8/15/2007

死より引退のほうが恐怖


アメリカの金持ちの習性についてのなるほど、と思ったところをば・・。
『死より引退のほうが恐怖』



一番投資で儲けやすいのは四十~五十五歳まで。


投資でかなりの富を築くには、当然リスクをとる必要がある。
しかし五十五歳を過ぎると大部分の人が安定を最優先させるようになり、投資リスクをとりたくなくなる。


離婚も少なくなる。


男性も女性も食事に気をつけ始め、運動をするようになる。


休暇もより多く取るようになる。


さらに、死についても考え始め、自分の資産とバランスシートをチェックし始める。


借金をしなくなる。


きちんとした最期を迎えたいからである。



面白いことに、このように五十五歳で死の準備を始めるのに、引退の準備を真剣に始めるのはなんと六十歳頃であるとか。


多くの人にとって死ぬことより引退することのほうが怖いようだ。


死については自分ではまだ間があると思っており、この段階ではまだ死の抽象的な概念上の恐れでしかない。


しかし引退は現実の問題として刻々と迫っており、定年後の生活がどんなものになるか恐れおののく。



もちろんすべての人がそうではない。


趣味が豊かで、やりたいことがいっぱいある恵まれた人もいる。


しかしこういう人は何年もかけて趣味を拡げてきた人である。


定年になったらあれをしよう、これをしようと空想上の趣味しか持っていない人は、いざ引退して時間ができても趣味を実行に移さないし、移せもしない。



定年後豊かな人生を送りたいなら、生涯かけてやりたいことを今のうちからふくらませておくべきである。仕事に完全に埋没していた人ほど(例えば自分でビジネスをもっていた人)引退は辛く、時にはアル中になったりする。

8/14/2007

五十代で金持ちになってもライフスタイルは変わらない


『五十代で金持ちになってもライフスタイルは変わらない』
若い人が急に金持ちになるとものすごい浪費に走ったりすることもあるが、五十歳代になる頃にはいくら大金が転がり込んできても特に奇抜なことはしなくなる。
せいぜい家族全員で使えるマンションをカリブのどこかに買ったりするくらいだそうである。(おい、どのくらいの金持ちの話だー!?)
あまり物を買うことに対して魅力を感じなくなり、ヨットやフェラーリや大邸宅を買って他人に羨ましがられたいという欲求からも既に卒業している(ニューヨーク市の人を除いて)。
このくらいの年齢になると所有するより、他人(の役に立つこと)に喜びを見いだすようになる。(いやらしい言い方だね。私の書き方の問題か?)
たいていの人は五十五歳から死ぬまでは、あまりライフスタイルを変えない。
自分の意志で順調に金持ちになった人はなおさらこの傾向が強い。
急に予想外の金が入った人の場合でも、せいぜい今まで欲しかったけれど高すぎて買えなかった車を買ったり、夢に見ていたデラックスなクルージングへ行く程度のこと。
てなカンジですが、如何なものか?
やっぱり、お金無いよりあるほうが良いけど、あり過ぎるのもなぁー?

8/13/2007

『求められるプロフェッショナル像』

『求められるプロフェッショナル像』

・信頼できる・親身になってくれる・クライアントの利益のために行動する

・プロの腕を持っている

・損を出してもきちんと説明をする

・しっかりした調査、理論に基づいて、バイアスのかかっていない中立的なアドバイスをする

・秘密保持をきちんと守る・投資を長期的に考える

・長期にわたって担当する・税務と投資をドッキングさせた、トータルなプランニングとサービスを提供する

・定期的にすべての資産を統合した報告書を出す

・世の中の新しい動きに関する情報・アンテナを持っている

・様々な分野に人的ネットワークを持っている


8/12/2007

鈍そうな顔





知り合いの整体の先生が言ってました。成程なぁ。



人間は悲しくて寂しい。それが本性だと。明るく前向きなのは、世を忍ぶ仮の姿だと。
明るく前向きな人を見てみなさい。だいたい鈍そうな顔をしてます。

大事なことだけを考える技術




鷲田小弥太さんのの本「大事なことだけを考える技術」の目次を。


これだけ読んでも何となく、成程って思う。



1 自分にとっての大事なものを書きだしてみよう


●自分の大事なものを紙に書き出してみよう


●大事なものの順序は、常に変わっていく


●自分を大事にするため、自分以外の人を大事にしよう


●人間関係を大事にすると、いい仕事ができる


●次につながる仕事をしていますか?


●柔軟に生きよう。そうすれば大事なものを失わない


●大事なものが変わっていくのは、人生に限りがあるから


●長い時間を経て、大事なものはつくられる




2 できないことは、できないままがいい


●物事には完全解答などありえない


●目の前のことを淡々とこなす人ほど「すごい人」だ


●人生のチャンスは地味な形でやってくる


●どんな難しい問題でも、基本をクリアすれば解決できる


●妻も子も愛さずに、妻だけを愛そう


●時には、解決そのものを放棄してしまおう


●できないことは、できないままがいい


●普通の人ほど泥沼にはまりやすい


●進路をはやく決めなくたっていいじゃないか●総力を結集しても、できないものはできない




3 「正しく質問できれば、正しい答えが見つかる」


●正しく質問できれば、正しい答えが見つかる


●生活のアクセントを変えてみよう。そうすると違う人生が現れる


●マニュアルどおりに考えると、時間が短縮できる


●マニュアルにも人との相性がある


●まず「解答」を決め、書き出してみよう


●私ならどうするか、具体的にいってみよう


●徹底的にやると、やりたい仕事がみえてくる


●必要なものはたくさんのガラクタから生まれる


●自分の能力よりちょっと上をめざそう




4 先が見えないのは当たり前。不安があってもいいのだ。当然なのだ


●「どこからはじめるか?」ではなく、「どこからはじめてもいい」


●先が見えないのは当たり前。不安があってもいい


●どんな稚拙に思えても、まず自分で解決案を考えよう


●書物は、いつでもどこでもマインド・トレーニングに応じてくれる


●自分の選んだ進路が、最高の出発点だ


●トラブルがあるのは当たり前。怒らず、焦らず、驚かず


●「ノー・プロブレム」lこそ、恐ろしい1


●「ノー・プロブレム」lこそ、恐ろしい2


●完全無欠な危機管理などは不可能であり、ムダだ




5 解決をあきらめるのも、一つの解決策だ


●一年分の生活費を貯めたら、自由なことができるようになった


●解決をあきらめるのも、一つの解決法だ


●「何もせずに放っておく」ことが解決のいい手だてになる


●非難されたら、「逃げる。隠れる。無関心を装う」


●いったん矢を飛ばすと、止めることができなくなるから、要注意


●有名シェフの店が長蛇の列なら、小路の地味な店を探してみよう




6 運のいい人についていくと、チャンスがやってくる


●雑事に強い人、雑事だけで終わる人


●いい仕事は自分だけでやらないほうがいい


●調べる力のある友人を持つと、仕事の生産性がグンと上がる


●できることでも手を出さない


●敵には最後の逃げ道をつくってあげよう


●三年やれば、瑣末なことでも面白くなる




7 「大事なこと」かどうかをジャッジできる力を養おう


●一枚の表で労働評価が決まる社会はおかしい


●一時的ではなく、長期的視野で評価しよう


●あなたは、誰の評価を大事にしていますか?


●「仮想敵」をもっていますか?


●すぐれた「先生」をみつけよう


●「先生」は、利害がない書物上の先生のほうがいい


●先生から学ぶと、いつのまにか癖まで似てくる


●大事にしたもの、大事にしなかったものを書きとめておこう


●大事なことだけ考えれば、何でもスピードアップできる




8/11/2007

「人生万葉歌」

阿久悠「人生万葉歌」


みっともなさの中に背中合わせで隠れているカッコよさを上手く体現できるところかもしれない。

歌謡曲はリアクションの芸術かもしれない。

送り手がいかに意欲的であり、情熱的であっても、リアクションがない限り何の価値もない。

毎日、ひとつでもふたつでも何かが跳ね返ってくることを期待しながらボールを投げ続ける。

今、何が欠けているのだろうか。

今、何が欲しいのだろう、というその飢餓感の部分にボールが命中したとき、歌が時代を捉えたといってもいい。

歌の場合、「いいね」という噂を聞いた人がその後、実際に歌を聞く確率は非常に高い。

また、流行っていればテレビやラジオでも、街を歩いているときでさえも常に耳に入ってくる。

歌の場合、聞けば4,5分で済んでしまうものだから耳になじみやすいこともある。


昭和懐旧



昭和懐旧  阿久 悠


合掌。




昭和とともに歌謡曲時代は一度終わりました。今はミュージックはあってもソングがない。

歌謡曲というのは世の中の人との真ん中にあったものです。

歌で伝えたいこと、感じたいことは現在もあるはずなんですが・・・・。
今の歌は詞と旋律で紡ぐソングではなくメロディーだけが聴こえるミュージック。

「外」がなく「内」だけに目を向けた厚みのない身辺雑記のような曲が流れている。

若い人たちに社会性がなくなっているせいだろうと思う。

つい、昭和懐旧の気分にとらわれる。

家族が広い部屋でぐだぐだする時間が必要です。

時々話しかけ、話しかけられた方は、あしらうのではなくそこそこ返事する。

無理をすると疲れるので、そこそこです。


8/10/2007

「デタラメ思考」で幸せになる!



「デタラメ思考」で幸せになる!・ひろさちや

昔の国王は税金泥棒でしたが、明治以後の日本の天皇制国家は、もっと質が悪い。誰かが言ってましたが、「大日本帝国憲法」や法律は、
兵役の義務があって・・・われわれの生命を奪い、
納税の義務があって・・・われわれの財産を奪い、
教育の義務があって・・・われわれの魂を奪った、
のです。泥棒なんかじゃない。人間をまるごと盗んだのが国家です。
だから、国家というものは悪いものです。できればなしですませたい。ないほうがいい。それがインドの原始仏教の考え方でした。

道徳というものは、一時代、一地域でしか通じないのです。
日本の道徳は、よその国では通じません。日本の国内においてだって、戦前の道徳は時代に通じません。

道徳というものは、強い者はそれに拘束されません。そして弱い者だけが道徳に縛られます。道徳は、強者が弱い者いじめをするための道具ではないでしょうか。すると、われわれは、道徳なんて馬鹿にしたほうがいいのです。

我々日本人であれば、自然に日本の風物に愛着を感じますが、そのような愛国心で、これを、-心情的自発的愛国心-と呼べばいいでしょう。
だとすると、そのような心情的自発的愛国心は、教育によって強制されるものではありません。教育によって教えられる愛国心は義務的強制的愛国心--脱税摺るな!脱税した政治家に投票するな!!--だけです。そこのところを、保守的な政治家がわかっていないのです。

釈迦が教えられたことは、あなたたちは、
--世間にふりまわされるな--
--世間を馬鹿にせよ--
ということでした。それは、つまりは、あなたが、
――自由人であれ!――
のメッセージです。

--世間の奴隷になるな--
--欲望の奴隷になるな--
――自由に生きよう!――
奴隷の反対は自由人です。われわれは自由人になるべきです。

庶民はあくせく働いて金儲けをしたところで、それで貴族になれるわけがありません。だから、ヨーロッパの庶民たちはのんびりと生活を楽しみます。また、仲間同士が助け合って生きるのです。その結果が、ヨーロッパ型の資本主義になったのです。
それに対してアメリカ型の資本主義は、競争原理に立脚しています。アメリカは階級のない社会ですから、全員が(タテマエ的には)平等です。そこで「よーい、ドン」で競争して、その競争に勝った者が成功者になります。この場合、競争において求められるのは、フェアプレイの精神です。フェアで自由な競争こそが、アメリカ型の資本主義の底を流れる精神です。

今、アメリカ社会は危機的状況にあります。下層労働者のあいだでは競争に参加しようという意欲がなくなったのですが、ではヨーロッパ社会の労働者が持っている連帯感・仲間意識が醸成されるかといえば、それは無理です。社会そのものが競争原理に基づいているのが、仲間同士の足の引っ張りあいです。妬み・嫉みの感情しか生まれません。とくに人種のあいだの反目からくる妬み・嫉みが、アメリカ社会を根底から腐敗させています。わたしは、アメリカの没落はもうすでにはじまっていると思います。

自由とは、自分の意見をしっかりと肯定することである。

つまり、ここで大事なことは、わたしたちにはほとけさまの物差しは、
--わからない--
ということです。それがどういう物差しかわからないから、わたしたちにはそれがデタラメに見えるのです。


わたしたちは、仏教を勉強して、
--人生は「空」だ--
と見るようにしましょう。「空」なる人生を、世間の人はあくせく、忙しく生きています。でも、われわれはそんな生き方をしないでもいいのです。もちろん、したってかまいませんよ。あくせく、いらいら、ガツガツと生きたい人は、どうぞそう生きてください。そのことを知っておいてください。そうすると、もっともっと人生をラクに生きられます。

--あきらめ--
です。きれい、さっぱりあきらめてしまえばいいのです。
ただし、あきらめることは、ギブ・アップすることではありません。そうではなくて「明らめる」のです。そのことが、自分の思うがままになることではないことを、しっかりと明らかにするのです。

人生を旅に譬えるのであれば、人生のたびには目的地はありません。というより、目的地があってはならないのです。たとえば東京から出発して、目的地である大阪に着いて、それで「はい、終わり」というわけではありません。
人生のたびは、その道中がすべてです。プロセスだけが全てです。
人間がある方向を目指して歩んでいく、その歩みそのものが人生です。
だとすれば、人生は急いではいけません。走るなんてとんでもない。

ゆったりとした旅をしましょう。目的地なんでないのです。
目的地があると、わたしたちは目的地に着いてからおいしい物を食べようと思い、旅の途中では粗食になってしまいます。馬鹿げた考えです。それじゃあ、かりに目的地に着けずに途中で死んでしまえば、おいしい物を食べずに終わるのです。人生の旅では、死んだ後ではおいしい物は食べれませんよ。
毎日毎日、おいしい物を食べればいいのです。
いや、おいしい物を食べるのと、おいしく物を食べるのとは違います。おいしい物は金がなければ食べられないかもしれませんが、おいしく物を食べるのは誰にでもできます。今日から早速、おいしく物を食べるようにしませんか。

人間らしく生きるには、ゆったりとしたいい加減のペースで、人生の旅を続けることです。
途中でいっぱい寄り道をしながら・・・・。


8/09/2007

「狂い」のすすめ



「狂い」のすすめ・ひろさちや

「まともな意見」=常識。赤提灯で得々として語っているサラリーマン親父の「意見」なんてものは、商業新聞や週刊誌に書いてあることと同じです。いわゆる体制護持的な思想、それを弱者は自分の「意見」だと思っている。思わされているのです。世間の奴隷、常識の奴隷になっているのです。

