8/04/2007

2ちゃんねるはなぜ潰れないのか



2ちゃんねるはなぜ潰れないのか?/ひろゆき(西村博之)

フューチャリスト宣言より、共感した。以下、うーんと唸った箇所を。




「○○をしない」と堂々と言うことは「いつか自分は○○するよ」という意味だと、僕は考えています。「人を殴らない」と言う人は、いつか誰かを殴るから、その言葉を使うわけで、そもそも人を殴ることを想像していない人には、そんな言葉は思いつきません。

こうやってグーグルを見ていくと、決して優秀な技術力のある会社ではなく、優秀な企画力と営業力のある会社であることが見えてきてしまうのです。いろいろな方々が、グーグルがすごいとおっしゃっているようですが、僕には、企画・営業力とサーバーメインテナンス以外、スゴイ部分がわかりません。

グーグルやミクシィがWEB2.0企業と呼ばれているのをみると、WEB2.0の裏に隠されているものは、技術力ではなく、いかにクリーンなイメージを押し出すか、そして、いかにユーザーの心を惹きつけられるのか、ということなのかもしれません。

ライブドアは挑戦をしない会社へと変貌してしまいました。結果、今まで安い給料でも面白いことができるからとライブドアに所属していた優秀な人材が、面白いことすらできない状況になったことで外部に流出してしまった。

動画を観る行為自体は暇つぶしのネタです。2ちゃんねるのニュース速報を見ている人は、ニュース自体に興味があるわけではなく、何かちょっとでも自分が絡める話題があれば一言言いたい。ニコニコ動画は、その感情の動画版というだけなのです。

頑張れセカンドライフ
その理由の根幹にあるのが、基本的にお金がないと面白くないというシステムです。物を売買し、自分を着飾ったり、家を作り上げたりするゲームなので、何をするにせよお金を払えとしか言われない。お金を支払わないでできることはチャットくらいという、商行為がゲームの全てでないのです。ゲーム内で楽しむためにお金を支払えと言われて、支払う人がどのくらいいるのでしょうか?お金を支払ってまでセカンドライフの中で楽しまなくても、現実に楽しいことは、たくさんあります。
セカンドライフ内に知り合いが大量にいて、チャットをすれば面白いかもしれない、とも考えましたが、セカンドライフでは一つの空間(1SIM)にユーザーが約50人しか入れないという制限がある。これだけマスメディアがセカンドライフを報じているにもかかわらず、なぜか、この事実にあまり触れません。

日本だけではないのですが、このように法律が技術発展や利益の見えない足かせになっている事実は、確かに存在するのです。

8/03/2007

フューチャリスト宣言・梅田望夫&茂木健一郎



フューチャリスト宣言・梅田望夫&茂木健一郎

本屋に平積みになっていた春に読んで、以下の内容ピックアップ。

梅田さんは理想論者だね。でも、勉強になった。





インターネットの成り立ちのところに、利他性というかボランティア精神的なものがかかわっている。インターネットという素晴らしいものが毎日動いている裏には、いろんな人のただ働きがある、無償の奉仕をしている人がいる。

シリコンバレーのルーツは、フロンティア精神、テクノロジー志向、反権威、反中央、反体制、それからヒッピー文化、カウンター・カルチャーというか、そのへんの組み合わせですね。
日本にも反体制、ヒッピーっぽい人はいますが、その人たちは往々にして技術を持ってない。しかも、うらめしそうな視点(ルサンチマン)を世界に対してもっている。意欲でも権威の側に負けていることが多い。でもアメリカには全然違うタイプがいますよね。

要するに自分一人の能力がテクノロジーによって増幅されなければ、必ず権威に負けるわけですね。権威と闘う道具としてのテクノロジーということです。

コンサバティブなことを言うほうが最後は負けるだろう、そのくらい世の中が進歩することが経験的にわかっている。コンサバティブなことを言うほうが陳腐化するだろうなという、逆の常識がある。だから僕なんかも、たとえばブログやウィキペディアを見て、「wisdom of crowds/群集の叡智」だとか「総表現社会の到来」だとか言うのは、そういう逆の常識に導かれているんですね。

今の日本社会は、新しく生まれた大きな存在に対して、「気に入らない」と言っていると何とかなってくれるんじゃないかと思っている。もう後戻りできないほど強力な力が働いているのだから、そのことを前提にどうやっていくか、という議論を本当はしないといけない。
どんなものでも、新しく出てきたものは毒性が強い。

自分の肩書きに頼ってモノをいう奴は本当にダメで、肩書きはいらない。ブログが一個あれば良い。ネットでのプレゼンスをどれだけ高めていけるかという、その戦略というのは大事なんですね。

ネットは絶対に有料にしちゃいけないんです。無料にしてそれで広告が入るかといったら、先進国でまともな生活ができるほどは普通に入らない。一方、リアルというのは不自由だからこそ、お金を使って自由を求めます。だから永久にリアルの世界でお金が圧倒的に回る。この二つの世界での生計の立て方とか、それから知的満足のしかたとか、いろいろ組み合わせて戦略的に考えていく必要があります。

個人が組織に属しているという考えはもう古い。勤務規定とかがあるとして、人事の人たちの顔をつぶしてはいけないから、積極的に反逆することはしないほうがいい。でもそんなことで自分の行為をがんじがらめに縛ったら、これからのネット時代に輝けない。組織と個人の関係をうまくやらなければ日本は活性化しない。組織が大事だと言うならば、シリコンバレーとは違う、日本的な表現があっても良いのです。七割は会社なんだけど三割は個人、そんな考え方もアリだと僕は思っている。

談合社会の中に入って仲間になれという圧力が、日本社会のありとあらゆるところでとても強い。

「可能無限」という概念があります。もともと数学用語で、自然数を1,2、....と数えていった時に、どんな大きな数(n)を考えてみても、さらに大きな数(n+1)を、可能性としてどこまでも提示できるということ。可能無限は、「もう一つ増やす余地がある。」という意味での「空白」によって常に支えられている。他方、実無限(本当の無限)というものは、実際に我々が扱うことはできない。私たちは実無限を決して知りえないし、人生において手に入れることもできません。人間に与えられた時間には限りがある。にもかかわらず、若者が「また次の日がある」と思い続けられるのは、じつはそれは可能性としての無限に過ぎないにもかかわらず、実無限であるかのように感じることができるからです。ただ、そのことの効用は大きい。ネット上はまさに可能無限の宝庫で、それはリンクをどこまでもたどっていくことができるから、実無限は手に入れられないけれど、ネット上ではまさにフリーで、ドンドン歩みを進めることができる、可能無限が実現している。

警戒心を解くというのが、ネットで生きるための大切な知恵だと思います。僕はいろんな情報をネット上で公開していますが、そういうことができない人って、やはり警戒心がある。著作権フリーでおいておくと、悪用されてしまうんじゃないかと。でも、コミュニケーションを阻む最大のものは警戒心ですよね。あるいは、免疫作用というか。自分を守ろうとする気持ち。そういうものを取り払ってオープンにしていかないと。

世の中で求められているのは、創造性とコミュニケーションなんですよ。

僕のプロフェッショナルの定義は簡単です。お金をもらっていることじゃなんです。お金をもらっていても、仕事を楽しんでいなければプロじゃないんです。プロフェッショナルの定義というのは、自分のやっていることに快楽を感じる人。しかも、生物学的に単純な快感じゃつまらない。そうではなく、仕事とか勉強とかをいくらやぅっても飽きない人。

8/02/2007

笑いの感覚



笑いの感覚ほど、共有するのが困難なものはない。


笑いの感覚ほど、その人の判断基準になり得るものもまたない。


笑いの感覚は人それぞれであり、複雑でもある。

松山猛 Mr. Freedom










松山猛 Mr. Freedom


自分のスタイルを持つことがいかに大切かを、忘れたまま大人になることは、生活の楽しみの一つを、自ら放棄することになる。



大人になってスーツを着て生活するのには慣れる人は多いが、それは学生時代の学生服の延長のようなものだ。
型にはまっている安心感とでも言えばよいのか。
だから普段着に何を着ればいいかが分からない大人が増えた。
団塊の世代ももうすぐ定年の時代を迎える。
スーツを脱ぎ去った後、彼らは途方にくれるのだろうか。



それは「足る、を知る」精神であり、同じ時代を、励ましあいながら生きる、仲間の力の大切さだった。いざとなったら友を助ける努力をしよう。
そう21世紀は「趣味と友情」の世紀でありたいと切に思う。一人勝ちするだけなら、友は去っていくばかり。
孤独であっても有り余る豊かさを取るか、そこ、そこの生活でも、にぎやかな人間模様を取るかの、いまは分岐点なのかもしれない。


8/01/2007

谷口雅春

生長の家創始者谷口雅春の本を読んで。ブックオフで100円で購入。良い事書いてあったの以下に。


最も永続性のある宝
人間の最も滅びがたき永続性ある宝は「徳」である。金銭は徳なくして多く得れば必ずその人を破滅に導くのである。
快楽は徳なくして多く得れば、その人の魂を荒廃に導くのである。
美貌は徳なくしてこれを得ればその人を堕落に導くのである。
金銭は徳なくしてこれを使えば、浪費せられて間もなく貧しさが訪れる。
快楽は徳なくして貪れば忽ち苦渋と変わる。
美貌は時とともに老い朽ちてあとを留めなくなるのである。しかし徳は、これらすべての物を生かすのである。
金銭は徳ある者これを使えば必ず人を救うのである。
快楽は徳あるものこれを得れば人生に興趣を添えるのである。
美貌が徳ある者に備わるとき愈々高く気高くなってその人に接するだけでも人々の魂を高めるのである。

「徳」が身に備わるためには
徳は位置にして備わらない。徳は良き行為の累積がついにその人の人格より発する光輝となったところのものである。
毎日人様の便所を掃除するとか、廊下の拭き掃除や、掃き掃除をするとか、貧しき人を援けてやるとか、人々の垢を流す風呂を沸かすとかして、人々に好感を与えるように、人々に便利を与えるように人々を何らかの形で救ってあげるとかすることによって、その人に何となき温かい風手が備わるようになってくる。
内にたくわえられた「徳」が外に光を放つようになった時、その人の容貌は、生まれつきの骨格がどうであろうと何とも言えない、麗しい、優しい、親しい、そして威厳のある感じをもつようになるのである。美貌というものは「愛によって変貌した容貌である」と或る人が言った通りである。

何用あって月世界へ



何用あって月世界へ  山本夏彦名言集





八百長は必ずしも悪事ではない。この世はもっと本式の悪事に満ちたところである。それを知って悪に染まないのと、知らないで染まないのとでは相違する。
いうまでもなく、知っててそれをしないのがモラルである。
私はすべて巨大なものえらそうなものなら疑う。
疑わしいところがなければ巨大になれる道理がないからである。大デパート、大会社、大新聞社は図体が大きい。よいことばかりして、あんなに大きくなれるはずがない。
総評や日教組は組織が大きい。
もっとも大きいのは世論で、これを疑うのは現代のタブーである。
だから私は疑う。
世論に従うのを当然とする俗論を読むと、私はしばしば逆上する。

善良というものは、たまらぬものだ。危険なものだ。殺せといえば、殺すものだ。

全き善人と芸術家とは、ふつう両立しない。
私は各人に個性があることを前提とした教育は、間違いではないかと疑っている。
人は個性ある存在ではない。人は大ぜいに従うもので、従ってはじめて安心するものである。
従えと言って、断じて従わぬ個性はまれである。万一あれば大ぜいは、世間は、社会はそれを爪はじきする。
すなわち、爪はじきされて、はじめて個性は頭角をあらわす。ちやほやされて育つ個性なんて、今も昔もないに決まってる。
(才能というものは)のぼり坂が三年、のぼりつめて三年、くだり坂が三年、〆て十年続けば良いほうである。
「愛する」という言葉を平気で口に出して言えるのは鈍感だからだ。
愛するが日本語になるには、まだ百年や二百年はかかる。
大きな声では言えないが、私の袖の下またワイロに近いものは必要だと思っている。世間の潤滑油だと思っている。
人は潔白であることを余儀なくされると意地悪になる。また正義感になる。
汚職は国を滅ぼさないが、正義は国を滅ぼす。

同類は何百人集まっても一人である。

金は魔物というが労せずし舞いこむ金はことに魔物で、人の子を毒すだけである。まずこれを減らすまいとして臆病になる。
利息だけで暮らそうとしてケチになる、人が来ると借りに着たのではないかと疑うようになる。
「年寄りのバカほどバカなものはない」ということわざ、大好きです。






7/31/2007

実践冥想ヨガ・生活編


実践冥想ヨガ・生活編/沖正弘

自分が本当の意味で自由自在にいきていてこそ、相手も自由自在に生かすことができるのです。こちらがとらわれると相手もとらわれ、こちらが嫌うと相手も嫌ってしまう。このように自分も生き、相手も生きる世界が悟りの世界です。無になるための修行法が禅であるのです。

