9/08/2007

掟破りの成功法則


掟破りの成功法則 夏目幸明




<海洋堂/宮脇修>

海洋堂には『これさえやめたらいける3箇条』があるという。
1.お金がないのに次々と新しい企画を進めない。
2.ヘンなものを出さない。
3.常にバクチを打ち続けない
・・・・・・つまり、宮脇はその3つを激しく続けてきた。


結局のところ、ホンマの才能言うんは、好きで好きでしょうもないことを、真剣に、長く続けることなんや。逆に、不器用なヤツが、5年、10年かけてモノになると鳥肌が立つようなもんを作りよる。


『クラスに40人おったら、1割ぐらいは変わり者がいるはずや。そいつらが買うてくれたら商売にはなる』


「なあ、こんなお笑いのようなことを大まじめに続けてきたんが海洋堂の歴史や。なあ、わかるか?これは“好き”とか“愛着”なんて小っちゃなもんがデカイものにかみつき続けてきた歴史なんや」


世の中に媚びて自分を曲げんことや。好きなことを好きなようにやる、遠まわりに思えるかもしれんけど、ホンマはそれだけがオマエの人生とちゃうんか?


沈む淵があれば浮かぶ瀬もある・・・


目の前の壁に挑戦したり、ぶつかったりするうちにこうなっただけですわ(笑)。
人生にはいろんな“壁”がありますやろ?鉄の壁、石 の壁、板でできてる壁もあれば実は紙、いうのもあるはずや。それが目の前に立ちふさがった時、どうしたらいいと思います?結局、力一杯ブッ叩いてみんこと には、それが何でできてるかはわからんのです。跳ね返された痛みで目が回ることもあれば、びっくりするほどカンタンに腕が突き抜けることもある。そんなこ とを繰り返しているウチに、こうなってただけですわ(笑)」


「心に花を思わずば、手先手練は人に勝れたれども、花を知る人とは云わず。未熟にても、心に花を思ふ人は、花を知りたる也」。いかに技術があれど、いかに器用であろうとも、愛情がなければ、ついに花を知る人とはなれない――。

<ソフト・オン・デマンド㈱/高橋がなり>

「人と変わったことをやり通すだけの意思と力を持っていたら、大抵食べていけますよ」(ソニー創業者・井深大氏)。

<㈱トーイズ/北原照久>

人が大事なものを見失う理由の大半は、他人との無意味な「比較」にある。実は、偏差値、給料、社会的な立場など、分かりやすい基準であるほど、比較に意味はない。世に、自らの絶対的な価値を見つけられず、世俗の価値にすがる人物がいかに多いことか・・・。

<創庫生活館/堀之内九一郎>

足が棒になるまで売り歩く、というのは残念ながら努力じゃないんです。足を棒にしなくてもいいように、効率のいいシステムを作る、商売をデザインするのが、本当の“努力”なんです。世の中には、ここに気付かずに、ただがんばっちゃう人が意外と多い。


「意外と、この振れ幅が大事なんだよ。少々のことがあっても、何ともなくなる」
それは「堕ちる時はとことん堕ちろ」と絶叫した昭和の名文学、『堕落論』の一節のようにも思える。


・座右の銘は?
流れに従って志を変えず。

<コロちゃん㈱/小竹守>

はなから負けるとわかる勝負に挑むこともある。結果、やっぱりボロクソに負ける。けどさ――やったってことには、意味がある。


その結果、たとえ大損をしてもいいんですよ。人生トータルで考えれば、場面、場面で人間として納得行く道を進んだ方がきっと大きくなれる。

<㈱テンポスバスターズ/森下篤史>

進化論の世界では、強いもの、大きいものでなく環境に適応できたものが生き残る―


ようは“余計なこと”が人間の可能性を拡げるというわけだ。フランスの微生物学者・パスツールは「偶然は準備のある心に味方する」という言葉を残している。

<まんだらけ/古川益蔵>

人に何を言われようと、どう思われようと、好きなことをやり続けること、これに尽きるんです。ボクは言ってみれば、社会からツマハジキにされてきた 人間です。かといって天才的な才能があったわけでもない。けれど、ついに『世間並み』にならず、自分を貫いたんです。そしたら意外なことが起こった。世間 がボクに付いてきてくれたんです。開き直るまでは大変でした。仕事も減ったし、友達も失った。だけど、道が開けてきたのは、それからなんです。


成功と破滅、堕落とストイック。対極にあるものはときに激しい相似形をとる。

9/07/2007

堺屋太一・9/2/2007日経



堺屋太一・9/2/2007日経


子供に勇気とか覚悟とか独創といった美徳を教えなかった。自分で考え選択する気力を与えなかった。一流の大学を出て会社に入るのが幸せなんだと。



優しさと安易さだけが美徳と教えた。満足の大きいことが幸せになった。満足とは主観的。世界中の人が主観を持ち出しているのに、日本人は客観がいいと思いたがっている。



好きを基本に勇気と決断と覚悟の美意識を持ち直そう。

つか版 誰がために鐘は鳴る






つか版 誰がために鐘は鳴る つかこうへい



女を辱しめず裏切らない人間をスターという。



『冬のソナタ』のペ・ヨンジュンも、『ローマの休日』のグレゴリー・ペックも、誠実であり続けようとする。
なぜならスターは、強気をくじき、弱きを助ける正義の味方でなければならないからだ。



韓国では、どのような理由があるにせよ、兵役に行っていない男性は貶められる。
イ・ビョンホンは義務を果たしたが、公益勤務要員ということで6ヶ月に期間短縮され、チャン・ドンゴンもまた気胸という病気で免除されている。兵役に行かなかった者に対して、人は彼らを「腰抜け、卑怯者」と差別する。
ペ・ヨンジュンもチャン・ドンゴンも、その差別の中で生きてきた。
その中で彼らは、必死で不動のスターへの道を模索し続けている。
だからこそ、いま毅然と輝いている韓流スター達の微笑の中に、孤独を見る。
彼らの微笑みの裏には、決してこの社会に完全には受け入れてもらえないという、諦めからくる寂しさがつきまとっているように感じられる。



儒教の国・韓国では、学問を重んじ高学歴であることが重要視される。
そして俳優という仕事は国民にとって自分達の代表であり、高学歴・高身長・鍛え抜かれた肉体・人柄と、完璧さを求められている。



ペ・ヨンジュンは芸術家と呼ばれたかったのであろう。映画好きな韓国の中にあって、知性ある役者と呼ばれたかったのであろう。
が、映画というものは大衆が楽しむエンターテイメントであることを忘れてはならない。



彼女たちは芸術を見たいのではない。夢を見たいだけなのだ。



私はペ・ヨンジュンに、若い娘の将来のために入れ歯をはずさせるような、そんな男気を持つ人間に成長して欲しいと思う。
ペ・ヨンジュンなら、きっとなれる。
なぜなら、スターは相手を、ファンを思いやる心の深さのことであるから。そして、スターの華とは、男気のことであるから。



誠実に生きていこうとするサラリーマンが死ななければならないアメリカ。
アメリカは、心の美しさを鍛えず、『見栄ばかり』鍛えてきたから腐ったのである。
エリザベス・テイラーは、「子供を堕ろすくらいなら、死んだほうがましだわ」と古き良きアメリカ女の心意気を見せていた。



「ペ・ヨンジュンは、威張らないって。偉そうにしないから、日本の女達が、魅かれたと」



「それに日本の亭主たちって、奥さんに対して威張って恩着せがましくするじゃないですか」


「恩着せがましい」


「女って恩着せがましくされるのが嫌いなんですよ。やれ『家買った』『不自由のない暮らしさせた』そのうえ自分は会社の若い女の子と浮気しといて、『定年になったから面倒みろ』『ボケたお袋の介護頼む』。これじゃ女達だっていい加減頭にきますよ」



作法とは人を思いやること、やさしさとは人に恥をかかせないことだと知ったんですよ。



「私も思うんですよ、弱い者の視点で物を見なきゃいけないんじゃないですかね、文学とか芸術とかは。
ペ・ヨンジュンって人はその弱い人への優しい目線があると思うんですよ。」




リーダー論???

台風上陸した。海岸の家が揺れている。怖い。高いところに住むものではない。


リーダー論



プラトンのこの話はもともと「無知」と「知」ということを論じたものでありますが、この話をリーダーシップ論として考察するというのは着眼である。

この話の教訓は、
(1)リーダーとなる資質のあるものは、未知の世界を見にいく好奇心と勇気を持つ、
(2)リーダーは見たり体験した素晴らしいものを独占せず、仲間に伝え、共用しようとする(わたくしはこれを指導者の重要な資質だと思うのです。じぶんで苦労して見つけた新しい世界である。独り占めしていい思いをしたっていいのだからね)、
(3)そしてリーダーはそれを知らない仲間たちにきちんと伝え、説得する能力を持つ、
という3点であります。


9/06/2007

風水ことわざ






風水ことわざ



日本人は、「世間の人が笑っている」「縁起が悪い」「常識がない」という3つのフレーズを並べられると、身動きできずに、自信を失ってしまう。

“運がいい”ということは、タイミングがいいことであり、自分を活かすことです。


多くの人の中で毎日の生活を通じて環境を活かし、自分を運のいい人間にしていく努力こそ、現代にふさわしい“修業”