「風狂」とは、風雅に徹すること一休禅師は「風狂の禅者」でした。狂った時代にあって狂った生き方を選んだ一休は、だから自由人であったのです。世間が押し付けてくる道徳なんかに囚われることなく、自由ののびのびと、そしてあっけらかんと生きています。

日本の企業の管理者に奴隷根性の持ち主が多いから、自分が奴隷であるから、社員までも奴隷にしたいのです。そして、奴隷になっている社員がまじめでいい社員と評価されるのです。日本はそういう狂った社会です。狂った社会に忠誠を誓えば、その人は奴隷になってしまう。だから、狂った社会にあっては、こちらが狂う以外に自由人になることはできません。
「ただ狂え!」の『閑吟集』の言葉、あれが自由への呼びかけなんです。

目的意識があると、われわれはその目的を達成することだけに囚われてしまい、毎日の生活を灰色にすることになります。失敗したっていいのです。出世できなくてもいいのです。下積み生活でもいい。それでも楽しく生きることができるのです。

本当の「人生の危機」は、あなたが世間から「生き甲斐」を押し付けられたときなんです。まさにそのとき、あなたは奴隷になったのであり、自由人としてのあなたは死んでしまったのです。それが、それこそが、本当の意味での「危機」だったのです。

-カタツムリが旅に出て、ナメクジになって帰ってくる-わたしたちは常識や既成概念、世間の物差しを持っています。そういう殻を背負ったカタツムリです。旅をするのは、そうした殻を捨てるため。殻を捨ててナメクジになって帰ってくる。そうした気持ちでする旅こそ、最高の旅なんです。

人生を目的地主義で生きると、60年、70年の生涯が、たった4ヶ月と6日になってしまいます。人生に目的を設定してはいけません。意味を持たせてはいけません。生き甲斐なんてないのです。

明日できる仕事を今日するな。他人ができる仕事を自分がするな。
ともかく、ゆったりしましょう。家康のように重荷を背負ってあくせくする必要はありません。重荷は他人に背負わせるとよい。そういう気持ちを持つことが大事です。

家族制度は封建的だという理由で、家の解体をやってもけたのです。その結果、見事な「核家族」になりました。こんな国は、アメリカの中下層と中国、それにイスラエルだけです。その他の国では、家族制度はしっかり残ってます。

-正しいことは言わないでおこう-
正しいことというのは、わざわざあなたが相手に言ってあげなくても、相手がよく知っていることです。言う必要はありません。

8/08/2007

仏教に学ぶ老い方・死に方







仏教に学ぶ老い方・死に方 ひろさちや



「商売人というものは、客のお金に頭を下げるんや。なにもあのお客に頭を下げているのんと違う」



―大阪の商人は、金には頭を下げるけれども、金持ちには頭を下げない―



『閑吟集』というのは、室町後期につくられた歌謡集です。編者不詳。庶民の生活感情を伝えた当時の歌が収録されています。その中で、わたしのいちばん好きな歌が、《何せうぞ、くすんで、一期は夢よ。ただ狂へ》です。


「何になろう、まじめくさって、人間の一生は夢のようなもの。狂えばいいのだ」と訳せばいいのでしょうか。


“くすむ”というのは、《きまじめである。まじめくさる》(『大辞林』)といった意味で、世間の物差しに自分を合わせて、それに忠実に生きる生き方です。要するに世間の奴隷ですね。そんな馬鹿げた生き方をするな!『閑吟集』はそう忠告しています。


じゃあ、どうすればいいのですか?


―――ただ狂え!―――狂えばいいのです。


世間の物差しを否定するのです。考えればわかることですが、もともと世間の物差しのほうが狂っているのです、それは人間を商品化してしまった、おかしな物差しです。


だから、その狂った物差しから狂うことによって、わたしたちは「まとも」になることができるのです。私はそう思います。






老いることは商品価値の低下であるが故に、老人たちが老人であることを恥じ、少しでも若くあろうとしてがんばっている姿。


どう考えても悲しいですね。


老人が尊敬される日本にするためには、老人がみずから老人であることを誇りに持たねばなりません。そのためには、人間を商品価値で測る物差しを捨てるべきです。


諸悪の根源は、人間を商品価値で測る物差しです。でも、その物差しを捨てるためには、社会を根本から変革せねばなりません。


早い話が革命が必要です。


いっさい貨幣というものをなくした社会にせねばなりません。それは共産主義社会ではありません。強いて言えば、縄文社会です。


とすると、日本の人口は数百万人ぐらいにせねばならない。だから、絶対に不可能です。じゃあ、どうすればいいのでしょうか・・・・・・?また振り出しに戻ってしまいました。






捨てるというのは、それを笑い飛ばすことです。馬鹿にするのです。


というよりも、それに代わる、―もう一つの物差し―を持つことです。


実際には、いま世間で通用している「人間を商品と見て、その価値を計る物差し」を捨てることは、なかなかできることではありません。


われわれは幼児のころから、その物差しを教え込まれてきました。すっかり洗脳されてしまっています。だから、それを捨てることはほとんど不可能です。


でもそこで、もう一つ別の物差しを持ちます。そうすると、世間の物差しが「絶対」でなくなるわけです。絶対でなくなれば、われわれはその呪縛から解放されます。わたしたちは世間の呪縛から解放されて、「自由」になれるのです。






そもそも国家というものは、知人のお坊さんが言っていましたが、われわれ庶民から、納税の義務でもって・・・・・・財産を掠め取り、兵役の義務でもって・・・・・・生命を強奪し、教育の義務でもって・・・・・・魂を奪い去る、ものなんです。いまは兵役の義務はありませんが、うかうかしていると国家の代りに大企業が過労死という形でもってわれわれの生命を略奪しかねません。






老いをどう生きるか・・・・・・といえば、基本的には「世逃げ」のすすめになります。


そして、具体的にどうすれば「世逃げ」ができるかといえば、世間と道徳と他人にむやみな関心を持たないことです。


そもそも日本人は、世間や道徳、他人に対して関心を持ちすぎています。


若いあいだは仕方がないとして――本当は若者だって、あまり世間・道徳・他人に関心を持たないほうがいいのですが――、老人にまでなって関心を持ち続けるのは感心できません。



―四住期―
1 学生期・・・人生の最初の時期。この期間は師より真理を学ぶ。
2 家住期・・・家にあってそれぞれの職業に専念する期間。
3 林住期・・・森林に住む機関。つまり家を出て隠居する時期。
4 遊行期・・・その森林も出て、放浪の生活をする期間。






人間社会においても、現実に強者と弱者があります。その場合、強者のほうの義務を大きくすることによって、「公平」が回復されます。


ところが、現代日本の社会は平等をタテマエにしていますから、義務に関しては強者と弱者が同じになります。そうすると、当然、弱者のほうが負担が大きくなります。


タテマエの平等が結果としての不平等をもたらすことになります。人間が発明したもう一つの文化は、―布施―の思想であり、これは主として仏教が教えるものです。


これも現実社会に強者と弱者があり不平等であるのを、強者の負担を重くすることによって公平を保とうとする思想です。


布施は、強者から弱者への施しです。けれども、どうやら日本人は布施の思想を誤解しているようです。日本人にかかると、布施は、強者が弱者に恩恵的に、また恣意的に施すことになってしまいます。


だが、仏教が説く布施は、そのようなものではありません。強者は人間の義務として、弱者に施しをすべきです。それが仏教の本来的な意味での布施です。


したがって、布施において感謝すべきは、施しを受けたほうではなしに、施した者です。


つまり、貰った者が「ありがとう」というのではなしに(言ったってかまいませんが)、施した者が、「あなたが受けてくださって、わたしは人間としての義務を果たすことができました。


「ありがとう」と言うのです。そうしたとき、本当の布施になるのです。
<俺がおまえに施してやったんだぞ。お前は俺に感謝しろ>といった気持ちがあったのでは、本当の布施にならないとされています。


ところが、平等をタテマエとする日本の現代社会では、この布施のこころが機能しません。


施しがなされても、それは見掛けだけの施しであり、施した者はそれをいつか取り返したいと思っています。


つまり、施しは一時的な貸し付けであり、将来の返済が予定されています。


その将来の返済が期待できないときには、強者は弱者に布施しようとはしません。そうすると、弱者に救いがなくなります。


しかし、日本人は平等をタテマエにしていますから、日本には弱者は存在しないのです。だから、弱者の救済がなくても困りません。平気でいられるのです。






人間、誰だって、独りで気ままに生きるほうが気楽でいい。


それで、気楽な暮らしができるうちは、気ままに会社人間でいて(いや、仕事をしててもいいのです。しかし、子どもと離れて仕事中心で生きている姿勢が問題です)、退職後は遊んで暮らしておいて、独りの生活がつらくなったから子どもと一緒に住みい・・・・・・というのは、わがままでしょう。


子どもと一緒に住みたいのであれば、若いうちにさっさと仕事をやめて、子どもが住んでいる場所に移って、留守番や子守をすべきです。


それが、すでに述べたように、インド人のライフ・スタイルです。世界のほとんどの人々は、そういうライフ・スタイルで生きています。


会社の奴隷になり、身も心も会社に売り渡した日本人の老年が、わびしく、みじめなものになっても、それは自業自得ですよね。


まぁ、ともあれ、長寿社会というのは、そのような問題をわれわれに投げかけています。そのことをしっかりと認識しておいてください。






世間の中にいて、世間の中でそれなりのポストを得て活躍している人間は、やはりどうしても世間の価値観でものを見ます。


世間の物差しを使うよりほかありません。そうでないと、世間に通用しないのですから。そうすると、その世間の物差しの歪みを指摘できる人間は、世間を一歩退いた「出世間人間」です。つまり老人。老人だけが現実社会を批判する権利を持っています。
いや、権利ではなしに、義務かもしれません。というのは、日本の年寄りは、いつまでも世間の中にいて、世間の価値観・世間の物差しにしがみついています。


「生涯現役」だなんて馬鹿なことを言う年寄りが多くて、なかなか出世間人間になろうとしません。


そんな年寄りには、世間を非難する権利もないし、能力だってありません。世間の物差ししか知らないから、別の物差しでもって批判することができないのです。


日本の老人たちは、世間の外に出て、


――もう一つの物差し――


を学び、それを若い人々に教える義務があります。


年寄りがその義務を果たさないと、若い人たちがいつまでも屈辱的な奴隷的人間、商品化された人間でいなければならないのです。


そして、そのもう一つの物差しは、ほとけさまの物差しです。ほとけさまの物差しには、目盛りがついていません。


なぜなら、それは価値観を測る物差しではないからです。分別するための物差しではなく、あらゆる人間をそっくりそのまま肯定するための物差しです。


換言すれば、ほとけさまの物差しとは無分別智です。ほとけさまの智慧です。日本の老人は、そのほとけさまの物差し―無分別智―を学び、それを若者に教える義務があります。






芸術家にしても同じです。画家・音楽家・詩人たちは、貴族のパトロネージュ(引き立て)の下で活動できるのです。


その意味では、古代においては彼らも奴隷的存在であったのです。プロフェッショナルが奴隷の系譜に属するのに対して、アマチュアは貴族の系譜に属します。


だから、プロが尊敬されるのはおかしいのです。ヨーロッパにおいては、現代でもこのような考え方が基本にあります。


われわれ現代日本人は、いささか偏った考え方をしているのです。そこで私の提案ですが、年をとればプロを尊敬することをやめて、――アマチュアリズム――に立脚しましょうよ。


アマチュアであることに誇りを持つのです。
具体的にいえば、下手を楽しむ。あるいは、同じことですが上手になろうとしないのです。日本人はゴルフをするとき(じつはわたしはゴルフをしませんが・・・・・・)、練習をしてうまくなろうとします。それがつまりはプロ意識です。アマチュアは、練習してはいけません。下手なまま楽しむのがアマチュアの特権です。



日本人はギャンブルをするとき、勝とうとしますね。あれは見苦しい行為です。


勝つためならば、ギャンブルなんかしないほうがいいのです。


ヨーロッパの貴族は、ギャンブルを負けるためにします。


ゆっくりと負けを楽しむ。それが貴族精神です。アマチュアリズムなんです。



本当は、若いころからこのアマチュアリズムを培っておきたかった。


けえれども、世の中の風潮がそれを許してくれませんでした。


だからせめて老後は、アマチュアリズムに立脚しましょうよ。


若いころに奴隷的に馬車馬のごとく働いてきたわれわれは、老いの身になれば、――精神的貴族になっていいのです。


アマチュアリズムとは、じつは精神的貴族になることなんです。奴隷を卒業することです。私はそう考えています。

8/07/2007

三世(さんぜ)をみつめる


三世(さんぜ)をみつめる/ひろさちや&玄侑宗久

ヨーロッパには「ノブリス・オブリージュ」という精神があります。ヨーロッパの貴族の家に生まれた人間は、いずれ皆を統率していく宿命にあるわけだから、厳しい教育を受け、高貴さ・崇高さを養うのが義務であるという精神です。
仏教には「長者」という言い方があります。長者というくらいですからお金持ちです。しかしそれだけではない。また人徳もある人をいいます。いまこの「長者」という概念を一般の人に説明しようとすると非常にむずかしいのは、お金持ちは人徳もあるという常識がまったくないからです。アダム・スミス風にいえば、今はお金が空を飛んでいます。お金がお金を生む投機の世界には人徳など関係ないということでしょう。
ところが長者もそうですし、ノブリス・オブリージュを求められたヨーロッパの貴族もそうですが、お金持ちは必ず人徳もあったわけですね。

意識は丹田に置け
私は演台に立つと、踵を上げて体を揺すって意識を落とします。あがっている状態というのは、意識が頭にあるわけです。ですからちょっと体を動かして意識のあり場所を変えてやる。そうするしかありません。
意識のあり場所は重要なテーマだと思います。体の中心部である丹田に意識を据えたとき、いちばん体から力が抜けます。

明治以降、維新政府は徹底して家族を壊しはじめます。家族を壊さないことには天皇制宗教をつくれなかったのです。ヨーロッパ型であれ、あるいは昔の中国・インド型であれ、家族がしっかりしていれば、だれが天皇を敬いますか。自分の家の宗教がちゃんとあって、家長に絶対権があって、さらに家長に対する尊敬の念があれば、天皇を盲信するようなことはありません。それでは天皇制が成り立たないから、維新政府は家族を壊したわけです。
中国など、昔は家族や親類のなかに優秀な子が出ると、みんなでその子を援助して出世するよう一生懸命に育て上げた。そしてその子が軍の大将にでもなれば、今度はみんなが職を斡旋してもらったり、一族郎党が食わせてもらった。そういうシステムがありました。

