9/01/2007

スピリチュアリズム/苫米地英人






スピリチュアリズム/苫米地英人

催眠技術は催眠下でした学べません。これは空手や気功と同じで身体から身体への伝達です。催眠下で催眠を学ぶ。するとなんとなくその方法論がわかるというものです。
ちょっとした声色の使い方、眼の動かし方、突然黙って下を向いて間を空けて変性意識が少し深まった瞬間に声を発して誘導する―もちろん手法的にはかなり初歩的ですが、そういった細かい技を江原氏は自然に身につけているいるわけです。
素地は単純で被暗示性が高い「催眠に入りやすい人」、それだけです。

江原啓之氏などの言っていることは、宗教史的に言うと輪廻転生を前提としてヒンドゥー教的カルトです。実はスピリチュアルのみならず、流行っている新宗教はすべて差別的な思想を持つという興味深い共通点があります。
それは「人間を超えた存在」という超人思想であり、選民思想です。もっとはっきり言うとナチズムに繋がるものです。

「神様はひとり」という絶対神の世界、ユダヤ・キリスト教やイスラム教の世界では、逆に日本的な戯れ意識であったり、占いを信じたり、霊の教えることを信じたりすることなどは本来ありえないのです。
本来、キリスト教は霊能者と言われるものを認めず、逆に歴史的には魔女として火炙りにしてきたくらいです。

根本的な問題は、今の世の中がスピリチュアルなものに対して肯定的に動いているということです。21世紀はスピリチュアルに対して否定的に動かなければいけません。しかし、現実には、どうしてもスピリチュアルにはまっていく人がいます。

ある宗教団体をカルトと考えるか否かの判断基準は、一言で言うと、社会がすでに持っている価値観からどこまで遊離しているかということです。
実際に家族や友人が何らかの宗教団体に入ったときに、ただちにやめさせる出来かどうかの判断基準は、「入信する前に言われたことと入信してからやっていることが同じかどうか」ではないかと思います。

江原啓之氏はを中心に述べてきましたが、江原さんのスピリチュアルの中身は一言で言えば、アートマンの永続性と輪廻転生と魂の世界の階層性です。それはすでに述べたようにオウムの論理でありチベット密教、バラモン教の論理です。
何 が危ないかと言えば、彼の進めている論理には次のステージがあるわけで、その論理的な帰結として来るものが危ないわけです。今の彼は混乱しているように思 えます。自分に見えているものをどう処理するかについて戸惑いがある印象を受けます。まだ発展途上で、彼の本を読んでも、言動を見ても、ただの「自分探し 君」です。

瞑想を行うと、人間は大量のドーパミンを出して、気持ち良い体感を得ることができるわけです。それによって、より長時間の抽象度の高い瞑想をすることができます。
数学者にとって数学の世界が気持ち良いのと同じで、それが瞑想のからくりです。非常に抽象度の高い空間を、気持ち良く、五感をもって感じることが出来る訓練、それがヨーガの訓練です。
実は、古くから伝わる密教とは、身体性を用いて脳内のドーパミンを大量に出すことができる秘術なのです。

最終的に地下鉄サリン事件に至ったオウム真理教は、スピリチュアリズムが行き着くある種の論理的帰結であったと私は思います。スピリチュアルズムが表で語らない「この世は幻である」という本質的な思想を実践しました。あの世が主でこの世は単なる幻である。

私 は、現代日本のスピリチュアルの総本山は中沢新一だと思います。そして、布教の最大の担い手として江原さんがいるとしたら、それを中沢が別のベクトルで、 つまりさもスピリチュアルと関係のないように見せかけて、いきなり登場させた本と言うのが、今をときめくコメディアン大田光とのコラボレーション作品であ る「憲法九条を世界遺産に」だと思います。

いわゆる脳死体験とは脳が壊れていくときの現象です。ドーパミンをはじめとするありとあらゆる脳内伝達物質が、脳が壊れるときに大量に放出されます。ですからまず、気持ちが良い。

先 祖がいなければ今の自分は存在しないんですから、それは感謝すべきことですが、先祖の霊が今ここにいますと言って、本来は魂なんか認めないはずの仏教の家 にも位牌があってチーンやるのは、日本人がみな洗脳済みだからです。そして、それをいいことに一大ビジネスをやっている人たちがいる。
「祟り」を 洗脳のメカニズムで説明すれば、「祟り」という言葉それ自体がトリガーで、アンカーとは、言わば日本の歴史上に営々と築き上げられてきた臨場感世界です。 それは、過去からずっと日本人全体に埋め込まれてきた「死への怖れ」などさまざまな迷信であり、一言すれば「日本教」です。
スピリチュアルがますます跋扈する今の時代に、それと立ち向かうには、まずあなたがそれを認識することからはじめなければなりません。互いが互いを洗脳し合い維持しあっているのが今の世間のありようなのですから、まず、あなたがそれに気づけばいいのです。
霊も祟りもありません。祟られる人は「自分で自分に祟っている」のです。

ス ピリチュアリストの人たちが、「確かに非科学であるけれど、スピリチュアリズムのメッセージで人々が幸せに生き、幸せに死んでいけるのだから何が悪いので しょう。」と言っている声が聞こえてきます。何が悪いかと言えば、その優しく、美しく聞こえるメッセージの後ろに、まさに釈迦が否定した、アートマン思 想、輪廻転生、絶対差別思想がしっかりと入っているからです。
これが、過去にヒトラーを生み出し、戦争を起こし、世界では人種やカーストの差別を生み出し、日本では穢れの思想に代表される差別を生み出し、最近ではサリン事件を引き起こしてきた中心教義なのです。それが悪いのです。
そ して、それらのメッセージで幸せに生き、幸せに死んでいけると思っている人たちは、幻覚や妄想の世界に取り込まれることによって、幸せになれると勘違いし ているだけなのです。もちろん、スピリチュアリズムは来世のご利益しか約束しませんから、今生きている人たちの苦難は、「魂を磨くため」という言い訳を使 いますが、それは詭弁です。誰も救われません。

スピリチュアルとは「間違っていても信じたい」と思うことです。それに対して科学とは、徹底的な吟味をし、自分で打つ立てた考えを自ら批判し懐疑するものだということです。
ス ピリチュアルがますます跋扈する今の時代に、それと立ち向かうには、まず皆さんがスピリチュアルの実態を認識することから始めなければなりません。スピリ チュアルに囚われない認識力とオリジナルな思考力を身につけることが「本当のあなたの思考」「本当のあなたの夢」を手に入れるための基礎的な技術なので す。

8/31/2007

これからの運命傾向 8/9/2007

和太郎くんの占いメモより、

これからの運命傾向 8/9/2007

2007年は2006年の変わってきた状況に応じて、個々のシステムやコンテンツ、流通の完成度が問われている。理想と現実のギャップの中で、出来ることから、長く続けていける業務、本当の意味でやりたい業務に改善していく必要がある。

この44歳から54歳にかけての運気は、確かに今までのシステムや信頼してきた組織のパイプは細く、薄くなってきている。よって、少しフィールドを広げて協力・信頼関係を築けるブレイン・スタッフをはっきりさせていくことが重要になる。

2008年は大きな変革があり、2009年は本音として進めていく人や縁に落ち着いていくだろう。


(近い未来について)

妻の事や場所など、何かひとつ力のある場所(パワースポット)と繋がってコミュニケーションを広げる必要あり。

また、妻の心情、不安多く、修復する必要あり。

少し孤立している時にあれば、人との縁を少し広げて情報をふくらましていくことは必要。


大阪発の飲食系は求め過ぎなければかえって良い。野心を抱かず進むが良し。

音楽葬関連は、北方面を求むるが良い。

マネージメントについては、手前に障害あってゆっくり進むことになる。急がば廻れ。儲けは後からついてくる。


吉凶転換の日

8/13,8/25,9/6,9/18,9/30,10/12,10/24,11/5,11/17,11/29,12/11,12/23,1/4,1/16

この日に会うべき人に会うこと、先祖供養、神仏祈願すること、

やるべきことをやること、この日を活かすべし。


鹿島神宮、香取神社、神栖神社


知恵と客観性とヤル気

リスクと責任を取ることで知恵が出る。

高学歴は劣等感が少ない

メモ魔 ・学んだこと・感じたこと・ルール化したこと

ついている人、与え好きの人、全力投球

幸せ(自己)と成功(他者)の為に人は生きる。

好きな人に会うと人相も良くなる

引き算より足し算の生き方

我々の心は異常事態で暮らしていると、間もなく、それに慣れてしまう。適応のメカニズムを持つ。

パニックが過剰自己防衛であるのに対して正常性バイアスは虚構的自己防衛である。

日本や米国では、災害時に避難命令が出ても実際の避難者は5割を越えない。

打つべき手は打つ。

発想を柔軟に。ますます競争は激しくなる。

あたまの固いプロよりも先見性のあるアマチュア

意思決定の遅れは致命的。

自分を表現する100個のセンテンス


2010年から2015年より、地球の気温は急激に冷える→氷河期への突入

基本的生命力

本能の力の低下、情念の枯渇

情念は、その要素に性欲・食欲、攻撃的本能。→真に鍛えたタフな本能の力


わからないことはしない。

自信のないことはしない。

責任の取れないことはしない。

やりたくないことはしない。

世のためにならないことはしない。


ウソはつかない。 

安いモノは買わない。

相手の立場でモノを考える。

言動が一致しているか?

責任を転嫁してないか?

言い訳をしてないか?

感情的な反対か、理性的な反対か?

聞き上手に勝る話し上手なし。

怒らず恐れず悲しまず

正直、親切、愉快に!!


