8/04/2007

2ちゃんねるはなぜ潰れないのか



2ちゃんねるはなぜ潰れないのか?/ひろゆき(西村博之)

フューチャリスト宣言より、共感した。以下、うーんと唸った箇所を。




「○○をしない」と堂々と言うことは「いつか自分は○○するよ」という意味だと、僕は考えています。「人を殴らない」と言う人は、いつか誰かを殴るから、その言葉を使うわけで、そもそも人を殴ることを想像していない人には、そんな言葉は思いつきません。

こうやってグーグルを見ていくと、決して優秀な技術力のある会社ではなく、優秀な企画力と営業力のある会社であることが見えてきてしまうのです。いろいろな方々が、グーグルがすごいとおっしゃっているようですが、僕には、企画・営業力とサーバーメインテナンス以外、スゴイ部分がわかりません。

グーグルやミクシィがWEB2.0企業と呼ばれているのをみると、WEB2.0の裏に隠されているものは、技術力ではなく、いかにクリーンなイメージを押し出すか、そして、いかにユーザーの心を惹きつけられるのか、ということなのかもしれません。

ライブドアは挑戦をしない会社へと変貌してしまいました。結果、今まで安い給料でも面白いことができるからとライブドアに所属していた優秀な人材が、面白いことすらできない状況になったことで外部に流出してしまった。

動画を観る行為自体は暇つぶしのネタです。2ちゃんねるのニュース速報を見ている人は、ニュース自体に興味があるわけではなく、何かちょっとでも自分が絡める話題があれば一言言いたい。ニコニコ動画は、その感情の動画版というだけなのです。

頑張れセカンドライフ
その理由の根幹にあるのが、基本的にお金がないと面白くないというシステムです。物を売買し、自分を着飾ったり、家を作り上げたりするゲームなので、何をするにせよお金を払えとしか言われない。お金を支払わないでできることはチャットくらいという、商行為がゲームの全てでないのです。ゲーム内で楽しむためにお金を支払えと言われて、支払う人がどのくらいいるのでしょうか?お金を支払ってまでセカンドライフの中で楽しまなくても、現実に楽しいことは、たくさんあります。
セカンドライフ内に知り合いが大量にいて、チャットをすれば面白いかもしれない、とも考えましたが、セカンドライフでは一つの空間(1SIM)にユーザーが約50人しか入れないという制限がある。これだけマスメディアがセカンドライフを報じているにもかかわらず、なぜか、この事実にあまり触れません。

日本だけではないのですが、このように法律が技術発展や利益の見えない足かせになっている事実は、確かに存在するのです。

8/03/2007

フューチャリスト宣言・梅田望夫&茂木健一郎



フューチャリスト宣言・梅田望夫&茂木健一郎

本屋に平積みになっていた春に読んで、以下の内容ピックアップ。

梅田さんは理想論者だね。でも、勉強になった。





インターネットの成り立ちのところに、利他性というかボランティア精神的なものがかかわっている。インターネットという素晴らしいものが毎日動いている裏には、いろんな人のただ働きがある、無償の奉仕をしている人がいる。

シリコンバレーのルーツは、フロンティア精神、テクノロジー志向、反権威、反中央、反体制、それからヒッピー文化、カウンター・カルチャーというか、そのへんの組み合わせですね。
日本にも反体制、ヒッピーっぽい人はいますが、その人たちは往々にして技術を持ってない。しかも、うらめしそうな視点(ルサンチマン)を世界に対してもっている。意欲でも権威の側に負けていることが多い。でもアメリカには全然違うタイプがいますよね。

要するに自分一人の能力がテクノロジーによって増幅されなければ、必ず権威に負けるわけですね。権威と闘う道具としてのテクノロジーということです。

コンサバティブなことを言うほうが最後は負けるだろう、そのくらい世の中が進歩することが経験的にわかっている。コンサバティブなことを言うほうが陳腐化するだろうなという、逆の常識がある。だから僕なんかも、たとえばブログやウィキペディアを見て、「wisdom of crowds/群集の叡智」だとか「総表現社会の到来」だとか言うのは、そういう逆の常識に導かれているんですね。

今の日本社会は、新しく生まれた大きな存在に対して、「気に入らない」と言っていると何とかなってくれるんじゃないかと思っている。もう後戻りできないほど強力な力が働いているのだから、そのことを前提にどうやっていくか、という議論を本当はしないといけない。
どんなものでも、新しく出てきたものは毒性が強い。