家は桎梏か
日本の場合はたしかに明治以降、国家への「忠誠」が求められるようになり、それとともに「家」という大きな砦をなくします。そして戦後になると、かろうじて残っていた家さえも「桎梏だ」「家は悪いものだ」となりました。
イプセンではないけれども、「人形の家」です。人は家に縛りつけられている。そこから自由になりたいと主張しはじめる。しかし家から自由になった人間は会社の奴隷になるしかなかったわけです。そこを見抜けなかったのは戦後の日本人、とりわけウーマン・リブの人たちの愚かさだと思います。

教育は義務か
教育は家庭でやってもいい、いや本来は家庭ですべきものだと思います。子供に教育をするのは親であるべきだというのが私の考えです。
あるお坊さんがこんな事を言ってました。「私たちは納税の義務で財産を奪われ、教育の義務で魂を奪われ、そして徴兵の義務で生命を奪われる」と。まさに至言だと思いましたが、国家とは泥棒の親分のようなものだ、というのはじつは仏教のものの見方でもあるのです。


8/06/2007

マネーの公理


マネーの公理・スイスの銀行家に学ぶ儲けのルール/マックス・ギュンター

第一公理:リスクについて
心配は病気ではなく健康の証である。もし心配なことがないなら、十分なリスクをとっていないといことだ

副公理1いつも意味のある勝負に出ること
副公理2分散投資の誘惑に負けないこと

第二公理:強欲について
常に早すぎるほど利食え

副公理3予めどれだけの利益が欲しいのかを決めておけ。そして、それを手に入れたら投機から手を引くのだ

第三公理:希望について
船が沈み始めたら祈るな。飛び込め。(損切り)

副公理4小さな損失は人生の現実として甘んじて受けよ。大きな利益を待つ間には、何度かそう言う経験をすると考えろ。

第四公理:予測について
人間の行動は予測できない。誰であれ、未来が分かるという人を、たとえわずかでも信じてはいけない。(起こった事に反応する)

第五公理:パターンについて
カオスは、それが整然と見え始めない限り危険ではない

副公理5歴史家の罠に気をつけろ
副公理6チャーティストの幻想に気をつろ
副公理7相関と因果関係の妄想にきをつけろ
副公理8ギャンブラーの誤謬に気をつけろ

第六公理:機動力について
根を下ろしてはいけない。それは動きを遅らせる。

副公理9忠誠心やノスタルジーといった感情のせいで下落相場に捕まってはいけない
副公理10より魅力的なものが見えたら、直ちに投資を中断しなければならない

第七公理:直感について
直感は説明できるのであれば信頼できる

副公理11直感と希望を混同するな

第八公理:宗教とオカルトについて
宇宙に関する神の計画には、あなたを金持ちにすることは含まれていないようだ

副公理12占星術が当たるのであれば、全ての占星術師は金持ちであろう
副公理13迷信を追い払う必要はない。適当なところに置くことができれば楽しめる

第九公理:楽観と悲観について
楽観は最高を期待することを意味し、自信は最悪に対処する術をしっていることを意味する。楽観のみで行動してはならない。

第十公理:コンセンサスについて
大多数の意見は無視しろ。それはおそらく間違っている

副公理14投機の流行を追うな。往々にして、何かを買う最高の時は、誰もそれを望まないときである

第十一公理:執着について
もし最初にうまくいかなければ、忘れろ

副公理15難平買いで悪い投資を何とかしようとするな

第十二公理:計画について
長期計画は、将来を管理できるという危険な確信を引き起こす。決して重きを置かないことが重要だ
金持ちになる意志を持つだけにしろ

副公理16長期投資を避けよ



8/05/2007

金持ち賢者の習慣術


金持ち賢者の習慣術・小泉十三



「本当に大切な自由はただ一つ、経済的な自由だ」
「他人に何かをするためにお金を支払える人が、自分のために何かをするには、人生は短すぎる」サマセット・モーム

老後をはっきりイメージしながら生活する。
”本物”の食事や芸術を味合うためなら、お金を惜しまず使う。
「お金で買えない財産」を大切にする。

ブリジストン創業者・石橋正二郎
「何かをがまんするところがなければ貯蓄はできるものではない。貯蓄のできぬ人は節約と克己心が足りぬからである。あくまでも初志を貫徹せよ。」

「買ったつもり」になって貯金にまわし、必要な時に備える。
自分なりの価値観に沿ってお金を使う。
「お金を使わない楽しみ」を知る。
若いうちは「自分への投資」も同じくらい大切だと考え、お金を使うことを決して惜しまない。
物を増やさないシンプルな生活に満たされて出費を防ぐ。
子供の成長をつねに頭に入れ、子供にとって最善の選択ができるように準備しておく。

現金で買えない物は最初から、「買わない」
自分でできることでも、プロに任せることを知る。
自分の時間を捻出するためにお金を使う。
人付き合いを何よりも大事にして情報やチャンスを得る。

増やさなければ、減っていくのがお金。
そのお金を「どう増やすか」を考える。
プロの耳は借りても、鵜呑みにしない。
「いくら損する可能性があるか」を考える。
失敗の歴史を学ぶいっぽうで、自分も最悪のケースに備える。
「高いリターンがあるからこそ、そのリスクも高い」と考える。
「利益が出る可能性」を重視する。

株の儲けは知恵が一%で、あとはすべてガマン料である。
プラスマイナスゼロなら問題ないと考える。
チャンスを逃さず、すぐに行動を起こして巨利を得る。

8/04/2007

2ちゃんねるはなぜ潰れないのか



2ちゃんねるはなぜ潰れないのか?/ひろゆき(西村博之)

フューチャリスト宣言より、共感した。以下、うーんと唸った箇所を。




「○○をしない」と堂々と言うことは「いつか自分は○○するよ」という意味だと、僕は考えています。「人を殴らない」と言う人は、いつか誰かを殴るから、その言葉を使うわけで、そもそも人を殴ることを想像していない人には、そんな言葉は思いつきません。

こうやってグーグルを見ていくと、決して優秀な技術力のある会社ではなく、優秀な企画力と営業力のある会社であることが見えてきてしまうのです。いろいろな方々が、グーグルがすごいとおっしゃっているようですが、僕には、企画・営業力とサーバーメインテナンス以外、スゴイ部分がわかりません。

グーグルやミクシィがWEB2.0企業と呼ばれているのをみると、WEB2.0の裏に隠されているものは、技術力ではなく、いかにクリーンなイメージを押し出すか、そして、いかにユーザーの心を惹きつけられるのか、ということなのかもしれません。

ライブドアは挑戦をしない会社へと変貌してしまいました。結果、今まで安い給料でも面白いことができるからとライブドアに所属していた優秀な人材が、面白いことすらできない状況になったことで外部に流出してしまった。

動画を観る行為自体は暇つぶしのネタです。2ちゃんねるのニュース速報を見ている人は、ニュース自体に興味があるわけではなく、何かちょっとでも自分が絡める話題があれば一言言いたい。ニコニコ動画は、その感情の動画版というだけなのです。

頑張れセカンドライフ
その理由の根幹にあるのが、基本的にお金がないと面白くないというシステムです。物を売買し、自分を着飾ったり、家を作り上げたりするゲームなので、何をするにせよお金を払えとしか言われない。お金を支払わないでできることはチャットくらいという、商行為がゲームの全てでないのです。ゲーム内で楽しむためにお金を支払えと言われて、支払う人がどのくらいいるのでしょうか?お金を支払ってまでセカンドライフの中で楽しまなくても、現実に楽しいことは、たくさんあります。
セカンドライフ内に知り合いが大量にいて、チャットをすれば面白いかもしれない、とも考えましたが、セカンドライフでは一つの空間(1SIM)にユーザーが約50人しか入れないという制限がある。これだけマスメディアがセカンドライフを報じているにもかかわらず、なぜか、この事実にあまり触れません。

日本だけではないのですが、このように法律が技術発展や利益の見えない足かせになっている事実は、確かに存在するのです。

8/03/2007

フューチャリスト宣言・梅田望夫&茂木健一郎



フューチャリスト宣言・梅田望夫&茂木健一郎

本屋に平積みになっていた春に読んで、以下の内容ピックアップ。

梅田さんは理想論者だね。でも、勉強になった。





インターネットの成り立ちのところに、利他性というかボランティア精神的なものがかかわっている。インターネットという素晴らしいものが毎日動いている裏には、いろんな人のただ働きがある、無償の奉仕をしている人がいる。

シリコンバレーのルーツは、フロンティア精神、テクノロジー志向、反権威、反中央、反体制、それからヒッピー文化、カウンター・カルチャーというか、そのへんの組み合わせですね。
日本にも反体制、ヒッピーっぽい人はいますが、その人たちは往々にして技術を持ってない。しかも、うらめしそうな視点(ルサンチマン)を世界に対してもっている。意欲でも権威の側に負けていることが多い。でもアメリカには全然違うタイプがいますよね。

要するに自分一人の能力がテクノロジーによって増幅されなければ、必ず権威に負けるわけですね。権威と闘う道具としてのテクノロジーということです。

コンサバティブなことを言うほうが最後は負けるだろう、そのくらい世の中が進歩することが経験的にわかっている。コンサバティブなことを言うほうが陳腐化するだろうなという、逆の常識がある。だから僕なんかも、たとえばブログやウィキペディアを見て、「wisdom of crowds/群集の叡智」だとか「総表現社会の到来」だとか言うのは、そういう逆の常識に導かれているんですね。

今の日本社会は、新しく生まれた大きな存在に対して、「気に入らない」と言っていると何とかなってくれるんじゃないかと思っている。もう後戻りできないほど強力な力が働いているのだから、そのことを前提にどうやっていくか、という議論を本当はしないといけない。
どんなものでも、新しく出てきたものは毒性が強い。

自分の肩書きに頼ってモノをいう奴は本当にダメで、肩書きはいらない。ブログが一個あれば良い。ネットでのプレゼンスをどれだけ高めていけるかという、その戦略というのは大事なんですね。

ネットは絶対に有料にしちゃいけないんです。無料にしてそれで広告が入るかといったら、先進国でまともな生活ができるほどは普通に入らない。一方、リアルというのは不自由だからこそ、お金を使って自由を求めます。だから永久にリアルの世界でお金が圧倒的に回る。この二つの世界での生計の立て方とか、それから知的満足のしかたとか、いろいろ組み合わせて戦略的に考えていく必要があります。

個人が組織に属しているという考えはもう古い。勤務規定とかがあるとして、人事の人たちの顔をつぶしてはいけないから、積極的に反逆することはしないほうがいい。でもそんなことで自分の行為をがんじがらめに縛ったら、これからのネット時代に輝けない。組織と個人の関係をうまくやらなければ日本は活性化しない。組織が大事だと言うならば、シリコンバレーとは違う、日本的な表現があっても良いのです。七割は会社なんだけど三割は個人、そんな考え方もアリだと僕は思っている。

談合社会の中に入って仲間になれという圧力が、日本社会のありとあらゆるところでとても強い。

「可能無限」という概念があります。もともと数学用語で、自然数を1,2、....と数えていった時に、どんな大きな数(n)を考えてみても、さらに大きな数(n+1)を、可能性としてどこまでも提示できるということ。可能無限は、「もう一つ増やす余地がある。」という意味での「空白」によって常に支えられている。他方、実無限(本当の無限)というものは、実際に我々が扱うことはできない。私たちは実無限を決して知りえないし、人生において手に入れることもできません。人間に与えられた時間には限りがある。にもかかわらず、若者が「また次の日がある」と思い続けられるのは、じつはそれは可能性としての無限に過ぎないにもかかわらず、実無限であるかのように感じることができるからです。ただ、そのことの効用は大きい。ネット上はまさに可能無限の宝庫で、それはリンクをどこまでもたどっていくことができるから、実無限は手に入れられないけれど、ネット上ではまさにフリーで、ドンドン歩みを進めることができる、可能無限が実現している。

警戒心を解くというのが、ネットで生きるための大切な知恵だと思います。僕はいろんな情報をネット上で公開していますが、そういうことができない人って、やはり警戒心がある。著作権フリーでおいておくと、悪用されてしまうんじゃないかと。でも、コミュニケーションを阻む最大のものは警戒心ですよね。あるいは、免疫作用というか。自分を守ろうとする気持ち。そういうものを取り払ってオープンにしていかないと。

世の中で求められているのは、創造性とコミュニケーションなんですよ。

僕のプロフェッショナルの定義は簡単です。お金をもらっていることじゃなんです。お金をもらっていても、仕事を楽しんでいなければプロじゃないんです。プロフェッショナルの定義というのは、自分のやっていることに快楽を感じる人。しかも、生物学的に単純な快感じゃつまらない。そうではなく、仕事とか勉強とかをいくらやぅっても飽きない人。

8/02/2007

笑いの感覚



笑いの感覚ほど、共有するのが困難なものはない。


笑いの感覚ほど、その人の判断基準になり得るものもまたない。


笑いの感覚は人それぞれであり、複雑でもある。

松山猛 Mr. Freedom










松山猛 Mr. Freedom


自分のスタイルを持つことがいかに大切かを、忘れたまま大人になることは、生活の楽しみの一つを、自ら放棄することになる。



大人になってスーツを着て生活するのには慣れる人は多いが、それは学生時代の学生服の延長のようなものだ。
型にはまっている安心感とでも言えばよいのか。
だから普段着に何を着ればいいかが分からない大人が増えた。
団塊の世代ももうすぐ定年の時代を迎える。
スーツを脱ぎ去った後、彼らは途方にくれるのだろうか。



それは「足る、を知る」精神であり、同じ時代を、励ましあいながら生きる、仲間の力の大切さだった。いざとなったら友を助ける努力をしよう。
そう21世紀は「趣味と友情」の世紀でありたいと切に思う。一人勝ちするだけなら、友は去っていくばかり。
孤独であっても有り余る豊かさを取るか、そこ、そこの生活でも、にぎやかな人間模様を取るかの、いまは分岐点なのかもしれない。


8/01/2007

谷口雅春

生長の家創始者谷口雅春の本を読んで。ブックオフで100円で購入。良い事書いてあったの以下に。


最も永続性のある宝
人間の最も滅びがたき永続性ある宝は「徳」である。金銭は徳なくして多く得れば必ずその人を破滅に導くのである。
快楽は徳なくして多く得れば、その人の魂を荒廃に導くのである。
美貌は徳なくしてこれを得ればその人を堕落に導くのである。
金銭は徳なくしてこれを使えば、浪費せられて間もなく貧しさが訪れる。
快楽は徳なくして貪れば忽ち苦渋と変わる。
美貌は時とともに老い朽ちてあとを留めなくなるのである。しかし徳は、これらすべての物を生かすのである。
金銭は徳ある者これを使えば必ず人を救うのである。
快楽は徳あるものこれを得れば人生に興趣を添えるのである。
美貌が徳ある者に備わるとき愈々高く気高くなってその人に接するだけでも人々の魂を高めるのである。

