10/13/2007

不道徳 橘玲


不道徳 橘玲


人々が自由に生きればすべての人が幸福になる。
すべての人を幸福にする行為は道徳的である。
したがって、自由に生きることは道徳的である。



そのやりとりをバローは具体的には書いていないが、このカリスマ的なロックスターに経済学者は次のように言ったと思われる。
「ボノ、君の音楽はすばらしいけれど、君の経済学は間違っているよ」
アフリカの貧困という破滅的な事態に対して、ボノのようなリラベルな活動家は、国家の介入によって問題を解決すべきだと考える。

どれもすばらしいことだが、ひとつだけ問題がある。最貧国への経済援助はすでに何十年もつづけられてきたが、ほとんどなんの効果もなかったのだ。



じつはリバタリアンは、世界の貧困を劇的に改善する方法を示すことができる。それは、すべての先進国が移民規制を撤廃することだ。それによって、アフリカの貧しい人々は大挙してヨーロッパ諸国に出稼ぎに行き、故郷に金を送金するようになるだろう。同様に、中南米の貧しい人々はアメリカへ、中国の貧しい人々は日本へ押し寄せ、彼らの所得は飛躍的に増えるはずだ。
私たち日本人を含め、先進国の国民は、たまたま豊かな国に生まれたというだけでとてつもない既得権を享受している。そしてこの既得権を守るために、厳しい移民規制によって貧しい国の人々を貧しいままに閉じ込めている。だが、すべての人が自由に生きる権利を持っているならば、国籍にかかわらず、だれもが好きな場所に暮らし、平等な条件ではたらくことができるべきではないだろうか。



①「不道徳な人」は暴力をともなう悪事をはたらいているわけではない。
②実質的にすべてのケースにおいて、「不道徳な人」は社会に利益をもたらしている。
③もし「不道徳な人」の行為を禁じるならば、わたしたち自身が損失を被ってしまう。



差別は国家によって行われることもあるし、個人がだれかを差別することもある。だが、国家による差別だけが女性の権利を侵害するのである。差別が私的に行われる場合は、彼(または彼女)は自らのリスクにおいて差別する。しかし国家は、市民から徴収したカネを使い、市民に責任を押しつけて差別を行う。このちがいは決定的である。



女性に対する深刻な被害はほとんどの場合、公共の場所で発生するのである。



役人は部下から嫌われてもクビになることはない。仮に補塡格差のぶんだけ賃金を引き上げたとしても、その原資は税金なのだから自分の懐は痛まない。彼にはセクハラをやめる理由はなにひとつないのだ。これが役所や公共団体や国公立学校で悪質なセクハラが頻発する理由である。



「双方の話を聞け」という先人の言葉を思い出すのはよいことである。なぜならば、もしも大多数の人がなにかに反対しているなら、彼らの批判とは逆に、そこに好ましいなんらかの要素があるにちがいないからだ。人類の長い歴史において、多数派の意見はたいていの場合、間違っていた。



福祉とは、大衆を支配するために権力者が用意した「パンとサーカス」であったのだ。



①宣伝屋
「広告は付加価値を生まないから不要である」との偏見に対する反論。われわれは常に、学歴や肩書や衣装などによって実物以上に見せようと「宣伝」している、とブロック教授は説く。「広告業」はいまや不道徳な職業ではなく、企業の広告部や大手広告代理店は花形職業になってしまった。

10/12/2007

持たない!生き方 米山公啓


【「持たない!」生き方 米山公啓】


今思うと、捨て去ることの重要さを痛感する。次の生き方を求めるなら、今を捨てなければ、決して次のステップには進めないのだ。
捨て去ることで、喪失感はなくなる。守っていこうとするから、喪失感が起こるのであって、求めていくなら、そんなことはまったく問題はない。
肩書きも持たず、ものも所有しない潔さこそ、新しい人生の生き方である。それができなければ、新しいスタートには立てない。


過去を語らないことこそ、若さの証明であり、まだまだ前向きに生きるという姿勢の現れである。定年になってから、会社では有能だったとか、肩書きがどうだったとか語るのはやめるべきだ。
過去を語れば語るほど、現在の存在ではなくなってしまうからだ。未来を語れることが、若さなのだ。


病気はあくまでも個人の問題として割り切って、もっと前向きな楽しい話題にすべきである。「あいつはいつも自分の病気のことばかりだ」と陰でささやかれているかもしれない。
同情はされても、それだけのことで、自分の健康がそれで取り戻せるわけではない。だったら、病気のことを頭から排除しようと考えるべきだ。


人に教えるということは、自分も非常に勉強になる。素朴な質問に答えられなくなって、いろいろ調べなければいけない場面も出てくる。冷や汗もかくが、それが自分にとっても大きなメリットになるはずだ。
しかも、人に教えることは、自分の表現能力をアップすることにもなる。それが脳を若くする秘訣になる。人に教えられる何かを持っているということは、歳をとってもずっと大きい財産になるだろう。
教えることで社会とのつながりも維持できるのだ。