8/30/2007

「人間嫌い」のルール


「人間嫌い」のルール・中島義道



これほどの労力を払って人生を降りようとするのは、人間のある面がひどく「嫌い」だからである。人間が不純だからでない、不道徳だからでない、利己主義だか らでない、むしろ「よいこと」を絶対の自信をもって、温かい眼差しをもって、私に強要するからなのだ。とりわけ共感を、つまり他人が喜んでいるときに喜ぶ ように、他人が悲しんでいるとき悲しむように、私にたえず強要している。これを拒否して生きることはできない。だから、私は自分を徹底的にごまかして生き 延びてきたのである。そういう風に私を作った他人の鈍感さと傲慢さが嫌いであり、それにうまく合わせてきた自分のずるさと弱さがきらいなのである。


日 本社会をすっぽり覆っている「みんな一緒主義」、言葉だけの「思いやり主義」「ジコチュー嫌悪主義」が、少なからぬ若者を苦しめ、「もう生きていけない」 と思わせ、絶望の淵に追いやっている。善人どもは「いじめ」が問題になると、「あなたはひとりではない!」というメッセージを送ってのうのうとしている。 だが、自殺にまで追い込まれた少なかぬ者は、「みんな一緒主義」の砦を打ち砕き、みんなから排斥されてもひとりで生きていける、というメッセージが欲しい のだ。


「ずるい人」

平 気で嘘をつき、自分を実際よりよく見せようとあらゆる工作をし、相手に対してくるくる態度を変え、権威者や権力者にはおもねり、非権威者や非権力者を足蹴 にする人である。表面では正義感ぶって、裏に回るといかなる卑劣なこともしでかす人、こういう人が、これまでの人類の歴史で肯定的に評価されたことはな かった。


ひ きこもりやニートのほとんどは、先の定義において人間嫌いであるわけでない。人間嫌いという領域に属する者もいるであろうが、彼らの多くは、心の病とは無 縁である、―原因はさまざまであれ―単に社会性の欠如した者、他人とのコミュニケーション能力の欠しい者にすぎない。いまの苦境を抜け出してどうにか社会 復帰したい者、だがその端緒がつかめない者、あわよくば棚からぼた餅が落ちてくることを願っている者、ニーチェの言葉を借りれば「蓄群的功利性の持ち主に すぎない。


親切を押し売りする人は、他人がそれを拒否することなど考えもしない。いや、こんなに親切にしているのに、それを不快に思うとは何と無礼なと憤り、もっとたちの悪いことに「心の貧しさを悲しみ」、そこでぴたりと思考を停止してしまう。


困っ ている人、苦しんでいる人を見かけたら、淡々とした気持ちで助け、さらりとその場から立ち去る。そして、自分が何をしたか「忘れてしまう」のである。こう した助ける者と助けられる者との関係が、最も気持ちのいい人間関係を取り結ぶと私は信じる。できれば、助けるときも、助けられるときも、こういう淡白な関 係でいたい。


昔 の仲間たちとそれを懐かしむことが好きではない。中高年の鈍重さと醜さを曝け出して、「こんなことがあったなあ、あんなことがあったなあ」と笑い転げるこ とが嫌いなのである。その和気あいあいとした雰囲気は共感ゲームで充たされ、大量の欺瞞が飛び交い、みなどこまでもよい気分でいたいという欲望がグロテス クなほど露出されていて、気持ちが悪いのだ。


オルテガ

大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じあると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、ほかの人々と同一であることに喜びを見出しているすべての人のことである。

こ うした大衆は、知的に徹底的に怠惰であるから、何事においても、「わかりやすいこと」を求める。「わかりやすい」とは、何の努力もしないでわかるというこ と、書物なら寝っ転がって読んでもわかるということである。彼らにとっては、わかりにくい書物は全面的に著者が悪いのだ。


人間嫌いは、あらゆる人間からの独立を目指すと同時に、あらゆる土地、風土、故郷からの独立を目指す。


世の中は、二十歳の男には寛大であっても四十歳の男には寛大でないということを知っておけば、それでいいのだ。


私 は、常に崖っぷちを歩いてきたからこそ、そして思いがけず多くの人に助けられて生きてきたからこそ、どんなに型破りの生き方があってもいいじゃないかと心 から思う。一見、不安定に見える職業に就いていても、将来の見通しが立たないように見える状況に投げ込まれていても、その人固有の人生の「かたち」を描き きることはできると思っている。


この世のほとんどの不幸は、他人に過剰に期待することに起因するのではないかと思う。他人に期待することがなければ、他人を恨むこともない。他人の賞賛を求めることもない。


大 原則として、他人の人生に過度の期待をかけてはならないと思う。勝手に相手に期待して、その期待がかなわないとき、「こんなはずではなかった」と相手を責 めるのが卑劣な弱者というものである。人間嫌いが人間嫌いらしく生きるには、こういう人間関係からみずからを解放しなければならない。他人に夢を託しても ならず、他人から夢を託されてもならない。この関係の重荷からだけでもすっかり解放されたら、人生はどんなに楽になることであろう。

子供は親に、妻は夫に「ああしてくれ、こうしてくれ」と過剰に期待するから、それがかなえられないと激しく憎むようになる。同じく、親は子供に、夫は妻に、よい子であるように、よい妻であるように過剰に期待をかけるから、失望するのである。


人間嫌いにとっての理想的人間関係とは、相手を支配することなく、相手から支配されることのない、相手に信頼や愛をおしつけることも、相手から信頼や愛をおしつけられることもない関係である。


そ のころから、自分のえげつないほどの実利的で世俗的な能力、すなわちさまざまな形で人々を組織する能力、権力者に近づく(遠ざからない)能力、自分のアカ デミニズムとジャーナリズムにおける「地位」を担保にして、人を支配する能力、あるいは人に好まれる能力・・・つまり自分の生き方の「賢さ」に嫌悪感を覚 えるようになってきたのだ。


人間嫌いをその中核で動かしている動力は自己愛である。なるべく自分の感受性と信念とに忠実に、すなわち普通の言葉を使えば、なるべくわがままに生きたい。他の人のわがままも許すから、こちらのわがままも許してもらいたい。

―これが一番受け容れられないことだが、―人間の平等を認めないで、善良な市民の趣味に対してはひどく不寛容である。とくに、言葉遣い、身のこなし、着ている物に関して、私を侵害しなければ最低限いいとしても、(私の基準で)趣味の悪い人と一緒にいることは不快である。


家族主義的人間嫌いは、いまなおわが国の妻帯者の中に少なからず残存しているようである。彼は実存の深いところで妻に依存しているので、妻から切り離されて世間の寒空にひとりおっぽり出されたら生きていけない。


外部との間に厚い壁をめぐらせ、我が家のいかなるマイナス面も絶対に外部に漏らしてはならない、という子供たちに厳しく命じた。


こうした虚栄心だらけの家庭が厭でたまらなかったにもかかわらず、結婚して私は同じような家庭を築いた。


人間嫌いのルール

  1. なるべくひとりでいる訓練をする

  2. したくないことはなるべくしない。

  3. したいことは徹底的にする。

  4. 自分の信念にどこまでも忠実に生きる。

  5. 自分の感受性を大切にする。

  6. 心にもないことは語らない。

  7. いかに人が困窮していても(頼まれなければ)何もしない。

  8. 非人間嫌い(一般人)との「接触事故」を起こさない。

  9. 自分を「正しい」と思ってはならない。

  10. いつでも死ぬ準備をしている。



人間嫌いの分類学

  1. 動物愛好型

   弱い人間嫌い。人間は嘘を付くから嫌い。その点、動物は正直でいい、という思想を基本的によりどころにしている人。動物園勤務の人に多い。幼稚園、保育 園や小学校も。あるいは、童話作家。これは、「人間嫌い」というよりも「大人嫌い」。良寛、宮沢賢治、灰谷健次郎など。


  1. アルセスト型

   モリエールの古典『人間嫌い』の主人公アルセストのようなタイプ。人間の心の醜さやずるさに辟易して「人間はなぜもっと美しい心をもてないのだろう!」 と嘆くタイプ。自分は純粋だと思っている分だけ、自己批判精神が欠如している。精神的発育不良。太宰治などはこのタイプ。自殺する者も少なくない。


  1. 自己優位型

   アルセスト型は未熟な人間観に基づいているのに対して、このタイプはもう少し実質が伴っている。だからこそ、最もたちが悪いとも言える。人間嫌いのうち では、これが一番多いタイプ。世の中にいるバカな人や鈍感な人や趣味の悪い人などと、どうしてもうまくやっていけない。それは自分が優れているためであ り、彼らが自分の高みに至らないためである。だから、このすべては自分の責任ではない。自分は微塵も変えずにいていいのだ。自分には、愚鈍な輩を嫌う「権 利」があるのだ。典型的には三島由紀夫や芥川龍之介。少し自己反省を加えると夏目漱石。ほとんどの芸術家も、実はこう考えているようだ。


  1. モラリスト型

   人間の心の醜さに嘆き顔を背けるのではなく、それをあえて観察の対象にしようと決意した人間嫌い。人間の細部に至って観察し続け、その滑稽さ、卑小さを 炙り出し、「おもしろい」と呟き、どうにか人間に対する絶望から逃れるタイプ。パスカル、モンテーニュ。カントにニーチェ。


  1. ペシミスト型

人間や人生に対して深い恨みを持っているタイプ。所詮この世は生きるに値せず、人間は醜い、この世は闇だと言い続けることによって、かろうじて均衡を保っている。永井荷風。


  1. 逃走型

 芭蕉や山頭火のように、社会から逃れて放浪するタイプ。あるいは、西行や鴨長明のように、山に篭もるタイプ。サン・テグジュベリのように大空に「ひきこもる」者もいる。彼らは、一般的には人間を愛しているのだが、個々の人間は大嫌いだというコントラストのうちにある。


