8/30/2007

「人間嫌い」のルール


「人間嫌い」のルール・中島義道



これほどの労力を払って人生を降りようとするのは、人間のある面がひどく「嫌い」だからである。人間が不純だからでない、不道徳だからでない、利己主義だか らでない、むしろ「よいこと」を絶対の自信をもって、温かい眼差しをもって、私に強要するからなのだ。とりわけ共感を、つまり他人が喜んでいるときに喜ぶ ように、他人が悲しんでいるとき悲しむように、私にたえず強要している。これを拒否して生きることはできない。だから、私は自分を徹底的にごまかして生き 延びてきたのである。そういう風に私を作った他人の鈍感さと傲慢さが嫌いであり、それにうまく合わせてきた自分のずるさと弱さがきらいなのである。


日 本社会をすっぽり覆っている「みんな一緒主義」、言葉だけの「思いやり主義」「ジコチュー嫌悪主義」が、少なからぬ若者を苦しめ、「もう生きていけない」 と思わせ、絶望の淵に追いやっている。善人どもは「いじめ」が問題になると、「あなたはひとりではない!」というメッセージを送ってのうのうとしている。 だが、自殺にまで追い込まれた少なかぬ者は、「みんな一緒主義」の砦を打ち砕き、みんなから排斥されてもひとりで生きていける、というメッセージが欲しい のだ。


「ずるい人」

平 気で嘘をつき、自分を実際よりよく見せようとあらゆる工作をし、相手に対してくるくる態度を変え、権威者や権力者にはおもねり、非権威者や非権力者を足蹴 にする人である。表面では正義感ぶって、裏に回るといかなる卑劣なこともしでかす人、こういう人が、これまでの人類の歴史で肯定的に評価されたことはな かった。


ひ きこもりやニートのほとんどは、先の定義において人間嫌いであるわけでない。人間嫌いという領域に属する者もいるであろうが、彼らの多くは、心の病とは無 縁である、―原因はさまざまであれ―単に社会性の欠如した者、他人とのコミュニケーション能力の欠しい者にすぎない。いまの苦境を抜け出してどうにか社会 復帰したい者、だがその端緒がつかめない者、あわよくば棚からぼた餅が落ちてくることを願っている者、ニーチェの言葉を借りれば「蓄群的功利性の持ち主に すぎない。


親切を押し売りする人は、他人がそれを拒否することなど考えもしない。いや、こんなに親切にしているのに、それを不快に思うとは何と無礼なと憤り、もっとたちの悪いことに「心の貧しさを悲しみ」、そこでぴたりと思考を停止してしまう。


困っ ている人、苦しんでいる人を見かけたら、淡々とした気持ちで助け、さらりとその場から立ち去る。そして、自分が何をしたか「忘れてしまう」のである。こう した助ける者と助けられる者との関係が、最も気持ちのいい人間関係を取り結ぶと私は信じる。できれば、助けるときも、助けられるときも、こういう淡白な関 係でいたい。


昔 の仲間たちとそれを懐かしむことが好きではない。中高年の鈍重さと醜さを曝け出して、「こんなことがあったなあ、あんなことがあったなあ」と笑い転げるこ とが嫌いなのである。その和気あいあいとした雰囲気は共感ゲームで充たされ、大量の欺瞞が飛び交い、みなどこまでもよい気分でいたいという欲望がグロテス クなほど露出されていて、気持ちが悪いのだ。


オルテガ

大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じあると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、ほかの人々と同一であることに喜びを見出しているすべての人のことである。

こ うした大衆は、知的に徹底的に怠惰であるから、何事においても、「わかりやすいこと」を求める。「わかりやすい」とは、何の努力もしないでわかるというこ と、書物なら寝っ転がって読んでもわかるということである。彼らにとっては、わかりにくい書物は全面的に著者が悪いのだ。


人間嫌いは、あらゆる人間からの独立を目指すと同時に、あらゆる土地、風土、故郷からの独立を目指す。


世の中は、二十歳の男には寛大であっても四十歳の男には寛大でないということを知っておけば、それでいいのだ。


私 は、常に崖っぷちを歩いてきたからこそ、そして思いがけず多くの人に助けられて生きてきたからこそ、どんなに型破りの生き方があってもいいじゃないかと心 から思う。一見、不安定に見える職業に就いていても、将来の見通しが立たないように見える状況に投げ込まれていても、その人固有の人生の「かたち」を描き きることはできると思っている。


この世のほとんどの不幸は、他人に過剰に期待することに起因するのではないかと思う。他人に期待することがなければ、他人を恨むこともない。他人の賞賛を求めることもない。


大 原則として、他人の人生に過度の期待をかけてはならないと思う。勝手に相手に期待して、その期待がかなわないとき、「こんなはずではなかった」と相手を責 めるのが卑劣な弱者というものである。人間嫌いが人間嫌いらしく生きるには、こういう人間関係からみずからを解放しなければならない。他人に夢を託しても ならず、他人から夢を託されてもならない。この関係の重荷からだけでもすっかり解放されたら、人生はどんなに楽になることであろう。

子供は親に、妻は夫に「ああしてくれ、こうしてくれ」と過剰に期待するから、それがかなえられないと激しく憎むようになる。同じく、親は子供に、夫は妻に、よい子であるように、よい妻であるように過剰に期待をかけるから、失望するのである。


人間嫌いにとっての理想的人間関係とは、相手を支配することなく、相手から支配されることのない、相手に信頼や愛をおしつけることも、相手から信頼や愛をおしつけられることもない関係である。


そ のころから、自分のえげつないほどの実利的で世俗的な能力、すなわちさまざまな形で人々を組織する能力、権力者に近づく(遠ざからない)能力、自分のアカ デミニズムとジャーナリズムにおける「地位」を担保にして、人を支配する能力、あるいは人に好まれる能力・・・つまり自分の生き方の「賢さ」に嫌悪感を覚 えるようになってきたのだ。


人間嫌いをその中核で動かしている動力は自己愛である。なるべく自分の感受性と信念とに忠実に、すなわち普通の言葉を使えば、なるべくわがままに生きたい。他の人のわがままも許すから、こちらのわがままも許してもらいたい。

これが一番受け容れられないことだが、―人間の平等を認めないで、善良な市民の趣味に対してはひどく不寛容である。とくに、言葉遣い、身のこなし、着ている物に関して、私を侵害しなければ最低限いいとしても、(私の基準で)趣味の悪い人と一緒にいることは不快である。


家族主義的人間嫌いは、いまなおわが国の妻帯者の中に少なからず残存しているようである。彼は実存の深いところで妻に依存しているので、妻から切り離されて世間の寒空にひとりおっぽり出されたら生きていけない。


外部との間に厚い壁をめぐらせ、我が家のいかなるマイナス面も絶対に外部に漏らしてはならない、という子供たちに厳しく命じた。


こうした虚栄心だらけの家庭が厭でたまらなかったにもかかわらず、結婚して私は同じような家庭を築いた。


人間嫌いのルール

  1. なるべくひとりでいる訓練をする

  2. したくないことはなるべくしない。

  3. したいことは徹底的にする。

  4. 自分の信念にどこまでも忠実に生きる。

  5. 自分の感受性を大切にする。

  6. 心にもないことは語らない。

  7. いかに人が困窮していても(頼まれなければ)何もしない。

  8. 非人間嫌い(一般人)との「接触事故」を起こさない。

  9. 自分を「正しい」と思ってはならない。

  10. いつでも死ぬ準備をしている。



人間嫌いの分類学

  1. 動物愛好型

   弱い人間嫌い。人間は嘘を付くから嫌い。その点、動物は正直でいい、という思想を基本的によりどころにしている人。動物園勤務の人に多い。幼稚園、保育 園や小学校も。あるいは、童話作家。これは、「人間嫌い」というよりも「大人嫌い」。良寛、宮沢賢治、灰谷健次郎など。


  1. アルセスト型

   モリエールの古典『人間嫌い』の主人公アルセストのようなタイプ。人間の心の醜さやずるさに辟易して「人間はなぜもっと美しい心をもてないのだろう!」 と嘆くタイプ。自分は純粋だと思っている分だけ、自己批判精神が欠如している。精神的発育不良。太宰治などはこのタイプ。自殺する者も少なくない。


  1. 自己優位型

   アルセスト型は未熟な人間観に基づいているのに対して、このタイプはもう少し実質が伴っている。だからこそ、最もたちが悪いとも言える。人間嫌いのうち では、これが一番多いタイプ。世の中にいるバカな人や鈍感な人や趣味の悪い人などと、どうしてもうまくやっていけない。それは自分が優れているためであ り、彼らが自分の高みに至らないためである。だから、このすべては自分の責任ではない。自分は微塵も変えずにいていいのだ。自分には、愚鈍な輩を嫌う「権 利」があるのだ。典型的には三島由紀夫や芥川龍之介。少し自己反省を加えると夏目漱石。ほとんどの芸術家も、実はこう考えているようだ。


  1. モラリスト型

   人間の心の醜さに嘆き顔を背けるのではなく、それをあえて観察の対象にしようと決意した人間嫌い。人間の細部に至って観察し続け、その滑稽さ、卑小さを 炙り出し、「おもしろい」と呟き、どうにか人間に対する絶望から逃れるタイプ。パスカル、モンテーニュ。カントにニーチェ。


  1. ペシミスト型

人間や人生に対して深い恨みを持っているタイプ。所詮この世は生きるに値せず、人間は醜い、この世は闇だと言い続けることによって、かろうじて均衡を保っている。永井荷風。


  1. 逃走型

 芭蕉や山頭火のように、社会から逃れて放浪するタイプ。あるいは、西行や鴨長明のように、山に篭もるタイプ。サン・テグジュベリのように大空に「ひきこもる」者もいる。彼らは、一般的には人間を愛しているのだが、個々の人間は大嫌いだというコントラストのうちにある。


  1. 仙人型

  きわめて少ないが、世の中を達観した人間嫌いであり、おろかな俗物どもを「優しく見守る」人間嫌いだ。悟りに至った禅僧などはこの部類に入る。



8/29/2007

空手と気



空手と気(気の起源・思考の深さ)/宇城憲治

茶道の裏千家宗匠 千玄室氏との対談の折、次のようなことをお聞きしました。

「お寺に行って、日本人は仏像だけを見る人が多いですね。ところが外国の人はあくまでも、仏像は日本人の信仰の対象のものだと思うんですね。そうすると自 分たちが協会へ入っていくのと同じ気持ちを持たなきゃいかんということで、むしろ日本人よりも神聖な気持ちでお寺や神様を見に来ていますね。観てわからな くても、とにかく頭を下げていますしね、そこの雰囲気の中へ入ろうとする。これが非常に大事なことだと思うんですね。日本人は今、国際化、国際化と言って も外国のことばかりを見つめて、日本のことを見つめない国際化なんですよ。だからむしろ閉鎖社会だと思うんです。閉鎖社会の中で、ちょっとした知恵だけで 物事を解決しようとする、これは小細工なんですね。こういう小細工は駄目ですね。やっぱり外国人のように、ものの雰囲気に入ろうというオープンなハート、 そういうものを持たなければ、日本人の石頭はなかなか開けていけないんじゃないかなと思うね。

外国に行って、最近よく『どうして日本から来る人は、みんな日本のことを知らないんだ』と聞かれるんです。外国の人たちは、少なくとも自分たちの国の文化 を誇りをもって説明できるんですよね。ところが日本人はそれができなくなっている。これはやはり戦後の民主主義の間違った考え方がひとつ。それから教育の 根本的な問題、それから家庭の躾にあると思います。躾、マナー、エチケットというのは最低限、人間が心得ておかなければならない日常のひとつの”行事”で あると思うんですよ。人様に迷惑をかけない、いやな思いをさせない、それが根本だと思うんです。」

最近の日本は平和すぎてあらゆることにおいて頭脳優先になっています。頭脳は架空の世界でも生きられて嘘も言えますが、身体の世界は現実を直視するもので 嘘がありません。百度のお湯に手を入れた瞬間、熱いと思う間もなく手を即座に引っ込めるように、身体は正直です。百度だから熱いと頭に言い聞かせて手を 引っ込める人はいません。そんなことをしたら火傷という事実が残るだけです。このような事象はまさに自分の身体が勝手に教えてくれるもので、その結果、瞬 時に行動が出来るのです。

歴史の中の事実の裏にある真実、そして不変の真理を仮想ではなく現実としてとらえるには、絶対世界の中で身体を鍛え、心を磨き、心身の一致を目指すことが必要であると思ってます。そのような身体をつくる最高峰が伝統、文化、躾だと思います。

バイオリンの川畠成道さん

貯蓄するように練習を積み重ねていくのです。・・・・派手に聴かせるというよりも自分で自分の足下を一歩一歩作っていく、・・・(そうして)音楽というのは構築していくものだというところを徹底して教えていただきました。

何度も何度も挫折をしているから強くなっていくわけですし、人にも優しくなれるのではないでしょうか。そして、それが僕の音楽にも表れていくのではないかと思ってます。

頭脳優先の身体動作は単一的で、部分体となり、重心は浮き、身体の気はとまってしまいます。

一方、身体で考える、とらえる場合は居つきがなく統一体になっています。重心は沈み、身体には自然と気が流れます。これが現場主義、国民主体とする考え 方で、活力の根源はここにあると思っています。戦争反対を唱える多くの人が戦争体験者であるという真実を見てもわかるように、身体で経験した人は真実をと らえていて嘘がありません。

武道はまさに、個が生と死の場に臨む形で稽古するからこそ、平和な時代においても必要とされ、活かされるものとなります。武道が、ただ平和の世に安全に行 われるものであれば、その本質、原点は見失われ、武道ではなくなるということです。少なくとも生と死の場のような緊張のある場を想定して稽古することが大 事であると思います。

統一体となると、細胞が働きます。そこでいちばん大事なのは、身体の呼吸が止まっていないということです。統一体の、細胞による方法の最大の特徴は、身 体の呼吸が止まらないことにあります。ところが部分体の場合は、トレーニングの主体が筋力となるので、身体の呼吸が止まってしまいます。ほとんどの人は、 身体の呼吸が止まっているにもかかわらず、そのことを意識することはありません。それは、そういう考え、認識がないからです。統一体になることではじめ て、部分体がいかに身体の呼吸を止めるかがわかってきます。

統一体となり、細胞を主体とした動きとなることで、集中力が生まれ、身体で考えることができるようになります。ここからいわゆる身体に気が流れ始めます。頭で考え頭で命令を出す部分体という従来のトレーニング方法と比較すると、別次元の差、変化が出るのです。

「磁石」は磁力で鉄を引きつける。

「地球」は重力ですべてを引きつける。

「人間」は魅力で人を引きつける。

スポーツでは、優勝することが最大の目的になりがちですが、優勝の上にある、己に克つ世界こそ目指さなくてはならないところだと思います。単なる精神論ではなく、融和融合や気の世界、気が出るような自分に進歩成長していくことが重要ではないかと考えます。

「進歩、成長とは変化することであり、

変化とは深さを知ることである。

深さを知るとは謙虚になることである」

修行とは、

妥協もなく、嘘もなく、言い訳もなく、限りなく自分との闘いができる無心の世界。

それは限りなく深く、限りなく高いにもかかわらず、一度その世界に足を踏み入れると、

自分自身に大きなエネルギーを与えてくれます。それが「道」だと思います。

この「道」を歩み出すと、自分に正直になることができ、覚悟ができます。

それは、他を意識したり競争したりする相対の世界から、

自己を見つめる絶対の世界へ移行するからです。

裏切らない身体をつくる

相手に入っていく逃げないから身体は、逃げない心、すなわち裏切らない心の根源でもあります。

身体が逃げたら、心も逃げる。いくら言葉で良いことを言っても、いざとなると身体やそれに伴う心は裏切るんです。

しかし今言ったような稽古を積み重ねれば、裏切らなくなる。そういう人たちの輪を広げていくことが大事だと思います。

相手が入ってこれない迫力、オーラを出さなくてはなりません。

覚悟ができた身体からは気が出、気が通ったら怪我をしない。気が抜けている人は怪我をしやすい。また、欲がある人は、執着があり心身の居つきが起こり、瞬 発力の攻撃に対し後手となり関節技などではポキッといく。それは、力の攻撃に対しては強くても、瞬発力の攻撃に対しては脆く枯れ技と同じです。だから、 ちゃらちゃらした稽古はしてはならない。肝腰を据えて、突く時は真剣に突く。蹴る時は真剣に蹴る。刃物を持っているような真剣な気持ちをお互いが持って稽 古する。そうすると上達の度合いが違ってくる。そういう稽古をしていかなければならない。