「徳」が身に備わるためには
徳は位置にして備わらない。徳は良き行為の累積がついにその人の人格より発する光輝となったところのものである。
毎日人様の便所を掃除するとか、廊下の拭き掃除や、掃き掃除をするとか、貧しき人を援けてやるとか、人々の垢を流す風呂を沸かすとかして、人々に好感を与えるように、人々に便利を与えるように人々を何らかの形で救ってあげるとかすることによって、その人に何となき温かい風手が備わるようになってくる。
内にたくわえられた「徳」が外に光を放つようになった時、その人の容貌は、生まれつきの骨格がどうであろうと何とも言えない、麗しい、優しい、親しい、そして威厳のある感じをもつようになるのである。美貌というものは「愛によって変貌した容貌である」と或る人が言った通りである。

何用あって月世界へ



何用あって月世界へ  山本夏彦名言集





八百長は必ずしも悪事ではない。この世はもっと本式の悪事に満ちたところである。それを知って悪に染まないのと、知らないで染まないのとでは相違する。
いうまでもなく、知っててそれをしないのがモラルである。
私はすべて巨大なものえらそうなものなら疑う。
疑わしいところがなければ巨大になれる道理がないからである。大デパート、大会社、大新聞社は図体が大きい。よいことばかりして、あんなに大きくなれるはずがない。
総評や日教組は組織が大きい。
もっとも大きいのは世論で、これを疑うのは現代のタブーである。
だから私は疑う。
世論に従うのを当然とする俗論を読むと、私はしばしば逆上する。

善良というものは、たまらぬものだ。危険なものだ。殺せといえば、殺すものだ。

全き善人と芸術家とは、ふつう両立しない。
私は各人に個性があることを前提とした教育は、間違いではないかと疑っている。
人は個性ある存在ではない。人は大ぜいに従うもので、従ってはじめて安心するものである。
従えと言って、断じて従わぬ個性はまれである。万一あれば大ぜいは、世間は、社会はそれを爪はじきする。
すなわち、爪はじきされて、はじめて個性は頭角をあらわす。ちやほやされて育つ個性なんて、今も昔もないに決まってる。
(才能というものは)のぼり坂が三年、のぼりつめて三年、くだり坂が三年、〆て十年続けば良いほうである。
「愛する」という言葉を平気で口に出して言えるのは鈍感だからだ。
愛するが日本語になるには、まだ百年や二百年はかかる。
大きな声では言えないが、私の袖の下またワイロに近いものは必要だと思っている。世間の潤滑油だと思っている。
人は潔白であることを余儀なくされると意地悪になる。また正義感になる。
汚職は国を滅ぼさないが、正義は国を滅ぼす。

同類は何百人集まっても一人である。

金は魔物というが労せずし舞いこむ金はことに魔物で、人の子を毒すだけである。まずこれを減らすまいとして臆病になる。
利息だけで暮らそうとしてケチになる、人が来ると借りに着たのではないかと疑うようになる。
「年寄りのバカほどバカなものはない」ということわざ、大好きです。






7/31/2007

実践冥想ヨガ・生活編


実践冥想ヨガ・生活編/沖正弘

自分が本当の意味で自由自在にいきていてこそ、相手も自由自在に生かすことができるのです。こちらがとらわれると相手もとらわれ、こちらが嫌うと相手も嫌ってしまう。このように自分も生き、相手も生きる世界が悟りの世界です。無になるための修行法が禅であるのです。

人間的霊能者とは、感謝心、懺悔心、下坐心、奉仕心を持ち、愛の心で愛の生活が出来る人のことです。愛とは一番正しく物事を把握し、一番正しく物事を実行することですが、この基本が感謝、懺悔、下坐、奉仕の心なのです。このためには体を柔らげること、心は安らげること、生活は楽しむことが必要なのです。ヨガの肉体的訓練はすべて体を柔らげるものであり、この原則が笑いです。そして、体全体を笑わせるものが呼吸法なのです。心を柔らげるには喜びを感じる必要があり、喜びを感じるには感謝心がなければならないのですが、おかげを感じないと感謝心は出てきません。楽しみは相手に喜びを与えたときに自分の手にすることができるものです。自分だけ喜んでも本当の楽しみは与えられません。仕事においても、仕事が喜んでくださるような仕方をしたときに、こちらも楽しくなれるのです。

本当の儲けとは、自分の儲けと相手の儲けと社会の儲けとがピタリと一致した場合をいいます。自分だけの儲けでは偏りがあります。自分と相手と社会の儲けを併せると大きな儲けになります。

引けば引かれ、いじめればいじめられ、泣かせば泣かされる。困らせれば困らされる、騙せば騙される。これが自然の法則です。私は、日々の生活と仕事は、どれだけ自分の全力を投球できるかを見るためにあるのであり、このすべてへの全力投球の生き方が自己にノルマをかけることであり、この自己にノルマをかけた仕事の仕方をするとき、はじめてその仕事が自分の仕事になるのであると思っています。

才能は喜びを感じる刺激を与えた時に伸び、良い人間にもなりえます。体が喜べば健康になり、心が喜べば幸福になるのです。ですから、どうしたら喜べるか、どうしたら喜ばすことができるかを意識的に考えるのです。喜びを感じない生き方をしていると疲れてしまいます。疲れないための原則は、心、体、仕事に対して柔軟性を持つことです。出来るだけ広く学ぶと人生が面白く、愉快で楽しくてたまらなくなり、よいアイディアも浮かんできます。

教育とは、自分が犠牲になる覚悟でするものです。相手を裁きたかったら、先ず自分から裁くのです。

私たちは何を学ぶにも、先ず自己流の考えを無にして正しい型に入り、その型の中で正しい方法を体得するのが自己の開発法であり、ものを正しくなすコツに至る道であると思います。これを「心眼を開く(開眼)」というのです。体の働きを正しくし、心を鎮めて、永遠の安らかさ(ニルヴァーナ)の中で、自然に出てきた感じを音に表すのが音楽家であり、色にするのが画家であり、文章にするのが文筆家で、事業にするのが事業家ではないでしょうか。心の成熟は「次第に」ですから、何事も年期を入れなくてはならないと思います。あせらず、しかし怠らずにです。表現は心身の練磨と、心身の環境の調和によってなされるものですから、自分がどういう状態であるかということが決定点です。

一切の煩悩から離脱して、身構え正しく、一物に心を込めて、無心にことをなすのが真実(コツ)に至る道ではないでしょうか。すなわち冥想行法の実践です。
その意味で、日本の生花や茶道や武道の発生、その発達によって教えられることの多いことを感じます。これらの、心を静め、心を清める芸道は、生死の真っ只中に立たされている武士たちによってつくられたものです。
私は華道とか茶道とかは美の宗教であり、武道やスポーツは道の宗教であり、日本文化の特徴は求道を中心にしているところにあると思います。求道を目的としている武道やスポーツは、勝負がその目的ではなく、心の修養がその第一目的となっていて、修行を通じて大自然の法則を体得して、その真理に沿った生き方の工夫をする自己完成の道です。静的な求道でも動的な求道でも、その原則は心を統一し、安定した姿勢をとり、丹田力を充実させ、意識を明確にしうる呼吸で行うことです。とくに動的訓練は、千変万化の動作をして、しかも乱れない心と安定した体をつくるのがその目的です。

人間は文化生活と称する不自然な生き方をしていますから、このアンバランスな生活の中でバランスを回復し、維持する能力を身につけない限り喜びは与えられません。自然法則とは「絶え間なく変化しながら、しかも安定性を保っている」働きです。アンバランスをバランス化してしまうことが救われる原理なのです。

今時分が困っているのは、誰が悪いのでもなく、今までほかを困らせてきたことの証明書なのです。自分を支配している法則と、社会を支配している法則は共通の法則です。生活の上で悪いことは心身の上でも悪く、仕事の上でも悪いのです。人間として成功する者は、そのまま生活で成功し、仕事で成功し、社会で成功することができます。自分が自分に成功することは、自分を大切にすることです。宗教的な言葉で「自分を拝むことが出来る者がはじめて他を拝むことが出来、自分を愛することの出来る者が、はじめて他を愛することが出来、自分を大切にすることが出来る者が、はじめて他を大切にすることが出来るのです。そして、自分を活かすことの出来る者がはじめて他を活かすことが出来、自分を管理できる者が、はじめて他を管理出来る」と教えています(自業自得の原理)。

筋肉を柔らげるためには心の力を抜くことが肝要で、このコツが呼吸を深く静かにすることです。頭にカッとくるようではダメです。いかなるときも冷静さを保っていることが心の修養であり、その秘訣が宗教心を身につけることです。そしてその第一歩が意識的に有難いと思うこと、依頼心を捨てることです。依頼心を持っている限り、そこには憎しみ、不平、不満が生じてきます。一切のことを自分でやるのだと思えば不平、不満をいう相手はなくなるはずです。心の平安を保つには「乞食根性」と「ヤクザ根性」を持ってはいけません。他に依頼心を持つことは、乞食根性を持っていることです。恩を売るのをヤクザ根性といいます。恩はただひたすらにかんじるべきものであって売るものではありません。無条件の善事がまことの善事であり、このまことの善事なら、業を残さないから、自然的に無執着心になれるのです。

頭を軽くし筋肉の力を抜くコツは呼吸をととのえることです。胸を張って肩を下げて、わきの下の力を抜いて下さい。感情をコントロールするのは胸であり、欲望をコントロールするのは腰であり、思考をコントロールするのは首であります。

冥想行法は、自己流の考え方や囚われた考え方から離れる修行ですから、どのようなことにも、引っかかったりしないことが肝要で、悟ろうと求めたり、奇蹟や神助を祈ったり、治りたいと願ったり、真理とは何かなどと、求めても考えてもいけないのです。ただ無条件に行うのです。すなわち生じるままに生じさせ、滅するままに滅しさせるおまかせの心になるのです。見性、見神による信仰心が最高のおまかせの心であり、この心は安定していて静寂ですから、明鏡止水の状態とか、超えた心とかと形容し、何も求めていないかのような状態なので、無心というべきものです。

私は自由に求道したい心から、生涯何にも属さず、できる限り多くのことを体験するという生き方を続けて、約五十種のちがった職種の体験を持っています。商売とは、お客様に喜んでもらい、ほかの売り上げも伸ばしてあげるという、商道にまで引き上げてこそ価値があるのです。

安易な道を選ぶのは商売をする者のとるべき道ではありません。売れない商品を仕入れると、売るためには、どうしても全力投球しなければなりません。あらゆる知恵を総合しなければならないのです。自然に、あらゆる方法を研究し、知恵を高めていくことができるのです。

科学がそのまま哲学であり、哲学がそのまま科学であり、医学がそのまま宗教であり、宗教がそのまま医学であり、心理学がそのまま体育学であるというようになったとき、はじめて人間育成の学ということができると思います。それはこれらの学が人間とその生活に直結するものだからです。心の注意力と体の注意力が最高の状態で協力結合して、ある一つの目的物へ全力を集約傾注できるようになったときが統一状態で、このことを繰り返して行っているうちに相手のことがそのまま自分のことのように分かるようになったら、これが自他一如の境地です。この自他一如になったときが合掌礼拝の境地であり、相手のことがそのまま自分のこととして考えられ、感じれるようになったときが、本当の意味の和合(三昧)であり、ここに真の平和と自由の世界が生まれるのです。

「生命力を弱めている者ほど、心身の働きの失調者ほど、外的条件を多く要求するのである」

直感、直覚を働かせる秘訣は、何に対しても同じことです。それは、好きになることです。関心を持つことです。愛の心をそそぐことです。発見、発明はこの心から生まれるものです。仕事が好きになれば、仕事の方が感じ方、読み取り方、やり方を教えてくれるようになります。これが三昧です。

7/30/2007

ヨガの喜び

ヨガの喜び・沖正弘


活用能力とは、敵を味方にする力のことだ。あれはだめ、悪い、害だ、などの否定的な言葉を言う前に、相手をどうしたら救えるか、高められるかを考えるべきだ。
相手が敵だと思っている間は、こちらはおどおどしていなければならない。そんな否定的で消極的な気持ちでいるうちは、心は安定していないし、強い心を持っているとは言えない。
相手に何度背かれても、最後まで愛することだ。自分が腹を立てたら、自分の負けになる。
活用能力のことを、「愛」という。
嫌いな友達とも付き合い、病気にかかっても感謝する。そしてその友達を好きになる方法、病気を活かす方法を考える。これは「祈る」ということでもある。
例え嫌でも、とにかくやろうとするところから強い心、しなやかな心は生まれる。

現代人のように、考える力ばかり練習していると、感じる力は衰え、生活は間違ったものになるのだ。
でも、この考える力は、人間はどんなに進化しても、生命があるかぎりその基本として働きつづけている。いま見えなくとも、ただうずもれているだけだ。「第六感」、「虫の知らせ」、「嫌な予感」というのがそうだ。

瞑想方法は、感じ方、考え方を正し、高めるために行う。その行法では、まず無心になることを説くが、その前段階が一心になること(ダラーナ)である。
一心とは、たったひとつのことだけに、心を集中することである。見る時には見ることにだけ徹する。聞くこと、歩くこと、考えることも、徹すれば、感じる力が協力してくれるようになる。一心をつづけていると無心になるのである。
心が分裂していては、感じる力は働かない。だから、困った時ほど騒がず黙っている。心を静かにしていれば、どうしたらよいか自然にわかってくる。

いまの教育は、知性開発の訓練ばかりしていて、感じ方開発の訓練をおろそかにしている。芸術科目だけは感じる能力の訓練になるはずなのだが、その 時間はごく少ないし、型にはめる練習法しかやっていない。絵を描くときも、お手本のようにきれいに描くことだけが念頭にある。これでは何にもならない。
ほんとうは、自分がどう感じたかそのままを、色や形で表現したものが絵である。
踊りや音楽も同じだ。うれしさや悲しさを、無心になってそのとおりに体や音で表現するのが芸術のはずだ。
無心になってのものごとをじょうずに行うコツは、遊びにあるかもしれない。

金があると思うから心配したり、不安になったり、疑ったりして少しも落ち着かない。心が執着してやまいものから、しばらく心を意識的につきはなし、 自己の心身のありようを客観的に見つめてゆく。あっても、ない。あるいは、なくても、ある。自分をいつも反対の状態、極限の状態に置いて、意識的に練習を つづけてゆく。

壁にぶつかったら、心を集中して何度でも、挑戦する。そして、もう打つ手がなく、力を出し尽くして、心を無にしたときに、壁の向こうが見えはじめる。
だから、自分がとことん打ち込める何かを発見することは大切なことだ。努力しつくさないと本当に信ずることは出来ない。考えに考えないと、その考えの渦から抜け出すことはできない。

「おまえにこの人間をあずけるから、その問題の解決に手を貸してあげなさい。それがおまえのためでもあるのだ。この人間が救われなかったら、おまえも救われないよ。」

7/29/2007

天才をプロデュース?