  1. 仙人型

  きわめて少ないが、世の中を達観した人間嫌いであり、おろかな俗物どもを「優しく見守る」人間嫌いだ。悟りに至った禅僧などはこの部類に入る。



8/29/2007

空手と気



空手と気(気の起源・思考の深さ)/宇城憲治

茶道の裏千家宗匠 千玄室氏との対談の折、次のようなことをお聞きしました。

「お寺に行って、日本人は仏像だけを見る人が多いですね。ところが外国の人はあくまでも、仏像は日本人の信仰の対象のものだと思うんですね。そうすると自 分たちが協会へ入っていくのと同じ気持ちを持たなきゃいかんということで、むしろ日本人よりも神聖な気持ちでお寺や神様を見に来ていますね。観てわからな くても、とにかく頭を下げていますしね、そこの雰囲気の中へ入ろうとする。これが非常に大事なことだと思うんですね。日本人は今、国際化、国際化と言って も外国のことばかりを見つめて、日本のことを見つめない国際化なんですよ。だからむしろ閉鎖社会だと思うんです。閉鎖社会の中で、ちょっとした知恵だけで 物事を解決しようとする、これは小細工なんですね。こういう小細工は駄目ですね。やっぱり外国人のように、ものの雰囲気に入ろうというオープンなハート、 そういうものを持たなければ、日本人の石頭はなかなか開けていけないんじゃないかなと思うね。

外国に行って、最近よく『どうして日本から来る人は、みんな日本のことを知らないんだ』と聞かれるんです。外国の人たちは、少なくとも自分たちの国の文化 を誇りをもって説明できるんですよね。ところが日本人はそれができなくなっている。これはやはり戦後の民主主義の間違った考え方がひとつ。それから教育の 根本的な問題、それから家庭の躾にあると思います。躾、マナー、エチケットというのは最低限、人間が心得ておかなければならない日常のひとつの”行事”で あると思うんですよ。人様に迷惑をかけない、いやな思いをさせない、それが根本だと思うんです。」

最近の日本は平和すぎてあらゆることにおいて頭脳優先になっています。頭脳は架空の世界でも生きられて嘘も言えますが、身体の世界は現実を直視するもので 嘘がありません。百度のお湯に手を入れた瞬間、熱いと思う間もなく手を即座に引っ込めるように、身体は正直です。百度だから熱いと頭に言い聞かせて手を 引っ込める人はいません。そんなことをしたら火傷という事実が残るだけです。このような事象はまさに自分の身体が勝手に教えてくれるもので、その結果、瞬 時に行動が出来るのです。

歴史の中の事実の裏にある真実、そして不変の真理を仮想ではなく現実としてとらえるには、絶対世界の中で身体を鍛え、心を磨き、心身の一致を目指すことが必要であると思ってます。そのような身体をつくる最高峰が伝統、文化、躾だと思います。

バイオリンの川畠成道さん

貯蓄するように練習を積み重ねていくのです。・・・・派手に聴かせるというよりも自分で自分の足下を一歩一歩作っていく、・・・(そうして)音楽というのは構築していくものだというところを徹底して教えていただきました。

何度も何度も挫折をしているから強くなっていくわけですし、人にも優しくなれるのではないでしょうか。そして、それが僕の音楽にも表れていくのではないかと思ってます。

頭脳優先の身体動作は単一的で、部分体となり、重心は浮き、身体の気はとまってしまいます。

一方、身体で考える、とらえる場合は居つきがなく統一体になっています。重心は沈み、身体には自然と気が流れます。これが現場主義、国民主体とする考え 方で、活力の根源はここにあると思っています。戦争反対を唱える多くの人が戦争体験者であるという真実を見てもわかるように、身体で経験した人は真実をと らえていて嘘がありません。

武道はまさに、個が生と死の場に臨む形で稽古するからこそ、平和な時代においても必要とされ、活かされるものとなります。武道が、ただ平和の世に安全に行 われるものであれば、その本質、原点は見失われ、武道ではなくなるということです。少なくとも生と死の場のような緊張のある場を想定して稽古することが大 事であると思います。

統一体となると、細胞が働きます。そこでいちばん大事なのは、身体の呼吸が止まっていないということです。統一体の、細胞による方法の最大の特徴は、身 体の呼吸が止まらないことにあります。ところが部分体の場合は、トレーニングの主体が筋力となるので、身体の呼吸が止まってしまいます。ほとんどの人は、 身体の呼吸が止まっているにもかかわらず、そのことを意識することはありません。それは、そういう考え、認識がないからです。統一体になることではじめ て、部分体がいかに身体の呼吸を止めるかがわかってきます。

統一体となり、細胞を主体とした動きとなることで、集中力が生まれ、身体で考えることができるようになります。ここからいわゆる身体に気が流れ始めます。頭で考え頭で命令を出す部分体という従来のトレーニング方法と比較すると、別次元の差、変化が出るのです。

「磁石」は磁力で鉄を引きつける。

「地球」は重力ですべてを引きつける。

「人間」は魅力で人を引きつける。

スポーツでは、優勝することが最大の目的になりがちですが、優勝の上にある、己に克つ世界こそ目指さなくてはならないところだと思います。単なる精神論ではなく、融和融合や気の世界、気が出るような自分に進歩成長していくことが重要ではないかと考えます。

「進歩、成長とは変化することであり、

変化とは深さを知ることである。

深さを知るとは謙虚になることである」

修行とは、

妥協もなく、嘘もなく、言い訳もなく、限りなく自分との闘いができる無心の世界。

それは限りなく深く、限りなく高いにもかかわらず、一度その世界に足を踏み入れると、

自分自身に大きなエネルギーを与えてくれます。それが「道」だと思います。

この「道」を歩み出すと、自分に正直になることができ、覚悟ができます。

それは、他を意識したり競争したりする相対の世界から、

自己を見つめる絶対の世界へ移行するからです。

裏切らない身体をつくる

相手に入っていく逃げないから身体は、逃げない心、すなわち裏切らない心の根源でもあります。

身体が逃げたら、心も逃げる。いくら言葉で良いことを言っても、いざとなると身体やそれに伴う心は裏切るんです。

しかし今言ったような稽古を積み重ねれば、裏切らなくなる。そういう人たちの輪を広げていくことが大事だと思います。

相手が入ってこれない迫力、オーラを出さなくてはなりません。

覚悟ができた身体からは気が出、気が通ったら怪我をしない。気が抜けている人は怪我をしやすい。また、欲がある人は、執着があり心身の居つきが起こり、瞬 発力の攻撃に対し後手となり関節技などではポキッといく。それは、力の攻撃に対しては強くても、瞬発力の攻撃に対しては脆く枯れ技と同じです。だから、 ちゃらちゃらした稽古はしてはならない。肝腰を据えて、突く時は真剣に突く。蹴る時は真剣に蹴る。刃物を持っているような真剣な気持ちをお互いが持って稽 古する。そうすると上達の度合いが違ってくる。そういう稽古をしていかなければならない。

ただ、投げるじゃ駄目、相手に入っていかないとけない。入っていけば、相手の心が読める。だから衝突が起きない。入っていく技、逃げない身体、その身体が裏切らない心につながるんです。

逃げる身体は心の裏切りにもつながります。だから、入る。「入る」には嘘がない。信じるかどうかというのは、結局は自分の問題です。入ることは自分にとっての最大の自信となります。

外面的に目立とうとする人は内面が弱い。ブランドで身を固めるのも同じです。人間が形骸化してしまった時、精神的な貧弱さが出てくる。身のまわりを眼に見える形で固めたら駄目。内面がしっかりしていれば、心は安定する。心で固めている人は強いんです。

相手に入っていく、それには前へ前へという心と技がなくてはなりません。逃げない身体という実践が先にあって裏切らない心は培われます。逃げない身体は思 いや心ではつくれません。伝統の型にある技と身体に気が流れ覚悟ができてはじめて、それは可能になります。最高の防御となる気は道場の稽古や試合だけでは つくれません。日常の心がけも大事です。

8/28/2007

宇城憲治師に学ぶ心技体の鍛え方



宇城憲治師に学ぶ心技体の鍛え方・小林信也



身体の中に「受信機」があればいい。

人の身体は「型」で変わる。「呼吸」で変わる。「意識」で変わる。

本質的な力が発揮されるのは、身体がひとつになったときだ。

「頭の命令」は次元が低い。基本は「身体で感じて、身体で動く」。

現状を打破する。

「できる自分」を体験させる。指導方法の革命が起きている。

頭脳は筋肉を動かす。身体脳は細胞を動かす。

口の呼吸や鼻の呼吸のほかに、「身体の呼吸」がある。

頭が知らなくても、身体が知っている。

頭が邪魔をする。身体は裏切らない。

武道の世界で一番恥ずかしいのは、すぐ、自分とか私を持ち出す人間だ。

信じていいのは、歴史に裏打ちされた基準。

科学とは、普遍性、客観性、再現性があること。

ライオンは筋トレをしない。敵を襲う前にストレッチをしない。

「姿勢と呼吸」が生み出す力は、筋力が生み出す力と次元が違う。

大切なのは、根本を学ぶこと。枝葉ばかり学んでも意味がない。

師の存在は自己流を戒め、個を伸ばしていく最大の導きだ。

勝ち負けだけを追うスポーツに何の意味があるのか?