ただ、投げるじゃ駄目、相手に入っていかないとけない。入っていけば、相手の心が読める。だから衝突が起きない。入っていく技、逃げない身体、その身体が裏切らない心につながるんです。

逃げる身体は心の裏切りにもつながります。だから、入る。「入る」には嘘がない。信じるかどうかというのは、結局は自分の問題です。入ることは自分にとっての最大の自信となります。

外面的に目立とうとする人は内面が弱い。ブランドで身を固めるのも同じです。人間が形骸化してしまった時、精神的な貧弱さが出てくる。身のまわりを眼に見える形で固めたら駄目。内面がしっかりしていれば、心は安定する。心で固めている人は強いんです。

相手に入っていく、それには前へ前へという心と技がなくてはなりません。逃げない身体という実践が先にあって裏切らない心は培われます。逃げない身体は思 いや心ではつくれません。伝統の型にある技と身体に気が流れ覚悟ができてはじめて、それは可能になります。最高の防御となる気は道場の稽古や試合だけでは つくれません。日常の心がけも大事です。

8/28/2007

宇城憲治師に学ぶ心技体の鍛え方



宇城憲治師に学ぶ心技体の鍛え方・小林信也



身体の中に「受信機」があればいい。

人の身体は「型」で変わる。「呼吸」で変わる。「意識」で変わる。

本質的な力が発揮されるのは、身体がひとつになったときだ。

「頭の命令」は次元が低い。基本は「身体で感じて、身体で動く」。

現状を打破する。

「できる自分」を体験させる。指導方法の革命が起きている。

頭脳は筋肉を動かす。身体脳は細胞を動かす。

口の呼吸や鼻の呼吸のほかに、「身体の呼吸」がある。

頭が知らなくても、身体が知っている。

頭が邪魔をする。身体は裏切らない。

武道の世界で一番恥ずかしいのは、すぐ、自分とか私を持ち出す人間だ。

信じていいのは、歴史に裏打ちされた基準。

科学とは、普遍性、客観性、再現性があること。

ライオンは筋トレをしない。敵を襲う前にストレッチをしない。

「姿勢と呼吸」が生み出す力は、筋力が生み出す力と次元が違う。

大切なのは、根本を学ぶこと。枝葉ばかり学んでも意味がない。

師の存在は自己流を戒め、個を伸ばしていく最大の導きだ。

勝ち負けだけを追うスポーツに何の意味があるのか?

高い山を目指す。

内面を感じられるようになると、見えない動きが見えてくる。

理屈を言うより、検証してみれば、正しいかどうかは、すぐわかる。

明るさに「気」が宿る。

生活の中にも「型」がある。いまの日本人はこれを失っている。

光の速さで考える。

頭脳より「身体脳」

0.2秒のトリガーを抑える。

一に目、二に姿勢、三に瞬発力。

生死をかけた「気」の威力。

内面のエンジンを回し続ける。身体のスイッチを切らない。

最近の日本人は「屈筋」しか使えない。「伸筋」を使う方法を知らない。

日本人はみな、「心が生み出す身体の力」を受け継いでいる。

呼吸力一生、伸び続ける。





絶対的な価値観とは、人格を磨くこと。

「ひらめき」のある人間になること。

身体で感じ、身体で行動する基本力を高めること。

人生の「まさか」に動じない、揺るぎない心技体を体得すること。

経済的基盤を持つこと。

喜怒哀楽、感動を源泉に生きること。

文武両道を生きること。




8/27/2007

武道の心で日常を生きる



武道の心で日常を生きる 宇城憲治




師を持つことは「文化を学ぶこと」でもあります。文化には歴史があります。長く伝わる文化は間違いのないものです。歴史を学べば、自分がいま何をすべきか教えてくれます。どう判断し、どう行動すべきか、答えはすでに過去の歴史がはっきりと示している場合が多々あります。

歴史を頭で勉強するのでなく、文化を通して身体で学ぶ。日本古来の伝統を、空手や剣道、合気道などの武道や、珠算(そろばん)、書道、茶道、華道、囲碁、将棋など日本の伝統に見られる文化で学ぶことは大切です。

中でも武道は理想的な文化だと思います。生か死かに直面した、真理があるからです。真理の追求は一番の土台になります。そこから骨組みができあがる。その土台と骨格から、全体がしっかりと見られるようになる。

勝ちに三つの勝ちあり

打ち込んで勝つは、下の勝ちなり
勝って打ち込むは、中の勝ちなり
戦わずして勝つは、上の勝ちなり

「武術を稽古していると理想が高くなる。一般的に理想が高くなると空想になってしまうが、武術をやっていると理想が本当の理想となり、それを実現しようとして努力するようになる。そういうエネルギーが沸いてくる」
これは座波先生の言葉です。


両足を軽く開いて立ち、、足裏全体で体重を支えます。そのとき、大事なことは、かかとを意識するということです。漠然と立っていた最初に比べて、足の裏に身体の重さを感じ、足裏で地面を踏みしめている感じが、だいぶわかってきたのではないでしょうか。


押されても、ふらふらしない。抵抗する力が強くなっている。後ろによりかかるのではなく、足の裏がしっかり地面とつながって、身体の芯から力が沸いている感覚があれば、統一体になった証拠です。


まだふらつく人は、頭であれこれ考えようとせず、まっすぐ前を見据えて、かかとに体重を乗せる意識でやってください。また、他の方法としては、左手の小指を少し曲げ、小指を意識するだけでも同じ安定が得られます。これでだいぶ変化を実感できたでしょうか。

できること、違いを感じることが大切です。かかとが上がっていても、かかとを意識することによって、安定が得られます。


打撃練習、投球練習の基本として、立ち方をしっかりすると同時に、こうした「相手の中に入る」[相手を捉える」稽古を普段から繰り返すことが、本当は重要なことだと思います。

8/26/2007

ポップス雑感




メロディの美しさ、ヴォーカルの優しさ、親しみやすいアレンジ、何か不思議な幸福感、癒される、シンプルだが音楽的洗練度は高い。


売れる事が目的ではないけれど、音楽の世界で発言を続けるには、結果を出さなければいけない。現役性が大事。

武道の力




武道の力 時津賢児



目は二つあるから遠近感がでて物の奥行きを捉えることができるが、目が一つしかなかったら物は立体的には見えない。
それと同じで、日本のことを立体的に捉えるためには、日本の外から日本を眺める目を持たなければならない。
言い換えると、日本の中だけに住んでいたら、日本の姿は立体的に捉えることはできない。
外から日本を見る第二の視点が必要なのだ。



だが、日本社会の延長のような海外生活をいくら長くしても、第二の目を得る持つことは難かしい。
その国の生活習慣の中にどっぷりと浸って、数々のカルチャー・ショックを通過することによって初めて第二の目を持つことができる。
そのためには頭が柔らかく感受性の高い若者のエネルギーが必要だ。
しかし、余り幼いうちに異国の生活にどっぷり浸ってしまうと、言葉は上手になるに違いないが、日本人としての自己の確立がなければ、日本人としての第一の目さえ持つことができない。
日本人としての自分があるから異質な文化と衝突してショックを受け、それによって自分を鍛えることができる。
そうした経験をするのは二〇代の前半が最も適していると私は思う。



日本に帰っていつも驚くのは、自分本位の見方の人が圧倒的に多く、なかなか物を相対的に見ようとはしないことだ。
世界の情勢を客観的に捉え、諸外国との関係を相対的に把握し、日本が置かれている状況を正確にキャッチできる目を養うことが、これからの日本の若者には必要なのだ。



原水爆をかかえた現代世界で、最も戦略的効果の高いのは平和状態をもたらすアクションである。
だがそれは、「平和、平和」と叫べば得られるものではなく、対立しあうさかざまな力関係を認識でき、それらのバランス状態に持っていく彗眼と意思力が必要だ。



武道は戦略と戦いの技術を基にしている。
武的発想でいえば、平和というのは、「相手のことをよく知り、同時に自分のこともよく知っているから、戦いはできない。」そういったバランス状態のことである。つまり、バランスが壊れると戦いはいつでも起こりうる、ということを前提としている。
残念ながら、人間にとって平和というのはユートピアではなく、対立する多数の力の均衡状態である。
こんな言い方は日本人には受けないかもしれないが、長い間、絶えず国境を守って生きてきたヨーロッパ人にとっては常識的な感覚である。
内と外の緊張関係をはらむ国境感覚はヨーロッパ人にとって常識であるが、それが日本人には欠落している。
カルチャー・ショックは相対的に物を見る目をつくるために格好な体験だと思う。







8/25/2007

君はいつでもはじめられる




君はいつでもはじめられる 片岡勝




第1章◎自分の人生なんだから好きにいこう


裸の自分で勝負するのは面白い
仕事は自己実現の道具
ビジネスで社会と向き合う
働くことが何よりも充足感を生む
ボヘミアンで世界を動き続ける
失敗しても成功しても実験は面白い
自由に生きる舞台は自分でつくる
尖り続けることがオンリーワンへの道
社会変革が僕のミッション



第2章◎個人が試される時代


変革を加速しないと格差はますます広がる
「総中産階級」時代の考え方では生き残れない
お金より情報に人は集まる
一流の人間は自分で仕事をつくる
自分で仕事をつくり出さないと職場は奪われる
動けることは選択肢の幅を広げる
スピードが勝敗を分ける
一人ひとりが決断を求められる時代
多様なニーズに対応する多様な人材が必要
小さな単位の変化が世界を変える
脇役が主役になる時代
世の中にはたくさんの競技場とルールがある



第3章◎他人との関わりの中で自分が見えてくる


社会との関わりの中で自分を見つめ直してみる
コミュニティが豊かになれば個人も豊かになっていく
国民総幸福(GNH)は次の時代の指標
自分だけよければいいという社会はコストがかさむ
「選択と集中」を可能にするもの
財は使ってこそ意味がある
シリコンバレーの危機感がどん底のアメリカを救った
現場にこそ答えがあり、知恵がある
依存しないで自らつくるということ
問題解決を実現していくと、エネルギーが循環しはじめる
今こそシェアする社会を実現する
ビジネスの原点は問題解決
社会には喜ばれる仕事がいくらでもある
ベンチャーは冒険なのだ



第4章◎自分の感性を大切にして生きる


全部自分でやる時代になる
やりたいことをやっていると時間密度は濃くなる
人は面白いことに動く。自分の感性にふれるものを求める
気になるなという気持ちを大切にする
困ったことに気づく感性を持つ
捨ててみるとスッキリする
今いるところから離れてみると違う世界が見えてくる
ギャップや格差がアイデアを生み出す
リアルな想像が“創造”への近道
次の時代の担い手は現場でもがいている人
人と人との関係の中に知恵がある
右脳をもっと活用する
イメージには面白いことが明確に現れる
左脳で考えすぎると動きが止まる
解決への糸口はイメージをつくること
準備が不十分と言う人は、だいたい死ぬまで準備をしている
動きが止まると競争力が失われる
決めてしまうことくらい楽なことはない
1回にすべてをかけるのではなく、しゃれでやる
反省と後悔はしない
ビジネスは経営者の生き方が商品
自分の中に元気をつくり出す「元気表」
小さなハードルを一つひとつ越えてみる
自分の言葉で話しはじめたらそれが自信
軸を持って振り向かずに行こう
マイ・ワールドをつくってしまった人ほど強いものはない
事業の継続にはABCの法則がある



第5章◎チームでやって自分も成長していく


勝手にやる会社がいい
悪い部分もオープンにしてつき合う
摩擦の中からエネルギーが生まれる
プータロー認定
仲良しグループでは組織ができない
仲間と動けばエネルギーが増幅される
一人の覚悟が人を動かす
判断の軸があいまいだとエネルギーが落ちる
問題を起こす人もまた大切
新しいことをはじめるには「よそ者、若者、バカ者」を活用する
外部の多様性が組織を成長させる
チェックではなく、互いに前へ進む関係を持つ
1以下累乗は限りなく0に近づいていく



第6章◎古いルールに縛られない


次の一歩を踏み出すチカラは特別なものではない
常識の延長線上には次の時代がない
“らしさ”に縛られていないか
リスクをとる人が新しいものをつくる
正解を求めない
軸のない人は批判ばかりが上手
成功よりも失敗をしない方向でものごとを決めてないか
命令をされなかったら、考える癖がついた
個人の気概からすべてがはじまる
創造的な仕事にまじめさは必要がない
まじめと真摯はまるで違う



第7章◎今を突き抜けていこう


自分から変わっていく
加速しないと出口は見えない
本気でやれば応援者は集まる
がんばらなくてもいい、面白がっていこう
身の丈でやれる実感を持つ
面白がる、スピードがある、ネットワークを持っていること
有限性に気づいたことがあるか
欲を捨てると将来が見える
つくり続けることは壊し続けること
いかに自由を獲得し続けるか
狂気を持って生きる



世の中には階段を上がる人と作る人がいる。この場合の階段は、既成の概念とでも言ったらいいだろうか。



すでに作られている階段を上ること――出世をする、お金を儲ける、権威を持つ等――だけが楽しいと思っている種類の人々がいる。



金でも学歴でもなく、タフでどこでも生きられて、素でいられる。やりたいことがやれるというのが、
かっこいいことなんだと、完全に考え方が変わった。こうして価値観が変わると、とたんに僕は元気になった。



気軽にはじめてみればいい。自分のゴールに向かって小さくても一歩踏み出せば、不安は解消してしまうし、
きっと自分への可能性が見えてくる。そうすれば、もう君の目の前には自由な階段が広がっているのと同じだ。
そこには面白いことがたくさん待ち受けているにちがいない。



お金を回そうと思ったら、勤勉に働くことを最初に考えない。まず時代が将来何を必要とするかを見極めることが大事なのだ。



死ぬまで尖り続ける。これは自由を確保する上でどうしても必要なことだ。
角が取れて丸くなってしまうと新しいことができなくなる。丸くなってみんなの意見なんて聞きはじめたら終わり。
闘争心がなくなるし、発信力もなくなる。人もリーダーと認めなくなる。
世間におもねて、金儲けを一番に考えるのもいけない。手の内が小さくなり、大きな実験ができないようになる。
新しいものを生まないうちに、潰されてしまう。
つまらない計算はしない。思ったことは何でもやる。違うと思ったら距離をとる。僕はそういうふうにした。
嫌なヤツともつき合わない。そんなのできっこないと思うかもしれないが、地球上には何十億と人がいるから、無理してつき合わなくても、
きっと気の合う人は世界のどこかに必ずいる。



とにかく金さえ儲かればいい、やりたいようにやるという幼稚な自己中心主義の人もいる。僕はそういうやり方は続かないと思う。
ビジネスは結局人との関わり合いなので、他人に配慮できない人はいずれ誰にも相手にされなくなってビジネスも回らなくなる。



自分だけでなく全体のことも見ることができる人が、社会に関わって自立していける人だろう。



これからの社会には、「面白い」の二極化現象が起きてくると思う。面白い人同士、既成の常識人は常識人としか集まらない。
お金のあるなしは、たいした差ではないかもしれない。



何が違うのかと言ったら、時間密度の差。時間密度の差は、自分らしさの象徴だと言えるだろう。自分が楽しいことでの密度が重要だ。
生きる意味と言い換えることができるかもしれない。



面白いことをやると人が動く。生産も消費もそれが動機づけになっている。そのためには自分が面白がらないとはじまらない。
これが本当にいいのか、面白いんだろうかと悩んでいるうちに面白いものもどんどん変わっていく。それでは面白さに乗り遅れる。
面白いことに直接乗っかっていこう。今の時代は変革期。やりたい放題やるヤツがチャンスをつかむのだ。



僕の場合、サラリーマンを辞めた後、最低限の生活を実験した。新聞、つき合い、車も全部捨てた。新聞を見ないから考える。車がないから歩く。
するといろいろなものが目につく。景色がまったく違った。小さな花が咲いている、風が吹いていることも気づかなかったサラリーマン時代の自分に気づいた。
気づかないというのはビジネスにとっては致命傷だ。
今のまま守っていても仕方ないと気づいている。でも、すべて捨てろと言われてもそうは生きられない。こういう人は、基本的に捨てるという意識がない。
キープし続けたいという人もいるけれど、キープするほどのものがあるんだろうか。余計なぜい肉を捨てる。古い考えを捨てる。物分りの悪いパートナーを捨てる。
まずは、いろいろ捨ててみることがスタートかもしれない。



