11/11/2007

身体の言い分・内田 樹と池上六朗








身体の言い分・内田 樹と池上六朗

武術の質の高さと人間的な質の高さは本来は合致するはずのものだと僕は思っていたんです。術技の高い人は、それなりに努力家だから人間的に立派であるはずだといレベルの経験的なリンゲージじゃなくて。
武道の修行そのものが、ダイレクトに、修行する人間の総合的な能力を高めていく。身体も知性も感受性も判断力も統率力も胆力も生命力も・・・・およそ人間の総合的な能力の全体を高めてゆくのが武道修行の本来の目的であると僕は漠然と信じてきたんですけど、そういうことを明確に理論化して、それを修行プログラムとして体系化している武道家って、ほとんど存在しないんですよ。「心技体の一致」とか「心身一如」とか「文武両道」とか、言葉はありますけど、じゃあ、どうやって「心技体」を一致させるのか、「心身一如」とはどういうプログラムなのか、ということを精密に研究して、言語化している武道家というのはほんとにレアなわけで。多田先生はそのまことに希有な武道家の1人だったわけです。

人間の体というのは、非常に汎用性の高い装置だと思うのです。だから、一つ出来ると全部に応用が利く。「武芸十八般」とか「武芸百般」とか言いますけど、たぶん一つ出来ると全部に応用できるような基礎的なOSがあって、それを開発しているんじゃないかと思うのです。

予言する人というのは有利ですね。時間的に先に行っているから。人間って、時間的に先に行っている人には絶対に勝てないんです。「ぼくは未来がどうなるか知っているよ」と言う人には絶対に勝てない。気後れしちゃうんですよ。
断言に根拠がなければないほど、言われたほうは「どうして何の根拠もないのに、こんな自信たっぷりに断言できるんだろう・・・・何かオレの知らない根拠があるのかしら・・・」というふうに疑心暗鬼になって、気後れしちゃう。予言というのは、根拠がわからないものほど遂行性が高いですよね。

武道の立会いというのは、「先を取った」ほうが勝ちなんです。「先を取る」というのは、別に物理的・空間的なポジションに相手より早く着く、ということではないんです。空間的に「速い」んじゃなくて、時間的に「早い」んです。時間的に早く動き出したものに、遅れた人間は必ずついてゆく。ついてゆかない。これはもうどうしようもないんですよ。空間だったら四方に逃げ場があるけれど、時間の流れって一方向しかないから、一秒でも先にいかれたら、あとはずっーとついていかなければならない。

武道の稽古で結局何をしているかというと、体を強く、早く動かす、ということではないんですよ。そんなことをしてもしようがないんです。そうではなくて、細かく動かすということなんです。
伝導性が高まるんですよ。身体的なシグナルの通りが良くなるんです。だから、体と体の接点から、わずかなシグナルを送るだけで、相手の体が大きく変化するんです。

子供の時に、自分は世界と調和している、世界の必然的な一要素なんだということを理屈じゃなくて実感できるような環境というのは、ある程度周りが整えてあげないと子供の能力では構築できないですね。社会的に整備してあげないといけない。

合気道をやっているとわかるんですけど、自分のことをどこまでだませるか、なんですよ。自分が自分のことをだましだまし、自分の持っているポテンシャルが増していくようにもっていく。そういうことなんですよ。つまり頭の仕事なんですけどね、知性の活動を妨害するファクターってやっぱり自分自身の知性にあって、まあイデオロギーとか思い込みみたいなもんですね。体もそうなんですよ。自分自身の身体イメージとか、自分の体はこうだ、と思い込む。それで体のシステムってかなりの程度まで構築されてしまう。

子供の時、すごく親に愛された人というのは、孤立することが怖くないんですよ。百人中九十九人があっちに行っても、「あ、そうなの。でも、僕はこっち」って、平気でこっちに行けちゃう。
だけど、承認された経験の乏しい人は、他社の承認がないと立ちゆかないから、絶えず周りの人の顔色をうかがってしまう。こっちがいいのかな、あっちがいいのかな、どっちをやったら褒められるのかなって、いつでも何かを達成しなくてはならないという強迫観念にとらわれている。自分の高い目標を設定して、これだけのことを達成したら、このアチーブメントに対してきっとみんなが褒めてくれるに違いないという期待をエンジンにして仕事をしちゃうから、ずーっと苦しいわけですよ。

親たちが子供を条件づけで愛するというやり方を止めてくれないような気がするんですよ。「これこれのことを達成したら愛してあげる」という、排便のしつけができたらとか、字をおぼえたらとか、ピアノの練習をちゃんとやったからとか、とにかく子供に対して承認を取引材料に使うようなことをしてしまうと、子供はもう一生その呪縛から逃れられないわけでしょう。どうして無条件にかわいがるということができないのかなぁ。

例えば、子供を幼稚園から有名なところへ入れて、小学校も名門校に入れて、中学もそのままエスカレーター式に進ませて。そうやって育てるのが愛情だと思っている人が多いみたいですね。でも、それだとやっぱり、常に、そういう価値観のもとで評価されている生き方なわけで、何か基準がないと、自分自身がなんだかよくわからない、という人間が育つと思いますよね。人から評価されないと、安心感が得られない。安心ってそういうものじゃないと思うんですが、なんだかそんな世の中になってしまった。

子育てなんて合理的なはずがないんです。なにしろ、無から有が生まれてくるんだから。それ自体異常な出来事なんだから、そこに合理性を持ち込もうとすること自体に無理があるのに、近代のどこかで、これからはこの方法でいきましょう、と、日本全体で暗黙のうちに合意してしまったような気がするんですよ。

他の人はいったい自分に何を求めているのか、自分はこの社会でどんな仕事ができるのかということをいつも考えている人の前には自然にドアが開くし、梯子も下りてくる。どんなことをやったらみんなに喜んでもらえるのか、自分の個性や力量は、どんなかたちでみんなの役に立つのかということをある程度集中的に考えないと、そういうことは起きないのです。
でも、出世を望む人たちは、考え方が違う。そういう他者からの求めというものは目に入らないんです。自分がこんなことをやったら誰が喜ぶかな、とかそんなことは誰も考えてない。自分がどうやったら褒められるかということは考えているんだけれど、その時の基準は自分で勝手に作った思い込みか、誰かに教えられた世間知みたいなものを後生大事に守って。

絶対にこれはやりたくない、ということを選びなさい、と言うんです。絶対にやりたくないことを選んだら、あとは全部できるでしょう、ということです。それで、私はこういう者です、と世間に対して知らせたら、あ、じゃあこの仕事をやってください、って向こうから来るから。自分でやりたいことを選ぶなんて言ったって、外から見てよさそうに見えることにはもう先人がいてね、その人にはすでに加速度もついているわけだから。後からのこのこ参入したって追いつくわけはなんだから、そういう選び方はやめて。絶対にこれはやらない、ということを選べば、あとはどんな仕事だって出来るわけですから。

「怒るな、恐れるな、悲しむな、憎むな、妬むな、悪口を言うな(言われても言い返すな)、取り越し苦労をするな」中村天風の七戒

取り越し苦労って、無限の可能性の中から限定した不幸な選択肢だけをよりのけて、「これが私の未来だ」と思い込むということですよね。
取り越し苦労をしている人って、傲慢な人間だと思うんです。何が起こるか自分はわかっていると思っているという点でまず傲慢だし、お気楽に過ごしているほかの人間に比べて、自分のほうがずっと濃密で重厚名人生を送っていると思っている点でも。態度悪いですよ。

日常生活のところをルーティンで固めて、微妙な空気の変化のようなものを感知する感受性を研ぎ澄ましておくと、実際に危機的状況の時に、他の人たちより流れの変化と言うか、場の空気が変わる時の潮目を見切るのが早くなるんじゃないかと思うんです。

毎日判で押したように平凡な暮らしをして、できるだけ通勤時間を短くするのが一番良いんですよ。アフターファイブに用もないのにどこかへ行ったりしない、とかね。まっすぐ家に帰るのが一番です。そういうことを誰もアナウンスしなんですね。逆のことばかり言う。

新しいものを追いかけるということは一切しなくても、自分にとって必要なものは全部、向こうからやって来るものですから。

そういう姿勢を貫いていたら、出会うべき人に出会うわけで。ちゃんとそこにいれば、それを信じていれば、素敵なことは向こうからやって来るんです。

おとなしく家でじっとして、きちきちと判で押したような生活をしていれば、必ず「あちら」からいいことが来るよって言っても、ぜんぜん信じてくれない。

学生で、心身が安定しているのは田舎育ちで家族が親密な子が多くて、情緒不安定で、ちょっと危ない子というのは、都市生活者で、両親とも高学歴で、母親が過干渉という家の子ですね。過干渉する親というのは放任する親より、ある意味でもっとも子供との距離が遠いんですね。

努力して、我慢して、不愉快な思いに耐えて、その結果、周りの人に嫌われる人間て凄く多い。そんなことしても誰も幸福にならないんだから、自分の中に生物学的に備わっている快不快の感受性を、もっと信じていいと思うんです。気持ちのよいことをしっかり追求していると、人間としてそんなに大きく間違うことってないですよ。

恰好よくなくちゃいけない。人に、これをやれば儲かるよとか、しんどい仕事はやめてこっちをやったら、と言われたら、それは確かにそうかもしれないけれど、恰好よく、というのは不合理でいいんです。

人間って、自分が死んだ時のことを考えている人と、全然考えていない人とでは生きている構えが全然違うと思うんです。今目の前で起きている事柄に対する気配りとか注意力とか、あるいは物事の儚さとかかけがえのなさとか美しさとかに対する感受性が、死ぬことを考えている人と考えていない人とでは、まるで違うでしょ。

「今生きていてつまらない」と言う人というのは、要するに、自分が死んだ時に人生を回顧してどんなふうに思うだろうという種類の想像を働かせる習慣がない人、ということですね。想像力の射程が短い人は、人生つまらないと思いますね。
人生を本当に楽しめる人というのは、いつだって自分が死んだ時のことを考えいるはずなんです。

話が通じない人と暮らし始めるとね、人間の器が大きくなるんです。器を大きくしないと生きていけないから。話が通じなくてもノープログレム、という方向への頭の切り替えが大事なんです。通じなくて困ったな、やだな、不愉快だな、と思っていたら結婚なんてやってられませんね。でも、それこそが結婚生活の「そこから出発すべき現実」なわけです。
結婚は契約なんですね。

みんな、日本人が一斉に同じ方向に行く、ということの恐ろしさをわかってないんですね。

11/09/2007

健全な肉体に狂気は宿る






健全な肉体に狂気は宿る


基本的に人間というのは、困難な場所においては、自分の世界を狭めるものなんですよ。
健康なときだったら、全世界を相手にして生きることができる。でも、困難な状況では、とても世界全部を相手にすることなんてできません。だから、とりあえず一番小さなところまでキューっと絞るんです。


コントロール願望の強い人というのは、相手と自分の区別がつかないわけで。区別がつかないから、自分が思う幸せを相手に強要する。親はよかれと思ってやってることが、子どもにとってはいい迷惑だということは間々あることなんです。
でも、自他の基準が違うということがわからない。そうやって育てられた子どももまた自分が母親になると、同じことを自分の子ども相手に繰り返す。世代を超えても少しも「変化」しない。


子どもに対する親の仕事というのは、どうすれば子どもが気持ちよくなるのかということを考えることに尽くされると思うんです。


子どもの身体感覚にさえ目配りしていれば、あまり余計なことは言わなくても済む。快適というのがどういうことか、人から気づかわれるというのがどういうことかを気づかわれる側として子どもが経験していれば、そのうち自然に他人の快適さを気づかうことができる人になれると思うんです。そういうものって実地経験で覚えるしかないから。


「自分はこれがしたい」ということは一生懸命言うんだけれど、「自分は他人のために何ができるのか?」という問い方は思いつかない。
でも、「誰が自分の支援を必要としているか?」という問いを自分に向ける習慣のない人間は社会的には本当は何の役にも立たないんです。


ファンタスティックな「ライフスタイル・マガジン」が売れるというのは、言い換えると、自分のライフスタイルを自分で決めることができない人がすごく多いということでしょうね。子どものころからマニュアルで育ってきた世代が、三十代、四十代になっても、相変わらずマニュアルがないと暮らせないということなんじゃないですか。


「強く念じれば望みは実現する。ただし、自分の望んだ時期には実現しない」って書いてありました(笑)。
歳をとってみると、なるほどなあと思うんですよね。


自分自身が時間とともにどんどん変わっていくのに、遠い昔に立てた「人生設計」にいつまでも固執することに何の意味があるのか、一度ゆっくり考えて欲しいです。


ロングスパンとショートスパンと、どちらもないといけないんですけどね。例えば、ビジネスというのはショートスパンなんです。
四半期決算で収益が出たかどうかで測るわけだし、現にやったことに対してすぐにリアクションが返ってくる。ビジネスってある意味ほとんど無時間モデルなんです。
でも、例えば、家族なんてものすごいロングスパンじゃないですか。結婚生活とか親子関係みたいなものというのは、自分のやったことが正しかったかどうかなんて、四十年、五十年経たなければわからない。だからビジネス的に四半期の収益で成否を測ることのできる家庭生活なんてありえないですよね。だから、ロングとショートの両方がいるんです。


いま家庭がうまくゆかなくなっている原因の一つは、全部がショートスパンになってきて、本来ロングスパンで成否を見るはずの結婚や親子のあり方を「早く決断しろ、早く結果を出せ」というビジネス的な時間感覚が歪めているせいじゃないかな。


人間がまわりから受ける影響ってすごいですよ。無意識のうちに、信じられないくらい簡単に影響される。精神レベルだけじゃなく、身体レベルでも。誰にも経験があると思うんですが、ある種のフィジカルな波動みたいなものがあって、その人のそばにいるだけで、こちらの生命エネルギーがどんどんすり減っていってしまうような人間が現にいるんです。


もう少し広い視野を持つとか、もう少し高い視点から自分自身を含む風景を鳥瞰的に見取るということができないと、マジョリティとともにあるべきか否かの判断はできない。生態系の全体のバランスが崩れないなら、ある集団が全滅することだってあり得るんですから。
そのとき、そのマジョリティにとどまるかはずれるかの判断ができる人間とできない人間がいるわけです。マジョリティを見切ってそこから逃げる能力というのは、ふつうの家庭教育や学校教育では教えてくれない。当たり前ですけどね。特に母親は絶対教えない。だって、母親にとって子どもは「弱い生物」としてインプットされているんですから。母親は本能的に子どもに対して「つねにマジョリティと行動をともにしなさい」という圧力をかけてきますね。


「変人」戦略というものを採用する人がいるわけですね。春日先生とかぼくとか。「変人」というのは最初からマジョリティの端っこの方にいるわけですよね。群れの中にはいるんだけれど、いつでも逃げられるように端にいる。真ん中にいると逃げられないから。マジョリティの中にいれば絶対に安心だと思っている人は、どのへんに立ち位置をとるかなんてことはあまり気にしないんですよ。


人間というのは、他人から聞いた話というのはあまり軽々には信用しないくせに、自分がいったん口にしたことばというのは、どれほど不合理でも信用するんですよ。だって、自分で口にしたことばの現実変成力を自分の人生を賭けてでも証明しようとするから。
自分の口で言ったことは、言わないことよりも実現可能性が高いですから、他人のことばはどれほど合理的でも信用しないが、自分のことばはどれほど不合理でも信用するというのは、ある意味「正解」なんです。


身体は正直ですからね。そして、身体の方が賢いんです。身体は本能的になんとか生き延びようとしているわけですから、長生きできない方向に人間が行こうとすると、「やめなさい」と言ってくれるはずなんです。


「身体が感じる違和感に、忠実になれ」ということですよね。


ぼくもときどき人に対してひどいことを言うことがあるんですが、そのときの基準は一つだけ。悪口を言ったあとで気分が良くなるかどうか(笑)。
やっぱり身体に訊いてみるしかないわけです。だから、学生にもよく言うんですよ。「とにかくデートしなさい」と。そして、一緒にご飯を食べてみて、美味しかったら相性がいい、一緒に食べてご飯がまずかったら相性が悪い、と。


甲野善紀先生や竹内敏晴先生や光岡英稔先生も、みんな身体の内側の変化をみつめるといういうことをされているでしょう。
その方たちに共通するのは、何が「正しい」かじゃなくて、何が「気持ちがいいか」ということを探求しているということですよね。
身体のどこにも無理がなく、詰まりもなく、凝りもない、気持ちがいい状態を探り当てられれば、どのような条件に置かれても、その「いちばん気持ちのいい状態」にまっすぐ戻ることができるでしょう?そのときの「安定状態に一気に戻る」動きが爆発的なエネルギーを生み出すわけだから。身体的な気持ちよさというのは、そのまま武道的な意味での強さにつながっているんです。


ひとりひとりの人間にはその人にとっての「最適サイズ」というものがあって、それよりも大きくしても小さくしても、身体には障害が出てきます。
ぼくたちが探さなければいけないのは、今の自分にとっての最適サイズなんです。生存に一番有利で、身体的ポテンシャルが発揮できて、かつどこにも過負荷のかからないぴったりの体型というものがひとりに一体ずつ必ずあるはずなんです。それより太っても痩せても、どちらにしてもパフォーマンスは下がる。


人間が精神的に健康である条件について、四つばかり挙げておきたい。
●自分を客観的に眺められる能力。
●物事を保留(ペンティング)しておける能力。
●秘密を持てる能力。
●物事には別解があり得ると考える柔軟性。


客観的に自分を眺める能力が必要なことは当たり前であろう。反省とか良識とか羞恥心とかバランス感覚といったことに通じるわけで、これがないと育ちの悪いガキと変わらない。

ペンディングする能力、あるいは(精神的な意味で)中腰の姿勢に耐えられるだけの余裕といったものもきわめて大切である。
それは忍耐力とか不安に耐える力と言い換えられるかもしれない。あるいは一種の能天気さとか楽天性、「ま、何とかなるさ」とやり過ごせるだけのいい加減さに近いものかもしれない。気取って言えば、希望を持ち続けられる能力と称してもよかろう。

おしなべて我々は待つことが苦手である。待っているとイライラする。不安になる。猜疑心を抱いたり、悪い想像をしてそれに振り回されたり、被害者的になったり、ときには妄想レベルにまで思考が暴走する。基本的に、待つことは精神衛生上きわめて悪い。