高い山を目指す。

内面を感じられるようになると、見えない動きが見えてくる。

理屈を言うより、検証してみれば、正しいかどうかは、すぐわかる。

明るさに「気」が宿る。

生活の中にも「型」がある。いまの日本人はこれを失っている。

光の速さで考える。

頭脳より「身体脳」

0.2秒のトリガーを抑える。

一に目、二に姿勢、三に瞬発力。

生死をかけた「気」の威力。

内面のエンジンを回し続ける。身体のスイッチを切らない。

最近の日本人は「屈筋」しか使えない。「伸筋」を使う方法を知らない。

日本人はみな、「心が生み出す身体の力」を受け継いでいる。

呼吸力一生、伸び続ける。





絶対的な価値観とは、人格を磨くこと。

「ひらめき」のある人間になること。

身体で感じ、身体で行動する基本力を高めること。

人生の「まさか」に動じない、揺るぎない心技体を体得すること。

経済的基盤を持つこと。

喜怒哀楽、感動を源泉に生きること。

文武両道を生きること。




8/27/2007

武道の心で日常を生きる



武道の心で日常を生きる 宇城憲治




師を持つことは「文化を学ぶこと」でもあります。文化には歴史があります。長く伝わる文化は間違いのないものです。歴史を学べば、自分がいま何をすべきか教えてくれます。どう判断し、どう行動すべきか、答えはすでに過去の歴史がはっきりと示している場合が多々あります。

歴史を頭で勉強するのでなく、文化を通して身体で学ぶ。日本古来の伝統を、空手や剣道、合気道などの武道や、珠算(そろばん)、書道、茶道、華道、囲碁、将棋など日本の伝統に見られる文化で学ぶことは大切です。

中でも武道は理想的な文化だと思います。生か死かに直面した、真理があるからです。真理の追求は一番の土台になります。そこから骨組みができあがる。その土台と骨格から、全体がしっかりと見られるようになる。

勝ちに三つの勝ちあり

打ち込んで勝つは、下の勝ちなり
勝って打ち込むは、中の勝ちなり
戦わずして勝つは、上の勝ちなり

「武術を稽古していると理想が高くなる。一般的に理想が高くなると空想になってしまうが、武術をやっていると理想が本当の理想となり、それを実現しようとして努力するようになる。そういうエネルギーが沸いてくる」
これは座波先生の言葉です。


両足を軽く開いて立ち、、足裏全体で体重を支えます。そのとき、大事なことは、かかとを意識するということです。漠然と立っていた最初に比べて、足の裏に身体の重さを感じ、足裏で地面を踏みしめている感じが、だいぶわかってきたのではないでしょうか。


押されても、ふらふらしない。抵抗する力が強くなっている。後ろによりかかるのではなく、足の裏がしっかり地面とつながって、身体の芯から力が沸いている感覚があれば、統一体になった証拠です。


まだふらつく人は、頭であれこれ考えようとせず、まっすぐ前を見据えて、かかとに体重を乗せる意識でやってください。また、他の方法としては、左手の小指を少し曲げ、小指を意識するだけでも同じ安定が得られます。これでだいぶ変化を実感できたでしょうか。

できること、違いを感じることが大切です。かかとが上がっていても、かかとを意識することによって、安定が得られます。


打撃練習、投球練習の基本として、立ち方をしっかりすると同時に、こうした「相手の中に入る」[相手を捉える」稽古を普段から繰り返すことが、本当は重要なことだと思います。

8/26/2007

ポップス雑感




メロディの美しさ、ヴォーカルの優しさ、親しみやすいアレンジ、何か不思議な幸福感、癒される、シンプルだが音楽的洗練度は高い。


売れる事が目的ではないけれど、音楽の世界で発言を続けるには、結果を出さなければいけない。現役性が大事。

武道の力




武道の力 時津賢児



目は二つあるから遠近感がでて物の奥行きを捉えることができるが、目が一つしかなかったら物は立体的には見えない。
それと同じで、日本のことを立体的に捉えるためには、日本の外から日本を眺める目を持たなければならない。
言い換えると、日本の中だけに住んでいたら、日本の姿は立体的に捉えることはできない。
外から日本を見る第二の視点が必要なのだ。



だが、日本社会の延長のような海外生活をいくら長くしても、第二の目を得る持つことは難かしい。
その国の生活習慣の中にどっぷりと浸って、数々のカルチャー・ショックを通過することによって初めて第二の目を持つことができる。
そのためには頭が柔らかく感受性の高い若者のエネルギーが必要だ。
しかし、余り幼いうちに異国の生活にどっぷり浸ってしまうと、言葉は上手になるに違いないが、日本人としての自己の確立がなければ、日本人としての第一の目さえ持つことができない。
日本人としての自分があるから異質な文化と衝突してショックを受け、それによって自分を鍛えることができる。
そうした経験をするのは二〇代の前半が最も適していると私は思う。



日本に帰っていつも驚くのは、自分本位の見方の人が圧倒的に多く、なかなか物を相対的に見ようとはしないことだ。
世界の情勢を客観的に捉え、諸外国との関係を相対的に把握し、日本が置かれている状況を正確にキャッチできる目を養うことが、これからの日本の若者には必要なのだ。



原水爆をかかえた現代世界で、最も戦略的効果の高いのは平和状態をもたらすアクションである。
だがそれは、「平和、平和」と叫べば得られるものではなく、対立しあうさかざまな力関係を認識でき、それらのバランス状態に持っていく彗眼と意思力が必要だ。



武道は戦略と戦いの技術を基にしている。
武的発想でいえば、平和というのは、「相手のことをよく知り、同時に自分のこともよく知っているから、戦いはできない。」そういったバランス状態のことである。つまり、バランスが壊れると戦いはいつでも起こりうる、ということを前提としている。
残念ながら、人間にとって平和というのはユートピアではなく、対立する多数の力の均衡状態である。
こんな言い方は日本人には受けないかもしれないが、長い間、絶えず国境を守って生きてきたヨーロッパ人にとっては常識的な感覚である。
内と外の緊張関係をはらむ国境感覚はヨーロッパ人にとって常識であるが、それが日本人には欠落している。
カルチャー・ショックは相対的に物を見る目をつくるために格好な体験だと思う。







8/25/2007

君はいつでもはじめられる




君はいつでもはじめられる 片岡勝




第1章◎自分の人生なんだから好きにいこう


裸の自分で勝負するのは面白い
仕事は自己実現の道具
ビジネスで社会と向き合う
働くことが何よりも充足感を生む
ボヘミアンで世界を動き続ける
失敗しても成功しても実験は面白い
自由に生きる舞台は自分でつくる
尖り続けることがオンリーワンへの道
社会変革が僕のミッション



第2章◎個人が試される時代


変革を加速しないと格差はますます広がる
「総中産階級」時代の考え方では生き残れない
お金より情報に人は集まる
一流の人間は自分で仕事をつくる
自分で仕事をつくり出さないと職場は奪われる
動けることは選択肢の幅を広げる
スピードが勝敗を分ける
一人ひとりが決断を求められる時代
多様なニーズに対応する多様な人材が必要
小さな単位の変化が世界を変える
脇役が主役になる時代
世の中にはたくさんの競技場とルールがある



第3章◎他人との関わりの中で自分が見えてくる


社会との関わりの中で自分を見つめ直してみる
コミュニティが豊かになれば個人も豊かになっていく
国民総幸福(GNH)は次の時代の指標
自分だけよければいいという社会はコストがかさむ
「選択と集中」を可能にするもの
財は使ってこそ意味がある
シリコンバレーの危機感がどん底のアメリカを救った
現場にこそ答えがあり、知恵がある
依存しないで自らつくるということ
問題解決を実現していくと、エネルギーが循環しはじめる
今こそシェアする社会を実現する
ビジネスの原点は問題解決
社会には喜ばれる仕事がいくらでもある
ベンチャーは冒険なのだ



第4章◎自分の感性を大切にして生きる


全部自分でやる時代になる
やりたいことをやっていると時間密度は濃くなる
人は面白いことに動く。自分の感性にふれるものを求める
気になるなという気持ちを大切にする
困ったことに気づく感性を持つ
捨ててみるとスッキリする
今いるところから離れてみると違う世界が見えてくる
ギャップや格差がアイデアを生み出す
リアルな想像が“創造”への近道
次の時代の担い手は現場でもがいている人
人と人との関係の中に知恵がある
右脳をもっと活用する
イメージには面白いことが明確に現れる
左脳で考えすぎると動きが止まる
解決への糸口はイメージをつくること
準備が不十分と言う人は、だいたい死ぬまで準備をしている
動きが止まると競争力が失われる
決めてしまうことくらい楽なことはない
1回にすべてをかけるのではなく、しゃれでやる
反省と後悔はしない
ビジネスは経営者の生き方が商品
自分の中に元気をつくり出す「元気表」
小さなハードルを一つひとつ越えてみる
自分の言葉で話しはじめたらそれが自信
軸を持って振り向かずに行こう
マイ・ワールドをつくってしまった人ほど強いものはない
事業の継続にはABCの法則がある



第5章◎チームでやって自分も成長していく


勝手にやる会社がいい
悪い部分もオープンにしてつき合う
摩擦の中からエネルギーが生まれる
プータロー認定
仲良しグループでは組織ができない
仲間と動けばエネルギーが増幅される
一人の覚悟が人を動かす
判断の軸があいまいだとエネルギーが落ちる
問題を起こす人もまた大切
新しいことをはじめるには「よそ者、若者、バカ者」を活用する
外部の多様性が組織を成長させる
チェックではなく、互いに前へ進む関係を持つ
1以下累乗は限りなく0に近づいていく



第6章◎古いルールに縛られない


次の一歩を踏み出すチカラは特別なものではない
常識の延長線上には次の時代がない
“らしさ”に縛られていないか
リスクをとる人が新しいものをつくる
正解を求めない
軸のない人は批判ばかりが上手
成功よりも失敗をしない方向でものごとを決めてないか
命令をされなかったら、考える癖がついた
個人の気概からすべてがはじまる
創造的な仕事にまじめさは必要がない
まじめと真摯はまるで違う