A―飽きず、B―バカになって、C―コツコツやる。これがABCの法則。賃借対照表を読めなくても、財布にお金が残っていたらいいと思い込む。
自分の基準で生き残ればいい。



あの人と一緒に働きたい、あの人のミッション、ヴィジョンでやりたいと思わせるのが求心力である。
数の論理ではもはや何も動かせない。そのかわり誰か一人の魅力が人を動かす。高いミッションとパッション、そしてリスクをとる生き方が、その人に
求心力を生んでいく。お金だけでは人は動かないのだ。



1.つき合いの範囲が狭い
2.まじめだが真摯でない
3.コスト意識がない
4.専門性がない
5.スタッフが組織にしがみつこうとしている



自分を素にして生きてみると、あまり怖いものがなくなってくる。僕は素で生きるほど楽なことはなく、自由度も高いと思っている。
人はその場面場面でいろいろな“らしさ”に縛られていないだろうか。男らしく、女らしく、学生らしく、大人らしく、銀行員らしく・・・。
“らしさ”にはリスクが少ない。“らしさ”の枠に安住してしまい、序列に甘んじてしまうと、緊張感がなくなって、多角的に状況を把握できず、自分の判断ができなくなってしまう。



何かをやろうとする時、相手に合わせるいい子は問題なくものごとを進め、無事に終えて肩の荷が下りる。それに対して自分の生き方でぶつかっていく人は茨の道かもしれないが、自分のポリシーを貫いた達成感を得て自信へとつなげていける。



死ぬまでいかに自由を獲得し続けるか。
ビジネスが上手くいった時に自分が必要とされ、抜けられなくなる。自分が束縛され、嫌になる。これではいけない。そうならないために、今、僕は後継者をつくっている。自分がいなくなった時にも、きっとこの人がやってくるという人を育てている。



僕が「面白い」と思うのは、展開がある、可能性があるということだ。将来、時代を画するかもしれない出来事のことだ。
逆に、誰かが面白がったものを、あとからついてきて面白いなんて言う人間は、はっきり言って大嫌い。面白いことまで、人の真似をするのは創造性のカケラもない。面白いことこそ、その人個人が体験を享受すべきものだからだ。

8/24/2007

整体的生活術


整体的生活術 三枝誠


ただし、転地、転職、転婚で人生を変えろといっても、それは、コロコロと職を変えろといっているわけではありません。でも何かひとつ、少し無理をしてでも新しいものを手に入れたりすると、そこからガラガラガラッと人生が変わってくるんです。
それから服装を変えるだけでも人生は違ってきます。そこで大事なのは、ちょっと無理をすること。転機の時、品物はバーゲンで買わないことです。私は安売りという概念が嫌いです。

涙が出るほど無理をして、高くても良い物をエーイと思いきって買うと、そういうエーイと思いきって買った苦しさの部分には運が上がる秘訣があるものです。

ある人が偉大な能力を持っていた場合、それと一緒に大きな欠落部分も持っています。
才能というのは言葉を換えれば、欠落ですからね。でも、その欠落を補ってくれるものがあって、初めて物事は動きだします。欠落を埋めた瞬間、初めて市民権を持ち、超人的な力が発揮されてきます。

仮に、才能ということを言おうとするなら、才能がある人ほど、間主体を大切にしなければなりません。人は、どんな人間関係を結ぶかによって、あっけないくらいに変わるものです。

天与の才能というものが少しはあるとするなら、自分自身を潰すような場所からは立ち去って、自分自身を活かしてくれる場所に出向く能力のことだと思います。ですから、ちゃんと「ノー」が言えることも大切な才能のひとつです。

大事なことは、気のパイプを自分は誰とつなげるかということです。

やはり人はクリエイターとして、なにかを生み出さなければいけないと私は思っているんです。
クリエイターに条件があるとするなら、その一番の条件は、孤独を知っていることでしょうね。
孤独は悪いことではないし、悲しいことではない。

大切なのは、孤独、忍耐、そして笑顔。クリエイターは孤独、忍耐、笑顔、そして、マメでなければいけない。

さらには、丈夫であることも大事。自分が健康であって、初めてものを作ることができるし、人間として生きていけるものなのです。

色恋沙汰で自分が狂った時期がないと、わからないということはある。狂われるのも迷惑ですが、狂ったことのない人間には語れないということもあるわけです。

好きとか嫌いとかいう感情は、非常に主観的な感情でしょう。でも、この主観的な感情も、ある外部的な事件が起こったり、社会的な制裁を受けたりして地獄をみると、人間は主観的な感情から距離を置くという、客観視を覚えるようになってきます。

自分の外側にもう一人の自分がいるという意識を持って、その俯瞰的な客観視の能力で、つらくてもしばらく頑張ってみる。

そうすると、そのあとに何がくるかというと、前向きの諦観というか、明るい絶望感みたいなものが出てくるのです。

つらい出来事があって、とても苦しい気持ちを体験すると、最初はだだっ子のようだった主観性が、客観性に変わって、そのあとにちょっと弛むんです。

自分では天動説だと思いこんでいたものが、ある時、絶望や挫折を味わって地動説になり、もう一度天動説に戻る。自分のつらい体験でそれを知る。

私のいう「身体尺度」とはそういうことです。

手首を切って血を流したり、身体ごといろんなものを抜けた人間が主観を超えて、客観を覚えて、もう一度、自分を中心に考えるところまで戻ってくる。

ユーモアがわかるというのも、自分を客観視できる人間かどうかということでしょう。

逆に、絶望感というのも、知性や忍耐力がない人には味わうことができないものです。

人間には、“溜め”の時期というのもあって、悲嘆とか慟哭といった状態を味わうような、自分にとっての耐え難い出来事と出会ってしまう時期があるんです。

そのときに激しく混乱した感情、あるいは深い悲しみをぐーっと我慢していると少しずつ抜けてきて、何かが見えてくるというのはあるものなんです。

要するに平均値でものを考えないようにしているんです。

自分の考えていることが、たまたま大多数の人の意見と一致するならそれはそれでいい。

ただ平均的なことが、即、正常なことだという考え方は大変危険だと思ってる。

「平均的なものは、別に正常でも健康でもない!」

私は、感謝という感情は、センスの問題であって、努力の問題ではないと思っています。

たとえば男女が別れる時だって、相手に嫌われているならば修繕は可能。

だけど、愛の反対は憎しみや嫌悪じゃなくて無関心だし、別れの際にとにかく一番こわいのは、感謝の言葉です。

別れの際の女性に「ありがとう」と心底言われた日には、どういう修繕も男女関係にはできません。

感謝というのは、本当に過去になってしまったものに対して抱く感情ですからね。

その感謝を現役でつきあっている人間に強制するというのは、非常にむずかしいことなのです。

ですから、感謝ほど自然に出てこないと意味がないものもありません。

身体的に無理な状況で感謝の感情を持とうとすれば、やはり身体を壊します。モラルの強制は、身体を壊す。

モラルというものも強制ではなくて、自然に発生するものなんですから。

物事をはかる尺度も身体に置いておくほうが、圧倒的に正しい。

この身体尺度から離れれば離れるほど、人間は他人の痛みも他人との距離も何もわからなくなってしまいます。

簡単にいえば、身体尺度というのは、わからないことは身体に聞けということなんです。

迷ったら、身体が行きたがっているほうへ行けばいい。そういうことには、いつも敏感でいたほうがいいと思いますね。

家風、なんていうのも身体記憶の一種です。

単なる遺伝よりも、親の教えや家風のほうが影響力を持つ怖いものだと思います。

たとえば、結婚しようとする二人の仲が、家風が違うということで壊れたりすることがありますが、あれは、つまり身体記憶が違いすぎると上手くいかないといういことなんですね。

私が見た一級の人間の特徴は、自分を客観的に見る能力、現状をちゃんと分析できる能力を持っている人ということですね、自分自身を一歩離れたところに置いて、それでいてきちんと自分を愛している。

やはり、一級の人というのは自分の身体に対する意識が高い人です。

二級の人間というのは、優れた編集の能力、情報を取捨選択して再構築する能力を持っている人だと思います。

その編集能力は一級の人間も持っています。

自分でものを作り出すことも、編集する能力も両方持っているのが一級の人でしょうね。

三級の人間というのは、保身的な人です。

地方でちょっと有名な人とか、地方の道場で一番だとか、そういう人は一見したところ他人に対してとても威張っていても、実は非常に脆いということが多いですね。

四級の人達は、いわゆる善男善女です。

不愉快にはならない人たちだけど、いろんな状況に流されて生きている人達ですね。

五級というのは、権力に弱いくせに権力を振り回す人間。なんらかの権威に守られていて、その権威をカサに自分が威張る。

競争社会に身を置かずに、狭い世界でエラソーにしている人達です。

それから一級の人と三級の人との大きな違いは、一級の人には、恐怖心をモチベーションにしないという強さがあるということでしょうね。

生きていく動機づけが、恐怖心ではなくて好奇心なのです。

恐怖心をモチベーションにしない人は、いまや希少価値です。

“考えないで怒る”というのも、とても難しいけれども大切なことです。

なぜならば、頭で考えていると、怒るタイミングを逃してしまう。悪く思われるんじゃないかとか嫌われるんじゃないかとかいろいろ考えているうちに、“怒りの機”を逃してしまうのです。

怒り方がヘタな人は、人の上に立てません。

十歳までの記憶というのは、とても大きいんですね。

記憶というものは本当に身体に染みつきます。

住居の話をしていると、身体記憶の話になってくる。

身についたもの、つまり身体記憶を書き換えるということは身体を変えるということでもあるんです。

たとえば、金持ちには金持ちの身体というものがある。

それから初代の金持ちの身体と2代目の金持ちの身体というのもあるんです。

金を稼ぐ身体と金を管理する身体とは違う。

そうすると、金持ちの身体じゃないかぎり、金持ちになってはいけない、ということが言える。

なぜならば、身体と金は、当然つながっていますから、金持ちの身体を持っていない人がいきなり大金を持っても、使いこなせないから単に貯めこむだけか、あるいは無駄に使ってしまうだけということになります。

身体記憶を入れ替えるしかない。

親と違うことをするというのは大変なことですから、結果としては身体が変わってきます。

自分がこれから親とは違う生き方をしようと思ったら、まず、見た目も変わります。

体つきだけでなく、顔も変わる、歩き方も変わる。逆にいうと、小さなことから変化をつけることで生き方を変えることができます。

住まいもそういうものの延長にあります。ですから当然、身体記憶と住居というのは、とても深い関係があるわけです。

「足湯くん」





8/23/2007

黒井千次




黒井千次(7/26/2007日経夕刊)


老いは自分の内側から訪れると言うより、他人によってある日突然もたらされるという面があります。

自分は結構若いし、何でもできると思っていたのに段々身体が付いていかなくなる。少しずつ自分で老いに気付くということは確かにある。

でも、それ以上にショックが大きいのは、全然意識していないことを他人から言われたときでしょう。

放っておくと、人は自分が年を取ったとは本気で思いたくないのかもしれない。

生涯青春ということがさかんにいわれます。そうなると人生の終盤に近い老人の老人らしい生き方というのはなくなる。時代は理想的な老人像がない時代なのです。

世の中全体がそれを求めていない。老いは否定的なイメージでしか語られない。しかし、老いたからこそ手に入れることができる何か、老いの果実があるではないか。それを意識しないまま最期まで行っちゃうのはちょっと寂しい。

時代の変化に調和できない方が老人として自然です。変化に上手に適応している人の中にはありようもない貴重なものが、時代に取り残された人の中にはある。みんなが一斉に走っている時に、そうじゃないだろってブツブツ言いながら歩いている人間を書きたい。



8/22/2007

「B級自由民」宣言




「B級自由民」宣言・山谷哲夫


「上に政策あれば、下に対策あり」

そのもそも日本人男性は、世界的にもそんなに見栄えはよくない。まず、顔の彫りが浅く、平面的だ。背も高くないし、がに股も多い。何よりも着こなし、色のセンスがいま一つだ。奥さん任せにし、自分の着るものさえ自分で選んでいないからだ。何よりも決定的なことは、奥さん以外の女性に恋をしていないから、外見に気を使わないことだ。

ぼくらも、頭の髪の毛だけでなく、肝心の中身も薄く、凡庸でもある事実を謙虚に自覚したほうがいい。例えば、僕らの会話に古典である近松、蕪村が出てくることはまずない。その身を切るような、つらい自己認識を踏まえた上で、攻めて外見を今以上に上品、おしゃれしたい。

ゴミ捨て、掃除、洗濯、布団干し、皿洗い、ご飯炊きなど、細々した家事が、僕は全く苦にならない。また、子供の三者面談に、母親のほうが出なくてはならないという掟はない。

僕は今まで、あまりに自由業、特に映画関係者、物書き等の末路を見てきた。多くは50歳代に入ると仕事が激減する。かんじんの感受性が年とともに鈍磨するのだから、仕方ない面もある。ギャラも新人に比べると、明らかに高い。そして、何よりも一言多く、使いづらい。








8/21/2007

ドル覇権の崩壊/副島隆彦



ドル覇権の崩壊/副島隆彦

私はそれを2008年末から09年にかけて起こるであろうと冷酷に予測する。その時、米ドルは暴落を開始する。1ドルは2年後には100円を割るだろう。そして80円にまで突入していく。

中国がアメリカを世界覇権国の地位から追い落とし、自分たちが次の世界帝国になる。世界の覇権が、アメリカから中国に移るためには、ニューヨークの金融市場を中国が仕掛けて大暴落させることがどうしても必要である。そして、その事態が数年後の2010年ごろ起きるであろう。中国人はそのことを躊躇しないだろう。中国人がニューヨークの株式と米国債を大量に一気に売り浴びせる日が迫っているのである。それが、1929年のニューヨークの株式大暴落の再来である。

だから、私たちは中国の人民元を今のうちにたくさん買っておけばいい。黙っていても倍にはなる。なんとかして人民元を買えばいい。
いまは1米ドルが7.6人民元であるから、これが半値の3.8人民元にまで米ドルは下がる。それには3年(2010年)くらいかかるだろう。

世界の金融の動きを的確に未来予測しながら、どのような事態に対しても自分の資金を守れるように自由自在に動ける体制を常に整えておくことである。この先は大きくはドル大暴落であり、アメリカを中心とした世界の金融体制の瓦解が迫っていることに気づくことである。

2008年の終わりごろからドルは下落を始めやがて1ドル100円を割っていくであろう。90円台を維持するか、もしかしたら80円台まで下がるのではないか。それが2009年、2010年にかけて起きる。つまりドルの暴落が始まる。それは円高になるということだ。

私は1ユーロは200円まで行くと思う。だから今のうちにまだまだユーロ建て金融商品を買えばいいのである。米ドルとの関係で言えば、1ユーロが1.4ドルを超えて1.7ドルくらいになるだろう。ユーロはこれからもますます強くなる。その理由は、ドルが暴落するからである。だからユーロの外貨預金やユーロ建ての投資信託などに私たちは投資すべきである。

リバータリアニズムは、反過剰福祉・反税金・反統制経済を主張し、官僚統制を何よりも嫌う、強固な自由経済(フリー・エコノミー)重視の思想である。

ローマ帝国の昔と今は全く同じである。これと合わせて、定期的に5年に一度、10年に一度の割で、戦争をして外国の征服によって冨を得た。さらに贅沢のための資金調達を行った。戦勝国になればたしかにぶんどり品がたくさんある。

金・ドル体制(IMF=世銀体制)は、1971年8月の「ニクソン・ショック」で明らかになった。
この「ドル・石油兌換体制」の成立によって、米ドルは生き延びたのである。1971年のニクソン・ショックによって瓦解したはずなのに、形だけは、主要な国々の協調による世界の通貨の安定、という方策が作られた。



この新たに成立した、それまでの「金・ドル体制」に代わる、「ドル・石油体制」のことを、修正IMF体制=ロックフェラー石油通貨体制という。その実質は、背後から世界の全てを操っている現在の“実質の世界皇帝”であるデイヴィッド・ロックフェラー(92歳)の指図によるものである。