だが世間の諸事は、すぐに結果や結論が出ることは少ない。大概はじっと待ちつづけたり保留しておいたりしなければならない。つまり生活にメリハリがつかな。生殺し状態にされる。保留がいくつも生じることで将来への準備や心構えは困難となり、未来は不透明で曖昧となる。不条理感が立ち上がってくる。

だが我々はそうした生煮え状態に耐えなければならない。焦ったり捨て鉢になっては、元も子もなくなる。待つ能力、保留しておける能力は、本人のみならず周囲の人々にも安定した気分を与えてくれる。

秘密を持てる能力に関しては、本文で語られているから特に付け加えることはない。わたしとしては、胸にそっと秘密を持つことにもっと楽しさを感じるべきだと思う。心の闇といったものではなく、むしろ光学写真機の暗箱のような豊かな闇を持つことが我々には必要なのである。


では、物事には別解があり得ると考える柔軟性についてはどうか。しばしば世間では心を病んだ人々の思考は支離滅裂とかデタラメに近いものと捉えている。だがそれは間違いである。彼らは往々にしてきわめて論理的である。いや、あまりにも論理的で整合性があり過ぎることが問題となる。

11/08/2007

内田樹


内田樹(うちだ たつる)


私たちの社会からはすでに献酬の習慣がなくなった。今また喫煙の習慣も消えようとしている。共同体の存続よりも個人の健康を優先する人々が支配的になる社会において、人が今より幸福になるように、私は思えない。

デートでご飯に誘うのは、一緒にご飯を食べて、もし同じものがいつもより美味しく感じられたら、それは「この人とはうまくゆく」という指標だし、ご飯の味がしないなら、他の条件が揃っていても、うまくゆかない。こういう判断においては消火器の方が脳よりも賢いのである。

しゃべれば、しゃべるほど、言葉がうつろになっていく。

何でも今を基準にして考えちゃいけません。どちらかというと、昔から流れて来ているから今があるんですからね。歴史を逆に見ちゃいけないということですよ。

音楽の伝播というのは、人々が思っているほど一方向的なものではないし、時代とともに「進化する」というものでもありません。それは時間と空間を行きつ戻りつし、さまざまな非音楽的なファクターをも吸い寄せて、絶えざる変容と増殖を続ける不定形的でワイルドな運動なのです。

ご臨終メディア


ご臨終メディア 森達也・森巣博





森:森巣さんが指摘するように、高収入によって醸成される保守性が今のメディアのスポイルの大きな要因だとしたら、
  その既得権益を自発的に捨てさせることができるかどうかは疑問です。やはり外圧がないと・・・。
森巣:しかしそれなら庶民の味方みたいな面するなと。年に3000万円近くも取っておいて、自分の使命を果たさず、
  夜は会社の金で酒飲んで、「領収書切ってね。あっ、日付は入れないで」なんて言うのですよ(笑)。だからやっぱり給料を、
  15分の1にせいと。
森:森巣さん、減額の割合がどんどん増えてますよ(笑)。



森巣:森さんがおっしゃったとこで、一つの重要な論点が浮かび上がりました。相手を知らないゆえに憎悪しているという点。
  だからこそ知りたくないわけですよね。
森:そうですね。知ってしまったら憎悪できなくなってしまう。それをどこかで感知してしまうから、目をそむけてしまうのかもしれない。
  まぁ、オウムの場合はこれに加えて、彼らに対しての嫌悪が突出して強いですから。それも含めて考えねばならないとは思うけれど。


実際には巨悪を黙認し、かつそれに加担しつつ、正義を背負っているように振舞うジャーナリストたちには反吐が出ます。しかも倒れるのを
待っている。不正を告発するのがジャーナリズムのはずでしょうが。ところが、倒れたものを叩くのがジャーナリズムとなってしまった。


そもそも、ジャーナリズムという仕事―メディアの仕事と言い換えてもいいですが―には、他人の不幸を食い物にして成立する領域が
とても大きい。だから、生来的に後ろめたさがあって当たり前の仕事なんです。賎業くらいに思ったほうがちょうどいいと僕は思っています。
ところが今は、後ろめたさがどんどん希薄になっています。この負い目や後ろめたさが消えたとき、メディアは、暴走するんです。


権力は腐敗する。絶対的権力は絶対に腐敗する。
その権力の腐敗を、国民の代わりに監視するのが、ジャーナリズムの役割なのです。


レン・マスターマンが指摘した、メディアは現実を反映しているのではなく、再構成してから提示するという考えそのものですね。


メディアにおけるリアリティは、本物ではなく、本物らしいということです。これは決して皮肉ではなく、受け取る側の感応力が重要なんです。
だからこそ、メディアが発達することで、リアリティは増大せずに逆に消失するんです。ベトナム戦争とイラク戦争のリアリティを比べてみたらいい。
あるいは三〇年前のビアフラと今のスーダンの飢饉。規模や被害は同じようなものです。むしろ今のほうが悲惨かもしれない。でもメディアが
リアルタイムに、わかりやすく、情報量が増大する過程と並行して、受容する側の想像力が消えていくんです。


今、メディアに携わる人間も、確信犯的に状況を悪くしようと思って仕事をしているわけではなく、どこかで日本を長くしよう、自分たちの
理念を全うしようと考えているとは思います。それが硬直し、麻痺し始めている。さらに、僕が危惧している一番の点は、自分たちが
手を汚しているという自覚があれば、まだ改善の余地が存在するんですが、それすら消えてしまったときに、まさに自動律が始まるんです。


みんな一緒の社会のほうが、ずっと怖いのです。異質なものを混ぜて一緒にやる。これが本来の意味での多元主義の立場です。
異物はわからないからといって、排除してしまったら終わり。そこで思考は止まります。わからないものはわからないまま。置いておいて、
一緒に考えればいい。
自分も考える、向こうも考える。自分が何かしようとしたら、嫌なヤツも入れる。好きなものだけで集まっても、仲良しグループができるだけで、
つまらないものしかできない。だから、メディアには、多元性があっていいはずなのに、一元化されて、みんなでいい子グループをやっている。
「救う会」にしろ、「新しい教科書を作る会」にしろ、下部で働いてる人たちは、自分はいいことをしていると、きっとみんなそう信じているので
しょう。福音を伝道しているのだと思っている。


ところが、わからない、理解できない相手は、はじいてしまう。北朝鮮の手先だ、アルカイダの兵士だ、テロリストだ、非国民だと排除してしまう。
なぜかは理解できないけれど、テロリストたちがあれだけのことをするには、それなりの理由があるんだと考えることができない。わからないのなら、
なおのこと相手を知ろうとするために、その考えを聞き、知ろうとするべきにもかかわらず、わからないからといって徹底的に差別する、排除する。


暴走します。悪意は暴走しない。ただし、開き直ります。
森巣:悪意には、ある程度までの、底というべきか天井があるのかもしれない。ところが、善意というのはどこまでも突き進んでしまう。


その無自覚性の積み重ねの先にある社会こそが「怖い」のです(笑)。いつの間にか、私みたいな人間がサヨクと思われるような世の中になってしまった。
私の立場は明瞭です。左翼は難解、右翼は厄介(笑)。アメリカでは、愛国者法(反テロ法)が成立しました。日本もその方向に進んでいる。
愛国者法を成立させたUSAは、私がセックス・ドラッグス・ロックンロールをやっていた頃のUSAではありません。敵を作り、敵を攻撃することが正義と
なりました。おまけに、それに反対すれば非国民です。


今のメディア自身も、善意を体現しようとして、そこに正義という言葉を入れ替えて、その御旗の下、麻痺し始めている状況ですから、社会全体の
善意による暴走という構造は、拍車がかかるばかりの状態になりつつある。
森巣:それでも、表現することを恐れてはいけない。意義申し立ては必要なのです。周囲に気を取られて、保身しているようでは、奈落しか待ち受け
ません。森さんが書かれていたことですが、表現することによって傷つく人がいるかもしれない。それは絶対どこかにいるのです。それを気にしてばかりいたら、
何も書けなくなってしまう。表現とは誰かを傷つける可能性を含むものなのだという自覚は必要です。その加害者性を受容して、表現が開始される。


傷つくであろう人がいるということは、気にはしてほしいし、忘れてほしくない。だからといって、気にしすぎてしまったら、それで機能しなくなってしまう。
後ろめたさを思いっきり持って、ああ、こんなに毎日毎日多くの人を傷つけているって、めそめそ泣きながら仕事をするくらいの気持ちを持続してほしい。
その自覚もないのに、ジャーナリズムや表現に携わってはほしくないですね。


人を刺すのは、自分も刺されることを受け入れて、はじめての成立可能な行為です。自分が刺されることを受け入れないから、現状のように、どんどん
抗議のこないほうに向かってしまった。
森:・・・・・・でもね、刺される窮地にまで自分を追い込む必要はないんです。メディアの特権は、人のことを刺すけれど、自分は刺されない位置にいること
です。とんでもない特権です。だからこそ、それに見合うだけの自覚と働きは、当然要求されるべきなんです。


自分がくだらない、虫けらみたいな人間なんだというところから出発したほうがいい。正義であったり、公共の福祉であったり、知る権利とか、
表現の自由がどうだとか、そういったことを持ち出すから、どんどんどんどん錯覚していってしまう。
一回原点に立ち返ればいい。メディアという仕事は、ほとんどが人の不幸をあげつらうことで成り立っている。不幸でなくとも、聞かれたくないような
ことまで取材しなければならない場合もあるし、取材方法だって家族には見られたくないようなことばかりしています。そしてその結果、常に誰かを
傷つけることで成立しているんです。そのことに対する後ろめたさを持ったほうがいい。それだけは、絶対なくすべきではないと思っている。
卑しい仕事なんです。その視点から、もう一度、メディアというこの重要なジャンルと、向き合うべきと思っています。


長い博奕体験から、私には言えることが一つある。それは、希望が絶望に変わるのは諦めたときなんです。諦めちゃいけない。
絶望に陥ってはいけないのです。

11/07/2007

奥田民生、日経


奥田民生、日経
音程って揺れるでしょ。ビブラートをかけるとごまかせる。

カラオケ的歌い方と言うか。本当にうまい人はビブラートをコントロールしてやってますから、さらにうまくなる。

ごまかしてる人は、うまく聞こえるけどちっともうまくない。

ソングブック/ニック・ホーンビィ


ソングブック/ニック・ホーンビィ

ピンクフロイドの音は、風通しが悪くて人工的だった。おまけにプログレッシグ・ロックのやつらは、まるでクラッシクの音楽家になりたがっているみたいで、なぜだかポップを見下している感じだった。彼らについて行っても、その先は袋小路。未来はどこにも通じちゃいなかった。

イングランドのポップ・ミュージックを聴いてもイングランドは聞き取れない。・・・・セックス・ピストルズはストゥージスの歯並びを悪くして、やり手のマネージャーを付け加えたようなもの。

出来の悪いものでも許せる気持ちになったのは、最良の歌とはただただ美しく、そして美しいものとは、とくにポップ・ミュージックにおいて、稀少品であるからだ。そう考えてみれば、美しいものを抱きしめずにいるなんて、自傷行為にひとしい。もうぼくは、ポップ・スノッブでいる余裕などない。

ジャクソン・ブラウンの音楽には、若いころなら反応できなかっただろうと思わせるものがたくさん存在している。当時だったら、その繊細さやはかなさを、ただつまらないと勘違いしたはずだ。

ぼくは新しいものを発見しつづけたい。証券取引所に名前があるような店では、発見なんて出来やない。だからあなたには、ウッドや、あなたの家の近所にある似たような店で買物をして欲しい。でなければ、いつかきっとこうかいするはずだから。

音楽を愛してはいるけれど才能のない人間でも素晴らしい音を創造できる。必要なのは耳と、ソフトウェアと、センスのよさだけ。ファンという人種だけが持つ大いなる魅力が、これでようやく世に認めらるようになったわけだ。

音楽を創造するとは―どんな芸術でもおなじだが―空気の薄いところから何かを引きづりだし、もともと何もなかったところに何かを生みだすことであるはずだ。

11/06/2007

最高の自分を生きる 丸山敏秋






最高の自分を生きる 丸山敏秋



◎感謝や感動の心が大きいこと
◎自分の身に起きることはすべてプラス、ととらえること
◎先のことはあまり考えず、目の前のことに精一杯取り組むこと
◎志を高く持つこと
◎ギブ・アンド・ギブの精神で生きること


稽古とは、自分の身体を型にはめ込んでいく訓練である。稽古がはっきりとした目的に
向けて行われるとき、それは修行となるのだ。


修行とは、世俗的な日常経験の場における生活規範より以上のきびしい拘束を自己の心身に対して
課することである。そしてそれによって、社会の平均的人間が送っている生き方より以上の「生」の
Leben mehr alsに至ろうとすることである。「人格の向上」とか「人間形成」とよばれるものは、具体的には、
このような実践的訓練の過程を意味する。
そうした修行には、主として外界の事物に向かう外向的実践(たとえば修道院生活の労働のように)と、
瞑想修行のような自己の心の内部に向かう内向的実践に大別できる。世阿弥が稽古を禅の修行になぞらえたように、
技芸の稽古が修行に進んでいくとき、日本の場合では無我の境地をめざす仏教思想が大きな役割を果たすこととなった。



技芸あるいは求道の世界でその「道」を究めるためには、よき師に就き、その師を心から尊敬信頼して、技能を修得しなければならない。
道元いわく、「正師を得ざれば学ばざるに如かず」。
技芸の師は普通、あまり教えない。師自身もかつて就いた師から教えられることはなかったし、技芸の蘊奥は教えられるものでもないことを、
経験的によく知っているからだ。型ならば教えられるが、それもあえて無理には教えない。そもそも、「教える」という言葉は稽古の世界にふさわしくない。
なぜなら、日本の技芸では身体などの動きがない、いわば空白余白のところに無限の妙趣を見出そうとするからだ。「せぬところがおもしろき也」
(世阿弥『花鏡』)、「目に見えぬ所をさとって知る事」(宮本武蔵の『五輪書』第七戒)と言うがごときである。動きのないところ、目に見えないことを、
どうやって教えられようか。
したがって弟子は、真似をするしかない。技芸でも学問でも、学びの道は「まねび」、すなわち師の技芸や知識をひたすら謙虚に模倣することからしか
始まらない。模倣するとは、一定の型に身を入れる修練を積むことである。



①善いしつけ
②自分の選んだ芸術に対する情熱的な愛
③師に対する批判抜きの尊敬


まず弟子は最初、師がやって見せることを、良心的に模倣すること以外には、何一つ要望されることがない。
師は長ったらしい説教や理由付けを嫌って、簡潔な教示をするにとどめ、弟子が質問することなどは勘定に入れていない。
彼は弟子の模索的な数々の骨折りを落ちつきはらって静かに眺めており、別に弟子の独立心や創意工夫を期待しないが、
弟子が成長し成熟するのをじっと待っている忍耐心を持っている。両者共に時間をたっぷり持っており、師はせきたてず、弟子は
あわてて手をさし出さないのである。
時期尚早に弟子を芸術家に目覚めさせようなどとは毛頭考えず、師は彼を、手業が無上によくできる有能者に仕立てることを、
自分の最初の使命と考えている。弟子はたゆまぬ勤勉によって師のこの意図に添おうと努める。彼はまるでそれ以上の高い要求は
全然持っていないかのように、いわば自分に愚鈍な心服状態を背負わせる。こうして彼は、何年か経って初めて、完全に自己のものと
した形式が、もはや自分を圧迫せず、かえって自己を解放するという経験を持つようになるのである。彼は一日一日と次第に容易に、
どんな芸術的霊感にも、技術的には造作なく従うことができるようになる、が同時にまた心をこめた観察の中から、霊感をぞくぞくわかせる
こともできるようになる。例えば、筆を持つ手は、彼が心の中で創作活動を始めるのと同じ瞬間に、いち早く狙い誤たず頭に浮かんで
いるものを仕上げてしまうのである。そしてついに弟子は、精神か手か両者のどれが、その作品の責を負うかをもはや知らなくなるのである。
しかしそこまで行くためには、すなわちその技量が“精神的に”なるためには、弓道の場合と同様に、心身の全力の集中が必要なのであって、
これは、どんな事情の下においても放棄され得ないものである。(傍点・引用者)


稽古が目指すのは「自由」の境地なのである。「型にはまる」だけではその「道」を窮めたとはいえない。型をしっかり踏まえながらその型を
超えていくと、いちいちの動作から心が離れ、自由自在に技が繰り出せるようになり、「我もしらず」という境地に至る。そう、「ゾーンに入る」のだ。
そうした稽古の階梯は「守・破・離」あるいは「序・破・急」と呼ばれた。


◎人は、幸福に暮らしているから朗らかなのではなく、朗らかにしているから、幸福な事情がつぎつぎにあらわれてくるのである。
◎世の人は、身体が悪いから働けない、というように考えているが、それは反対である。・・・・・・病気になってからでも、出来る仕事を心配なく
働きつづけていたら、それ以上悪くならないばかりでなく、次第によくなってくるものである。


習慣は成長の敵なのだが、習慣を突き破るところに成長がある、というべきかもしれない。習慣を突き破る上での導き、それが直感だった。
直感は低次の「爬虫類の脳」ではなく、上位の「人間の脳」と「哺乳類の脳」との間の力動から生まれる。すなわち、「下から上」ではなく
「上から下」に作用する心の機能であった。ちなみに、習慣に依存する怠惰怠慢、あるいは自己保存の心意は、「下から上」によるものである。
技芸の世界における達人の開眼に、直感が大きな働きをするとともに、日々の稽古における向上のプロセスにも直感は欠かせなかった。
このようなことから、「気づいたらすぐする」という実践の意義が明らかになる。気付きという直感は、その時その場の状況に応じて、実に多様に
発現する。それをキャッチして行動する場面場面は、いつも異なっていて、常に新しい。すなわち受動的な習慣を突き破り、われわれは
「新に生きる」ことができる。
実践とは非日常的な行為だったが、あることを実践してそれが出来るようになると、習慣化してしまう場合が多い。日常化してしまえば、もう、
実践ではなくなってしまう。直感による「即行」にそうした習慣化は起こらない。「即行」が非日常に止まりっぱなしということも決してない。
「日常→非日常→日常」の好ましいサイクルが「即行」の実践においてもたらされる。


「純情」の対極がわがまま(エゴイズム)であり、わがままは習慣に安住する。わがままな生き方を変え、機械のように自動操縦されて生きるだけの
人生を乗り越えたいのであれば、「即行」ほど的確な実践はない。