自分の肩書きに頼ってモノをいう奴は本当にダメで、肩書きはいらない。ブログが一個あれば良い。ネットでのプレゼンスをどれだけ高めていけるかという、その戦略というのは大事なんですね。

ネットは絶対に有料にしちゃいけないんです。無料にしてそれで広告が入るかといったら、先進国でまともな生活ができるほどは普通に入らない。一方、リアルというのは不自由だからこそ、お金を使って自由を求めます。だから永久にリアルの世界でお金が圧倒的に回る。この二つの世界での生計の立て方とか、それから知的満足のしかたとか、いろいろ組み合わせて戦略的に考えていく必要があります。

個人が組織に属しているという考えはもう古い。勤務規定とかがあるとして、人事の人たちの顔をつぶしてはいけないから、積極的に反逆することはしないほうがいい。でもそんなことで自分の行為をがんじがらめに縛ったら、これからのネット時代に輝けない。組織と個人の関係をうまくやらなければ日本は活性化しない。組織が大事だと言うならば、シリコンバレーとは違う、日本的な表現があっても良いのです。七割は会社なんだけど三割は個人、そんな考え方もアリだと僕は思っている。

談合社会の中に入って仲間になれという圧力が、日本社会のありとあらゆるところでとても強い。

「可能無限」という概念があります。もともと数学用語で、自然数を1,2、....と数えていった時に、どんな大きな数(n)を考えてみても、さらに大きな数(n+1)を、可能性としてどこまでも提示できるということ。可能無限は、「もう一つ増やす余地がある。」という意味での「空白」によって常に支えられている。他方、実無限(本当の無限)というものは、実際に我々が扱うことはできない。私たちは実無限を決して知りえないし、人生において手に入れることもできません。人間に与えられた時間には限りがある。にもかかわらず、若者が「また次の日がある」と思い続けられるのは、じつはそれは可能性としての無限に過ぎないにもかかわらず、実無限であるかのように感じることができるからです。ただ、そのことの効用は大きい。ネット上はまさに可能無限の宝庫で、それはリンクをどこまでもたどっていくことができるから、実無限は手に入れられないけれど、ネット上ではまさにフリーで、ドンドン歩みを進めることができる、可能無限が実現している。

警戒心を解くというのが、ネットで生きるための大切な知恵だと思います。僕はいろんな情報をネット上で公開していますが、そういうことができない人って、やはり警戒心がある。著作権フリーでおいておくと、悪用されてしまうんじゃないかと。でも、コミュニケーションを阻む最大のものは警戒心ですよね。あるいは、免疫作用というか。自分を守ろうとする気持ち。そういうものを取り払ってオープンにしていかないと。

世の中で求められているのは、創造性とコミュニケーションなんですよ。

僕のプロフェッショナルの定義は簡単です。お金をもらっていることじゃなんです。お金をもらっていても、仕事を楽しんでいなければプロじゃないんです。プロフェッショナルの定義というのは、自分のやっていることに快楽を感じる人。しかも、生物学的に単純な快感じゃつまらない。そうではなく、仕事とか勉強とかをいくらやぅっても飽きない人。

8/02/2007

笑いの感覚



笑いの感覚ほど、共有するのが困難なものはない。


笑いの感覚ほど、その人の判断基準になり得るものもまたない。


笑いの感覚は人それぞれであり、複雑でもある。

松山猛 Mr. Freedom










松山猛 Mr. Freedom


自分のスタイルを持つことがいかに大切かを、忘れたまま大人になることは、生活の楽しみの一つを、自ら放棄することになる。



大人になってスーツを着て生活するのには慣れる人は多いが、それは学生時代の学生服の延長のようなものだ。
型にはまっている安心感とでも言えばよいのか。
だから普段着に何を着ればいいかが分からない大人が増えた。
団塊の世代ももうすぐ定年の時代を迎える。
スーツを脱ぎ去った後、彼らは途方にくれるのだろうか。



それは「足る、を知る」精神であり、同じ時代を、励ましあいながら生きる、仲間の力の大切さだった。いざとなったら友を助ける努力をしよう。
そう21世紀は「趣味と友情」の世紀でありたいと切に思う。一人勝ちするだけなら、友は去っていくばかり。
孤独であっても有り余る豊かさを取るか、そこ、そこの生活でも、にぎやかな人間模様を取るかの、いまは分岐点なのかもしれない。