あえて自分を人前にさらすことが、評価を受けることにもなり、それが尊敬やいい評判となれば、脳が満足という快感を知って、また次の行動を起こそうとするようになる。
芸術家や芸能人が若いのは、常に人から見られているという緊張感を持っているからだ。
緊張感はストレスにもなれば、励みにもなる。年齢とともに人前に出るチャンスが失われることになりやはり、年老いていく原因でもあろう。


同窓会というのは、タイムカプセルを開けるようなもので、友人たちにあう時は、現在の肩書きなど関係なく、昔に戻ることができる。
いわゆる記憶の虫干しとして、過去の記憶を鮮明にさせることも、友人たちと語っていれば、可能である。忘れていたいろいろなエピソードを思い出すことができる。




【日本国破産のシナリオ ラビ・バトラ】

『人はいつでも利己的であると考えるのは正しくない。お金が絡んで来ると、人間は利己的になるのだ。



『健康に気をつけてほしい。特に精神的な健全性を維持することが重要だ。残念ながらこういった時期には、絶望的になって自殺する方が増える。やはりこの時期を戦い抜く精神力が必要なのだ。

10/11/2007

禅的生活のすすめ・ティク・ナット・ハン


「禅的生活のすすめ・ティク・ナット・ハン」 

他人の好ましくない言動を目にすると、私たちはすぐ不快になります。
特に自分の子供に対しては、いっそう敏感になるでしょう。
その時に理解と哀れみが充分でないと、私たちはつい相手の言動に刺激され、自分の中の苛立ちの種を発芽させてしまいます。
その結果、身体的な暴力や精神的な暴力を振るいかねません。
誰かに腹を立てているとき、人はその誰かを教え論せる状態ではありません。
そういうとき、どんな言動も慎むべきです。


どうか、自分が今苦しんでいるからといって、他人にひどい言葉を吐いたり、仕返ししたり、罰したり出来ると思わないで下さい。
そういうときも、自分の中の苦しみを受け入れる事によって、あなたは人を助ける事が出来るのです。
そういうときには自分の仏性を思い出すための瞑想を行ってください。
息を吸って、自分の未来の目覚めの力、穏やかさと哀れみをもてる能力を、もう一度深く信頼してください。


平和活動に従事する人は、強く、しっかりしていなければならないと同時に、心底から安らかでなくてはなりません。
平和活動には内面の安定が不可欠です。
自分自身に気付けなければ、人を助けることなど出来ません。
自分自身の悲しみや絶望、又は自分自身の内面の葛藤から逃れる為に、人を助けようとしてはなりません。
自分の内面が本当に穏やかで安定していない限り、いくら努力しても人の助けにはならないでしょう。私たちは先ず自分に対して気づきを実践し、自分に対して哀れみを深めなければなりません。そうすれば自分の中に平和と調和が生まれ、社会の変革にも役立てるようになります。

簡素な暮らしの実践には多くの利点があります。
必死に物を所有しようとしなくなれば、もう多くのお金は必要ありません。
したがって、それほど働かなくてもすむようになります。
そうなれば、有意義なことや楽しいことに多くの時間を費やせます。

これを見事に表した孔子の言葉があります。
「何処で充分となるかを知っていれば、おのずと充分となる。しかし充分になるまで待っていれば、決して充分にならない。」


「陛下、僧はほとんど自分のものを持ちません。ですから所有物を失ったり盗まれたりすることに対する恐怖がいっさいありません。森の中に独りでいても、木下でくつろぎながら安心して眠れます。恐怖から開放されているということは大きな幸せです。僧は富や名声を追い求めません。必要なものしか使わず、欲望とは無縁のままです。こうした何の心配もない安らかな状態で暮らせることは大きな幸せです。それが精神修養のもう一つの成果です。それはこの場でこの瞬間にも味わえます。」


私たちの社会は、名声や富や物質や快楽主義への願望に支配されてきました。
その結果、多くの人が精神的伝統や家族を切り捨ててしまいました。
権力やセックスや財産を追い求めることにしか喜びが見出せないと信じていたら、健全な家族などもてるわけがなく、意思の疎通も望めません。
幸せはモノを消費することからは生まれません。

10/10/2007

『虚構と瞑想からの超発想』山田久延彦


『虚構と瞑想からの超発想』山田久延彦


行きづまりに対する真の解決は、新たな発展のSeedsを見つけ出すことによって得られる、ということである。
これまでに考えられなかった新しい理想を作り出し、これまでに知り得なかった新たな可能性の世界を捜し出し、これまでに存在しなかった魅惑的な目標を掲げることである。
新たなものをつくりだすことは、このような理由によってそれ自体、社会正義なのである。