オイゲン・ヘリゲル『日本の弓術』(柴田治三郎訳、岩波文庫、1982年)
同『弓と禅』(稲富栄二郎・上田武訳、福村出版、1981年)
黒田亮『勘の研究』(講談社学術文庫、1980年)

「正しい意思決定の五条件」&「12の徳目」


「正しい意思決定の五条件」&「12の徳目」



これは、私が信じている世の中の仕組みから見つけだしたものです。

①やりたいこと・楽しいことをやる

②自信のあることは、やってもいい

③自分のためだけのことではなく、世のためになること

④責任がとれること

⑤恨まれることはしない





一、 【孝行】親孝行をしましょう。

二、 【友愛】兄弟姉妹は仲よくしましょう。

三、 【夫婦の和】夫婦はいつも伸睦まじくしましょう。

四、 【朋友の信】友だちはお互いに信じ合ってつきあいましょう。

五、 【謙遜】自分の行動・言動を慎みましょう。

六、 【博愛】全ての人を愛し、助けの手を差し伸べましょう。

七、 【修学習業】勉学に励み、職業を身につけましょう。

八、 【知能啓発】知識・教養を身につけ、才能を伸ばしましょう。

九、 【徳器成就】人徳を高め、人格を高めましょう。

十、 【公益世努】社会や公共のために貢献しましょう。

十一、【遵法】法律や規則を守りましょう。

十二、【義勇】正しい勇気をもって、国のために尽くしましょう。


11/05/2007

楽しく上手にお金とつきあう・小林正観


楽しく上手にお金とつきあう・小林正観



たそがれたラーメン屋でお金を使う。

美味しい店、有名な店に入るために行列に並び、20分も、30分も待って食べるというのは、エゴかもしれません。その有名な店の2,3軒隣には、必ずお客さんの入ってない店があります。まずくて有名で、店主の愛想は悪いかもしれません。でも、あえてこのような店に入ってみてください。

役に立つようにお金を使うというのは、「いかに人に、お金に喜んでもらえるか」ということでもあるのです。



お金ができた、と食べ物を変えると運が衰える。

「欲しい、欲しい」と念ずれば念ずるほど、願えば願うほど、「我欲」「執着」「こだわり」のゴミを貯め込んでいることになります。先ずは、その三つの思いを捨てること。



どうお金を使うか、いつも考える。

いざという時に、富をみんなのために放出できる人のところには、お金が集まってくる。「この人のところに貯めておけば、いざというとき助かる」と思われる人は潤うのです。「この人に潤っていて欲しい」と周りの人たちが思っているから、自然とそうなるのです。



喜ばれる存在になると、売り上げはついてくる。

村おこし、町おこしの共通点

1、その町や村で育った人が一度都会に出て生活し、戻ってきて何かを始めた。

2、都会に住んでいた人が仕事を辞め、その町や村に移り住んで何かを始めた。

3、その町や村の外に多くの友人、知人を持っている人が何かを始めた。

外の世界と交流を持ち、外の世界を知っている人が、新しい楽しいアイディアを持ち込み、活性化のきっかけをつくっているようです。ずっとその町や村から出たことがない人が、その地域のよさを認識できないので、そのよさをアピールすることができない。



働くとは「はたをラクにする」こと。

喜ばれる存在になること、それだけですよね。



生きるとは、「頼まれごと」をこなすこと。

自分のやる気や衝動によってつくったものが芸術だと思い込んでいる人が多いのですが、それだけでは、長く世に残るスゴイ仕事はできないようです。

衝動でやったものは、自分のできる範囲でしかやらないことが多い。ところが、「この大きさのもの、こういうものをいついつまでに仕上げてくれ」と言われると、人間は自分を超える力をどこかから借りてこなくてはならない。自分の能力の限界を超えるものを頼まれて引き受けてしまう、ここが重要です。

自分の力を自分で評価・評論できると思っている、それが「傲慢」です。頼まれたら「わかりました」と言ってやってみる、それが「謙虚」。

一般に言う、「傲慢」と「謙虚」とは全然違います。



「イヤなこと眼鏡」を外すと、人生は楽しい。

「お金を貸してくれ」「お金を出してくれ」と言われても、それはお金に用事があるのであって、「私」に用事があるのではありませんから、断っても構いません。

その人はお金に用事があるのですから、「私」ではなくてもどこかお金がでてくればそれでよいわけです。



「夢や希望に満ちあふれた人生」は、「死ぬまで満たされない人生」かも。

努力の反対語は感謝です。もちろん、努力は悪いことではありません。けれども「努力をしなければならない」と思うのは、自分の力しか信じていないこと。つまり、自分の人生をつくっているのは自分だ、という奢り・高ぶり・うぬぼれ・傲慢かもしれません。そういう人は、自分の体の外側のものを全部敵に回しても努力を続ける。それが美徳だと思い込んでいる。

「夢や希望をもちつづけなければならない」と私たちは言われ続けてきましたが、夢や希望に満ちあふれいる人生というのは、つねに今の自分を好きになれず、「まだまだ、もっともっと」と死ぬまで言い続ける、満たされない人生ということなのではないでしょうか。

ちっとも努力してないけど、いつもニコニコと楽しそうで、心に余裕があり、いろいろなことや人に感謝して、周りの人を気持ちよく、明るくさせてくれる人。

「努力、努力」と押しつけがましく、とても偉そうで、一人で頑張っているような顔をして、いつもピリピリと怒っている人。

どちらが楽しそうで、明るく楽しい人が寄り集まってくる人生なのでしょうか。



求めて手に入れるのが人生の前半、折り返しを過ぎたら、捨てて手放す。

「頑張る」「努力する」ことが唯一のよい価値なのだと信じて、そのまま後半生を生きていこうとすると、今度はうまくいきません。後半生では、「頑張る」「努力」が「向かい風」になってしまうようです。人生の折り返し地点を過ぎたな、と思ったら、何かを求めて動くより、今いる場所で「どうしたら喜ばれる存在になるか」、今まで得たもので「どうやってみんなの役に立つか」と考えると、面白い風が吹いてきます。追い風です。



「発想転換」して「執着を捨てる」。

強いものが力を示して上に立つ時代はもう終わり。柔らかなもの、温かいものが協調して力を持つ、そういう時代。「力を持つ」という表現自体が違うかもしれません。強調的なものが中心になっていくのです。



「ありがとう」は神の応援を得る言葉。

本当に幸せを感じる人というのは、足りないものをリストアップするのではなくて、足りているもの、いただいているものをリストアップする人。自分がいかに恵まれているかに気がついた人です。








11/04/2007

暮らしの哲学・やったら楽しい101題






暮らしの哲学・やったら楽しい101題・ロジェ=ポル・ドロワ



身の上をいくつもでっち上げる・人生観が変わる

違う人間を演じてみる・憂鬱の虫を抑える

いい人になったり悪い人になったりする・自分を相対化する

何もしないでただ待つ・気が鎮まる

しあわせになる禅






しあわせになる禅・ひろさちや



家の中で使われる物差しが、世間の物差しのままではいけないと思う。世間の物差しは、人間を「役に立つ、役に立たない」といった観点で評価するから。



要するに、親が世間の奴隷になって、わが子に世間の物差しを押し付けていたのでは、問題は解決できないのです。



宗教を持たない人間が、宗教の代用品として持っているもの(持たされているもの)が、

―美学―

です。「日本人の美学」「男の美学」なんて言いますが、立派な死に方をせねばならない、立派な生き方をせねばならないという強迫観念が美学です。

こんなもの、宗教の代用品にはなりませんよ。



1、莫妄想(まくもうぞう)→余計なことを考えるな!

2、一得一矢→なんだっていい。

3、自灯明→他人のことはほっとけ!

4、放下著(とうげぢゃく)→常識を捨てろ!

5、竿頭進歩(かんとうしんぽ)→がんばるな!

11/03/2007

日本の遺伝子を変える 濤川栄太


日本の遺伝子を変える 濤川栄太



田中角栄氏がしみじみと語った言葉が忘れられない。「とにかく敵をなるたけつくらないこと。一人の敵は千人の敵になる」は、けだし名言だ。

 

何が弱いのかといえば、まず情報そのものに対する執着力が弱い。ある意味でインターネットとは「個」だ。一人が世界をひっくり返せる可能性をもつ。その点、集団主義をメインとし、基本的には群れて生きてきた日本人は、どうしても「個の確立」を苦手にする部分もある。

 

とくに目立つのは「国家意識の欠落」。日本人ほど国家を愛さない国民が多いのは、世界に類例がない。

これは何回でも強調する。個人を大切にし、自由と民主主義でいく。しかし、そういうアメリカ、イギリス、フランス・・・、いずこの国民もみな自国を愛している。



「人間は自分の為に生きなければ生きられないが、他人の為に生きる意志のない者は幸福になれない」、という方程式。私にはどうしてもそうとしか考えられない。

だから仏教でいう「菩薩性」の強い人が、人間として強い。豊かであり、輝く。そして「知足」―、足るを知っている。エンジンをふかす時と、ブレーキをかける時の判断力も高い。孫子は「敵を知り、己を知るは百戦危うからず」というが、やはりすべては「知ること」から始まる。「知は力」だ。

 

 MIT教授ジョン・ダワー氏はかつてピュリッツアー賞を受賞したが、日本経済の復興を研究する彼はいう。「経済システムについてもアメリカのまねをして、日本がもっていた良さをなくそうとしているように思います」。「アメリカのまねをして、日本の優れたシステムを棄ててはならぬ」。繰り返すが、アメリカの良き所を吸収し、悪しき所は同化しない術を身につけないとこの国は本当にダメになってしまう。

 

 

国家戦略研究会議事務局

 

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11/02/2007

親より稼ぐネオニート・今一生



親より稼ぐネオニート・今一生





受験勉強や集団生活は、ガマン比べに強い奴が勝ち上がっていく。

だが、「どうせガマンするなら自分のしたいことを実現させるためにガマンしたい」と望むほうが精神的に健康な考えであり、実際に発揮できるはずだ。「みんなと同じ」人生を踏み外す不安に負けて、周囲の望む通りに生きて後悔しても、親も友人も恋人も誰もあなたの人生に責任なんてとってくれない。だから、やりたいことがハッキリとあるときは、みんなの輪から離れても自分が納得できるまでやってみるしかないのだ。



「親が子供に教育すべきことは自分一人で食べる技術を身につけさせることだ」と痛感した。

親は子供に学歴を与えることに躍起になるよりも、自力で稼いでいる姿を見せたほうが、子供にとっては自分が生きている社会がどんなものかがわかる。家庭や学校における教育ではまだまだ学歴信仰が根強い。だが、そこから一歩でも早く目覚めて自力で稼げる技術を磨かせることが、楽しく稼ぐ子=働くのが好きな子に育てる第一歩なのだ。

会社に雇われるより自営したほうが儲けられるなら、雇われる必要などない。資本主義社会では自営で暮らす自信のない若者は学歴にすがって待遇の良い企業への入社を目指す。だが、職業能力や実績に自信のある人は早々と独立する。つまり正規雇用は本来、自営業を安定させることに自信のない弱者の選択にすぎないのだ。



「(下流層は)コミュニケーション能力、生活能力、働く意欲、学ぶ意欲、消費意欲、つまり総じて人生への意欲が低いのである。その結果として所得が上がらず、未婚のままである確率の高い。そして彼らの中には、だらだら歩き、だらだら生きている者も少なくない。その方が楽だからだ。」



衣食住がいつもあるのを当然と感じ、趣味や遊びにも満足なお金をかけて育てられた世代の子供たちにとっては、わざわざ苦役である労働に自分の時間や体を投げ出さなければいけない理由がピンと来ない。自分の趣味に時間とお金を使うことで、その趣味と向き合っているときの自分が自分らしいと感じてしまった世代にとっては、自分らしさから離れることは自尊心を奪われるのと同じであり、「酸欠」状態だからだ。



ファッション雑誌やテレビ番組でよく報じられるように、流行の服を着ることや毎年水着を買い換えることがおしゃれの基本だろうと、そんな「みんなと同じ」ことにお金を支払うよりも自分らしい趣味にお金を出すほうが楽だから、暮らしぶりは放っておくと自堕落になりがちだ。

その「自分らしい人生」がテレビゲーム三昧の日々だろうと、低収入のために家の外で友人と交際する機会を減らすしかない人生だろうと、「世間様には及ばないが、マイペースの人生で良いじゃないか」と思うことで自尊心を保つしかない。



現実での職場の人間関係は、学校で嫌いな人を無視してやり過ごすようなポーカーフェイスでは立ち行かないし、自分の仕事ぶりは常に同期の人たちと比べられる。



人と競争しながら自分の能力を磨くことに既に疲れきっていたり、人と争いながらも妥協点を探って絆を深めていけるようなコミュニケーション・スキル(交際能力)を鍛えるにも及び腰で、毎日同じ会社に通勤する規則正しい生活を維持する体力も根性も欠如しているという一群が、「エヴァ世代」の若者には珍しくないからだ。



プロは自分の高度な技術を取引先の企業に高く売るために、ギャラの額面を吊り上げていくことに腐心する。その結果、「IT弱者」には払えない額面になってしまうからだ。

そこにこそ、職にあぶれたニートたちが「自分にとって難なくできるレベルのもの」を発見する余地が生まれる。自分ひとりが食っていける程度の労働市場は自力で作れるのだ。誰もやらないことほど独占市場を作れるチャンスなのだから。



ネオニートは、世間体より自分の基準を優先してきた。世間体なんか気にして「普通並み」の暮らしを求めても、自分には無理そうだからあきらめ、不労所得→自営の道を歩いてきたのだ。その経緯を忘れずに、収入能力が同世代のサラリーマンの平均年収以上になった時点で世間に合わせた消費スタイルに変えていく必要がある。

自分が好きな古着を着て路上で歌っていたインディーズ・ミュージシャンも、メジャー・デビューしたらプロのスタイリストにお金を払って、自分の個性をもっと魅力的に見せる眼をあつらえてデビュー・アルバムのジャケット写真を撮影する。それが、「メジャー」に上るだけの商品価値があることを世間に証明する通過儀礼だからだ。

このように、自分が世間からプロとして認められるには、自分のできないことのできるプロにお金を払って自分を磨きながら、いろんなプロたちの輪に入って自分の存在を訴えていくことが求められる。収入能力や資産の増大に伴うべき変化は、消費スタイルだけではない。儲けの大きさに応じて会社法人化したり、せめて確定申告するなどの税申告の明瞭化を図ったり、IT関連だけでなく、IT以前のマスメディアとの連動を図って世間から認められるように振舞っていかないと、時代の変化で市場が頭打ちになったり、ライバルの追従を許してしまう。



人前に出る機会が増えればそれなりの服を買う必要が出てくるし、「安い定食屋の味しか知らない」というわけにはいかなくなる。だが、それこそが世間に合わせるということなのだ。そのように世間に受け入れられるように振舞えば、自分自身が社会的に存在価値が高いことを自他共に認められ、自分の仕事ぶりにもっと確かな自信を持つことができるようになり、新たに労働意欲が補填されるというわけだ。



稼ぐ速度はその人の自分の人生に対する責任感(自尊心)によってまちまちだ。



個人資産が莫大になれば、なるだけ広く社会(それも多数の弱者)に還元していく。このあり方は、不断の拡大再生産を余儀なくされる資本主義の最終形態(解脱)だ。だから、個人では使い切れないほどの資産ができれば、労働者から引退してもボランティアで社会に役立つために動くことだ。それが本物の成功者たちの人生といえる。



下流層は、物欲も性欲も食欲も弱い。人と競争せず自分らしく暮らせれば満足。





11/01/2007

オープンソースの開発とは?




オープンソースの開発とは?



オープンソース開発の特徴としては、スケジュールよりも、クオリティが重視されます。いつまでに作るのではなく、それを作り上げることが大事なのです。また、開発者がやりたいものを自発的に制作するので、完成させるためには勉強や実験といった努力も惜しまないのです。そして、無駄を気にしないというのも特徴のひとつです。普通の企業の業務なら、分散して効率よく作業するのが普通でしょうが、オープンソース開発では皆が同じ作業をしていることもよくあります。やりたいことをやって、出来のよいほうを採用するというスタンスなのです。



しかし、オープンソースにもメリットとデメリットはあります。メリットとしては、ソフトウェアの出来が最優先されるということ、開発者が自分で作業の方向性を決められるということ、作りたいものを勝手に開発できること、などが挙げられます。その半面、開発者が必要性を感じないものは出来が悪かったりします。また、きちんとしたロードマップやスケジュールの作成が難しいため、人材を無駄なく動かせることができないのも問題ですね。



オープンソース開発は参加強制力がなく、金銭的な利害も発生しません。それでもあえて開発に携わるということは、やる気があるということ。このように、自発的な心構えの優秀なメンバーが集まりますから、一般的なソフトライターとは異なる集合知に近い感じ、つまり今でいうWeb2.0に近い動きで仕事を進めることができます。ですから、出来上がるソフトウェアも必然的に質の高いものが多くなるのでしょう。



ただ労働集約型の開発など、オープンソースが向かないものもあります。また、オープンソースをよく知らない人との溝が深く、そのよさを理解してもらうことの大変さがありますが、最近ではオープンソース開発をビジネスで取り入れる企業も出てきたので、啓蒙活動次第で解消することは可能だと思います。



「いかに開発すること自体を楽しめるか」が、クリエーティブな開発現場には欠かせないと思います。開発者がやりたいことをやらせてもらえる、命令を受けた業務から自分なりに面白さを見いだして取り組むなど、楽しみ方は人それぞれでしょう。オープンソースはどこまでも追求して開発していくことができます。ビジネス的な制約があまりなく、深追いできるような現場が理想的ですね。

10/31/2007

留学で人生を棒に振る日本人/栄 陽子


留学で人生を棒に振る日本人/栄 陽子



中国やインドの人たちがアメリカの大学に留学するのは、より高いレベルの学歴を身につけて母国でステップ・アップするためであり、アメリカで人脈を作ることによって高い地位を獲得すること、そして母国の発展に寄与することを目的にしています。



決断力と行動力と勘が良ければ、集中力と記憶力と自己管理力がちょっと劣っていても人生の致命傷にはならない。



アメリカの教育

・大学の数が世界一多く、しかも日本の大学のように理系、文系、芸術系、体育系に分かれていない。

・専攻をふたつ取ることも可能で、音楽と物理など全く違う分野を同時に専攻することができる。また、パフォーマンスを大事にする国柄から、音楽や演劇、美術などの芸術分野はどの大学にもあり、まったくピアノを弾いたことがない人でも音楽を専攻することができる。