人間的霊能者とは、感謝心、懺悔心、下坐心、奉仕心を持ち、愛の心で愛の生活が出来る人のことです。愛とは一番正しく物事を把握し、一番正しく物事を実行することですが、この基本が感謝、懺悔、下坐、奉仕の心なのです。このためには体を柔らげること、心は安らげること、生活は楽しむことが必要なのです。ヨガの肉体的訓練はすべて体を柔らげるものであり、この原則が笑いです。そして、体全体を笑わせるものが呼吸法なのです。心を柔らげるには喜びを感じる必要があり、喜びを感じるには感謝心がなければならないのですが、おかげを感じないと感謝心は出てきません。楽しみは相手に喜びを与えたときに自分の手にすることができるものです。自分だけ喜んでも本当の楽しみは与えられません。仕事においても、仕事が喜んでくださるような仕方をしたときに、こちらも楽しくなれるのです。

本当の儲けとは、自分の儲けと相手の儲けと社会の儲けとがピタリと一致した場合をいいます。自分だけの儲けでは偏りがあります。自分と相手と社会の儲けを併せると大きな儲けになります。

引けば引かれ、いじめればいじめられ、泣かせば泣かされる。困らせれば困らされる、騙せば騙される。これが自然の法則です。私は、日々の生活と仕事は、どれだけ自分の全力を投球できるかを見るためにあるのであり、このすべてへの全力投球の生き方が自己にノルマをかけることであり、この自己にノルマをかけた仕事の仕方をするとき、はじめてその仕事が自分の仕事になるのであると思っています。

才能は喜びを感じる刺激を与えた時に伸び、良い人間にもなりえます。体が喜べば健康になり、心が喜べば幸福になるのです。ですから、どうしたら喜べるか、どうしたら喜ばすことができるかを意識的に考えるのです。喜びを感じない生き方をしていると疲れてしまいます。疲れないための原則は、心、体、仕事に対して柔軟性を持つことです。出来るだけ広く学ぶと人生が面白く、愉快で楽しくてたまらなくなり、よいアイディアも浮かんできます。

教育とは、自分が犠牲になる覚悟でするものです。相手を裁きたかったら、先ず自分から裁くのです。

私たちは何を学ぶにも、先ず自己流の考えを無にして正しい型に入り、その型の中で正しい方法を体得するのが自己の開発法であり、ものを正しくなすコツに至る道であると思います。これを「心眼を開く(開眼)」というのです。体の働きを正しくし、心を鎮めて、永遠の安らかさ(ニルヴァーナ)の中で、自然に出てきた感じを音に表すのが音楽家であり、色にするのが画家であり、文章にするのが文筆家で、事業にするのが事業家ではないでしょうか。心の成熟は「次第に」ですから、何事も年期を入れなくてはならないと思います。あせらず、しかし怠らずにです。表現は心身の練磨と、心身の環境の調和によってなされるものですから、自分がどういう状態であるかということが決定点です。

一切の煩悩から離脱して、身構え正しく、一物に心を込めて、無心にことをなすのが真実(コツ)に至る道ではないでしょうか。すなわち冥想行法の実践です。
その意味で、日本の生花や茶道や武道の発生、その発達によって教えられることの多いことを感じます。これらの、心を静め、心を清める芸道は、生死の真っ只中に立たされている武士たちによってつくられたものです。
私は華道とか茶道とかは美の宗教であり、武道やスポーツは道の宗教であり、日本文化の特徴は求道を中心にしているところにあると思います。求道を目的としている武道やスポーツは、勝負がその目的ではなく、心の修養がその第一目的となっていて、修行を通じて大自然の法則を体得して、その真理に沿った生き方の工夫をする自己完成の道です。静的な求道でも動的な求道でも、その原則は心を統一し、安定した姿勢をとり、丹田力を充実させ、意識を明確にしうる呼吸で行うことです。とくに動的訓練は、千変万化の動作をして、しかも乱れない心と安定した体をつくるのがその目的です。

人間は文化生活と称する不自然な生き方をしていますから、このアンバランスな生活の中でバランスを回復し、維持する能力を身につけない限り喜びは与えられません。自然法則とは「絶え間なく変化しながら、しかも安定性を保っている」働きです。アンバランスをバランス化してしまうことが救われる原理なのです。

今時分が困っているのは、誰が悪いのでもなく、今までほかを困らせてきたことの証明書なのです。自分を支配している法則と、社会を支配している法則は共通の法則です。生活の上で悪いことは心身の上でも悪く、仕事の上でも悪いのです。人間として成功する者は、そのまま生活で成功し、仕事で成功し、社会で成功することができます。自分が自分に成功することは、自分を大切にすることです。宗教的な言葉で「自分を拝むことが出来る者がはじめて他を拝むことが出来、自分を愛することの出来る者が、はじめて他を愛することが出来、自分を大切にすることが出来る者が、はじめて他を大切にすることが出来るのです。そして、自分を活かすことの出来る者がはじめて他を活かすことが出来、自分を管理できる者が、はじめて他を管理出来る」と教えています(自業自得の原理)。

筋肉を柔らげるためには心の力を抜くことが肝要で、このコツが呼吸を深く静かにすることです。頭にカッとくるようではダメです。いかなるときも冷静さを保っていることが心の修養であり、その秘訣が宗教心を身につけることです。そしてその第一歩が意識的に有難いと思うこと、依頼心を捨てることです。依頼心を持っている限り、そこには憎しみ、不平、不満が生じてきます。一切のことを自分でやるのだと思えば不平、不満をいう相手はなくなるはずです。心の平安を保つには「乞食根性」と「ヤクザ根性」を持ってはいけません。他に依頼心を持つことは、乞食根性を持っていることです。恩を売るのをヤクザ根性といいます。恩はただひたすらにかんじるべきものであって売るものではありません。無条件の善事がまことの善事であり、このまことの善事なら、業を残さないから、自然的に無執着心になれるのです。

頭を軽くし筋肉の力を抜くコツは呼吸をととのえることです。胸を張って肩を下げて、わきの下の力を抜いて下さい。感情をコントロールするのは胸であり、欲望をコントロールするのは腰であり、思考をコントロールするのは首であります。

冥想行法は、自己流の考え方や囚われた考え方から離れる修行ですから、どのようなことにも、引っかかったりしないことが肝要で、悟ろうと求めたり、奇蹟や神助を祈ったり、治りたいと願ったり、真理とは何かなどと、求めても考えてもいけないのです。ただ無条件に行うのです。すなわち生じるままに生じさせ、滅するままに滅しさせるおまかせの心になるのです。見性、見神による信仰心が最高のおまかせの心であり、この心は安定していて静寂ですから、明鏡止水の状態とか、超えた心とかと形容し、何も求めていないかのような状態なので、無心というべきものです。

私は自由に求道したい心から、生涯何にも属さず、できる限り多くのことを体験するという生き方を続けて、約五十種のちがった職種の体験を持っています。商売とは、お客様に喜んでもらい、ほかの売り上げも伸ばしてあげるという、商道にまで引き上げてこそ価値があるのです。

安易な道を選ぶのは商売をする者のとるべき道ではありません。売れない商品を仕入れると、売るためには、どうしても全力投球しなければなりません。あらゆる知恵を総合しなければならないのです。自然に、あらゆる方法を研究し、知恵を高めていくことができるのです。

科学がそのまま哲学であり、哲学がそのまま科学であり、医学がそのまま宗教であり、宗教がそのまま医学であり、心理学がそのまま体育学であるというようになったとき、はじめて人間育成の学ということができると思います。それはこれらの学が人間とその生活に直結するものだからです。心の注意力と体の注意力が最高の状態で協力結合して、ある一つの目的物へ全力を集約傾注できるようになったときが統一状態で、このことを繰り返して行っているうちに相手のことがそのまま自分のことのように分かるようになったら、これが自他一如の境地です。この自他一如になったときが合掌礼拝の境地であり、相手のことがそのまま自分のこととして考えられ、感じれるようになったときが、本当の意味の和合(三昧)であり、ここに真の平和と自由の世界が生まれるのです。

「生命力を弱めている者ほど、心身の働きの失調者ほど、外的条件を多く要求するのである」

直感、直覚を働かせる秘訣は、何に対しても同じことです。それは、好きになることです。関心を持つことです。愛の心をそそぐことです。発見、発明はこの心から生まれるものです。仕事が好きになれば、仕事の方が感じ方、読み取り方、やり方を教えてくれるようになります。これが三昧です。

7/30/2007

ヨガの喜び

ヨガの喜び・沖正弘


活用能力とは、敵を味方にする力のことだ。あれはだめ、悪い、害だ、などの否定的な言葉を言う前に、相手をどうしたら救えるか、高められるかを考えるべきだ。
相手が敵だと思っている間は、こちらはおどおどしていなければならない。そんな否定的で消極的な気持ちでいるうちは、心は安定していないし、強い心を持っているとは言えない。
相手に何度背かれても、最後まで愛することだ。自分が腹を立てたら、自分の負けになる。
活用能力のことを、「愛」という。
嫌いな友達とも付き合い、病気にかかっても感謝する。そしてその友達を好きになる方法、病気を活かす方法を考える。これは「祈る」ということでもある。
例え嫌でも、とにかくやろうとするところから強い心、しなやかな心は生まれる。

現代人のように、考える力ばかり練習していると、感じる力は衰え、生活は間違ったものになるのだ。
でも、この考える力は、人間はどんなに進化しても、生命があるかぎりその基本として働きつづけている。いま見えなくとも、ただうずもれているだけだ。「第六感」、「虫の知らせ」、「嫌な予感」というのがそうだ。

瞑想方法は、感じ方、考え方を正し、高めるために行う。その行法では、まず無心になることを説くが、その前段階が一心になること(ダラーナ)である。
一心とは、たったひとつのことだけに、心を集中することである。見る時には見ることにだけ徹する。聞くこと、歩くこと、考えることも、徹すれば、感じる力が協力してくれるようになる。一心をつづけていると無心になるのである。
心が分裂していては、感じる力は働かない。だから、困った時ほど騒がず黙っている。心を静かにしていれば、どうしたらよいか自然にわかってくる。

いまの教育は、知性開発の訓練ばかりしていて、感じ方開発の訓練をおろそかにしている。芸術科目だけは感じる能力の訓練になるはずなのだが、その 時間はごく少ないし、型にはめる練習法しかやっていない。絵を描くときも、お手本のようにきれいに描くことだけが念頭にある。これでは何にもならない。
ほんとうは、自分がどう感じたかそのままを、色や形で表現したものが絵である。
踊りや音楽も同じだ。うれしさや悲しさを、無心になってそのとおりに体や音で表現するのが芸術のはずだ。
無心になってのものごとをじょうずに行うコツは、遊びにあるかもしれない。

金があると思うから心配したり、不安になったり、疑ったりして少しも落ち着かない。心が執着してやまいものから、しばらく心を意識的につきはなし、 自己の心身のありようを客観的に見つめてゆく。あっても、ない。あるいは、なくても、ある。自分をいつも反対の状態、極限の状態に置いて、意識的に練習を つづけてゆく。

壁にぶつかったら、心を集中して何度でも、挑戦する。そして、もう打つ手がなく、力を出し尽くして、心を無にしたときに、壁の向こうが見えはじめる。
だから、自分がとことん打ち込める何かを発見することは大切なことだ。努力しつくさないと本当に信ずることは出来ない。考えに考えないと、その考えの渦から抜け出すことはできない。

「おまえにこの人間をあずけるから、その問題の解決に手を貸してあげなさい。それがおまえのためでもあるのだ。この人間が救われなかったら、おまえも救われないよ。」

7/29/2007

天才をプロデュース?