全く新しい時代に突入して、全く新しい世界試合(ワールドゲーム)が開始されるだろう。今度は、1971年の後の収拾策のような、「ドルを金ではなく、石油で裏打ちする」という手法は使えない。それではどうするか。それは金を中心にして、そのほかの鉱物資源も担保に差し出し、さらには、石油、天然ガスなどのエネルギーから、農産物(穀物)に至るまで、すべての実物資産(タンジブル・アセット)を、まとめてバスケットの中に入れて、それを信用の源泉にする、全く新しい通貨体制を作るということだ。この新通貨体制に移行しなければ済まない。



国民というものは、指導者たちが煽動すると、このように易々と戦争に動員されていくものである。人類の歴史は、このように愛国心と民族主義という考え方を鼓舞(インスパイア)するといとも容易に焚きつけられて、無謀な対外戦争への道を歩まされる。その数年後には、必ず大きな失望と幻滅が襲い掛かってくるというのに。戦争というものは、古来、だいたい3年から4年で、それを支える国民の熱狂と支持が消えうせるものなのである。剥き出しの報復感情と、メディアを使って操られた国民が幻滅し、国民に自覚を促すのには、それなりの時間がかかるのである。



狂暴なネオコン派高官たちは、世界中にアメリカ的な価値観を押し広げ、「アメリカ人の生活文化が理想の生活である」といsて、それを世界中に上から強制することによって、各民族の行き方とそれぞれの国民文化を破壊し廃止させ、アメリカ中心としお手本とする、単一、単調の文化(モノ・カルチャー)の世界を建設することを目指した。それをもって、「世界人類の理想社会の建設が行われ、実際には、人類の理想が達成されるのである」と考えた。これがネオコン思想である。



皮肉なことに、今や誰でも分かるとおり、だから今度は逆にドルの優位は米国の強大な軍事力に依存しているのである。ドルの信用力の源泉はアメリカの軍事力なのである。「ドル・軍事力世界通貨体制」と呼んでもいいものである。そして米国の強大な軍事力はやっぱりまたドルの信用力に依存している。
帝国というのは、見かけは強大だがその内実は逼迫していていつも不安である。“お山の大将”は案外弱いのである。日本人はアメリカをあまりにも強大な国だと勝手に思い込んでいる。だからアメリカと対等に交渉しようという愛国的な国家指導者を育ててこなかった。



ロックフェラー家は自分たちが、「世界のお山の大将」である、自分たちが最高指導者であり経営者であるから、アメリカ全体を管理し、更に世界を管理しなければならない、そうなると自分たちの自国通貨であるドルを売り払って、ドルを売り崩すことは絶対にできない。ここがミソである。お山の大将というのは山の上に一人でふんぞり返って王座に座っている人である。下の方や、周りから鉄砲の玉が雨あられのように飛んでくる。そして徐徐に身動きが取れなくなる。これが、世界覇権国なるものの運命である。これは歴史の法則であり、こうして身動きが取れなくなる。デイヴィッド・ロックフェラー(92歳)は徐々に力がなくなりつつある。それでも、彼は98歳、いやもしかした104歳まで生き延びるのではないかと心配(あるいは驚嘆)されている。彼が生きている間は、彼が持つ強大な権力は崩れない。彼が死ぬまでは世界皇帝である。だからロックフェラーは、自分と競争して、自分に挑戦してくるアメリカの新興の財界人たちを痛めつける。決して自分と同格の地位には就かせない。ここにアメリカ財界人たちの大きな対立・抗争の構造がある。




8/20/2007

いのちの力 望月勇





いのちの力 望月勇


トルコからインドへの旅の途中も、腹の立つことが多くて、いつも心の中で人々を批判ばかりしていました。
その結果、人々からあまり印象のよい待遇を受けませんでした。むしろひどい仕打ちを受けました。
人々からだけではありません。犬や牛や、はたまたバスや汽車やホテルまでもが、私に反感を抱いているように感じられたのです。

だいたい、最初に感じたことを無視して行動した後に、「あの時、最初に思った通りにやっておけばよかったのに」と後悔することが、案外多いのではないでしょうか。

執着する物を手放す

病から抜け出す方法とは、潜在意識からネガティヴな思い込みを開放することであることを学びました。

自分の体を非難すると、非難した部分から仕返しを受ける

怖いと思う気持ちが、怖い状況を作ってしまう

今現在は、将来の原因、将来は、現在の結果であることに気付いた人は、よりよい将来を望むなら、今をより生きる生き方を選ぶことでしょう。

スポーツでも、楽器の演奏でも、くり返し反復練習を積み重ねることによって、上達してゆくのです。
それと同様に、願望を現実化するには、くり返しイメージすることが最も重要なのです。くり返すことで、そこに宇宙の無限の力が働いてくるからです。

いったん、心に願望を思い描いたら、よほどの理由がない限り、途中でその想念の計画を変更しないことです。
あなたの心に思い描いた願望は、あなたが眠っている間も想念の波動となって、宇宙へ働きかけられています。
そうして働きかけられた宇宙の無限のエネルギーは、徐々に、あなたの願望を現実のものとするように宇宙を動かしてくれます。

私は、自分の死のことについて、いつもこんな風にイメージすることにしています。
元気で長生きして、ボケなくて、自分のことは自分でできて、なおかつ、周りの人のことも少しはしてあげられる。
そして、亡くなる二日前に、ちょっと老化現象がでて、「ああ、もうすぐあちらの世界へ行くのだな」ということがわかって、身の回りを整理し、布団を敷いて寝る。
この世の死は、あの世へ生まれること、あの世の死は、この世へ生まれること、と思う。すると、落ち着いてくる。
そして、リラックスすると、脳にベータ・エンドルフィン(脳内麻薬)が、いっぱいに分泌される。
すると、恐怖心が完全に消え、素晴らしく心地よくなって恍惚とした気分であちらの世界へ旅立つ。
誰かが、よく眠っているな、と思って枕もとへ来て見ると、すでに大往生を遂げていた。
と、まあこんな風に、勝手にイメージしています。

人体の右半身がプラス(陽)で、左半身がマイナス(陰)です。
また、上半身がプラス(陽)で、下半身がマイナス(陰)になります。
腕でいうと、右手はエネルギーが出て行く方で、左手はエネルギーが入ってくる方です。
目では、右目からエネルギーが出て行きますが、左目からは、エネルギーが入って来ます。

思い言動が違うと、体がゆがむ

願望を話すと、言葉で成就したことになり実現しにくい

自分の願望は、志を同じくする数人の仲間になら話してもよいと思えますが、なるべく黙って胸に秘めておくべきです。
その多大勢の人々に話してしまうと、その話した願望が現実化する一歩手前で、言葉の世界で実現したことになり、現実にならないことがあるからです。

朝起きた時にはよい言葉を、夜寝る前には心をきれいに

「人間は、この宇宙では、わからないことの方が、圧倒的に多いのだから、よほど自分で確信がない限り、相手の言ったlことを否定しないことです。否定すると、自分の器量が狭くなります。器量は、相手をゆるし、認め、受け入れる心の広さと考えれば、あなたの上司は、いつも、あなたの言うことを否定しているために、段々器量が狭くなったのですね。たとえば、五人分の器量しかない上司には、五人しか部下がいないはずです。現に、あなたも、その部長についていけなくなっているではないですか。

とにかく、どんな問題であろうが、自分の人生で起きてくる問題は、最後は、自分が決断するべきです。
たとえ、その選択が間違っていたとしても、それを自分が選択したことで、自分が自分を生きることになり、そのことで今、生きている実感が得られ、その実感が生きている証になっていくのではないでしょうか。

人間は、表面では、個々一人一人独立していますが、心の深い所では、一つにつながっているのです。
すると、自分を卑下し、自信を無くすと、相手の心は自分が卑しめられ、見下されたと感じてしまうので、そんな相手に対して反発してしまう気持ちが出てくるのだと想います。したがって、彼女の、自分を卑下し、自虐するという心の持ち方が、無意識のうちに、相手に不快で、生意気で、横柄な印象を与え、そのために反発をまねく結果になっていたのです。
反対に、自分を大切に、自信を持っている人は相手に好感を与え、話し方や動作に謙虚さを感じさせます。自分を大切にする心が、そのまま相手の心に通じているので、相手は自分が大切にされていると感じるのです。ですから、自信のある人は周囲から大切にされ、尊敬されることになるのです。

自分で見よ、自分で考えよ、自分で生きよ、でした。
実際、日本人は、誰かが大義名分を唱えると、誰もがすぐそれに賛同してしまう傾向があります。
自分で考えるよりも、皆の意見に同調した方が、確かに楽ですが、それは自分の生き方を放棄していることと同じです。

武道家や気功家は、みんなそれぞれ自分の型を教えますが、覚えたら、最後にはその型を捨てなければなりません。
あなたが形や型にこだわっているうちは、本当の進歩はありません。
そのこだわりを捨てた時、あなたは、初めて内的世界の広がりに気づき、次元の異なる世界の入り口に立つことができるのです。

心の中で、日常的に、無意識に、子供の短所を批判していたことに気が付いた人は、どうか意識的に、心の中で批判をやめてみてください。そして、その代わりに、長所を見つけて、褒めてあげてみてください。
すると、私たちは、子供が、確実に変わってゆく姿を目撃することになるでしょう。
さらに、私たちは、輪廻転生という考え方を、受け入れることができれば、こんなふうにも考えることができるのです。
つまり、私たちの子供は、理由があって私たち両親を選んで生まれてきたというのです。
私たちは、あらゆる体験をするために、生まれる前にシナリオを作って、生まれてきました。
宇宙の何か偉大な力が、私たちを通して、あらゆる体験をするために、今、現在、ここに存在するのです。
もし、あなたが、あなたの言うことを聞かないから、という一方的な理由で、自分の子供に不満を持つようなことがあったら、あなたの心の中で、次のように祈ってみてください。
「息子(娘)よ!私たちを選んで生まれて来てくれて、本当にありがとう、感謝します。あなたが、これから最善の人生を選択して歩むことを、信じています」
祈りには素晴らしい力があります。子供のことで悩む時間があったら、是非、このように祈ってみてください。


三木成夫(1925年~87年)氏は、東京大学医学部を卒業し、東京大学解剖学教室、東京医科歯科大学解剖学教室を経て、東京藝術大学教授を務めていた学者(医学博士)ですが、彼は、人間の心(魂)は頭(脳)にあるのではなくて、内臓にあると主張しているのです。

8/19/2007

人間力






人間力

金を失うことは小さい。

信用を失うことは大きい。

しかし勇気を失うことは全てを失うことだ。

だから武道、武術は勇気、胆力を養い気力を練る。



人間力とは、気力を練ることであり、最悪の時にどう判断するかという力を養うんだ。
競争社会では弱みを見せることはマイナスかもしれないけれど、弱さを出し合えない関係はつらい。
だから今、多くの人が疲れているのかな。

日常生活から他人に頼り過ぎず、自分のペースで動く。

事実を明らかにせよ。
あらゆるモノに騙されないこと→真実を探求すること




景山さんのアマン・ダリ?



























景山民夫さんのどのエッセイだっけかな?バリのアマン・ダリだっけ、ホテルのボーイさんが言う言葉。
至言。

人を楽しませる仕事を選ぶというのは素敵ですね。
人の心を明るくしたり豊かにしたりするのが仕事というのはすばらしいです。
人に愛を与えたいと思っていらっしゃる方なんですね。



男は単純でいい



男は単純でいい。


愛する家族を守ること、その一点さえ貫ければいいのだ、理屈はいらない。――現代人が失いがちな、この単純さに徹することは、今の時代、特に難しくなっている。理屈が多すぎるのだ。言うことが自己弁護であったり言い訳であったりして、その分生き方に芯を失ってしまうのだ。


私たちが付くべき相手は証券ディーラーか外国人投資家、そしてほんの一部ですが投資技術の上手な個人投資家ということになります。


ターゲットという言葉をよく使う。標的である。つまり、レコードを発売する時に、どの年代層、どのファン層に狙いを定めるかということである。中・高校生をターゲットにとか、女子大生を標的にとか言う。また、盛り場狙いとか、トラッカー決め撃ちなどという使い方をするのである。要するに、確実に共感を得られそうな層を設定し、ややそれにおもねった形で企画を立てることである。どの商売でもそうであろうが、ある程度のターゲットの設定ができないと、不安で仕方ないのであろう。 ところが、ヒットの面白さは、作品や歌手の力がターゲットを無視するところから始まるのである。狙いどおりに予定した層の支持を得たものは、それはそれで成功であるが、決して歴史的大ヒットにはつながらないのである。ターゲットは保障の役目を果たすとともに、それ以上になることを阻む枷にもなるからである。最近のヒット曲が、予想もつかない雪崩現象に至らないのは、このターゲットを重要視しすぎるため、保証と枷の裏表の関係が、硬直させているからだと思うのである。それはともかく、大ヒットというのはターゲットを無視する。むしろ、標的としていなかった層の意外な反応というのが、社会現象的なヒットにつながっていくのである。 本物を潰すには、偽物を氾濫させるのが一番の上策だ。


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「お茶代は私に払わせて下さい。年寄りに恥じかかしちゃいけない」

浮世は義理と人情でもっている処です

老人のいない家庭は家庭ではない

石井英夫の欠点はえらそうにしないことで、えらそうにしないと世間は安く見るといっても、これまた生まれつきですからいかんともしがたい。

ただそのえらそうでないところで私はこの人と友になったのですから、一得一失はやむを得ないと言わなければなりません。

彼らは五年さき十年さきの考えはないのである。

あるのは「今」である。

今がしのげれば一両年はしのげるだろう。

それからさきのことはさきのことだ。 要するに哲学がないのだ。

産業革命以来人は哲学を放棄したのだ。

私はロシアのような中国のような半ば未開な国があって、日本のような食い物を棄てる国があって、アフリカのような飢えている国があって、世界はバランスがとれているのだと思っている。

世界中がアメリカのような、また日本のような国になるのは望ましくないと思っている。






表参道のヤッコさん











表参道のヤッコさん 高橋靖子



「開拓者というものは、いつも理不尽な思いを吹き飛ばしながら、前に進むんだよ」



私は生きることに苦労しながら、生きることを楽しんでいた。



「東洋人はお金のためだけに仕事をしない。ときには友情のために仕事をするのだ」

8/17/2007

ワイルド・アット・ハート


ワイルド・アット・ハート/ロバート・ハリス


反骨精神をむき出しにしてロックに狂い、ディスコで遊びほうけ、ヌーベルバーグに熱をあげ、カミュやサルトルを読みふけり、フランス映画「冒険者たち」に感動したり、学生運動に命をかけたり、フーテンになったりしていた60年代、70年代の悪ガキたちが、このバブルに浮かれる世の中を牽引しているだなんて。
信じられなかった。
昔の理想とか夢とか、アンチ・ヒロイズムとかニヒリズムとか、クールとかロックスピリットとか、そういったものはどこへ消えてしまったのだろう。


失業や破産も経験したし、離婚や親しい仲間との死別もあった。
何年もノイローゼでうつ状態もあれば、ギャンブルでとてつもなく大負けしたり、刑務所に入れられたこともあった。
でも、こうした辛いことと同じくらい、いや、それ以上の楽しいことが人生にあった。
だから、自分のスタイルを変えずにやっていくことができたのだ。


自分なりにやってみたいことを「100のリスト」として挙げ、・・・・そして、そんな新たな楽しみが見出せる人なら、「必ずしも日本にいなくてもいいんだ」という選択肢もでてくるかもしれない。
年齢なんて問題じゃない。


旅にロマンを求め、かつての夢を見知らぬ土地で再認識してみてはどうだろう?おそらく、いままでにない解放された気持ちにもなれると思う。


実存主義者たちは、こんな言葉を遺した。
「自由ほど辛いものはない。自分ですべてのことを決め、責任をもたなければいけないのだから」と。


楽しみに金のかからない人がもっとも幸福である(ソロー)


欲しいものを買うな、必要なものを買え。


必要でないものには何の価値もない。(大カトー)