・医学、法学、獣医学、歯学、カウンセリングなど大学院からしか始まらない学部がある。

・国家ができる前からハーバード大学などの私立大学があり、州立の歴史は私立と比べて短い。

・私立大学は社会のリーダーを養成するための「全人教育」を大きな理念としている。全人教育とは、人格的な高みを目指す教育で、理系や文系に分けることなく様々な教育を受けて、芸術を愛し、科学に興味を持ち、スポーツができ、法律や経済について語れるような、芸術を含めてあらゆる分野の人間を育てることを目的としている。

・州立大学は新しい州の開拓民の教育水準を上げ、開拓の援助ができるように農業や工業などの実学を中心とした。

・州立は日本の公立高校のシステムに似た方式が採られていて、ひとつの州に、レベルの高いところから誰でも入れるようなレベルのところまでがある。自分が住んでいる州なら必ず入学できる州立大学があり。

・それぞれの大学に独自の入学基準があり、原則として入学テストはなく、書類選考が基本。全国的な学力テストはアメリカにもあるが、それで足切りをしたり、学力テストの結果のみで合否を決定するのではなく、あくまでも入学基準の一要素としている。

・私立大学は成績やテストの点数だけでなく全人的な要素を見るため、エッセイ、推薦状、面接などを重視するところが多い。成績やテストの結果を見る時も、上位グループから20%、その下のグループから10%、さらに下のグループから5%というように、バラエティに富んだ生徒構成にしないとディスカションが活性化しないと考える大学が多い。

・州立大学にも、自分の州の学生を必ず入れるほか、州内にあるすべての高校からトップクラスの生徒を中心に入れるというところ、黒人や中南米からの移民を10%程度入学させると決めているところ、親が大学を出ていない学生を10%程度入学させると決めているところなど、様々な入学基準がある。

・何より「バラエティとバランス」を好むため、大学生の出身校が偏ることがなく、同じ大学から大学院に優先的に入れることもない。エスカレーター式は、アメリカではあり得ない。

・昔から交通手段がない場所に大学があるため、もともと自宅から通えなかった。また、先生と学友と一緒に住んで勉強することで人間関係を学び、親離れをすることが大切とされていたので、今でもアメリカの大学のほとんどは寮制になっている。

・学期はセメスター制といって9~12月、翌年1から5月各16週間のふたつの学期で一年とするのが一般的で(三学期制の大学もある)、それぞれの学期に入学と卒業があるなど、完全に独立している。つまり、9月入学もあれば1月入学もあり、日本の大学のように前期と後期の通年で同じ授業を受けるという発想がない。

・日本のような入学式もなければ、親切なオリエンテーションもない。入学すると、すぐに授業がはじまってしまう。

・大学は単位制で、各学期で12~18単位とることができる。早く単位を取れば、三年や三年半で卒業することもできるが、ゆっくり単位を取って五年で卒業もよい。

・ひとつの学期が16週間で、8週間ごとに中間、期末テストがあるため、とてもめまぐるしい。

・大学で成績が二学期続けて四段階評価のC評価平均、大学院でB評価平均を下回ると、退学になる。大学院への進学や、一流企業の就職を目指すには、大学でもB平均をしていることが不可欠。

・大学や大学院を卒業するためには必要な単位数は、大学で120、修士課程で30~60、博士課程で90.多くの大学は卒業に必要な120単位のうち、60単位はどこから持ってきてもよいとされ、留学生は母国の大学で取った単位を認めてもらえる。



留学は、やる気、学力、心身ともにタフであること。



習得能力のよさだけでなく、物事を深く考え、自分なりの考えをまとめることができる能力を持ち、そして努力することを苦としない子どもは、どんな会社に入っても、どんな国へ行っても、そしてどんな時代になっても困らないものです。



私が留学を若い人たちに勧めるのは、何より自分の目で他国での生活を通して、日本を見つめ直して欲しいからです。そして、日本でしか通用しないような価値観をひっくり返し、自分の足で生きていく力を身につけて欲しい、そんなことも思ってます。

留学ほど、スリルと興奮とサスペンスに満ちたものはありません。価値観も習慣も違う人達とうまくやっていきながら、自分の意思を通す強さも必要なら、学校が要求する単位をしっかり取るために厳しい勉強を続ける努力も必要です。遊びたいという気持ちとも闘わなくてならないし、自分の甘さや至らなさを突きつけられても、それを受け入れつつ、そこでめげずに頑張る意地も欠かせないでしょう。

親元を離れて遠い外国で勉強し、卒業を迎えるためには、多くの精神的苦痛が伴います。しかし、それを乗り越えて得られるものこそが生きる力であり、自分に対する自信ではないでしょうか。

また、外国にいると自分の国や家族、そして自分自身について客観的に、そして深く考えることが多くなります。「愛国心」と言いますか、自分の国のよさは、外国に出て初めて知ることも多々あるものです。これは、とても大切なことだと思います。




10/30/2007

感動をつくれますか?/久石譲





久石譲 感動をつくれますか?





創造力で大きな仕事をしている人たちは予定調和を嫌う。

「作曲家として最もプライオリティを置いていることは何ですか?」と問われたら、僕は迷わず「とにかく曲を書き続けること」と答える。



仕事は”点”でなく”線”だ。集中して物事を考え、創作する作業を、次へ次へとコンスタントに続けられるかどうか。それができるから、作曲家です、小説家です、映画監督ですと名乗って生きていける。



優れたプロとは、継続して自分の表現をしていける人のことである。

一流とは、ハイレベルの力を毎回発揮できることだ。

確実にたくさんの曲を作り続けていくことは、気分の波に流されない、という意識が僕には強くある。



結局、いかに多くのものを観て、聴いて、読んでいるかだ大切だということだ。創造力の源にある感性、その土台になっているのは自分の中の知識や経験の蓄積だ。そのストックを、その絶対量を増やしていくことが、自分のキャパシティ(受容力)を広げることにつながる。



ドラマのストーリーも音楽のメロディも、通俗的すぎるくらいのほうがインパクトが強いことがある。つくり手がへんに気取っているようなものは、人間味が感じられず結構つまらないものになりやすい。あざとくても、下世話でも、そういうものが求められているのならば、堂々とやりきってしまうほうがよい。



楽な人生などない。みんな何かしら人知れず苦労しているものだ。だから自分から進んで苦労する必要はない。苦労自慢をする人には、自分を冷静に見つめる第三の脳、客観視能力がない。ひいては、知性が感じられない。

普通の苦労は人間の幅を広げることにはならない。幅を広げたかったら、知性を磨くことと本当の修羅場をくぐりぬけることである。



才能豊かな人は劇薬みたいなものだ。プラスの影響力も強いが、毒もある。間違えて服用したら死ぬ。そういう人たちと互角に与していくにはそれ相当の覚悟が要る。専門的な能力が試されるだけではない。強靭な精神力が問われる。

ものをつくる人間に必要なのは、自分の作品に対してのこだわり、独善に陥らないバランス感覚、そしてタフな精神力、この三つだと思っている。どれが欠けてもうまくいかない。



音を出すことで何を伝えたいのか。音楽をやることで表現しなければならないのは、そこだ。ところが、技術的なところで自分の立派を追い求め、そこに価値を置いているだけだと、どんなにうまくても、音楽にはならない。ピッチやリズムではない。



「トップの地位に登りつめたことのある人間は、根本的に何かが変わる」



僕は、一等賞を取ることが人間としての目的だとは考えないし、勝ち負けの結果や人の序列といったものにも意義を感じてはいない。むしろ、そんなものは人間の本質とは関係ないと思っている。だが、結果としてトップを取るだけの力を持った人は、精神的に誰よりも強さを身につけているということは歴然たる事実だと思う。他者との戦いに勝てる力のある人は、自分の身にふりかかる難題やさまざまな誘惑も克服していけるだろう。今日のように行く先を見据えにくい時代には、そういう強さを持つことが有益なのではないだろうか。





10/29/2007

意地悪な人





意地悪な人





意地悪な人は、たいてい仕事はしない。自分の与えられた最低限の仕事はするとしても、他の人まで助けるようなことは絶対しない。

仕事をしないから意地悪が際立つ。

職場と言うのは利益共同体だから仕事さえできれば迷惑な人ではないから、意地悪が意地悪とならない。



意地悪な人は、「自分は正当に評価されていない」とか「不本意な仕事をさせられている」と思っているから、悪循環として仕事以外の方面に気持ちが肥大してしまっている、というわけだ。

そういうことにこだわるということは、意地悪な人はじつは人一倍権威主義者であり、上司の目をとても気にしている。

当然、気も小さい(豪快で意地悪な人というのは聞いたことがない)。

これらを総合すると、意地悪はその人自身の自由意思の次元を超えた現象ということになる。

大きな不安を抱えている人が明るく振舞おうとしても振舞えないのと同じで、その人の中にある職場への不平不満が、その人の行動を、意地悪へ意地悪へと歪めてしまっているのだ。



10/28/2007

「独行道」宮本武蔵




「独行道」宮本武蔵

「独行道」は、武蔵が自ら墨書して壁に張り、
座右の銘として常に自戒していたものとして知られています。

一、世々の道にそむく事なし
一、身にたのしみをたくまず
一、よろずに依怙の心なし
一、身をあさく思世をふかく思ふ
一、一生の間よくしん思わず
一、我事において後悔をせず
一、善悪に他をねたむ心なし
一、いずれの道にもわかれをかなしまず
一、自他共にうらみかこつ心なし
一、れんぼの道思ひよる心なし
一、物事にすきこのむ事なし
一、私宅においてのぞむ心なし
一、身ひとつに美食をこのまず
一、末々代物たる古き道具所持せず
一、わが身にいたり物いみする事なし
一、兵具は格別、よ(余)の道具たしなまず
一、道においては死をいとわず思ふ
一、老身に財宝所領もちゆる心なし
一、仏神は貴し仏神をたのまず
一、身を捨てても名利はすてず
一、常に兵法の道をはなれず

10/27/2007

太気拳で挑む 高木康嗣




太気拳で挑む 高木康嗣


 文明と科学技術が進んだ現代は理論を最優先する。人間が元々持っていたはずの感覚はどんどん鈍っている。頭で理論的に考えるのはいいことだが、これは左脳だけが活動していることで、非常にバランスが悪い。アンバランスな人間が多くなっているのだ。このまま進むとオウムのような団体がこれからもたくさん出てくるだろうと危惧しているのだが。
 私は現代人にもっと感覚を磨いてほしい。身体で感じられる人間になってほしい。人間としてのバランスを磨いてほしいのだ。そうなれば何が善で何が悪か、環境問題も含めて当たり前のようにわかってくるはずである。
 太気拳はそういった感覚を磨いていく武道である。私はこういう点からも、これからの時代、ますます太気拳が必要とされていくものであると信じて疑わない。


『男には世間が認めるものが3つある、と。一つは金。あとは頭脳。もしくは力、腕力だ。この3つのうちひとつもないと惨めなもんだよ』


『金というものはワシも腐るほど持ったことがあるが、だまし取られたり、落としたり、なくしたりして、身に付かないもんだよ。ところが岩間君、どんなに落としたくても落とせないもんは何かね? 人間の持つ人格。寝ていて人格を落とせるか?それと技だ』

生きること、闘うこと 太気拳の教え





生きること、闘うこと 太気拳の教え 岩間統正


「お前が悪い、と人差し指で人を指差したとき、残りの三本の指は自分を指差している」という箴言がありますが、人を批判するときは、三倍自分が批判されなければならないという戒めです。
「人の振り見てわが振り直せ」。あらためて、他山の石としたいものです。


無我の境地に立って、乱れない心で闘うためには、完全な格闘哲学を自分のなかで確立していなければなりません。
自分の戦略、戦術、技が絶対に通じるという信念が必要なのです。
ほんのわずかでも不安があると、そこにはかならず乱れが生じます。そして、迷いが生まれて、集中力が崩れ、能力を発揮できないという結果になります。これが、格闘技でもっともだいじな部分なのです。
人と闘って、人を制するには、戦略と技術が必要です。戦略がきちんと相手に対して確立していないと、無駄が多すぎて、いい結果が得られません。そして、戦略を完遂するためには、綿密な技術の裏づけが必要です。これは訓練によって満たすしか方法がありません。
したがって、「武道の練習というものは、理想的な戦略を具現化するために必要な技術を、いかにして習得するか」というところが「急所」になります。


ベストなのは、相手が攻撃を仕掛けようとした瞬間に間を潰すことです。瞬間に間を潰して、相手の力がまだ二か三のところで迎え打つ。


瞬間に間を潰すためには、目に頼るのではなく、高度な技術と、充実した神経を持っていなければなりません。太気拳の「構え」が、つねに相手の行動に対応しているというのは、この原理を具現化するための、もっとも理想的な動きだからです。


太気拳では、「蹴りは手を補助するもの」として使います。たとえば、手と手がお互いに触れ合った「推手の型」になったときに、「三番目の手」として蹴りを使うなどが有効です。

10/26/2007

快楽なくして何が人生




快楽なくして何が人生・団 鬼六

私の身体はガタがきているのか確かなんですが、気持ちだけはどういうわけか年を取れないんです。
それは私が若い頃から楽天家で快楽中心主義の人間だった故かもしれません。
快楽主義で世を過ごしてきた人間は気持ちだけは老け込まないのです。

人口が密集し、猥雑なものが絡み合い、犯罪が多発する中で排気ガスを吸いながら快楽を求める老人というのは絵にもなるし、詩にもなるということです。

大体、老人は年をとればとる程、温和になってきて、のんびりした暮らしを望み、老人ボケになっていくのが普通だが、快楽教団では年をとればとるほで、狡猾になり、卑猥になり、やくざっぽく仕上げていく。

10/25/2007

外貨崩落/松田哲




外貨崩落ー生き残る人は知っているもう一つのシナリオ/松田哲



先々「ドル高円安」になることが予想される場合には、外貨預金をすれば、為替差益を得ることができます。

逆に、「ドル安円高」になることが予想される場合には、インパクト・ローンを組んでそれを円転し、円預金すれば、為替差益を得ることができます。

このように、為替差益リスクは、損得が表裏一体の”諸刃の剣”でもあるのです。



円キャリー・トレードのバブル崩壊のリスクとは、「円高リスク」に他なりません。



堅強な気持ちを持ちつつ、傲慢な気持ちを持たないとダメです。

そういった、あい矛盾する事柄をアウフヘーベン(止揚)していかないと、結局は、相場で生き残れないことに気が付きます。

アウフヘーベンとは、哲学用語で、あい矛盾する事柄をより高い次元で、どちらも生かすことを言います。矛盾する諸要素をよる高い段階で、発展的に統合することです。



外国為替取引は、金利差を狙うのではなく、キャピタル・ゲインを狙うこと、-つまり、トレンドを狙うこと-で利益に結び付けるべきだ、と考えてます。はっきり言えば、金利差は、”おまけ”に過ぎません。

しかし、外国為替取引は、金利差を狙うのではなく、キャピタル・ゲインを狙うことを目的にすれば、外貨の価値(価格)が下落する場合でも、利益を追求することができるようになります。



つまり、リスクをリターン(利益)に変える発想で、キャピタル・ゲインを目的として「外貨売り円買い」を行うことです。



・ 円キャリー・トレードが強いと、ドル/円取引を避けた方がよい状況になる。

・ 円キャリー・トレードが強いと、ドル/円取引での「円高」が打ち消される。



相場は、いつも勝てるはずもなく、必ず負けるときがあります。

「ポジションを調整すること」は、体勢を立て直すために必要な、そして、とても重要なテクニックです。

ポジションを調整することは、リスクをコントロールしている状態であり、マーケットの値動きに対応している状態です。



相場が大きく動いた後の調整局面では、持ち合い相場を形成しやすいので、一定の値幅の中で、上限と下限をつくり、その範囲内で、何回も上下動を繰り返す値動きになります。

持ち合い相場に望む場合は、「その上限では、売り」「その下限では、買い」を行うことが原則です。

これを「逆張りオペレーション」と呼びます。

しかし、その戦術は、持ち合い相場がブレイクするときに必ず損失になります。



売りのタイミング

サポート・ラインの外側のAまで下落したら、いったん『買い』は撤退

Aでの『売り』が損切りになるとしても、いとわない。

トレンド・ラインを割り込んだので、損切りを行って、ポジションをスクエアにする。



売り相場で利益を上げるテクニック

再び持ち合い相場を形成する可能性があるので、AからA’のゾーンでは、まだ買い場探し。

チャート・ポイントを完璧に割り込んだBで、『売り』に転じる。

さらに下値のC、Dでも『売り』を挙行。ストップ・ロス・オーダーを近づけてリスクを限定させる。

10/24/2007

投機学入門/山崎和邦







投機学入門【不滅の相場常勝哲学】/山崎和邦



 



 ギャンブルは、客観的に見ての確率が二分の一またはそれ以下のものに主観的判断で利があるとして投ずることを言う。したがって、本人は二分の一とは思っていない。勝率八~九割だと思っている。だからギャンブラーの物の見方は客観性が乏しい。それを承知でやっているのがプロのギャンブラーである。それに気付かずにやっている「ギャンブル常習者のキャラクター」・・・・。



 



日本では、立派な学者は投機などするものではなく、また、投機をする人は少し怪しげな連中であり、経済学者ではないと思われているふしがある。しかし、欧米では違う。マーケットで本当に儲けてみせる人こそ大経済学者なのだ。また、そういうことのできる人物こそ教養人なのだ。



 



投機で儲ける人は、一言で言うと本当の意味での教養人である。ここで言う教養とは日常生活や人生のあり方に対する真摯な態度であり、ある目的のために必要ならば禁欲もし、怠惰や放漫を抑え、自分を律して行動の目的整合性を堅持していく生活態度だ。



 



 アメリカのフォーブス誌が投機で儲けた人々の人物像を紹介したことがあるが、彼らは皆、儲けたお金を湯水の如く使えるはずなのにそうはせず、質実剛健に生きてマスコミを避け、「自由」を求めて自律的に生き、揃って読書家だったという。



 



 投機家とは、法令遵守や品行方正は当たり前のことで、紳士とは計算してリスクを取る人のことなのだ。



 



 お金は物を買うためのものではなく、精神の自由を確保するための糧である。「やりたいことをやれる自由、やりたくないことをやらないでいられる自由」である。



 