天才をプロデュース?/森昌行






私が考えるプロデューサーとは、まずファイナンスの責任を負う人間であることです。つまりプロデューサーとは、ビジネス・サイドとクリエイティブ・サイドのブリッジであるべきだと考えていて、その両方に対する責任から絶対に逃れられない立場の人のことを言うのです。責任があるから権利もあると言うことであって、「内容は監督がやることだから」と任せてしまうような人は本来のプロデューサーではないはずです。

ローカル・コンテンツこそ海外に通用する
本物のローカル・コンテンツでない、まがい物のインターナショナル・コンテンツが、この国のショービジネスにはあまりにもたくさんあるということです。よく「これが音楽的に世界の最先端」とか、「ロンドン録音」などを売り文句にしているけれど、実際聴いてみるとそれはあくまで外国の音楽のコピーしているようなものに過ぎなくて、国際競争力とは無縁のものだったりします。しかもそれを分かっていて確信犯的にそんなキャッチコピーを付けているだけならまだしも、本気で「これが世界だ!」なんて勘違いをしているケースも見受けられます。ナントカもどきは所詮、下品なまがい物に過ぎません。まあ、当人が幸せならそれもいいまもしれませんが。

行動の理由を明確にしよう
要するに記者会見というのは、私たちにしてみれば自分たちのためにメディアを利用する場であって、メディアに野ヅラの状態をさらす場ではないんです。




7/28/2007

ひと、死に出あう



ひと、死に出あう・週刊朝日










横尾忠則
この直感は肉体的な作用でもある。精神は常に変化し流動しているが、肉体感覚は「私自身」に忠実であろうとする。この「私自身」がぼくにとっては霊魂である。「私自身」は考えや理性から生じたものではなく、肉体と魂が結ばれて生じる「真の私」ということである。この状態がぼくに霊魂の存在を教えてくれるのだ。












邱永漢
私は自分が死ぬ時が現役を退く日と心得ているので、仕事がなくなる前に次の仕事をつくる永年の習慣を生かして、いまも忙しく世界中をとびまわっている。
中国では49歳とか、59歳とか、69歳とか、大台がかわる前の年が厄年である。











天本英世
「情熱の国スペイン」と言われるが、スペインは喪服と死の国である。その情熱は死への情熱なのだ。強烈な死があるから、生もまた強烈なのだ。今の日本では強烈な生もないのは当然であろう。


坂田誠
裁判を笑い、人生をも笑う。そのしたたかな笑いは、泣きわめくより、相手を恐がらせただろう。生には笑いがともなうが、死には笑いは似合わない。葬式の冷厳さがその象徴である。
笑いを失った時、人は自殺を考える。笑いを失わない人間は死をも笑う。笑っているうちは人間は死なないのである。
笑いが失われたところには死がある。日本の中で、もっとも笑いのないところは会社であり、そこに過労死なるものがある。


怒らないこと―役立つ初期仏教法話



怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉・アルボムッレ スマナサーラ





「怒ると不幸になる」怒っていると、気持ち悪いですね。退屈な時、気持ちいいですか?最低な気分でしょう。心に怒りがあると、人間は不幸なのです。逆にウキウキしているとき、心はどうですか?明るくて軽くて、すごく気持ちがいいでしょう。それを我々は幸福と読んだりするのです。


また愛情は、創造したり、何かをつくったり、育てたりする肯定的なエネルギーですが、怒りは、拒否したり、捨てたり、壊したりする否定的なエネルギーです。そして、その怒りはどこから生まれるかというと、自分のからだのなかです。ですから、怒りは自分を壊し始めるのです。



怒る人は負け犬です。知性のかけらもありません。たんなる怒りで動く肉の塊です。逆に、自分の心に芽生えた怒りを瞬時に察知して、怒らないでいられたら、素晴らしいことが起きます。「この問題をどうすべきか」と智慧が働いて、相手の怒りにも勝てるのです。


7/27/2007

AOR=Adult Oriented Rock


AORとは?

AOR=Adult Oriented Rock。お馴染みの図式である。
しかし"AOR"という表記で作品群をイメージするのは、それこそ日本の音楽ファンだけだ。米国でAORといえばAlbum Orientedの略であり、"R"はRockとRadioの双方を意味する。
つまりシングル・ヒットを指向せず、アルバムをトータルに聴かせようとするロック、あるいはそれをオンエアするFM局、そんな言葉だった。
日本でいうAORはAC(アダルト・コンテンポラリー)と呼ばれ、ここにはフュージョン系のインストゥルメンタルや、クワイエット・ストーム系のブラック・ミュージックも含まれる。
しかしアルバム・オリエンテッドという捉え方は、あながち的外れではない。
それは全盛期のAORには、生活を彩るBGMとしての効用があったからで、アルバム1枚丸ごと楽しめるというのも重要なファクターだったのだ。
最近は1曲良ければOKという傾向が見受けられるが、これには断じてノーと言いたい。AORと呼ばせるには、トータライズされたテイストが必要なのだ。
スタイルを楽しむだけでなく、同時に感情や精神性を共有するための音楽なのである。

当時のカウンター・カルチャー
ベテラン勢による原点回帰的な試みから始まったアンプラグド
今にして思えば、確かに"クリスタル・ブーム"は女性リスナーを獲得し、AORをポピュラーにした。しかしファッション化させてしまう両刃の剣でもあった。だがその根底を支えていたのは、レコード店でメンバーを確認して"クレジット買い"するような、純粋な音楽ファンだったと思う。サラッと聴き流しても雰囲気を楽しめる。それでいて、アレンジやコード進行を分析しても、感心するほど奥が深い。それが当時のAORだった。
部屋でくつろぐ時、ハンドルを握る時、アウトドアに興じる時、恋人と愛を語る時・・・・・・。いつもかたわらでAORが鳴っている。それが自然な時代だった。
タイアップという暴力的な情報操作でプロモーションを展開する昨今と違い、良い音楽は口コミで広がってゆく・・・・・・そんな幸せな時代だった。
あの頃の高揚した空気感が、どれだけAORを輝かせていたか。またAORが自分たちの生活にどれだけ潤いを与えてくれたか。その一体感の素晴らしさを実感し、次世代に語り継ぐことができるのは、リアルタイム派だけなのだ。


「○○は・・・・?」

圧倒的な歌唱力を持つスーパー・シンガーにして、"ミュージシャンズ・ミュージシャン"と賞賛される凄腕サウンド・クリエイター
素性は純朴で優しいオッサンという感じ
余計なことを考えずにボサッと聴くには、とても気持ちの良いアルバム
日々の暮らしに疲れ、自分を見失いそうになった時、こんなにも優しい音があるのを思い出してほしい
彼は気負うことなく、自然体で音を創った
ポップ・ミュージックに、もっと大人っぽいサウンド、つまりジャズやソウル・ミュージックのエッセンスを加えてみたら・・・
"大人のゆとり"を感じるヴォーカルのセンス
ナイーヴかつピュアな心情
その芳醇なテイストと深いコクには、丹念に磨かれた技術とスピリットが息づいていた
安らぎの時間を演出してくれる
温かい包容力を持たせた
情感豊かに仕上げた傑作
人生の光と影をくっきり映し出す。時と運命に翻弄され、ひとときの悦楽にもありつけない。そんな男の哀愁と孤独を感じさせる、隠れた名盤だ
遅れてきたビートニク
サウンドはスペース感を生かしたフュージョン寄りのハイブリッドなもので、リズムは滑るようにしなやか。ちょっと投げやりなヴォーカルも、独特の雰囲気を放っている
筋金入りの極上品
私小説的に詩(うた)を普遍的で大衆にも通用する"歌"へと消化させた彼
骨太かつ臨場感のあるサウンドが打ち出された

この作品もほとんどがミディアム~スローで、郷愁を呼ぶようなノスタルジックな旋律が特徴。酸いも甘いも知った大人が、まだ青臭かった昔を振り返るようなアルバム
バード・バカラックにも通じる美しいメロディを紡ぎ出す名ソングライター
トロピカルなリラクゼィション・サウンド
ヒューマンなヴォーカルとまろやかなアコギの響き
どうしてこんなに優しいんだろう、どうしてこんなに穏やかなんだろう・・・・・・。
このアルバムを耳にするたび、そんなことを思う
纏ったファッションはその時々で変わっても、中身の人間まで変わってしまうワケじゃない―彼はきっとそう言いたいに違いない
音楽はスタイルじゃない。肝心なのは人間なのだと
これぞ"エヴァー・グリーン・ミュージック"と呼ぶにふさわしいサウンドだ。
若葉が急に萌え出して、街に活気が甦る頃・・・・・・。
あるいは風の色がゆるやかに褪めてゆく夏の終わり・・・・・・。
音楽が決して流行やスタイルではないことを教えてくれる、そんな素敵な"なごみ"の1枚である
しっとりした旋律に、フェミニンな詞。恋に悩み、愛に傷つき、それでもまた誰かを求めずにはいられない。そんな男のひとり言を綴った、悲しくホロ苦い詩(うた)の数々。思春期の頃ならば、誰だってそんな想いをしたことがあるだろう
常にマイペースを貫き通して活動している。まったく飾り気のないシンプルな作風は、コンサバティヴとも言える。しかしその素朴な味は、もはや彼の個性として確立するのではないだろうか

キャスティングは相変わらず豪華でも、プレイは実にストイック
無理をして音を重ねずに充分な空間を残している。だからストリングスやブラス、アコギがとてもヴィヴィッドに伝わってくるのだ。それが彼自身が失わずにいる青臭さと相まって、独特の味にもなっている。
ぬくもりのあるメロディとハーモニーが素晴らしい
妙な先入観や既成概念に捕らわれず、音楽のありのままを受け入れる
トロピカル風味とレイド・バックしたムードを品良くまとめてみせた
商業主義の業界と距離を置いた?彼は、シンプルでシャープな音作りを試みたり、ジャズに接近しながら、今も自分の音楽家としての欲求を満たすような創作活動を続けている
商業化/大衆化を内包しているのが普通だ。なのに彼は実に恣意的で、純粋に音楽的洗練のプロセスが聞こえてくる。本人の才能もさることながら、恵まれた環境が良質の音を生んだ絶好のサンプルだ

7/26/2007

橋本治



橋本治

私が意外と好きな人。結構この人の著作はチェックしてるな。


近代は「現在」だけで、「過去」を認めたがらない。

どうしてかというと、その「過去」において近代は、「自分の頭でものを考えない、考えられない」という状態にいたからである。

そんな屈辱的な過去を思い出したくない。

-近代がそう思うのは、現在の自分が、「自分の頭でものを考える」を可能にしているからである。と同時に、その「現在」の向こうの「過去」には、「ものを考えられない自分に代わってものを考える他人」がいたからである。

会社への忠誠心だけが高い無能な社員ばかり抱えて、それを基本にして会社の規模拡大を図ったらどういうこうになるか?

「上司は思いつきでものを言う・橋本治」より

利潤を得れば、会社は大きくなります。会社の目的は「利潤を得ること」で、「大きくなくこと」ではありません。
真面目な仕事人間はただ働き、チャラチャラしていられるやつはただチャラチャラしている。現代の国会答弁で、大臣は官僚の調べて書いて来た原稿を、そのまま読み上げます。その「実務は事務方まかせで、えらいやつは好き勝手している」は、昔からなんです。

日本で能力主義が根付かず、年功序列制がそのままになっている理由は、「徳=能力」と解されていいものがそうならず、「徳=特別=なんだか分からない」になっていまうのです。
「やせた現場」をコツコツでも歩き回って、「どうすればこの現場をもう少し豊かに出来るのか?」を考えるのが、日本のやることです。

さよなら、さよならハリウッド








「さよなら、さよならハリウッド」ウディー・アレンの映画は良いね。
http://www.waveweb.co.jp/interview_detail.php?num=411

映画のタイトルをお題に、岡本吏郎さんというカリスマ経営コンサルタント?みたいな人が私と全く同感のことを言っていたので、以下に記します。

自らは「ハリウッド エンディング」をやらなくては大衆の支持は得られない。
自らの仕事に対する「こだわり」は重要。こだわりがないと仕事なんてできない。
しかし、こだわりすぎると誰も相手にしてくれない。
しかし、ブルース・スプリングスティーンのような「こだわりの評価」を得ていたミュージシャンが突然大成功
を納めてしまうこともある。
当然、ウディー・アレンも過去にオスカーを取っている。

「ハリウッド エンディング」という非独創。
「こだわり」という独創。

しかし、大衆が支持するのは「ハリウッド エンディング」。
「こだわり」は滅多に見向きはされない。

ところが、「ハリウッド エンディング」のほとんどは時代と共に陳腐化する。
同時に、多くの「こだわり」も討ち死にする。

7/25/2007

ぼくの人生案内/田村隆


ぼくの人生案内/田村隆一

酒はその土地の文化の結晶。イギリスは大麦、フランスは葡萄、ドイツはじゃがいも、日本は稲。酒別に世界の文化地図が できる。その土地の作物と水、太陽、湿度、温度、そういうものの結晶がお酒なんだ。酒の研究は、文化の研究。酒を愛するってことは、その国の文化を愛す るってことだ。

つつましく、今の自分に見合ったものの中で生活することが贅沢だということを忘れちゃいけないよ。シンプルライフでこそ、精神的な贅沢を味わえる。そして、単純化された生活ほど快適なものはない。

人間は元来、旅をする生きものなんだよ。生まれてから死ぬまでの、長いようでいて短い旅。人間の生涯は旅することなんだ。

旅というのは、未知なものとの交流であって、人、小動物、野草、海の色の変化、つまり、旅することは、肉眼を養うことなんだ。

スポーツマンシップの基本は自然に対する敬意を失わずに、肉体と知性で自然と遊ぶということ。

「舌は三代」と言ってね、味覚というものは、おじいさんの代から受け継がれているもんなんだ。つまり、ぼくたちの舌には100年の歳月がかかっているんだ。

7/24/2007

演歌の達人



『演歌の達人』佐藤稟一

ひばりの8テーゼ
1.音を我がものにする技が電光石火で正確
2.音域の幅がぶ厚く広い
3.声の表情が豊か
4.一音一音に多彩な音色を揺らめかせる
5.リズムのとらえ方が変幻自在
6.詩の言葉をだいじにし発音が美しい
7.詩の心をとらえる感性が豊か
8.音律に歌心が美しく溶ける

7/23/2007

土井利忠さん


土井 利忠さんって知ってるかな?ソニーの発明家。上層部の人?。天外伺郎というペンネームで面白本たくさん書いてる。瞑想とか、その手のことが中心なのでオカルトみたいに言われているけど、私は結構好きな人で尊敬してるんだな、これが。その土井さんが日経新聞のインタビューに答えたのを以下に。2005年の5月中旬(具体的な日忘れました、すみません)の記事から。



「米国の大学の礼賛論には全く賛成できません。米国の大学は、教授がベンチャー企業の経営者のようになって研究資金を集めなければならない。カネを集められる教授が研究者をたくさん抱えてどんどんのし上がっていく仕組みです。本来の研究とは関係のない競争が展開されているわけです」


