7/06/2007

事態が混迷を極めるときに取るべき10の行動


事態が混迷を極めるときに取るべき10の行動

1.心を乱さない。

2.自分に正直になって、自分の最初の目的を思い出す。

3.その状況に取り組む別々の方法を3つ考えて、その中に使えるものがないか調べる。

4.その状況で、実務家や理論家(自分と異なったタイプの人)であればどうするかを想像してみる。

5.別な人が同じ問題に対してどのような取り組みを行うかを、近くに行って観察し、彼らから学ぶ(他者が見習うことは、不正行為ではなく、知性の発露であるということを思い出そう)。

6.電話をかけたり、Eメールを送ったり、本を参照したりして、その分野の専門家は、この場合に何をするか調べる。

7.あなたがしていることの詳細は知らなくても、常識にもとづいたアドバイスをくれそうな人や、あなたの考え方を変えてくれそうな人に尋ねる。

8.インターネットでヒントを探す。???

9.その日のうちに、時間を変えてもう一度その問題に戻ってみる。

10.自分の学習を続けることが正しいことかどうかを、よく考える。場合によっては、それまでに自分が学んだことを振り返った上で、別なことをする方が賢いことがある。

7/05/2007

500 Years of Female Portraits in Western Art

こころの処方箋/河合隼雄


『こころの処方箋/河合隼雄』

日本人としての自覚が国際性を高める。

国際的とやらで根無し草のようにふらふらするよりも、自分の根を深く深く追求することによって、他と交わることを考えるべきであろう。

人生には時に「100点以外はダメなときがある」ことを知る必要がある。

人生にも、ここぞというときがある。

そのときに準備も十分にせず、覚悟もきめずに臨むのは、まったく馬鹿げている。

アメリカでは烈しく相手を攻撃する代りに、相手の言い分も十分に聞こうとする態度がある。

自分の生き方と父親(あるいは、母親)の生き方とを比較してみると、びっくりするほど同じことをしているか、正反対のことをしているか、に気づく人が多いのではなかろうか。

男女は協力し合えても理解し合うことは難しい。

協力し合っているときは、相手のことなど深くは考えず、ともかく目標に向かって前進する。
そのとき、自分が喜んでいるときに相手の方はそれを支える苦労で半泣きになっていたりしても気がつかない。
ところが、目標を達成してしまって、やれやれと思って、二人が向き合ってみると、お互いのことを本当に知らないままで来たことに思いあたる。

男女が理解し合うことは実に大変なこと。

イマジネーションこそ、人間の「精神」のはたらきそのものではないだろうか。

目先を照らす役に立っている灯―それは他人から与えられたものであることが多い―を、敢て消してしまい、闇のなかに目をこらして遠い目標を見出そうとする勇気は、誰にとっても、人生のどこかで必要なことと言っていいのではなかろうか。

孤独に耐える力のある人は、団子のようにひとつにかたまる人間関係ではなく、権力のある者とない者との区別を明らかにしつつ、人間としては適切な関係を維持することができるはずである。
それに、ときとして権力を棄てる経験をもつようにすると、ますます人間関係は洗練されてくるだろう。

まず自分がどれだけの権力を持っているかをはっきりと意識し、それに見合うだけの孤独に耐える強さを持っているかを考えてみる方が意味が深い。

7/04/2007

武術革命/日野晃


日野晃先生は凄い武術家です。日野先生の「武術革命」と言う著作より、私をググッとワシ掴みした箇所をば・・・。

一様にして達人たちは「技」を自分の物にしていた。逆に言うと「技」をモノにしたから、また「技」を実体化させられたからこそ達人なのだ。

そういった達人たちを考えた時、そこにある「技」を構成する一つの重要な要素「見抜く」が見えてくる。
つまり「人を見抜けた」から、「相手の実力を見抜けた」からこそ、自分の生命を守られたのだし、見抜けたからこそ無用な試合をせずにすんだのだろうと考えられる。これは、自分よりも勝れた達人を見抜く力があった、ということであり、極論を言えば、自分が負けそうな相手とは試合をしなかったのだろう、ということである。

だから、別に強くはなかったのだ、ということではなく、この「見抜く」がなければ多分達人として語られる人生を歩いていなかった、つまり、すでに死んでいたことになる。

これは、体力旺盛な若い頃はどうであったのか?という話から考える問題ではない。「年老いても強かった」というところから考えれば、容易にこの「見抜く能力」の重要性が見えてくる。