自分のスタイルを裏切るような仕事はしちゃいけない。


なるべくたくさん旅をして、本を読んで、映画を見て、人と話して、恋をして、情熱的に生きることだ。


映画
冒険者たち、エーゲ海の天使、マラケッシュ・エクスプレス、海を飛ぶ夢


心の痛みがわかることによって、人をかばってあげたり、守ってあげたりすることができる。そこで初めてエンパシーを感じる能力―人間性を持った人間になれると思う。


生きていくうえで、人間性を培ううえで、傷つくこと、失恋すること、思い悩むこと、落ち込むこと、挫折することはすごく大切だ。
それを知らずにきた人間は、やはりどこか深みに欠ける。そんな気がする。


守りに入らない、勝ち金を絶対に数えない、
焦らない、欲をかかない、運を呪わない、神を冒涜しない、いやな奴にならない。
いつも楽しい時間を過ごそうとする立ち振る舞いが、自然に勝機を呼び込んでいく。


そう、まずは何をどこでやっていきたいかをシンプルに考える。その後に家族のこと、子供の教育、ビザ、永住権、言葉、住居問題など、諸々のことを考える。
多くの人は逆の順番で考えてしまいがちだが、これではなかなか大きな第一歩を踏み出せなくなる。小さなディテールにこだわりすぎて、これもできない、あれもできないと、行動範囲ややりたいことそのものを制限していますのだ。


毎年毎年、色々な国を転々としていたのでは落ち着いた生活が出来ないとか、子供の教育に良くないとかいった、ネガティブな考えは捨てることだ。
人間、やりたいことをやっていればどこへ行っても、どんなライフスタイルを送っても、楽しいものである。

8/16/2007

人生の転機


人生の転機


1、自分が大好きなことにさらに情熱を注ぎなさい。


2、自分らしさを発揮することに躊躇するな。


3、絶望感を抱いてしまうのは、たんに経験不足のせいかもしれないことを忘れるな。


4、失敗することも考慮に入れておきなさい。


5、粘り強さをあなたの強力な武器にしなさい。



マザー・テレサ


「ものをため込むのはよくありません。なぜならため込むという行為は、必要なときには紙が与えてくださるという信念を否定することだからです。」



ペニー・ピアス「今という瞬間」


あまりに頭や体を酷使していないか気をつけなさい。無理しすぎているときは、直感が浮かびにくくなっています。



エネルギーを増やす方法


食事すべき時間に留意しなさい。


荷物を軽くする。ポケットや財布にあまりものをいれないようにしなさい。


山のように散らかっているものを片付けなさい。


行動を少なくしなさい。


元気づけてくれる人と交際しなさい。


作業を人に任せなさい。


時間どおりに物事を実行しなさい。


おしゃべりを少なくしなさい。


運動をしなさい。


五〇歳におくる一七箇条


【五〇歳におくる一七箇条】


(1)これからの時代、ますます不確実性とリスクが高まる。


(2)構造改革と規制緩和が進み、何でもあり、しかし何の保証もない環境となる。


(3)したがって過去の物差しは通用しない。自分で考え、決断し、自分の責任で生きる時代になる。


(4)知識・情報社会の掟として、知識、情報を持たない人、考え抜く力のない人は優勝劣敗の環境の中で、むしられる。


(5)職業については、好むと好まざるとにかかわらず一毛作時代は終わり、多毛作が当たり前の時代になっている。


(6)しかし自分自身という田畑は生涯一つしかないから、自己啓発、生涯学習などで手入れを怠らないようにしなければならない。


(7)日本社会の高齢化は避けられない。それに対応する社会インフラづくりはなかなかできないどころか劣化する危険性すらある。


(8)ビジネスパーソン生活は運と不運のあざなえる縄のごとし、であるから、その現実を認め、不運と思う人はそれを受け入れなければならない。


(9)過ぎ去ったことは終わったこと、と割り切って過去へのこだわりを捨てないと、前向きの姿勢が出てこない。納得が大切である。


(10)不運だったからといって、これまで律儀に勤め上げ、自分の力で家族を養い、税金を払い、社会の良き一員であったというプライドは持ち続けなければならない。


(11)これからのプライドは、会社のブランドでも地位でもない。これまで培ってきた専門性と経験である。


(12)長い間きちんとした仕事をしてきた人は、必ず何らかの専門性を持っている。それを棚卸しをして、新しい時代に価値があるように再構築する。


(13)好奇心を持ち続ける。好奇心が心身に新しい刺激を与え、新しい世界への扉をあける。新しい専門性へのきっかけにもなる。


(14)品性と教養を大切にしたい。これは人生の年輪のようなもので一朝一夕にはできない。それゆえに尊敬される持ち味でもある。プライドを持って、下品な真似はしない。


(15)自分の(新しい)仕事は経済社会に役立っているから存在しているのだ、と割り切って全力投球する。収入を得るためには仕方がない、という退嬰的な気持ちを振り切る。


(16)この年齢になって、まだ「隣の芝生」の青さなど気にするようでは残念。隣の芝生は無関係、自分たちの価値観がすべて、という家族全員のコンセンサスを計ることが大切。


(17)五〇歳までの人生の経験、見識をベースにすれば、あと五〇〇時間投入すれば、新しい専門性をつくるのはけっして困難ではない。

8/15/2007

死より引退のほうが恐怖


アメリカの金持ちの習性についてのなるほど、と思ったところをば・・。
『死より引退のほうが恐怖』



一番投資で儲けやすいのは四十~五十五歳まで。


投資でかなりの富を築くには、当然リスクをとる必要がある。
しかし五十五歳を過ぎると大部分の人が安定を最優先させるようになり、投資リスクをとりたくなくなる。


離婚も少なくなる。


男性も女性も食事に気をつけ始め、運動をするようになる。


休暇もより多く取るようになる。


さらに、死についても考え始め、自分の資産とバランスシートをチェックし始める。


借金をしなくなる。


きちんとした最期を迎えたいからである。



面白いことに、このように五十五歳で死の準備を始めるのに、引退の準備を真剣に始めるのはなんと六十歳頃であるとか。


多くの人にとって死ぬことより引退することのほうが怖いようだ。


死については自分ではまだ間があると思っており、この段階ではまだ死の抽象的な概念上の恐れでしかない。


しかし引退は現実の問題として刻々と迫っており、定年後の生活がどんなものになるか恐れおののく。



もちろんすべての人がそうではない。


趣味が豊かで、やりたいことがいっぱいある恵まれた人もいる。


しかしこういう人は何年もかけて趣味を拡げてきた人である。


定年になったらあれをしよう、これをしようと空想上の趣味しか持っていない人は、いざ引退して時間ができても趣味を実行に移さないし、移せもしない。



定年後豊かな人生を送りたいなら、生涯かけてやりたいことを今のうちからふくらませておくべきである。仕事に完全に埋没していた人ほど(例えば自分でビジネスをもっていた人)引退は辛く、時にはアル中になったりする。

8/14/2007

五十代で金持ちになってもライフスタイルは変わらない


『五十代で金持ちになってもライフスタイルは変わらない』
若い人が急に金持ちになるとものすごい浪費に走ったりすることもあるが、五十歳代になる頃にはいくら大金が転がり込んできても特に奇抜なことはしなくなる。
せいぜい家族全員で使えるマンションをカリブのどこかに買ったりするくらいだそうである。(おい、どのくらいの金持ちの話だー!?)
あまり物を買うことに対して魅力を感じなくなり、ヨットやフェラーリや大邸宅を買って他人に羨ましがられたいという欲求からも既に卒業している(ニューヨーク市の人を除いて)。
このくらいの年齢になると所有するより、他人(の役に立つこと)に喜びを見いだすようになる。(いやらしい言い方だね。私の書き方の問題か?)
たいていの人は五十五歳から死ぬまでは、あまりライフスタイルを変えない。
自分の意志で順調に金持ちになった人はなおさらこの傾向が強い。
急に予想外の金が入った人の場合でも、せいぜい今まで欲しかったけれど高すぎて買えなかった車を買ったり、夢に見ていたデラックスなクルージングへ行く程度のこと。
てなカンジですが、如何なものか?
やっぱり、お金無いよりあるほうが良いけど、あり過ぎるのもなぁー?

8/13/2007

『求められるプロフェッショナル像』

『求められるプロフェッショナル像』

・信頼できる・親身になってくれる・クライアントの利益のために行動する

・プロの腕を持っている

・損を出してもきちんと説明をする

・しっかりした調査、理論に基づいて、バイアスのかかっていない中立的なアドバイスをする

・秘密保持をきちんと守る・投資を長期的に考える

・長期にわたって担当する・税務と投資をドッキングさせた、トータルなプランニングとサービスを提供する

・定期的にすべての資産を統合した報告書を出す

・世の中の新しい動きに関する情報・アンテナを持っている

・様々な分野に人的ネットワークを持っている


8/12/2007

鈍そうな顔





知り合いの整体の先生が言ってました。成程なぁ。



人間は悲しくて寂しい。それが本性だと。明るく前向きなのは、世を忍ぶ仮の姿だと。
明るく前向きな人を見てみなさい。だいたい鈍そうな顔をしてます。

大事なことだけを考える技術




鷲田小弥太さんのの本「大事なことだけを考える技術」の目次を。


これだけ読んでも何となく、成程って思う。



1 自分にとっての大事なものを書きだしてみよう


●自分の大事なものを紙に書き出してみよう


●大事なものの順序は、常に変わっていく


●自分を大事にするため、自分以外の人を大事にしよう


●人間関係を大事にすると、いい仕事ができる


●次につながる仕事をしていますか?


●柔軟に生きよう。そうすれば大事なものを失わない


●大事なものが変わっていくのは、人生に限りがあるから


●長い時間を経て、大事なものはつくられる




2 できないことは、できないままがいい


●物事には完全解答などありえない


●目の前のことを淡々とこなす人ほど「すごい人」だ


●人生のチャンスは地味な形でやってくる


●どんな難しい問題でも、基本をクリアすれば解決できる


●妻も子も愛さずに、妻だけを愛そう


●時には、解決そのものを放棄してしまおう


●できないことは、できないままがいい


●普通の人ほど泥沼にはまりやすい


●進路をはやく決めなくたっていいじゃないか●総力を結集しても、できないものはできない




3 「正しく質問できれば、正しい答えが見つかる」


●正しく質問できれば、正しい答えが見つかる


●生活のアクセントを変えてみよう。そうすると違う人生が現れる


●マニュアルどおりに考えると、時間が短縮できる


●マニュアルにも人との相性がある


●まず「解答」を決め、書き出してみよう


●私ならどうするか、具体的にいってみよう


●徹底的にやると、やりたい仕事がみえてくる


●必要なものはたくさんのガラクタから生まれる


●自分の能力よりちょっと上をめざそう




4 先が見えないのは当たり前。不安があってもいいのだ。当然なのだ


●「どこからはじめるか?」ではなく、「どこからはじめてもいい」


●先が見えないのは当たり前。不安があってもいい


●どんな稚拙に思えても、まず自分で解決案を考えよう


●書物は、いつでもどこでもマインド・トレーニングに応じてくれる


●自分の選んだ進路が、最高の出発点だ


●トラブルがあるのは当たり前。怒らず、焦らず、驚かず


●「ノー・プロブレム」lこそ、恐ろしい1


●「ノー・プロブレム」lこそ、恐ろしい2


●完全無欠な危機管理などは不可能であり、ムダだ




5 解決をあきらめるのも、一つの解決策だ


●一年分の生活費を貯めたら、自由なことができるようになった


●解決をあきらめるのも、一つの解決法だ


●「何もせずに放っておく」ことが解決のいい手だてになる


●非難されたら、「逃げる。隠れる。無関心を装う」


●いったん矢を飛ばすと、止めることができなくなるから、要注意


●有名シェフの店が長蛇の列なら、小路の地味な店を探してみよう




6 運のいい人についていくと、チャンスがやってくる


●雑事に強い人、雑事だけで終わる人


●いい仕事は自分だけでやらないほうがいい


●調べる力のある友人を持つと、仕事の生産性がグンと上がる


●できることでも手を出さない


●敵には最後の逃げ道をつくってあげよう


●三年やれば、瑣末なことでも面白くなる




7 「大事なこと」かどうかをジャッジできる力を養おう


●一枚の表で労働評価が決まる社会はおかしい


●一時的ではなく、長期的視野で評価しよう


●あなたは、誰の評価を大事にしていますか?


●「仮想敵」をもっていますか?


●すぐれた「先生」をみつけよう


●「先生」は、利害がない書物上の先生のほうがいい


●先生から学ぶと、いつのまにか癖まで似てくる


●大事にしたもの、大事にしなかったものを書きとめておこう


●大事なことだけ考えれば、何でもスピードアップできる




8/11/2007

「人生万葉歌」

阿久悠「人生万葉歌」


みっともなさの中に背中合わせで隠れているカッコよさを上手く体現できるところかもしれない。

歌謡曲はリアクションの芸術かもしれない。

送り手がいかに意欲的であり、情熱的であっても、リアクションがない限り何の価値もない。

毎日、ひとつでもふたつでも何かが跳ね返ってくることを期待しながらボールを投げ続ける。

今、何が欠けているのだろうか。

今、何が欲しいのだろう、というその飢餓感の部分にボールが命中したとき、歌が時代を捉えたといってもいい。

歌の場合、「いいね」という噂を聞いた人がその後、実際に歌を聞く確率は非常に高い。

また、流行っていればテレビやラジオでも、街を歩いているときでさえも常に耳に入ってくる。

歌の場合、聞けば4,5分で済んでしまうものだから耳になじみやすいこともある。


昭和懐旧



昭和懐旧  阿久 悠


合掌。




昭和とともに歌謡曲時代は一度終わりました。今はミュージックはあってもソングがない。

歌謡曲というのは世の中の人との真ん中にあったものです。

歌で伝えたいこと、感じたいことは現在もあるはずなんですが・・・・。
今の歌は詞と旋律で紡ぐソングではなくメロディーだけが聴こえるミュージック。

「外」がなく「内」だけに目を向けた厚みのない身辺雑記のような曲が流れている。

若い人たちに社会性がなくなっているせいだろうと思う。

つい、昭和懐旧の気分にとらわれる。

家族が広い部屋でぐだぐだする時間が必要です。

時々話しかけ、話しかけられた方は、あしらうのではなくそこそこ返事する。

無理をすると疲れるので、そこそこです。


8/10/2007

「デタラメ思考」で幸せになる!



