1/26/2008

デジタル音楽の行方/2005年12月














デジタル音楽の行方/著者: デヴィッド・クセック&ゲルト・レオナルト


レコードレーベルが果たせる残された役割は、アーティストが従来のレコード契約を結ぶ際に譲り渡す法外な経済的、芸術的、そして個人的な権利に明らかに釣り合わなくなっている。



いずれはマネージャーがマーケティングからツアーやマーチャンダイジングにいたるまで、ビジネス上の決定の際に中心軸としてもっと大きな役割を演じることになりそうだ。マネージャーの名声と富は直接彼らが手がけるアーティストと結びついているので、マネージャーが指導的な役割を果たすのだ。それはアーティストにとってとても好ましい構造であり、伝統的なレコードレーベルよりもずっと深いレベルの強調関係につながりうる。マネージャーが流通経路、マーケティングの代理店、広報担当者、技術に関する契約、そしてスポンサーを選択するのだ。賢明なマネージャーならば、独立したミュージシャンビジネスとしてアーティストを成功に導くことで新たな音楽経済を成長させるだろう。



人間である以上、そこから生まれる感情的なつながり、つまりトーク番組の訴求力がラジオの魅力を保つかもしれない。ラジオが生き残りたいのなら、音楽やニュースを提供する個人的なつながりを維持しなくてはならないけれども、衛星ラジオネットワークのシリウスやXMラジオが行っているように、デジタル技術も受け入れないといけない。


アーティストがレコードを五十万枚以上売らなければ成功とはいえないという考えは、おおかた音楽企業カルテルが自分達の巨大な間接費を埋め合わせようと広めた奇妙な神話である。
















種を撒いてきちんと手入れすれば、ニッチ市場は非常に儲かる可能性がある。音楽のような無形の商品の場合は特にそうだ。
この分野には、サービスやテクノロジーの企業だけでなく抜け目のない新参の企業家にも大きなチャンスがある。



我々みんなにとって幸運なことに、ひとつのサイズをすべてにあてはめるタイプのマスマーケティングや、世界規模のオーディエンスを相手にする世界規模のスーパースターの時代は急速に終わりを迎えつつある。もうまもなく、流通は――そしてさらに重要なことに、マーケティングも――デジタルな手法に移行するだろう。最終的にはマーケティングは流通と同義になる。消費者はすでに音楽を発見し購入する場所、そして音楽を受け入れる形式にし関してとても多くの選択肢を手にしている。それが音楽を借りるのか、所有するのか、あるいは「失敬する」のかは関係ない。デジタルの力を得た音楽ファンは、ある種の流行の仕掛け人であり音楽ビジネスの活力となる。



 間違いなく、インターネットはオンラインでアーティストを売り込み、アーティストとファンの間の有益な関係を育てる大変効果的なツールである。そのわかりやすい例が、音楽をダウンロードして視聴できたり、CDが購入できるアーティストのウェブサイトである。そこではアーティストの関連商品も販売できる。ウェブサイトはそこで落ち合って音楽についておしゃべりするファンのコミュニティを主催できるし、メーリングリストを運用し、アーティストとファンの間に直接的なつながりを確立する素晴らしい媒体の機能を果たせる。
 ウェブは、アーティストが自分達のキャリアより自覚的にコントロールするための優秀なプラットフォームを提供する。ダイレクトマーケティングを通じて、アーティストとそのマネージメントは、すべての仕事をこなすレーベルの働き詰めのスタッフに頼る必要なくファンにアピールする宣伝活動を管理できる。