「とにかくすさまじい勢いで競争をさせるので、他の研究者の成果を盗んでしまうという話もよく聞きます。油断もすきもない世界です」


――米国で盛んな産学連携を日本の大学はお手本にしようとしています。
「そうしたモデルを日本に持ち込むことには反対です。大学の本来の使命は、すぐには商売にはならないが、本当に先端的な研究をきちんとやることです。企業から研究資金を得られるのは、企業が考えている少しだけ先のことをやっているにすぎなないからです。大学が企業の出先のようになってしまうのでは世も末だという気がします」


――日本の大学は今のままでいいということですか。
「改善すべき点はあります。研究者としての能力がない人物でも、教授としてやっていける仕組みになっているのは由々しきことです。前時代的な親分子分の関係が残っており、研究に何も貢献していない教授が論文に名前だけ連ねたりする。能力を欠く教授には退場願う。だからといって米国式の競争モデルを無批判に取り入れるのは能がない」


「すでにベンチャーなどの企業活動では米国モデルの問題点が露呈していると考えます。
若くして巨万の富を築く起業家がもてはやされました。私は商売柄そうした人々をたくさんみてきましたが、後で消息を聞くと、うつ病になって苦しんだりしている人が多いのです。」


「自我の発達で、常に戦っていないと安定しないレベルを後期自我といいます。このレベルの人は戦う対象がなくなると燃え尽き症候群のようになるのが特徴です。米国に多いパターンです。日本の社会は、まだ依存心の残っている中期自我の人も多いのですが、逆にもう戦わなくても精神が安定している成熟した自我の比率も高く、全体としては米国の社会より進んでいると考えています。したがって、その遅れている米国のやり方を理想郷のように考えて追随するのはやめにした方がいいと思います」

放送禁止歌


森 達也というテレビマン?が書いた、そのものズバリ「放送禁止歌」という本を読んだ。メディアと音楽業界に身を置く人は読むべきだな。
















放送禁止歌(1971年)

作詞 白井道夫
作曲・歌 山平和彦

世界平和 支離滅裂
人命尊重 有名無実
定年退職 茫然自失
職業軍人 時節到来
皇室批判 人畜無害
被害妄想 言論統制
七転八倒 人生流転
七転八起 厚顔無恥
放送禁止 自主規制
奇妙奇天烈 摩訶不思議

衆院参院 百鬼夜行
失言放言 珍粉漢粉
農薬公約 有害無益
贈賄収賄 不言実行
脱税小者 戦々恐々
汚職大者 天下泰平
七転八倒 人生流転
七転八起 厚顔無恥
放送禁止 一目瞭然
奇妙奇天烈 摩訶不思議

男女同権 親父格下
女房横暴 貧乏辛抱
売春禁止 欲求不満
痴漢続出 不満充満
猥褻行為 興味津々
赤線復活 乞御期待
七転八倒 人生流転
七転八起 厚顔無恥
放送禁止 先刻承知
奇妙奇天烈 摩訶不思議


7/22/2007

野口体操


野口体操HP・・http://www.noguchi-taisou.jp/main.html

そんでもって、私が以前読んだ野口先生の本(タイトル忘れた)に赤線引いて、「うーーーん」と納得したものをば。

野口語録1
1 今まで出来なかった難しいと思われるうごきに向かいあったとき、緊張努力を増すことで、解決しようとする姿勢が多く見られるが、それは大きな間違いである。

2 そのうごきが最もよく出来たとき、最も楽で気持ちがいいというあり方を見つけたい。

3 楽であるということは、決して消極的な概念ではなく、ゆとりある積極的なあり方である。


野口語録2
1 一番をきそうのではなく、よりよいもの(こと)を求める。

2 目的とか効果とか価値は、もともと本質的に感覚と同じく主観的なものであり、最後の審判は自分自身による判決である。

3 からだを前に屈げたり後ろに反ったりするには、筋肉の緊張によるという考えを捨てること。基本的には筋肉を緩めて(解緊)することによって、ぶら下がり、そのことによって結果として前に曲がったり、後ろに反ったりという形になる(弛ませ曲線)。

4 目的効果をあえて言わない理由は、目的や効果や予測は、意識化・言語化をしなくても関係のなかから結果として生まれてくるからである。

5 意識は脳のはたらきの一部であることを常に念頭におかなければならない。意識のはたらきを含む脳全体のはたらきで、筋肉に情報を伝えるのかもしれないが、脳以外の神経組織(細胞)すべてがかかわってはたらくのが事実であろうと、私は考えている。

7/21/2007

ユダヤ人ならこう考える


ユダヤ人ならこう考える! by鳥賀陽正弘(うがや・まさひろ)
PHP新書です。ユダヤ本が巷に溢れているが、これは英語の勉強?にもなるし、すぐ読めて良い本だよ。サブタイトルの「お金と人生に成功する格言」で釣られるね。欲深な私の深層心理に訴えかける。



「明日のことは、神に任せよ」
“Let God worry about tomorrow.”

「人はトラブルを背負うために生まれた」
“Man was born for trouble.”

「腹が減ったら歌え、悲しかったら笑え」
“When you are hungry,sing,when you are hurt,laugh.”

「われわれは、みんな不運で愚かなのだ」
“We are all schlemiels.”

シュレミール(schlemiel)「ダメ男」「生まれつきツキのない男」
「シュレミールとは、風呂に入って、自分の顔を洗うのを忘れた男だ」。
全くのバカではありませんが、ちょっと間が抜けている、愛すべき人間なのです。


「お金がすべてを、良くするのではなく、むしろお金がないことのほうが、すべてを悪くする」
“It's not that money makes everything good, it's that no money makes everything bad.”

「お金が人生のすべてでないと言う連中に限って、いつまでたってもお金が貯まらない」
“When someone says life is not for the sake of money,he will never earn money.”

「貧乏になると、最初に顔に表れる」
“Poverty shows first on your face.”

「お金を稼ぐより、節約することのほうが難しい」
“It is easier to make money than to keep it.”

「しゃべりすぎると、戯言になる」
“If you talk too much,you talk nonsense.”

「よく旅をする人は、知識が豊富だ」
“A person who travels knows a great deal.”

あなたは顕在意識型か、潜在意識型か










最近読んだ本(タイトル忘れた)。

【あなたは顕在意識型か、潜在意識型か】
<顕在意識型の特徴>


・左脳で計算、設計し、理論的で自分でやるという意欲が強い。ワンマンになりやすい。


・一貫性があり、時として人に譲らないことがある。妥協性が少なく、融通のきかない時もある。


・自分の目や耳で確かめないと納得しない。


・権利と義務を型にはめたがる。


・意志は強いが、折れると案外もろいところがある。


・目がきつくなりやすい。


・縦線のつながりばかりを考え、横のつながりが少なくなりやすい。


・独善的、独裁的になりやすい。


・人の意見をうち消すか、反発しやすい。


・「恕」の心が少なく、世間が狭くなりがちで敵を作りやすい。晩年はあまりいいとは言えない。


・科学的でないと、あるいは立証できないと納得できない。


・織田信長型が多い。


・病気であれば、悪いところばかり考え、その原因、関連性を考えることが少ない。


・取引根性が強く、一プラス一は二でないと納得しないタイプ。例えば、一個百円のリンゴを千円分買うと十個であって、おまけで十一個の時もあるとか、大きいリンゴが入っていて九個の時もあるという意識が少ない。


・世の中は全て実力であって、バックアップや、縁の下の力、陰の力、あるいは何かに守られているということに気がつかないことが多い。


・足を組んだ時、右足を上にし、上を向いて寝た時に左足を右足首の上に乗せる癖がある。ただし、肝臓、左腎臓が悪い時、弱っている時や右膝や左足首の悪い時、弱っている時にも、この姿勢をとることがある。


・歩く時にいきなり歩くので、意識が前だけにきており、後ろは留守になっている。したがって、足の力が抜けにくく、柔軟性がない。このような人は、背中を伸ばしても胸骨と肋骨の上部が上がらないため、品物を持つような時には手首に力が入る。これを私は「我」と呼んでいる。「我」とは、現在意識のことである。


・階段の上がり下りは、右足からしている。


・自分の身体と心、また自分と相手との中和を考えないで物事を判断し行動している。





<潜在意識型の特徴>


・左脳の働きを右脳に反映させ、音楽、絵画、美術などの感受性や、剣道、合気道、柔道などの武術、哲学や宗教的分野の素質を持っている。


・左脳と右脳で構成される脳の新皮質の下部に位置する、本能的な脳である古皮質の働きを活かしている。


・謙譲の心を持ち、融通性を備えている。


・権利と義務の基本は守りつつ、義務を先行する精神を持っている。


・心の柔軟性を持ち、自分にはより厳しい。


・目は平常やさしいが、潜在意識の働いた時には険しい。


・取引根性は少なく、誰かに助けられているという意識が強い。


・徳川家康型が多い。


・生かされ生きていると思う。


・物事の関連性を広く持ち、縦の考え方だけでなく、横のつながりを考えた言動をしている。


・民主的で、周りの人の意志に対応して行動する。


・創造性を持ち、何か判らない事柄があると「なぜだろう」という疑問を抱き、探求する心を持っている。


・「損して得取れ」「雨降って地固まる」の精神。進むためには退くことの大切さも知っている。


・人のよいところを見る傾向があり、感謝の気持ちが多い。・足を組んだ時、左足を右膝の上に置くことが多く、上を向いて寝た時には右足を左足首の上に乗せる癖がある。ただし、胃、右腎臓が悪い時、弱っている時、左膝や右足首が弱っている時にも、この姿勢をとることがある。・階段の上がり下りは、左足からする。

貧しさ










貧しさ

他人に思いやりが持てないのは貧しさゆえ。

上昇志向が強いのも貧しさゆえ(そういう点では、ハングリー精神がときに限定された領域での、いわゆる成功に必要とされるのはもっともなこと)。

他人と同じことをしたがるのも貧しさゆえ。

ここでいう貧しさとは、経済的な貧しさではない。


役者 その世界/永六輔


役者 その世界/永六輔

「丸山定夫・役者の一生」より、
彼のいい所と悪い所。
無学。利己的。不勉強。学問を尊敬し憧れている。怠惰。本を割合に買う。但し読まぬ。
スポーツに憧れる。しつっこく粘り強い。臆病。涙もろい。偽善者。但し心は優しいのだ。
酒飲み。誰にでも惚れる。浪費。生活の無設計。一言にして言えば良い事が解る癖に実行出来ない人間。

吉本隆明
芸人のもっている反体制思想などは、なんの意味も無い。というよりも、むしろ芸人は体制の幇間、腰ぎんちゃくとしてのみ芸としての本質を保つことが出来る存在である。

花田清輝
資本主義における理想的な商品はことごとく安物の模造品でなければいけません。

佐倉繁
芸能人よ、思い上がれ。思い上がることによって、通常、人が触れえぬ人生の深奥をさぐるべし。

高石友也
否応なしにプロになったんです。趣味で歌っている余裕はないんだ。歌おうと思ったら、それで稼がなきゃならない。

7/20/2007

稲増龍夫先生に納得


稲増先生って知ってるかい?ここでは説明は省くけど、この先生の見識に納得しました。エンターテインメントビジネスの末席を汚す者として勉強になります。


稲増龍夫先生(法政大学社会学部教授)、
http://www.inamasu.com/professor.html

かつての「若者」は、よくも悪くも、「大人」と対立・葛藤する一つの世代として存在しましたが、今は個人主義が進み、みんな、ばらばらで、一つの世代というくくりでは語れず、「若者」は「大人」に無関心で、自分とは無関係と考えています。

これは縦型社会の崩壊に大きな原因があります。

昔は、豊かさを求めるという点では、みんなに共通の目標がありましたが、今は、それも実現し、そんなに頑張らなくても何とか生きていく道はあり、フリーターでもいいやなどと、生き方が多様化しています。

生き方が多様化し、個性を重視するから、「若者」は他者との比較や競争を嫌います。
それが若者から覇気を奪っている一つの要因です。また、かつては、傷心している他者にはかかわり、いたわることが優しさでしたが、それが干渉しないことが優しさだと変化し、自分も他者からの干渉を嫌うようになります。

全部が自分基準ですから、縦型社会の権威も、「若者」には関係がありません。そのため、今の「若者」は、もはや活字離れどころではなく、縦型社会の権威の一つだったマスメディアからも離れ、テレビすらあまり見ず、携帯電話やメールなど、パーソナルメディアを中心にした横のつながりで情報は伝わります。

また、昔は、若さには、未熟だとか、世間知らずだとか、青二才というマイナスイメージがあり、多くの若者は、早く一人前の「大人」になりたがったものでした。今は逆に、若さは柔軟だとか、何にでも挑戦できるというプラスイメージとなり、「若者」は、若いがゆえに持つその特権を、社会に出た瞬間、失うのではないかと怖がって、「大人」になりたがらないのです。

豊かさを実現した今、「若者」に、かわりに何を目標として与えられるか。
今はリストラや何かと「大人」社会の暗い面ばかりを伝えていませんか。
職業を通して自己実現ができるんだということを、「大人」がもっと言わないといけません。