人はしばしば一芸に秀でること、すなわち専門領域を深く掘り下げることが善であると考えがちである。
ところが、このような人たちからは新しいものは生まれない。
深く深く掘り下げているつもりが決して深くなく、細かくいじくりまわしているだけなのである。
にも関わらず、この種の人びとは、自分たちが最先端を行なっているとごかいしている。そして革新的な発想を、狭い視野の中からことごとく否定する。

専門馬鹿という現象は、単なる能力の欠如以外の何者でもないといういべきだろう。“広い視界”が深い理解に必要不可欠である。

「疑問をもつことが重要だ。ただし度を越さないこと」。これが科学的な態度なのだそうだ。だが、敢えていおう。「限度をわきまえるな」と。

現状のもっとも根本を逆転させよ。論理だけではない。感情や道義などからの違和感さえ克服しての逆転だ。否定や抵抗は評価のしるしと考えよ。

「不条理な抵抗や否定にあうような発想の中から、真に価値ある発想を捜し求めよ。みんなが良いということは、どうでもよいことである」

「閉塞状況下、すなわち行きづまり状態においては、従来の前提のもっとも基本的なところを否定せよ。部分的修正は状況をさらに悪化させる」

「たとえ空想でも、思考としてこの世に存在し得るものは、実現可能なことである」―は、別な表現をすれば、「人間の乏しい想像力で考えられることは、せいぜい実現可能なものだけである」ということであった。

ハイポロジストは誤解される。孤独だ。みじめな存在でさえある。
それを承知でハイポロジストになりたい人のために、十の条件を記そう。



●ハイポロジストのための十カ条

1 空想であれ願望であれ、考えとして存在するものは、すべて実現可能なことである。 〔ハイポロジクスの原理〕
2 新たなものをつくり出すことは、それ自体、社会正義である。これを否定する者は、 正義の名のもとに排除されなければならない。〔変革(Break Through)の原則〕
3 単一専門領域をいくら深く掘り下げても、新しいものは生まれない。広い視界が、深い理解と 新しい発想には不可欠である。〔超視界(Hyper Vision)の原則〕
4 社会の不条理な抵抗や否定にあうような発想の中から、真に価値ある発想を探し求めよ。みんなが良いということは、どうでもよいことである。〔反撃(Counterattack)の原則〕
5 行きづまり状況下には、従来の論理のもっとも基本的なところを否定せよ。修正主義は状況をさらに悪化させる。
6 発想は長い間寝かせよ。短期間で成果を得ようと思うな。本を読む前、データをとる前に思考せよ。
7 パイオニアは、その良き理解者とペアで一人前である。
8 高次元の問題を扱うときほど、人間は低次元の感情にかかずらう可能性が大きいと心得よ。
9 実力以上に自分の可能性を信じ、能力以上の問題に挑戦せよ。大風呂敷を広げよ。
10 技術者にとって技術的主張は、個人の思想、信条であり、基本的人権と不可分のものである。誰からも拘束される必要はない。

創造力というのは、能力というよりも執念といった方が適切である。この執念において、日本人は、本質的に決して諸外国の人びとに劣るものではない。ただ現在のところ、理解力型秀才が社会の重要なポジションを占めているため、どちらかというと日本は、基本的な問題において欧米より創造力に乏しいような印象を与えているにすぎないのである。
しかし、創造力型天才がそのポジションに入れかわった場合、日本の創造力たるや、世界のどの国の追随をも許さないほどのものになるはずである。日本の創造性が乏しいといわれる所以は、国民性にあるのではなく、社会体制の中にあると私は考えている。

10/09/2007

幸運と不運の法則 小野十傳


幸運と不運の法則 小野十傳


①ちょっとした仕事で早い時期に頭角を現す
②その分野での仕事に疲労を覚えない
③一つの仕事が終わってもパワーが残っている気がする
以上の条件に合致する仕事こそ、適職です。
もしも、好みだけでその道を歩いていると感じたならば、すぐに方向転換を図る行動に出ることが大切です。


アイデアが浮かばず苦しんでいるとき、私はいままで読んだことのない分野の本を無作為に開いて、そのページを隅から隅まで読むようにしています。すると、大げさではなく100パーセントの確率で、すばらしいアイデアの卵を発見します。
脇道に逸れますが(脇道こそ大切です)、努力しても成績が伸びない学生がいます。その学生は、教科書の欄外を無視して勉強していることがほとんどです。欄外のどうでもいいようなことを覚えておくと、次の試験では確実に成績が10点以上は上がるものです。