・タイミングのいい人間をツイている人という

・ツイていないときは午後11時までに床に入れ

・本気で仕事をしたいとき、自分を活かしたいときはひとりで行動せよ

・きらいなことでツキが変わる

・その土地の良さを活かせない人は、どの土地にいっても自分の良さを活かせない

・いちばん苦手な人と夫婦や親子になると思え

・実家の役に立った娘ほど幸せになる

・運のいい子供は運のいい親が作る

・一家は一火

・文句を聞くときには頭を下げろ

・3月に服を買うと一生着るものに困らない

・文句を言うひまがあったら笑顔の練習

・夢と勇気とわずかなお金

・多数決で決めたことは成功しにくい

・お彼岸には仕事とからだの現状をチェックせよ

・一流の人間が集まるところにパワーあり

・好きな場所で希望や夢をつぶやけ

・太陽の動きに合わせて生活せよ

・多くの人の幸せのために働くことで自分を磨け

・運とツキは相続税がかからない財産

9/05/2007


2年前のメモより

9/14/2005のメモより。2年前の内容だけど、腐ってないので・・・。


もっとフリーに生きようと思えば、最悪のことを覚悟して、それを一旦、心の倉庫にしまっておくべきだ。

オドオドしていては、物事の実行にブレーキをかけるのだ。
失敗していいんだ、くらいの気持ちでいることである。
逆に、恐怖心とか、心配事、不安のない人はこだわりがないし、集中できるから、
何事もすべてスムーズに行なえる。


嫌いなもの、苦しい時点を克服することに喜びをもつと、そのことによって魂は磨かれるんです。

一つ克服すれば一つの新しい力が、そして二つ克服すれば二つの新しい力が備わってくる。
苦しまなければ力はつかない。
そして、苦しいという方を見るのではなくて、力のついているほうを見ると、そこには喜びが沸く。
だから、苦しみの裏にこそ力がつくともいえるのだ。

会社を変えたいとか奥さんを変えたいなんていう人がいるが、自分が変わらない限り
相手が変わるはずがない。

自分は変われるんだ、という心構えを持つことが必要である。
まずは、そう思うだけで違う。
そして、自分を変える一番いい方法は、自分の身柄を誰かに全部預けることだ。
自分が変わり得ないということを知ったなら、手を引いてくれる人にすべてを任せてしまうことだ。

その人は実績のある人でなければならない。



膨大な情報が世界を駆け巡る。限りなくゼロに近づく情報交換のコスト、不特定多数につながる開放性・・・・・・。「知」の加工や深化を通じ、物質文明では到達できなかった情報文明へ歩を刻む。


万人が楽しめる時代が到来した。「現行の補償金制度は権利団体を通じてレコード会社や大先生だけに著作権料が戻る。団体に属さないクリエーターは蚊帳の外だ。彼らにきちんとお金が戻る、新しい仕組みに作り替えるべきだ」(穂口氏)

補償金制度のみならず、著作権の仕組み全体を見直す機運もある。小委員会の主査を務める中山信弘・東大教授は「著作権法は(問題の)吹きだまり的様相を呈している。現行法が社会の要請に応じうるものなのか、問い直す必要がある」と主張する。


9/04/2007

一度も植民地になったことがない日本


一度も植民地になったことがない日本・デュランれい子




アングロサクソンが単純という根拠の象徴は、あの「カウボーイ」である。ハリウッド映画の例を出せばどなたも納得されられるはず。腕力で勝負を決めたいアン グロサクソンのイギリス、アメリカに、とことん議論し合うことをよしとするラテンのフランスが抵抗している今回のイラク戦争は、この対比の好例ではないか と思う。


アーティストは非常にリスキーな仕事だ。好きだからはじめても、食べることが満たされる仕事ではないから、先進国の仕事と言ってしまえば確かにそうかもしれない。食べることが最優先される国々では、芸術が職業として公認されていないのはよくわかる。


自分が確立した定評ある画風を一生守り抜くほうが、楽と言えば楽かもしれない。とはいえ、プロとして退屈な人生ではないだろうか。


ヨーロッパの人々は知らない人同士でも顔が合うとニコッと笑う。何のためかと言えば、「私は、あなたを警戒してませんよ」という合図。ただそれだけなのだ。しっかり覚えておいてください。「笑顔はタダ」なのです。



9/03/2007

頭の回転が50倍速くなる脳の作り方









頭の回転が50倍速くなる脳の作り方・苫米地英人





最速でマスターするメカニズム
・抽象化の訓練をしながら日本語脳の活性化を抑える
・次を予想する(決して暗記しようとせずに、次を予想する)
・英語のドラマなどのDVDを朝から晩まで見続ける
・抽象化訓練を行う

IQの高い「新しい脳」をつくる
ステップ1 リラックス状態をつくる
身体の一箇所から始めてだんだん身体全体をゆっくりゆっくり緩める。これを5~10分くらいかけて筋肉を緩めるリクライゼーションを毎日やる。
逆腹式呼吸
息を吸うときにおなかをへこませ、息を吐くときにおなかをふくらます。口と鼻の両方で吐いていいので、ゆっくりゆっくり息を吐きます。
とにかく、息を吐くときに全身をありったけ緩めることが重要です。

ステップ2 コンセントレーション(集中)状態をつくる
一点に集中すると、その一点以外がすべて無意識になる。

ステップ3 超並列脳をつくる
リラックス状態をつくったあとに、自分で目をつぶっておでこのどこか一ヶ所だけをじっと見る。
その一ヶ所だけをずーっと凝視するだけでいい。目をつぶったまま眼球を上に向けるのです。
ラピットアイロールという方法。
そうすると人間の脳は超並列的に動き出してきます。
中には寝てしまう人もいます。寝るということは超並列的に思いっきり動くことを意味しますが、コントロールできなくなるのでなるべく寝ないようにしましょう。

抽象度を上げるトレーニング
・目の前にあるものすべてに説明や解釈を重ねる
・一度目をつぶって、目を開けた瞬間に先ほどの説明や解釈すべてが目に飛び込んでくるようになる
・上記を繰り返すと、いつの間にか抽象度の高い思考が身に付く

共感覚を作るトレーニング
それぞれ別の感覚でマッピングする。
味はサラサラ、形は花のにおい、においは赤色・・・

過去に対して、自分の楽しかったこと、うれしかったこと、を3日から1週間前、3ヶ月から半年前、1年前、3年から5年前、10年前。
未来に対しても、それを3日から1週間後、3ヶ月から半年後、1年前後、3年から5年後、10年後、そして、自分が臨場感を感じられるだけ先の時間に対しても同様にしてください。

「未来にしっかりと強力なプライミングをつくることにより、強力な学習モチベーションをつくるため」であるとか、「未来にしっかりと臨場感を持てば、過去の記憶のそれぞれが、それにふさわしいものとして解釈されるのである」といった説明が出来ると思います。

9/02/2007

ドクター苫米地の新・福音書







ドクター苫米地の新・福音書/苫米地秀人






私が言う「奴隷の人生」とは、「他人または社会の価値観に基づいて理想を追求し、それに沿っ てつくりあげた人生」のことです。そこに、自分自身はありません。自分の価値観や自分が心から望む理想は置き去りにされています。ただひたすら、他人や社 会の思惑通りに生きることが幸せだと思い込んでいるだけ。だから、「奴隷の人生」だというのです。

自分自身をより高い視点から見る「抽象思考」ができるようになると、生き方や夢実現のためのノウハウなんか何一つ学ばなくとも、無意識のうちに「なりたい自分」「夢」「幸せ」を手に入れるべく行動する自分になれます。
その「技術」は、いくつかのトレーニングを重ねることによって、誰もが身につけられるものです。

私という存在を決めているものはどれも「他社との関係」であって、自分自身ではないのです。
ようするに、自我は自分でつくるあげるのが不可能なもので、他社との関係によって定義されるものだと言うことです。
「自我なんて存在はない。自我は書き換え可能な情報として利用できるものである。

私たちが心から望んでいる幸せは本来、非常に抽象度の高い感覚です。「私」だけにこだわる抽象度の低い状態のままでは、「奴隷の幸せ」しか得られません。脳の仕組みがそうなっているのです。
我 欲を満たすだけの幸福感よりは抽象思考で求める幸福感のほうが、ずっと志は高いし、スケールも格段に大きい。その分、満足度もアップすることは間違いあり ません。私自身、「世界から差別と戦争がなくなる」ことを夢見て、日々抽象思考をしています。それによって、幸福感にも満たされています。

最も大事なのは、
「私は一瞬にして生まれ変われる。なりたい自分になれる」
と本気で信じることでしょう。
過去を悔やむ人は過去の延長線上で未来を考えています。事あるごとに過去を振り返り、「仮想の自分」を描き出しては「いまの自分」と比較して、「もう少し上にいる自分になりたい」と考えてしまうのです。
そんな風に過去に遡って「いまの自分」を不幸だと思いつつ「未来はこうなりたい」と自分の理想像を描くのではなく、未来を見据えて「今の自分は最高に幸せだ」と考えてほしいのです。

1、物理的実体としての「自我」は存在しない。他社との関係性のなかで、「他人の目」がつくりだした「これが私」と認識・定義している情報状態に過ぎない。よって、その情報を書き換えれば、自分を変えることができる。
2、人間には他と比べられない価値がある。「他人と比べる尺度」「自分と比べる尺度」を捨て、自分自身を他人や社会の目、「仮想の自分」による洗脳から解き放つ。
3、時間は未来から現在、過去へと流れる。いまの自分を最高に幸せだと感じることが、未来に対するいい働きかけになる。

目標は「5次元人」抽象度を上げて、自分の経営コンサルタントになる。
2次元:3次元:真っ青な空がきれいだ、宇宙にある銀河はいったいいくつあるんだろう?4次元:地球の誕生から宇宙の行く末まで時間はつながっているんだなぁ!5次元:この世界、時空を俯瞰できる。この宇宙のすべてが愛おしいなぁ