まじめなこと


以前、メモ帳に書いたセンテンスを写します。

知識や学歴は、金銭的に評価されるための手段としての側面を強めてきました。逆言すれば、金にならなければ、知識には意味がない。

官僚や政治家が賄賂を受け取るのは、欲に目が眩んでの行為だと思われていますが、実はそれだけではないように、私は感じています。
彼らは自分のしている仕事が重要であり、大切であることの証明として、多額の金が自分のところに渡らされるのを望んでいる、という気持ちがあるのではないでしょうか。

ちなみに、子供からはなれて自分が社会参加(復帰)したいという母親の対極にあるのが、子供と密着して、その子を「いい子・優等生」に育て上げることにすべての情熱を傾ける母親です。
しかし両者は実は同じものですね。というのは、前者は自分が積極的に社会から評価されたいと思っているのに対して、後者は子供を「いい子・優等生」に育てることで自分が母親として優秀であると社会的に評価されたいと望んでいるにすぎないからです。
このどちらにも「子供自身のため」という視点が欠落しています。そしてそれだけではなくて、親自身の視点さえもなくて、ただ世間からどう見えるのかというおびえだけがある、という状況に陥っています。

彼らは家に閉じこもっているのがいやだったり、家事から逃げたいのでしょうか。
本人はそう思っているかもしれませんが、実はもっと深い理由があるような気がしてなりません。実はみんな、自分自身とほんとうに向き合うのが嫌だから、それから逃げるために働きに出たがっているのではないでしょうか。
子供と向き合うということは、ごまかしようもなく自分自身を見つめ直すということです。

だから逆言すると、自分らしく生きている人間は、たとえその生き様が不器用でも、正直で真剣に生きているのであれば、子供はそのことを見て取るのです。太宰のケースのように。

だから子供には、誠心誠意、率直に接したいと思います。
それは子供と友達のように接することではないし、子供に自分の期待をぶつけることでもありません。
親が真剣に自分本位の行き方を模索することが、親自身、幸福になるための第一歩であり、そんな親の姿を見せてやれたなら、子供のために何よりの贈り物となるでしょう。

自分に出来ることを精一杯やる。
虚しく思われても、滑稽に見えても、他人が評価してくれなくても、子供のために種を蒔き、子供の心に種を蒔くのが、親というものです。

7/19/2007

21世紀の国富論/原 丈人


21世紀の国富論/原 丈人

アメリカは多民族国家で、人種、国籍、年齢、性別を問わずに、多くの異なる文化的な背景を持つ人々が一緒に働いています。文化が違えば同じ言葉でも意味が違うので、何がいいのかを言葉で説明しても、相手にその真意が伝わないことも少なくありません。言葉は、文化そのものなのです。相手に判断を定性分析的なものから定量分析的なものに変えていくために、さまざまな数字(指標)が採用されました。

グーグルのような企業は、たしかに現在はもてはやされています。しかし、グーグルも次の時代をつくる技術をもっているわけではありません。広告以外の事業モデルがあまりにもないので、企業としての寿命は短いかもしれません。

これから21世紀型の新しいタイプの産業を生み出していく上でも、形のある「物的工業製品」から形のない「知的工業製品」への移行という非常に大きな転換があることを理解する必要があります。この大きなうねりのなかで今、「知的工業製品」を基盤とした新たな戦略が必要とされているからです。

私は、この計算機能を中心にした考え方から相互コミュニケーションの機能を中心とした発想に変えていこうとする潮流が、今後、新たな産業を興すだろうと考えています。

最先端技術の開発は、ただお金が多くあれば成功する、というものではありません。むしろ、無駄なお金を与えずに目標を設定し、クリアしたところで使える資金を増やすという手法が有効です。お金で済ませるという安易な発想に開発チームを導くことなく、制限をかけながら着地点に向かわせていく手綱さばきが重要なのです。

①果たして技術が本当に動くのかどうかという「テクノロジーリスク」
②開発後、実際に製品が市場で受け入れられるかどうかという「マーケットリスク」
①は学術理論からプロトタイプをつくり、試作品をつくるまでの段階。②はサンプルをもって購入してくれる顧客を探してセールスを行う段階です。

現代のベンチャー企業は、ビジョンが資本と出会ったときに生まれます。つまり、新しい技術やアイディアをもった創業経営者と、これを理解して資金を出すベンチャーキャピタリストという二者によってつくられるのです。次世代の技術開発は、アイディアが財務の軸とつながって初めて可能になります。それはいわば、車の両輪であり、どちらが欠けてもいけないものです。

「役職機関説」においては、会長、社長、副社長といった肩書きは、必ずしも上下関係を意味するものではありません。副社長が部長より、社長が副社長より偉いといった硬直的な考え方に縛られず、それぞれの適性に応じて役職を振り分けているにすぎない。適材適所の発想によって、結果として組織全体の効率が向上すればよい、と割り切るのです。これがアメリカのベンチャー育成がもつ特質であり、会社の成長を最適化する上でも重要な要素となります。

「知的工業製品」で求められるのは、より根本的な発想の転換を促すようなインベンション(発明)、そしてディスカバリー(発見)です。ソフトウェアや通信技術、バイオテクノロジーのような産業で不可欠なクリエイティビティは、むしろ、画家や音楽家といった独創性に富んだ芸術家の創造性に似ているのです。

まったく新しい「知的工業製品」を生み出すためには、研究開発などに大きな資本を投下し、長期にわたりコミットする必要があります。研究開発は、すぐに結果が出るような性格のもにではないからです。

中小企業が何か新しいことをやるとするなら、新しい事業形態をつくるべきです。たとえば分社化して、そこに資本を集め、リスクをとって新しい商品をつくっていく。それが出来ない中小企業は、いわば資産のもち腐れであり、発展の余地がないことが、現在の金融システムのなかではますます明白になってきました。

仕事を通じて生きがいを作り、その結果として個人も金銭的な富や社会的充実感を得る。その実現のために会社があります。しかし今、アメリカでは株価を上げる経営者であれば何でもよいという時代になっています。このような手段と目的の取り違えは、人々を不幸にするに違いありません。

PUC(パーベイシブ・ユビキタス・コミュニケーション:pervasive ubiquitous communication)
つまり使っていることを感じさせず(パーベイシブ)、どこにでも偏在し(ユビキタス)利用できるコミュニケーション機能です。
PUC時代においてはマイクロソフトのような独占状態は起こりえません。マーケットはより細分化が進み、それぞれ小さなマーケットでスタンダードを握る企業がたくさん存在するという状況になるはずです。ひとつのソフトウェアでせいぜい10億から150億円といった、小さいけれども面白いマーケットがこれからの中小企業とって活躍の場になっていくでしょう。このようにハードウェアの得意な大企業と中小企業が両方ともに存在し、棲み分けが可能であるという点でも、日本は有利です

7/18/2007


旅に関するいろんな考察として・・・。

放浪とは、勇気を持っていわゆる安定した日常を手放すことだ。今は時期がふさわしくないからと旅の機会を先延ばしにすることなく、自分を取り巻く状況を自分でコントロールして、人生における受身の状態に終止符を打つことだ。



放浪の旅の賢者、エド・バーリン

「人生はゲームだ、と気持ちを切り替えることによってーつまりこの場合は放浪のたびをその内部に組み込んだゲームとうことになるわけだけれどー時間こそが唯一の所有物となり、その時間の中では誰もが平等に豊かな存在であることを知るようになる。もちろん生活していくためのお金は必要だが、充実した人生を送るのに必要なのは時間なのだ。だから、必要最低限の暮らしを確保するのに或る程度のお金は節約して貯めておくにもしても、時間だけは気前良く贅沢に使い、火がともってこそのろうそくであるように人生の価値を自ら創造していくことが大切である。オーケー?」



ピコ・アイヤー『なぜ旅に出るのか』

旅の間は、ある種の禁欲生活を送ることになる。放浪中はたいてい質素になり、もてるだけの荷物を持って、偶然の出会いに身を任せる。これこそ、カミュが「旅行に価値を与えているのは、恐怖心である」と語ったことを意味している。言い換えれば、周りの状況や我々が身を隠しているあらゆる習慣との断絶(あるいは開放)である。



釈迦の教えにもある。「利口な人は、何が起ころうと歩き続ける。彼らは無駄口をきかず、良い時も悪い時もいつも同じである」



「美しければすべてよし」



「とかくこの世はダメとムダ」

洗脳力・苫米地英人


「洗脳力・苫米地英人」はあまり気違いだ。すごいよ、この先生。

「我欲を満たすこと=夢を叶えること=幸せになること」という、これまたレベルの低い論理に脳全体が侵され、思考停止に陥っているとしか思えません。



大人になってから無意識に下す判断の8割から9割が親の物真似である。



「自己実現」とか「なりたい自分になる」なんていうのが、他人から見るといかにみっともないか。早く気付くべきです。



イメージのなかの仮想現実こそが私たちが認識している世界である以上、この仮想現実を揺るがすことで現実世界を揺るがすことができるのです。



残念なことに地球上では多くの人が戦争に明け暮れ、戦争をし、差別をし、自分の欲のためだけに行動しています。しかも、自分のことだけ考えている多くの人が、じつは他人に洗脳され、操られています。「自己実現」とか「成功」とか、当たりの良い言葉に酔いしれて、喜んで奴隷に成り下がり、安全なところでぬくぬくと命令だけしている連中にために嬉々として戦場の最前線に身を置いているのです。
それは、「我欲=煩悩が強すぎる」からです。我欲に自分自身が縛られていて、そこから抜け出せず、本来は自分がコントロールしなければいけないはずの我欲に、すっかりコントロールされてしまっているからです。
逆に言うと、我欲をコントロールできれば、もっとレベルの高い夢を持つことが出来、それを実現することが出来るわけです。



私たちは「止観」をして抽象度を上げる思考をすることで、すでに悟っているのと同じことになり、抽象度の高い夢を抱いて突き進むことで、大いなる夢を実現しているのと同じなのです。
「止観」とは、瞑想でもあります。心の動きを止めて自分自身を見つめる作業、これは即ち瞑想です。煩悩を止めていろいろな宇宙を瞑想で体験する。自分とは、自分と自分以外のすべての関係のゲシュタルトですから、自分を見つめるというのは、宇宙を見つめることでもあります。これが「止観」の基本です。


では、瞑想とは何か。
瞑想とは端的に言えば、「抽象度の高い空間を五感を使ってリアルに感じること」を言います。抽象度の高い空間ですから、この世の出来事によって惑わされるような雑念はここにはありません。「今日のご飯は何を食べようか」「次のボーナスはいくらもらえるのか」といった思考は雑念です。
ですが、瞑想はこの世の雑念よりも高い抽象空間をリアルに体感して、そこに生活してしまうことです。


人間は抽象度の高い思考をリアルに感じることで大いなる快感を得ることができます。それは人間の脳がそれを可能にする構造をもっているからです。



仮想世界をリアルに感じることで楽しさ、気持ちよさを体感するということの一例です。こうした思考練習を日頃からしておくと、抽象度の高い思考が楽にできるようになるのです。しかも、リアルに体感できるようになれば、この思考がどんどんと快感につながっていきますから、楽しくて仕方がなくなっていきます。



大きな夢とは抽象度の高い夢です。夢の抽象度を高めていくと、自然に自分という殻から離れていきます。だからこそ、多くの人にできるだけ大きな夢をもってほしいのです。自分やその周りしか幸せになれないちっぽけな夢、生命維持や子孫を残すことなどの本能的欲求を人間としてのIQで乗り越えて、大きな夢を抱いてください。


大きな夢をもった人たちが世の中をデザインし、みんなの夢がひとつになったとき、そこには本当にみんなが幸せになれる世界が生まれていることでしょう。

7/17/2007

新しいアイデアは?


本当に新しいアイデアというものは非常に少ない。ほとんどの場合、それはすでに存在しているアイデア同士の創造的組み合わせである。

●車というアイデア+鋼鉄の発明+蒸気機関の発明=鉄道
●手紙+ワープロ+モデム=Eメール
●ラジオ+カセットプレーヤー+ヘッドフォン=ソニーのウォークマン
●巨大発明とはアイデア同士の創造的な組み合わせな書店というアイデア+インターネット=アマゾン・ドット・コム
●大学というアイデア+新しいテクノロジ-=バーチャル・ユニバーシティや企業大学
●「洗濯仕上げ用圧搾ローラー」と「洗濯板」を使った、昔の洗濯の仕方+逆方向に回る2つの桶を備えた最新テクノロジー=ダイソンの最新型洗濯機

MIT(マサチューセッツ工科大学)のニコラス・ネグロポンテは次のように言う。

新しいアイデアは相違から生まれる。それらは、見解の相違や、比較対照される理論の相違から生まれる、アメリカの詩人ロバート・フロストは、さらに簡潔に、「アイデアは、連想の妙である」と言った。

未来ビジネスを読む


『未来ビジネスを読む;浜田和幸』は為になる。

「未来学」は、どのような事態が起こっても、あわてふためかないで冷静な対処ができるよう準備しておくための実践的学問である。
自分だけは事故に遭わない。
自分の家だけは問題を起こさない。
自分の会社だけはレイオフなどしない。
こうした自己中心の発想の虜になっている人が多い。

大きな流れを読み誤らないための「3つのポイント」
第一は、常識とは発想の違う突出した考えを持つ人々を探し出して「それらのアイディアに常に関心を寄せておくこと」である。
第二に、自分の専門分野には関係ない情報源をキープし、「新鮮な発想や人材の発見に努める」。
第三に、見知らぬ土地や国を旅行し、生活風習や文化、価値観の違いから「当たらし観察や発見を積み重ねる」。

なにがどうなっても、物事の基本はあくまで人間関係である。それを肝に銘じたデザインをしなければ、上手く機能しない。

予期せぬことが突発的に起こることによって、個人の生活など一夜にして激変してしまう。そういう事態を常に想定して、これからは生きてゆかねばならない。

自分をはじめ、国民みなが不満を持っているということは、新しい発想を受け入れる土壌ができているということだ。

7/16/2007

股倉膏薬?