 アーティストはウェブを介してツアー、ショー、コンサートの宣伝ができるが、もし会場でアーティストが直接チケットの予約ができれば、チケットの販売さえ可能である。これは一般に大きな会場であったり、主要なコンサートプロモーター経由ではできないが、小規模なクラブやショーのチケットであれば、多くの場合オンラインで販売できる。少なくともショーの宣伝はできるし、コンテストやその他のオファーがファンを引きつける――コンテストのグランプリはバックステージパスが、アーティストに直接会って話をするチャンスが得られるというわけだ。
 当然ながら、インターネットはニッチ市場を対象にするとき最大限の力を発揮する。アーティストがギグで演奏したり、ショーの会場でレコードを販売したり、何らかの草の根運動を起こすことで潜在的なオーディエンスを見つければ、インターネットがこのオーディエンスをターゲットとし、その数を増やすのに利用できる。オーディエンスを知り、彼らの関心を引き、友達に進めるよう促し、似ている他のアーティストを見つけ、そして関係性を広げることすべてが、アーティストのキャリアを前進させる原動力になりうる。音楽が実際に売られる場所は関係ない。だが、アーティストが直接販売すれば、ずっと割がよいかもしれないのだ。



ニッチマーケティングにより、レーベルは小規模なファンに集中して取り組めるようになり、特定のグループのニーズを実現すべく彼らへのマーケティングメッセージに磨きをかけることができる。アーティストとファンの間で個別のアプローチや直接的なつながりを提供するレーベルは、似たジャンルの他のアーティストやレーベルとの相互リンクを検討すべきだ。「友達に紹介(Tell-a-friend)」の署名は、サイトメンバー登録やメーリングリストへの登録を促すインセンティブを与える。あるいはアーティストとのライブチャット、バックステージパス、優先チケット、個人向け商品、衣料品、ポスター、ゲーム、そしてまもなく発売されるアルバムからの曲を含む有料音楽サブスクリプションサイトは、音楽ファンにまったく新しい体験と、企業と消費者の間で強い関係性を生み出すだろう。



皆かつてないほど携帯電話に依存しており、その依存度は増え続けている。携帯電話だけでネットサーフィンできるし、電子メール、テキストメッセージ、スポーツのスコア、そして株式相場のチェック、着信音の取得、画像転送といった幅広い活動に参加できる。オンラインコミュニケーションはもはやコンピュータが独占する領域ではない。情報とコミュニケーションの広大なネットワークが、携帯電話を持てば誰でも利用できるのだ。



自分達の携帯電話のカスタマイズ


持続的な関係性の見返りとして無料コンテンツを提供することは、ミュージシャンとファンの間に直の接触を育む素晴らしい機会になる。これが音楽を売り込む非常に有力な手段になるだろう。



現在大手のレコード会社は、音楽の製作会社というよりも映画の配給会社のような役割を果たしている。新しい音楽を一般大衆に与えるための組織、資本、影響力はあるが、次代のホットなアーティストを自ら開拓する能力はほとんどない。インディーは、明日のスーパースターを試す非常に貴重な場なのである。



「メジャーレーベルはマクドナルドがハンバーガーを売るみたいに音楽を売りたいようだが、我々はそれよりむしろ角を曲がった通りにある小さなグルメ向きのレストランのチェーン店でありたいんだ」とインディーレーベルのアリゲーター・レコードの創始者ブルースイグロアは語っている。「重要なのは料理だ――いくつ料理を出しているかではなくてね」独立レーベルは芸術性でも創造性の面でも新しい音楽最先端にいる。また新しい音楽とは一時の流行ではなく、音楽市場からのもっとも成長率が高い分野である。


音楽は今後ますますデジタルネットワーク上で直接販売、配信されるようになるだろう。今ではオーディエンスに直接手を差し伸べ、インターネット経由で音楽を届けたり、ほぼ毎日新しいサービスが登場するオンラインで、人気が爆発中のデジタル音楽配信サービスを活用できる。さて、もっとも重要なのは忠実なファンや消費者と有意義な関係性を作り上げることである。アイランド・レコードの前社長であるダビット・シガーソンは次のように語る。「支配権が流行の仕掛け人や門番の手から大衆の手に移る傾向が加速している」。



サンクチュアリのビジネスには、レコード音楽、ビジュアルエンターテインメント、アーティストやプロデューサーのマネージメント、ツアーのサポーート、ライブのブッキング、音楽出版やライセンシング、ニューメディア、マーケティングのサービス、レコーディングスタジオ、書籍やDVDの出版、そしてマーチャンダイジングが含まれる。