ただ抽象度を上げるだけでなく、臨場感を保つことがポイント
経験と知識と想像力をフル稼働させよう

準備運動①逆腹式呼吸
心身を思いっ切りリラックスさせて、物理空間の縛りから自らを解き放つ
息をゆっくり吐き出すだけ。

準備運動②自分の得意なモーダルチャンネルを見つけよう
内部表現の書き換えは、自分の得意なモーダルチャンネルと抽象度で行う
あなたは、どの感覚が鋭い人ですか?
ステップ1:自分は五感のどれが鋭いか―モーダルチャンネルを見つける
ステップ2:現実の物から抽象度を上げながら、どこまでそのものの実体を感じていられるか
臨場感を保てるギリギリのところに、得意な抽象度を見つける

準備運動③自分を中心とする世界に、整合的な地図をつくろう
脳の情報処理能力は無限大!抽象度を上げるトレーニング
①過去の情動を利用する方法―あなたにとって思い出深い出来事は?
・過去の思い出から喜怒哀楽の情動を甦らせて、体感を引っ張り出す
・体感を少しずつ強化する
・芸術家になった気分で、体感を色、音、触感などで表現する
②演技に働きかける方法―物の過去を想像しよう
・物はどうやっていまここにやってきたのかを、想像まじりに考えてみる
・物の歴史に感情を結びつける
・体感を強化し、それを色や絵、音、触感などで表現する
・複数の物を同時に感じる

IQトレーニング―自然界に「概念のヒエラルキー」を構築する
要は、「系図」のようなものを、自分なりにつくればいい
①目に入るものひとつひとつの抽象度を上げていく
②各抽象度で横に概念を広げる
③連想したものについて、抽象度を上げていく
④”網の目世界”を動かす

煩悩をコントロールするトレーニング「止観」―最後まで自分を縛るものは「煩悩」

本当に『なりたい自分』になる決意を堅固にしよう
「奴隷になるな」としくこく繰り返すか。それは逆説的に言うと、奴隷が一番幸せであることは間違いないからです。
自 分で何も考えず、社会の思惑通りに生きるのなら、それほど簡単なことはありません。社会や他人に操られていればいいわけですから、何も自分で考えなくいい し、何も自分で決定する必要はないし、自分のしたことに対して何一つ責任を取ることもない。だからお気楽だし、ハッピーなのです。

学問の世界だけでなく、どんな仕事でも、その現場をリアルに体験することは大切です。その臨場感をしっかり感じたうえで、抽象化の作業をしていくのです。
誰かにあこがれる場合も、そういった”色眼鏡”で憧れの人を見てはいないかを、しっかりチェックしなければなりません。
そのために雄幸なのが、「止観」です。
その人にあこがれる気持ちをちょっと脇に置いて、高い視点から自分を観てください。それで、たしかにその人本人ではなく、その人の生き方に自分の生き方が重なるならOKです。

成功が「ある」と「ない」との2パターンを包含する抽象度に自分を置いて、自らの意思で「ある」を選択する。だからこそ、思い通りの自分になる記述が有効になるのです。
だから、失敗イメージに対して、そう臆病になることはありません。単に否定形にすればいいだけです。脳はバカ正直なおで、いくら「ノー」とか「ノット」の否定形をつけて思考しても、肯定形でしか受け止めません。

内部表現を書き換えるポイントは、大きく分けて2つあります。
ひとつは、「なりたい自分」「叶えたい夢」「実現したい幸せ」に関わる未来の縁起ひとつひとつに対して、いかに強い臨場感が得られるかにあります。言い換えれば、自分が記述する”未来情報”を得意なモーダルチャンネルに変えて、いかに大量のドーパミンを出せるか、です。
もうひとつは、「ある」と「ない」とを同時に見られる、抽象度の高いところで、「なりたい自分」「叶えたい夢」「実現したい幸せ」を自分の得意なモーダルチャンネルで表現することです。

普段から高い抽象度で思考する習慣をつけていれば、いずれ内部表現の外側に飛び出す瞬間を体験できるはずです。
かなりハードルは高いけれど、本当の自由意思とはそういうものだということを心に留めて置いてください。目標はあくまでも、
「何事も、社会や他人、過去のしがらみ、つまり自分自身の記憶から自由になって判断する自分になる」
ことで、その先にもうひとつ、最終ゴールとして、
「内部表現から頭を突き出して、真の自由意思を獲得する」
ことを揚げておくのがベストです。
いずれにせよ、大切なのは、ふだんから抽象度を上げて思考することです。

つまりエントロピーは極小から極大に流れる、抽象度は高から低に流れる、そして、時間は未来から過去にながるということです。

9/01/2007

スピリチュアリズム/苫米地英人






スピリチュアリズム/苫米地英人

催眠技術は催眠下でした学べません。これは空手や気功と同じで身体から身体への伝達です。催眠下で催眠を学ぶ。するとなんとなくその方法論がわかるというものです。
ちょっとした声色の使い方、眼の動かし方、突然黙って下を向いて間を空けて変性意識が少し深まった瞬間に声を発して誘導する―もちろん手法的にはかなり初歩的ですが、そういった細かい技を江原氏は自然に身につけているいるわけです。
素地は単純で被暗示性が高い「催眠に入りやすい人」、それだけです。

江原啓之氏などの言っていることは、宗教史的に言うと輪廻転生を前提としてヒンドゥー教的カルトです。実はスピリチュアルのみならず、流行っている新宗教はすべて差別的な思想を持つという興味深い共通点があります。
それは「人間を超えた存在」という超人思想であり、選民思想です。もっとはっきり言うとナチズムに繋がるものです。

「神様はひとり」という絶対神の世界、ユダヤ・キリスト教やイスラム教の世界では、逆に日本的な戯れ意識であったり、占いを信じたり、霊の教えることを信じたりすることなどは本来ありえないのです。
本来、キリスト教は霊能者と言われるものを認めず、逆に歴史的には魔女として火炙りにしてきたくらいです。

根本的な問題は、今の世の中がスピリチュアルなものに対して肯定的に動いているということです。21世紀はスピリチュアルに対して否定的に動かなければいけません。しかし、現実には、どうしてもスピリチュアルにはまっていく人がいます。

ある宗教団体をカルトと考えるか否かの判断基準は、一言で言うと、社会がすでに持っている価値観からどこまで遊離しているかということです。
実際に家族や友人が何らかの宗教団体に入ったときに、ただちにやめさせる出来かどうかの判断基準は、「入信する前に言われたことと入信してからやっていることが同じかどうか」ではないかと思います。

江原啓之氏はを中心に述べてきましたが、江原さんのスピリチュアルの中身は一言で言えば、アートマンの永続性と輪廻転生と魂の世界の階層性です。それはすでに述べたようにオウムの論理でありチベット密教、バラモン教の論理です。
何 が危ないかと言えば、彼の進めている論理には次のステージがあるわけで、その論理的な帰結として来るものが危ないわけです。今の彼は混乱しているように思 えます。自分に見えているものをどう処理するかについて戸惑いがある印象を受けます。まだ発展途上で、彼の本を読んでも、言動を見ても、ただの「自分探し 君」です。

瞑想を行うと、人間は大量のドーパミンを出して、気持ち良い体感を得ることができるわけです。それによって、より長時間の抽象度の高い瞑想をすることができます。
数学者にとって数学の世界が気持ち良いのと同じで、それが瞑想のからくりです。非常に抽象度の高い空間を、気持ち良く、五感をもって感じることが出来る訓練、それがヨーガの訓練です。
実は、古くから伝わる密教とは、身体性を用いて脳内のドーパミンを大量に出すことができる秘術なのです。

最終的に地下鉄サリン事件に至ったオウム真理教は、スピリチュアリズムが行き着くある種の論理的帰結であったと私は思います。スピリチュアルズムが表で語らない「この世は幻である」という本質的な思想を実践しました。あの世が主でこの世は単なる幻である。

私 は、現代日本のスピリチュアルの総本山は中沢新一だと思います。そして、布教の最大の担い手として江原さんがいるとしたら、それを中沢が別のベクトルで、 つまりさもスピリチュアルと関係のないように見せかけて、いきなり登場させた本と言うのが、今をときめくコメディアン大田光とのコラボレーション作品であ る「憲法九条を世界遺産に」だと思います。

いわゆる脳死体験とは脳が壊れていくときの現象です。ドーパミンをはじめとするありとあらゆる脳内伝達物質が、脳が壊れるときに大量に放出されます。ですからまず、気持ちが良い。

先 祖がいなければ今の自分は存在しないんですから、それは感謝すべきことですが、先祖の霊が今ここにいますと言って、本来は魂なんか認めないはずの仏教の家 にも位牌があってチーンやるのは、日本人がみな洗脳済みだからです。そして、それをいいことに一大ビジネスをやっている人たちがいる。
「祟り」を 洗脳のメカニズムで説明すれば、「祟り」という言葉それ自体がトリガーで、アンカーとは、言わば日本の歴史上に営々と築き上げられてきた臨場感世界です。 それは、過去からずっと日本人全体に埋め込まれてきた「死への怖れ」などさまざまな迷信であり、一言すれば「日本教」です。
スピリチュアルがますます跋扈する今の時代に、それと立ち向かうには、まずあなたがそれを認識することからはじめなければなりません。互いが互いを洗脳し合い維持しあっているのが今の世間のありようなのですから、まず、あなたがそれに気づけばいいのです。
霊も祟りもありません。祟られる人は「自分で自分に祟っている」のです。