第7章◎今を突き抜けていこう


自分から変わっていく
加速しないと出口は見えない
本気でやれば応援者は集まる
がんばらなくてもいい、面白がっていこう
身の丈でやれる実感を持つ
面白がる、スピードがある、ネットワークを持っていること
有限性に気づいたことがあるか
欲を捨てると将来が見える
つくり続けることは壊し続けること
いかに自由を獲得し続けるか
狂気を持って生きる



世の中には階段を上がる人と作る人がいる。この場合の階段は、既成の概念とでも言ったらいいだろうか。



すでに作られている階段を上ること――出世をする、お金を儲ける、権威を持つ等――だけが楽しいと思っている種類の人々がいる。



金でも学歴でもなく、タフでどこでも生きられて、素でいられる。やりたいことがやれるというのが、
かっこいいことなんだと、完全に考え方が変わった。こうして価値観が変わると、とたんに僕は元気になった。



気軽にはじめてみればいい。自分のゴールに向かって小さくても一歩踏み出せば、不安は解消してしまうし、
きっと自分への可能性が見えてくる。そうすれば、もう君の目の前には自由な階段が広がっているのと同じだ。
そこには面白いことがたくさん待ち受けているにちがいない。



お金を回そうと思ったら、勤勉に働くことを最初に考えない。まず時代が将来何を必要とするかを見極めることが大事なのだ。



死ぬまで尖り続ける。これは自由を確保する上でどうしても必要なことだ。
角が取れて丸くなってしまうと新しいことができなくなる。丸くなってみんなの意見なんて聞きはじめたら終わり。
闘争心がなくなるし、発信力もなくなる。人もリーダーと認めなくなる。
世間におもねて、金儲けを一番に考えるのもいけない。手の内が小さくなり、大きな実験ができないようになる。
新しいものを生まないうちに、潰されてしまう。
つまらない計算はしない。思ったことは何でもやる。違うと思ったら距離をとる。僕はそういうふうにした。
嫌なヤツともつき合わない。そんなのできっこないと思うかもしれないが、地球上には何十億と人がいるから、無理してつき合わなくても、
きっと気の合う人は世界のどこかに必ずいる。



とにかく金さえ儲かればいい、やりたいようにやるという幼稚な自己中心主義の人もいる。僕はそういうやり方は続かないと思う。
ビジネスは結局人との関わり合いなので、他人に配慮できない人はいずれ誰にも相手にされなくなってビジネスも回らなくなる。



自分だけでなく全体のことも見ることができる人が、社会に関わって自立していける人だろう。



これからの社会には、「面白い」の二極化現象が起きてくると思う。面白い人同士、既成の常識人は常識人としか集まらない。
お金のあるなしは、たいした差ではないかもしれない。



何が違うのかと言ったら、時間密度の差。時間密度の差は、自分らしさの象徴だと言えるだろう。自分が楽しいことでの密度が重要だ。
生きる意味と言い換えることができるかもしれない。



面白いことをやると人が動く。生産も消費もそれが動機づけになっている。そのためには自分が面白がらないとはじまらない。
これが本当にいいのか、面白いんだろうかと悩んでいるうちに面白いものもどんどん変わっていく。それでは面白さに乗り遅れる。
面白いことに直接乗っかっていこう。今の時代は変革期。やりたい放題やるヤツがチャンスをつかむのだ。



僕の場合、サラリーマンを辞めた後、最低限の生活を実験した。新聞、つき合い、車も全部捨てた。新聞を見ないから考える。車がないから歩く。
するといろいろなものが目につく。景色がまったく違った。小さな花が咲いている、風が吹いていることも気づかなかったサラリーマン時代の自分に気づいた。
気づかないというのはビジネスにとっては致命傷だ。
今のまま守っていても仕方ないと気づいている。でも、すべて捨てろと言われてもそうは生きられない。こういう人は、基本的に捨てるという意識がない。
キープし続けたいという人もいるけれど、キープするほどのものがあるんだろうか。余計なぜい肉を捨てる。古い考えを捨てる。物分りの悪いパートナーを捨てる。
まずは、いろいろ捨ててみることがスタートかもしれない。



A―飽きず、B―バカになって、C―コツコツやる。これがABCの法則。賃借対照表を読めなくても、財布にお金が残っていたらいいと思い込む。
自分の基準で生き残ればいい。



あの人と一緒に働きたい、あの人のミッション、ヴィジョンでやりたいと思わせるのが求心力である。
数の論理ではもはや何も動かせない。そのかわり誰か一人の魅力が人を動かす。高いミッションとパッション、そしてリスクをとる生き方が、その人に
求心力を生んでいく。お金だけでは人は動かないのだ。



1.つき合いの範囲が狭い
2.まじめだが真摯でない
3.コスト意識がない
4.専門性がない
5.スタッフが組織にしがみつこうとしている



自分を素にして生きてみると、あまり怖いものがなくなってくる。僕は素で生きるほど楽なことはなく、自由度も高いと思っている。
人はその場面場面でいろいろな“らしさ”に縛られていないだろうか。男らしく、女らしく、学生らしく、大人らしく、銀行員らしく・・・。
“らしさ”にはリスクが少ない。“らしさ”の枠に安住してしまい、序列に甘んじてしまうと、緊張感がなくなって、多角的に状況を把握できず、自分の判断ができなくなってしまう。



何かをやろうとする時、相手に合わせるいい子は問題なくものごとを進め、無事に終えて肩の荷が下りる。それに対して自分の生き方でぶつかっていく人は茨の道かもしれないが、自分のポリシーを貫いた達成感を得て自信へとつなげていける。



死ぬまでいかに自由を獲得し続けるか。
ビジネスが上手くいった時に自分が必要とされ、抜けられなくなる。自分が束縛され、嫌になる。これではいけない。そうならないために、今、僕は後継者をつくっている。自分がいなくなった時にも、きっとこの人がやってくるという人を育てている。



僕が「面白い」と思うのは、展開がある、可能性があるということだ。将来、時代を画するかもしれない出来事のことだ。
逆に、誰かが面白がったものを、あとからついてきて面白いなんて言う人間は、はっきり言って大嫌い。面白いことまで、人の真似をするのは創造性のカケラもない。面白いことこそ、その人個人が体験を享受すべきものだからだ。

8/24/2007

整体的生活術


整体的生活術 三枝誠


ただし、転地、転職、転婚で人生を変えろといっても、それは、コロコロと職を変えろといっているわけではありません。でも何かひとつ、少し無理をしてでも新しいものを手に入れたりすると、そこからガラガラガラッと人生が変わってくるんです。
それから服装を変えるだけでも人生は違ってきます。そこで大事なのは、ちょっと無理をすること。転機の時、品物はバーゲンで買わないことです。私は安売りという概念が嫌いです。

涙が出るほど無理をして、高くても良い物をエーイと思いきって買うと、そういうエーイと思いきって買った苦しさの部分には運が上がる秘訣があるものです。

ある人が偉大な能力を持っていた場合、それと一緒に大きな欠落部分も持っています。
才能というのは言葉を換えれば、欠落ですからね。でも、その欠落を補ってくれるものがあって、初めて物事は動きだします。欠落を埋めた瞬間、初めて市民権を持ち、超人的な力が発揮されてきます。

仮に、才能ということを言おうとするなら、才能がある人ほど、間主体を大切にしなければなりません。人は、どんな人間関係を結ぶかによって、あっけないくらいに変わるものです。

天与の才能というものが少しはあるとするなら、自分自身を潰すような場所からは立ち去って、自分自身を活かしてくれる場所に出向く能力のことだと思います。ですから、ちゃんと「ノー」が言えることも大切な才能のひとつです。

大事なことは、気のパイプを自分は誰とつなげるかということです。

やはり人はクリエイターとして、なにかを生み出さなければいけないと私は思っているんです。
クリエイターに条件があるとするなら、その一番の条件は、孤独を知っていることでしょうね。
孤独は悪いことではないし、悲しいことではない。

大切なのは、孤独、忍耐、そして笑顔。クリエイターは孤独、忍耐、笑顔、そして、マメでなければいけない。

さらには、丈夫であることも大事。自分が健康であって、初めてものを作ることができるし、人間として生きていけるものなのです。

色恋沙汰で自分が狂った時期がないと、わからないということはある。狂われるのも迷惑ですが、狂ったことのない人間には語れないということもあるわけです。

好きとか嫌いとかいう感情は、非常に主観的な感情でしょう。でも、この主観的な感情も、ある外部的な事件が起こったり、社会的な制裁を受けたりして地獄をみると、人間は主観的な感情から距離を置くという、客観視を覚えるようになってきます。