天才をプロデュース?/森昌行






私が考えるプロデューサーとは、まずファイナンスの責任を負う人間であることです。つまりプロデューサーとは、ビジネス・サイドとクリエイティブ・サイドのブリッジであるべきだと考えていて、その両方に対する責任から絶対に逃れられない立場の人のことを言うのです。責任があるから権利もあると言うことであって、「内容は監督がやることだから」と任せてしまうような人は本来のプロデューサーではないはずです。

ローカル・コンテンツこそ海外に通用する
本物のローカル・コンテンツでない、まがい物のインターナショナル・コンテンツが、この国のショービジネスにはあまりにもたくさんあるということです。よく「これが音楽的に世界の最先端」とか、「ロンドン録音」などを売り文句にしているけれど、実際聴いてみるとそれはあくまで外国の音楽のコピーしているようなものに過ぎなくて、国際競争力とは無縁のものだったりします。しかもそれを分かっていて確信犯的にそんなキャッチコピーを付けているだけならまだしも、本気で「これが世界だ!」なんて勘違いをしているケースも見受けられます。ナントカもどきは所詮、下品なまがい物に過ぎません。まあ、当人が幸せならそれもいいまもしれませんが。

行動の理由を明確にしよう
要するに記者会見というのは、私たちにしてみれば自分たちのためにメディアを利用する場であって、メディアに野ヅラの状態をさらす場ではないんです。




7/28/2007

ひと、死に出あう



ひと、死に出あう・週刊朝日










横尾忠則
この直感は肉体的な作用でもある。精神は常に変化し流動しているが、肉体感覚は「私自身」に忠実であろうとする。この「私自身」がぼくにとっては霊魂である。「私自身」は考えや理性から生じたものではなく、肉体と魂が結ばれて生じる「真の私」ということである。この状態がぼくに霊魂の存在を教えてくれるのだ。












邱永漢
私は自分が死ぬ時が現役を退く日と心得ているので、仕事がなくなる前に次の仕事をつくる永年の習慣を生かして、いまも忙しく世界中をとびまわっている。
中国では49歳とか、59歳とか、69歳とか、大台がかわる前の年が厄年である。











天本英世
「情熱の国スペイン」と言われるが、スペインは喪服と死の国である。その情熱は死への情熱なのだ。強烈な死があるから、生もまた強烈なのだ。今の日本では強烈な生もないのは当然であろう。


坂田誠
裁判を笑い、人生をも笑う。そのしたたかな笑いは、泣きわめくより、相手を恐がらせただろう。生には笑いがともなうが、死には笑いは似合わない。葬式の冷厳さがその象徴である。
笑いを失った時、人は自殺を考える。笑いを失わない人間は死をも笑う。笑っているうちは人間は死なないのである。
笑いが失われたところには死がある。日本の中で、もっとも笑いのないところは会社であり、そこに過労死なるものがある。


怒らないこと―役立つ初期仏教法話



怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉・アルボムッレ スマナサーラ





「怒ると不幸になる」怒っていると、気持ち悪いですね。退屈な時、気持ちいいですか?最低な気分でしょう。心に怒りがあると、人間は不幸なのです。逆にウキウキしているとき、心はどうですか?明るくて軽くて、すごく気持ちがいいでしょう。それを我々は幸福と読んだりするのです。


また愛情は、創造したり、何かをつくったり、育てたりする肯定的なエネルギーですが、怒りは、拒否したり、捨てたり、壊したりする否定的なエネルギーです。そして、その怒りはどこから生まれるかというと、自分のからだのなかです。ですから、怒りは自分を壊し始めるのです。



怒る人は負け犬です。知性のかけらもありません。たんなる怒りで動く肉の塊です。逆に、自分の心に芽生えた怒りを瞬時に察知して、怒らないでいられたら、素晴らしいことが起きます。「この問題をどうすべきか」と智慧が働いて、相手の怒りにも勝てるのです。


7/27/2007

AOR=Adult Oriented Rock


AORとは?

AOR=Adult Oriented Rock。お馴染みの図式である。
しかし"AOR"という表記で作品群をイメージするのは、それこそ日本の音楽ファンだけだ。米国でAORといえばAlbum Orientedの略であり、"R"はRockとRadioの双方を意味する。
つまりシングル・ヒットを指向せず、アルバムをトータルに聴かせようとするロック、あるいはそれをオンエアするFM局、そんな言葉だった。
日本でいうAORはAC(アダルト・コンテンポラリー)と呼ばれ、ここにはフュージョン系のインストゥルメンタルや、クワイエット・ストーム系のブラック・ミュージックも含まれる。
しかしアルバム・オリエンテッドという捉え方は、あながち的外れではない。
それは全盛期のAORには、生活を彩るBGMとしての効用があったからで、アルバム1枚丸ごと楽しめるというのも重要なファクターだったのだ。
最近は1曲良ければOKという傾向が見受けられるが、これには断じてノーと言いたい。AORと呼ばせるには、トータライズされたテイストが必要なのだ。
スタイルを楽しむだけでなく、同時に感情や精神性を共有するための音楽なのである。

当時のカウンター・カルチャー
ベテラン勢による原点回帰的な試みから始まったアンプラグド
今にして思えば、確かに"クリスタル・ブーム"は女性リスナーを獲得し、AORをポピュラーにした。しかしファッション化させてしまう両刃の剣でもあった。だがその根底を支えていたのは、レコード店でメンバーを確認して"クレジット買い"するような、純粋な音楽ファンだったと思う。サラッと聴き流しても雰囲気を楽しめる。それでいて、アレンジやコード進行を分析しても、感心するほど奥が深い。それが当時のAORだった。
部屋でくつろぐ時、ハンドルを握る時、アウトドアに興じる時、恋人と愛を語る時・・・・・・。いつもかたわらでAORが鳴っている。それが自然な時代だった。
タイアップという暴力的な情報操作でプロモーションを展開する昨今と違い、良い音楽は口コミで広がってゆく・・・・・・そんな幸せな時代だった。
あの頃の高揚した空気感が、どれだけAORを輝かせていたか。またAORが自分たちの生活にどれだけ潤いを与えてくれたか。その一体感の素晴らしさを実感し、次世代に語り継ぐことができるのは、リアルタイム派だけなのだ。


「○○は・・・・?」

圧倒的な歌唱力を持つスーパー・シンガーにして、"ミュージシャンズ・ミュージシャン"と賞賛される凄腕サウンド・クリエイター
素性は純朴で優しいオッサンという感じ
余計なことを考えずにボサッと聴くには、とても気持ちの良いアルバム
日々の暮らしに疲れ、自分を見失いそうになった時、こんなにも優しい音があるのを思い出してほしい
彼は気負うことなく、自然体で音を創った
ポップ・ミュージックに、もっと大人っぽいサウンド、つまりジャズやソウル・ミュージックのエッセンスを加えてみたら・・・
"大人のゆとり"を感じるヴォーカルのセンス
ナイーヴかつピュアな心情
その芳醇なテイストと深いコクには、丹念に磨かれた技術とスピリットが息づいていた
安らぎの時間を演出してくれる
温かい包容力を持たせた
情感豊かに仕上げた傑作
人生の光と影をくっきり映し出す。時と運命に翻弄され、ひとときの悦楽にもありつけない。そんな男の哀愁と孤独を感じさせる、隠れた名盤だ
遅れてきたビートニク
サウンドはスペース感を生かしたフュージョン寄りのハイブリッドなもので、リズムは滑るようにしなやか。ちょっと投げやりなヴォーカルも、独特の雰囲気を放っている
筋金入りの極上品
私小説的に詩(うた)を普遍的で大衆にも通用する"歌"へと消化させた彼
骨太かつ臨場感のあるサウンドが打ち出された

この作品もほとんどがミディアム~スローで、郷愁を呼ぶようなノスタルジックな旋律が特徴。酸いも甘いも知った大人が、まだ青臭かった昔を振り返るようなアルバム
バード・バカラックにも通じる美しいメロディを紡ぎ出す名ソングライター
トロピカルなリラクゼィション・サウンド
ヒューマンなヴォーカルとまろやかなアコギの響き
どうしてこんなに優しいんだろう、どうしてこんなに穏やかなんだろう・・・・・・。
このアルバムを耳にするたび、そんなことを思う
纏ったファッションはその時々で変わっても、中身の人間まで変わってしまうワケじゃない―彼はきっとそう言いたいに違いない
音楽はスタイルじゃない。肝心なのは人間なのだと
これぞ"エヴァー・グリーン・ミュージック"と呼ぶにふさわしいサウンドだ。
若葉が急に萌え出して、街に活気が甦る頃・・・・・・。
あるいは風の色がゆるやかに褪めてゆく夏の終わり・・・・・・。
音楽が決して流行やスタイルではないことを教えてくれる、そんな素敵な"なごみ"の1枚である
しっとりした旋律に、フェミニンな詞。恋に悩み、愛に傷つき、それでもまた誰かを求めずにはいられない。そんな男のひとり言を綴った、悲しくホロ苦い詩(うた)の数々。思春期の頃ならば、誰だってそんな想いをしたことがあるだろう
常にマイペースを貫き通して活動している。まったく飾り気のないシンプルな作風は、コンサバティヴとも言える。しかしその素朴な味は、もはや彼の個性として確立するのではないだろうか

キャスティングは相変わらず豪華でも、プレイは実にストイック
無理をして音を重ねずに充分な空間を残している。だからストリングスやブラス、アコギがとてもヴィヴィッドに伝わってくるのだ。それが彼自身が失わずにいる青臭さと相まって、独特の味にもなっている。
ぬくもりのあるメロディとハーモニーが素晴らしい
妙な先入観や既成概念に捕らわれず、音楽のありのままを受け入れる
トロピカル風味とレイド・バックしたムードを品良くまとめてみせた
商業主義の業界と距離を置いた?彼は、シンプルでシャープな音作りを試みたり、ジャズに接近しながら、今も自分の音楽家としての欲求を満たすような創作活動を続けている
商業化/大衆化を内包しているのが普通だ。なのに彼は実に恣意的で、純粋に音楽的洗練のプロセスが聞こえてくる。本人の才能もさることながら、恵まれた環境が良質の音を生んだ絶好のサンプルだ

7/26/2007

橋本治



橋本治

私が意外と好きな人。結構この人の著作はチェックしてるな。


近代は「現在」だけで、「過去」を認めたがらない。

どうしてかというと、その「過去」において近代は、「自分の頭でものを考えない、考えられない」という状態にいたからである。

そんな屈辱的な過去を思い出したくない。

-近代がそう思うのは、現在の自分が、「自分の頭でものを考える」を可能にしているからである。と同時に、その「現在」の向こうの「過去」には、「ものを考えられない自分に代わってものを考える他人」がいたからである。

会社への忠誠心だけが高い無能な社員ばかり抱えて、それを基本にして会社の規模拡大を図ったらどういうこうになるか?

「上司は思いつきでものを言う・橋本治」より

利潤を得れば、会社は大きくなります。会社の目的は「利潤を得ること」で、「大きくなくこと」ではありません。
真面目な仕事人間はただ働き、チャラチャラしていられるやつはただチャラチャラしている。現代の国会答弁で、大臣は官僚の調べて書いて来た原稿を、そのまま読み上げます。その「実務は事務方まかせで、えらいやつは好き勝手している」は、昔からなんです。

日本で能力主義が根付かず、年功序列制がそのままになっている理由は、「徳=能力」と解されていいものがそうならず、「徳=特別=なんだか分からない」になっていまうのです。
「やせた現場」をコツコツでも歩き回って、「どうすればこの現場をもう少し豊かに出来るのか?」を考えるのが、日本のやることです。

さよなら、さよならハリウッド








「さよなら、さよならハリウッド」ウディー・アレンの映画は良いね。
http://www.waveweb.co.jp/interview_detail.php?num=411

映画のタイトルをお題に、岡本吏郎さんというカリスマ経営コンサルタント?みたいな人が私と全く同感のことを言っていたので、以下に記します。

自らは「ハリウッド エンディング」をやらなくては大衆の支持は得られない。
自らの仕事に対する「こだわり」は重要。こだわりがないと仕事なんてできない。
しかし、こだわりすぎると誰も相手にしてくれない。
しかし、ブルース・スプリングスティーンのような「こだわりの評価」を得ていたミュージシャンが突然大成功
を納めてしまうこともある。
当然、ウディー・アレンも過去にオスカーを取っている。

「ハリウッド エンディング」という非独創。
「こだわり」という独創。

しかし、大衆が支持するのは「ハリウッド エンディング」。
「こだわり」は滅多に見向きはされない。

ところが、「ハリウッド エンディング」のほとんどは時代と共に陳腐化する。
同時に、多くの「こだわり」も討ち死にする。

7/25/2007

ぼくの人生案内/田村隆


ぼくの人生案内/田村隆一

酒はその土地の文化の結晶。イギリスは大麦、フランスは葡萄、ドイツはじゃがいも、日本は稲。酒別に世界の文化地図が できる。その土地の作物と水、太陽、湿度、温度、そういうものの結晶がお酒なんだ。酒の研究は、文化の研究。酒を愛するってことは、その国の文化を愛す るってことだ。

つつましく、今の自分に見合ったものの中で生活することが贅沢だということを忘れちゃいけないよ。シンプルライフでこそ、精神的な贅沢を味わえる。そして、単純化された生活ほど快適なものはない。

人間は元来、旅をする生きものなんだよ。生まれてから死ぬまでの、長いようでいて短い旅。人間の生涯は旅することなんだ。

旅というのは、未知なものとの交流であって、人、小動物、野草、海の色の変化、つまり、旅することは、肉眼を養うことなんだ。

スポーツマンシップの基本は自然に対する敬意を失わずに、肉体と知性で自然と遊ぶということ。

「舌は三代」と言ってね、味覚というものは、おじいさんの代から受け継がれているもんなんだ。つまり、ぼくたちの舌には100年の歳月がかかっているんだ。

7/24/2007

演歌の達人



『演歌の達人』佐藤稟一

ひばりの8テーゼ
1.音を我がものにする技が電光石火で正確
2.音域の幅がぶ厚く広い
3.声の表情が豊か
4.一音一音に多彩な音色を揺らめかせる
5.リズムのとらえ方が変幻自在
6.詩の言葉をだいじにし発音が美しい
7.詩の心をとらえる感性が豊か
8.音律に歌心が美しく溶ける