ス ピリチュアリストの人たちが、「確かに非科学であるけれど、スピリチュアリズムのメッセージで人々が幸せに生き、幸せに死んでいけるのだから何が悪いので しょう。」と言っている声が聞こえてきます。何が悪いかと言えば、その優しく、美しく聞こえるメッセージの後ろに、まさに釈迦が否定した、アートマン思 想、輪廻転生、絶対差別思想がしっかりと入っているからです。
これが、過去にヒトラーを生み出し、戦争を起こし、世界では人種やカーストの差別を生み出し、日本では穢れの思想に代表される差別を生み出し、最近ではサリン事件を引き起こしてきた中心教義なのです。それが悪いのです。
そ して、それらのメッセージで幸せに生き、幸せに死んでいけると思っている人たちは、幻覚や妄想の世界に取り込まれることによって、幸せになれると勘違いし ているだけなのです。もちろん、スピリチュアリズムは来世のご利益しか約束しませんから、今生きている人たちの苦難は、「魂を磨くため」という言い訳を使 いますが、それは詭弁です。誰も救われません。

スピリチュアルとは「間違っていても信じたい」と思うことです。それに対して科学とは、徹底的な吟味をし、自分で打つ立てた考えを自ら批判し懐疑するものだということです。
ス ピリチュアルがますます跋扈する今の時代に、それと立ち向かうには、まず皆さんがスピリチュアルの実態を認識することから始めなければなりません。スピリ チュアルに囚われない認識力とオリジナルな思考力を身につけることが「本当のあなたの思考」「本当のあなたの夢」を手に入れるための基礎的な技術なので す。

8/31/2007

これからの運命傾向 8/9/2007

和太郎くんの占いメモより、

これからの運命傾向 8/9/2007

2007年は2006年の変わってきた状況に応じて、個々のシステムやコンテンツ、流通の完成度が問われている。理想と現実のギャップの中で、出来ることから、長く続けていける業務、本当の意味でやりたい業務に改善していく必要がある。

この44歳から54歳にかけての運気は、確かに今までのシステムや信頼してきた組織のパイプは細く、薄くなってきている。よって、少しフィールドを広げて協力・信頼関係を築けるブレイン・スタッフをはっきりさせていくことが重要になる。

2008年は大きな変革があり、2009年は本音として進めていく人や縁に落ち着いていくだろう。


(近い未来について)

妻の事や場所など、何かひとつ力のある場所(パワースポット)と繋がってコミュニケーションを広げる必要あり。

また、妻の心情、不安多く、修復する必要あり。

少し孤立している時にあれば、人との縁を少し広げて情報をふくらましていくことは必要。


大阪発の飲食系は求め過ぎなければかえって良い。野心を抱かず進むが良し。

音楽葬関連は、北方面を求むるが良い。

マネージメントについては、手前に障害あってゆっくり進むことになる。急がば廻れ。儲けは後からついてくる。


吉凶転換の日

8/13,8/25,9/6,9/18,9/30,10/12,10/24,11/5,11/17,11/29,12/11,12/23,1/4,1/16

この日に会うべき人に会うこと、先祖供養、神仏祈願すること、

やるべきことをやること、この日を活かすべし。


鹿島神宮、香取神社、神栖神社


知恵と客観性とヤル気

リスクと責任を取ることで知恵が出る。

高学歴は劣等感が少ない

メモ魔 ・学んだこと・感じたこと・ルール化したこと

ついている人、与え好きの人、全力投球

幸せ(自己)と成功(他者)の為に人は生きる。

好きな人に会うと人相も良くなる

引き算より足し算の生き方

我々の心は異常事態で暮らしていると、間もなく、それに慣れてしまう。適応のメカニズムを持つ。

パニックが過剰自己防衛であるのに対して正常性バイアスは虚構的自己防衛である。

日本や米国では、災害時に避難命令が出ても実際の避難者は5割を越えない。

打つべき手は打つ。

発想を柔軟に。ますます競争は激しくなる。

あたまの固いプロよりも先見性のあるアマチュア

意思決定の遅れは致命的。

自分を表現する100個のセンテンス


2010年から2015年より、地球の気温は急激に冷える→氷河期への突入

基本的生命力

本能の力の低下、情念の枯渇

情念は、その要素に性欲・食欲、攻撃的本能。→真に鍛えたタフな本能の力


わからないことはしない。

自信のないことはしない。

責任の取れないことはしない。

やりたくないことはしない。

世のためにならないことはしない。


ウソはつかない。 

安いモノは買わない。

相手の立場でモノを考える。

言動が一致しているか?

責任を転嫁してないか?

言い訳をしてないか?

感情的な反対か、理性的な反対か?

聞き上手に勝る話し上手なし。

怒らず恐れず悲しまず

正直、親切、愉快に!!


8/30/2007

「人間嫌い」のルール


「人間嫌い」のルール・中島義道



これほどの労力を払って人生を降りようとするのは、人間のある面がひどく「嫌い」だからである。人間が不純だからでない、不道徳だからでない、利己主義だか らでない、むしろ「よいこと」を絶対の自信をもって、温かい眼差しをもって、私に強要するからなのだ。とりわけ共感を、つまり他人が喜んでいるときに喜ぶ ように、他人が悲しんでいるとき悲しむように、私にたえず強要している。これを拒否して生きることはできない。だから、私は自分を徹底的にごまかして生き 延びてきたのである。そういう風に私を作った他人の鈍感さと傲慢さが嫌いであり、それにうまく合わせてきた自分のずるさと弱さがきらいなのである。


日 本社会をすっぽり覆っている「みんな一緒主義」、言葉だけの「思いやり主義」「ジコチュー嫌悪主義」が、少なからぬ若者を苦しめ、「もう生きていけない」 と思わせ、絶望の淵に追いやっている。善人どもは「いじめ」が問題になると、「あなたはひとりではない!」というメッセージを送ってのうのうとしている。 だが、自殺にまで追い込まれた少なかぬ者は、「みんな一緒主義」の砦を打ち砕き、みんなから排斥されてもひとりで生きていける、というメッセージが欲しい のだ。


「ずるい人」

平 気で嘘をつき、自分を実際よりよく見せようとあらゆる工作をし、相手に対してくるくる態度を変え、権威者や権力者にはおもねり、非権威者や非権力者を足蹴 にする人である。表面では正義感ぶって、裏に回るといかなる卑劣なこともしでかす人、こういう人が、これまでの人類の歴史で肯定的に評価されたことはな かった。


ひ きこもりやニートのほとんどは、先の定義において人間嫌いであるわけでない。人間嫌いという領域に属する者もいるであろうが、彼らの多くは、心の病とは無 縁である、―原因はさまざまであれ―単に社会性の欠如した者、他人とのコミュニケーション能力の欠しい者にすぎない。いまの苦境を抜け出してどうにか社会 復帰したい者、だがその端緒がつかめない者、あわよくば棚からぼた餅が落ちてくることを願っている者、ニーチェの言葉を借りれば「蓄群的功利性の持ち主に すぎない。


親切を押し売りする人は、他人がそれを拒否することなど考えもしない。いや、こんなに親切にしているのに、それを不快に思うとは何と無礼なと憤り、もっとたちの悪いことに「心の貧しさを悲しみ」、そこでぴたりと思考を停止してしまう。


困っ ている人、苦しんでいる人を見かけたら、淡々とした気持ちで助け、さらりとその場から立ち去る。そして、自分が何をしたか「忘れてしまう」のである。こう した助ける者と助けられる者との関係が、最も気持ちのいい人間関係を取り結ぶと私は信じる。できれば、助けるときも、助けられるときも、こういう淡白な関 係でいたい。


昔 の仲間たちとそれを懐かしむことが好きではない。中高年の鈍重さと醜さを曝け出して、「こんなことがあったなあ、あんなことがあったなあ」と笑い転げるこ とが嫌いなのである。その和気あいあいとした雰囲気は共感ゲームで充たされ、大量の欺瞞が飛び交い、みなどこまでもよい気分でいたいという欲望がグロテス クなほど露出されていて、気持ちが悪いのだ。


オルテガ

大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じあると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、ほかの人々と同一であることに喜びを見出しているすべての人のことである。

こ うした大衆は、知的に徹底的に怠惰であるから、何事においても、「わかりやすいこと」を求める。「わかりやすい」とは、何の努力もしないでわかるというこ と、書物なら寝っ転がって読んでもわかるということである。彼らにとっては、わかりにくい書物は全面的に著者が悪いのだ。


人間嫌いは、あらゆる人間からの独立を目指すと同時に、あらゆる土地、風土、故郷からの独立を目指す。


世の中は、二十歳の男には寛大であっても四十歳の男には寛大でないということを知っておけば、それでいいのだ。


私 は、常に崖っぷちを歩いてきたからこそ、そして思いがけず多くの人に助けられて生きてきたからこそ、どんなに型破りの生き方があってもいいじゃないかと心 から思う。一見、不安定に見える職業に就いていても、将来の見通しが立たないように見える状況に投げ込まれていても、その人固有の人生の「かたち」を描き きることはできると思っている。


この世のほとんどの不幸は、他人に過剰に期待することに起因するのではないかと思う。他人に期待することがなければ、他人を恨むこともない。他人の賞賛を求めることもない。


大 原則として、他人の人生に過度の期待をかけてはならないと思う。勝手に相手に期待して、その期待がかなわないとき、「こんなはずではなかった」と相手を責 めるのが卑劣な弱者というものである。人間嫌いが人間嫌いらしく生きるには、こういう人間関係からみずからを解放しなければならない。他人に夢を託しても ならず、他人から夢を託されてもならない。この関係の重荷からだけでもすっかり解放されたら、人生はどんなに楽になることであろう。

子供は親に、妻は夫に「ああしてくれ、こうしてくれ」と過剰に期待するから、それがかなえられないと激しく憎むようになる。同じく、親は子供に、夫は妻に、よい子であるように、よい妻であるように過剰に期待をかけるから、失望するのである。