8/01/2007

谷口雅春

生長の家創始者谷口雅春の本を読んで。ブックオフで100円で購入。良い事書いてあったの以下に。


最も永続性のある宝
人間の最も滅びがたき永続性ある宝は「徳」である。金銭は徳なくして多く得れば必ずその人を破滅に導くのである。
快楽は徳なくして多く得れば、その人の魂を荒廃に導くのである。
美貌は徳なくしてこれを得ればその人を堕落に導くのである。
金銭は徳なくしてこれを使えば、浪費せられて間もなく貧しさが訪れる。
快楽は徳なくして貪れば忽ち苦渋と変わる。
美貌は時とともに老い朽ちてあとを留めなくなるのである。しかし徳は、これらすべての物を生かすのである。
金銭は徳ある者これを使えば必ず人を救うのである。
快楽は徳あるものこれを得れば人生に興趣を添えるのである。
美貌が徳ある者に備わるとき愈々高く気高くなってその人に接するだけでも人々の魂を高めるのである。

「徳」が身に備わるためには
徳は位置にして備わらない。徳は良き行為の累積がついにその人の人格より発する光輝となったところのものである。
毎日人様の便所を掃除するとか、廊下の拭き掃除や、掃き掃除をするとか、貧しき人を援けてやるとか、人々の垢を流す風呂を沸かすとかして、人々に好感を与えるように、人々に便利を与えるように人々を何らかの形で救ってあげるとかすることによって、その人に何となき温かい風手が備わるようになってくる。
内にたくわえられた「徳」が外に光を放つようになった時、その人の容貌は、生まれつきの骨格がどうであろうと何とも言えない、麗しい、優しい、親しい、そして威厳のある感じをもつようになるのである。美貌というものは「愛によって変貌した容貌である」と或る人が言った通りである。

何用あって月世界へ



何用あって月世界へ  山本夏彦名言集





八百長は必ずしも悪事ではない。この世はもっと本式の悪事に満ちたところである。それを知って悪に染まないのと、知らないで染まないのとでは相違する。
いうまでもなく、知っててそれをしないのがモラルである。
私はすべて巨大なものえらそうなものなら疑う。
疑わしいところがなければ巨大になれる道理がないからである。大デパート、大会社、大新聞社は図体が大きい。よいことばかりして、あんなに大きくなれるはずがない。
総評や日教組は組織が大きい。
もっとも大きいのは世論で、これを疑うのは現代のタブーである。
だから私は疑う。
世論に従うのを当然とする俗論を読むと、私はしばしば逆上する。

善良というものは、たまらぬものだ。危険なものだ。殺せといえば、殺すものだ。

全き善人と芸術家とは、ふつう両立しない。
私は各人に個性があることを前提とした教育は、間違いではないかと疑っている。
人は個性ある存在ではない。人は大ぜいに従うもので、従ってはじめて安心するものである。
従えと言って、断じて従わぬ個性はまれである。万一あれば大ぜいは、世間は、社会はそれを爪はじきする。
すなわち、爪はじきされて、はじめて個性は頭角をあらわす。ちやほやされて育つ個性なんて、今も昔もないに決まってる。
(才能というものは)のぼり坂が三年、のぼりつめて三年、くだり坂が三年、〆て十年続けば良いほうである。
「愛する」という言葉を平気で口に出して言えるのは鈍感だからだ。
愛するが日本語になるには、まだ百年や二百年はかかる。
大きな声では言えないが、私の袖の下またワイロに近いものは必要だと思っている。世間の潤滑油だと思っている。
人は潔白であることを余儀なくされると意地悪になる。また正義感になる。
汚職は国を滅ぼさないが、正義は国を滅ぼす。

同類は何百人集まっても一人である。

金は魔物というが労せずし舞いこむ金はことに魔物で、人の子を毒すだけである。まずこれを減らすまいとして臆病になる。
利息だけで暮らそうとしてケチになる、人が来ると借りに着たのではないかと疑うようになる。
「年寄りのバカほどバカなものはない」ということわざ、大好きです。






7/31/2007

実践冥想ヨガ・生活編


実践冥想ヨガ・生活編/沖正弘

自分が本当の意味で自由自在にいきていてこそ、相手も自由自在に生かすことができるのです。こちらがとらわれると相手もとらわれ、こちらが嫌うと相手も嫌ってしまう。このように自分も生き、相手も生きる世界が悟りの世界です。無になるための修行法が禅であるのです。