「デタラメ思考」で幸せになる!・ひろさちや

昔の国王は税金泥棒でしたが、明治以後の日本の天皇制国家は、もっと質が悪い。誰かが言ってましたが、「大日本帝国憲法」や法律は、
兵役の義務があって・・・われわれの生命を奪い、
納税の義務があって・・・われわれの財産を奪い、
教育の義務があって・・・われわれの魂を奪った、
のです。泥棒なんかじゃない。人間をまるごと盗んだのが国家です。
だから、国家というものは悪いものです。できればなしですませたい。ないほうがいい。それがインドの原始仏教の考え方でした。

道徳というものは、一時代、一地域でしか通じないのです。
日本の道徳は、よその国では通じません。日本の国内においてだって、戦前の道徳は時代に通じません。

道徳というものは、強い者はそれに拘束されません。そして弱い者だけが道徳に縛られます。道徳は、強者が弱い者いじめをするための道具ではないでしょうか。すると、われわれは、道徳なんて馬鹿にしたほうがいいのです。

我々日本人であれば、自然に日本の風物に愛着を感じますが、そのような愛国心で、これを、-心情的自発的愛国心-と呼べばいいでしょう。
だとすると、そのような心情的自発的愛国心は、教育によって強制されるものではありません。教育によって教えられる愛国心は義務的強制的愛国心--脱税摺るな!脱税した政治家に投票するな!!--だけです。そこのところを、保守的な政治家がわかっていないのです。

釈迦が教えられたことは、あなたたちは、
--世間にふりまわされるな--
--世間を馬鹿にせよ--
ということでした。それは、つまりは、あなたが、
――自由人であれ!――
のメッセージです。

--世間の奴隷になるな--
--欲望の奴隷になるな--
――自由に生きよう!――
奴隷の反対は自由人です。われわれは自由人になるべきです。

庶民はあくせく働いて金儲けをしたところで、それで貴族になれるわけがありません。だから、ヨーロッパの庶民たちはのんびりと生活を楽しみます。また、仲間同士が助け合って生きるのです。その結果が、ヨーロッパ型の資本主義になったのです。
それに対してアメリカ型の資本主義は、競争原理に立脚しています。アメリカは階級のない社会ですから、全員が(タテマエ的には)平等です。そこで「よーい、ドン」で競争して、その競争に勝った者が成功者になります。この場合、競争において求められるのは、フェアプレイの精神です。フェアで自由な競争こそが、アメリカ型の資本主義の底を流れる精神です。

今、アメリカ社会は危機的状況にあります。下層労働者のあいだでは競争に参加しようという意欲がなくなったのですが、ではヨーロッパ社会の労働者が持っている連帯感・仲間意識が醸成されるかといえば、それは無理です。社会そのものが競争原理に基づいているのが、仲間同士の足の引っ張りあいです。妬み・嫉みの感情しか生まれません。とくに人種のあいだの反目からくる妬み・嫉みが、アメリカ社会を根底から腐敗させています。わたしは、アメリカの没落はもうすでにはじまっていると思います。

自由とは、自分の意見をしっかりと肯定することである。

つまり、ここで大事なことは、わたしたちにはほとけさまの物差しは、
--わからない--
ということです。それがどういう物差しかわからないから、わたしたちにはそれがデタラメに見えるのです。


わたしたちは、仏教を勉強して、
--人生は「空」だ--
と見るようにしましょう。「空」なる人生を、世間の人はあくせく、忙しく生きています。でも、われわれはそんな生き方をしないでもいいのです。もちろん、したってかまいませんよ。あくせく、いらいら、ガツガツと生きたい人は、どうぞそう生きてください。そのことを知っておいてください。そうすると、もっともっと人生をラクに生きられます。

--あきらめ--
です。きれい、さっぱりあきらめてしまえばいいのです。
ただし、あきらめることは、ギブ・アップすることではありません。そうではなくて「明らめる」のです。そのことが、自分の思うがままになることではないことを、しっかりと明らかにするのです。

人生を旅に譬えるのであれば、人生のたびには目的地はありません。というより、目的地があってはならないのです。たとえば東京から出発して、目的地である大阪に着いて、それで「はい、終わり」というわけではありません。
人生のたびは、その道中がすべてです。プロセスだけが全てです。
人間がある方向を目指して歩んでいく、その歩みそのものが人生です。
だとすれば、人生は急いではいけません。走るなんてとんでもない。

ゆったりとした旅をしましょう。目的地なんでないのです。
目的地があると、わたしたちは目的地に着いてからおいしい物を食べようと思い、旅の途中では粗食になってしまいます。馬鹿げた考えです。それじゃあ、かりに目的地に着けずに途中で死んでしまえば、おいしい物を食べずに終わるのです。人生の旅では、死んだ後ではおいしい物は食べれませんよ。
毎日毎日、おいしい物を食べればいいのです。
いや、おいしい物を食べるのと、おいしく物を食べるのとは違います。おいしい物は金がなければ食べられないかもしれませんが、おいしく物を食べるのは誰にでもできます。今日から早速、おいしく物を食べるようにしませんか。

人間らしく生きるには、ゆったりとしたいい加減のペースで、人生の旅を続けることです。
途中でいっぱい寄り道をしながら・・・・。


8/09/2007

「狂い」のすすめ



「狂い」のすすめ・ひろさちや

「まともな意見」=常識。赤提灯で得々として語っているサラリーマン親父の「意見」なんてものは、商業新聞や週刊誌に書いてあることと同じです。いわゆる体制護持的な思想、それを弱者は自分の「意見」だと思っている。思わされているのです。世間の奴隷、常識の奴隷になっているのです。

「風狂」とは、風雅に徹すること一休禅師は「風狂の禅者」でした。狂った時代にあって狂った生き方を選んだ一休は、だから自由人であったのです。世間が押し付けてくる道徳なんかに囚われることなく、自由ののびのびと、そしてあっけらかんと生きています。

日本の企業の管理者に奴隷根性の持ち主が多いから、自分が奴隷であるから、社員までも奴隷にしたいのです。そして、奴隷になっている社員がまじめでいい社員と評価されるのです。日本はそういう狂った社会です。狂った社会に忠誠を誓えば、その人は奴隷になってしまう。だから、狂った社会にあっては、こちらが狂う以外に自由人になることはできません。
「ただ狂え!」の『閑吟集』の言葉、あれが自由への呼びかけなんです。

目的意識があると、われわれはその目的を達成することだけに囚われてしまい、毎日の生活を灰色にすることになります。失敗したっていいのです。出世できなくてもいいのです。下積み生活でもいい。それでも楽しく生きることができるのです。

本当の「人生の危機」は、あなたが世間から「生き甲斐」を押し付けられたときなんです。まさにそのとき、あなたは奴隷になったのであり、自由人としてのあなたは死んでしまったのです。それが、それこそが、本当の意味での「危機」だったのです。

-カタツムリが旅に出て、ナメクジになって帰ってくる-わたしたちは常識や既成概念、世間の物差しを持っています。そういう殻を背負ったカタツムリです。旅をするのは、そうした殻を捨てるため。殻を捨ててナメクジになって帰ってくる。そうした気持ちでする旅こそ、最高の旅なんです。

人生を目的地主義で生きると、60年、70年の生涯が、たった4ヶ月と6日になってしまいます。人生に目的を設定してはいけません。意味を持たせてはいけません。生き甲斐なんてないのです。

明日できる仕事を今日するな。他人ができる仕事を自分がするな。
ともかく、ゆったりしましょう。家康のように重荷を背負ってあくせくする必要はありません。重荷は他人に背負わせるとよい。そういう気持ちを持つことが大事です。

家族制度は封建的だという理由で、家の解体をやってもけたのです。その結果、見事な「核家族」になりました。こんな国は、アメリカの中下層と中国、それにイスラエルだけです。その他の国では、家族制度はしっかり残ってます。

-正しいことは言わないでおこう-
正しいことというのは、わざわざあなたが相手に言ってあげなくても、相手がよく知っていることです。言う必要はありません。

8/08/2007

仏教に学ぶ老い方・死に方







仏教に学ぶ老い方・死に方 ひろさちや



「商売人というものは、客のお金に頭を下げるんや。なにもあのお客に頭を下げているのんと違う」



―大阪の商人は、金には頭を下げるけれども、金持ちには頭を下げない―



『閑吟集』というのは、室町後期につくられた歌謡集です。編者不詳。庶民の生活感情を伝えた当時の歌が収録されています。その中で、わたしのいちばん好きな歌が、《何せうぞ、くすんで、一期は夢よ。ただ狂へ》です。


「何になろう、まじめくさって、人間の一生は夢のようなもの。狂えばいいのだ」と訳せばいいのでしょうか。


“くすむ”というのは、《きまじめである。まじめくさる》(『大辞林』)といった意味で、世間の物差しに自分を合わせて、それに忠実に生きる生き方です。要するに世間の奴隷ですね。そんな馬鹿げた生き方をするな!『閑吟集』はそう忠告しています。


じゃあ、どうすればいいのですか?


―――ただ狂え!―――狂えばいいのです。


世間の物差しを否定するのです。考えればわかることですが、もともと世間の物差しのほうが狂っているのです、それは人間を商品化してしまった、おかしな物差しです。


だから、その狂った物差しから狂うことによって、わたしたちは「まとも」になることができるのです。私はそう思います。






老いることは商品価値の低下であるが故に、老人たちが老人であることを恥じ、少しでも若くあろうとしてがんばっている姿。


どう考えても悲しいですね。


老人が尊敬される日本にするためには、老人がみずから老人であることを誇りに持たねばなりません。そのためには、人間を商品価値で測る物差しを捨てるべきです。


諸悪の根源は、人間を商品価値で測る物差しです。でも、その物差しを捨てるためには、社会を根本から変革せねばなりません。


早い話が革命が必要です。


いっさい貨幣というものをなくした社会にせねばなりません。それは共産主義社会ではありません。強いて言えば、縄文社会です。


とすると、日本の人口は数百万人ぐらいにせねばならない。だから、絶対に不可能です。じゃあ、どうすればいいのでしょうか・・・・・・?また振り出しに戻ってしまいました。






捨てるというのは、それを笑い飛ばすことです。馬鹿にするのです。


というよりも、それに代わる、―もう一つの物差し―を持つことです。


実際には、いま世間で通用している「人間を商品と見て、その価値を計る物差し」を捨てることは、なかなかできることではありません。


われわれは幼児のころから、その物差しを教え込まれてきました。すっかり洗脳されてしまっています。だから、それを捨てることはほとんど不可能です。


でもそこで、もう一つ別の物差しを持ちます。そうすると、世間の物差しが「絶対」でなくなるわけです。絶対でなくなれば、われわれはその呪縛から解放されます。わたしたちは世間の呪縛から解放されて、「自由」になれるのです。






そもそも国家というものは、知人のお坊さんが言っていましたが、われわれ庶民から、納税の義務でもって・・・・・・財産を掠め取り、兵役の義務でもって・・・・・・生命を強奪し、教育の義務でもって・・・・・・魂を奪い去る、ものなんです。いまは兵役の義務はありませんが、うかうかしていると国家の代りに大企業が過労死という形でもってわれわれの生命を略奪しかねません。






老いをどう生きるか・・・・・・といえば、基本的には「世逃げ」のすすめになります。


そして、具体的にどうすれば「世逃げ」ができるかといえば、世間と道徳と他人にむやみな関心を持たないことです。


そもそも日本人は、世間や道徳、他人に対して関心を持ちすぎています。


若いあいだは仕方がないとして――本当は若者だって、あまり世間・道徳・他人に関心を持たないほうがいいのですが――、老人にまでなって関心を持ち続けるのは感心できません。



―四住期―
1 学生期・・・人生の最初の時期。この期間は師より真理を学ぶ。
2 家住期・・・家にあってそれぞれの職業に専念する期間。
3 林住期・・・森林に住む機関。つまり家を出て隠居する時期。
4 遊行期・・・その森林も出て、放浪の生活をする期間。






人間社会においても、現実に強者と弱者があります。その場合、強者のほうの義務を大きくすることによって、「公平」が回復されます。


ところが、現代日本の社会は平等をタテマエにしていますから、義務に関しては強者と弱者が同じになります。そうすると、当然、弱者のほうが負担が大きくなります。


タテマエの平等が結果としての不平等をもたらすことになります。人間が発明したもう一つの文化は、―布施―の思想であり、これは主として仏教が教えるものです。


これも現実社会に強者と弱者があり不平等であるのを、強者の負担を重くすることによって公平を保とうとする思想です。


布施は、強者から弱者への施しです。けれども、どうやら日本人は布施の思想を誤解しているようです。日本人にかかると、布施は、強者が弱者に恩恵的に、また恣意的に施すことになってしまいます。


だが、仏教が説く布施は、そのようなものではありません。強者は人間の義務として、弱者に施しをすべきです。それが仏教の本来的な意味での布施です。


したがって、布施において感謝すべきは、施しを受けたほうではなしに、施した者です。


つまり、貰った者が「ありがとう」というのではなしに(言ったってかまいませんが)、施した者が、「あなたが受けてくださって、わたしは人間としての義務を果たすことができました。


「ありがとう」と言うのです。そうしたとき、本当の布施になるのです。
<俺がおまえに施してやったんだぞ。お前は俺に感謝しろ>といった気持ちがあったのでは、本当の布施にならないとされています。


ところが、平等をタテマエとする日本の現代社会では、この布施のこころが機能しません。


施しがなされても、それは見掛けだけの施しであり、施した者はそれをいつか取り返したいと思っています。


つまり、施しは一時的な貸し付けであり、将来の返済が予定されています。


その将来の返済が期待できないときには、強者は弱者に布施しようとはしません。そうすると、弱者に救いがなくなります。


しかし、日本人は平等をタテマエにしていますから、日本には弱者は存在しないのです。だから、弱者の救済がなくても困りません。平気でいられるのです。






人間、誰だって、独りで気ままに生きるほうが気楽でいい。


それで、気楽な暮らしができるうちは、気ままに会社人間でいて(いや、仕事をしててもいいのです。しかし、子どもと離れて仕事中心で生きている姿勢が問題です)、退職後は遊んで暮らしておいて、独りの生活がつらくなったから子どもと一緒に住みい・・・・・・というのは、わがままでしょう。


子どもと一緒に住みたいのであれば、若いうちにさっさと仕事をやめて、子どもが住んでいる場所に移って、留守番や子守をすべきです。


それが、すでに述べたように、インド人のライフ・スタイルです。世界のほとんどの人々は、そういうライフ・スタイルで生きています。


会社の奴隷になり、身も心も会社に売り渡した日本人の老年が、わびしく、みじめなものになっても、それは自業自得ですよね。


まぁ、ともあれ、長寿社会というのは、そのような問題をわれわれに投げかけています。そのことをしっかりと認識しておいてください。






世間の中にいて、世間の中でそれなりのポストを得て活躍している人間は、やはりどうしても世間の価値観でものを見ます。


世間の物差しを使うよりほかありません。そうでないと、世間に通用しないのですから。そうすると、その世間の物差しの歪みを指摘できる人間は、世間を一歩退いた「出世間人間」です。つまり老人。老人だけが現実社会を批判する権利を持っています。
いや、権利ではなしに、義務かもしれません。というのは、日本の年寄りは、いつまでも世間の中にいて、世間の価値観・世間の物差しにしがみついています。


「生涯現役」だなんて馬鹿なことを言う年寄りが多くて、なかなか出世間人間になろうとしません。


そんな年寄りには、世間を非難する権利もないし、能力だってありません。世間の物差ししか知らないから、別の物差しでもって批判することができないのです。


日本の老人たちは、世間の外に出て、


――もう一つの物差し――


を学び、それを若い人々に教える義務があります。


年寄りがその義務を果たさないと、若い人たちがいつまでも屈辱的な奴隷的人間、商品化された人間でいなければならないのです。


そして、そのもう一つの物差しは、ほとけさまの物差しです。ほとけさまの物差しには、目盛りがついていません。


なぜなら、それは価値観を測る物差しではないからです。分別するための物差しではなく、あらゆる人間をそっくりそのまま肯定するための物差しです。


換言すれば、ほとけさまの物差しとは無分別智です。ほとけさまの智慧です。日本の老人は、そのほとけさまの物差し―無分別智―を学び、それを若者に教える義務があります。






芸術家にしても同じです。画家・音楽家・詩人たちは、貴族のパトロネージュ(引き立て)の下で活動できるのです。


その意味では、古代においては彼らも奴隷的存在であったのです。プロフェッショナルが奴隷の系譜に属するのに対して、アマチュアは貴族の系譜に属します。


だから、プロが尊敬されるのはおかしいのです。ヨーロッパにおいては、現代でもこのような考え方が基本にあります。


われわれ現代日本人は、いささか偏った考え方をしているのです。そこで私の提案ですが、年をとればプロを尊敬することをやめて、――アマチュアリズム――に立脚しましょうよ。


アマチュアであることに誇りを持つのです。
具体的にいえば、下手を楽しむ。あるいは、同じことですが上手になろうとしないのです。日本人はゴルフをするとき(じつはわたしはゴルフをしませんが・・・・・・)、練習をしてうまくなろうとします。それがつまりはプロ意識です。アマチュアは、練習してはいけません。下手なまま楽しむのがアマチュアの特権です。



日本人はギャンブルをするとき、勝とうとしますね。あれは見苦しい行為です。


勝つためならば、ギャンブルなんかしないほうがいいのです。


ヨーロッパの貴族は、ギャンブルを負けるためにします。


ゆっくりと負けを楽しむ。それが貴族精神です。アマチュアリズムなんです。



本当は、若いころからこのアマチュアリズムを培っておきたかった。


けえれども、世の中の風潮がそれを許してくれませんでした。


だからせめて老後は、アマチュアリズムに立脚しましょうよ。


若いころに奴隷的に馬車馬のごとく働いてきたわれわれは、老いの身になれば、――精神的貴族になっていいのです。


アマチュアリズムとは、じつは精神的貴族になることなんです。奴隷を卒業することです。私はそう考えています。

8/07/2007

三世(さんぜ)をみつめる


三世(さんぜ)をみつめる/ひろさちや&玄侑宗久

ヨーロッパには「ノブリス・オブリージュ」という精神があります。ヨーロッパの貴族の家に生まれた人間は、いずれ皆を統率していく宿命にあるわけだから、厳しい教育を受け、高貴さ・崇高さを養うのが義務であるという精神です。
仏教には「長者」という言い方があります。長者というくらいですからお金持ちです。しかしそれだけではない。また人徳もある人をいいます。いまこの「長者」という概念を一般の人に説明しようとすると非常にむずかしいのは、お金持ちは人徳もあるという常識がまったくないからです。アダム・スミス風にいえば、今はお金が空を飛んでいます。お金がお金を生む投機の世界には人徳など関係ないということでしょう。
ところが長者もそうですし、ノブリス・オブリージュを求められたヨーロッパの貴族もそうですが、お金持ちは必ず人徳もあったわけですね。