人間嫌いにとっての理想的人間関係とは、相手を支配することなく、相手から支配されることのない、相手に信頼や愛をおしつけることも、相手から信頼や愛をおしつけられることもない関係である。


そ のころから、自分のえげつないほどの実利的で世俗的な能力、すなわちさまざまな形で人々を組織する能力、権力者に近づく(遠ざからない)能力、自分のアカ デミニズムとジャーナリズムにおける「地位」を担保にして、人を支配する能力、あるいは人に好まれる能力・・・つまり自分の生き方の「賢さ」に嫌悪感を覚 えるようになってきたのだ。


人間嫌いをその中核で動かしている動力は自己愛である。なるべく自分の感受性と信念とに忠実に、すなわち普通の言葉を使えば、なるべくわがままに生きたい。他の人のわがままも許すから、こちらのわがままも許してもらいたい。

これが一番受け容れられないことだが、―人間の平等を認めないで、善良な市民の趣味に対してはひどく不寛容である。とくに、言葉遣い、身のこなし、着ている物に関して、私を侵害しなければ最低限いいとしても、(私の基準で)趣味の悪い人と一緒にいることは不快である。


家族主義的人間嫌いは、いまなおわが国の妻帯者の中に少なからず残存しているようである。彼は実存の深いところで妻に依存しているので、妻から切り離されて世間の寒空にひとりおっぽり出されたら生きていけない。


外部との間に厚い壁をめぐらせ、我が家のいかなるマイナス面も絶対に外部に漏らしてはならない、という子供たちに厳しく命じた。


こうした虚栄心だらけの家庭が厭でたまらなかったにもかかわらず、結婚して私は同じような家庭を築いた。


人間嫌いのルール

  1. なるべくひとりでいる訓練をする

  2. したくないことはなるべくしない。

  3. したいことは徹底的にする。

  4. 自分の信念にどこまでも忠実に生きる。

  5. 自分の感受性を大切にする。

  6. 心にもないことは語らない。

  7. いかに人が困窮していても(頼まれなければ)何もしない。

  8. 非人間嫌い(一般人)との「接触事故」を起こさない。

  9. 自分を「正しい」と思ってはならない。

  10. いつでも死ぬ準備をしている。



人間嫌いの分類学

  1. 動物愛好型

   弱い人間嫌い。人間は嘘を付くから嫌い。その点、動物は正直でいい、という思想を基本的によりどころにしている人。動物園勤務の人に多い。幼稚園、保育 園や小学校も。あるいは、童話作家。これは、「人間嫌い」というよりも「大人嫌い」。良寛、宮沢賢治、灰谷健次郎など。


  1. アルセスト型

   モリエールの古典『人間嫌い』の主人公アルセストのようなタイプ。人間の心の醜さやずるさに辟易して「人間はなぜもっと美しい心をもてないのだろう!」 と嘆くタイプ。自分は純粋だと思っている分だけ、自己批判精神が欠如している。精神的発育不良。太宰治などはこのタイプ。自殺する者も少なくない。


  1. 自己優位型

   アルセスト型は未熟な人間観に基づいているのに対して、このタイプはもう少し実質が伴っている。だからこそ、最もたちが悪いとも言える。人間嫌いのうち では、これが一番多いタイプ。世の中にいるバカな人や鈍感な人や趣味の悪い人などと、どうしてもうまくやっていけない。それは自分が優れているためであ り、彼らが自分の高みに至らないためである。だから、このすべては自分の責任ではない。自分は微塵も変えずにいていいのだ。自分には、愚鈍な輩を嫌う「権 利」があるのだ。典型的には三島由紀夫や芥川龍之介。少し自己反省を加えると夏目漱石。ほとんどの芸術家も、実はこう考えているようだ。


  1. モラリスト型

   人間の心の醜さに嘆き顔を背けるのではなく、それをあえて観察の対象にしようと決意した人間嫌い。人間の細部に至って観察し続け、その滑稽さ、卑小さを 炙り出し、「おもしろい」と呟き、どうにか人間に対する絶望から逃れるタイプ。パスカル、モンテーニュ。カントにニーチェ。


  1. ペシミスト型

人間や人生に対して深い恨みを持っているタイプ。所詮この世は生きるに値せず、人間は醜い、この世は闇だと言い続けることによって、かろうじて均衡を保っている。永井荷風。


  1. 逃走型

 芭蕉や山頭火のように、社会から逃れて放浪するタイプ。あるいは、西行や鴨長明のように、山に篭もるタイプ。サン・テグジュベリのように大空に「ひきこもる」者もいる。彼らは、一般的には人間を愛しているのだが、個々の人間は大嫌いだというコントラストのうちにある。


  1. 仙人型

  きわめて少ないが、世の中を達観した人間嫌いであり、おろかな俗物どもを「優しく見守る」人間嫌いだ。悟りに至った禅僧などはこの部類に入る。



8/29/2007

空手と気



空手と気(気の起源・思考の深さ)/宇城憲治

茶道の裏千家宗匠 千玄室氏との対談の折、次のようなことをお聞きしました。

「お寺に行って、日本人は仏像だけを見る人が多いですね。ところが外国の人はあくまでも、仏像は日本人の信仰の対象のものだと思うんですね。そうすると自 分たちが協会へ入っていくのと同じ気持ちを持たなきゃいかんということで、むしろ日本人よりも神聖な気持ちでお寺や神様を見に来ていますね。観てわからな くても、とにかく頭を下げていますしね、そこの雰囲気の中へ入ろうとする。これが非常に大事なことだと思うんですね。日本人は今、国際化、国際化と言って も外国のことばかりを見つめて、日本のことを見つめない国際化なんですよ。だからむしろ閉鎖社会だと思うんです。閉鎖社会の中で、ちょっとした知恵だけで 物事を解決しようとする、これは小細工なんですね。こういう小細工は駄目ですね。やっぱり外国人のように、ものの雰囲気に入ろうというオープンなハート、 そういうものを持たなければ、日本人の石頭はなかなか開けていけないんじゃないかなと思うね。

外国に行って、最近よく『どうして日本から来る人は、みんな日本のことを知らないんだ』と聞かれるんです。外国の人たちは、少なくとも自分たちの国の文化 を誇りをもって説明できるんですよね。ところが日本人はそれができなくなっている。これはやはり戦後の民主主義の間違った考え方がひとつ。それから教育の 根本的な問題、それから家庭の躾にあると思います。躾、マナー、エチケットというのは最低限、人間が心得ておかなければならない日常のひとつの”行事”で あると思うんですよ。人様に迷惑をかけない、いやな思いをさせない、それが根本だと思うんです。」

最近の日本は平和すぎてあらゆることにおいて頭脳優先になっています。頭脳は架空の世界でも生きられて嘘も言えますが、身体の世界は現実を直視するもので 嘘がありません。百度のお湯に手を入れた瞬間、熱いと思う間もなく手を即座に引っ込めるように、身体は正直です。百度だから熱いと頭に言い聞かせて手を 引っ込める人はいません。そんなことをしたら火傷という事実が残るだけです。このような事象はまさに自分の身体が勝手に教えてくれるもので、その結果、瞬 時に行動が出来るのです。

歴史の中の事実の裏にある真実、そして不変の真理を仮想ではなく現実としてとらえるには、絶対世界の中で身体を鍛え、心を磨き、心身の一致を目指すことが必要であると思ってます。そのような身体をつくる最高峰が伝統、文化、躾だと思います。

バイオリンの川畠成道さん

貯蓄するように練習を積み重ねていくのです。・・・・派手に聴かせるというよりも自分で自分の足下を一歩一歩作っていく、・・・(そうして)音楽というのは構築していくものだというところを徹底して教えていただきました。

何度も何度も挫折をしているから強くなっていくわけですし、人にも優しくなれるのではないでしょうか。そして、それが僕の音楽にも表れていくのではないかと思ってます。

頭脳優先の身体動作は単一的で、部分体となり、重心は浮き、身体の気はとまってしまいます。

一方、身体で考える、とらえる場合は居つきがなく統一体になっています。重心は沈み、身体には自然と気が流れます。これが現場主義、国民主体とする考え 方で、活力の根源はここにあると思っています。戦争反対を唱える多くの人が戦争体験者であるという真実を見てもわかるように、身体で経験した人は真実をと らえていて嘘がありません。

武道はまさに、個が生と死の場に臨む形で稽古するからこそ、平和な時代においても必要とされ、活かされるものとなります。武道が、ただ平和の世に安全に行 われるものであれば、その本質、原点は見失われ、武道ではなくなるということです。少なくとも生と死の場のような緊張のある場を想定して稽古することが大 事であると思います。

統一体となると、細胞が働きます。そこでいちばん大事なのは、身体の呼吸が止まっていないということです。統一体の、細胞による方法の最大の特徴は、身 体の呼吸が止まらないことにあります。ところが部分体の場合は、トレーニングの主体が筋力となるので、身体の呼吸が止まってしまいます。ほとんどの人は、 身体の呼吸が止まっているにもかかわらず、そのことを意識することはありません。それは、そういう考え、認識がないからです。統一体になることではじめ て、部分体がいかに身体の呼吸を止めるかがわかってきます。

統一体となり、細胞を主体とした動きとなることで、集中力が生まれ、身体で考えることができるようになります。ここからいわゆる身体に気が流れ始めます。頭で考え頭で命令を出す部分体という従来のトレーニング方法と比較すると、別次元の差、変化が出るのです。

「磁石」は磁力で鉄を引きつける。

「地球」は重力ですべてを引きつける。

「人間」は魅力で人を引きつける。

スポーツでは、優勝することが最大の目的になりがちですが、優勝の上にある、己に克つ世界こそ目指さなくてはならないところだと思います。単なる精神論ではなく、融和融合や気の世界、気が出るような自分に進歩成長していくことが重要ではないかと考えます。