投機とは、「機というある一点において、不確かな情報のもとで的確な判断をなし、合目的に全知全能を集約させる意欲的、情熱的行為」なのである。ひらたく言えば、あるチャンスを勇気を持って判断して捉え、それに向かって本気で、全力を投ずることなのである。投機の精神と言うのは、マーケットの実践に関するだけでなく、広く日常生活の効率的行為の論理であり、能率的行動の実践の倫理であると言えるだろう。



 



 賢者はベーシックな仕事を持った上で投機する。



 酒量を控えて冴えた頭で灯火に読書三昧の時を過ごす。そして次の機会を待つ。これが投機家というものだ。



 



 株価はすべてを先見(三ヶ月~八ヶ月)している。



株式市場は、将来生じる大変化に半年か一年の時空を飛び越えて先行し、万人の眼前に、事前に示現して見せた。



 



 投機で成功している人が必ずしも自分自身を完全に知り尽くしているわけではない。しかし彼らは、自分の直感したことと異なっていれば、直ちに投機行為を撤収する行動力を身につけている。つまり、自分の砦の中に引き返すことができるのだ。これは行動力という部類に属するものだが、これまた貴重な自我なのだ。己を知ることなしに株式市場に走って証券マンの勧めるままに売買し、後で証券マンを恨むのは筋違いというものだ。恨むなら、「己を知らなかった己自身」をこそ恨むべし。



 



 嫉妬とは、自分が持っていない富、権力、能力を他人が持っていることに対する憎しみの感情である。この感情は他の感情と違ってまったく不毛のものだ。何も生まない。すべてを枯らす。



 



『君主論』も、善玉悪玉を問題にするのではなく、善玉でも悪玉でもパワー(人に対して自己の意思を実現させる作用力)のある者の用い方を工夫すべきだと説いているのだ。用いた結果の効果のあり方が大切である。だから、「悪玉のパワーをよい目的のために利用する」という意外な発想が出てくる。



 



ポール・ハーシーとケネス・ブランチャード共著「行動科学の展開」のなかで、パワーの定義として「他人に対して、自分の浴することを行わしめる力」と定義している。また、彼はそのなかで、リーダーシップの源泉はパワーにあると説き、そのパワーを7つに分類した。



1、人格、人柄に拠っているパワー



2、専門的技能、知識に拠っているパワー



3、情報力のパワー



4、恐怖と規制力のパワー。リーダーがこのパワーを発揮しないことをフォローワーは望む。



5、特定の人脈とのコネクションから生ずるパワー



6、褒章力のパワー。必ずしも金銭的報酬とは限らない。評価する、認めてやるなども含む褒章力。”士は己を知る者のために死す”などはこの極致。



7、制度上、正当と認められる地位により発揮されるパワー



 



とかく世間は、リーダーシップは「よいもの」で、権力は「悪いもの」としがちである。だが、リーダーシップとは、権力の源泉として一種の表現形態なのであり、力量などの表現であるパワーを淵源とするワザなのだと考えられる。



 



通常、権力とはいやな響きを持つ。だが、これは「むきだしの権力」に対する印象であって、現代の権力はこんな幼稚なものではない。「権力は存在しないと信じられているほど権力者にとって有利なことはない」ことを知っている権力である。



 



必然と偶然の区別、予知能力と運との区別、これらは、知識・情報・知性などの程度により、偶然は必然となり、運は予知能力内のことならないものか、という挑戦が生ずる。この挑戦意欲の少ない者は、全てを運や偶然のせいにして、自分の怠慢・努力不足ゆえの損を自ら慰める。



 



ケインズは株式投資によって60億円相当を儲ける前に何度も大損をした経験がある。このとき彼は、投機したことや損したことを悔いたのではなく、偶然の働きを事前に見抜けなかった自分の知性の低さや知的怠慢を悔いたのだ。彼が蔑んだのは投機で大損した人々ではなく、知性も努力もなしで投機をする人々であった。



 



KKD(経験・勘・度胸)と言って、これらを現代的O/R(オペレーション・リサーチ)の世界では軽蔑しているが・・・・、



本当は極めて重要で、投機する人はこれを養うべく日々精進する必要がある。また一方ではO/Rの考え方、数学的方法も同じくらいに大切なのである。どちらが重要かということでなく、相互に補完し合う関係である。



 



日本の経済力を悲観して、時代の趨勢的変化と長期衰亡とを混同するような人は投機家には向かない。



再び繰り返そう。日本国を悲観しないという基本的な人生観や史観に支えられて、常に買い手であれ。「投機家に厭世主義者はいない」「アメリカを売って成功した投資家はいない」「世界に、悲観の資本主義というものはない」「筆者は言う。「常に買い手であれ」と。



 



大損を回避するための10項目自己判断チェック



1、人の情報や説を鵜呑みにする人



「鵜呑みは長良川の鵜に任せよ」



2、信念に固執する人



「信念を説くのは新人研修の教室だけにしておけ」



3、ズボラな人



「小利口じゃできない、バカにはできない、ズボラな奴にはなおできない」



4、 意地を張る人



「張るべきものは相場であって、意地でもなければ障子でもない」



5、自信家の人



「あ、危ない。その自信が大損を招く」



6、夢を語って歩く人



「ここは受験予備校じゃない。夢は賭場の外で語るべし」



7、悋気・嫉妬する人



「般若の面が嫉妬の顔だ。よく見よ、これが成功するか」



8、相場と戦う人



「胴元は人にやらせておけ」



9、成功に酔う人、驕る人



「驕るなよ、丸い月夜もただ一夜」



10、それは自分である



「そういう俺もあと一歩でヤバイ。ヒヤヒヤ」



 



 本間宗久・三位の伝



「わが三位の伝を体得せんと欲せば、迷うて、迷うて、迷い抜くべし。その迷い抜きたるところ、それ即ち三位の伝なり。」



 



 「儲ける者は、語らず。語る者は儲けず」



「投機家にとって最大の敵は無知、欲、そして恐怖と希望の感情である」



「相場の醍醐味は自分の予想が正しいことを、自分の頭を使った作業の結果が間違っていないことを確かめることに尽きる」



「ゲームの目的はお金ではない。モノを買うためでなくゲームに勝つためのお金なのだ」



 「いつやめるかを知っている者は天才である」(ゲーテ)



 「人生は長い。よって遠くまで行け。そして世界を見よ」



 



投機家にとって必要不可欠な資質は、鋭く深い思索を重ねることができるかどうかである。



 



 投機活動中の不安や緊張に耐え、自分を律し、怠惰や放漫を避けて自分の言動の目的合理性を堅持していく。彼はこうした自律生活に興味があり、投機で得た巨富を贅沢な消費に使うというようなことはまったく興味がないようである。ソロスの生活態度は、日本剣道や欧州最強といわれるハンガリーに伝わるマジャール人伝来の騎士道精神か、またはソロスに流れるユダヤの血が持つDNAたる目的整合性の精神が強く前面に出ているように感じた。



 



 

10/23/2007

60分間・企業ダントツ化プロジェクト





60分間・企業ダントツ化プロジェクト 神田昌典


自分のビジネスが成熟してしまったとき、どうすればいいか?

方法1:専門化する
方法2:より速く商品(またはサービス)を提供する
方法3:パッケージ商品を販売する
方法4:成長している媒体に乗る(小判ざめ商法)
方法5:ナマケものの欲求を満たす
方法6:コストを大幅削減する
方法7:こだわり商品に特化する
方法8:社会的ミッションを持った会社をつくる(NPOモデル)


ネーミングについて解説することが本書の趣旨ではないので、この辺で終わりにしておくが、効果的なネーミングをつくるうえで、重要なステップを挙げておくと次のとおりである

 1 ネーミングを聴いたとき、お客にどんな印象を持ってもらいたいか、具体的に描写する。その際、視覚イメージ、音、そして感情を表す単語を入れておくこと。

 2 ネーミングの目的をはっきりさせること。例えば、電話番号で検索されたい、売っている商品を直感的にわかるようにしたい等。

 3 上記を考えながら、思いつく言葉をとにかく全部書き留めていく。これがキーワードになる。そして重要なキーワードを○で囲み、そのキーワード同士を組み合わせてみる。

 4 前ステップのキーワードの組み合わせのなかから、ネーミング候補をつくる。そして、次の観点からチェックする。
 ・直感的にわかるか?
 ・使いこなせそうか?
 ・目的に合致しているか?
 ・馴染みのある言葉か?
 ・口に出して言いやすいか?
 ・記憶に粘りやすいか(一度、聴いたら、忘れないか、そして人に言いたくなるか?)
 ・イメージを想起しやすいか?

 5 候補を絞り込み、そして一晩置いてみる(その間、ネーミングが熟成する)。

 6 腹にしっくりと落ち着くかどうか、身体感覚で判断する。いい方法は、電話の受話器をとって、次の○○○○にネーミングを入れて言ってみる。



顧客を連れてくる影響力のある顧客は誰かを考えると、上りのエスカレーターに乗り込める。

企業にとって差別化は善であり、均質化は悪である。丸い会社を目指すのではなく、尖った会社をつくることである。
尖った会社を嫌う客は当然出てくる。誰からも嫌われないということは、すでに危険信号が点滅している。



ステップ1 商品
      今後、ブームになっていく商品であり、しかも説明不要なので、一人歩きして顧客を連れてくる。さらに、ひとつが売れると関連商品に広がっていく上りのエスカレーター的な商品を選択。

ステップ2 顧客
      説得しなくても、向こうから「売ってくれ」と頼んでくる。さらに、次から次へ、知り合いを引き連れてくる影響力を持つ顧客を選択。

ステップ3 競合
      戦わずしてトップになれる、のほほんとしたニッチ市場を選択。

ステップ4 収益シュミレーション
      商品粗利のなかから、ビジネスの成長を確保できる無借金経営モデルを選択。

ステップ5 タイミング
      顧客のバーゲンセールがいつ開催されるかを見極め、そのバーゲンセールで、金の卵を産む鶏を安く、大量に仕入れる。

大儲けの極意/岡部寛之





大儲けの極意/岡部寛之



サラリーマンたるもの、定年まで現在の金にして一億の資産はつくっておかなければ、悲惨な老後を送らなければならない。だから億万長者になるまでは、ゆめゆめ心をゆるめてはいけない。土地を買おう、家を持とうなどと若いうちから他人の真似をするようではだめだ。

なに、長いことではない。一時の辛抱だから会社勤めのほかアルバイトもやり、女房も働かせ、住まいは寝るだけのつもりで家賃の安いところでいい。そしてボーナスは全部注ぎ込んで資金をつくる。できるだけ若いうちに資産づくりを開始することだ。

株で儲けたからつかう、という考え方も賛成できない。もちろん、人生を楽しむための金儲けなのだから、資産が増えるにつれて、だんだん生活水準をあげていくことはかまわない。だか、忘れてはいけない。必ず儲けた分より遅らせて水準を上げていくことだ。一度上げてしまった生活水準を、引き締めるのは極めて困難なことなのだ。



金もないのに見栄をはって飲むのは馬鹿げている。いいカッコして金を使うのは、バカがやることだ。女は、客の顔が一万円札に見えるからチヤホヤするだけなのだ。



わたしがこればで独身で過ごしてきたのは、他人と深い関係になることを嫌ったからだ。人生の悩みの99%は、血のつながりが原因だ。結婚して子供をつくるということは、みずから悩みのルツボに身を投じることになる。



「話し相手もいない外国で老後過ごすのは寂しい」という人も多いが、話し相手といってもほとんどの人は過去の出来事を話題にするだけだ。過去を語るのは愚痴というもので、そこから未来は引き出せない。


10/22/2007

富裕層ビジネス/中谷彰宏









富裕層ビジネス/中谷彰宏


お金を使ってもらうのではなく、使い道を教えてあげよう。

「昔からの富裕層」と「最近の富裕層」を区別しよう。

「お金持ちに見えないお金持ち」に気づこう。

美的センスで勝負しよう。

「買い物や観光以外の旅行の楽しみ」を提案しよう。

「時間のある富裕層」と「時間の無い富裕層」を区別しよう。

「高いけど速い」サービスを作ろう。

「自己顕示欲がある富裕層」と「自己顕示欲の無い富裕層」を区別しよう。

「儲かる以外のメリット」を提案しよう。

損得より、豊かさと潤いを提供しよう。

その人のコンセルジュになろう。

商品より自分を買ってもらおう。

「富裕層」と「準富裕層」を区別しよう。

儲けをあせらない。

支払いが、手切れ金にならないように気をつけよう。

プライバシーを重んじよう。

投網でなく一本釣りをしよう。



銀座には「長く通っている人」と「今、旬な人」がいる。

お金があっても時間がない。

モノを希少性や見栄で買う人は、モノ自体に興味ない。

「お金を持つ前から意識している人」と「お金を持ってから意識する人」がいる。



ハッピーを売るのがビジネス



庶民は、王様にもにも大悪党にも出会わないので、見ている幅が狭い。金持ちは、人間を見る目が肥えている。



お金があるときは強くても、貧乏になると急に弱くなるのは準富裕層です。

真の富裕層は、お金があろうがなかろうが、いつでも一から出直して生きていく力があります。

教育という形の目に見えない財産を、たくさん持っているのです。

さらに、無一文になっても助けてくれる友達が、世界中にいます。

無一文になった途端、まわりみんなが敵になるのは準富裕層です。

富裕層は日々の消費活動を通して、たとえ無一文になっても食べさせてくれるような友達を、たくさんつくっています。

つまるところ、みんなから「あの人はお金があってもなくても面白いね」「一緒にいると楽しい」「元気出るよね」と思われる人間力があるのです。




10/21/2007

外国為替取引の勉強



「FXで稼ぐ人はなぜ1勝9敗でも勝つのか?/松田哲」




外国為替取引の場合、売買を繰り返しながら、利益を積み上げていくことです。



1、利回り10%から20%をめざす売買方法

あまり売買頻度を上げずに、1,2円程度の勝ちを狙います。極端に言えば、それを一回出来れば、目標達成です。

あるいは、一回目で負けても、2勝1敗ならば、目標達成です。利回りを年間で考えれば、1年で2,3回取引をするだけで、目標達成です。



2、利回り30%から60%をめざす売買方法

もう少し売買頻度を増やしますが、増やせば負ける可能性も高くなります。1ヶ月に、2,3回の取引が目安になります。

外国為替市場には、トレンドがあります。トレンドに従って売買することを基本スタンスにするのがよいでしょう。

「売り」でも「買い」でも戦おうとするのではなく、勝つ可能性の高いところを探して、「どの水準で取引を開始するか?」を考えるように。



3、利回り100%をめざす売買方法

リスク&リターンの「1対2」を考えながら、売買頻度を適度にコントロールし、利益を着実に積み上げることが重要です。

必ず、負けるときがありますから、その場合は躊躇せず「損切り」を励行することが大切です。



10万円で3円の利益で+30万円

それを10回出来れば、300万円-→年間目標にする



1月頑張る

2月もっと、頑張る

3月もっともっと、頑張る

4月後半のGWに備える→GWはポジションを取らない。イースーターも休憩。

5月GW明けから頑張る

6月しっかり、頑張る

7月夏休み→7/4スタート

8月夏休み

9月頑張る

10月もっと、頑張る

11月もっともっと、頑張る

12月クリスマス=何もしない

10/20/2007

英語を学べばバカになる


「英語を学べばバカになる グローバル思考という妄想」薬師院仁志著(光文社新書)


下からの民主主義を揚げる社会において、上から押しつけられた秩序は好まれない。人々は、そのような規制や枠組みを最小限にしようとする。逆に言えば、すべての個人や集団が自由に振る舞うことができればできるほど、その社会は民主的だということである。まずは、自由ありきなのだ。とは言え、誰もが自由に振る舞うとなると、当然のことながら、争いや衝突も多くなる。それぞれの者たちの自由な意思や行動が、相互に対立してしまうのである。だが、下からの
民主主義を旨とする社会では、たとえ対立が起きても、上から仕切る力は弱い。そこで、裁判が多発することになる。かくして、アメリカは、世界に類を見ない訴訟社会になったのである。


ヨーロッパ型の民主主義思想では、何が正しいのかは全員に共通のルール(一般意志の表現)の中で定められるべき事柄であって、個別の争いの中で決めることではないのである。全員が同じ約束事に従うことが民主主義の原則なのであって、裁判に負けた方が勝った方の個別意志に従うのでは、民主主義にならないのだ。ただし、ルソーの考える民主主義を実現するためには、立法者という特権的存在を必要とする。アメリカ流の民主主義は、この特権的存在を認めないか、せめてその力を最小限にしようとするのである。何が正しいのか。アメリカにおいて、それは上から押しつけられることではない。それを決めるのは、異なる意見を持つ者同士が互いに自説をぶつけ合う直接対決である。言わば、ヨコの争いなのだ。進化論を主張するにも、裁判で勝たなければならない。こうなると、もはや何が正しいかではない。勝つか負けるかの二分法なのだ。まさに、勝てば官軍の世界なのである。ソ連が正しくなかったかということが、すなわちアメリカが正しかったのだという奇妙な論法もまた、ここから生まれてくる。アメリカでは、何事も、単純な二分法に還元されてしまいがちなのである。


だから、アメリカの社会で自分の自由を守るためには、自らが闘わなければならない。上からの秩序枠組みを当てにできない以上、人々は自らの力で自分の立場や利益をつねに主張し、発信しなければならないのだ。その結果、アメリカ人たちは、つねに強い自己主張を前面に押し出さねばならないだけで
はなく、コミュニティーを作り、教会を作り、NGOやNPOを作り、数を集めて徒党を組み、自分たちの意見や立場を発信し続けることを余儀なくされる。そして、そこでの議論は、「ディベート」という名の言い負かし合いの形を取ることになるのである。


だが、アメリカ的発想は、平等を犠牲にしてでも自由を重視し、上からの指導に対する服従を嫌う。共産主義は、たとえ平等を保障しようとも、アメリカ人から見れば、自由に対する国家的抑圧でしかないというわけである。ドイツ人やフランス人が、イラクの民主化を、上から、啓蒙的な統治によって始めるべきだと考えたのに対して、アメリカの多数派が、独裁者の追放と自由選挙によってそれを一挙に実現しようとした理由もまた、同様である。アメリカは、上からの民主化を拒否したがゆえに、戦争を選んだのだ。アメリカ型の民主主義は、よくも悪くもそれしか考えられないのである。


いずれにせよ、ヨーロッパ人の目には、アメリカ型の民主主義が、かなり原始的なものに映るだろう。


何でもかんでも下からの投票で決めることだけが、民主主義ではないのである。

国家などの上部機関が個人的権利の保証者ではない以上、アメリカでは、自分たちの権利は自分たちで守らなければならないからである。コミュニティーを作ることは、上からの支配に抵抗するためであると同時に、いやそれ以上に、ヨコの勢力争いの中で身を守るためでもある。