この戦略はアーティストが長く生き残れる可能性が潜在する。


敬意。 もともと著作権が上げる信条の根本目的、クリエーターの権利と利用者の権利の健全なバランス、そしてフェアユースとファーストセール・ドクトリンに敬意を払わなくてはならない。

共有。 音楽はオーディエンスの間で共有できてしかるべきだ。そのプロセスで実際のメディアファイルをやりとりするかどうかは、音楽を共有するコミュニティの持続可能性に比べれば重要ではない。

携帯性。 人々はますますモバイルになっているので、デジタル音楽もモバイル、かつ「無線」になる必要がある。

透明性。 すべての関係当事者(つまり、消費者、供給者、クリエーター)はどのように利益が分割、分配されるべきかということについて相互理解を醸成し、維持するよう努力しなければならない。透明性がその鍵になる。

公正な価格設定。 音楽製品や音楽サービスは市場主導で、ロケーション、タイミング、アクセスレベル、ユーザーの権利、そして他メディアとの比較価値に関し、常に実際の市場価値に従って価格設定がなされる必要がある。

音楽への容易なアクセス。 すべてのものが常にいかなる場所でも入手でき、どの機器でも再生可能であるべきだ。



我々は未来の音楽企業は、アーティストのマネージメント、出版、ツアー、マーチャンダイジング、そしてレコーディングをはじめとする複数のビジネスに携わるようになると考える。アーティストのブランドがビジネスの原動力となり、アーティスト、企業、そしてファンの間のウィン―ウィン―ウィンの経済状態がリスクを緩和し、投資へのリターンの予測をしやすくする。ごく少数のアーティストの大きなCDセールスに依存する、従来の一割の成功に期待するモデルに賭けるよりも、現在進化中のビジネスモデルならばアーティストをより効果的に市場テストできるので、リスクを複数の収入源や多様な形態の「製品」に分散することで、現在よりもずっと小規模でやっていける。


この新しいミュージシャンのビジネスモデルは、レコードレーベル、マネージメント会社、出版社、そしてマーチャンダイザーの役割を単一の事業体、さもなくばサンクチュアリ・グループのように関連する企業体の集合に結びつける。


企業は、アーティストが原版所有権を保持し、その企業に限られた期間ライセンスのみを与える(リースする)契約をアーティストと結ぶ。アーティストはレコーディングを行ない、企業はそれを固定化されたデジタル形式で市場に出し、販売する製品を作り、マネージメントとライブツアーの手配を行なう。企業はまた契約期間内に書かれた全楽曲の出版社の役割も果たす。これが、アーティスト、マネージャー、レコード会社、そして出版社の利害をすべての収入源を分割する単一の事業体にまとめることで、契約したアーティスト毎の投資に対する
潜在的なリターンを増加させる。このモデルは、新しいミュージシャンに資金を調達するリスクを最小化することで――また潜在的リターンを最大化することで――関係者にかかる制作、流通、宣伝のコストを低減することを踏まえている。


「結局のところクリエイティブ産業は、ことによるとアーティストの収益から手数料を得ることで、配給業者というより宣伝係として活動するという新しい役割に順応しなくてはならないのかもしれない」。



突き詰めれば、デジタルコンテンツに関して一番重要なことは、常に露出の機会を得て知ってもらい、そしてその後でファンをお金につなげることである。これこそ、大半のメジャーレーベルの戦術の中でいまだに手が届いていないように見える重要な課題である。デジタル技術は、料金所の先のほうに動かすわけだ。手前ではない――もし消費者が自分の欲しいものだと十分納得できれば、消費者はいつでもそれにお金を支払う。



http://www.futureofmusicbook.com



Berkleemusic
http://www.berkleemusic.com


音楽が高度に産業化していく家庭であまりにも中間業者の力が大きくなり過ぎてしまい、アーティストと消費者(ファン)の距離が離れてしまっていたのだ 。

「ヒットと音楽ビジネスの可能性」他メモ、メモ










「ヒットと音楽ビジネスの可能性」

「いい企画を出せる人の習慣術」(小泉十三著、河出書房新社)