意識は丹田に置け
私は演台に立つと、踵を上げて体を揺すって意識を落とします。あがっている状態というのは、意識が頭にあるわけです。ですからちょっと体を動かして意識のあり場所を変えてやる。そうするしかありません。
意識のあり場所は重要なテーマだと思います。体の中心部である丹田に意識を据えたとき、いちばん体から力が抜けます。

明治以降、維新政府は徹底して家族を壊しはじめます。家族を壊さないことには天皇制宗教をつくれなかったのです。ヨーロッパ型であれ、あるいは昔の中国・インド型であれ、家族がしっかりしていれば、だれが天皇を敬いますか。自分の家の宗教がちゃんとあって、家長に絶対権があって、さらに家長に対する尊敬の念があれば、天皇を盲信するようなことはありません。それでは天皇制が成り立たないから、維新政府は家族を壊したわけです。
中国など、昔は家族や親類のなかに優秀な子が出ると、みんなでその子を援助して出世するよう一生懸命に育て上げた。そしてその子が軍の大将にでもなれば、今度はみんなが職を斡旋してもらったり、一族郎党が食わせてもらった。そういうシステムがありました。

家は桎梏か
日本の場合はたしかに明治以降、国家への「忠誠」が求められるようになり、それとともに「家」という大きな砦をなくします。そして戦後になると、かろうじて残っていた家さえも「桎梏だ」「家は悪いものだ」となりました。
イプセンではないけれども、「人形の家」です。人は家に縛りつけられている。そこから自由になりたいと主張しはじめる。しかし家から自由になった人間は会社の奴隷になるしかなかったわけです。そこを見抜けなかったのは戦後の日本人、とりわけウーマン・リブの人たちの愚かさだと思います。

教育は義務か
教育は家庭でやってもいい、いや本来は家庭ですべきものだと思います。子供に教育をするのは親であるべきだというのが私の考えです。
あるお坊さんがこんな事を言ってました。「私たちは納税の義務で財産を奪われ、教育の義務で魂を奪われ、そして徴兵の義務で生命を奪われる」と。まさに至言だと思いましたが、国家とは泥棒の親分のようなものだ、というのはじつは仏教のものの見方でもあるのです。


8/06/2007

マネーの公理


マネーの公理・スイスの銀行家に学ぶ儲けのルール/マックス・ギュンター

第一公理:リスクについて
心配は病気ではなく健康の証である。もし心配なことがないなら、十分なリスクをとっていないといことだ

副公理1いつも意味のある勝負に出ること
副公理2分散投資の誘惑に負けないこと

第二公理:強欲について
常に早すぎるほど利食え

副公理3予めどれだけの利益が欲しいのかを決めておけ。そして、それを手に入れたら投機から手を引くのだ

第三公理:希望について
船が沈み始めたら祈るな。飛び込め。(損切り)

副公理4小さな損失は人生の現実として甘んじて受けよ。大きな利益を待つ間には、何度かそう言う経験をすると考えろ。

第四公理:予測について
人間の行動は予測できない。誰であれ、未来が分かるという人を、たとえわずかでも信じてはいけない。(起こった事に反応する)

第五公理:パターンについて
カオスは、それが整然と見え始めない限り危険ではない

副公理5歴史家の罠に気をつけろ
副公理6チャーティストの幻想に気をつろ
副公理7相関と因果関係の妄想にきをつけろ
副公理8ギャンブラーの誤謬に気をつけろ

第六公理:機動力について
根を下ろしてはいけない。それは動きを遅らせる。

副公理9忠誠心やノスタルジーといった感情のせいで下落相場に捕まってはいけない
副公理10より魅力的なものが見えたら、直ちに投資を中断しなければならない

第七公理:直感について
直感は説明できるのであれば信頼できる

副公理11直感と希望を混同するな

第八公理:宗教とオカルトについて
宇宙に関する神の計画には、あなたを金持ちにすることは含まれていないようだ

副公理12占星術が当たるのであれば、全ての占星術師は金持ちであろう
副公理13迷信を追い払う必要はない。適当なところに置くことができれば楽しめる

第九公理:楽観と悲観について
楽観は最高を期待することを意味し、自信は最悪に対処する術をしっていることを意味する。楽観のみで行動してはならない。

第十公理:コンセンサスについて
大多数の意見は無視しろ。それはおそらく間違っている

副公理14投機の流行を追うな。往々にして、何かを買う最高の時は、誰もそれを望まないときである

第十一公理:執着について
もし最初にうまくいかなければ、忘れろ

副公理15難平買いで悪い投資を何とかしようとするな

第十二公理:計画について
長期計画は、将来を管理できるという危険な確信を引き起こす。決して重きを置かないことが重要だ
金持ちになる意志を持つだけにしろ

副公理16長期投資を避けよ



8/05/2007

金持ち賢者の習慣術


金持ち賢者の習慣術・小泉十三



「本当に大切な自由はただ一つ、経済的な自由だ」
「他人に何かをするためにお金を支払える人が、自分のために何かをするには、人生は短すぎる」サマセット・モーム

老後をはっきりイメージしながら生活する。
”本物”の食事や芸術を味合うためなら、お金を惜しまず使う。
「お金で買えない財産」を大切にする。

ブリジストン創業者・石橋正二郎
「何かをがまんするところがなければ貯蓄はできるものではない。貯蓄のできぬ人は節約と克己心が足りぬからである。あくまでも初志を貫徹せよ。」

「買ったつもり」になって貯金にまわし、必要な時に備える。
自分なりの価値観に沿ってお金を使う。
「お金を使わない楽しみ」を知る。
若いうちは「自分への投資」も同じくらい大切だと考え、お金を使うことを決して惜しまない。
物を増やさないシンプルな生活に満たされて出費を防ぐ。
子供の成長をつねに頭に入れ、子供にとって最善の選択ができるように準備しておく。

現金で買えない物は最初から、「買わない」
自分でできることでも、プロに任せることを知る。
自分の時間を捻出するためにお金を使う。
人付き合いを何よりも大事にして情報やチャンスを得る。

増やさなければ、減っていくのがお金。
そのお金を「どう増やすか」を考える。
プロの耳は借りても、鵜呑みにしない。
「いくら損する可能性があるか」を考える。
失敗の歴史を学ぶいっぽうで、自分も最悪のケースに備える。
「高いリターンがあるからこそ、そのリスクも高い」と考える。
「利益が出る可能性」を重視する。

株の儲けは知恵が一%で、あとはすべてガマン料である。
プラスマイナスゼロなら問題ないと考える。
チャンスを逃さず、すぐに行動を起こして巨利を得る。

8/04/2007

2ちゃんねるはなぜ潰れないのか



2ちゃんねるはなぜ潰れないのか?/ひろゆき(西村博之)

フューチャリスト宣言より、共感した。以下、うーんと唸った箇所を。




「○○をしない」と堂々と言うことは「いつか自分は○○するよ」という意味だと、僕は考えています。「人を殴らない」と言う人は、いつか誰かを殴るから、その言葉を使うわけで、そもそも人を殴ることを想像していない人には、そんな言葉は思いつきません。

こうやってグーグルを見ていくと、決して優秀な技術力のある会社ではなく、優秀な企画力と営業力のある会社であることが見えてきてしまうのです。いろいろな方々が、グーグルがすごいとおっしゃっているようですが、僕には、企画・営業力とサーバーメインテナンス以外、スゴイ部分がわかりません。

グーグルやミクシィがWEB2.0企業と呼ばれているのをみると、WEB2.0の裏に隠されているものは、技術力ではなく、いかにクリーンなイメージを押し出すか、そして、いかにユーザーの心を惹きつけられるのか、ということなのかもしれません。

ライブドアは挑戦をしない会社へと変貌してしまいました。結果、今まで安い給料でも面白いことができるからとライブドアに所属していた優秀な人材が、面白いことすらできない状況になったことで外部に流出してしまった。

動画を観る行為自体は暇つぶしのネタです。2ちゃんねるのニュース速報を見ている人は、ニュース自体に興味があるわけではなく、何かちょっとでも自分が絡める話題があれば一言言いたい。ニコニコ動画は、その感情の動画版というだけなのです。

頑張れセカンドライフ
その理由の根幹にあるのが、基本的にお金がないと面白くないというシステムです。物を売買し、自分を着飾ったり、家を作り上げたりするゲームなので、何をするにせよお金を払えとしか言われない。お金を支払わないでできることはチャットくらいという、商行為がゲームの全てでないのです。ゲーム内で楽しむためにお金を支払えと言われて、支払う人がどのくらいいるのでしょうか?お金を支払ってまでセカンドライフの中で楽しまなくても、現実に楽しいことは、たくさんあります。
セカンドライフ内に知り合いが大量にいて、チャットをすれば面白いかもしれない、とも考えましたが、セカンドライフでは一つの空間(1SIM)にユーザーが約50人しか入れないという制限がある。これだけマスメディアがセカンドライフを報じているにもかかわらず、なぜか、この事実にあまり触れません。

日本だけではないのですが、このように法律が技術発展や利益の見えない足かせになっている事実は、確かに存在するのです。

8/03/2007

フューチャリスト宣言・梅田望夫&茂木健一郎



フューチャリスト宣言・梅田望夫&茂木健一郎

本屋に平積みになっていた春に読んで、以下の内容ピックアップ。

梅田さんは理想論者だね。でも、勉強になった。





インターネットの成り立ちのところに、利他性というかボランティア精神的なものがかかわっている。インターネットという素晴らしいものが毎日動いている裏には、いろんな人のただ働きがある、無償の奉仕をしている人がいる。

シリコンバレーのルーツは、フロンティア精神、テクノロジー志向、反権威、反中央、反体制、それからヒッピー文化、カウンター・カルチャーというか、そのへんの組み合わせですね。
日本にも反体制、ヒッピーっぽい人はいますが、その人たちは往々にして技術を持ってない。しかも、うらめしそうな視点(ルサンチマン)を世界に対してもっている。意欲でも権威の側に負けていることが多い。でもアメリカには全然違うタイプがいますよね。

要するに自分一人の能力がテクノロジーによって増幅されなければ、必ず権威に負けるわけですね。権威と闘う道具としてのテクノロジーということです。

コンサバティブなことを言うほうが最後は負けるだろう、そのくらい世の中が進歩することが経験的にわかっている。コンサバティブなことを言うほうが陳腐化するだろうなという、逆の常識がある。だから僕なんかも、たとえばブログやウィキペディアを見て、「wisdom of crowds/群集の叡智」だとか「総表現社会の到来」だとか言うのは、そういう逆の常識に導かれているんですね。

今の日本社会は、新しく生まれた大きな存在に対して、「気に入らない」と言っていると何とかなってくれるんじゃないかと思っている。もう後戻りできないほど強力な力が働いているのだから、そのことを前提にどうやっていくか、という議論を本当はしないといけない。
どんなものでも、新しく出てきたものは毒性が強い。

自分の肩書きに頼ってモノをいう奴は本当にダメで、肩書きはいらない。ブログが一個あれば良い。ネットでのプレゼンスをどれだけ高めていけるかという、その戦略というのは大事なんですね。

ネットは絶対に有料にしちゃいけないんです。無料にしてそれで広告が入るかといったら、先進国でまともな生活ができるほどは普通に入らない。一方、リアルというのは不自由だからこそ、お金を使って自由を求めます。だから永久にリアルの世界でお金が圧倒的に回る。この二つの世界での生計の立て方とか、それから知的満足のしかたとか、いろいろ組み合わせて戦略的に考えていく必要があります。

個人が組織に属しているという考えはもう古い。勤務規定とかがあるとして、人事の人たちの顔をつぶしてはいけないから、積極的に反逆することはしないほうがいい。でもそんなことで自分の行為をがんじがらめに縛ったら、これからのネット時代に輝けない。組織と個人の関係をうまくやらなければ日本は活性化しない。組織が大事だと言うならば、シリコンバレーとは違う、日本的な表現があっても良いのです。七割は会社なんだけど三割は個人、そんな考え方もアリだと僕は思っている。

談合社会の中に入って仲間になれという圧力が、日本社会のありとあらゆるところでとても強い。

「可能無限」という概念があります。もともと数学用語で、自然数を1,2、....と数えていった時に、どんな大きな数(n)を考えてみても、さらに大きな数(n+1)を、可能性としてどこまでも提示できるということ。可能無限は、「もう一つ増やす余地がある。」という意味での「空白」によって常に支えられている。他方、実無限(本当の無限)というものは、実際に我々が扱うことはできない。私たちは実無限を決して知りえないし、人生において手に入れることもできません。人間に与えられた時間には限りがある。にもかかわらず、若者が「また次の日がある」と思い続けられるのは、じつはそれは可能性としての無限に過ぎないにもかかわらず、実無限であるかのように感じることができるからです。ただ、そのことの効用は大きい。ネット上はまさに可能無限の宝庫で、それはリンクをどこまでもたどっていくことができるから、実無限は手に入れられないけれど、ネット上ではまさにフリーで、ドンドン歩みを進めることができる、可能無限が実現している。

警戒心を解くというのが、ネットで生きるための大切な知恵だと思います。僕はいろんな情報をネット上で公開していますが、そういうことができない人って、やはり警戒心がある。著作権フリーでおいておくと、悪用されてしまうんじゃないかと。でも、コミュニケーションを阻む最大のものは警戒心ですよね。あるいは、免疫作用というか。自分を守ろうとする気持ち。そういうものを取り払ってオープンにしていかないと。

世の中で求められているのは、創造性とコミュニケーションなんですよ。

僕のプロフェッショナルの定義は簡単です。お金をもらっていることじゃなんです。お金をもらっていても、仕事を楽しんでいなければプロじゃないんです。プロフェッショナルの定義というのは、自分のやっていることに快楽を感じる人。しかも、生物学的に単純な快感じゃつまらない。そうではなく、仕事とか勉強とかをいくらやぅっても飽きない人。

8/02/2007

笑いの感覚



笑いの感覚ほど、共有するのが困難なものはない。


笑いの感覚ほど、その人の判断基準になり得るものもまたない。


笑いの感覚は人それぞれであり、複雑でもある。

松山猛 Mr. Freedom










松山猛 Mr. Freedom


自分のスタイルを持つことがいかに大切かを、忘れたまま大人になることは、生活の楽しみの一つを、自ら放棄することになる。



大人になってスーツを着て生活するのには慣れる人は多いが、それは学生時代の学生服の延長のようなものだ。
型にはまっている安心感とでも言えばよいのか。
だから普段着に何を着ればいいかが分からない大人が増えた。
団塊の世代ももうすぐ定年の時代を迎える。
スーツを脱ぎ去った後、彼らは途方にくれるのだろうか。



それは「足る、を知る」精神であり、同じ時代を、励ましあいながら生きる、仲間の力の大切さだった。いざとなったら友を助ける努力をしよう。
そう21世紀は「趣味と友情」の世紀でありたいと切に思う。一人勝ちするだけなら、友は去っていくばかり。
孤独であっても有り余る豊かさを取るか、そこ、そこの生活でも、にぎやかな人間模様を取るかの、いまは分岐点なのかもしれない。


8/01/2007

谷口雅春

生長の家創始者谷口雅春の本を読んで。ブックオフで100円で購入。良い事書いてあったの以下に。


最も永続性のある宝
人間の最も滅びがたき永続性ある宝は「徳」である。金銭は徳なくして多く得れば必ずその人を破滅に導くのである。
快楽は徳なくして多く得れば、その人の魂を荒廃に導くのである。
美貌は徳なくしてこれを得ればその人を堕落に導くのである。
金銭は徳なくしてこれを使えば、浪費せられて間もなく貧しさが訪れる。
快楽は徳なくして貪れば忽ち苦渋と変わる。
美貌は時とともに老い朽ちてあとを留めなくなるのである。しかし徳は、これらすべての物を生かすのである。
金銭は徳ある者これを使えば必ず人を救うのである。
快楽は徳あるものこれを得れば人生に興趣を添えるのである。
美貌が徳ある者に備わるとき愈々高く気高くなってその人に接するだけでも人々の魂を高めるのである。