人間的霊能者とは、感謝心、懺悔心、下坐心、奉仕心を持ち、愛の心で愛の生活が出来る人のことです。愛とは一番正しく物事を把握し、一番正しく物事を実行することですが、この基本が感謝、懺悔、下坐、奉仕の心なのです。このためには体を柔らげること、心は安らげること、生活は楽しむことが必要なのです。ヨガの肉体的訓練はすべて体を柔らげるものであり、この原則が笑いです。そして、体全体を笑わせるものが呼吸法なのです。心を柔らげるには喜びを感じる必要があり、喜びを感じるには感謝心がなければならないのですが、おかげを感じないと感謝心は出てきません。楽しみは相手に喜びを与えたときに自分の手にすることができるものです。自分だけ喜んでも本当の楽しみは与えられません。仕事においても、仕事が喜んでくださるような仕方をしたときに、こちらも楽しくなれるのです。

本当の儲けとは、自分の儲けと相手の儲けと社会の儲けとがピタリと一致した場合をいいます。自分だけの儲けでは偏りがあります。自分と相手と社会の儲けを併せると大きな儲けになります。

引けば引かれ、いじめればいじめられ、泣かせば泣かされる。困らせれば困らされる、騙せば騙される。これが自然の法則です。私は、日々の生活と仕事は、どれだけ自分の全力を投球できるかを見るためにあるのであり、このすべてへの全力投球の生き方が自己にノルマをかけることであり、この自己にノルマをかけた仕事の仕方をするとき、はじめてその仕事が自分の仕事になるのであると思っています。

才能は喜びを感じる刺激を与えた時に伸び、良い人間にもなりえます。体が喜べば健康になり、心が喜べば幸福になるのです。ですから、どうしたら喜べるか、どうしたら喜ばすことができるかを意識的に考えるのです。喜びを感じない生き方をしていると疲れてしまいます。疲れないための原則は、心、体、仕事に対して柔軟性を持つことです。出来るだけ広く学ぶと人生が面白く、愉快で楽しくてたまらなくなり、よいアイディアも浮かんできます。

教育とは、自分が犠牲になる覚悟でするものです。相手を裁きたかったら、先ず自分から裁くのです。

私たちは何を学ぶにも、先ず自己流の考えを無にして正しい型に入り、その型の中で正しい方法を体得するのが自己の開発法であり、ものを正しくなすコツに至る道であると思います。これを「心眼を開く(開眼)」というのです。体の働きを正しくし、心を鎮めて、永遠の安らかさ(ニルヴァーナ)の中で、自然に出てきた感じを音に表すのが音楽家であり、色にするのが画家であり、文章にするのが文筆家で、事業にするのが事業家ではないでしょうか。心の成熟は「次第に」ですから、何事も年期を入れなくてはならないと思います。あせらず、しかし怠らずにです。表現は心身の練磨と、心身の環境の調和によってなされるものですから、自分がどういう状態であるかということが決定点です。

一切の煩悩から離脱して、身構え正しく、一物に心を込めて、無心にことをなすのが真実(コツ)に至る道ではないでしょうか。すなわち冥想行法の実践です。
その意味で、日本の生花や茶道や武道の発生、その発達によって教えられることの多いことを感じます。これらの、心を静め、心を清める芸道は、生死の真っ只中に立たされている武士たちによってつくられたものです。
私は華道とか茶道とかは美の宗教であり、武道やスポーツは道の宗教であり、日本文化の特徴は求道を中心にしているところにあると思います。求道を目的としている武道やスポーツは、勝負がその目的ではなく、心の修養がその第一目的となっていて、修行を通じて大自然の法則を体得して、その真理に沿った生き方の工夫をする自己完成の道です。静的な求道でも動的な求道でも、その原則は心を統一し、安定した姿勢をとり、丹田力を充実させ、意識を明確にしうる呼吸で行うことです。とくに動的訓練は、千変万化の動作をして、しかも乱れない心と安定した体をつくるのがその目的です。

人間は文化生活と称する不自然な生き方をしていますから、このアンバランスな生活の中でバランスを回復し、維持する能力を身につけない限り喜びは与えられません。自然法則とは「絶え間なく変化しながら、しかも安定性を保っている」働きです。アンバランスをバランス化してしまうことが救われる原理なのです。