「進歩、成長とは変化することであり、

変化とは深さを知ることである。

深さを知るとは謙虚になることである」

修行とは、

妥協もなく、嘘もなく、言い訳もなく、限りなく自分との闘いができる無心の世界。

それは限りなく深く、限りなく高いにもかかわらず、一度その世界に足を踏み入れると、

自分自身に大きなエネルギーを与えてくれます。それが「道」だと思います。

この「道」を歩み出すと、自分に正直になることができ、覚悟ができます。

それは、他を意識したり競争したりする相対の世界から、

自己を見つめる絶対の世界へ移行するからです。

裏切らない身体をつくる

相手に入っていく逃げないから身体は、逃げない心、すなわち裏切らない心の根源でもあります。

身体が逃げたら、心も逃げる。いくら言葉で良いことを言っても、いざとなると身体やそれに伴う心は裏切るんです。

しかし今言ったような稽古を積み重ねれば、裏切らなくなる。そういう人たちの輪を広げていくことが大事だと思います。

相手が入ってこれない迫力、オーラを出さなくてはなりません。

覚悟ができた身体からは気が出、気が通ったら怪我をしない。気が抜けている人は怪我をしやすい。また、欲がある人は、執着があり心身の居つきが起こり、瞬 発力の攻撃に対し後手となり関節技などではポキッといく。それは、力の攻撃に対しては強くても、瞬発力の攻撃に対しては脆く枯れ技と同じです。だから、 ちゃらちゃらした稽古はしてはならない。肝腰を据えて、突く時は真剣に突く。蹴る時は真剣に蹴る。刃物を持っているような真剣な気持ちをお互いが持って稽 古する。そうすると上達の度合いが違ってくる。そういう稽古をしていかなければならない。

ただ、投げるじゃ駄目、相手に入っていかないとけない。入っていけば、相手の心が読める。だから衝突が起きない。入っていく技、逃げない身体、その身体が裏切らない心につながるんです。

逃げる身体は心の裏切りにもつながります。だから、入る。「入る」には嘘がない。信じるかどうかというのは、結局は自分の問題です。入ることは自分にとっての最大の自信となります。

外面的に目立とうとする人は内面が弱い。ブランドで身を固めるのも同じです。人間が形骸化してしまった時、精神的な貧弱さが出てくる。身のまわりを眼に見える形で固めたら駄目。内面がしっかりしていれば、心は安定する。心で固めている人は強いんです。

相手に入っていく、それには前へ前へという心と技がなくてはなりません。逃げない身体という実践が先にあって裏切らない心は培われます。逃げない身体は思 いや心ではつくれません。伝統の型にある技と身体に気が流れ覚悟ができてはじめて、それは可能になります。最高の防御となる気は道場の稽古や試合だけでは つくれません。日常の心がけも大事です。

8/28/2007

宇城憲治師に学ぶ心技体の鍛え方



宇城憲治師に学ぶ心技体の鍛え方・小林信也



身体の中に「受信機」があればいい。

人の身体は「型」で変わる。「呼吸」で変わる。「意識」で変わる。

本質的な力が発揮されるのは、身体がひとつになったときだ。

「頭の命令」は次元が低い。基本は「身体で感じて、身体で動く」。

現状を打破する。

「できる自分」を体験させる。指導方法の革命が起きている。

頭脳は筋肉を動かす。身体脳は細胞を動かす。

口の呼吸や鼻の呼吸のほかに、「身体の呼吸」がある。

頭が知らなくても、身体が知っている。

頭が邪魔をする。身体は裏切らない。

武道の世界で一番恥ずかしいのは、すぐ、自分とか私を持ち出す人間だ。

信じていいのは、歴史に裏打ちされた基準。

科学とは、普遍性、客観性、再現性があること。

ライオンは筋トレをしない。敵を襲う前にストレッチをしない。

「姿勢と呼吸」が生み出す力は、筋力が生み出す力と次元が違う。

大切なのは、根本を学ぶこと。枝葉ばかり学んでも意味がない。

師の存在は自己流を戒め、個を伸ばしていく最大の導きだ。

勝ち負けだけを追うスポーツに何の意味があるのか?

高い山を目指す。

内面を感じられるようになると、見えない動きが見えてくる。

理屈を言うより、検証してみれば、正しいかどうかは、すぐわかる。

明るさに「気」が宿る。

生活の中にも「型」がある。いまの日本人はこれを失っている。

光の速さで考える。

頭脳より「身体脳」

0.2秒のトリガーを抑える。

一に目、二に姿勢、三に瞬発力。

生死をかけた「気」の威力。

内面のエンジンを回し続ける。身体のスイッチを切らない。

最近の日本人は「屈筋」しか使えない。「伸筋」を使う方法を知らない。

日本人はみな、「心が生み出す身体の力」を受け継いでいる。

呼吸力一生、伸び続ける。





絶対的な価値観とは、人格を磨くこと。

「ひらめき」のある人間になること。

身体で感じ、身体で行動する基本力を高めること。

人生の「まさか」に動じない、揺るぎない心技体を体得すること。

経済的基盤を持つこと。

喜怒哀楽、感動を源泉に生きること。

文武両道を生きること。




8/27/2007

武道の心で日常を生きる



武道の心で日常を生きる 宇城憲治




師を持つことは「文化を学ぶこと」でもあります。文化には歴史があります。長く伝わる文化は間違いのないものです。歴史を学べば、自分がいま何をすべきか教えてくれます。どう判断し、どう行動すべきか、答えはすでに過去の歴史がはっきりと示している場合が多々あります。

歴史を頭で勉強するのでなく、文化を通して身体で学ぶ。日本古来の伝統を、空手や剣道、合気道などの武道や、珠算(そろばん)、書道、茶道、華道、囲碁、将棋など日本の伝統に見られる文化で学ぶことは大切です。

中でも武道は理想的な文化だと思います。生か死かに直面した、真理があるからです。真理の追求は一番の土台になります。そこから骨組みができあがる。その土台と骨格から、全体がしっかりと見られるようになる。

勝ちに三つの勝ちあり

打ち込んで勝つは、下の勝ちなり
勝って打ち込むは、中の勝ちなり
戦わずして勝つは、上の勝ちなり

「武術を稽古していると理想が高くなる。一般的に理想が高くなると空想になってしまうが、武術をやっていると理想が本当の理想となり、それを実現しようとして努力するようになる。そういうエネルギーが沸いてくる」
これは座波先生の言葉です。


両足を軽く開いて立ち、、足裏全体で体重を支えます。そのとき、大事なことは、かかとを意識するということです。漠然と立っていた最初に比べて、足の裏に身体の重さを感じ、足裏で地面を踏みしめている感じが、だいぶわかってきたのではないでしょうか。


押されても、ふらふらしない。抵抗する力が強くなっている。後ろによりかかるのではなく、足の裏がしっかり地面とつながって、身体の芯から力が沸いている感覚があれば、統一体になった証拠です。


まだふらつく人は、頭であれこれ考えようとせず、まっすぐ前を見据えて、かかとに体重を乗せる意識でやってください。また、他の方法としては、左手の小指を少し曲げ、小指を意識するだけでも同じ安定が得られます。これでだいぶ変化を実感できたでしょうか。

できること、違いを感じることが大切です。かかとが上がっていても、かかとを意識することによって、安定が得られます。


打撃練習、投球練習の基本として、立ち方をしっかりすると同時に、こうした「相手の中に入る」[相手を捉える」稽古を普段から繰り返すことが、本当は重要なことだと思います。

8/26/2007

ポップス雑感




メロディの美しさ、ヴォーカルの優しさ、親しみやすいアレンジ、何か不思議な幸福感、癒される、シンプルだが音楽的洗練度は高い。


売れる事が目的ではないけれど、音楽の世界で発言を続けるには、結果を出さなければいけない。現役性が大事。

武道の力




武道の力 時津賢児



目は二つあるから遠近感がでて物の奥行きを捉えることができるが、目が一つしかなかったら物は立体的には見えない。
それと同じで、日本のことを立体的に捉えるためには、日本の外から日本を眺める目を持たなければならない。
言い換えると、日本の中だけに住んでいたら、日本の姿は立体的に捉えることはできない。
外から日本を見る第二の視点が必要なのだ。



だが、日本社会の延長のような海外生活をいくら長くしても、第二の目を得る持つことは難かしい。
その国の生活習慣の中にどっぷりと浸って、数々のカルチャー・ショックを通過することによって初めて第二の目を持つことができる。
そのためには頭が柔らかく感受性の高い若者のエネルギーが必要だ。
しかし、余り幼いうちに異国の生活にどっぷり浸ってしまうと、言葉は上手になるに違いないが、日本人としての自己の確立がなければ、日本人としての第一の目さえ持つことができない。
日本人としての自分があるから異質な文化と衝突してショックを受け、それによって自分を鍛えることができる。
そうした経験をするのは二〇代の前半が最も適していると私は思う。



日本に帰っていつも驚くのは、自分本位の見方の人が圧倒的に多く、なかなか物を相対的に見ようとはしないことだ。
世界の情勢を客観的に捉え、諸外国との関係を相対的に把握し、日本が置かれている状況を正確にキャッチできる目を養うことが、これからの日本の若者には必要なのだ。



原水爆をかかえた現代世界で、最も戦略的効果の高いのは平和状態をもたらすアクションである。
だがそれは、「平和、平和」と叫べば得られるものではなく、対立しあうさかざまな力関係を認識でき、それらのバランス状態に持っていく彗眼と意思力が必要だ。