自分の外側にもう一人の自分がいるという意識を持って、その俯瞰的な客観視の能力で、つらくてもしばらく頑張ってみる。

そうすると、そのあとに何がくるかというと、前向きの諦観というか、明るい絶望感みたいなものが出てくるのです。

つらい出来事があって、とても苦しい気持ちを体験すると、最初はだだっ子のようだった主観性が、客観性に変わって、そのあとにちょっと弛むんです。

自分では天動説だと思いこんでいたものが、ある時、絶望や挫折を味わって地動説になり、もう一度天動説に戻る。自分のつらい体験でそれを知る。

私のいう「身体尺度」とはそういうことです。

手首を切って血を流したり、身体ごといろんなものを抜けた人間が主観を超えて、客観を覚えて、もう一度、自分を中心に考えるところまで戻ってくる。

ユーモアがわかるというのも、自分を客観視できる人間かどうかということでしょう。

逆に、絶望感というのも、知性や忍耐力がない人には味わうことができないものです。

人間には、“溜め”の時期というのもあって、悲嘆とか慟哭といった状態を味わうような、自分にとっての耐え難い出来事と出会ってしまう時期があるんです。

そのときに激しく混乱した感情、あるいは深い悲しみをぐーっと我慢していると少しずつ抜けてきて、何かが見えてくるというのはあるものなんです。

要するに平均値でものを考えないようにしているんです。

自分の考えていることが、たまたま大多数の人の意見と一致するならそれはそれでいい。

ただ平均的なことが、即、正常なことだという考え方は大変危険だと思ってる。

「平均的なものは、別に正常でも健康でもない!」

私は、感謝という感情は、センスの問題であって、努力の問題ではないと思っています。

たとえば男女が別れる時だって、相手に嫌われているならば修繕は可能。

だけど、愛の反対は憎しみや嫌悪じゃなくて無関心だし、別れの際にとにかく一番こわいのは、感謝の言葉です。

別れの際の女性に「ありがとう」と心底言われた日には、どういう修繕も男女関係にはできません。

感謝というのは、本当に過去になってしまったものに対して抱く感情ですからね。

その感謝を現役でつきあっている人間に強制するというのは、非常にむずかしいことなのです。

ですから、感謝ほど自然に出てこないと意味がないものもありません。

身体的に無理な状況で感謝の感情を持とうとすれば、やはり身体を壊します。モラルの強制は、身体を壊す。

モラルというものも強制ではなくて、自然に発生するものなんですから。

物事をはかる尺度も身体に置いておくほうが、圧倒的に正しい。

この身体尺度から離れれば離れるほど、人間は他人の痛みも他人との距離も何もわからなくなってしまいます。

簡単にいえば、身体尺度というのは、わからないことは身体に聞けということなんです。

迷ったら、身体が行きたがっているほうへ行けばいい。そういうことには、いつも敏感でいたほうがいいと思いますね。

家風、なんていうのも身体記憶の一種です。

単なる遺伝よりも、親の教えや家風のほうが影響力を持つ怖いものだと思います。

たとえば、結婚しようとする二人の仲が、家風が違うということで壊れたりすることがありますが、あれは、つまり身体記憶が違いすぎると上手くいかないといういことなんですね。

私が見た一級の人間の特徴は、自分を客観的に見る能力、現状をちゃんと分析できる能力を持っている人ということですね、自分自身を一歩離れたところに置いて、それでいてきちんと自分を愛している。

やはり、一級の人というのは自分の身体に対する意識が高い人です。

二級の人間というのは、優れた編集の能力、情報を取捨選択して再構築する能力を持っている人だと思います。

その編集能力は一級の人間も持っています。

自分でものを作り出すことも、編集する能力も両方持っているのが一級の人でしょうね。

三級の人間というのは、保身的な人です。

地方でちょっと有名な人とか、地方の道場で一番だとか、そういう人は一見したところ他人に対してとても威張っていても、実は非常に脆いということが多いですね。

四級の人達は、いわゆる善男善女です。

不愉快にはならない人たちだけど、いろんな状況に流されて生きている人達ですね。

五級というのは、権力に弱いくせに権力を振り回す人間。なんらかの権威に守られていて、その権威をカサに自分が威張る。

競争社会に身を置かずに、狭い世界でエラソーにしている人達です。

それから一級の人と三級の人との大きな違いは、一級の人には、恐怖心をモチベーションにしないという強さがあるということでしょうね。

生きていく動機づけが、恐怖心ではなくて好奇心なのです。

恐怖心をモチベーションにしない人は、いまや希少価値です。

“考えないで怒る”というのも、とても難しいけれども大切なことです。

なぜならば、頭で考えていると、怒るタイミングを逃してしまう。悪く思われるんじゃないかとか嫌われるんじゃないかとかいろいろ考えているうちに、“怒りの機”を逃してしまうのです。

怒り方がヘタな人は、人の上に立てません。

十歳までの記憶というのは、とても大きいんですね。

記憶というものは本当に身体に染みつきます。

住居の話をしていると、身体記憶の話になってくる。

身についたもの、つまり身体記憶を書き換えるということは身体を変えるということでもあるんです。

たとえば、金持ちには金持ちの身体というものがある。

それから初代の金持ちの身体と2代目の金持ちの身体というのもあるんです。

金を稼ぐ身体と金を管理する身体とは違う。

そうすると、金持ちの身体じゃないかぎり、金持ちになってはいけない、ということが言える。

なぜならば、身体と金は、当然つながっていますから、金持ちの身体を持っていない人がいきなり大金を持っても、使いこなせないから単に貯めこむだけか、あるいは無駄に使ってしまうだけということになります。

身体記憶を入れ替えるしかない。

親と違うことをするというのは大変なことですから、結果としては身体が変わってきます。

自分がこれから親とは違う生き方をしようと思ったら、まず、見た目も変わります。

体つきだけでなく、顔も変わる、歩き方も変わる。逆にいうと、小さなことから変化をつけることで生き方を変えることができます。

住まいもそういうものの延長にあります。ですから当然、身体記憶と住居というのは、とても深い関係があるわけです。

「足湯くん」





8/23/2007

黒井千次




黒井千次(7/26/2007日経夕刊)


老いは自分の内側から訪れると言うより、他人によってある日突然もたらされるという面があります。

自分は結構若いし、何でもできると思っていたのに段々身体が付いていかなくなる。少しずつ自分で老いに気付くということは確かにある。

でも、それ以上にショックが大きいのは、全然意識していないことを他人から言われたときでしょう。

放っておくと、人は自分が年を取ったとは本気で思いたくないのかもしれない。

生涯青春ということがさかんにいわれます。そうなると人生の終盤に近い老人の老人らしい生き方というのはなくなる。時代は理想的な老人像がない時代なのです。

世の中全体がそれを求めていない。老いは否定的なイメージでしか語られない。しかし、老いたからこそ手に入れることができる何か、老いの果実があるではないか。それを意識しないまま最期まで行っちゃうのはちょっと寂しい。

時代の変化に調和できない方が老人として自然です。変化に上手に適応している人の中にはありようもない貴重なものが、時代に取り残された人の中にはある。みんなが一斉に走っている時に、そうじゃないだろってブツブツ言いながら歩いている人間を書きたい。



8/22/2007

「B級自由民」宣言




「B級自由民」宣言・山谷哲夫


「上に政策あれば、下に対策あり」

そのもそも日本人男性は、世界的にもそんなに見栄えはよくない。まず、顔の彫りが浅く、平面的だ。背も高くないし、がに股も多い。何よりも着こなし、色のセンスがいま一つだ。奥さん任せにし、自分の着るものさえ自分で選んでいないからだ。何よりも決定的なことは、奥さん以外の女性に恋をしていないから、外見に気を使わないことだ。

ぼくらも、頭の髪の毛だけでなく、肝心の中身も薄く、凡庸でもある事実を謙虚に自覚したほうがいい。例えば、僕らの会話に古典である近松、蕪村が出てくることはまずない。その身を切るような、つらい自己認識を踏まえた上で、攻めて外見を今以上に上品、おしゃれしたい。

ゴミ捨て、掃除、洗濯、布団干し、皿洗い、ご飯炊きなど、細々した家事が、僕は全く苦にならない。また、子供の三者面談に、母親のほうが出なくてはならないという掟はない。

僕は今まで、あまりに自由業、特に映画関係者、物書き等の末路を見てきた。多くは50歳代に入ると仕事が激減する。かんじんの感受性が年とともに鈍磨するのだから、仕方ない面もある。ギャラも新人に比べると、明らかに高い。そして、何よりも一言多く、使いづらい。








8/21/2007

ドル覇権の崩壊/副島隆彦



ドル覇権の崩壊/副島隆彦

私はそれを2008年末から09年にかけて起こるであろうと冷酷に予測する。その時、米ドルは暴落を開始する。1ドルは2年後には100円を割るだろう。そして80円にまで突入していく。

中国がアメリカを世界覇権国の地位から追い落とし、自分たちが次の世界帝国になる。世界の覇権が、アメリカから中国に移るためには、ニューヨークの金融市場を中国が仕掛けて大暴落させることがどうしても必要である。そして、その事態が数年後の2010年ごろ起きるであろう。中国人はそのことを躊躇しないだろう。中国人がニューヨークの株式と米国債を大量に一気に売り浴びせる日が迫っているのである。それが、1929年のニューヨークの株式大暴落の再来である。

だから、私たちは中国の人民元を今のうちにたくさん買っておけばいい。黙っていても倍にはなる。なんとかして人民元を買えばいい。
いまは1米ドルが7.6人民元であるから、これが半値の3.8人民元にまで米ドルは下がる。それには3年(2010年)くらいかかるだろう。

世界の金融の動きを的確に未来予測しながら、どのような事態に対しても自分の資金を守れるように自由自在に動ける体制を常に整えておくことである。この先は大きくはドル大暴落であり、アメリカを中心とした世界の金融体制の瓦解が迫っていることに気づくことである。

2008年の終わりごろからドルは下落を始めやがて1ドル100円を割っていくであろう。90円台を維持するか、もしかしたら80円台まで下がるのではないか。それが2009年、2010年にかけて起きる。つまりドルの暴落が始まる。それは円高になるということだ。

私は1ユーロは200円まで行くと思う。だから今のうちにまだまだユーロ建て金融商品を買えばいいのである。米ドルとの関係で言えば、1ユーロが1.4ドルを超えて1.7ドルくらいになるだろう。ユーロはこれからもますます強くなる。その理由は、ドルが暴落するからである。だからユーロの外貨預金やユーロ建ての投資信託などに私たちは投資すべきである。

リバータリアニズムは、反過剰福祉・反税金・反統制経済を主張し、官僚統制を何よりも嫌う、強固な自由経済(フリー・エコノミー)重視の思想である。

ローマ帝国の昔と今は全く同じである。これと合わせて、定期的に5年に一度、10年に一度の割で、戦争をして外国の征服によって冨を得た。さらに贅沢のための資金調達を行った。戦勝国になればたしかにぶんどり品がたくさんある。