端的に言えば、アメリカにおいて、コミュニティーとは、集団の縄張りに他ならない。上を当てにできない以上、自分の場所は自分で確保しなければならない。それは、一人の人間や一つの家族でできることではない。だから、仲間が集まって縄張りを囲み、自分たちの意見や立場を声高に発信し続けなければならないのである。


コミュニティーの経済的同質性は、人種的同質性よりもさらに顕著である。一つのコミュニティーの内部では、たいてい同じような家ばかりが建っている。統一された美しい街並みというやつである。だが、その統一性は、行政当局の計画性に由来するものではない。それは、経済的地位の同質性の反映に他ならない。一つのコミュニティーの内部では、すべての世帯がほぼ同じような収入で生活している。だから、同じような家に住み、同じような自動車を持ち、同じような身なりをしているのである。


白人と黒人が同居するコミュニティーはありえても、金持ちと庶民が一つのコミュニティーに同居することは、まずありえない。


アメリカ型の「小さな政府」は夜警国家に近く、国民生活の保証者ではない。だからこそ、医療や福祉や教育といった公益でさえ、市民自らが主張し、自分たちの力で守ってゆかなければならないのである。だが、これは、諸刃の剣だ。その発想を逆から見れば、国家は、個人の貧困に対する責任者ではないことになるからである。アメリカでは、貧困もまた、基本的に個人の責任とされる。それは、国家が責任を取ることではなく、善意ある者たちの慈悲によって救済されるべきものなのである。そこでは、市民同士のヨコの関係が、助ける側と助けられる側に二分される。たしかに多くのNPO団体は公的な資金補助を受けている。それでも、アメリカにおける福祉サービスは、公的に保障された権利としてではなく、善意ある立派な皆様からの施しとして恵んでもらえるものなのである。


アメリカでは社会保障に加入できない人間が大量に存在する一方で、ほとんどすべての大企業および多くの中堅企業では、会社が従業員の社会保障を引き受けている。デトロイトのゼネラル・モーターズ社などは、自動車生産のための企業体であるというより、「自動車を生産することで費用がまかなわれる一種の社会保障システム」だとさえ言われている。ともあれ、ここでも公的なサービスが私的に担われているのである。



アメリカでは、宗教も商売なら、教育も商売だ。そこでは、学生や生徒は顧客であり、大学や学校はお客様のご要望にお応えしたサービスを提供する教育業者だと考えられている。教育は、サービス業だというわけである。


実際、ヨーロッパの伝統的な教育観に照らせば、教育はサービスではない。ヨーロッパにおいて、教育は、基本的に国家の制度である。


軍隊は、兵士が嫌がっても厳しい訓練を課し、敵軍を殺すよう指導する。裁判所は、無罪だとシラを切る被告にでも有罪判決を言い渡す。そして、学校は、生徒が嫌がろうが不満を持とうが、しなければならない教育を義務として強制するのである。学校では、何よりも、万人に共通の普遍的知識が教えられなければならない。教師の仕事もまた、正しいこと、知るべきことを教えることであって、生徒を満足させることではないのである。このような教育観は、ヨーロッパ特有の民主主義思想に基づいている。学校は、知識や文化に触れる機会のない者たちに対しても、上からそれを平等に分け与える任務を担わなければならない。放っておけば社会の上層部に独占されてしまう知識や文化を、国家が責任をもって、すべての国民に開放するというわけである。

考えてもみよう。現実問題として、書物に触れる機会、外国や外国語に触れる機会、美術や音楽に触れる機会は、生まれ育った境遇によって非常に異なっている。所属する家庭によって文化的レベルに差があるのは、否定しようのない事実であろう。自分たちの身の回りを見ても、書物に囲まれた家庭もあれば、文字といえば漫画と競馬新聞だけしかない家庭だってある。図書館や美術館に通う親の子もいれば、ゲームとブランドだけにしか興味のない親の子だっている。それは、否定しようのない現実なのである。そのような状況の中で、生徒や保護者の要望に合わせた教育を行えばどうなるか。間違いなく、不平等を固定化することにしかならない。学問や文化と縁もゆかりもない家庭環境に育った子どもたちは、誰か外部の者が強制的にでも教えてやらない限り、上流階級の仲間入りをするために必要な知識や教養を自ら望むことなどありえないのである。


アメリカにおいて、教育は、私事であり、商売である。たとえば、アメリカで教育マルチメディア王国(Jones Knowledge Group and Knowledge TV)を創設したグレン・ジョーンズ氏は、「教育は、地球上で最大の市場であり、最も成長している市場であると同時に、現在の当事者が需要に応えていない市場でもある」と述べている。要するに、教育は商売なので、新しいメディアを駆使した教育ビジネスによって世界中で儲けようということである。


中村敬氏が紹介する一九九八年のデータによると、アメリカでは、たとえ大学生になっても外国語の履修者がわずか六%にすぎないらしい。大学生でも、その九四%は外国語を学ばないのだ。アメリカの語学教育は、世界最低水準であるとさえ言えよう。


結局、英語を本当に必要としない者が、世間の風情にあおられたり強制されたりして、英会話学校に通い、英語教材を買い集めても、挫折を繰り返す可能性が高いのだ。この挫折は、豊かさの反映でもある。英会話に何度挫折しても、それでも英会話学習費を払い続けられるということは、豊かさの証拠であると同時に、その人にとって英語が不要だという事実の裏返しでもあるのだ。英語ができなければ本当に生きてゆけないというのなら、今日の日本のような状況が生まれることもない。


アメリカでは、人間もまた「品質管理」される「コンテンツ」だというのも凄い感覚だが、そうなることを望むような感覚は、もっと驚きだ。それはさておき、アメリカでは、各種の学位や資格が、就職や昇進の際にかなり物を言うことは事実である。企業の重要な地位には、それに見合った資格や学位を持った人材を登用することが、非常に合理的だとされているのであれる。叩き上げでこの道一筋四〇年などという伝統的な日本型発想は、そこでは通用しないようなのである。


私には、今日ほど、世界中の至るところで、宗教的、民族的、文化的、地域的な対立が先鋭化している時代はないのではないのかとさえ思える。人間の距離は縮まらなかった。世界は一つにならなかった。地球市民など幻想である。これは、私一人だけの考え方ではない。英語以外で表現される情報に少しでも目をやれば、グローバル化など幻想に過ぎないということについて、容易に気づかされる。裏返して考えれば、われわれ日本人は英語ばかりに目を奪われるあまり、逆説的にも、英語世界という非常に限られた世界に閉じこもっているということなのである。


いずれにせよ、経済や情報のグローバル化が世界を一つにするなどというのは、とんでもない幻想だ。世界は、むしろ分裂しつつある。そんな中で、アメリカに追従していれば安泰だという考えもまた、時代錯誤の幻想に過ぎない。そして、英語が世界語になるということもまた、同じような幻想なのである。


ホメイニ師は、「われわれはイスラムを望む、イスラムだけを望む」と言った。この言葉は重い。ホメイニ師を支持したイランの民衆は、自由主義も資本主義も望まなかった。近代人であることも地球市民であることも望まなかった。ただ一つ、イスラムだけを望んだのだ。人々が怒り、告発したのは、単なる経済的格差ではない。人々は、自分たちの価値観、文化、伝統に対する尊厳を傷つけられたことに怒ったのである。


いずれにせよ、今後、インターネットがさらに普及し、ハリウッド映画やアメリカの衛星放送が世界中に広がれば広がるほど、世界各地の人々の間に、知らなければ持つこともなかった文化的敵意を誘発してしまう危険性がますます高まることになるだろう。


日本の社会に、英語やアメリカ型の文化を過度に持ち込むことは、周囲の人間に違和感や嫌悪感を与える危険性ばかりか、せっかく英語を学んだ当人を社会的不適応に陥らせてしまう恐れさえある。英語教育の拡大が、かえってローカルなアイデンティティを刺激するという逆効果には、十分に注意しておく必要があるのだ。古くから根づいた文化による反撃の危険性を過小評価してはならないのである。


贋エリートは、国民から認められた指導者などではなく、“自ら主体的に”自分たちの利益や価値観を追求する特権階級にすぎないというわけである。たしかに、地球市民は、非営利的なボランティア活動に熱心である。だが、利益というものは、金銭的な売上高だけで計れるものではない。非営利活動をすること自体が個人やその所属団体の社会的評価を上げ、発言力を増すこともまた、充分な利益なのである。端的に言えば、地球市民としてグローバルに活躍することが、一種のブランド価値を生み出しているのだ。


流行りものに乗り遅れて人生を棒に振る者はいないが、流行を追いかけるだけで人生を終える人は多い。あえて言えば、英語もそのようなものなのである。

10/19/2007

神田昌典365日語録


--神田昌典365日語録--
http://www.kandamasanori.com/


  

キーワード:
自分の人生に向き合って生きる人を、成功者という。



解説:
世間ではお金持ちであったり、名声があったりする人を成功者と呼ぶ。
しかし、その両方をもっていても、自分の人生を生きていない人は悲しい。
自分の人生に真剣に向き合って生きている、理由がわからなくても、
とにかく生きている、それを成功という。






キーワード:
安定とは、焼け野原でも紙とペンがあれば、翌日から稼げる能力で

ある。

解説:
これからの安定とは、どれだけ変化に対応できて、生き残っていけるかだ。
戦争がおこって日本が焼け野原になっても、紙とペンさえあれば、
翌日には現金を稼げる才覚を持つ人が、一番安定している。
売れるスキルと収入は直結する。売れるスキルを身につけよう。





キーワード:
弱きものは、相手を打ち負かし、強きものは、相手を許す。

解説:
間違いを犯さない人間はいない。
罪を糾弾することは簡単だが、本当に難しいことは罪を許すことである。
相手を打ち負かせば、あとには悲しみが残るだけ。

キーワード:
大義名分を持った会社は、業界地図を塗り替えやすい。


解説:
お客は、単なる利益目的の会社より、大義名分をもっている会社に集まる。
社会貢献を進めるビジネスという方針を打ち出すと、一瞬にして、
お客にとって共感しやすい、魅力的な会社に変わることができる。
そして一度、仕組みを作り上げてしまえば、一気に全国展開できる。



キーワード:
ネーミング戦略とは、名前だけで業界地図を塗り替えること。

解説:
「キズ・ヘコミ110番」と言われると、だれでもその店にいけば、何ができるのか直感的にわかる。
このようにバカでもわかるネーミングというのは、それだけで業界を変えるインパクトがある。
ネーミング戦略を行って、一気に全国展開しよう。

キーワード:
教育が行き届いていない市場に、マーケティング発想を持ち込むと、非常に短期間で成功できる。だから、ダサ
い業界は狙い目。

解説:
ダサい業界の見分け方は簡単だ。
電話帳をみると、全面一頁の広告を出している会社があまりない。
広告をみると、取り扱い商品・サービスと電話番号しか書かれていない。
価格は見積もりベースで、明朗価格やパッケージ価格がない。
こんな状況が見受けられれば、非常に狙い目の業界であることが分かる。


キーワード:
儲からないのは、単純に、あなたがそう決めているからである。

解説:
ダラダラとビジネスをするな。徹底的にやれ!何が何でも儲けろ!
利益がでないなら、でるように事業を変革しろ!
利益がでない商品は取り扱いを止めろ!
利益がでない活動は、でるように変えろ!
やるなら、とことんまでやる。徹底的にやる。
すると、その事業をやめても、絶対、次の展開に役立つ。


キーワード:
ノアの箱舟がそこにあったとしても、
ほとんどの人は洪水がくるまで、行動を起こせない。

解説:
世の中の大多数の人間が、時流の動きに鈍感だ。
だから、時流の動きを予測できる敏感な人は、
簡単に儲かるビジネスができる。
時代を読む目、そして変化に対応していく力をつけよう。



キーワード:
美とは、物語を凝縮して見せることである。

解説:
たとえば感動する絵画。
なぜ感動するかといえば、そこに制作者の物語が見て取れるからである。
商品も同じ。
そこに商品制作者もしくは会社の物語が、一瞬にして感じ取ることができるか?
そのように込められたエネルギーを、人間は美しく感じる。

キーワード:
ノアの箱舟がそこにあったとしても、
ほとんどの人は洪水がくるまで、行動を起こせない。

解説:
世の中の大多数の人間が、時流の動きに鈍感だ。
だから、時流の動きを予測できる敏感な人は、簡単に儲かるビジネスができる。
時代を読む目、そして変化に対応していく力をつけよう。


キーワード:
自分の人生に向き合って生きる人を、成功者という。

解説:
世間ではお金持ちであったり、名声があったりする人を成功者と呼ぶ。
しかし、その両方をもっていても、自分の人生を生きていない人は悲しい。
自分の人生に真剣に向き合って生きている、理由がわからなくても、とにかく生きている、それを成功という。


キーワード:
真実は、常に優しい。

解説:
人間は、一度浮かんだ自分の思考に振り回され、人を傷つけ、自分を傷つける。
たとえば、「あの人は約束を守らない」という思考がいったん浮かぶと、
その表現が一人歩きする。
本当に、「あの人は約束を守らないのか」。いつも、絶対に?
裏にある真実を知れば、あなたも傷つかない。



キーワード:

自分が若いときに販売した商品の価格帯が、その後、仕事を変わったときにも付きまとう。
解説:
低額商品を売っていた人は、高額商品を売ることができない。
逆に高額商品を売っていた人は低額商品を売ることができない。
販売する商品の価格帯が変えられないのは、セルフイメージの問題。
価格帯を変えたければ、セルフイメージを変えなければならない。

10/18/2007

Jポップの心象風景


「Jポップの心象風景by烏賀陽弘道」



「うたや歌い手・演奏者が聴き手に与える情報」とは、必ずしもレコードディスクに記録された音楽の内容だけを指すのではない。歌手やバンドのふるまい、行動、発言、コンサートのあり方、テレビCMで作られるイメージ、彼らを囲む大衆の反応、あるいはメディア上の報道のされ方など、歌手やバンドが主体ではない情報まで、大衆が受け取る情報はすべて含まれる。こうした情報をすべて受け取ったうえで、大衆は認識を形成するからである。

ユーミンについて、

鶴見はさらに、日本の歴史に登場するアメノウズメの後継者たちを何人か同書で分析し、彼女たちに共通する要素を次のように分類している。

(一)美人ではない。しかし、魅力がある。
(二)なりふりかまわない。世間体にとらわれぬ自由な動きをする。
(三)その気分に人びとをさそいこんで一座をたのしくする。
(四)生命力にあふれている。それが他の人たちの活気をさそいだす。
(五)笑わせる。人のおとがいをとき、不安をしずめる。嘘をついてでも、安心させる。
(六)わいせつを恐れない。性についての抑制をこえるはたらきをする。
(七)外部の人が、その一座に入ってきても、平気である。開かれた心を持っている。

鶴見がいう「アメノウズメたち」には、こんな名前が挙がっている。オカメ、オタフク。ストリッパー・一条さゆり。終戦間近から歌説法で天皇制を批判した天照皇大神宮教の教祖・北村サヨ。小説家・瀬戸内晴美(寂聴)。同じく田辺聖子。私は、鶴見が指摘するアメノウズメ像は、ユーミンにもよくあてはまると思う。


前述の林真理子との対談で、ユーミンは「お客様の前でマゾです。サービス業じゃないけど、ステージで、これでもか、というぐらいサービスする」と冗談めかして語っている。ファンであれ一見であれ、客が楽しめないと気が済まないらしい。「コンサートでは、ファンじゃなくても楽しめるものをやろうと思っている。(・・・)私はプロレスも映画も歌舞伎も(含めた――引用者注)、全部の娯楽の中で並べられるようなステージをやりたいと思っている」(同前)


つまりユーミンは、大衆が経験しながら言葉にできない感情を、歌に乗せて言葉にする。すなわち、普通の人間には聞くことのできない「心の発する声」に耳を傾け、それを誰にでも理解できるような「言葉」と「歌」に翻訳し、表現する媒介者が彼女なのだ。

ブルーハーツ(ハイローズ)について、

この『人にやさしく』(八七年)という歌のタイトルがそのまま示すように、甲本の詞には、精神世界の価値を追求する傾向が強い。そんな歌が、物質主義に酔いしれる社会にぽんと出ると、本人の自覚とは無関係に「異議申し立て」「反抗」といった俗語で理解されてしまう。これが、当初ブルーハーツが「パンク」と呼ばれた理由である。ブルーハーツをよく聴くと、七〇年代末に英国に現れた一群のパンクバンドのように攻撃的でも否定的でも、冷笑的でもない。むしろその逆である。

ニューヨークの近郊、「テレビ二台とキャデラック二台」を持つ、物質的に裕福な家庭に育つ少女が、物質的な豊かさとはうらはらの精神的な空虚感、不安を、ラジオからふと流れてきたロックンロールによって一瞬のうちに救われてしまう。このルー・リードの歌う世界に、甲本が語る十二歳のときのロックとの出会いは、文化や国の違いを飛び越えて酷似している。理性を超えた神秘体験という意味では、音楽は文化を超えて宗教的ともいえる「救済体験」をもたらすようだ。


今もロックは「生きることの不安から解放してくれる救済体験」であるがゆえに、甲本はデビュー以来十五年以上、休むことなくバンド活動を続けているのではないか。つまり彼は、今も自分自身の救済を求め続けているのだ。だからその視点は低い。聴き手と同じ救済を求める者の側にいる。甲本ヒロトの姿がどこか布教者に似ている理由は、そんなところにあるのかもしれない。


スピッツについて、

――スポーツや勉強ができるというのは、社会が用意した価値観ですよね。そこで自分は評価されない存在だ、と。
草野 あと「人にあてにされたい願望」っていうか・・・・・・そうですね、今はすごく恵まれているというか、ステージに出て行けばお客さんがわーっと期待して出迎えてくれるような状況があるけど、小学校のころ、「眼中にないっ子」だったころは、川で溺れ死んだところで両親ぐらいしか泣いてくれないのかな、と。


・希望に対する「絶望」
・受容に対する「孤独」
・喜びに対する「痛み」
・自信に対する「不安」
・信頼に対する「不信」
・安定に対する「不安定」


B'zについて、

ゆえに、B'zがエアロスミスやジミ・ヘンドリクスといった「大家」を上手に真似すればするほど、日本人は無意識に認識するはずである。彼らが「権威」である欧米ポピュラー音楽の精神性とその権威の後継者であることを。特に理由もなく感じてしまうはずである。「カッコいいな」「上手だな」と。いずれにせよ、上手なコピーであることは、B'zの権威、あるいは人気を高めこそすれ、減じることはまったくないのだ。