いくつかの名刺をつくり、それぞれの場所で使い分けることは、幸運を呼び込むコツを会得するための方法になります。


不運になると、とたんに家相や方位に神経質になるものです。しかし動いてはいけません。自分の居場所をキープすることが大切です。


時代の流れなど無視するという意識をもちましょう。時代にペースを合わせようとせず、自分のペースに生き方や考え方を戻すのです。古臭くていいのです。方言が出ていいのです。
不運時はパワーは自分のパワーが欠けていますから、いちばんラクな生活にペースを戻すことです。それが「五行哲理」に則った生き方です。


まだ可能性があると思うのは錯覚です。もしもほんとうの可能性があるならば、それを幸運のときに実行していたはずではないですか。
不運のときにすばらしいと思うヒラメキは、幸運時には見向きもしなかったカスのアイデアです。
三ヵ月間、とにかく人脈を断ち切りましょう。そして、お金儲けとは縁もゆかりにもなりそうもない趣味をつくって、それに没頭するのが正解なのです。


不運だと感じたならば、最初にすることは、それまで使っていた靴を捨てて新しい靴を購入することです。靴は運気とリンクしている
場合があるからです。不運の兆しは、最初に足から発生することに気づいている人は少ないでしょう。
足の骨折や捻挫は、運命学から見れば許されざること。運を獲得するには足が必要不可欠だからです。
つまり行動力、フットワークが幸運をつかむためには必要なのです。


①体調はいいか?
②いままでの人間関係に変化はないか?
③贅沢をしていることを公表していないか?
④相手をほんとうに楽しませているか?
⑤親族に病気持ちがいて、その面倒を真剣にみていないか?
⑥異性からモテすぎてはいないか?
⑦眉の手入れをしていないか?


自分の運命における五行の偏りを知れば、もはや恐れることはありません。「子孫」に偏っているのであれば、「父母」で(-)にするか、「妻財」を活性化させてパワーを漏らせばいいのです。「官鬼」に偏っていれば、「子孫」に該当することで自分の「官鬼」傾向を(-)し、あるいは、「父母」にあたることを実践して「官鬼」の過剰なパワーを散らせばいいのです。


現実の世界では、見切りをつけることが大切なのです。あきらめられずに、幸運をつかめるはずの人生を無為に送り、ついには犯罪者となったり、アヤシイ宗教の狂言者となるケースがあとを絶ちません。犯罪者や狂言者は、上手に見切りをつけられなかった人のなれの果ての姿と断言してもいいでしょう。
人生には可能性がたくさんあるのです。一つの可能性が失敗したからといって、それに縛られることはきわめて危険です。

10/08/2007

不運のすすめ 米長邦雄


不運のすすめ 米長邦雄


・落ち目になった時に人間の真価が問われる


思えば昭和三十年代前半の日本は、人と人との距離が今よりずっと近かった。そして誰もが率直で、がむしゃらだった。
先生が怒って生徒を殴ったり、廊下に立たせることなどは日常茶飯事だったが、そこには絆というものがあった。
だから、生徒も当たり前のことのように思っていたのである。
 今はそれがなく、人間同士の距離や間合いが離れすぎているような気がする。「カミさんとの距離がだいぶ遠くなった」と
言う人は多いであろう。昔は息づかいが聞こえるくらいに親近感があったように思う。
 酒、ケンカ、バカ騒ぎの類も少なくなった。子供の世界も、上品でよそよそしいお坊ちゃまとお嬢様だけになり、「ガキ」という
ものがいなくなったのは残念なことである。


人生で最も大切なことは、じっと耐えるか、それとも反論したり動きまわったりした方が良いかを的確に判断できるかどうかにある。
その判断に基づいて実行できるかどうかが次に大切である。動いた方が勝ちなら動く、静の方が後になって勝てるのなら動かない。
動か静か。この見極めこそが人生の岐れ目になる。


問題なのは、何をもって勝者、敗者とするのか、ということである。今、巷にあふれている「勝ち・負け」のスケールは、自分ではなく
他人が決めたものである。受動的な基準にばかり反応し、自らの価値観に基づいた能動的な幸福が軽視されている。
自分自身で幸福かどうかの判断ができないのは、当人にとって実に不幸なことであり、社会としても憂うべき問題だと私は思っている。


大切なのは頂点に立つことではなく、頂点へと続くはずの「道」を倦まず弛まず歩むことである。それを忘れた時、人は自ら「福」や「運」から遠ざかっていくのだ。


思えばこれまでの人生に、「不運だ」と思うことは山ほどあった。ほぼ手中にしていたタイトルを落としたとか、失言から喧嘩になったとか、株で損をしたとか、失敗も数々ある。
しかし、失敗をしても、「このあと、どうするか」を、いつも考えてきたつもりである。それは、いつも人生の節目となり、新たな幸運を私にもたらしてくれた。
「不運とは、実は幸福の根源なのです。考え一つで幸運に変えることができるのです」