四文字熟語「股倉膏薬」何て読む?そして、その意味は?

答え:
「またぐらこうやく」
金を稼ごうとして、あっちに貼りついたり、こっちに貼りついたりして汲々としている間に信用を失った挙句に財産まで失ってしまうということ。

上記のことを、五木寛之がエッセイで書いていた。納得。

百の名言百の知・谷沢永一


「なぜ、この人だけが成功するのか~百の名言百の知・谷沢永一」と言う本なんだけど、名言よりもこの人の解説のほうが面白いので、それらを。
 

なまじ経験を積んだがために、人柄がすれっからしになって卑しく、他人の顔色を見るだけが能、みんなに嫌われる男がある。
最も厄介で迷惑なのは、博学多識を鼻にかける天狗たちであろう。
歩く百科事典(ウォーキング・ディクショナリー)という揶揄(からかい)の呼び名がある。
なるほど記憶力は抜群で、詰まらんことまで細かく知っているが、映写幕のように頭脳が受動的にしか働かない。
どこに解決すべき問題の、その取っ掛かりが伏在しているか、進んで見出す機能がないから、飾り物にしかならない人もいる。


世間では昔からお喋りに悪人はいないと言い慣わすが、その観察はかなりの率で当たっていよう。
つまりお喋りは他人をほとんど念頭においていないから、他人に計略を施すという企みにまで頭が回らないのである。
そこから直ちに予想される如く、黙っている奴は物騒だから気をつけろ、と言い伝える。

そういうときに閃きを発する人物にかぎって、平素はもの静かに黙っている。
いつも黙っている人の九〇パーセント以上は無能であるが、そのなかに純金の素質が交じっているのだから厄介である。
しょっちゅうやかましく騒ぎ立てている奴は無視すればよい。
職場における自分のまわりに向かって、自分を偉そうに見せている型は問題外である。
自信があって機会を狙っている者は、一挙に真価をあらわす日を期して待っている。


一連の施策にこめられた神谷の構想は、モータリゼーションが進展しやすいように、社会が動いてゆくための環境づくりであった。
真当な販売は押し売りではない。
欲しい人に商品を提供するのが筋道である。
欲しがる人がいないのに物が売れるか。
納得ずくで取引を広げるためには、欲しがる気持が世間一般に高まっていなければならない。
それゆえ車の便利さ宜しさを、実感でわかる人を増やせばよい。


世の人は他人を応援してやろうと待ち構えているのではない。
人間は誰でも必ず猜疑心のかたまりである。
そして何かを成しとげようと努める者には、できるものかと冷たい軽蔑の視線を注ぐ。
能力もないくせに力んでいやがると不愉快になる。
世に出て何かを為すとは、世に逆らい世間を敵にまわす謀叛の行為である。
どこの誰が同情してくれるものか。

成功とは世間を味方に引き寄せた段階を言う。
あくせくと血の汗を流して苦しんでいるとき、鐚一文貸してくれなかった悪鬼羅刹が、満面に笑みをたたえて借りてくれと躙り寄ってくる。
当方の人格がすぐれているからではない。
すべては信用であり見込みであり賭けであり投機である。


ちょっとまわりを見渡してごらんなさい。
老人は一方的に自分のことを喋っているだけ、ほとんど会話になっていないのが普通である。
中年以上の同窓会で、健康問題と薬の効き工合を封じたら、途端に話題がなくなって座が持たない。
六十歳を越すあたりから、自分自身のことにしか興味を示さなくなる。
相手が話しかけている間はひたすら辛抱している。
先方の声がやっと終るのを待って、たちまち喋りだすのは自分のことばかり、お互い他人の言うことなど、聞いているふりして聞かない。
ほぼ六十歳を越すあたりから、家庭でも職場でも会合でも、無意味な自己主張が一方通行で発射されている。このあたりに精神の定年が訪れるのを常とする。


人を悪く言うと一種の自己催眠のようなものにかかって、その人を悪く言わなかったとき以上に、その人が悪く思われる。
反対に人をほめると、ほめる前以上にその人がいいように思われる。
だから、なるべく人を悪く言ってはいけないのだ。


映画は元来、不良青年がつくるものだ。僕が言い出した言葉に「不良性感度」というのがあるが、これが鈍いと面白い映画にできない。       岡田茂

7/14/2007

女心を読むとは?


男にとって、打算的に女心を読んで商売に結びつけることがイイらしいが、如何なものか?「俺はホストじゃない!」と思う気持ちが先に来るのは古いらしい。
本を破いてキープしておいたので、以下を誰の主張なのかわからないが、悪しからず。

「女心7つの好き」
ここに女性心理の原点がある

①文化が好き
②夜が好き
③変化が好き
④残酷が好き
⑤座るのが好き
⑥防御が好き
⑦不満が好き


「女心33の願望」
なにを望みなにを嫌うのか

PART1 男と女の決定的違い
(1)見栄を張りたい
(2)わがままをいいたい
(3)集まりたい
(4)感性を大事にしたい
(5)興奮したい
(6)別人格になりたい
(7)遊びを大切にしたい
(8)知的がほしい
(9)納得できる理由がほしい
(10)忘れさせてほしい
(11)受け入れる側でありたい


PART2 財布を開くからには
(12)自分が魅力的になれるか
(13)社会的ステータスが表示できるか
(14)未婚に見えるか
(15)本能を満足させられるか
(16)自信をもてるか
(17)意外性があるか
(18)男が寄ってくるか
(19)新しい香りがするか
(20)怠けられるか
(21)安心できるか
(22)幸せになれるか


PART3 女性客としての欲望
(23)時間消費が重要と考えてほしい
(24)トクを与えたもらいたい
(25)待たせない
(26)紙袋のデザインをぜいたくにしてほしい
(27)いいあと味を残してほしい
(28)実利・実用・実益がほしい
(29)ばか丁寧の愚かさ
(30)女でも男ものがほしい
(31)個客型にしてほしい
(32)あいまいな表現は嫌い
(33)売り手の論理はいらない

貧乏は正しい!ぼくらの未来計画


昨日に引き続き、橋本さんだ。貧乏は本当に正しいのだ、と。


貧乏は正しい!ぼくらの未来計画 by 橋本 治

「低金利時代がやって来て、すべての金は、日本人をまともにするためではなく、若い女を狂わせるために使われた」―こう言ってもそう間違いではないだろう。
バブルの醜悪とは、「日本の若い女性を狂わせた」という、その一点につきるかもしれない。

なんで日本のオヤジたちがああも会社好きなのかというと、会社以外にほかに行くところがないからだ。
仕事以外にすることがないからだ。会社の人間関係以外に、人間関係がないからだ。
だから、会社社会の流行に従おうとする。
「自分がない」というのは、寂しいことだ。だから、なにをしても“ぼんやりとした不安”だけは残る。
だから、その不安を解消するために、ますます“仕事”という大義名分にのめり込もうとする。
そういう不安な自分に対する言い訳がほしくて、「家族のため」という口実も作り出す。

文化とは、結局のところ、「金の使い方」なのだ。

文化とは、結局のところ、蓄積されてしまった“豊かさ”をいかに使うかという、その使い方の問題でしかない。

豊かさというのは、実は金の問題ではなくて、時間の使い方に関する問題でもある。

現在の資本主義制度の中で、サラリーマンはなんにもできない。
それは、サラリーマンが「資本主義制度の中に参加する資格を持たない労働者と同じものになっているから」である。

貧乏人こそ正しくて、貧乏じゃないやつは退廃している。

ボクは貧乏が似合わないから贅沢がしたい。

制度社会という言葉があって、我々はあたかも制度の中で暮らしているようだが、人間は、制度以前に習慣で暮らすものである。
だから、そんな制度的な取り決めなんかが全然なくったって、平気で“それ以前からの習慣”は続いて行く。
制度的な規定なんかがまったくないにもかかわらず、その“習慣”があまりにも当たり前の顔をして続いているがために、うっかりすると我々はそれを“制度”だと思ってカン違いをしてしまうことがある。

自分の発言能力のなさと度胸のなさをタナに上げて、「何を言ってもだめだから言わない」なんていう、とんでもない結論を出さないで欲しい。今の日本の社会をだめにしているのは、「考えのない“上の方”の旧態依然と、自信のない“現場”のためらい」なのだから。

「信じたい」と思えない未来なんて、「未来」に価しない。「未来」というものは、自分が「信じたい」と思う方向に、自分で作って行くもんだ。

7/13/2007

貧乏は正しい! ぼくらの最終戦争


橋本 治さんは正しい。だから、彼の著作は全てチェックすべし。

貧乏は正しい! ぼくらの最終戦争 by 橋本 治


「自分が現在いる状況は、自分が本来いるべき状況じゃない」です。

「自分はいたくないところにいる。だから自分は反抗する」

「自分のいたい本来の状況はこんなもんじゃない!」という若者の反抗は、もう無意味なのです。

今や必要なのは、「反抗」ではありません。その逆の「建設」です。

「本来の自分がいたい状況はこんな状況じゃない」――それはもう分かっています。
それで文句を言っていたってしょうがないのです。「本来の自分がいたい状況」はどこもなくて、それがほしいのだったら、現在の状況を少しでも「あるべき状況」に近づけるという「建設」だけが必要なのです。

「人間はいつ自分の人生がチャラになってもいいような覚悟をして生きていかなければならない」

「いつ自分の人生がチャラになってもいいような覚悟をしろ」

「いつ死んでもいいような覚悟をして生きる」

無関係な他人に向かって、“自分の悲劇”を興奮して大泣きしながら訴えるような人は、今の日本にほとんどいない。

人間が、自分の上に悲劇が襲いかかって来た時、なぜ我を忘れて泣くのかというと、それは、「この悲劇は自分の上だけに降りかかって来たものだ」と思うからだ。
「自分だけの特別」を訴えて、人間は泣き叫んで、“自分だけの悲劇”を訴えた。

追い詰められて「自分は正しい!」だけを叫びたい人間。
現実に対して冷静に目を向けるだけの力がなくて、ただ「自分は正しい!」とばかり叫びたがっている、世間知らずで脆弱な、〝きみ自身〟なのだ。

ジム・キャリーの特性は、「頭がよくて破壊的で、お笑いで、しかも、“黙ってりゃハンサム”」

第一に、“黙ってりゃいい男”というのが、日本ではあんまりお笑いをやらない。
それよりもなによりも、日本の場合、“黙ってりゃいい男”というのに、“お笑いをやれるだけの頭のいい男”がいない。

現在の日本のお笑いは、〝知性の場〟

「無意味な進学競争で自分の人生を犠牲にされたやつらの仕掛ける復讐」

「世の中に受け入れられない自分というものの欲求不満を前提にする」

今や世間に、その過剰を拒否出来るだけのリアリティーがなくなってしまった。

孤独で、誰にも相手にされないから、それで、「特別な人間になって、俺を無視した人間達を見返してやろう」という発想

“貧乏に関する経験不足”だと思った方がいいだろう。
はっきり言っておくけれども、これからの日本には“貧乏になって行く”という可能性しかないのだ。

年寄りは年寄りだけで勝手に合意を作り、若者もまた若者だけで勝手な合意を作り、両者はほとんどまじわらない。
若者と社会が、根本のところで食い違って、対立してしまうのは、そのためだ。

女の方が孤独に敏感で、孤独に慣れていて、男というものが、“自分の孤独”にピンとこない生き物だからだ。

人間が困った状態に陥るのは、その人間が“困った状態に対処する方法”を知らないからだ。

7/12/2007

デュパルク


http://www.youtube.com/watch?v=GPLKjmVL5gs
デュパルクって知ってるかい?
私はこの人の作品がすきなんだが、作品以上にこの人自身の変人ぶりに興味あるんだな!

http://www.geocities.co.jp/MusicHall/6119/museum/duparc/index.html

デュパルク:死ぬ前に自分の作品の殆どを燃やしてしまったという変人なのか、完璧主義者なのか分からないフランスの作曲家。

7/10/2007

お金持ちになる方法


お金持ちになりたくないかい?
なりたいなら、以下にまとめたことを肝に銘じて実行しよう。
面倒くさい?そうだよね。
でも、面倒くさいことしないと他人より金持ちにはなれないんだな、これが。