『セレンディピティ』という言葉がある。『求めずして思わぬ能力を発見する能力』
「偶然からモノを見つけ出す本」(澤泉重一著、角川書店)
「ごく当たり前のことが、ごく当たり前のままに書かれている」ということだそうです。

読者の多くは、新奇な考え方、生き方の提案を求めているのではなく、じつは、日々を生きる中で8割がたは理解できている当たり前の考え方、生き方を求めている。
あと残りの2割について、少しだけ自分の知らない生き方があることが確認できればいい。そういう考えに至ったとき、筆者はベストセラーの秘密をかいま見たような気がしたと言っています。

日本人はともすると、成功した人間のあら探しをたがるか、少なくとも企画する人間は、他社のヒット作を生きたテキストに変える必要があるのではないか、と言っています。

僕らが売っている楽曲だったり、作っているヒット曲というのは、楽曲を売っているのではなくて、実はアーティストを売っていることではないか

アーティストの生み出す本でもライブでもTシャツでもCDでもいいのですけれども、それに対して対価としてお金を払って所有したい、というような魅力のあるアーティストを僕らが次から次に輩出していかないと、この問題というのは止まらない

予定調和になったらだめ、負けると思っているのです。

テレビもそうでしたが、最大公約数の時代から最小公倍数の時代に来ている

僕らの世界というのは千に三つではないですか。皆が怪しい種を持っていて、どれが当たるか分からないという、これが大事なのです。

ヒットを出すというのは思い込みだと思う。正解がないですから、自分で思い込むしかないのです。

今あれが流行っているから、今、流行っていないものをやるべきだというのが僕の理論なのです。
俺はこれだ、もう絶対これが好きというものをやり続けるということが一番なのではないか。

ヒットを出すためには、そこにいかに止まっていられるか、自分の思い込み、この次はこれだと信じて疑わないということに強い人が、ヒットを出し続けるのではないかなと思うのです。

1/25/2008

人間の見分け方 谷沢永一

















人間の見分け方 谷沢永一


・「いつ」「どこで」「どのように」頼りになるかで、頼りになる人は違ってくる。
・頼りになる人を確認するポイントは、組織全体に目配りがあるかどうか。
・一緒にいると気分がいいという人も見落とせないタイプ。
・個人レベルでは話を聞いてくれる人が一番。


・自制心のある人は欲を抑えられる。ただし、ポジションや境遇で抑えている人もいるから注意。
・年を取ると、自制心は弱まる。
・信用は本職をしっかりしていることが絶対条件。お金の払いがきれいであることは必要条件。
・どこへ行っても通用する人間などはいない。
・世の中はすべて偶然の組み合わせ。誰にでも、どこにでも通用する公式はない。


・女は世間の代表。女にもてる男は世間にもてる。女に嫌われるようでは駄目である。
・人を喜ばせる嘘は人間関係で大事である。
・運がよくても将来への展望がない人は頼りにならない。
・「自分と合うものがある」「ピンとくるものがある」「ウマが合う」という感覚があったら、必ず付き合いを持ちたい。
・「この人と付き合いたい」と思う人に出会ったら幸せである。
・好きな人、付き合いやすい人には無理がない。頼りにしようと思って付き合うのは無理がある。


・権勢家との関係を作るのは、出世する前から付き合うのが鉄則。鍋が煮えてからでは遅い。
・凡人は権力に近づかず、小細工しないで生きる方が賢明。
・無能とは能力がないことではない。有能の証を立てる機会がなかったのである。


人情味とは人情味が重要であると知ったときに沸き起こる情合いではないかと思う。
いわゆる思いやりというものができて初めて、人情の価値がわかる。男が本当の人情味を持つのは、四十歳以上だと思う。