金・ドル体制(IMF=世銀体制)は、1971年8月の「ニクソン・ショック」で明らかになった。
この「ドル・石油兌換体制」の成立によって、米ドルは生き延びたのである。1971年のニクソン・ショックによって瓦解したはずなのに、形だけは、主要な国々の協調による世界の通貨の安定、という方策が作られた。



この新たに成立した、それまでの「金・ドル体制」に代わる、「ドル・石油体制」のことを、修正IMF体制=ロックフェラー石油通貨体制という。その実質は、背後から世界の全てを操っている現在の“実質の世界皇帝”であるデイヴィッド・ロックフェラー(92歳)の指図によるものである。



全く新しい時代に突入して、全く新しい世界試合(ワールドゲーム)が開始されるだろう。今度は、1971年の後の収拾策のような、「ドルを金ではなく、石油で裏打ちする」という手法は使えない。それではどうするか。それは金を中心にして、そのほかの鉱物資源も担保に差し出し、さらには、石油、天然ガスなどのエネルギーから、農産物(穀物)に至るまで、すべての実物資産(タンジブル・アセット)を、まとめてバスケットの中に入れて、それを信用の源泉にする、全く新しい通貨体制を作るということだ。この新通貨体制に移行しなければ済まない。



国民というものは、指導者たちが煽動すると、このように易々と戦争に動員されていくものである。人類の歴史は、このように愛国心と民族主義という考え方を鼓舞(インスパイア)するといとも容易に焚きつけられて、無謀な対外戦争への道を歩まされる。その数年後には、必ず大きな失望と幻滅が襲い掛かってくるというのに。戦争というものは、古来、だいたい3年から4年で、それを支える国民の熱狂と支持が消えうせるものなのである。剥き出しの報復感情と、メディアを使って操られた国民が幻滅し、国民に自覚を促すのには、それなりの時間がかかるのである。



狂暴なネオコン派高官たちは、世界中にアメリカ的な価値観を押し広げ、「アメリカ人の生活文化が理想の生活である」といsて、それを世界中に上から強制することによって、各民族の行き方とそれぞれの国民文化を破壊し廃止させ、アメリカ中心としお手本とする、単一、単調の文化(モノ・カルチャー)の世界を建設することを目指した。それをもって、「世界人類の理想社会の建設が行われ、実際には、人類の理想が達成されるのである」と考えた。これがネオコン思想である。



皮肉なことに、今や誰でも分かるとおり、だから今度は逆にドルの優位は米国の強大な軍事力に依存しているのである。ドルの信用力の源泉はアメリカの軍事力なのである。「ドル・軍事力世界通貨体制」と呼んでもいいものである。そして米国の強大な軍事力はやっぱりまたドルの信用力に依存している。
帝国というのは、見かけは強大だがその内実は逼迫していていつも不安である。“お山の大将”は案外弱いのである。日本人はアメリカをあまりにも強大な国だと勝手に思い込んでいる。だからアメリカと対等に交渉しようという愛国的な国家指導者を育ててこなかった。



ロックフェラー家は自分たちが、「世界のお山の大将」である、自分たちが最高指導者であり経営者であるから、アメリカ全体を管理し、更に世界を管理しなければならない、そうなると自分たちの自国通貨であるドルを売り払って、ドルを売り崩すことは絶対にできない。ここがミソである。お山の大将というのは山の上に一人でふんぞり返って王座に座っている人である。下の方や、周りから鉄砲の玉が雨あられのように飛んでくる。そして徐徐に身動きが取れなくなる。これが、世界覇権国なるものの運命である。これは歴史の法則であり、こうして身動きが取れなくなる。デイヴィッド・ロックフェラー(92歳)は徐々に力がなくなりつつある。それでも、彼は98歳、いやもしかした104歳まで生き延びるのではないかと心配(あるいは驚嘆)されている。彼が生きている間は、彼が持つ強大な権力は崩れない。彼が死ぬまでは世界皇帝である。だからロックフェラーは、自分と競争して、自分に挑戦してくるアメリカの新興の財界人たちを痛めつける。決して自分と同格の地位には就かせない。ここにアメリカ財界人たちの大きな対立・抗争の構造がある。




8/20/2007

いのちの力 望月勇





いのちの力 望月勇


トルコからインドへの旅の途中も、腹の立つことが多くて、いつも心の中で人々を批判ばかりしていました。
その結果、人々からあまり印象のよい待遇を受けませんでした。むしろひどい仕打ちを受けました。
人々からだけではありません。犬や牛や、はたまたバスや汽車やホテルまでもが、私に反感を抱いているように感じられたのです。

だいたい、最初に感じたことを無視して行動した後に、「あの時、最初に思った通りにやっておけばよかったのに」と後悔することが、案外多いのではないでしょうか。

執着する物を手放す

病から抜け出す方法とは、潜在意識からネガティヴな思い込みを開放することであることを学びました。

自分の体を非難すると、非難した部分から仕返しを受ける

怖いと思う気持ちが、怖い状況を作ってしまう

今現在は、将来の原因、将来は、現在の結果であることに気付いた人は、よりよい将来を望むなら、今をより生きる生き方を選ぶことでしょう。

スポーツでも、楽器の演奏でも、くり返し反復練習を積み重ねることによって、上達してゆくのです。
それと同様に、願望を現実化するには、くり返しイメージすることが最も重要なのです。くり返すことで、そこに宇宙の無限の力が働いてくるからです。

いったん、心に願望を思い描いたら、よほどの理由がない限り、途中でその想念の計画を変更しないことです。
あなたの心に思い描いた願望は、あなたが眠っている間も想念の波動となって、宇宙へ働きかけられています。
そうして働きかけられた宇宙の無限のエネルギーは、徐々に、あなたの願望を現実のものとするように宇宙を動かしてくれます。

私は、自分の死のことについて、いつもこんな風にイメージすることにしています。
元気で長生きして、ボケなくて、自分のことは自分でできて、なおかつ、周りの人のことも少しはしてあげられる。
そして、亡くなる二日前に、ちょっと老化現象がでて、「ああ、もうすぐあちらの世界へ行くのだな」ということがわかって、身の回りを整理し、布団を敷いて寝る。
この世の死は、あの世へ生まれること、あの世の死は、この世へ生まれること、と思う。すると、落ち着いてくる。
そして、リラックスすると、脳にベータ・エンドルフィン(脳内麻薬)が、いっぱいに分泌される。
すると、恐怖心が完全に消え、素晴らしく心地よくなって恍惚とした気分であちらの世界へ旅立つ。
誰かが、よく眠っているな、と思って枕もとへ来て見ると、すでに大往生を遂げていた。
と、まあこんな風に、勝手にイメージしています。

人体の右半身がプラス(陽)で、左半身がマイナス(陰)です。
また、上半身がプラス(陽)で、下半身がマイナス(陰)になります。
腕でいうと、右手はエネルギーが出て行く方で、左手はエネルギーが入ってくる方です。
目では、右目からエネルギーが出て行きますが、左目からは、エネルギーが入って来ます。

思い言動が違うと、体がゆがむ

願望を話すと、言葉で成就したことになり実現しにくい

自分の願望は、志を同じくする数人の仲間になら話してもよいと思えますが、なるべく黙って胸に秘めておくべきです。
その多大勢の人々に話してしまうと、その話した願望が現実化する一歩手前で、言葉の世界で実現したことになり、現実にならないことがあるからです。

朝起きた時にはよい言葉を、夜寝る前には心をきれいに

「人間は、この宇宙では、わからないことの方が、圧倒的に多いのだから、よほど自分で確信がない限り、相手の言ったlことを否定しないことです。否定すると、自分の器量が狭くなります。器量は、相手をゆるし、認め、受け入れる心の広さと考えれば、あなたの上司は、いつも、あなたの言うことを否定しているために、段々器量が狭くなったのですね。たとえば、五人分の器量しかない上司には、五人しか部下がいないはずです。現に、あなたも、その部長についていけなくなっているではないですか。

とにかく、どんな問題であろうが、自分の人生で起きてくる問題は、最後は、自分が決断するべきです。
たとえ、その選択が間違っていたとしても、それを自分が選択したことで、自分が自分を生きることになり、そのことで今、生きている実感が得られ、その実感が生きている証になっていくのではないでしょうか。

人間は、表面では、個々一人一人独立していますが、心の深い所では、一つにつながっているのです。
すると、自分を卑下し、自信を無くすと、相手の心は自分が卑しめられ、見下されたと感じてしまうので、そんな相手に対して反発してしまう気持ちが出てくるのだと想います。したがって、彼女の、自分を卑下し、自虐するという心の持ち方が、無意識のうちに、相手に不快で、生意気で、横柄な印象を与え、そのために反発をまねく結果になっていたのです。
反対に、自分を大切に、自信を持っている人は相手に好感を与え、話し方や動作に謙虚さを感じさせます。自分を大切にする心が、そのまま相手の心に通じているので、相手は自分が大切にされていると感じるのです。ですから、自信のある人は周囲から大切にされ、尊敬されることになるのです。

自分で見よ、自分で考えよ、自分で生きよ、でした。
実際、日本人は、誰かが大義名分を唱えると、誰もがすぐそれに賛同してしまう傾向があります。
自分で考えるよりも、皆の意見に同調した方が、確かに楽ですが、それは自分の生き方を放棄していることと同じです。

武道家や気功家は、みんなそれぞれ自分の型を教えますが、覚えたら、最後にはその型を捨てなければなりません。
あなたが形や型にこだわっているうちは、本当の進歩はありません。
そのこだわりを捨てた時、あなたは、初めて内的世界の広がりに気づき、次元の異なる世界の入り口に立つことができるのです。