01.世の中はシンプルにできているから、複雑に考えない。お金と健康な身体、優しく豊かな心があればすべての願いは叶う。

02.お金を持ってないと嫌な奴に頭を下げなければならない。お金が無ければ笑顔を作り、人に好かれよう。笑顔は嫌な奴を遠ざける。

03.他人の自己重要感を高めてあげると自分の人生が素晴らしくなる。自己重要感を高める方法は、褒めて褒めて褒めちぎること。

04.人間の心の大きさはコップ一杯。中に入っている水は心のエキス。心のコップにきれいな水を垂らしていれば、必ず幸せな人生に。

05.努力をするとお金持ちになれない。頑張れば頑張るほど不幸になる。

06.ツイている人のそばに行って、「ツキの波動」を受けよう。

07.少しだけ大きな声を出すと成功する。

08.商売繁盛の知恵やお金持ちになる方法は周りの人に教えよう。すると、「バランスの法則」で三倍の見返りがやってくる。ケチケチしている貧乏臭い人は、必ず貧乏になる。

09.税務署は儲かっている人のところにしか来ないのだから商人にとっては、「福の神」。愉快に儲けて、楽しみながら税金を払えば、心も豊かになる。

10.自分が必要とするアイデアは、「牽引の法則」で宇宙の中心からやってくる。頭でいつも考えていれば、答えは外の世界から引き寄せられる。

11.問題にぶつかったら、自分ひとりで解決しようとしない。周りの人にドンドン相談すれば、誰かが答えを持ってきてくれる。

12.色は人の姿を映し出す。華やかな色を身につければ、「色の法則」で幸せに。外見だけで人生は変わるのだ。

13.完璧な人間はいないのだから失敗するのは当たり前。人間は不完全な存在だから大きく成長する。そして、完璧主義者は嫌われるから絶対に成功しない。

14.子どもは褒めて伸ばすこと。叱って反省させると、失敗を怖がる人間になる。

15.人間のすることは、78点が満点。常に22%の改善点があるから、人間の未来は進歩する。

16.男は女に損をさせてはいけない。損をさせると結局自分が損をする。

17.「自分は困らない」と思っていれば「大丈夫の波動」で女にモテる。

18.社長を見つけたら近くに寄って、「成功の波動」を浴びよう。

19.目標を決めたら紐で結んで引っ張る。すると、「加速の法則」でアッという間に目標を達成してしまう。

20.目標を達成したらすぐ次の目標を立てる。加速し始めたら、加速し続けることが「加速の法則」のポイント。

21.最終目標はけっして他人に言わない。黙ってエネルギーをためている。と、やがて大きな力になってあなたの背中を押してくれる。

22.「第三の目」は眉間にある心の目。この世の大切なものが見える。ニコニコしていればこの目が開き、ドンドン素晴らしいアイデアが。

23.他人からの頼まれごとは神様からの贈り物。運勢が良くなってきた証拠なので、笑顔で引き受けること。

7/09/2007

学習が困難になったときに取るべき10の行動


学習が困難になったときに取るべき10の行動

1.今やっていることをやめて、完全な休憩を取る。

2.以前同じように行き詰まったときのことを振り返って、自分が何をしたかを考える。

3.自分にとっての選択肢の概要を示すマップやリストを作る。

4.友人にそのことを話して、彼らだったらどうするかを尋ねる。

5.本を使って、突破口を見つけるのに役立てる。

6.インターネットを使って、答えを発見するために役立てる。

7.何か運動をして、答えが浮かばないか試してみる。

8.行き詰まりを放置して眠る。寝る前に「自分は問題の突破口を見つける」と自分に言い聞かせる。

9.自分が今やっていることを、まったく別の場所でやってみる。

10.もし答えが見つかれば、あなたの仕事の達成に役立つかもしれないと思える質問をできるだけ多く考え出す。

7/06/2007

事態が混迷を極めるときに取るべき10の行動


事態が混迷を極めるときに取るべき10の行動

1.心を乱さない。

2.自分に正直になって、自分の最初の目的を思い出す。

3.その状況に取り組む別々の方法を3つ考えて、その中に使えるものがないか調べる。

4.その状況で、実務家や理論家(自分と異なったタイプの人)であればどうするかを想像してみる。

5.別な人が同じ問題に対してどのような取り組みを行うかを、近くに行って観察し、彼らから学ぶ(他者が見習うことは、不正行為ではなく、知性の発露であるということを思い出そう)。

6.電話をかけたり、Eメールを送ったり、本を参照したりして、その分野の専門家は、この場合に何をするか調べる。

7.あなたがしていることの詳細は知らなくても、常識にもとづいたアドバイスをくれそうな人や、あなたの考え方を変えてくれそうな人に尋ねる。

8.インターネットでヒントを探す。???

9.その日のうちに、時間を変えてもう一度その問題に戻ってみる。

10.自分の学習を続けることが正しいことかどうかを、よく考える。場合によっては、それまでに自分が学んだことを振り返った上で、別なことをする方が賢いことがある。

7/05/2007

500 Years of Female Portraits in Western Art

こころの処方箋/河合隼雄


『こころの処方箋/河合隼雄』

日本人としての自覚が国際性を高める。

国際的とやらで根無し草のようにふらふらするよりも、自分の根を深く深く追求することによって、他と交わることを考えるべきであろう。

人生には時に「100点以外はダメなときがある」ことを知る必要がある。

人生にも、ここぞというときがある。

そのときに準備も十分にせず、覚悟もきめずに臨むのは、まったく馬鹿げている。

アメリカでは烈しく相手を攻撃する代りに、相手の言い分も十分に聞こうとする態度がある。

自分の生き方と父親(あるいは、母親)の生き方とを比較してみると、びっくりするほど同じことをしているか、正反対のことをしているか、に気づく人が多いのではなかろうか。

男女は協力し合えても理解し合うことは難しい。

協力し合っているときは、相手のことなど深くは考えず、ともかく目標に向かって前進する。
そのとき、自分が喜んでいるときに相手の方はそれを支える苦労で半泣きになっていたりしても気がつかない。
ところが、目標を達成してしまって、やれやれと思って、二人が向き合ってみると、お互いのことを本当に知らないままで来たことに思いあたる。

男女が理解し合うことは実に大変なこと。

イマジネーションこそ、人間の「精神」のはたらきそのものではないだろうか。

目先を照らす役に立っている灯―それは他人から与えられたものであることが多い―を、敢て消してしまい、闇のなかに目をこらして遠い目標を見出そうとする勇気は、誰にとっても、人生のどこかで必要なことと言っていいのではなかろうか。

孤独に耐える力のある人は、団子のようにひとつにかたまる人間関係ではなく、権力のある者とない者との区別を明らかにしつつ、人間としては適切な関係を維持することができるはずである。
それに、ときとして権力を棄てる経験をもつようにすると、ますます人間関係は洗練されてくるだろう。

まず自分がどれだけの権力を持っているかをはっきりと意識し、それに見合うだけの孤独に耐える強さを持っているかを考えてみる方が意味が深い。

7/04/2007

武術革命/日野晃


日野晃先生は凄い武術家です。日野先生の「武術革命」と言う著作より、私をググッとワシ掴みした箇所をば・・・。

一様にして達人たちは「技」を自分の物にしていた。逆に言うと「技」をモノにしたから、また「技」を実体化させられたからこそ達人なのだ。

そういった達人たちを考えた時、そこにある「技」を構成する一つの重要な要素「見抜く」が見えてくる。
つまり「人を見抜けた」から、「相手の実力を見抜けた」からこそ、自分の生命を守られたのだし、見抜けたからこそ無用な試合をせずにすんだのだろうと考えられる。これは、自分よりも勝れた達人を見抜く力があった、ということであり、極論を言えば、自分が負けそうな相手とは試合をしなかったのだろう、ということである。

だから、別に強くはなかったのだ、ということではなく、この「見抜く」がなければ多分達人として語られる人生を歩いていなかった、つまり、すでに死んでいたことになる。

これは、体力旺盛な若い頃はどうであったのか?という話から考える問題ではない。「年老いても強かった」というところから考えれば、容易にこの「見抜く能力」の重要性が見えてくる。


さて、なぜこの章の冒頭に、現代において武術は特別なことだ、と書いたかというと、それに取り組んでいる人達の多くは、道場の前まで、もしくは道着を着るまで、または、相手と対するまではただの人であり、ただの日常を過ごしているに過ぎないからだ。
つまり、その人達にとっての武術は、その時間だけのモノであって、自分のモノではなく、その時間になって初めて始まるものだ、と言いたかったのだ。しかし、名人達の生きていた時代は、二十四時間武術だったのだから、心構えなり行動なりが全く違っていた、ということは推測できる。


武術はすこぶる面白いものだと思えてきた。つまり、単純に暴力的「強さ」や、自己顕示欲、自己満足のための道具、形骸化された名前ばかりの物などではなく、一つの身体世界・精神世界を形成させうる道具であり、教材であるはずなのだ。

「相手を感じ取る」ということは、武術の技術の中でも最上位に位置するぐらい大事なものだということが分かるはずだ。それさえ考えられないから、日本伝統武術の価値が見えず、武術と喧嘩の区別もつかなくなるのだ。

そういった自己防衛本能は、現代といえど女性の中にはしっかりと刻み込まれているのだ。それは、基本的に女性の非力さや、社会の仕組みの中での女性の立場などが関係しており、常に自己防衛しなければいけない必然があるし、性差による種保存の役目の違いからくるものだ。

しかし、残念ながら男性は、女性ほど敏感ではない。特に、武術や格闘技に取り組んでいる方達ほど鈍感だ。

これは、何を意味しているのか、本来武術というのは、そういった意味での自己防衛本能をより鋭敏にし、身の危険を回避するためのものなのにそれがまるで逆になっている。

結果だけを言えば、練習のシステムや武術に対する取り組み方に間違いがある、ということだ。その間違いが、感覚を鋭敏にするのではなく、鈍いものに作り上げている。
つまり、自己主張のみに価値をおいて生活をしている結果でもあるのだ。


武術では自分の「体重」が武器であり、「体重の移動」が全ての攻撃の威力の基本になる、ということだ。

自分の「体重」を、腕にかけたり、刀にかけたり、槍にかけたり、蹴にかけたり、が威力のある力を生みだすのだ。

その、自分の「体重」を武器にすることがここでは深く関わってくるので、自分の「体重」と「突き」とを有機的に繋げるために、この後足膝と腕の連関訓練が必要になる。
そして、その連関を支えるのは、自分の肉体に対する「感覚」だけしかない。

したがって、「威力のある突き」になるかならないか、また「威力の差」は、この自分の肉体に対する「感覚の差」にある、ということだ。

どれだけ精密に自分の肉体を操作できるか、その鍵を握る「感覚」をどれだけ研ぎすませられるか、だけが「衰えない技」を身につけていくかに繋がるのだ。


HP
http://www.hino.gr.jp/

『虚構と瞑想からの超発想』山田久延彦


物凄い人がいたもんだ。その人の名は山田久延彦。とにかく、楽しい。


『虚構と瞑想からの超発想』山田久延彦


行きづまりに対する真の解決は、新たな発展のSeedsを見つけ出すことによって得られる、ということである。
これまでに考えられなかった新しい理想を作り出し、これまでに知り得なかった新たな可能性の世界を捜し出し、これまでに存在しなかった魅惑的な目標を掲げることである。
新たなものをつくりだすことは、このような理由によってそれ自体、社会正義なのである。

人はしばしば一芸に秀でること、すなわち専門領域を深く掘り下げることが善であると考えがちである。
ところが、このような人たちからは新しいものは生まれない。
深く深く掘り下げているつもりが決して深くなく、細かくいじくりまわしているだけなのである。
にも関わらず、この種の人びとは、自分たちが最先端を行なっているとごかいしている。
そして革新的な発想を、狭い視野の中からことごとく否定する。

専門馬鹿という現象は、単なる能力の欠如以外の何者でもないといういべきだろう。
“広い視界”が深い理解に必要不可欠である。

「疑問をもつことが重要だ。ただし度を越さないこと」。これが科学的な態度なのだそうだ。
だが、敢えていおう。「限度をわきまえるな」と。

現状のもっとも根本を逆転させよ。論理だけではない。感情や道義などからの違和感さえ克服しての逆転だ。
否定や抵抗は評価のしるしと考えよ。

「不条理な抵抗や否定にあうような発想の中から、真に価値ある発想を捜し求めよ。
みんなが良いということは、どうでもよいことである」

「閉塞状況下、すなわち行きづまり状態においては、従来の前提のもっとも基本的なところを否定せよ。部分的修正は状況をさらに悪化させる」

「たとえ空想でも、思考としてこの世に存在し得るものは、実現可能なことである」
―は、別な表現をすれば、
「人間の乏しい想像力で考えられることは、せいぜい実現可能なものだけである」ということであった。



ハイポロジストは誤解される。孤独だ。みじめな存在でさえある。
それを承知でハイポロジストになりたい人のために、十の条件を記そう。

●ハイポロジストのための十カ条

1 空想であれ願望であれ、考えとして存在するものは、すべて実現可能なことである。
〔ハイポロジクスの原理〕
2 新たなものをつくり出すことは、それ自体、社会正義である。これを否定する者は、正義の名のもとに排除されなければならない。
〔変革(Break Through)の原則〕
3 単一専門領域をいくら深く掘り下げても、新しいものは生まれない。広い視界が、深い理解と新しい発想には不可欠である。
〔超視界(Hyper Vision)の原則〕
4 社会の不条理な抵抗や否定にあうような発想の中から、真に価値ある発想を探し求めよ。みんなが良いということは、どうでもよいことである。
〔反撃(Counterattack)の原則〕
5 行きづまり状況下には、従来の論理のもっとも基本的なところを否定せよ。修正主義は状況をさらに悪化させる。
6 発想は長い間寝かせよ。短期間で成果を得ようと思うな。本を読む前、データをとる前に思考せよ。
7 パイオニアは、その良き理解者とペアで一人前である。
8 高次元の問題を扱うときほど、人間は低次元の感情にかかずらう可能性が大きいと心得よ。
9 実力以上に自分の可能性を信じ、能力以上の問題に挑戦せよ。大風呂敷を広げよ。
10 技術者にとって技術的主張は、個人の思想、信条であり、基本的人権と不可分のものである。誰からも拘束される必要はない。