武道は戦略と戦いの技術を基にしている。
武的発想でいえば、平和というのは、「相手のことをよく知り、同時に自分のこともよく知っているから、戦いはできない。」そういったバランス状態のことである。つまり、バランスが壊れると戦いはいつでも起こりうる、ということを前提としている。
残念ながら、人間にとって平和というのはユートピアではなく、対立する多数の力の均衡状態である。
こんな言い方は日本人には受けないかもしれないが、長い間、絶えず国境を守って生きてきたヨーロッパ人にとっては常識的な感覚である。
内と外の緊張関係をはらむ国境感覚はヨーロッパ人にとって常識であるが、それが日本人には欠落している。
カルチャー・ショックは相対的に物を見る目をつくるために格好な体験だと思う。







8/25/2007

君はいつでもはじめられる




君はいつでもはじめられる 片岡勝




第1章◎自分の人生なんだから好きにいこう


裸の自分で勝負するのは面白い
仕事は自己実現の道具
ビジネスで社会と向き合う
働くことが何よりも充足感を生む
ボヘミアンで世界を動き続ける
失敗しても成功しても実験は面白い
自由に生きる舞台は自分でつくる
尖り続けることがオンリーワンへの道
社会変革が僕のミッション



第2章◎個人が試される時代


変革を加速しないと格差はますます広がる
「総中産階級」時代の考え方では生き残れない
お金より情報に人は集まる
一流の人間は自分で仕事をつくる
自分で仕事をつくり出さないと職場は奪われる
動けることは選択肢の幅を広げる
スピードが勝敗を分ける
一人ひとりが決断を求められる時代
多様なニーズに対応する多様な人材が必要
小さな単位の変化が世界を変える
脇役が主役になる時代
世の中にはたくさんの競技場とルールがある



第3章◎他人との関わりの中で自分が見えてくる


社会との関わりの中で自分を見つめ直してみる
コミュニティが豊かになれば個人も豊かになっていく
国民総幸福(GNH)は次の時代の指標
自分だけよければいいという社会はコストがかさむ
「選択と集中」を可能にするもの
財は使ってこそ意味がある
シリコンバレーの危機感がどん底のアメリカを救った
現場にこそ答えがあり、知恵がある
依存しないで自らつくるということ
問題解決を実現していくと、エネルギーが循環しはじめる
今こそシェアする社会を実現する
ビジネスの原点は問題解決
社会には喜ばれる仕事がいくらでもある
ベンチャーは冒険なのだ



第4章◎自分の感性を大切にして生きる


全部自分でやる時代になる
やりたいことをやっていると時間密度は濃くなる
人は面白いことに動く。自分の感性にふれるものを求める
気になるなという気持ちを大切にする
困ったことに気づく感性を持つ
捨ててみるとスッキリする
今いるところから離れてみると違う世界が見えてくる
ギャップや格差がアイデアを生み出す
リアルな想像が“創造”への近道
次の時代の担い手は現場でもがいている人
人と人との関係の中に知恵がある
右脳をもっと活用する
イメージには面白いことが明確に現れる
左脳で考えすぎると動きが止まる
解決への糸口はイメージをつくること
準備が不十分と言う人は、だいたい死ぬまで準備をしている
動きが止まると競争力が失われる
決めてしまうことくらい楽なことはない
1回にすべてをかけるのではなく、しゃれでやる
反省と後悔はしない
ビジネスは経営者の生き方が商品
自分の中に元気をつくり出す「元気表」
小さなハードルを一つひとつ越えてみる
自分の言葉で話しはじめたらそれが自信
軸を持って振り向かずに行こう
マイ・ワールドをつくってしまった人ほど強いものはない
事業の継続にはABCの法則がある



第5章◎チームでやって自分も成長していく


勝手にやる会社がいい
悪い部分もオープンにしてつき合う
摩擦の中からエネルギーが生まれる
プータロー認定
仲良しグループでは組織ができない
仲間と動けばエネルギーが増幅される
一人の覚悟が人を動かす
判断の軸があいまいだとエネルギーが落ちる
問題を起こす人もまた大切
新しいことをはじめるには「よそ者、若者、バカ者」を活用する
外部の多様性が組織を成長させる
チェックではなく、互いに前へ進む関係を持つ
1以下累乗は限りなく0に近づいていく



第6章◎古いルールに縛られない


次の一歩を踏み出すチカラは特別なものではない
常識の延長線上には次の時代がない
“らしさ”に縛られていないか
リスクをとる人が新しいものをつくる
正解を求めない
軸のない人は批判ばかりが上手
成功よりも失敗をしない方向でものごとを決めてないか
命令をされなかったら、考える癖がついた
個人の気概からすべてがはじまる
創造的な仕事にまじめさは必要がない
まじめと真摯はまるで違う



第7章◎今を突き抜けていこう


自分から変わっていく
加速しないと出口は見えない
本気でやれば応援者は集まる
がんばらなくてもいい、面白がっていこう
身の丈でやれる実感を持つ
面白がる、スピードがある、ネットワークを持っていること
有限性に気づいたことがあるか
欲を捨てると将来が見える
つくり続けることは壊し続けること
いかに自由を獲得し続けるか
狂気を持って生きる



世の中には階段を上がる人と作る人がいる。この場合の階段は、既成の概念とでも言ったらいいだろうか。



すでに作られている階段を上ること――出世をする、お金を儲ける、権威を持つ等――だけが楽しいと思っている種類の人々がいる。



金でも学歴でもなく、タフでどこでも生きられて、素でいられる。やりたいことがやれるというのが、
かっこいいことなんだと、完全に考え方が変わった。こうして価値観が変わると、とたんに僕は元気になった。



気軽にはじめてみればいい。自分のゴールに向かって小さくても一歩踏み出せば、不安は解消してしまうし、
きっと自分への可能性が見えてくる。そうすれば、もう君の目の前には自由な階段が広がっているのと同じだ。
そこには面白いことがたくさん待ち受けているにちがいない。



お金を回そうと思ったら、勤勉に働くことを最初に考えない。まず時代が将来何を必要とするかを見極めることが大事なのだ。



死ぬまで尖り続ける。これは自由を確保する上でどうしても必要なことだ。
角が取れて丸くなってしまうと新しいことができなくなる。丸くなってみんなの意見なんて聞きはじめたら終わり。
闘争心がなくなるし、発信力もなくなる。人もリーダーと認めなくなる。
世間におもねて、金儲けを一番に考えるのもいけない。手の内が小さくなり、大きな実験ができないようになる。
新しいものを生まないうちに、潰されてしまう。
つまらない計算はしない。思ったことは何でもやる。違うと思ったら距離をとる。僕はそういうふうにした。
嫌なヤツともつき合わない。そんなのできっこないと思うかもしれないが、地球上には何十億と人がいるから、無理してつき合わなくても、
きっと気の合う人は世界のどこかに必ずいる。



とにかく金さえ儲かればいい、やりたいようにやるという幼稚な自己中心主義の人もいる。僕はそういうやり方は続かないと思う。
ビジネスは結局人との関わり合いなので、他人に配慮できない人はいずれ誰にも相手にされなくなってビジネスも回らなくなる。



自分だけでなく全体のことも見ることができる人が、社会に関わって自立していける人だろう。



これからの社会には、「面白い」の二極化現象が起きてくると思う。面白い人同士、既成の常識人は常識人としか集まらない。
お金のあるなしは、たいした差ではないかもしれない。



何が違うのかと言ったら、時間密度の差。時間密度の差は、自分らしさの象徴だと言えるだろう。自分が楽しいことでの密度が重要だ。
生きる意味と言い換えることができるかもしれない。



面白いことをやると人が動く。生産も消費もそれが動機づけになっている。そのためには自分が面白がらないとはじまらない。
これが本当にいいのか、面白いんだろうかと悩んでいるうちに面白いものもどんどん変わっていく。それでは面白さに乗り遅れる。
面白いことに直接乗っかっていこう。今の時代は変革期。やりたい放題やるヤツがチャンスをつかむのだ。



僕の場合、サラリーマンを辞めた後、最低限の生活を実験した。新聞、つき合い、車も全部捨てた。新聞を見ないから考える。車がないから歩く。
するといろいろなものが目につく。景色がまったく違った。小さな花が咲いている、風が吹いていることも気づかなかったサラリーマン時代の自分に気づいた。
気づかないというのはビジネスにとっては致命傷だ。
今のまま守っていても仕方ないと気づいている。でも、すべて捨てろと言われてもそうは生きられない。こういう人は、基本的に捨てるという意識がない。
キープし続けたいという人もいるけれど、キープするほどのものがあるんだろうか。余計なぜい肉を捨てる。古い考えを捨てる。物分りの悪いパートナーを捨てる。
まずは、いろいろ捨ててみることがスタートかもしれない。



A―飽きず、B―バカになって、C―コツコツやる。これがABCの法則。賃借対照表を読めなくても、財布にお金が残っていたらいいと思い込む。
自分の基準で生き残ればいい。



あの人と一緒に働きたい、あの人のミッション、ヴィジョンでやりたいと思わせるのが求心力である。
数の論理ではもはや何も動かせない。そのかわり誰か一人の魅力が人を動かす。高いミッションとパッション、そしてリスクをとる生き方が、その人に
求心力を生んでいく。お金だけでは人は動かないのだ。



1.つき合いの範囲が狭い
2.まじめだが真摯でない
3.コスト意識がない
4.専門性がない
5.スタッフが組織にしがみつこうとしている



自分を素にして生きてみると、あまり怖いものがなくなってくる。僕は素で生きるほど楽なことはなく、自由度も高いと思っている。
人はその場面場面でいろいろな“らしさ”に縛られていないだろうか。男らしく、女らしく、学生らしく、大人らしく、銀行員らしく・・・。
“らしさ”にはリスクが少ない。“らしさ”の枠に安住してしまい、序列に甘んじてしまうと、緊張感がなくなって、多角的に状況を把握できず、自分の判断ができなくなってしまう。



