12/08/2007
里の在処
里の在処 内山節
現代人においては、知性と魂は不調和でありつづける。知性は前に向かって歩こうとし、魂はどこかに帰ろうとする。とすると<里>や<田舎>をもたなかった私は、はじめから、魂の帰りたがっている場所をもたないことにはならないか。里を喪失した人間。それは魂が帰ろうとする場所をもたない人間である。
広い世界とは深い世界だったのだろうかと、いま私は問い返す。私たちは、広い世界に目を奪われて、深い世界を失ったのではなかったのかと。
帰りたい世界をもちながら、広い世界で活動することもできたはずだ。人生をやりなおせる場所をもちながら、知性によって自己を主張しなくても、自然に自分の存在を諒解できるような場所をもちながら、広い世界で動くこともできたはずだ。
しかし私たちはそのようには教わらなかった。<里>と、都市やインターナショナルなものとは対立しているように教わった。
その結果、私たちは何を得たのか。帰属だけがある。だが所在不明。
知性は訳知りだから、帰属のなかに自分の存在をみつけだす。ところが魂は<訳>を超越している。
<訳>だけでは存在の場所をみつけだせない。
<金もうけをしたいなら都市のほうがいい。しかし悔いのない暮らしをしたいなら村のほうがいい。村には本当の豊かさがある>
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