心の中で、日常的に、無意識に、子供の短所を批判していたことに気が付いた人は、どうか意識的に、心の中で批判をやめてみてください。そして、その代わりに、長所を見つけて、褒めてあげてみてください。
すると、私たちは、子供が、確実に変わってゆく姿を目撃することになるでしょう。
さらに、私たちは、輪廻転生という考え方を、受け入れることができれば、こんなふうにも考えることができるのです。
つまり、私たちの子供は、理由があって私たち両親を選んで生まれてきたというのです。
私たちは、あらゆる体験をするために、生まれる前にシナリオを作って、生まれてきました。
宇宙の何か偉大な力が、私たちを通して、あらゆる体験をするために、今、現在、ここに存在するのです。
もし、あなたが、あなたの言うことを聞かないから、という一方的な理由で、自分の子供に不満を持つようなことがあったら、あなたの心の中で、次のように祈ってみてください。
「息子(娘)よ!私たちを選んで生まれて来てくれて、本当にありがとう、感謝します。あなたが、これから最善の人生を選択して歩むことを、信じています」
祈りには素晴らしい力があります。子供のことで悩む時間があったら、是非、このように祈ってみてください。


三木成夫(1925年~87年)氏は、東京大学医学部を卒業し、東京大学解剖学教室、東京医科歯科大学解剖学教室を経て、東京藝術大学教授を務めていた学者(医学博士)ですが、彼は、人間の心(魂)は頭(脳)にあるのではなくて、内臓にあると主張しているのです。

8/19/2007

人間力






人間力

金を失うことは小さい。

信用を失うことは大きい。

しかし勇気を失うことは全てを失うことだ。

だから武道、武術は勇気、胆力を養い気力を練る。



人間力とは、気力を練ることであり、最悪の時にどう判断するかという力を養うんだ。
競争社会では弱みを見せることはマイナスかもしれないけれど、弱さを出し合えない関係はつらい。
だから今、多くの人が疲れているのかな。

日常生活から他人に頼り過ぎず、自分のペースで動く。

事実を明らかにせよ。
あらゆるモノに騙されないこと→真実を探求すること




景山さんのアマン・ダリ?



























景山民夫さんのどのエッセイだっけかな?バリのアマン・ダリだっけ、ホテルのボーイさんが言う言葉。
至言。

人を楽しませる仕事を選ぶというのは素敵ですね。
人の心を明るくしたり豊かにしたりするのが仕事というのはすばらしいです。
人に愛を与えたいと思っていらっしゃる方なんですね。



男は単純でいい



男は単純でいい。


愛する家族を守ること、その一点さえ貫ければいいのだ、理屈はいらない。――現代人が失いがちな、この単純さに徹することは、今の時代、特に難しくなっている。理屈が多すぎるのだ。言うことが自己弁護であったり言い訳であったりして、その分生き方に芯を失ってしまうのだ。


私たちが付くべき相手は証券ディーラーか外国人投資家、そしてほんの一部ですが投資技術の上手な個人投資家ということになります。


ターゲットという言葉をよく使う。標的である。つまり、レコードを発売する時に、どの年代層、どのファン層に狙いを定めるかということである。中・高校生をターゲットにとか、女子大生を標的にとか言う。また、盛り場狙いとか、トラッカー決め撃ちなどという使い方をするのである。要するに、確実に共感を得られそうな層を設定し、ややそれにおもねった形で企画を立てることである。どの商売でもそうであろうが、ある程度のターゲットの設定ができないと、不安で仕方ないのであろう。 ところが、ヒットの面白さは、作品や歌手の力がターゲットを無視するところから始まるのである。狙いどおりに予定した層の支持を得たものは、それはそれで成功であるが、決して歴史的大ヒットにはつながらないのである。ターゲットは保障の役目を果たすとともに、それ以上になることを阻む枷にもなるからである。最近のヒット曲が、予想もつかない雪崩現象に至らないのは、このターゲットを重要視しすぎるため、保証と枷の裏表の関係が、硬直させているからだと思うのである。それはともかく、大ヒットというのはターゲットを無視する。むしろ、標的としていなかった層の意外な反応というのが、社会現象的なヒットにつながっていくのである。 本物を潰すには、偽物を氾濫させるのが一番の上策だ。


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「お茶代は私に払わせて下さい。年寄りに恥じかかしちゃいけない」

浮世は義理と人情でもっている処です

老人のいない家庭は家庭ではない

石井英夫の欠点はえらそうにしないことで、えらそうにしないと世間は安く見るといっても、これまた生まれつきですからいかんともしがたい。

ただそのえらそうでないところで私はこの人と友になったのですから、一得一失はやむを得ないと言わなければなりません。

彼らは五年さき十年さきの考えはないのである。

あるのは「今」である。

今がしのげれば一両年はしのげるだろう。

それからさきのことはさきのことだ。 要するに哲学がないのだ。

産業革命以来人は哲学を放棄したのだ。

私はロシアのような中国のような半ば未開な国があって、日本のような食い物を棄てる国があって、アフリカのような飢えている国があって、世界はバランスがとれているのだと思っている。

世界中がアメリカのような、また日本のような国になるのは望ましくないと思っている。






表参道のヤッコさん











表参道のヤッコさん 高橋靖子



「開拓者というものは、いつも理不尽な思いを吹き飛ばしながら、前に進むんだよ」



私は生きることに苦労しながら、生きることを楽しんでいた。



「東洋人はお金のためだけに仕事をしない。ときには友情のために仕事をするのだ」

8/17/2007

ワイルド・アット・ハート


ワイルド・アット・ハート/ロバート・ハリス


反骨精神をむき出しにしてロックに狂い、ディスコで遊びほうけ、ヌーベルバーグに熱をあげ、カミュやサルトルを読みふけり、フランス映画「冒険者たち」に感動したり、学生運動に命をかけたり、フーテンになったりしていた60年代、70年代の悪ガキたちが、このバブルに浮かれる世の中を牽引しているだなんて。
信じられなかった。
昔の理想とか夢とか、アンチ・ヒロイズムとかニヒリズムとか、クールとかロックスピリットとか、そういったものはどこへ消えてしまったのだろう。


失業や破産も経験したし、離婚や親しい仲間との死別もあった。
何年もノイローゼでうつ状態もあれば、ギャンブルでとてつもなく大負けしたり、刑務所に入れられたこともあった。
でも、こうした辛いことと同じくらい、いや、それ以上の楽しいことが人生にあった。
だから、自分のスタイルを変えずにやっていくことができたのだ。


自分なりにやってみたいことを「100のリスト」として挙げ、・・・・そして、そんな新たな楽しみが見出せる人なら、「必ずしも日本にいなくてもいいんだ」という選択肢もでてくるかもしれない。
年齢なんて問題じゃない。


旅にロマンを求め、かつての夢を見知らぬ土地で再認識してみてはどうだろう?おそらく、いままでにない解放された気持ちにもなれると思う。


実存主義者たちは、こんな言葉を遺した。
「自由ほど辛いものはない。自分ですべてのことを決め、責任をもたなければいけないのだから」と。


楽しみに金のかからない人がもっとも幸福である(ソロー)


欲しいものを買うな、必要なものを買え。


必要でないものには何の価値もない。(大カトー)


自分のスタイルを裏切るような仕事はしちゃいけない。


なるべくたくさん旅をして、本を読んで、映画を見て、人と話して、恋をして、情熱的に生きることだ。


映画
冒険者たち、エーゲ海の天使、マラケッシュ・エクスプレス、海を飛ぶ夢


心の痛みがわかることによって、人をかばってあげたり、守ってあげたりすることができる。そこで初めてエンパシーを感じる能力―人間性を持った人間になれると思う。


生きていくうえで、人間性を培ううえで、傷つくこと、失恋すること、思い悩むこと、落ち込むこと、挫折することはすごく大切だ。
それを知らずにきた人間は、やはりどこか深みに欠ける。そんな気がする。


守りに入らない、勝ち金を絶対に数えない、
焦らない、欲をかかない、運を呪わない、神を冒涜しない、いやな奴にならない。
いつも楽しい時間を過ごそうとする立ち振る舞いが、自然に勝機を呼び込んでいく。


そう、まずは何をどこでやっていきたいかをシンプルに考える。その後に家族のこと、子供の教育、ビザ、永住権、言葉、住居問題など、諸々のことを考える。
多くの人は逆の順番で考えてしまいがちだが、これではなかなか大きな第一歩を踏み出せなくなる。小さなディテールにこだわりすぎて、これもできない、あれもできないと、行動範囲ややりたいことそのものを制限していますのだ。


毎年毎年、色々な国を転々としていたのでは落ち着いた生活が出来ないとか、子供の教育に良くないとかいった、ネガティブな考えは捨てることだ。
人間、やりたいことをやっていればどこへ行っても、どんなライフスタイルを送っても、楽しいものである。

8/16/2007

人生の転機


人生の転機


1、自分が大好きなことにさらに情熱を注ぎなさい。


2、自分らしさを発揮することに躊躇するな。


3、絶望感を抱いてしまうのは、たんに経験不足のせいかもしれないことを忘れるな。


4、失敗することも考慮に入れておきなさい。


5、粘り強さをあなたの強力な武器にしなさい。



マザー・テレサ


「ものをため込むのはよくありません。なぜならため込むという行為は、必要なときには紙が与えてくださるという信念を否定することだからです。」



ペニー・ピアス「今という瞬間」


あまりに頭や体を酷使していないか気をつけなさい。無理しすぎているときは、直感が浮かびにくくなっています。



エネルギーを増やす方法


食事すべき時間に留意しなさい。


荷物を軽くする。ポケットや財布にあまりものをいれないようにしなさい。


山のように散らかっているものを片付けなさい。


行動を少なくしなさい。


元気づけてくれる人と交際しなさい。


作業を人に任せなさい。


時間どおりに物事を実行しなさい。


おしゃべりを少なくしなさい。


運動をしなさい。