・エネルギッシュな上司が大失敗する時に、自分まで巻き込まれないように警戒する。
・成果を横取りされても余り気にしない。それでも悔しかったら別なところで取り返せばいい。
・責任を取らない立場に身を置き、部下の成功を自分の手柄にするのが官僚の処世術。
・人情味が重要とわかる年齢になって、人情味が出る。若い時に人情味がある人はくせ者かもしれない。


そもそも人生からして、自分の計画通りにいくものではないと私は思う。まず人生は常に偶然によって組み立てられる。
そこから出発しないことには仕方ないのではないか。つまり、合理的にはいかないということである。ものの本を読むと、アメリカ社会は
日本よりも理屈あるいは利害で割り切れるらしいが、それでも利害だけでも理屈だけでも決まらないようだ。やはり何かプラスアルファがある。


・スカウトされて成功した人は、上位の人の勧誘や紹介がある。
・誘ってくれる人とウマが合うか、心変わりしない人かをチェック。
・誘ってくれることをおろそかに思ってはならない。
・人生に人間関係も偶然のなせる技である。合理的にはいかない。


・だらしない人とはとばっちりをくわない距離で付き合う。
・全身をピカピカに飾っている人は自己愛の塊。自分本位でいながら自信がない。
・賭け事の好きな人に金を貸してはいけないが、能力を期待できるかもしれない。ただし、扱いにくい。
・ズケズケと直言してくれることに感謝する度量を持つ。


霧島昇は地方巡業で司会を務めた人の名前を最後まで覚えなかったそうだ。霧島昇はただ喉を聞かせることに没頭する機械なのである。
身持ちは正しく、どこからみても立派な人物だが、どこの舞台で何時から歌うということだけを考えているのだから、社会的な活動に対する意識は希薄だ。
要するに、講談に出てくる左甚五郎のように社会性はゼロである。


・嫉妬深い人は正直で善人。でも、付き合いづらい。
・嫉妬がひどい人と思ったら近寄らない。
・こちらに好意があれば大欲の人に見え、好意がないと強欲の人に見える。
・自分のことしか関心のない人は工芸品、役に立つ機械だと割り切って付き合う。
・人間関係で無理をしない時のために挨拶言葉がある。
・人間関係には、中身のある関係と中身のない関係の二種類がある。


・遅刻常習犯は心構えに問題あり。
・憎む相手が多い人は社会性に乏しいかもしれない。
・裏切りは前もってわかるものではない。
・分け隔てのない人は自分を出していない。隠したいことがある要注意人物。
・感謝の気持ちには有効期限がある。いつまでも感謝してくれるなどと思うな。
・無責任は諸悪の根元。なおかつ直る見込みはない。


「ケチと臆病は生まれつきなので直らない」
これは私が間違いないと考える言葉である。
まず、ケチというのは、いまの一瞬だけに生きている。いま何かを出費することが嫌ということだから、未来がない。動物と一緒なのである。
そうすることによって、自分がどう思われるかという未来測定がない。ということは、情というものが冷えている。


・ケチはいまの瞬間だけを生きていて、情が冷えている動物である。
・お金を持てば持つほどケチになる。
・情報力は人間関係学。情報力のない人は人間関係を持たない人である。
・慎重と臆病の差は決断のタイミングの差。
・味方がイライラする直前に決断しないと、敵に負ける前に味方に負ける。


高校教師が君が代、国家掲揚に反対して騒がれたが、教師がなぜ日の丸を憎いのか。
素直に日の丸を見て憎いと思うなどとは、人間感情では考えられない。オリンピックを見たらすぐにわかる。一番高い位置に日の丸があがり、
君が代が流れると、誰もが喜んでいるではないか。では、なぜ君が代と国家掲揚に反対するのか。要するに、高校教師という立場に不平があり、
面白くないから、日の丸、君が代に反対し、逆らうことで満足しようとしているのだろう。