7/23/2007

土井利忠さん


土井 利忠さんって知ってるかな?ソニーの発明家。上層部の人?。天外伺郎というペンネームで面白本たくさん書いてる。瞑想とか、その手のことが中心なのでオカルトみたいに言われているけど、私は結構好きな人で尊敬してるんだな、これが。その土井さんが日経新聞のインタビューに答えたのを以下に。2005年の5月中旬(具体的な日忘れました、すみません)の記事から。



「米国の大学の礼賛論には全く賛成できません。米国の大学は、教授がベンチャー企業の経営者のようになって研究資金を集めなければならない。カネを集められる教授が研究者をたくさん抱えてどんどんのし上がっていく仕組みです。本来の研究とは関係のない競争が展開されているわけです」


「とにかくすさまじい勢いで競争をさせるので、他の研究者の成果を盗んでしまうという話もよく聞きます。油断もすきもない世界です」


――米国で盛んな産学連携を日本の大学はお手本にしようとしています。
「そうしたモデルを日本に持ち込むことには反対です。大学の本来の使命は、すぐには商売にはならないが、本当に先端的な研究をきちんとやることです。企業から研究資金を得られるのは、企業が考えている少しだけ先のことをやっているにすぎなないからです。大学が企業の出先のようになってしまうのでは世も末だという気がします」


――日本の大学は今のままでいいということですか。
「改善すべき点はあります。研究者としての能力がない人物でも、教授としてやっていける仕組みになっているのは由々しきことです。前時代的な親分子分の関係が残っており、研究に何も貢献していない教授が論文に名前だけ連ねたりする。能力を欠く教授には退場願う。だからといって米国式の競争モデルを無批判に取り入れるのは能がない」


「すでにベンチャーなどの企業活動では米国モデルの問題点が露呈していると考えます。
若くして巨万の富を築く起業家がもてはやされました。私は商売柄そうした人々をたくさんみてきましたが、後で消息を聞くと、うつ病になって苦しんだりしている人が多いのです。」


「自我の発達で、常に戦っていないと安定しないレベルを後期自我といいます。このレベルの人は戦う対象がなくなると燃え尽き症候群のようになるのが特徴です。米国に多いパターンです。日本の社会は、まだ依存心の残っている中期自我の人も多いのですが、逆にもう戦わなくても精神が安定している成熟した自我の比率も高く、全体としては米国の社会より進んでいると考えています。したがって、その遅れている米国のやり方を理想郷のように考えて追随するのはやめにした方がいいと思います」

放送禁止歌


森 達也というテレビマン?が書いた、そのものズバリ「放送禁止歌」という本を読んだ。メディアと音楽業界に身を置く人は読むべきだな。
















放送禁止歌(1971年)

作詞 白井道夫
作曲・歌 山平和彦

世界平和 支離滅裂
人命尊重 有名無実
定年退職 茫然自失
職業軍人 時節到来
皇室批判 人畜無害
被害妄想 言論統制
七転八倒 人生流転
七転八起 厚顔無恥
放送禁止 自主規制
奇妙奇天烈 摩訶不思議

衆院参院 百鬼夜行
失言放言 珍粉漢粉
農薬公約 有害無益
贈賄収賄 不言実行
脱税小者 戦々恐々
汚職大者 天下泰平
七転八倒 人生流転
七転八起 厚顔無恥
放送禁止 一目瞭然
奇妙奇天烈 摩訶不思議

男女同権 親父格下
女房横暴 貧乏辛抱
売春禁止 欲求不満
痴漢続出 不満充満
猥褻行為 興味津々
赤線復活 乞御期待
七転八倒 人生流転
七転八起 厚顔無恥
放送禁止 先刻承知
奇妙奇天烈 摩訶不思議


7/22/2007

野口体操


野口体操HP・・http://www.noguchi-taisou.jp/main.html

そんでもって、私が以前読んだ野口先生の本(タイトル忘れた)に赤線引いて、「うーーーん」と納得したものをば。

野口語録1
1 今まで出来なかった難しいと思われるうごきに向かいあったとき、緊張努力を増すことで、解決しようとする姿勢が多く見られるが、それは大きな間違いである。

2 そのうごきが最もよく出来たとき、最も楽で気持ちがいいというあり方を見つけたい。

3 楽であるということは、決して消極的な概念ではなく、ゆとりある積極的なあり方である。


野口語録2
1 一番をきそうのではなく、よりよいもの(こと)を求める。

2 目的とか効果とか価値は、もともと本質的に感覚と同じく主観的なものであり、最後の審判は自分自身による判決である。

3 からだを前に屈げたり後ろに反ったりするには、筋肉の緊張によるという考えを捨てること。基本的には筋肉を緩めて(解緊)することによって、ぶら下がり、そのことによって結果として前に曲がったり、後ろに反ったりという形になる(弛ませ曲線)。

4 目的効果をあえて言わない理由は、目的や効果や予測は、意識化・言語化をしなくても関係のなかから結果として生まれてくるからである。

5 意識は脳のはたらきの一部であることを常に念頭におかなければならない。意識のはたらきを含む脳全体のはたらきで、筋肉に情報を伝えるのかもしれないが、脳以外の神経組織(細胞)すべてがかかわってはたらくのが事実であろうと、私は考えている。

7/21/2007

ユダヤ人ならこう考える


ユダヤ人ならこう考える! by鳥賀陽正弘(うがや・まさひろ)
PHP新書です。ユダヤ本が巷に溢れているが、これは英語の勉強?にもなるし、すぐ読めて良い本だよ。サブタイトルの「お金と人生に成功する格言」で釣られるね。欲深な私の深層心理に訴えかける。



「明日のことは、神に任せよ」
“Let God worry about tomorrow.”

「人はトラブルを背負うために生まれた」
“Man was born for trouble.”

「腹が減ったら歌え、悲しかったら笑え」
“When you are hungry,sing,when you are hurt,laugh.”

「われわれは、みんな不運で愚かなのだ」
“We are all schlemiels.”

シュレミール(schlemiel)「ダメ男」「生まれつきツキのない男」
「シュレミールとは、風呂に入って、自分の顔を洗うのを忘れた男だ」。
全くのバカではありませんが、ちょっと間が抜けている、愛すべき人間なのです。


「お金がすべてを、良くするのではなく、むしろお金がないことのほうが、すべてを悪くする」
“It's not that money makes everything good, it's that no money makes everything bad.”

「お金が人生のすべてでないと言う連中に限って、いつまでたってもお金が貯まらない」
“When someone says life is not for the sake of money,he will never earn money.”

「貧乏になると、最初に顔に表れる」
“Poverty shows first on your face.”

「お金を稼ぐより、節約することのほうが難しい」
“It is easier to make money than to keep it.”

「しゃべりすぎると、戯言になる」
“If you talk too much,you talk nonsense.”

「よく旅をする人は、知識が豊富だ」
“A person who travels knows a great deal.”

あなたは顕在意識型か、潜在意識型か










最近読んだ本(タイトル忘れた)。

【あなたは顕在意識型か、潜在意識型か】
<顕在意識型の特徴>


・左脳で計算、設計し、理論的で自分でやるという意欲が強い。ワンマンになりやすい。


・一貫性があり、時として人に譲らないことがある。妥協性が少なく、融通のきかない時もある。


・自分の目や耳で確かめないと納得しない。


・権利と義務を型にはめたがる。


・意志は強いが、折れると案外もろいところがある。


・目がきつくなりやすい。


・縦線のつながりばかりを考え、横のつながりが少なくなりやすい。


・独善的、独裁的になりやすい。


・人の意見をうち消すか、反発しやすい。


・「恕」の心が少なく、世間が狭くなりがちで敵を作りやすい。晩年はあまりいいとは言えない。


・科学的でないと、あるいは立証できないと納得できない。


・織田信長型が多い。


・病気であれば、悪いところばかり考え、その原因、関連性を考えることが少ない。


・取引根性が強く、一プラス一は二でないと納得しないタイプ。例えば、一個百円のリンゴを千円分買うと十個であって、おまけで十一個の時もあるとか、大きいリンゴが入っていて九個の時もあるという意識が少ない。


・世の中は全て実力であって、バックアップや、縁の下の力、陰の力、あるいは何かに守られているということに気がつかないことが多い。


・足を組んだ時、右足を上にし、上を向いて寝た時に左足を右足首の上に乗せる癖がある。ただし、肝臓、左腎臓が悪い時、弱っている時や右膝や左足首の悪い時、弱っている時にも、この姿勢をとることがある。


・歩く時にいきなり歩くので、意識が前だけにきており、後ろは留守になっている。したがって、足の力が抜けにくく、柔軟性がない。このような人は、背中を伸ばしても胸骨と肋骨の上部が上がらないため、品物を持つような時には手首に力が入る。これを私は「我」と呼んでいる。「我」とは、現在意識のことである。


・階段の上がり下りは、右足からしている。


・自分の身体と心、また自分と相手との中和を考えないで物事を判断し行動している。





<潜在意識型の特徴>


・左脳の働きを右脳に反映させ、音楽、絵画、美術などの感受性や、剣道、合気道、柔道などの武術、哲学や宗教的分野の素質を持っている。


・左脳と右脳で構成される脳の新皮質の下部に位置する、本能的な脳である古皮質の働きを活かしている。


・謙譲の心を持ち、融通性を備えている。


・権利と義務の基本は守りつつ、義務を先行する精神を持っている。


・心の柔軟性を持ち、自分にはより厳しい。


・目は平常やさしいが、潜在意識の働いた時には険しい。


・取引根性は少なく、誰かに助けられているという意識が強い。


・徳川家康型が多い。


・生かされ生きていると思う。


・物事の関連性を広く持ち、縦の考え方だけでなく、横のつながりを考えた言動をしている。


・民主的で、周りの人の意志に対応して行動する。


・創造性を持ち、何か判らない事柄があると「なぜだろう」という疑問を抱き、探求する心を持っている。


・「損して得取れ」「雨降って地固まる」の精神。進むためには退くことの大切さも知っている。


・人のよいところを見る傾向があり、感謝の気持ちが多い。・足を組んだ時、左足を右膝の上に置くことが多く、上を向いて寝た時には右足を左足首の上に乗せる癖がある。ただし、胃、右腎臓が悪い時、弱っている時、左膝や右足首が弱っている時にも、この姿勢をとることがある。・階段の上がり下りは、左足からする。

貧しさ










貧しさ

他人に思いやりが持てないのは貧しさゆえ。

上昇志向が強いのも貧しさゆえ(そういう点では、ハングリー精神がときに限定された領域での、いわゆる成功に必要とされるのはもっともなこと)。

他人と同じことをしたがるのも貧しさゆえ。

ここでいう貧しさとは、経済的な貧しさではない。


役者 その世界/永六輔


役者 その世界/永六輔

「丸山定夫・役者の一生」より、
彼のいい所と悪い所。
無学。利己的。不勉強。学問を尊敬し憧れている。怠惰。本を割合に買う。但し読まぬ。
スポーツに憧れる。しつっこく粘り強い。臆病。涙もろい。偽善者。但し心は優しいのだ。
酒飲み。誰にでも惚れる。浪費。生活の無設計。一言にして言えば良い事が解る癖に実行出来ない人間。

吉本隆明
芸人のもっている反体制思想などは、なんの意味も無い。というよりも、むしろ芸人は体制の幇間、腰ぎんちゃくとしてのみ芸としての本質を保つことが出来る存在である。

花田清輝
資本主義における理想的な商品はことごとく安物の模造品でなければいけません。

佐倉繁
芸能人よ、思い上がれ。思い上がることによって、通常、人が触れえぬ人生の深奥をさぐるべし。

高石友也
否応なしにプロになったんです。趣味で歌っている余裕はないんだ。歌おうと思ったら、それで稼がなきゃならない。

7/20/2007

稲増龍夫先生に納得


稲増先生って知ってるかい?ここでは説明は省くけど、この先生の見識に納得しました。エンターテインメントビジネスの末席を汚す者として勉強になります。


稲増龍夫先生(法政大学社会学部教授)、
http://www.inamasu.com/professor.html

かつての「若者」は、よくも悪くも、「大人」と対立・葛藤する一つの世代として存在しましたが、今は個人主義が進み、みんな、ばらばらで、一つの世代というくくりでは語れず、「若者」は「大人」に無関心で、自分とは無関係と考えています。

これは縦型社会の崩壊に大きな原因があります。

昔は、豊かさを求めるという点では、みんなに共通の目標がありましたが、今は、それも実現し、そんなに頑張らなくても何とか生きていく道はあり、フリーターでもいいやなどと、生き方が多様化しています。

生き方が多様化し、個性を重視するから、「若者」は他者との比較や競争を嫌います。
それが若者から覇気を奪っている一つの要因です。また、かつては、傷心している他者にはかかわり、いたわることが優しさでしたが、それが干渉しないことが優しさだと変化し、自分も他者からの干渉を嫌うようになります。

全部が自分基準ですから、縦型社会の権威も、「若者」には関係がありません。そのため、今の「若者」は、もはや活字離れどころではなく、縦型社会の権威の一つだったマスメディアからも離れ、テレビすらあまり見ず、携帯電話やメールなど、パーソナルメディアを中心にした横のつながりで情報は伝わります。

また、昔は、若さには、未熟だとか、世間知らずだとか、青二才というマイナスイメージがあり、多くの若者は、早く一人前の「大人」になりたがったものでした。今は逆に、若さは柔軟だとか、何にでも挑戦できるというプラスイメージとなり、「若者」は、若いがゆえに持つその特権を、社会に出た瞬間、失うのではないかと怖がって、「大人」になりたがらないのです。

豊かさを実現した今、「若者」に、かわりに何を目標として与えられるか。
今はリストラや何かと「大人」社会の暗い面ばかりを伝えていませんか。
職業を通して自己実現ができるんだということを、「大人」がもっと言わないといけません。

まじめなこと


以前、メモ帳に書いたセンテンスを写します。

知識や学歴は、金銭的に評価されるための手段としての側面を強めてきました。逆言すれば、金にならなければ、知識には意味がない。

官僚や政治家が賄賂を受け取るのは、欲に目が眩んでの行為だと思われていますが、実はそれだけではないように、私は感じています。
彼らは自分のしている仕事が重要であり、大切であることの証明として、多額の金が自分のところに渡らされるのを望んでいる、という気持ちがあるのではないでしょうか。