創造力というのは、能力というよりも執念といった方が適切である。
この執念において、日本人は、本質的に決して諸外国の人びとに劣るものではない。
ただ現在のところ、理解力型秀才が社会の重要なポジションを占めているため、どちらかというと日本は、基本的な問題において欧米より創造力に乏しいような印象を与えているにすぎないのである。

しかし、創造力型天才がそのポジションに入れかわった場合、日本の創造力たるや、世界のどの国の追随をも許さないほどのものになるはずである。日本の創造性が乏しいといわれる所以は、国民性にあるのではなく、社会体制の中にあると私は考えている。

7/03/2007

○―×

沖縄の青の洞窟。
私は行きませんでしたが、子供たちがシュノーケリング・ツワーに行きました。

いろいろ考えるところがありまして、よく分からない○と×。
人生いろいろ。


○―×

自信―失敗するはずがないという意識

スピード―拙速

機知―口の悪さ

アンテナを張り巡らす―よさそうなものだけに目を向ける

献身―仕事中毒

制御―柔軟性の欠如

勇気―向こう見ず

我慢強い―変化に逆らう

人を引きつける魅力―人を思いのままに操る力

倹約家―ケチ

一途に取り組む―妄信

さわやかでたのもしい経済社会への道


沖縄の田舎に居たから、以下のようなことを。

どなたが著したかは分からないのだが、メモ書きがみつかったので。


「さわやかでたのもしい経済社会への道」

1、ぎりぎり 必要なものだけを 求めよう

2、工業製品ではなく 手作りを

3、スーパーマーケットではなく 個人商店 または生協に つながろう

4、虚栄と浪費のシンボル―誇大広告を まずボイコットしよう

5、最大の浪費 ミリタリズムに かかわらない

6、生活のすべてに もっと 工夫と創造を

7、新しい 生産と流通のシステムを 試みよう

8、汗と思いを わかち合う よろこびから

9、真の豊かさとは 物と金に 依存しないこと

10、野生への第一歩―よく笑い よく歌い よく遊ぶ


6/28/2007

旅に出る、人生棚卸し


明日から4日間、沖縄に。子供たちも連れて行く。読谷の若者の旅の宿。
そんなこんなで旅に出る。

旅に出るということは生を実感するのと同時に死の観念のような気がしないでもない。

自然は現代人にとっては自己を知る教科書だと思う。

出会いというのは、人間が計算して出会えるもんじゃないです。

出会う時期がきて出会うんですよ。

そんでもって人生棚卸しということで、沖縄の海に向かって考えてみよう、以下のような箇条書きを。

人生棚卸
1、自分の仕事と自己イメージはどんな部分で一致し、どんな部分で一致しないか?

2、熱心に取組んでいることがあるか?また、それについて積極的に学んだり、よい意味での難問にぶつかって緊張感を味わったりしているか?

3、仕事や私生活での人間関係は現在、どのような状況にあるか?

4、どんな秘密を持っているか?

5、深く後悔していることはないか?

6、最も恐れていることは何か?

7、どんな問題行動に苦しんでいるか?その問題行動は、もっと深い問題とつながっているか?

8、人生の目標をどのように変更してきたか?

9、時間にどの程度追われているか?その最大の原因は何か?

10、自分の性格のどの部分を強化する必要があるか?自分のどんな才能を見過ごしているように感じるか?

11、自分は何に貢献しているか?

6/27/2007

失敗を恐れない人生術/古郡廷治


「失敗を恐れない人生術/古郡廷治・著」はネタの宝庫だ。一読を。
以下、私が同感!と膝を打ったセンテンスを。

見境のない恋をしたことがない人は恋を知らない人である。純度の高い恋は時間を忘れ、年齢を忘れ、計算を忘れたところで息づくものである。

友だちに必要なのは、実際の助けより、必要なときには助けてもらえるという信頼である。

いまの技術社会が必要としているのは、知識を蓄え込んだ人間ではなく、自ら問題を考えだし、知識を柔軟に駆使して解を導ける個性と独創性に富んだ人間である。

教養とは学んだことをすべて忘れ、その後に残ったものである。

運動選手は極限までの訓練により肉体を鍛えあげる。肉体を鍛えるのには長い時間と、その間の苦痛が伴う。ここには嘘がない。実は頭の訓練だって同じことなのだ。それなのに、頭の方だけは、楽しみながら、短時間で効果をあげられると考えるのは、教育が訓練であるという根本を忘れた所業で、これは学ぶ側の子供にとっても、教える側の大人にとっても、その後ろにある社会にとっても悲劇の誕生である。

ダメな男は二種類ある―一つはいわれたことができない奴です。もう一つはいわれたことしかできない奴です。

怖がっている者は、ものごとが悪い方にいくと考える。だから変化は脅威である。希望をもっている者は、ものごとがいい方にいくと考える。だから変化は歓迎すべきものである。

成功と失敗は、人生でもっとも扱うのがむずかしい問題の一つである。すべてがうまくいっているときがもっとも危険なときだ。上がったものは落ちる。成功は失敗と背中合わせである。もちろん、これは逆にいえば、うまくいっていないときには、常に成功のチャンスがあるということでもある。

私が本当にやりたいことのほとんどは不道徳なことか、違法なことか、太ってしまうことである。

人生の矛盾―若いときには大人になりたいと思い、大人になれば若くなりたいと願う。

青春という名の詩


青春という名の詩

幻の詩人であるサムエル・ウルマン。「青春という名の詩」をどう思う。

宇野収、作山宗久「青春という名の詩」(産業能率大学出版部)が情報源である。


 青春とは人生の或る期間を云うのでなく心の様相を云う。

 逞しき意志、優れた創造力、炎ゆる情熱、

 法襦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、

 こういう様相を青春と云う。

 年を重ねただけで人は老いない。

 理想を失うときに初めて老いがくる。

 歳月は皮膚の皺(しわ)を増すが、

 情熱を失う時に精神はしぼむ。

 苦悩や狐疑、不安、恐怖、失望、

 こう言うものこそ拾も長年月の如く人を老いさせ、

 精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。

 年は七〇であろうと、十六であろうと、

 その胸中に抱きうるものは何か。

 曰く、驚異への愛慕心、空にきらめく星辰、

 その輝きにも似たる事物や思想に対する欽仰、

 事に処する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探究心、

 人生への歓喜と興味。
 人は信念と共に若く、疑惑と共に老ゆる。

 人は自信と共に若く、恐怖と共に老ゆる。

 希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる。
 大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、

 そし偉力の霊感を受ける限り、人の若さは失われない。

 これらの霊感が絶え、悲嘆の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、

 皮膚の厚氷がこれを固くとざすに至れば、

 この時にこそ人は全くに老いて、神の憐れみを乞う他はなくなる。
(松永安左エ門訳*ちなみにこの人、伝説の実業家だと思う。)




6/25/2007

無芸大食大睡眠/阿佐田哲也


無芸大食大睡眠 阿佐田哲也


なにしろ私自身五十の坂を越すと、遊び仲間が櫛の歯のように欠けていく。友人は、欠けたからといって、総入れ歯のように補塡するわけにはいかない。


テレビに向かない芸がある。ご家庭向きでない芸もある。凄い芸の持主だったり、ユニークな才があっても、ブラウン管にはまらない孤高の芸がある。演芸界ばかりに限らないが、こういう人たちはどうしてもマイナーな職場しかなくて、だんだんクサってしまう例が多い。


ヌード劇場ではハマるけれども、大劇場やテレビには生かしにくい。玄人の間ではよく知られ、一目おく存在だったが、一般的にはマイナーのヴォードビリアンという域に止まった。とにかく彼の創ったギャグを、彼が演ずるとマイナー芸になり、他のタレントが演じた方がずっと受ける、と皮肉なことになったのである。だから、ずいぶんいろいろなコメディアンが、彼のギャグを貰って演じている。泉和助としては、それらのギャグが受ければ受けるほど、心が晴れなかっただろう。


林家三平が、邪道から出て邪道を持ちこたえるのに、いかにも苦しげだった。彼はふんばりとおして壮烈な一生を終えたが、のん気そうに見えるのはうわべだけなのである。枝雀がそうなるかどうかわからない。


中学の生存競争に、敗戦意識や挫折感を持った者たちなのであろうが、そういうひとつの黒星が、人生を決するものと限らないことを彼等に教えてやりたい。人生にはたくさんの試合があって、勝星や負星が無限に続く。ギャンブルで、小さな勝ちや負けを経験しながら、一方で通産打率をよくしていく気力を持ち、一方ではまた負けの味をかみしめていくうちに、自分以外の者の勝ち負けについても配慮が沸いてくる。すくなくとも私はギャンブルからそういうものを教わった。



6/24/2007

金持ちの太平楽二〇章

昔読んだ本(すみません、最重要なタイトル忘れました)で面白かったのがあったので、載せます。
最高に楽しいよ。金持ちになりたい人、肝に銘じろ、と。

『金持ちの太平楽二〇章』
①金は天下のまわり持ち、いつかは自分にもまわってくるとの減らず口が貧乏人の悪いくせ。

②すべて世は金次第。金さえあれば何事も自由自在、この世は極楽じゃ。

③年中働きどおしに働いても精々儲けは一貫目とは、たかが知れている貧乏人。

④いくらひがんでも、知恵と才覚だけは金はできぬ。はじめの元手もなしに威張るな。

⑤体だけは達者でも、金がなければ世の中は面白く生きられまい。

⑥昔は人を使う身分であったのに、いまこんなに貧しいのは時勢が悪いのだとは言いわけがましい。この甲斐性なし。

⑦要するにお前さんは夜遊びや朝寝ばかりで、まともに働かぬから、いつまでも貧乏するのじゃ。

⑧借りた金を返しもしないで言いわけばかりか、果てはケンカとは情けないにもほどがある。

⑨人に迷惑をかけ、損ばかりさせながら、ぬらりくらりと払わぬばかりか、払わぬのを手柄にするとは、もってのほか。

⑩貧乏人の子だくさん。しっかりしなさいよ。

⑪年がら年中質屋通いとは、ほめられた姿ではあるまい。

⑫借りたら返すもの、借りっ放しで、踏み倒すやつは、顔は人間でも、心は畜生。

⑬一生ぜいたくせずに木綿のもので通したとて、とくにえらいとも思えない。

⑭食うや食わずで、ただ長生きしたとてしょうがあるまい。

⑮貧乏に暮らすのはまことに気楽だというのは、それは負け惜しみだよ。

⑯わずかばかりの小金につまってうろうろするのは恥じゃ。

⑰夜昼働いて、わずかの儲けにあくせくするとは、知恵の足りぬ証拠じゃ。

⑱手のひらほどの狭い裏長屋住まいではしょせん井のなかの蛙。

⑲貧すりゃ鈍す。二百や三百の小金で五十両も百両もとりたがるとは、算用はずれの愚か者。

⑳金が自由になる身分になっても常に「おかげで」と感謝を忘れず、あだに遣うなかれ。感謝感謝、要心要心。

今東光和尚


今東光って知ってるかい?と題して、この坊さんが昔「週刊プレイボーイ」でレギュラーの人生相談より。
左の「今東光伝」も興味深い。
日経土曜の瀬戸内寂聴のコラム、ここんところ今東光和尚。こちらも楽しみ。



今東光

「相手の家族に幸せを自分が与えてやるために嫁に行くならいい。それを、あそこへ行ったら幸せになれるんでしょうか、と言ったらきりないよ」

子供には生きていくだけのものを身につけてやるのが親であって、金とか土地とかいう物を与えて、それが愛情の表現だというのは低い愛情だよ。


というのは、年寄りは何にも人類に貢献することがないからだ。

高い金を出して大事にする必要なんか全くありゃあしねえんだ。

余生を楽しみたかったら、己みずから何処かの山の高原に行って、いい天気にでも甲羅干しをしてりゃあいいんでね。


オレは福祉なんていうのには根本的に反対だ。

尊敬できる老人なんてごく少数で、あとはみんな邪魔者だよ。


オレがブラジルに行った時、ブラジル人が笑うんだ。

「日本人は一生懸命働いて遊ぶ。でもブラジル人は違う。一生懸命遊んで、余裕があれば働く」と。

それで貧乏しようとしまいと、それは自分で選んだことなんだから文句は言わない。

せっかくこの世に生まれてきたんだ、遊ばにゃ損だというのがブラジル人の人生観だと。


本を読んで栄養になると思ったら大間違いだ。

オレが本を読め、本を読めとすすめるのは、それを栄養にするためじゃないんだ。

本を読めばいかに世の中にバカが多いかということがわかるからでね。