・高慢な人の仮想敵国にならないように注意。
・高慢な人には尊敬するふりをして敬遠するのが得策。
・清貧の人は凡人の欲望をわかってくれないから難儀な相手。
・いつも不機嫌な人を気にしない。不機嫌とは対人関係に無関心であることの表れ。頼りになってくれるはずがない。
・不平不満ばかり言って能力のない人は危ないから付き合わない方がいい
・人間の間で「受け渡しできるもの」と「受け渡しできないもの」とがある。


三成は颯爽としたかったのだろう。あるいは自分を英雄に仕立てたかったのだろう。その一方で、同時に天下取りをやろうとした。
そこで目的が分裂している。だから、天下を取るという外面だけに絞り、なりふり構わなかった家康が勝った。


・人間関係を切る理想的な方法は切り捨てるという姿を取らないこと。
・一つの人間関係を切ることは、腹をくくって今生の縁をきるというぐらいの気持ちがいる。自分をよく思ってもらおうという色気は失敗の元。
・自分に矢が飛んでくることも覚悟する。なまじ凡庸な人間が簡単に人を切ろうと思ってはいけない。
・人を切り捨てる動機は公に利することが最低条件。
・やるならとことんやる。中途半端は駄目。


芸能人はうぬぼれてもよろしい。しかし、それ以外の仕事をする人間が評判の良さを真に受けていい気になるのは駄目である。
なぜなら、自分の能力に対する反省がないからだ。


友達は二十歳の頃から営々と作るものである。若いときから情を発し、その積み重ねの上にやっと生まれるのだ。「何かをしてあげたい」という気持ちが
生まれたら、「やあ」と言って声をかけるような人懐かしい態度がおのずからできるのではないかと思う。能動的に情を発し、気持ちを働かせる人は心の温度が高い。
逆に、「して欲しい」ばかりの人は心の温度が低い。心の温度を高くして、得をするのは自分である。


・よい評判にうぬぼれている人は危なくて頼れない。
・人は言葉の端々に本音が出るものだ。
・悪評のある人に宝の山が埋もれている可能性はある。それを掘り出す力が自分にあるかを考えて付き合う。他の人が掘り出したら、二番手で行くもの手だ。
・奥さんには言葉に尽くせない豊かな情報が潜んでいる。奥さんと話をするのは相手を知るのに有効な方法。
・誰かに何かをしてあげたいと思ったことのない男は危険、情が薄い。
・友達は若いときから自分が能動的に情を発し続けた延長線上に生まれる。


私は第一印象にそれほど信頼を置かないが、こういうことは言えると思う。「この人から何かをもらえる」という第一印象はよくよく考えた方がいい。しかし、
「この人には何かをしてあげたい」という第一印象は大事にした方がいい。


・「この人から何かをもらえる」という第一印象は信用できないが、「この人には何かをしてあげたい」という第一印象は大事にする。
・人間は無意識のうちに何かを望んでいる。人間を見るということは望むものを察することである。
・腐りかけはおいしいらしい。果物も女も、生ビールも。
・癖は変えられない。女房の癖を変えようなどと大それたことを考えてはならない。自然現象だと思え。
・人は誰でも自分の情念を透かして物事を見ている。
・スタンドプレー、自己アピールがオーバー、などと思う相手は、自分が好感を持っていない。
・敵が多いことは必ずしもマイナスではないが、敵が少ないことは明らかにプラスである。


・世間は人をよく見ている。世間の目、世間の評価は尊重すること。
・人間は他人を自分に引きつけて考えがちである。
・自分をひけらかすために無駄なことをやらせる人がいる。これが上司だと厄介極まりない。
・人生の落とし穴の避けるには、身を慎み、欲を抑えるしかない。ということは、実際問題として難しい。
・人間はうぬぼれの塊。自分と同じくらいと思う人はずっと上、しょうもないヤツと思う人が同レベル。つまり、自分を客観的に見れば、
しょうもないヤツということ。そう思うと、少しは謙虚になれるだろうか。


夫婦にしても、六〇歳になってまだ女房が夫に興味があるなんていうアホなことはない。しかし、結婚という枠にはめられているから、みな一緒に居る。
一般人の場合はその枠がない。そうなったら、もう、儂が俺が、である。