今時分が困っているのは、誰が悪いのでもなく、今までほかを困らせてきたことの証明書なのです。自分を支配している法則と、社会を支配している法則は共通の法則です。生活の上で悪いことは心身の上でも悪く、仕事の上でも悪いのです。人間として成功する者は、そのまま生活で成功し、仕事で成功し、社会で成功することができます。自分が自分に成功することは、自分を大切にすることです。宗教的な言葉で「自分を拝むことが出来る者がはじめて他を拝むことが出来、自分を愛することの出来る者が、はじめて他を愛することが出来、自分を大切にすることが出来る者が、はじめて他を大切にすることが出来るのです。そして、自分を活かすことの出来る者がはじめて他を活かすことが出来、自分を管理できる者が、はじめて他を管理出来る」と教えています(自業自得の原理)。

筋肉を柔らげるためには心の力を抜くことが肝要で、このコツが呼吸を深く静かにすることです。頭にカッとくるようではダメです。いかなるときも冷静さを保っていることが心の修養であり、その秘訣が宗教心を身につけることです。そしてその第一歩が意識的に有難いと思うこと、依頼心を捨てることです。依頼心を持っている限り、そこには憎しみ、不平、不満が生じてきます。一切のことを自分でやるのだと思えば不平、不満をいう相手はなくなるはずです。心の平安を保つには「乞食根性」と「ヤクザ根性」を持ってはいけません。他に依頼心を持つことは、乞食根性を持っていることです。恩を売るのをヤクザ根性といいます。恩はただひたすらにかんじるべきものであって売るものではありません。無条件の善事がまことの善事であり、このまことの善事なら、業を残さないから、自然的に無執着心になれるのです。

頭を軽くし筋肉の力を抜くコツは呼吸をととのえることです。胸を張って肩を下げて、わきの下の力を抜いて下さい。感情をコントロールするのは胸であり、欲望をコントロールするのは腰であり、思考をコントロールするのは首であります。

冥想行法は、自己流の考え方や囚われた考え方から離れる修行ですから、どのようなことにも、引っかかったりしないことが肝要で、悟ろうと求めたり、奇蹟や神助を祈ったり、治りたいと願ったり、真理とは何かなどと、求めても考えてもいけないのです。ただ無条件に行うのです。すなわち生じるままに生じさせ、滅するままに滅しさせるおまかせの心になるのです。見性、見神による信仰心が最高のおまかせの心であり、この心は安定していて静寂ですから、明鏡止水の状態とか、超えた心とかと形容し、何も求めていないかのような状態なので、無心というべきものです。

私は自由に求道したい心から、生涯何にも属さず、できる限り多くのことを体験するという生き方を続けて、約五十種のちがった職種の体験を持っています。商売とは、お客様に喜んでもらい、ほかの売り上げも伸ばしてあげるという、商道にまで引き上げてこそ価値があるのです。

安易な道を選ぶのは商売をする者のとるべき道ではありません。売れない商品を仕入れると、売るためには、どうしても全力投球しなければなりません。あらゆる知恵を総合しなければならないのです。自然に、あらゆる方法を研究し、知恵を高めていくことができるのです。

科学がそのまま哲学であり、哲学がそのまま科学であり、医学がそのまま宗教であり、宗教がそのまま医学であり、心理学がそのまま体育学であるというようになったとき、はじめて人間育成の学ということができると思います。それはこれらの学が人間とその生活に直結するものだからです。心の注意力と体の注意力が最高の状態で協力結合して、ある一つの目的物へ全力を集約傾注できるようになったときが統一状態で、このことを繰り返して行っているうちに相手のことがそのまま自分のことのように分かるようになったら、これが自他一如の境地です。この自他一如になったときが合掌礼拝の境地であり、相手のことがそのまま自分のこととして考えられ、感じれるようになったときが、本当の意味の和合(三昧)であり、ここに真の平和と自由の世界が生まれるのです。

「生命力を弱めている者ほど、心身の働きの失調者ほど、外的条件を多く要求するのである」

直感、直覚を働かせる秘訣は、何に対しても同じことです。それは、好きになることです。関心を持つことです。愛の心をそそぐことです。発見、発明はこの心から生まれるものです。仕事が好きになれば、仕事の方が感じ方、読み取り方、やり方を教えてくれるようになります。これが三昧です。