何かをやろうとする時、相手に合わせるいい子は問題なくものごとを進め、無事に終えて肩の荷が下りる。それに対して自分の生き方でぶつかっていく人は茨の道かもしれないが、自分のポリシーを貫いた達成感を得て自信へとつなげていける。



死ぬまでいかに自由を獲得し続けるか。
ビジネスが上手くいった時に自分が必要とされ、抜けられなくなる。自分が束縛され、嫌になる。これではいけない。そうならないために、今、僕は後継者をつくっている。自分がいなくなった時にも、きっとこの人がやってくるという人を育てている。



僕が「面白い」と思うのは、展開がある、可能性があるということだ。将来、時代を画するかもしれない出来事のことだ。
逆に、誰かが面白がったものを、あとからついてきて面白いなんて言う人間は、はっきり言って大嫌い。面白いことまで、人の真似をするのは創造性のカケラもない。面白いことこそ、その人個人が体験を享受すべきものだからだ。

8/24/2007

整体的生活術


整体的生活術 三枝誠


ただし、転地、転職、転婚で人生を変えろといっても、それは、コロコロと職を変えろといっているわけではありません。でも何かひとつ、少し無理をしてでも新しいものを手に入れたりすると、そこからガラガラガラッと人生が変わってくるんです。
それから服装を変えるだけでも人生は違ってきます。そこで大事なのは、ちょっと無理をすること。転機の時、品物はバーゲンで買わないことです。私は安売りという概念が嫌いです。

涙が出るほど無理をして、高くても良い物をエーイと思いきって買うと、そういうエーイと思いきって買った苦しさの部分には運が上がる秘訣があるものです。

ある人が偉大な能力を持っていた場合、それと一緒に大きな欠落部分も持っています。
才能というのは言葉を換えれば、欠落ですからね。でも、その欠落を補ってくれるものがあって、初めて物事は動きだします。欠落を埋めた瞬間、初めて市民権を持ち、超人的な力が発揮されてきます。

仮に、才能ということを言おうとするなら、才能がある人ほど、間主体を大切にしなければなりません。人は、どんな人間関係を結ぶかによって、あっけないくらいに変わるものです。

天与の才能というものが少しはあるとするなら、自分自身を潰すような場所からは立ち去って、自分自身を活かしてくれる場所に出向く能力のことだと思います。ですから、ちゃんと「ノー」が言えることも大切な才能のひとつです。

大事なことは、気のパイプを自分は誰とつなげるかということです。

やはり人はクリエイターとして、なにかを生み出さなければいけないと私は思っているんです。
クリエイターに条件があるとするなら、その一番の条件は、孤独を知っていることでしょうね。
孤独は悪いことではないし、悲しいことではない。

大切なのは、孤独、忍耐、そして笑顔。クリエイターは孤独、忍耐、笑顔、そして、マメでなければいけない。

さらには、丈夫であることも大事。自分が健康であって、初めてものを作ることができるし、人間として生きていけるものなのです。

色恋沙汰で自分が狂った時期がないと、わからないということはある。狂われるのも迷惑ですが、狂ったことのない人間には語れないということもあるわけです。

好きとか嫌いとかいう感情は、非常に主観的な感情でしょう。でも、この主観的な感情も、ある外部的な事件が起こったり、社会的な制裁を受けたりして地獄をみると、人間は主観的な感情から距離を置くという、客観視を覚えるようになってきます。

自分の外側にもう一人の自分がいるという意識を持って、その俯瞰的な客観視の能力で、つらくてもしばらく頑張ってみる。

そうすると、そのあとに何がくるかというと、前向きの諦観というか、明るい絶望感みたいなものが出てくるのです。

つらい出来事があって、とても苦しい気持ちを体験すると、最初はだだっ子のようだった主観性が、客観性に変わって、そのあとにちょっと弛むんです。

自分では天動説だと思いこんでいたものが、ある時、絶望や挫折を味わって地動説になり、もう一度天動説に戻る。自分のつらい体験でそれを知る。

私のいう「身体尺度」とはそういうことです。

手首を切って血を流したり、身体ごといろんなものを抜けた人間が主観を超えて、客観を覚えて、もう一度、自分を中心に考えるところまで戻ってくる。

ユーモアがわかるというのも、自分を客観視できる人間かどうかということでしょう。

逆に、絶望感というのも、知性や忍耐力がない人には味わうことができないものです。

人間には、“溜め”の時期というのもあって、悲嘆とか慟哭といった状態を味わうような、自分にとっての耐え難い出来事と出会ってしまう時期があるんです。

そのときに激しく混乱した感情、あるいは深い悲しみをぐーっと我慢していると少しずつ抜けてきて、何かが見えてくるというのはあるものなんです。

要するに平均値でものを考えないようにしているんです。

自分の考えていることが、たまたま大多数の人の意見と一致するならそれはそれでいい。

ただ平均的なことが、即、正常なことだという考え方は大変危険だと思ってる。

「平均的なものは、別に正常でも健康でもない!」

私は、感謝という感情は、センスの問題であって、努力の問題ではないと思っています。

たとえば男女が別れる時だって、相手に嫌われているならば修繕は可能。

だけど、愛の反対は憎しみや嫌悪じゃなくて無関心だし、別れの際にとにかく一番こわいのは、感謝の言葉です。

別れの際の女性に「ありがとう」と心底言われた日には、どういう修繕も男女関係にはできません。

感謝というのは、本当に過去になってしまったものに対して抱く感情ですからね。

その感謝を現役でつきあっている人間に強制するというのは、非常にむずかしいことなのです。

ですから、感謝ほど自然に出てこないと意味がないものもありません。

身体的に無理な状況で感謝の感情を持とうとすれば、やはり身体を壊します。モラルの強制は、身体を壊す。

モラルというものも強制ではなくて、自然に発生するものなんですから。

物事をはかる尺度も身体に置いておくほうが、圧倒的に正しい。

この身体尺度から離れれば離れるほど、人間は他人の痛みも他人との距離も何もわからなくなってしまいます。

簡単にいえば、身体尺度というのは、わからないことは身体に聞けということなんです。

迷ったら、身体が行きたがっているほうへ行けばいい。そういうことには、いつも敏感でいたほうがいいと思いますね。

家風、なんていうのも身体記憶の一種です。

単なる遺伝よりも、親の教えや家風のほうが影響力を持つ怖いものだと思います。

たとえば、結婚しようとする二人の仲が、家風が違うということで壊れたりすることがありますが、あれは、つまり身体記憶が違いすぎると上手くいかないといういことなんですね。

私が見た一級の人間の特徴は、自分を客観的に見る能力、現状をちゃんと分析できる能力を持っている人ということですね、自分自身を一歩離れたところに置いて、それでいてきちんと自分を愛している。

やはり、一級の人というのは自分の身体に対する意識が高い人です。

二級の人間というのは、優れた編集の能力、情報を取捨選択して再構築する能力を持っている人だと思います。

その編集能力は一級の人間も持っています。

自分でものを作り出すことも、編集する能力も両方持っているのが一級の人でしょうね。

三級の人間というのは、保身的な人です。

地方でちょっと有名な人とか、地方の道場で一番だとか、そういう人は一見したところ他人に対してとても威張っていても、実は非常に脆いということが多いですね。

四級の人達は、いわゆる善男善女です。

不愉快にはならない人たちだけど、いろんな状況に流されて生きている人達ですね。

五級というのは、権力に弱いくせに権力を振り回す人間。なんらかの権威に守られていて、その権威をカサに自分が威張る。

競争社会に身を置かずに、狭い世界でエラソーにしている人達です。

それから一級の人と三級の人との大きな違いは、一級の人には、恐怖心をモチベーションにしないという強さがあるということでしょうね。

生きていく動機づけが、恐怖心ではなくて好奇心なのです。

恐怖心をモチベーションにしない人は、いまや希少価値です。

“考えないで怒る”というのも、とても難しいけれども大切なことです。

なぜならば、頭で考えていると、怒るタイミングを逃してしまう。悪く思われるんじゃないかとか嫌われるんじゃないかとかいろいろ考えているうちに、“怒りの機”を逃してしまうのです。

怒り方がヘタな人は、人の上に立てません。

十歳までの記憶というのは、とても大きいんですね。

記憶というものは本当に身体に染みつきます。

住居の話をしていると、身体記憶の話になってくる。

身についたもの、つまり身体記憶を書き換えるということは身体を変えるということでもあるんです。

たとえば、金持ちには金持ちの身体というものがある。

それから初代の金持ちの身体と2代目の金持ちの身体というのもあるんです。

金を稼ぐ身体と金を管理する身体とは違う。

そうすると、金持ちの身体じゃないかぎり、金持ちになってはいけない、ということが言える。

なぜならば、身体と金は、当然つながっていますから、金持ちの身体を持っていない人がいきなり大金を持っても、使いこなせないから単に貯めこむだけか、あるいは無駄に使ってしまうだけということになります。

身体記憶を入れ替えるしかない。

親と違うことをするというのは大変なことですから、結果としては身体が変わってきます。

自分がこれから親とは違う生き方をしようと思ったら、まず、見た目も変わります。

体つきだけでなく、顔も変わる、歩き方も変わる。逆にいうと、小さなことから変化をつけることで生き方を変えることができます。

住まいもそういうものの延長にあります。ですから当然、身体記憶と住居というのは、とても深い関係があるわけです。

「足湯くん」