ちなみに、子供からはなれて自分が社会参加(復帰)したいという母親の対極にあるのが、子供と密着して、その子を「いい子・優等生」に育て上げることにすべての情熱を傾ける母親です。
しかし両者は実は同じものですね。というのは、前者は自分が積極的に社会から評価されたいと思っているのに対して、後者は子供を「いい子・優等生」に育てることで自分が母親として優秀であると社会的に評価されたいと望んでいるにすぎないからです。
このどちらにも「子供自身のため」という視点が欠落しています。そしてそれだけではなくて、親自身の視点さえもなくて、ただ世間からどう見えるのかというおびえだけがある、という状況に陥っています。

彼らは家に閉じこもっているのがいやだったり、家事から逃げたいのでしょうか。
本人はそう思っているかもしれませんが、実はもっと深い理由があるような気がしてなりません。実はみんな、自分自身とほんとうに向き合うのが嫌だから、それから逃げるために働きに出たがっているのではないでしょうか。
子供と向き合うということは、ごまかしようもなく自分自身を見つめ直すということです。

だから逆言すると、自分らしく生きている人間は、たとえその生き様が不器用でも、正直で真剣に生きているのであれば、子供はそのことを見て取るのです。太宰のケースのように。

だから子供には、誠心誠意、率直に接したいと思います。
それは子供と友達のように接することではないし、子供に自分の期待をぶつけることでもありません。
親が真剣に自分本位の行き方を模索することが、親自身、幸福になるための第一歩であり、そんな親の姿を見せてやれたなら、子供のために何よりの贈り物となるでしょう。

自分に出来ることを精一杯やる。
虚しく思われても、滑稽に見えても、他人が評価してくれなくても、子供のために種を蒔き、子供の心に種を蒔くのが、親というものです。

7/19/2007

21世紀の国富論/原 丈人


21世紀の国富論/原 丈人

アメリカは多民族国家で、人種、国籍、年齢、性別を問わずに、多くの異なる文化的な背景を持つ人々が一緒に働いています。文化が違えば同じ言葉でも意味が違うので、何がいいのかを言葉で説明しても、相手にその真意が伝わないことも少なくありません。言葉は、文化そのものなのです。相手に判断を定性分析的なものから定量分析的なものに変えていくために、さまざまな数字(指標)が採用されました。

グーグルのような企業は、たしかに現在はもてはやされています。しかし、グーグルも次の時代をつくる技術をもっているわけではありません。広告以外の事業モデルがあまりにもないので、企業としての寿命は短いかもしれません。

これから21世紀型の新しいタイプの産業を生み出していく上でも、形のある「物的工業製品」から形のない「知的工業製品」への移行という非常に大きな転換があることを理解する必要があります。この大きなうねりのなかで今、「知的工業製品」を基盤とした新たな戦略が必要とされているからです。

私は、この計算機能を中心にした考え方から相互コミュニケーションの機能を中心とした発想に変えていこうとする潮流が、今後、新たな産業を興すだろうと考えています。

最先端技術の開発は、ただお金が多くあれば成功する、というものではありません。むしろ、無駄なお金を与えずに目標を設定し、クリアしたところで使える資金を増やすという手法が有効です。お金で済ませるという安易な発想に開発チームを導くことなく、制限をかけながら着地点に向かわせていく手綱さばきが重要なのです。

①果たして技術が本当に動くのかどうかという「テクノロジーリスク」
②開発後、実際に製品が市場で受け入れられるかどうかという「マーケットリスク」
①は学術理論からプロトタイプをつくり、試作品をつくるまでの段階。②はサンプルをもって購入してくれる顧客を探してセールスを行う段階です。

現代のベンチャー企業は、ビジョンが資本と出会ったときに生まれます。つまり、新しい技術やアイディアをもった創業経営者と、これを理解して資金を出すベンチャーキャピタリストという二者によってつくられるのです。次世代の技術開発は、アイディアが財務の軸とつながって初めて可能になります。それはいわば、車の両輪であり、どちらが欠けてもいけないものです。

「役職機関説」においては、会長、社長、副社長といった肩書きは、必ずしも上下関係を意味するものではありません。副社長が部長より、社長が副社長より偉いといった硬直的な考え方に縛られず、それぞれの適性に応じて役職を振り分けているにすぎない。適材適所の発想によって、結果として組織全体の効率が向上すればよい、と割り切るのです。これがアメリカのベンチャー育成がもつ特質であり、会社の成長を最適化する上でも重要な要素となります。

「知的工業製品」で求められるのは、より根本的な発想の転換を促すようなインベンション(発明)、そしてディスカバリー(発見)です。ソフトウェアや通信技術、バイオテクノロジーのような産業で不可欠なクリエイティビティは、むしろ、画家や音楽家といった独創性に富んだ芸術家の創造性に似ているのです。

まったく新しい「知的工業製品」を生み出すためには、研究開発などに大きな資本を投下し、長期にわたりコミットする必要があります。研究開発は、すぐに結果が出るような性格のもにではないからです。

中小企業が何か新しいことをやるとするなら、新しい事業形態をつくるべきです。たとえば分社化して、そこに資本を集め、リスクをとって新しい商品をつくっていく。それが出来ない中小企業は、いわば資産のもち腐れであり、発展の余地がないことが、現在の金融システムのなかではますます明白になってきました。

仕事を通じて生きがいを作り、その結果として個人も金銭的な富や社会的充実感を得る。その実現のために会社があります。しかし今、アメリカでは株価を上げる経営者であれば何でもよいという時代になっています。このような手段と目的の取り違えは、人々を不幸にするに違いありません。

PUC(パーベイシブ・ユビキタス・コミュニケーション:pervasive ubiquitous communication)
つまり使っていることを感じさせず(パーベイシブ)、どこにでも偏在し(ユビキタス)利用できるコミュニケーション機能です。
PUC時代においてはマイクロソフトのような独占状態は起こりえません。マーケットはより細分化が進み、それぞれ小さなマーケットでスタンダードを握る企業がたくさん存在するという状況になるはずです。ひとつのソフトウェアでせいぜい10億から150億円といった、小さいけれども面白いマーケットがこれからの中小企業とって活躍の場になっていくでしょう。このようにハードウェアの得意な大企業と中小企業が両方ともに存在し、棲み分けが可能であるという点でも、日本は有利です

7/18/2007


旅に関するいろんな考察として・・・。

放浪とは、勇気を持っていわゆる安定した日常を手放すことだ。今は時期がふさわしくないからと旅の機会を先延ばしにすることなく、自分を取り巻く状況を自分でコントロールして、人生における受身の状態に終止符を打つことだ。



放浪の旅の賢者、エド・バーリン

「人生はゲームだ、と気持ちを切り替えることによってーつまりこの場合は放浪のたびをその内部に組み込んだゲームとうことになるわけだけれどー時間こそが唯一の所有物となり、その時間の中では誰もが平等に豊かな存在であることを知るようになる。もちろん生活していくためのお金は必要だが、充実した人生を送るのに必要なのは時間なのだ。だから、必要最低限の暮らしを確保するのに或る程度のお金は節約して貯めておくにもしても、時間だけは気前良く贅沢に使い、火がともってこそのろうそくであるように人生の価値を自ら創造していくことが大切である。オーケー?」



ピコ・アイヤー『なぜ旅に出るのか』

旅の間は、ある種の禁欲生活を送ることになる。放浪中はたいてい質素になり、もてるだけの荷物を持って、偶然の出会いに身を任せる。これこそ、カミュが「旅行に価値を与えているのは、恐怖心である」と語ったことを意味している。言い換えれば、周りの状況や我々が身を隠しているあらゆる習慣との断絶(あるいは開放)である。



釈迦の教えにもある。「利口な人は、何が起ころうと歩き続ける。彼らは無駄口をきかず、良い時も悪い時もいつも同じである」



「美しければすべてよし」



「とかくこの世はダメとムダ」

洗脳力・苫米地英人


「洗脳力・苫米地英人」はあまり気違いだ。すごいよ、この先生。

「我欲を満たすこと=夢を叶えること=幸せになること」という、これまたレベルの低い論理に脳全体が侵され、思考停止に陥っているとしか思えません。



大人になってから無意識に下す判断の8割から9割が親の物真似である。



「自己実現」とか「なりたい自分になる」なんていうのが、他人から見るといかにみっともないか。早く気付くべきです。



イメージのなかの仮想現実こそが私たちが認識している世界である以上、この仮想現実を揺るがすことで現実世界を揺るがすことができるのです。



残念なことに地球上では多くの人が戦争に明け暮れ、戦争をし、差別をし、自分の欲のためだけに行動しています。しかも、自分のことだけ考えている多くの人が、じつは他人に洗脳され、操られています。「自己実現」とか「成功」とか、当たりの良い言葉に酔いしれて、喜んで奴隷に成り下がり、安全なところでぬくぬくと命令だけしている連中にために嬉々として戦場の最前線に身を置いているのです。
それは、「我欲=煩悩が強すぎる」からです。我欲に自分自身が縛られていて、そこから抜け出せず、本来は自分がコントロールしなければいけないはずの我欲に、すっかりコントロールされてしまっているからです。
逆に言うと、我欲をコントロールできれば、もっとレベルの高い夢を持つことが出来、それを実現することが出来るわけです。



私たちは「止観」をして抽象度を上げる思考をすることで、すでに悟っているのと同じことになり、抽象度の高い夢を抱いて突き進むことで、大いなる夢を実現しているのと同じなのです。
「止観」とは、瞑想でもあります。心の動きを止めて自分自身を見つめる作業、これは即ち瞑想です。煩悩を止めていろいろな宇宙を瞑想で体験する。自分とは、自分と自分以外のすべての関係のゲシュタルトですから、自分を見つめるというのは、宇宙を見つめることでもあります。これが「止観」の基本です。


では、瞑想とは何か。
瞑想とは端的に言えば、「抽象度の高い空間を五感を使ってリアルに感じること」を言います。抽象度の高い空間ですから、この世の出来事によって惑わされるような雑念はここにはありません。「今日のご飯は何を食べようか」「次のボーナスはいくらもらえるのか」といった思考は雑念です。
ですが、瞑想はこの世の雑念よりも高い抽象空間をリアルに体感して、そこに生活してしまうことです。


人間は抽象度の高い思考をリアルに感じることで大いなる快感を得ることができます。それは人間の脳がそれを可能にする構造をもっているからです。



仮想世界をリアルに感じることで楽しさ、気持ちよさを体感するということの一例です。こうした思考練習を日頃からしておくと、抽象度の高い思考が楽にできるようになるのです。しかも、リアルに体感できるようになれば、この思考がどんどんと快感につながっていきますから、楽しくて仕方がなくなっていきます。



大きな夢とは抽象度の高い夢です。夢の抽象度を高めていくと、自然に自分という殻から離れていきます。だからこそ、多くの人にできるだけ大きな夢をもってほしいのです。自分やその周りしか幸せになれないちっぽけな夢、生命維持や子孫を残すことなどの本能的欲求を人間としてのIQで乗り越えて、大きな夢を抱いてください。


大きな夢をもった人たちが世の中をデザインし、みんなの夢がひとつになったとき、そこには本当にみんなが幸せになれる世界が生まれていることでしょう。

7/17/2007

新しいアイデアは?


本当に新しいアイデアというものは非常に少ない。ほとんどの場合、それはすでに存在しているアイデア同士の創造的組み合わせである。

●車というアイデア+鋼鉄の発明+蒸気機関の発明=鉄道
●手紙+ワープロ+モデム=Eメール
●ラジオ+カセットプレーヤー+ヘッドフォン=ソニーのウォークマン
●巨大発明とはアイデア同士の創造的な組み合わせな書店というアイデア+インターネット=アマゾン・ドット・コム
●大学というアイデア+新しいテクノロジ-=バーチャル・ユニバーシティや企業大学
●「洗濯仕上げ用圧搾ローラー」と「洗濯板」を使った、昔の洗濯の仕方+逆方向に回る2つの桶を備えた最新テクノロジー=ダイソンの最新型洗濯機

MIT(マサチューセッツ工科大学)のニコラス・ネグロポンテは次のように言う。

新しいアイデアは相違から生まれる。それらは、見解の相違や、比較対照される理論の相違から生まれる、アメリカの詩人ロバート・フロストは、さらに簡潔に、「アイデアは、連想の妙である」と言った。

未来ビジネスを読む


『未来ビジネスを読む;浜田和幸』は為になる。

「未来学」は、どのような事態が起こっても、あわてふためかないで冷静な対処ができるよう準備しておくための実践的学問である。
自分だけは事故に遭わない。
自分の家だけは問題を起こさない。
自分の会社だけはレイオフなどしない。
こうした自己中心の発想の虜になっている人が多い。

大きな流れを読み誤らないための「3つのポイント」
第一は、常識とは発想の違う突出した考えを持つ人々を探し出して「それらのアイディアに常に関心を寄せておくこと」である。
第二に、自分の専門分野には関係ない情報源をキープし、「新鮮な発想や人材の発見に努める」。
第三に、見知らぬ土地や国を旅行し、生活風習や文化、価値観の違いから「当たらし観察や発見を積み重ねる」。

なにがどうなっても、物事の基本はあくまで人間関係である。それを肝に銘じたデザインをしなければ、上手く機能しない。

予期せぬことが突発的に起こることによって、個人の生活など一夜にして激変してしまう。そういう事態を常に想定して、これからは生きてゆかねばならない。

自分をはじめ、国民みなが不満を持っているということは、新しい発想を受け入れる土壌ができているということだ。

7/16/2007

股倉膏薬?


四文字熟語「股倉膏薬」何て読む?そして、その意味は?