7/30/2007

ヨガの喜び

ヨガの喜び・沖正弘


活用能力とは、敵を味方にする力のことだ。あれはだめ、悪い、害だ、などの否定的な言葉を言う前に、相手をどうしたら救えるか、高められるかを考えるべきだ。
相手が敵だと思っている間は、こちらはおどおどしていなければならない。そんな否定的で消極的な気持ちでいるうちは、心は安定していないし、強い心を持っているとは言えない。
相手に何度背かれても、最後まで愛することだ。自分が腹を立てたら、自分の負けになる。
活用能力のことを、「愛」という。
嫌いな友達とも付き合い、病気にかかっても感謝する。そしてその友達を好きになる方法、病気を活かす方法を考える。これは「祈る」ということでもある。
例え嫌でも、とにかくやろうとするところから強い心、しなやかな心は生まれる。

現代人のように、考える力ばかり練習していると、感じる力は衰え、生活は間違ったものになるのだ。
でも、この考える力は、人間はどんなに進化しても、生命があるかぎりその基本として働きつづけている。いま見えなくとも、ただうずもれているだけだ。「第六感」、「虫の知らせ」、「嫌な予感」というのがそうだ。

瞑想方法は、感じ方、考え方を正し、高めるために行う。その行法では、まず無心になることを説くが、その前段階が一心になること(ダラーナ)である。
一心とは、たったひとつのことだけに、心を集中することである。見る時には見ることにだけ徹する。聞くこと、歩くこと、考えることも、徹すれば、感じる力が協力してくれるようになる。一心をつづけていると無心になるのである。
心が分裂していては、感じる力は働かない。だから、困った時ほど騒がず黙っている。心を静かにしていれば、どうしたらよいか自然にわかってくる。

いまの教育は、知性開発の訓練ばかりしていて、感じ方開発の訓練をおろそかにしている。芸術科目だけは感じる能力の訓練になるはずなのだが、その 時間はごく少ないし、型にはめる練習法しかやっていない。絵を描くときも、お手本のようにきれいに描くことだけが念頭にある。これでは何にもならない。
ほんとうは、自分がどう感じたかそのままを、色や形で表現したものが絵である。
踊りや音楽も同じだ。うれしさや悲しさを、無心になってそのとおりに体や音で表現するのが芸術のはずだ。
無心になってのものごとをじょうずに行うコツは、遊びにあるかもしれない。

金があると思うから心配したり、不安になったり、疑ったりして少しも落ち着かない。心が執着してやまいものから、しばらく心を意識的につきはなし、 自己の心身のありようを客観的に見つめてゆく。あっても、ない。あるいは、なくても、ある。自分をいつも反対の状態、極限の状態に置いて、意識的に練習を つづけてゆく。

壁にぶつかったら、心を集中して何度でも、挑戦する。そして、もう打つ手がなく、力を出し尽くして、心を無にしたときに、壁の向こうが見えはじめる。
だから、自分がとことん打ち込める何かを発見することは大切なことだ。努力しつくさないと本当に信ずることは出来ない。考えに考えないと、その考えの渦から抜け出すことはできない。

「おまえにこの人間をあずけるから、その問題の解決に手を貸してあげなさい。それがおまえのためでもあるのだ。この人間が救われなかったら、おまえも救われないよ。」

7/29/2007

天才をプロデュース?



天才をプロデュース?/森昌行






私が考えるプロデューサーとは、まずファイナンスの責任を負う人間であることです。つまりプロデューサーとは、ビジネス・サイドとクリエイティブ・サイドのブリッジであるべきだと考えていて、その両方に対する責任から絶対に逃れられない立場の人のことを言うのです。責任があるから権利もあると言うことであって、「内容は監督がやることだから」と任せてしまうような人は本来のプロデューサーではないはずです。

ローカル・コンテンツこそ海外に通用する
本物のローカル・コンテンツでない、まがい物のインターナショナル・コンテンツが、この国のショービジネスにはあまりにもたくさんあるということです。よく「これが音楽的に世界の最先端」とか、「ロンドン録音」などを売り文句にしているけれど、実際聴いてみるとそれはあくまで外国の音楽のコピーしているようなものに過ぎなくて、国際競争力とは無縁のものだったりします。しかもそれを分かっていて確信犯的にそんなキャッチコピーを付けているだけならまだしも、本気で「これが世界だ!」なんて勘違いをしているケースも見受けられます。ナントカもどきは所詮、下品なまがい物に過ぎません。まあ、当人が幸せならそれもいいまもしれませんが。

行動の理由を明確にしよう
要するに記者会見というのは、私たちにしてみれば自分たちのためにメディアを利用する場であって、メディアに野ヅラの状態をさらす場ではないんです。