7/04/2007

武術革命/日野晃


日野晃先生は凄い武術家です。日野先生の「武術革命」と言う著作より、私をググッとワシ掴みした箇所をば・・・。

一様にして達人たちは「技」を自分の物にしていた。逆に言うと「技」をモノにしたから、また「技」を実体化させられたからこそ達人なのだ。

そういった達人たちを考えた時、そこにある「技」を構成する一つの重要な要素「見抜く」が見えてくる。
つまり「人を見抜けた」から、「相手の実力を見抜けた」からこそ、自分の生命を守られたのだし、見抜けたからこそ無用な試合をせずにすんだのだろうと考えられる。これは、自分よりも勝れた達人を見抜く力があった、ということであり、極論を言えば、自分が負けそうな相手とは試合をしなかったのだろう、ということである。

だから、別に強くはなかったのだ、ということではなく、この「見抜く」がなければ多分達人として語られる人生を歩いていなかった、つまり、すでに死んでいたことになる。

これは、体力旺盛な若い頃はどうであったのか?という話から考える問題ではない。「年老いても強かった」というところから考えれば、容易にこの「見抜く能力」の重要性が見えてくる。


さて、なぜこの章の冒頭に、現代において武術は特別なことだ、と書いたかというと、それに取り組んでいる人達の多くは、道場の前まで、もしくは道着を着るまで、または、相手と対するまではただの人であり、ただの日常を過ごしているに過ぎないからだ。
つまり、その人達にとっての武術は、その時間だけのモノであって、自分のモノではなく、その時間になって初めて始まるものだ、と言いたかったのだ。しかし、名人達の生きていた時代は、二十四時間武術だったのだから、心構えなり行動なりが全く違っていた、ということは推測できる。


武術はすこぶる面白いものだと思えてきた。つまり、単純に暴力的「強さ」や、自己顕示欲、自己満足のための道具、形骸化された名前ばかりの物などではなく、一つの身体世界・精神世界を形成させうる道具であり、教材であるはずなのだ。

「相手を感じ取る」ということは、武術の技術の中でも最上位に位置するぐらい大事なものだということが分かるはずだ。それさえ考えられないから、日本伝統武術の価値が見えず、武術と喧嘩の区別もつかなくなるのだ。

そういった自己防衛本能は、現代といえど女性の中にはしっかりと刻み込まれているのだ。それは、基本的に女性の非力さや、社会の仕組みの中での女性の立場などが関係しており、常に自己防衛しなければいけない必然があるし、性差による種保存の役目の違いからくるものだ。

しかし、残念ながら男性は、女性ほど敏感ではない。特に、武術や格闘技に取り組んでいる方達ほど鈍感だ。

これは、何を意味しているのか、本来武術というのは、そういった意味での自己防衛本能をより鋭敏にし、身の危険を回避するためのものなのにそれがまるで逆になっている。

結果だけを言えば、練習のシステムや武術に対する取り組み方に間違いがある、ということだ。その間違いが、感覚を鋭敏にするのではなく、鈍いものに作り上げている。
つまり、自己主張のみに価値をおいて生活をしている結果でもあるのだ。


武術では自分の「体重」が武器であり、「体重の移動」が全ての攻撃の威力の基本になる、ということだ。

自分の「体重」を、腕にかけたり、刀にかけたり、槍にかけたり、蹴にかけたり、が威力のある力を生みだすのだ。

その、自分の「体重」を武器にすることがここでは深く関わってくるので、自分の「体重」と「突き」とを有機的に繋げるために、この後足膝と腕の連関訓練が必要になる。
そして、その連関を支えるのは、自分の肉体に対する「感覚」だけしかない。

したがって、「威力のある突き」になるかならないか、また「威力の差」は、この自分の肉体に対する「感覚の差」にある、ということだ。

どれだけ精密に自分の肉体を操作できるか、その鍵を握る「感覚」をどれだけ研ぎすませられるか、だけが「衰えない技」を身につけていくかに繋がるのだ。


HP
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