さて、なぜこの章の冒頭に、現代において武術は特別なことだ、と書いたかというと、それに取り組んでいる人達の多くは、道場の前まで、もしくは道着を着るまで、または、相手と対するまではただの人であり、ただの日常を過ごしているに過ぎないからだ。
つまり、その人達にとっての武術は、その時間だけのモノであって、自分のモノではなく、その時間になって初めて始まるものだ、と言いたかったのだ。しかし、名人達の生きていた時代は、二十四時間武術だったのだから、心構えなり行動なりが全く違っていた、ということは推測できる。


武術はすこぶる面白いものだと思えてきた。つまり、単純に暴力的「強さ」や、自己顕示欲、自己満足のための道具、形骸化された名前ばかりの物などではなく、一つの身体世界・精神世界を形成させうる道具であり、教材であるはずなのだ。

「相手を感じ取る」ということは、武術の技術の中でも最上位に位置するぐらい大事なものだということが分かるはずだ。それさえ考えられないから、日本伝統武術の価値が見えず、武術と喧嘩の区別もつかなくなるのだ。

そういった自己防衛本能は、現代といえど女性の中にはしっかりと刻み込まれているのだ。それは、基本的に女性の非力さや、社会の仕組みの中での女性の立場などが関係しており、常に自己防衛しなければいけない必然があるし、性差による種保存の役目の違いからくるものだ。

しかし、残念ながら男性は、女性ほど敏感ではない。特に、武術や格闘技に取り組んでいる方達ほど鈍感だ。

これは、何を意味しているのか、本来武術というのは、そういった意味での自己防衛本能をより鋭敏にし、身の危険を回避するためのものなのにそれがまるで逆になっている。

結果だけを言えば、練習のシステムや武術に対する取り組み方に間違いがある、ということだ。その間違いが、感覚を鋭敏にするのではなく、鈍いものに作り上げている。
つまり、自己主張のみに価値をおいて生活をしている結果でもあるのだ。


武術では自分の「体重」が武器であり、「体重の移動」が全ての攻撃の威力の基本になる、ということだ。

自分の「体重」を、腕にかけたり、刀にかけたり、槍にかけたり、蹴にかけたり、が威力のある力を生みだすのだ。

その、自分の「体重」を武器にすることがここでは深く関わってくるので、自分の「体重」と「突き」とを有機的に繋げるために、この後足膝と腕の連関訓練が必要になる。
そして、その連関を支えるのは、自分の肉体に対する「感覚」だけしかない。

したがって、「威力のある突き」になるかならないか、また「威力の差」は、この自分の肉体に対する「感覚の差」にある、ということだ。

どれだけ精密に自分の肉体を操作できるか、その鍵を握る「感覚」をどれだけ研ぎすませられるか、だけが「衰えない技」を身につけていくかに繋がるのだ。


HP
http://www.hino.gr.jp/

『虚構と瞑想からの超発想』山田久延彦


物凄い人がいたもんだ。その人の名は山田久延彦。とにかく、楽しい。


『虚構と瞑想からの超発想』山田久延彦


行きづまりに対する真の解決は、新たな発展のSeedsを見つけ出すことによって得られる、ということである。
これまでに考えられなかった新しい理想を作り出し、これまでに知り得なかった新たな可能性の世界を捜し出し、これまでに存在しなかった魅惑的な目標を掲げることである。
新たなものをつくりだすことは、このような理由によってそれ自体、社会正義なのである。

人はしばしば一芸に秀でること、すなわち専門領域を深く掘り下げることが善であると考えがちである。
ところが、このような人たちからは新しいものは生まれない。
深く深く掘り下げているつもりが決して深くなく、細かくいじくりまわしているだけなのである。
にも関わらず、この種の人びとは、自分たちが最先端を行なっているとごかいしている。
そして革新的な発想を、狭い視野の中からことごとく否定する。