答え:
「またぐらこうやく」
金を稼ごうとして、あっちに貼りついたり、こっちに貼りついたりして汲々としている間に信用を失った挙句に財産まで失ってしまうということ。

上記のことを、五木寛之がエッセイで書いていた。納得。

百の名言百の知・谷沢永一


「なぜ、この人だけが成功するのか~百の名言百の知・谷沢永一」と言う本なんだけど、名言よりもこの人の解説のほうが面白いので、それらを。
 

なまじ経験を積んだがために、人柄がすれっからしになって卑しく、他人の顔色を見るだけが能、みんなに嫌われる男がある。
最も厄介で迷惑なのは、博学多識を鼻にかける天狗たちであろう。
歩く百科事典(ウォーキング・ディクショナリー)という揶揄(からかい)の呼び名がある。
なるほど記憶力は抜群で、詰まらんことまで細かく知っているが、映写幕のように頭脳が受動的にしか働かない。
どこに解決すべき問題の、その取っ掛かりが伏在しているか、進んで見出す機能がないから、飾り物にしかならない人もいる。


世間では昔からお喋りに悪人はいないと言い慣わすが、その観察はかなりの率で当たっていよう。
つまりお喋りは他人をほとんど念頭においていないから、他人に計略を施すという企みにまで頭が回らないのである。
そこから直ちに予想される如く、黙っている奴は物騒だから気をつけろ、と言い伝える。

そういうときに閃きを発する人物にかぎって、平素はもの静かに黙っている。
いつも黙っている人の九〇パーセント以上は無能であるが、そのなかに純金の素質が交じっているのだから厄介である。
しょっちゅうやかましく騒ぎ立てている奴は無視すればよい。
職場における自分のまわりに向かって、自分を偉そうに見せている型は問題外である。
自信があって機会を狙っている者は、一挙に真価をあらわす日を期して待っている。


一連の施策にこめられた神谷の構想は、モータリゼーションが進展しやすいように、社会が動いてゆくための環境づくりであった。
真当な販売は押し売りではない。
欲しい人に商品を提供するのが筋道である。
欲しがる人がいないのに物が売れるか。
納得ずくで取引を広げるためには、欲しがる気持が世間一般に高まっていなければならない。
それゆえ車の便利さ宜しさを、実感でわかる人を増やせばよい。


世の人は他人を応援してやろうと待ち構えているのではない。
人間は誰でも必ず猜疑心のかたまりである。
そして何かを成しとげようと努める者には、できるものかと冷たい軽蔑の視線を注ぐ。
能力もないくせに力んでいやがると不愉快になる。
世に出て何かを為すとは、世に逆らい世間を敵にまわす謀叛の行為である。
どこの誰が同情してくれるものか。

成功とは世間を味方に引き寄せた段階を言う。
あくせくと血の汗を流して苦しんでいるとき、鐚一文貸してくれなかった悪鬼羅刹が、満面に笑みをたたえて借りてくれと躙り寄ってくる。
当方の人格がすぐれているからではない。
すべては信用であり見込みであり賭けであり投機である。


ちょっとまわりを見渡してごらんなさい。
老人は一方的に自分のことを喋っているだけ、ほとんど会話になっていないのが普通である。
中年以上の同窓会で、健康問題と薬の効き工合を封じたら、途端に話題がなくなって座が持たない。
六十歳を越すあたりから、自分自身のことにしか興味を示さなくなる。
相手が話しかけている間はひたすら辛抱している。
先方の声がやっと終るのを待って、たちまち喋りだすのは自分のことばかり、お互い他人の言うことなど、聞いているふりして聞かない。
ほぼ六十歳を越すあたりから、家庭でも職場でも会合でも、無意味な自己主張が一方通行で発射されている。このあたりに精神の定年が訪れるのを常とする。


人を悪く言うと一種の自己催眠のようなものにかかって、その人を悪く言わなかったとき以上に、その人が悪く思われる。
反対に人をほめると、ほめる前以上にその人がいいように思われる。
だから、なるべく人を悪く言ってはいけないのだ。


映画は元来、不良青年がつくるものだ。僕が言い出した言葉に「不良性感度」というのがあるが、これが鈍いと面白い映画にできない。       岡田茂

7/14/2007

女心を読むとは?


男にとって、打算的に女心を読んで商売に結びつけることがイイらしいが、如何なものか?「俺はホストじゃない!」と思う気持ちが先に来るのは古いらしい。
本を破いてキープしておいたので、以下を誰の主張なのかわからないが、悪しからず。

「女心7つの好き」
ここに女性心理の原点がある

①文化が好き
②夜が好き
③変化が好き
④残酷が好き
⑤座るのが好き
⑥防御が好き
⑦不満が好き


「女心33の願望」
なにを望みなにを嫌うのか

PART1 男と女の決定的違い
(1)見栄を張りたい
(2)わがままをいいたい
(3)集まりたい
(4)感性を大事にしたい
(5)興奮したい
(6)別人格になりたい
(7)遊びを大切にしたい
(8)知的がほしい
(9)納得できる理由がほしい
(10)忘れさせてほしい
(11)受け入れる側でありたい


PART2 財布を開くからには
(12)自分が魅力的になれるか
(13)社会的ステータスが表示できるか
(14)未婚に見えるか
(15)本能を満足させられるか
(16)自信をもてるか
(17)意外性があるか
(18)男が寄ってくるか
(19)新しい香りがするか
(20)怠けられるか
(21)安心できるか
(22)幸せになれるか


PART3 女性客としての欲望
(23)時間消費が重要と考えてほしい
(24)トクを与えたもらいたい
(25)待たせない
(26)紙袋のデザインをぜいたくにしてほしい
(27)いいあと味を残してほしい
(28)実利・実用・実益がほしい
(29)ばか丁寧の愚かさ
(30)女でも男ものがほしい
(31)個客型にしてほしい
(32)あいまいな表現は嫌い
(33)売り手の論理はいらない

貧乏は正しい!ぼくらの未来計画


昨日に引き続き、橋本さんだ。貧乏は本当に正しいのだ、と。


貧乏は正しい!ぼくらの未来計画 by 橋本 治

「低金利時代がやって来て、すべての金は、日本人をまともにするためではなく、若い女を狂わせるために使われた」―こう言ってもそう間違いではないだろう。
バブルの醜悪とは、「日本の若い女性を狂わせた」という、その一点につきるかもしれない。

なんで日本のオヤジたちがああも会社好きなのかというと、会社以外にほかに行くところがないからだ。
仕事以外にすることがないからだ。会社の人間関係以外に、人間関係がないからだ。
だから、会社社会の流行に従おうとする。
「自分がない」というのは、寂しいことだ。だから、なにをしても“ぼんやりとした不安”だけは残る。
だから、その不安を解消するために、ますます“仕事”という大義名分にのめり込もうとする。
そういう不安な自分に対する言い訳がほしくて、「家族のため」という口実も作り出す。

文化とは、結局のところ、「金の使い方」なのだ。

文化とは、結局のところ、蓄積されてしまった“豊かさ”をいかに使うかという、その使い方の問題でしかない。

豊かさというのは、実は金の問題ではなくて、時間の使い方に関する問題でもある。

現在の資本主義制度の中で、サラリーマンはなんにもできない。
それは、サラリーマンが「資本主義制度の中に参加する資格を持たない労働者と同じものになっているから」である。

貧乏人こそ正しくて、貧乏じゃないやつは退廃している。

ボクは貧乏が似合わないから贅沢がしたい。

制度社会という言葉があって、我々はあたかも制度の中で暮らしているようだが、人間は、制度以前に習慣で暮らすものである。
だから、そんな制度的な取り決めなんかが全然なくったって、平気で“それ以前からの習慣”は続いて行く。
制度的な規定なんかがまったくないにもかかわらず、その“習慣”があまりにも当たり前の顔をして続いているがために、うっかりすると我々はそれを“制度”だと思ってカン違いをしてしまうことがある。

自分の発言能力のなさと度胸のなさをタナに上げて、「何を言ってもだめだから言わない」なんていう、とんでもない結論を出さないで欲しい。今の日本の社会をだめにしているのは、「考えのない“上の方”の旧態依然と、自信のない“現場”のためらい」なのだから。

「信じたい」と思えない未来なんて、「未来」に価しない。「未来」というものは、自分が「信じたい」と思う方向に、自分で作って行くもんだ。

7/13/2007

貧乏は正しい! ぼくらの最終戦争


橋本 治さんは正しい。だから、彼の著作は全てチェックすべし。

貧乏は正しい! ぼくらの最終戦争 by 橋本 治


「自分が現在いる状況は、自分が本来いるべき状況じゃない」です。

「自分はいたくないところにいる。だから自分は反抗する」

「自分のいたい本来の状況はこんなもんじゃない!」という若者の反抗は、もう無意味なのです。

今や必要なのは、「反抗」ではありません。その逆の「建設」です。

「本来の自分がいたい状況はこんな状況じゃない」――それはもう分かっています。
それで文句を言っていたってしょうがないのです。「本来の自分がいたい状況」はどこもなくて、それがほしいのだったら、現在の状況を少しでも「あるべき状況」に近づけるという「建設」だけが必要なのです。

「人間はいつ自分の人生がチャラになってもいいような覚悟をして生きていかなければならない」

「いつ自分の人生がチャラになってもいいような覚悟をしろ」

「いつ死んでもいいような覚悟をして生きる」

無関係な他人に向かって、“自分の悲劇”を興奮して大泣きしながら訴えるような人は、今の日本にほとんどいない。

人間が、自分の上に悲劇が襲いかかって来た時、なぜ我を忘れて泣くのかというと、それは、「この悲劇は自分の上だけに降りかかって来たものだ」と思うからだ。
「自分だけの特別」を訴えて、人間は泣き叫んで、“自分だけの悲劇”を訴えた。

追い詰められて「自分は正しい!」だけを叫びたい人間。
現実に対して冷静に目を向けるだけの力がなくて、ただ「自分は正しい!」とばかり叫びたがっている、世間知らずで脆弱な、〝きみ自身〟なのだ。

ジム・キャリーの特性は、「頭がよくて破壊的で、お笑いで、しかも、“黙ってりゃハンサム”」

第一に、“黙ってりゃいい男”というのが、日本ではあんまりお笑いをやらない。
それよりもなによりも、日本の場合、“黙ってりゃいい男”というのに、“お笑いをやれるだけの頭のいい男”がいない。

現在の日本のお笑いは、〝知性の場〟

「無意味な進学競争で自分の人生を犠牲にされたやつらの仕掛ける復讐」

「世の中に受け入れられない自分というものの欲求不満を前提にする」

今や世間に、その過剰を拒否出来るだけのリアリティーがなくなってしまった。

孤独で、誰にも相手にされないから、それで、「特別な人間になって、俺を無視した人間達を見返してやろう」という発想

“貧乏に関する経験不足”だと思った方がいいだろう。
はっきり言っておくけれども、これからの日本には“貧乏になって行く”という可能性しかないのだ。

年寄りは年寄りだけで勝手に合意を作り、若者もまた若者だけで勝手な合意を作り、両者はほとんどまじわらない。
若者と社会が、根本のところで食い違って、対立してしまうのは、そのためだ。

女の方が孤独に敏感で、孤独に慣れていて、男というものが、“自分の孤独”にピンとこない生き物だからだ。

人間が困った状態に陥るのは、その人間が“困った状態に対処する方法”を知らないからだ。

7/12/2007

デュパルク


http://www.youtube.com/watch?v=GPLKjmVL5gs
デュパルクって知ってるかい?
私はこの人の作品がすきなんだが、作品以上にこの人自身の変人ぶりに興味あるんだな!

http://www.geocities.co.jp/MusicHall/6119/museum/duparc/index.html

デュパルク:死ぬ前に自分の作品の殆どを燃やしてしまったという変人なのか、完璧主義者なのか分からないフランスの作曲家。

7/10/2007

お金持ちになる方法


お金持ちになりたくないかい?
なりたいなら、以下にまとめたことを肝に銘じて実行しよう。
面倒くさい?そうだよね。
でも、面倒くさいことしないと他人より金持ちにはなれないんだな、これが。

01.世の中はシンプルにできているから、複雑に考えない。お金と健康な身体、優しく豊かな心があればすべての願いは叶う。

02.お金を持ってないと嫌な奴に頭を下げなければならない。お金が無ければ笑顔を作り、人に好かれよう。笑顔は嫌な奴を遠ざける。

03.他人の自己重要感を高めてあげると自分の人生が素晴らしくなる。自己重要感を高める方法は、褒めて褒めて褒めちぎること。

04.人間の心の大きさはコップ一杯。中に入っている水は心のエキス。心のコップにきれいな水を垂らしていれば、必ず幸せな人生に。

05.努力をするとお金持ちになれない。頑張れば頑張るほど不幸になる。

06.ツイている人のそばに行って、「ツキの波動」を受けよう。

07.少しだけ大きな声を出すと成功する。

08.商売繁盛の知恵やお金持ちになる方法は周りの人に教えよう。すると、「バランスの法則」で三倍の見返りがやってくる。ケチケチしている貧乏臭い人は、必ず貧乏になる。

09.税務署は儲かっている人のところにしか来ないのだから商人にとっては、「福の神」。愉快に儲けて、楽しみながら税金を払えば、心も豊かになる。

10.自分が必要とするアイデアは、「牽引の法則」で宇宙の中心からやってくる。頭でいつも考えていれば、答えは外の世界から引き寄せられる。

11.問題にぶつかったら、自分ひとりで解決しようとしない。周りの人にドンドン相談すれば、誰かが答えを持ってきてくれる。

12.色は人の姿を映し出す。華やかな色を身につければ、「色の法則」で幸せに。外見だけで人生は変わるのだ。

13.完璧な人間はいないのだから失敗するのは当たり前。人間は不完全な存在だから大きく成長する。そして、完璧主義者は嫌われるから絶対に成功しない。

14.子どもは褒めて伸ばすこと。叱って反省させると、失敗を怖がる人間になる。

15.人間のすることは、78点が満点。常に22%の改善点があるから、人間の未来は進歩する。

16.男は女に損をさせてはいけない。損をさせると結局自分が損をする。

17.「自分は困らない」と思っていれば「大丈夫の波動」で女にモテる。

18.社長を見つけたら近くに寄って、「成功の波動」を浴びよう。

19.目標を決めたら紐で結んで引っ張る。すると、「加速の法則」でアッという間に目標を達成してしまう。

20.目標を達成したらすぐ次の目標を立てる。加速し始めたら、加速し続けることが「加速の法則」のポイント。

21.最終目標はけっして他人に言わない。黙ってエネルギーをためている。と、やがて大きな力になってあなたの背中を押してくれる。

22.「第三の目」は眉間にある心の目。この世の大切なものが見える。ニコニコしていればこの目が開き、ドンドン素晴らしいアイデアが。

23.他人からの頼まれごとは神様からの贈り物。運勢が良くなってきた証拠なので、笑顔で引き受けること。

7/09/2007

学習が困難になったときに取るべき10の行動


学習が困難になったときに取るべき10の行動

1.今やっていることをやめて、完全な休憩を取る。

2.以前同じように行き詰まったときのことを振り返って、自分が何をしたかを考える。

3.自分にとっての選択肢の概要を示すマップやリストを作る。

4.友人にそのことを話して、彼らだったらどうするかを尋ねる。

5.本を使って、突破口を見つけるのに役立てる。

6.インターネットを使って、答えを発見するために役立てる。

7.何か運動をして、答えが浮かばないか試してみる。

8.行き詰まりを放置して眠る。寝る前に「自分は問題の突破口を見つける」と自分に言い聞かせる。

9.自分が今やっていることを、まったく別の場所でやってみる。

10.もし答えが見つかれば、あなたの仕事の達成に役立つかもしれないと思える質問をできるだけ多く考え出す。