10/17/2007

Jポップとは何か-巨大化する音楽産業-



かなり古い本(3年くらい前??)だが、一応復習兼ねて。

「Jポップとは何か-巨大化する音楽産業-」 鳥賀陽弘道 著



シーケンサー+MIDI+サンプラ-

デジタル化でいちばんのとばっちりを受けたのがスタジオミュージシャンだ。

音楽制作の現場にデジタル技術が入って起きた変化をまとめておく。
①演奏や録音から「手作業」が激減した。
②楽曲をつくり演奏する作業が「集団」から「個人」になった。


その場のミュージシャンの演奏の応酬、やりとりというか化学反応で「とんでもないものができちゃった」というのが少ないんです。


音楽録音が「集団作業」から絵描きや小説家と同じ「個人作業」になりつつあります。
でも第三者の耳が介入しない一人の作業で創ったものは、どうもインターネットで公開されている個人日記のような感じがするんです。
自分で自分のつくった世界に浸って喜んでいるといか・・・・・・。


プレイヤーの独自の楽器の音とかは出てこない。どれも似たような音になる。音楽にとってはマイナスです。
それでも音がきれいなので、スタジオに持ってこられると直しづらいんですよ。

短時間でどんどんつくる、音楽自体が消耗品の時代になった。

音楽は「作品」ではなく「商品」になったんですよ。


これが重なるうちに、日本のメジャーレコード会社は、物議をかもしそうな歌の発売をことごとく自主規制する、神経質なまでのリスク回避体質に陥っていった。
違法行為といった明らかなスキャンダルだけではない。現実の生々しい社会現象を取り上げたり、批判的に歌ったりする、社会性を帯びた作品でさえ敬遠される。


広告は基本的に、最大多数の消費者が商品を購買するよう説得するのが目的であり、そのため 「社会のマジョリティが合意済み、あるいは合意可能」な表現の範囲内でつくられる。


逆に音楽表現は本来、マジョリティの合意を目的としない。
マジョリティが合意していなくても、ふだんは社会に届かないような少数の人々の声を言葉にしたり、マジョリティが気付かないような内容を歌にして世に出したりできる、極めてレンジの広い表現形態である。

しかし、タイアップの成功のせいで、日本のメジャー音楽産業は、この広い表現レンジの大半を自ら放棄してしまった。
その意味で、タイアップの力でヒットチャートの上位に顔を出すような曲は、最初から表現の多様性を放棄し、最大多数が合意可能な範囲でつくられている。


筆者は「音楽が企業の営利活動と手を結ぶことそのものが商業主義で許されない」というような原理主義的な芸術至上主義には、賛同しない。
しかし、ヒットを出すという目的のために広告タイアップの力を借りるなら、音楽は、その表現の自由のかなりのレンジを放棄しなくてはならない。


こうして、通信カラオケの登場以降、消費者が歌手やバンドを見る視点に変化が生じた。
CDを買う動機にも、その音楽や歌手が、購買者のセルフ・アイデンテティーを定義しうるかどうか、つまり購買者にとって「自分にふさわしい音楽や歌手かどうか」が重要な要素になったのである。


そこでは購買動機として「その曲が好きかどうか」以外に、歌い手やバンドのファッション、容姿、マスメディア上での振る舞いや発言、果てはCDジャケットや広告のデザインなど、音楽以外の要素が重みを増す。


自己愛型消費で重要なのは「うた」そのものではなく「そのうたを購入すると、どんな自分になるのか」だからである。


消費者がポピュラー音楽を楽しみたいと思ったとき、日本はその選択の多様性が乏しい環境にある。

まず、価格の多様性がない。日本盤CDの価格は「再販売価格維持契約」(再販制)によって、全国一律にレコード会社が定めた価格が守られているためだ。
日本のレコード産業は、価格競争という他産業ならごく当たり前の競争を公的な「規制」によって免除された特殊な業態だといえる。


特にアメリカと比べると、日本は音楽を公共財として扱う傾向が非常に少ない。

わかりやすい例でいえば、アメリカに比べFM局の数が非常に少ない。
FMラジオとは、CDとちがってお金がなくても音楽にアクセスできる手段である。
したがってニューヨークでは、貧しくても音楽に接する機会が保たれている。

一方、東京圏で聴取可能なFM局はせいぜい十局だ。
しかもその局も内容にそれほど大差はない。トークが多くて音楽が少ない。
音楽はヒットチャートものが多い。

コンテンツの多様性では、ニューヨークには遠く及ばない状態が長く続いている。
こうした環境では、商品として音楽を買うことだけが音楽へのアクセス手段になってしまう。
言い換えれば、お金がなければ、音楽にアクセスする機会が極端に少なくなる(有線放送やCS放送はFMに比べてコストがはるかに高い)。

貧乏か金持ちか、所得によって音楽へのアクセスに差が出る。


日本のレコード価格は再販制度によって固定されている。
おかげでインフレーションの間ずっと、インフレ率分の「実質値下げ」を享受できた。
ところが、消費者物価指数が下がり始め、貨幣価値がデフレーションに突入した九七年ごろを境に、CDの価格は「実質値上げ」に突入した。

レコード産業は「インターネットからのダウンロード」「CDをパソコンで焼けるCD-Rライターが普及してコピーが増加したこと」「携帯電話にお小遣いを奪われた」などと様々な「CDの売れ行きを減らした犯人」を挙げている。
もちろん、どれも多次元方程式の変数のひとつではあるだろう。


CDの売り上げは急減しているが、日本人の音楽への需要は衰えるどころか、むしろ増えている。

「レコード不況」ではあるが「音楽不況」ではないのだ。
着メロやDVDという新しい音楽メディアが登場し、CDが食われているというだけなのだ。
つまり、音楽を消費者へ運ぶメディアの一部が、CDから着メロやDVDという新興メディアへと移行し始めているのである。


モンゴル800がメジャーの力に頼らずに成功できた環境のひとつには、メールやウェブサイトというインターネット・マスコミュニケーションの存在が間違いなくある。
かつて、テレビ・ラジオや雑誌・新聞など、旧型マスメディアにプロモーション媒体としてアクセスするには、専従の宣伝スタッフや予算を持つメジャーレコード会社が独占的に有利だった。

が、インターネットという安価かつ簡便な自己発信型マスメディアが登場したおかげで、インディーズとメジャーの間にマスメディアへのアクセス力に差がなくなってしまった。


インディーズの成功が示したのは、かつてメジャーレコード会社が独占していた財産「コンテンツ(楽曲・歌手)の開発能力」「マスメディアへのアクセス力」「レコード録音施設」「販売・卸しの流通網」「資金力」「組織力」がいずれもメジャーの独占物ではなくなりつつある、という事実である。

つまり、かつては「メジャー会社からデビューするのがプロデビュー」だったのが「プロデビューするのにメジャーレコード会社である必要はどこにもない」という時代が来てしまったのだ。



CDが売れなくなったことについて、「外部の敵」を非難することには熱心だが「自分たちが送り出す楽曲は、今のままでいいのか」という真剣な議論や検討の声が聞こえてこないのだ。

そういう反省がないまま「外部の敵潰し」ばかりを続ければ、リスナーの反感を買うだけの結果に終わりかねない。

そろそろ「タイアップなどなくとも、人々の心に響くうたをつくろう」というごく単純明快な「製品内競争」が始まってもいいころではないだろうか。

10/16/2007

藤原新也・しかれない時代


藤原新也・しかれない時代・日経夕9/26/07

他人をしかるには、自分に厳しい必要がある。でも今の日本では、大人が自分を律することができない。

日本は基本的に企業社会だが、企業は相互監視の中で生きているから、自分自身を律する必要がない。

それを何十年も続けると、自分を律する方法が分からなくなるだろう。



日本人は戦争後遺症という、重い病を抱えている。

その後遺症が平和主義と暴力否定を生んだ。これは正しい。絶対善。逆に言うと僕らは戦後の絶対善に縛られてきた。

もちろん、僕も戦争も暴力も嫌いだ。

だが、その暴力否定が生活の細部にまで行き渡り、人を諭すために平手でたたくことも暴力と言われ、子供同士のけんかも否定されてしまう。

こんな過保護な国も日本以外にない。

阿久悠語録1998


小室くんがヒットしたのは彼らダンス系の人々に力があって、その間、言葉で闘う側が無力だったと考えるべきです。

文句を言う前に、サウンドを中断してもいいほど引かれる言葉を提示しなくてはいけなかった。。

10/15/2007

色川武大/阿佐田哲也


色川武大の一連のエッセイを読みまくっている。そこで、ふと昔読んだ佐藤愛子のエッセイで彼女が色川さんを理想のタイプと書いていて、鮮明に覚えているので以下に記す。

色川さんはそういう点で私の理想のタイプだった。ザンバラ髪の、「首実検の首」といった風貌だったが、いつも穏やかな、実に大きな人だった。
女にもてることとか、損得とか、えらくなりたいとか、人に好かれたいとか、カッコよく見られたいとか、およそ卑しい野心というものがなかった。ということは時流に妥協することも流されることもなかったということである。それゆえに色川さんは自由だった。

自由をしっかりと身体の奥に止めている男の魅力が色川さんにはあった。
頭のいい男、おしゃれの上手な男、物腰のスマートな男、優しい気配りの男・・・・・・・そういう男たちは増えている。


無芸大食大睡眠 阿佐田哲也


なにしろ私自身五十の坂を越すと、遊び仲間が櫛の歯のように欠けていく。
友人は、欠けたからといって、総入れ歯のように補塡するわけにはいかない。


テレビに向かない芸がある。ご家庭向きでない芸もある。凄い芸の持主だったり、ユニークな才があっても、ブラウン管にはまらない孤高の芸がある。演芸界ばかりに限らないが、こういう人たちはどうしてもマイナーな職場しかなくて、だんだんクサってしまう例が多い。


ヌード劇場ではハマるけれども、大劇場やテレビには生かしにくい。玄人の間ではよく知られ、一目おく存在だったが、一般的にはマイナーのヴォードビリアンという域に止まった。
とにかく彼の創ったギャグを、彼が演ずるとマイナー芸になり、他のタレントが演じた方がずっと受ける、と皮肉なことになったのである。だから、ずいぶんいろいろなコメディアンが、彼のギャグを貰って演じている。泉和助としては、それらのギャグが受ければ受けるほど、心が晴れなかっただろう。


林家三平が、邪道から出て邪道を持ちこたえるのに、いかにも苦しげだった。彼はふんばりとおして壮烈な一生を終えたが、のん気そうに見えるのはうわべだけなのである。
枝雀がそうなるかどうかわからない。


中学の生存競争に、敗戦意識や挫折感を持った者たちなのであろうが、そういうひとつの黒星が、人生を決するものと限らないことを彼等に教えてやりたい。人生にはたくさんの試合があって、勝星や負星が無限に続く。ギャンブルで、小さな勝ちや負けを経験しながら、一方で通産打率をよくしていく気力を持ち、一方ではまた負けの味をかみしめていくうちに、自分以外の者の勝ち負けについても配慮が沸いてくる。すくなくとも私はギャンブルからそういうものを教わった。

10/14/2007

桜井章一/運に選ばれる人選ばれない人



桜井章一/運に選ばれる人選ばれない人



 



違和感が多いといい運はやってきません。出来るだけ違和感のあるものから外れて気分がよくなるほうへ行ったほうがいいのです。



どんな勝負事も、ここ一番の勝負どころというのは、「変わり目」のことを指しています。「変わり目」は必ずやってきます。つまり運がいい時も悪い時も、「変わり目」をとらえられるかどうかで流れが変わってくるのです。



いいものを見つけて自分のものにし、悪いものは見つけたら捨てるのが、「見つける」ということです。「見つける力」はさらに「片付ける力」がプラスされることで、より確かなものになります。



感じ方には、それが心地よいものか違和感があるかということがひとつの基準になります。違和感があればそこから離れることですが、知識に頼るクセがあると違和感がわからなかったりします。考えないで感じることが非常に大切なのです。



流れが悪ければ、流れを変えるきっかけをまずつかむ。



「間の中」に入れば、運のリズムが良くなります。

「間に合う」から外れると、間が抜けて、「間抜け」になります。「間抜け」な状態は運を落とします。間に合っていれば運がいいのです。間に合うには、いつも我が身を「間の中」に入れておくようにすることです。



妬みの感情を抱かないようにするには、自分の中にある不安を打ち消す努力をすればいいのです。他人に勝とうと思うのではなく、自分に勝って自分が強くなる努力をすることです。



私は不愉快な気分にさせれば、自分の負けだと思ってます。人と接する時はいつも人を愉快な気分にさせることや気分よくさせることを忘れないようにしてます。

運をもらいたかったら、気持ちの良い人と付き合うようにすることですが、それだけを思っていると他力本願になってしまいます。さらに自分自身が気持ちの良い人になるように心掛けることが大事なのです。



これから先、混迷と混乱の時代が長く続くでしょうが、そういう時に頼りになるのは情報でもなく知識でもなく的確に感じる力なのです。

迷わないためには、感じる力を磨き、自分なりのブレない座標軸をしっかりと持つことなのです。



本当の一体感とはいいことだけでなく、いざとなればダメなことも一緒に味わうという共生感が根っこになければ生まれません。



ただの他力本願では、運がやってくる道理はないのです。



根と葉を無視して花ばかり求めると肝心なものが見えなくなります。花を追求するとお金が儲かったり、多少の成功は得られるかもしれません。しかし、ふと自分の心を見つめると何もないことに気がついて空虚な気持ちになるはずです。

「勝負強い人間」になる52か条


「勝負強い人間」になる52か条・桜井章一

流れに乗るために大切なことは、頭を使って情報を集めて流れを読もうとする前に、まず素直であらねばならないのだ。

修羅場というのは、「自分の可能性を超えた領域」とでも言えばいいだろう。つまり、修羅場とは、そこに臨む覚悟とか度胸といったものを新たに身に付けられる場所でもあるわけだ。
自分の可能性とか限界を決めているのは、結局のところ、自分の脳だ。だから、人間はふだん自分の頭で考えて「ここが俺の限界だ」と思ったところで止まってしまう。

勝負は常に変化するもの。
それを意識していれば、流れにも敏感になり、やがては流れを見極め、流れを読めるようになる。

人間は前に進むことも大事だが、ちゃんと帰る場所があるということも必要だ。迷ったとき、疲れたとき、一休みしたいとき、立ち戻れる場所がなければ、さまよい人になってしまう。
人間の「心」とは、どこかにあるものではなく、「戻る」ということなのだと、私は思う。自然に戻る。ふるさとに帰る。基本に戻る。素直な気持ちに戻る。そういうことが「心」なのだ。

勝負師は調子が悪くなるということを前提に勝負しなければいけないのだ。「不調こそわが実力なり」。

プレッシャーに強くなるためには「80%」の気持ちを忘れないことが大切だ。つまり、「20%のゆとり」を持つことである。
20%のゆとりが無くて「100%、がんばるぞ」と肩に力が入ると、緊張感が高くなり過ぎてしまう。また、「俺は100%だ」と思っていると相手や物事をナメる感覚が出てしまう。

一度きりの勝負であれば、強い相手と勝負しても勝機はない。
けれども、強い相手とやって負けることほど、勉強になることは他にない。自分は何が足りないから弱いのか、強い相手と戦うことによって、はっきり見えてくるからだ。
それを自覚して鍛錬すれば、今度勝負のチャンスがきたら、少しはいい勝負ができるようになるだろうし、それを繰り返していけば、いつかは勝てるようになるかもしれない。

決断力をつけるためには日ごろの心構えが大切だ。
それは、人間としてごく基本的なことばかりが。
・正直になる
・素直な心を持つ
・勇気を持つ
・物事に正しく真直ぐに向き合う
こういう人間として当たり前のことをしていれば、人間の心が育つ。物事を見る目が育つ。その結果として、決断力がついてくる。

一体感について、ここまでは「相手との一体感」「自然との一体感」「という話をしたが、もうひとつ「自分の中の一体感」ということも重要だ。つまり、頭と体の一体感、心と行動の一体感ということである。
「俺はこういう人間になりたい」とか「私はこれを成し遂げたい」と思ったとき、それを実現するためにもっとも大切なことのひとつは、思ったことはできる限りすぐ実行することだ。
心で思ったことは、すぐに実行する。自分の気持ちにまっすぐ向き合い、素直に行動する。その繰り返しをしていれば、大事なときにも思ったとおりのことを実現できるようになる。

人に対してなにかをしてあげるのが愛ではない。愛とは、「自分の悪を消す心」なのである。
つまり、「悪いことをしてはいけない」のではなく、「悪い感情を消す力を持つ」ことによって、悪いことをしない人間になる。
それが愛であり、本当の強さにつながるのだ。

いくら才能がある人でも、いつもいつも右肩上がりで順調に成功を続けるのは不可能だ。どんなに才能があっても、当然、壁にぶち当たったり、方向性を間違えてしまったりすることがある。そういうときに修正力を持っていれば、次の段階に進むこともできるし、成長することもできる。
つまり、才能を磨くということは、言い換えれば、修正力を身につけるということなのだ。

自立というのは、「準備・実行・後始末」がきちんとできていて、悪いことに抵抗を感じることだ。そうすれば、自分には余裕があるから、余裕がなくて困っている人のことに目がいくはずだ。

男には根性が必要だ。根性のないヤツは強くなれないし、優しい人間にもなれない。
根性というのは、字のとおり「根っこ」である。木や草は、この根があるから生きられる。根がなければ、水も栄養も補給することができない。
根が植物の命の根源であるのと同じように、人間にとって、男にとって、根性というのは生きる根幹なのである。

運がいい人、ツキのある人というのは、いつもニコニコしている。
運が悪い人、ツキがない人というのは、いつもムスッとしている。
人は明るく楽しく生きようとしていれば運も向いてくるし、明るく楽しい人生にできる。

強い人間というのは、必ず「恥の心」を持っている。かつて、それは日本人の美徳だった。
しかし、今の日本人は「恥」や「心」を忘れて、利口に金さえ稼げれば人生の勝者になれるという錯覚を抱いてしまっているようである。
「便利」と「利用」は本来的な人間の「愛」や「心」からもっとも遠いものだ。