「徳」が身に備わるためには
徳は位置にして備わらない。徳は良き行為の累積がついにその人の人格より発する光輝となったところのものである。
毎日人様の便所を掃除するとか、廊下の拭き掃除や、掃き掃除をするとか、貧しき人を援けてやるとか、人々の垢を流す風呂を沸かすとかして、人々に好感を与えるように、人々に便利を与えるように人々を何らかの形で救ってあげるとかすることによって、その人に何となき温かい風手が備わるようになってくる。
内にたくわえられた「徳」が外に光を放つようになった時、その人の容貌は、生まれつきの骨格がどうであろうと何とも言えない、麗しい、優しい、親しい、そして威厳のある感じをもつようになるのである。美貌というものは「愛によって変貌した容貌である」と或る人が言った通りである。

何用あって月世界へ



何用あって月世界へ  山本夏彦名言集





八百長は必ずしも悪事ではない。この世はもっと本式の悪事に満ちたところである。それを知って悪に染まないのと、知らないで染まないのとでは相違する。
いうまでもなく、知っててそれをしないのがモラルである。
私はすべて巨大なものえらそうなものなら疑う。
疑わしいところがなければ巨大になれる道理がないからである。大デパート、大会社、大新聞社は図体が大きい。よいことばかりして、あんなに大きくなれるはずがない。
総評や日教組は組織が大きい。
もっとも大きいのは世論で、これを疑うのは現代のタブーである。
だから私は疑う。
世論に従うのを当然とする俗論を読むと、私はしばしば逆上する。

善良というものは、たまらぬものだ。危険なものだ。殺せといえば、殺すものだ。

全き善人と芸術家とは、ふつう両立しない。
私は各人に個性があることを前提とした教育は、間違いではないかと疑っている。
人は個性ある存在ではない。人は大ぜいに従うもので、従ってはじめて安心するものである。
従えと言って、断じて従わぬ個性はまれである。万一あれば大ぜいは、世間は、社会はそれを爪はじきする。
すなわち、爪はじきされて、はじめて個性は頭角をあらわす。ちやほやされて育つ個性なんて、今も昔もないに決まってる。
(才能というものは)のぼり坂が三年、のぼりつめて三年、くだり坂が三年、〆て十年続けば良いほうである。
「愛する」という言葉を平気で口に出して言えるのは鈍感だからだ。
愛するが日本語になるには、まだ百年や二百年はかかる。
大きな声では言えないが、私の袖の下またワイロに近いものは必要だと思っている。世間の潤滑油だと思っている。
人は潔白であることを余儀なくされると意地悪になる。また正義感になる。
汚職は国を滅ぼさないが、正義は国を滅ぼす。

同類は何百人集まっても一人である。

金は魔物というが労せずし舞いこむ金はことに魔物で、人の子を毒すだけである。まずこれを減らすまいとして臆病になる。
利息だけで暮らそうとしてケチになる、人が来ると借りに着たのではないかと疑うようになる。
「年寄りのバカほどバカなものはない」ということわざ、大好きです。






7/31/2007

実践冥想ヨガ・生活編


実践冥想ヨガ・生活編/沖正弘

自分が本当の意味で自由自在にいきていてこそ、相手も自由自在に生かすことができるのです。こちらがとらわれると相手もとらわれ、こちらが嫌うと相手も嫌ってしまう。このように自分も生き、相手も生きる世界が悟りの世界です。無になるための修行法が禅であるのです。

人間的霊能者とは、感謝心、懺悔心、下坐心、奉仕心を持ち、愛の心で愛の生活が出来る人のことです。愛とは一番正しく物事を把握し、一番正しく物事を実行することですが、この基本が感謝、懺悔、下坐、奉仕の心なのです。このためには体を柔らげること、心は安らげること、生活は楽しむことが必要なのです。ヨガの肉体的訓練はすべて体を柔らげるものであり、この原則が笑いです。そして、体全体を笑わせるものが呼吸法なのです。心を柔らげるには喜びを感じる必要があり、喜びを感じるには感謝心がなければならないのですが、おかげを感じないと感謝心は出てきません。楽しみは相手に喜びを与えたときに自分の手にすることができるものです。自分だけ喜んでも本当の楽しみは与えられません。仕事においても、仕事が喜んでくださるような仕方をしたときに、こちらも楽しくなれるのです。

本当の儲けとは、自分の儲けと相手の儲けと社会の儲けとがピタリと一致した場合をいいます。自分だけの儲けでは偏りがあります。自分と相手と社会の儲けを併せると大きな儲けになります。

引けば引かれ、いじめればいじめられ、泣かせば泣かされる。困らせれば困らされる、騙せば騙される。これが自然の法則です。私は、日々の生活と仕事は、どれだけ自分の全力を投球できるかを見るためにあるのであり、このすべてへの全力投球の生き方が自己にノルマをかけることであり、この自己にノルマをかけた仕事の仕方をするとき、はじめてその仕事が自分の仕事になるのであると思っています。

才能は喜びを感じる刺激を与えた時に伸び、良い人間にもなりえます。体が喜べば健康になり、心が喜べば幸福になるのです。ですから、どうしたら喜べるか、どうしたら喜ばすことができるかを意識的に考えるのです。喜びを感じない生き方をしていると疲れてしまいます。疲れないための原則は、心、体、仕事に対して柔軟性を持つことです。出来るだけ広く学ぶと人生が面白く、愉快で楽しくてたまらなくなり、よいアイディアも浮かんできます。

教育とは、自分が犠牲になる覚悟でするものです。相手を裁きたかったら、先ず自分から裁くのです。

私たちは何を学ぶにも、先ず自己流の考えを無にして正しい型に入り、その型の中で正しい方法を体得するのが自己の開発法であり、ものを正しくなすコツに至る道であると思います。これを「心眼を開く(開眼)」というのです。体の働きを正しくし、心を鎮めて、永遠の安らかさ(ニルヴァーナ)の中で、自然に出てきた感じを音に表すのが音楽家であり、色にするのが画家であり、文章にするのが文筆家で、事業にするのが事業家ではないでしょうか。心の成熟は「次第に」ですから、何事も年期を入れなくてはならないと思います。あせらず、しかし怠らずにです。表現は心身の練磨と、心身の環境の調和によってなされるものですから、自分がどういう状態であるかということが決定点です。

一切の煩悩から離脱して、身構え正しく、一物に心を込めて、無心にことをなすのが真実(コツ)に至る道ではないでしょうか。すなわち冥想行法の実践です。
その意味で、日本の生花や茶道や武道の発生、その発達によって教えられることの多いことを感じます。これらの、心を静め、心を清める芸道は、生死の真っ只中に立たされている武士たちによってつくられたものです。
私は華道とか茶道とかは美の宗教であり、武道やスポーツは道の宗教であり、日本文化の特徴は求道を中心にしているところにあると思います。求道を目的としている武道やスポーツは、勝負がその目的ではなく、心の修養がその第一目的となっていて、修行を通じて大自然の法則を体得して、その真理に沿った生き方の工夫をする自己完成の道です。静的な求道でも動的な求道でも、その原則は心を統一し、安定した姿勢をとり、丹田力を充実させ、意識を明確にしうる呼吸で行うことです。とくに動的訓練は、千変万化の動作をして、しかも乱れない心と安定した体をつくるのがその目的です。

人間は文化生活と称する不自然な生き方をしていますから、このアンバランスな生活の中でバランスを回復し、維持する能力を身につけない限り喜びは与えられません。自然法則とは「絶え間なく変化しながら、しかも安定性を保っている」働きです。アンバランスをバランス化してしまうことが救われる原理なのです。

今時分が困っているのは、誰が悪いのでもなく、今までほかを困らせてきたことの証明書なのです。自分を支配している法則と、社会を支配している法則は共通の法則です。生活の上で悪いことは心身の上でも悪く、仕事の上でも悪いのです。人間として成功する者は、そのまま生活で成功し、仕事で成功し、社会で成功することができます。自分が自分に成功することは、自分を大切にすることです。宗教的な言葉で「自分を拝むことが出来る者がはじめて他を拝むことが出来、自分を愛することの出来る者が、はじめて他を愛することが出来、自分を大切にすることが出来る者が、はじめて他を大切にすることが出来るのです。そして、自分を活かすことの出来る者がはじめて他を活かすことが出来、自分を管理できる者が、はじめて他を管理出来る」と教えています(自業自得の原理)。

筋肉を柔らげるためには心の力を抜くことが肝要で、このコツが呼吸を深く静かにすることです。頭にカッとくるようではダメです。いかなるときも冷静さを保っていることが心の修養であり、その秘訣が宗教心を身につけることです。そしてその第一歩が意識的に有難いと思うこと、依頼心を捨てることです。依頼心を持っている限り、そこには憎しみ、不平、不満が生じてきます。一切のことを自分でやるのだと思えば不平、不満をいう相手はなくなるはずです。心の平安を保つには「乞食根性」と「ヤクザ根性」を持ってはいけません。他に依頼心を持つことは、乞食根性を持っていることです。恩を売るのをヤクザ根性といいます。恩はただひたすらにかんじるべきものであって売るものではありません。無条件の善事がまことの善事であり、このまことの善事なら、業を残さないから、自然的に無執着心になれるのです。

頭を軽くし筋肉の力を抜くコツは呼吸をととのえることです。胸を張って肩を下げて、わきの下の力を抜いて下さい。感情をコントロールするのは胸であり、欲望をコントロールするのは腰であり、思考をコントロールするのは首であります。

冥想行法は、自己流の考え方や囚われた考え方から離れる修行ですから、どのようなことにも、引っかかったりしないことが肝要で、悟ろうと求めたり、奇蹟や神助を祈ったり、治りたいと願ったり、真理とは何かなどと、求めても考えてもいけないのです。ただ無条件に行うのです。すなわち生じるままに生じさせ、滅するままに滅しさせるおまかせの心になるのです。見性、見神による信仰心が最高のおまかせの心であり、この心は安定していて静寂ですから、明鏡止水の状態とか、超えた心とかと形容し、何も求めていないかのような状態なので、無心というべきものです。

私は自由に求道したい心から、生涯何にも属さず、できる限り多くのことを体験するという生き方を続けて、約五十種のちがった職種の体験を持っています。商売とは、お客様に喜んでもらい、ほかの売り上げも伸ばしてあげるという、商道にまで引き上げてこそ価値があるのです。

安易な道を選ぶのは商売をする者のとるべき道ではありません。売れない商品を仕入れると、売るためには、どうしても全力投球しなければなりません。あらゆる知恵を総合しなければならないのです。自然に、あらゆる方法を研究し、知恵を高めていくことができるのです。

科学がそのまま哲学であり、哲学がそのまま科学であり、医学がそのまま宗教であり、宗教がそのまま医学であり、心理学がそのまま体育学であるというようになったとき、はじめて人間育成の学ということができると思います。それはこれらの学が人間とその生活に直結するものだからです。心の注意力と体の注意力が最高の状態で協力結合して、ある一つの目的物へ全力を集約傾注できるようになったときが統一状態で、このことを繰り返して行っているうちに相手のことがそのまま自分のことのように分かるようになったら、これが自他一如の境地です。この自他一如になったときが合掌礼拝の境地であり、相手のことがそのまま自分のこととして考えられ、感じれるようになったときが、本当の意味の和合(三昧)であり、ここに真の平和と自由の世界が生まれるのです。

「生命力を弱めている者ほど、心身の働きの失調者ほど、外的条件を多く要求するのである」

直感、直覚を働かせる秘訣は、何に対しても同じことです。それは、好きになることです。関心を持つことです。愛の心をそそぐことです。発見、発明はこの心から生まれるものです。仕事が好きになれば、仕事の方が感じ方、読み取り方、やり方を教えてくれるようになります。これが三昧です。

7/30/2007

ヨガの喜び

ヨガの喜び・沖正弘


活用能力とは、敵を味方にする力のことだ。あれはだめ、悪い、害だ、などの否定的な言葉を言う前に、相手をどうしたら救えるか、高められるかを考えるべきだ。
相手が敵だと思っている間は、こちらはおどおどしていなければならない。そんな否定的で消極的な気持ちでいるうちは、心は安定していないし、強い心を持っているとは言えない。
相手に何度背かれても、最後まで愛することだ。自分が腹を立てたら、自分の負けになる。
活用能力のことを、「愛」という。
嫌いな友達とも付き合い、病気にかかっても感謝する。そしてその友達を好きになる方法、病気を活かす方法を考える。これは「祈る」ということでもある。
例え嫌でも、とにかくやろうとするところから強い心、しなやかな心は生まれる。

現代人のように、考える力ばかり練習していると、感じる力は衰え、生活は間違ったものになるのだ。
でも、この考える力は、人間はどんなに進化しても、生命があるかぎりその基本として働きつづけている。いま見えなくとも、ただうずもれているだけだ。「第六感」、「虫の知らせ」、「嫌な予感」というのがそうだ。

瞑想方法は、感じ方、考え方を正し、高めるために行う。その行法では、まず無心になることを説くが、その前段階が一心になること(ダラーナ)である。
一心とは、たったひとつのことだけに、心を集中することである。見る時には見ることにだけ徹する。聞くこと、歩くこと、考えることも、徹すれば、感じる力が協力してくれるようになる。一心をつづけていると無心になるのである。
心が分裂していては、感じる力は働かない。だから、困った時ほど騒がず黙っている。心を静かにしていれば、どうしたらよいか自然にわかってくる。

いまの教育は、知性開発の訓練ばかりしていて、感じ方開発の訓練をおろそかにしている。芸術科目だけは感じる能力の訓練になるはずなのだが、その 時間はごく少ないし、型にはめる練習法しかやっていない。絵を描くときも、お手本のようにきれいに描くことだけが念頭にある。これでは何にもならない。
ほんとうは、自分がどう感じたかそのままを、色や形で表現したものが絵である。
踊りや音楽も同じだ。うれしさや悲しさを、無心になってそのとおりに体や音で表現するのが芸術のはずだ。
無心になってのものごとをじょうずに行うコツは、遊びにあるかもしれない。

金があると思うから心配したり、不安になったり、疑ったりして少しも落ち着かない。心が執着してやまいものから、しばらく心を意識的につきはなし、 自己の心身のありようを客観的に見つめてゆく。あっても、ない。あるいは、なくても、ある。自分をいつも反対の状態、極限の状態に置いて、意識的に練習を つづけてゆく。

壁にぶつかったら、心を集中して何度でも、挑戦する。そして、もう打つ手がなく、力を出し尽くして、心を無にしたときに、壁の向こうが見えはじめる。
だから、自分がとことん打ち込める何かを発見することは大切なことだ。努力しつくさないと本当に信ずることは出来ない。考えに考えないと、その考えの渦から抜け出すことはできない。

「おまえにこの人間をあずけるから、その問題の解決に手を貸してあげなさい。それがおまえのためでもあるのだ。この人間が救われなかったら、おまえも救われないよ。」

7/29/2007

天才をプロデュース?



天才をプロデュース?/森昌行






私が考えるプロデューサーとは、まずファイナンスの責任を負う人間であることです。つまりプロデューサーとは、ビジネス・サイドとクリエイティブ・サイドのブリッジであるべきだと考えていて、その両方に対する責任から絶対に逃れられない立場の人のことを言うのです。責任があるから権利もあると言うことであって、「内容は監督がやることだから」と任せてしまうような人は本来のプロデューサーではないはずです。

ローカル・コンテンツこそ海外に通用する
本物のローカル・コンテンツでない、まがい物のインターナショナル・コンテンツが、この国のショービジネスにはあまりにもたくさんあるということです。よく「これが音楽的に世界の最先端」とか、「ロンドン録音」などを売り文句にしているけれど、実際聴いてみるとそれはあくまで外国の音楽のコピーしているようなものに過ぎなくて、国際競争力とは無縁のものだったりします。しかもそれを分かっていて確信犯的にそんなキャッチコピーを付けているだけならまだしも、本気で「これが世界だ!」なんて勘違いをしているケースも見受けられます。ナントカもどきは所詮、下品なまがい物に過ぎません。まあ、当人が幸せならそれもいいまもしれませんが。

行動の理由を明確にしよう
要するに記者会見というのは、私たちにしてみれば自分たちのためにメディアを利用する場であって、メディアに野ヅラの状態をさらす場ではないんです。