世の中」に生きていることの幸福を楽しんでいる。「自己主張の必要がない世の中」とは、問題が起きてその問題を「ないことにしてしまおう」とする世の中である。”問題”をつきつけられても、「分からない」で逃げてしまう。なにか意見を求められても、「意見を言う」ということが大切な自己を主張することだとは思っていないから、それが言えない。「自分の意見」を言うかわりに、まず、「どういう意見を言えば、世間的に”いい意見”としてほめられるか?」という、模範解答を探す。自分が思ってなくても、「こう言えば”いい意見だ”とほめられそうだな」というウケ狙いをする。小学生みたいなもんだが。そのテの訓練が小学生の段階で止まっているから、それ以上のものが出てこない。
なんでそんな情けないことになるのかと言えば、日本人が、「自己主張をする人間は、周囲とは調和の取れない逸脱した人間だから、あまり意見なんかは言わない方がいい」と錯覚しているからである。だから、大勢順応のおとなしいノッペラボー人間ばかりになってしまう。それを、「まともな社会人のあり方」と信じているからである。
劣等感の強い男は、その劣等感を打ち消すため、自分を強引に「いい男」だと錯覚させる。「いい男」でもないのに、「いい男の真似」をする。その結果、「似合わない」という採点表が、「周囲からの視線」という形で送られて来る。それを見るも見ないも勝手で、「似合わない」とい採点結果を送られて来るそばから捨ててしまえば、「なんかへんだな・・・・」とう不調和が起こるだけである。
「一夜の愛」は「一夜の錯覚」で、錯覚の多い人ほど「一夜の愛」の数も多い。「一夜の愛」にだけ勤しむ人が、自分の仕事をなおざりにしてしまうのは、愛が人生とは別のところにあって、仕事が人生の真ん中にあるからである。「愛し合った翌朝」においても、まだ「愛の一夜」がそのまんま続いているのは、「まだ愛したりない」という欲求不満があるからであり、それは「永続すかもしれない愛」の初期段階に限ったことである。
愛を持続させるためには、そこに人生を混入させることが必須となる。愛の中に人生が入り込むとは、つまり、愛のさなかに空腹が襲うことである。「愛だけでいい」と思っている時、人は空腹を感じない。空腹を感じても、平気で我慢をしてしまう。
愛とは、「生きる本能」だえある食欲さえも超越してしまう、とてもへんなものなのである。
私は別に、えらくなりたかったわけじゃない。教科書に載りたかったわけじゃない。ただ、「えらくなることを恐れちゃいけない、教科書に載ることを恐れちゃいけない」と思った。
コミック編集という仕事は大きく分けて三つから出来上がっている。雑誌を育てること、作品を育てること、新人作家を育てること、この三つである。
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