10/13/2007

不道徳 橘玲


不道徳 橘玲


人々が自由に生きればすべての人が幸福になる。
すべての人を幸福にする行為は道徳的である。
したがって、自由に生きることは道徳的である。



そのやりとりをバローは具体的には書いていないが、このカリスマ的なロックスターに経済学者は次のように言ったと思われる。
「ボノ、君の音楽はすばらしいけれど、君の経済学は間違っているよ」
アフリカの貧困という破滅的な事態に対して、ボノのようなリラベルな活動家は、国家の介入によって問題を解決すべきだと考える。

どれもすばらしいことだが、ひとつだけ問題がある。最貧国への経済援助はすでに何十年もつづけられてきたが、ほとんどなんの効果もなかったのだ。



じつはリバタリアンは、世界の貧困を劇的に改善する方法を示すことができる。それは、すべての先進国が移民規制を撤廃することだ。それによって、アフリカの貧しい人々は大挙してヨーロッパ諸国に出稼ぎに行き、故郷に金を送金するようになるだろう。同様に、中南米の貧しい人々はアメリカへ、中国の貧しい人々は日本へ押し寄せ、彼らの所得は飛躍的に増えるはずだ。
私たち日本人を含め、先進国の国民は、たまたま豊かな国に生まれたというだけでとてつもない既得権を享受している。そしてこの既得権を守るために、厳しい移民規制によって貧しい国の人々を貧しいままに閉じ込めている。だが、すべての人が自由に生きる権利を持っているならば、国籍にかかわらず、だれもが好きな場所に暮らし、平等な条件ではたらくことができるべきではないだろうか。



①「不道徳な人」は暴力をともなう悪事をはたらいているわけではない。
②実質的にすべてのケースにおいて、「不道徳な人」は社会に利益をもたらしている。
③もし「不道徳な人」の行為を禁じるならば、わたしたち自身が損失を被ってしまう。



差別は国家によって行われることもあるし、個人がだれかを差別することもある。だが、国家による差別だけが女性の権利を侵害するのである。差別が私的に行われる場合は、彼(または彼女)は自らのリスクにおいて差別する。しかし国家は、市民から徴収したカネを使い、市民に責任を押しつけて差別を行う。このちがいは決定的である。



女性に対する深刻な被害はほとんどの場合、公共の場所で発生するのである。



役人は部下から嫌われてもクビになることはない。仮に補塡格差のぶんだけ賃金を引き上げたとしても、その原資は税金なのだから自分の懐は痛まない。彼にはセクハラをやめる理由はなにひとつないのだ。これが役所や公共団体や国公立学校で悪質なセクハラが頻発する理由である。



「双方の話を聞け」という先人の言葉を思い出すのはよいことである。なぜならば、もしも大多数の人がなにかに反対しているなら、彼らの批判とは逆に、そこに好ましいなんらかの要素があるにちがいないからだ。人類の長い歴史において、多数派の意見はたいていの場合、間違っていた。



福祉とは、大衆を支配するために権力者が用意した「パンとサーカス」であったのだ。



①宣伝屋
「広告は付加価値を生まないから不要である」との偏見に対する反論。われわれは常に、学歴や肩書や衣装などによって実物以上に見せようと「宣伝」している、とブロック教授は説く。「広告業」はいまや不道徳な職業ではなく、企業の広告部や大手広告代理店は花形職業になってしまった。

10/12/2007

持たない!生き方 米山公啓


【「持たない!」生き方 米山公啓】


今思うと、捨て去ることの重要さを痛感する。次の生き方を求めるなら、今を捨てなければ、決して次のステップには進めないのだ。
捨て去ることで、喪失感はなくなる。守っていこうとするから、喪失感が起こるのであって、求めていくなら、そんなことはまったく問題はない。
肩書きも持たず、ものも所有しない潔さこそ、新しい人生の生き方である。それができなければ、新しいスタートには立てない。


過去を語らないことこそ、若さの証明であり、まだまだ前向きに生きるという姿勢の現れである。定年になってから、会社では有能だったとか、肩書きがどうだったとか語るのはやめるべきだ。
過去を語れば語るほど、現在の存在ではなくなってしまうからだ。未来を語れることが、若さなのだ。


病気はあくまでも個人の問題として割り切って、もっと前向きな楽しい話題にすべきである。「あいつはいつも自分の病気のことばかりだ」と陰でささやかれているかもしれない。
同情はされても、それだけのことで、自分の健康がそれで取り戻せるわけではない。だったら、病気のことを頭から排除しようと考えるべきだ。


人に教えるということは、自分も非常に勉強になる。素朴な質問に答えられなくなって、いろいろ調べなければいけない場面も出てくる。冷や汗もかくが、それが自分にとっても大きなメリットになるはずだ。
しかも、人に教えることは、自分の表現能力をアップすることにもなる。それが脳を若くする秘訣になる。人に教えられる何かを持っているということは、歳をとってもずっと大きい財産になるだろう。
教えることで社会とのつながりも維持できるのだ。


あえて自分を人前にさらすことが、評価を受けることにもなり、それが尊敬やいい評判となれば、脳が満足という快感を知って、また次の行動を起こそうとするようになる。
芸術家や芸能人が若いのは、常に人から見られているという緊張感を持っているからだ。
緊張感はストレスにもなれば、励みにもなる。年齢とともに人前に出るチャンスが失われることになりやはり、年老いていく原因でもあろう。


同窓会というのは、タイムカプセルを開けるようなもので、友人たちにあう時は、現在の肩書きなど関係なく、昔に戻ることができる。
いわゆる記憶の虫干しとして、過去の記憶を鮮明にさせることも、友人たちと語っていれば、可能である。忘れていたいろいろなエピソードを思い出すことができる。




【日本国破産のシナリオ ラビ・バトラ】

『人はいつでも利己的であると考えるのは正しくない。お金が絡んで来ると、人間は利己的になるのだ。



『健康に気をつけてほしい。特に精神的な健全性を維持することが重要だ。残念ながらこういった時期には、絶望的になって自殺する方が増える。やはりこの時期を戦い抜く精神力が必要なのだ。

10/11/2007

禅的生活のすすめ・ティク・ナット・ハン


「禅的生活のすすめ・ティク・ナット・ハン」 

他人の好ましくない言動を目にすると、私たちはすぐ不快になります。
特に自分の子供に対しては、いっそう敏感になるでしょう。
その時に理解と哀れみが充分でないと、私たちはつい相手の言動に刺激され、自分の中の苛立ちの種を発芽させてしまいます。
その結果、身体的な暴力や精神的な暴力を振るいかねません。
誰かに腹を立てているとき、人はその誰かを教え論せる状態ではありません。
そういうとき、どんな言動も慎むべきです。


どうか、自分が今苦しんでいるからといって、他人にひどい言葉を吐いたり、仕返ししたり、罰したり出来ると思わないで下さい。
そういうときも、自分の中の苦しみを受け入れる事によって、あなたは人を助ける事が出来るのです。
そういうときには自分の仏性を思い出すための瞑想を行ってください。
息を吸って、自分の未来の目覚めの力、穏やかさと哀れみをもてる能力を、もう一度深く信頼してください。


平和活動に従事する人は、強く、しっかりしていなければならないと同時に、心底から安らかでなくてはなりません。
平和活動には内面の安定が不可欠です。
自分自身に気付けなければ、人を助けることなど出来ません。
自分自身の悲しみや絶望、又は自分自身の内面の葛藤から逃れる為に、人を助けようとしてはなりません。
自分の内面が本当に穏やかで安定していない限り、いくら努力しても人の助けにはならないでしょう。私たちは先ず自分に対して気づきを実践し、自分に対して哀れみを深めなければなりません。そうすれば自分の中に平和と調和が生まれ、社会の変革にも役立てるようになります。

簡素な暮らしの実践には多くの利点があります。
必死に物を所有しようとしなくなれば、もう多くのお金は必要ありません。
したがって、それほど働かなくてもすむようになります。
そうなれば、有意義なことや楽しいことに多くの時間を費やせます。

これを見事に表した孔子の言葉があります。
「何処で充分となるかを知っていれば、おのずと充分となる。しかし充分になるまで待っていれば、決して充分にならない。」


「陛下、僧はほとんど自分のものを持ちません。ですから所有物を失ったり盗まれたりすることに対する恐怖がいっさいありません。森の中に独りでいても、木下でくつろぎながら安心して眠れます。恐怖から開放されているということは大きな幸せです。僧は富や名声を追い求めません。必要なものしか使わず、欲望とは無縁のままです。こうした何の心配もない安らかな状態で暮らせることは大きな幸せです。それが精神修養のもう一つの成果です。それはこの場でこの瞬間にも味わえます。」


私たちの社会は、名声や富や物質や快楽主義への願望に支配されてきました。
その結果、多くの人が精神的伝統や家族を切り捨ててしまいました。
権力やセックスや財産を追い求めることにしか喜びが見出せないと信じていたら、健全な家族などもてるわけがなく、意思の疎通も望めません。
幸せはモノを消費することからは生まれません。

10/10/2007

『虚構と瞑想からの超発想』山田久延彦


『虚構と瞑想からの超発想』山田久延彦


行きづまりに対する真の解決は、新たな発展のSeedsを見つけ出すことによって得られる、ということである。
これまでに考えられなかった新しい理想を作り出し、これまでに知り得なかった新たな可能性の世界を捜し出し、これまでに存在しなかった魅惑的な目標を掲げることである。
新たなものをつくりだすことは、このような理由によってそれ自体、社会正義なのである。

人はしばしば一芸に秀でること、すなわち専門領域を深く掘り下げることが善であると考えがちである。
ところが、このような人たちからは新しいものは生まれない。
深く深く掘り下げているつもりが決して深くなく、細かくいじくりまわしているだけなのである。
にも関わらず、この種の人びとは、自分たちが最先端を行なっているとごかいしている。そして革新的な発想を、狭い視野の中からことごとく否定する。

専門馬鹿という現象は、単なる能力の欠如以外の何者でもないといういべきだろう。“広い視界”が深い理解に必要不可欠である。

「疑問をもつことが重要だ。ただし度を越さないこと」。これが科学的な態度なのだそうだ。だが、敢えていおう。「限度をわきまえるな」と。

現状のもっとも根本を逆転させよ。論理だけではない。感情や道義などからの違和感さえ克服しての逆転だ。否定や抵抗は評価のしるしと考えよ。

「不条理な抵抗や否定にあうような発想の中から、真に価値ある発想を捜し求めよ。みんなが良いということは、どうでもよいことである」

「閉塞状況下、すなわち行きづまり状態においては、従来の前提のもっとも基本的なところを否定せよ。部分的修正は状況をさらに悪化させる」

「たとえ空想でも、思考としてこの世に存在し得るものは、実現可能なことである」―は、別な表現をすれば、「人間の乏しい想像力で考えられることは、せいぜい実現可能なものだけである」ということであった。

ハイポロジストは誤解される。孤独だ。みじめな存在でさえある。
それを承知でハイポロジストになりたい人のために、十の条件を記そう。



●ハイポロジストのための十カ条

1 空想であれ願望であれ、考えとして存在するものは、すべて実現可能なことである。 〔ハイポロジクスの原理〕
2 新たなものをつくり出すことは、それ自体、社会正義である。これを否定する者は、 正義の名のもとに排除されなければならない。〔変革(Break Through)の原則〕
3 単一専門領域をいくら深く掘り下げても、新しいものは生まれない。広い視界が、深い理解と 新しい発想には不可欠である。〔超視界(Hyper Vision)の原則〕
4 社会の不条理な抵抗や否定にあうような発想の中から、真に価値ある発想を探し求めよ。みんなが良いということは、どうでもよいことである。〔反撃(Counterattack)の原則〕
5 行きづまり状況下には、従来の論理のもっとも基本的なところを否定せよ。修正主義は状況をさらに悪化させる。
6 発想は長い間寝かせよ。短期間で成果を得ようと思うな。本を読む前、データをとる前に思考せよ。
7 パイオニアは、その良き理解者とペアで一人前である。
8 高次元の問題を扱うときほど、人間は低次元の感情にかかずらう可能性が大きいと心得よ。
9 実力以上に自分の可能性を信じ、能力以上の問題に挑戦せよ。大風呂敷を広げよ。
10 技術者にとって技術的主張は、個人の思想、信条であり、基本的人権と不可分のものである。誰からも拘束される必要はない。

創造力というのは、能力というよりも執念といった方が適切である。この執念において、日本人は、本質的に決して諸外国の人びとに劣るものではない。ただ現在のところ、理解力型秀才が社会の重要なポジションを占めているため、どちらかというと日本は、基本的な問題において欧米より創造力に乏しいような印象を与えているにすぎないのである。
しかし、創造力型天才がそのポジションに入れかわった場合、日本の創造力たるや、世界のどの国の追随をも許さないほどのものになるはずである。日本の創造性が乏しいといわれる所以は、国民性にあるのではなく、社会体制の中にあると私は考えている。

10/09/2007

幸運と不運の法則 小野十傳


幸運と不運の法則 小野十傳


①ちょっとした仕事で早い時期に頭角を現す
②その分野での仕事に疲労を覚えない
③一つの仕事が終わってもパワーが残っている気がする
以上の条件に合致する仕事こそ、適職です。
もしも、好みだけでその道を歩いていると感じたならば、すぐに方向転換を図る行動に出ることが大切です。


アイデアが浮かばず苦しんでいるとき、私はいままで読んだことのない分野の本を無作為に開いて、そのページを隅から隅まで読むようにしています。すると、大げさではなく100パーセントの確率で、すばらしいアイデアの卵を発見します。
脇道に逸れますが(脇道こそ大切です)、努力しても成績が伸びない学生がいます。その学生は、教科書の欄外を無視して勉強していることがほとんどです。欄外のどうでもいいようなことを覚えておくと、次の試験では確実に成績が10点以上は上がるものです。


いくつかの名刺をつくり、それぞれの場所で使い分けることは、幸運を呼び込むコツを会得するための方法になります。


不運になると、とたんに家相や方位に神経質になるものです。しかし動いてはいけません。自分の居場所をキープすることが大切です。


時代の流れなど無視するという意識をもちましょう。時代にペースを合わせようとせず、自分のペースに生き方や考え方を戻すのです。古臭くていいのです。方言が出ていいのです。
不運時はパワーは自分のパワーが欠けていますから、いちばんラクな生活にペースを戻すことです。それが「五行哲理」に則った生き方です。


まだ可能性があると思うのは錯覚です。もしもほんとうの可能性があるならば、それを幸運のときに実行していたはずではないですか。
不運のときにすばらしいと思うヒラメキは、幸運時には見向きもしなかったカスのアイデアです。
三ヵ月間、とにかく人脈を断ち切りましょう。そして、お金儲けとは縁もゆかりにもなりそうもない趣味をつくって、それに没頭するのが正解なのです。


不運だと感じたならば、最初にすることは、それまで使っていた靴を捨てて新しい靴を購入することです。靴は運気とリンクしている
場合があるからです。不運の兆しは、最初に足から発生することに気づいている人は少ないでしょう。
足の骨折や捻挫は、運命学から見れば許されざること。運を獲得するには足が必要不可欠だからです。
つまり行動力、フットワークが幸運をつかむためには必要なのです。


①体調はいいか?
②いままでの人間関係に変化はないか?
③贅沢をしていることを公表していないか?
④相手をほんとうに楽しませているか?
⑤親族に病気持ちがいて、その面倒を真剣にみていないか?
⑥異性からモテすぎてはいないか?
⑦眉の手入れをしていないか?


自分の運命における五行の偏りを知れば、もはや恐れることはありません。「子孫」に偏っているのであれば、「父母」で(-)にするか、「妻財」を活性化させてパワーを漏らせばいいのです。「官鬼」に偏っていれば、「子孫」に該当することで自分の「官鬼」傾向を(-)し、あるいは、「父母」にあたることを実践して「官鬼」の過剰なパワーを散らせばいいのです。


現実の世界では、見切りをつけることが大切なのです。あきらめられずに、幸運をつかめるはずの人生を無為に送り、ついには犯罪者となったり、アヤシイ宗教の狂言者となるケースがあとを絶ちません。犯罪者や狂言者は、上手に見切りをつけられなかった人のなれの果ての姿と断言してもいいでしょう。
人生には可能性がたくさんあるのです。一つの可能性が失敗したからといって、それに縛られることはきわめて危険です。

10/08/2007

不運のすすめ 米長邦雄


不運のすすめ 米長邦雄


・落ち目になった時に人間の真価が問われる


思えば昭和三十年代前半の日本は、人と人との距離が今よりずっと近かった。そして誰もが率直で、がむしゃらだった。
先生が怒って生徒を殴ったり、廊下に立たせることなどは日常茶飯事だったが、そこには絆というものがあった。
だから、生徒も当たり前のことのように思っていたのである。
 今はそれがなく、人間同士の距離や間合いが離れすぎているような気がする。「カミさんとの距離がだいぶ遠くなった」と
言う人は多いであろう。昔は息づかいが聞こえるくらいに親近感があったように思う。
 酒、ケンカ、バカ騒ぎの類も少なくなった。子供の世界も、上品でよそよそしいお坊ちゃまとお嬢様だけになり、「ガキ」という
ものがいなくなったのは残念なことである。


人生で最も大切なことは、じっと耐えるか、それとも反論したり動きまわったりした方が良いかを的確に判断できるかどうかにある。
その判断に基づいて実行できるかどうかが次に大切である。動いた方が勝ちなら動く、静の方が後になって勝てるのなら動かない。
動か静か。この見極めこそが人生の岐れ目になる。


問題なのは、何をもって勝者、敗者とするのか、ということである。今、巷にあふれている「勝ち・負け」のスケールは、自分ではなく
他人が決めたものである。受動的な基準にばかり反応し、自らの価値観に基づいた能動的な幸福が軽視されている。
自分自身で幸福かどうかの判断ができないのは、当人にとって実に不幸なことであり、社会としても憂うべき問題だと私は思っている。


大切なのは頂点に立つことではなく、頂点へと続くはずの「道」を倦まず弛まず歩むことである。それを忘れた時、人は自ら「福」や「運」から遠ざかっていくのだ。


思えばこれまでの人生に、「不運だ」と思うことは山ほどあった。ほぼ手中にしていたタイトルを落としたとか、失言から喧嘩になったとか、株で損をしたとか、失敗も数々ある。
しかし、失敗をしても、「このあと、どうするか」を、いつも考えてきたつもりである。それは、いつも人生の節目となり、新たな幸運を私にもたらしてくれた。
「不運とは、実は幸福の根源なのです。考え一つで幸運に変えることができるのです」