専門馬鹿という現象は、単なる能力の欠如以外の何者でもないといういべきだろう。
“広い視界”が深い理解に必要不可欠である。

「疑問をもつことが重要だ。ただし度を越さないこと」。これが科学的な態度なのだそうだ。
だが、敢えていおう。「限度をわきまえるな」と。

現状のもっとも根本を逆転させよ。論理だけではない。感情や道義などからの違和感さえ克服しての逆転だ。
否定や抵抗は評価のしるしと考えよ。

「不条理な抵抗や否定にあうような発想の中から、真に価値ある発想を捜し求めよ。
みんなが良いということは、どうでもよいことである」

「閉塞状況下、すなわち行きづまり状態においては、従来の前提のもっとも基本的なところを否定せよ。部分的修正は状況をさらに悪化させる」

「たとえ空想でも、思考としてこの世に存在し得るものは、実現可能なことである」
―は、別な表現をすれば、
「人間の乏しい想像力で考えられることは、せいぜい実現可能なものだけである」ということであった。



ハイポロジストは誤解される。孤独だ。みじめな存在でさえある。
それを承知でハイポロジストになりたい人のために、十の条件を記そう。

●ハイポロジストのための十カ条

1 空想であれ願望であれ、考えとして存在するものは、すべて実現可能なことである。
〔ハイポロジクスの原理〕
2 新たなものをつくり出すことは、それ自体、社会正義である。これを否定する者は、正義の名のもとに排除されなければならない。
〔変革(Break Through)の原則〕
3 単一専門領域をいくら深く掘り下げても、新しいものは生まれない。広い視界が、深い理解と新しい発想には不可欠である。
〔超視界(Hyper Vision)の原則〕
4 社会の不条理な抵抗や否定にあうような発想の中から、真に価値ある発想を探し求めよ。みんなが良いということは、どうでもよいことである。
〔反撃(Counterattack)の原則〕
5 行きづまり状況下には、従来の論理のもっとも基本的なところを否定せよ。修正主義は状況をさらに悪化させる。
6 発想は長い間寝かせよ。短期間で成果を得ようと思うな。本を読む前、データをとる前に思考せよ。
7 パイオニアは、その良き理解者とペアで一人前である。
8 高次元の問題を扱うときほど、人間は低次元の感情にかかずらう可能性が大きいと心得よ。
9 実力以上に自分の可能性を信じ、能力以上の問題に挑戦せよ。大風呂敷を広げよ。
10 技術者にとって技術的主張は、個人の思想、信条であり、基本的人権と不可分のものである。誰からも拘束される必要はない。


創造力というのは、能力というよりも執念といった方が適切である。
この執念において、日本人は、本質的に決して諸外国の人びとに劣るものではない。
ただ現在のところ、理解力型秀才が社会の重要なポジションを占めているため、どちらかというと日本は、基本的な問題において欧米より創造力に乏しいような印象を与えているにすぎないのである。

しかし、創造力型天才がそのポジションに入れかわった場合、日本の創造力たるや、世界のどの国の追随をも許さないほどのものになるはずである。日本の創造性が乏しいといわれる所以は、国民性にあるのではなく、社会体制の中にあると私は考えている。

7/03/2007

○―×

沖縄の青の洞窟。
私は行きませんでしたが、子供たちがシュノーケリング・ツワーに行きました。

いろいろ考えるところがありまして、よく分からない○と×。
人生いろいろ。


○―×

自信―失敗するはずがないという意識

スピード―拙速

機知―口の悪さ

アンテナを張り巡らす―よさそうなものだけに目を向ける

献身―仕事中毒

制御―柔軟性の欠如

勇気―向こう見ず

我慢強い―変化に逆らう

人を引きつける魅力―人を思いのままに操る力

倹約家―ケチ

一途に取り組む―妄信

さわやかでたのもしい経済社会への道


沖縄の田舎に居たから、以下のようなことを。

どなたが著したかは分からないのだが、メモ書きがみつかったので。


「さわやかでたのもしい経済社会への道」

1、ぎりぎり 必要なものだけを 求めよう

2、工業製品ではなく 手作りを

3、スーパーマーケットではなく 個人商店 または生協に つながろう

4、虚栄と浪費のシンボル―誇大広告を まずボイコットしよう

5、最大の浪費 ミリタリズムに かかわらない

6、生活のすべてに もっと 工夫と創造を

7、新しい 生産と流通のシステムを 試みよう

8、汗と思いを わかち合う よろこびから

9、真の豊かさとは 物と金に 依存しないこと

10、野生への第一歩―よく笑い よく歌い よく遊ぶ