・こちらが話している時、相手が黙っているのは聞いているのではなく、話が終わるのを待っているのである。
・年寄りの話を聞いてやることで仲良くなれる。 
・相手が誇らしいと思っていることを覚えておいて、時には口に出すことがいい関係を作る。
・たいがいの人の話は、どこかに勉強になるものが含まれている。ただし、どうしようもない人は一人か二人はいる。
・みんなが悪口を言っている時は、一緒に悪口を言わないと仲間はずれにされる。


他人への期待の上に何かを築き上げることはやめた方がいい。少なくとも、「あの人がこうしてくれることによって自分はこうなる」というふうに、
将来計画の中へ加算することは間違いではないかと思う。


普通、期待という言葉で世間は言うが、実質は要求であることが多い。つまり「何々して欲しい」ということだ。そういう「欲しがり屋」は
要求ばかりの旧社会党と何ら違いはない。


・説得するには数字が有効。納得させるには相手が受け入れやすい言葉が必要。
・仕事は世間にわかるようにやるべきだ。
・期待するなら自分からアプローチして人間関係を作る。待っているだけでは何も生まれない。
・特別な情報源はいらない。問題意識があれば、公開情報の中から役立つ情報が手に入る。
・読書と実生活を往復してこそ、読書が役に立つ。


私はこの年まで「こうしよう」「ああしよう」と思ったことはほとんどない。ましてや自分で人生の設計図を描いたことはいっぺんもない。そのときの流れにそって生きてきた。
人生とはそんなものではないかと思う。いくら精巧な設計図を描いたところで、それだけのことだ。設計図に偶然という要素を入れることはできないのだから。
株の名人野村徳七があと十年、株の投機に手を染めていたら大損した可能性だってある。いつも勝つとは限らないと思っていたから、大儲けしたらさっさとやめた。
これは見込みに引きずられない賢い態度である。


うまくいかないことが起こったら、「今はまだ完成に向かう途中だ」と思ったらいい。あるいは、人生という探検の旅で、氾濫する川に遭遇したと思えばいい。
困難のない真っ直ぐな道を歩くのでは探検にならない。山があり、谷があり、時には川が氾濫しているところを乗り越えていくから探検なのだ。
人生もそう考えれば、面白くなるではないか。


・質実剛健、木訥の裏面は恩知らず。
・人の面倒を見て、見返りを期待しないのが鉄則。
・人間関係は壊れ物。水を入れたコップをそろりそろりと持ち運ぶようなもの。
・人は寂しい生き物。誰かを頼りにしたい。
・人生は、いつの時点でも完成に向かう途中である。

1/24/2008

なぜ、この人だけが成功するのか 谷沢永一











なぜ、この人だけが成功するのか 谷沢永一
 百の名言百の知恵

なまじ経験を積んだがために、人柄がすれっからしになって卑しく、他人の顔色を見るだけが能、みんなに嫌われる男がある。
最も厄介で迷惑なのは、博学多識を鼻にかける天狗たちであろう。歩く百科事典(ウォーキング・ディクショナリー)という揶揄(からかい)の呼び名がある。なるほど記憶力は抜群で、詰まらんことまで細かく知っているが、映写幕のように頭脳が受動的にしか働かない。どこに解決すべき問題の、その取っ掛かりが伏在しているか、進んで見出す機能がないから、飾り物にしかならない人もいる。


世間では昔からお喋りに悪人はいないと言い慣わすが、その観察はかなりの率で当たっていよう。
つまりお喋りは他人をほとんど念頭においていないから、他人に計略を施すという企みにまで頭が回らないのである。
そこから直ちに予想される如く、黙っている奴は物騒だから気をつけろ、と言い伝える。


そういうときに閃きを発する人物にかぎって、平素はもの静かに黙っている。いつも黙っている人の九〇パーセント以上は無能であるが、そのなかに純金の素質が交じっているのだから厄介である。しょっちゅうやかましく騒ぎ立てている奴は無視すればよい。職場における自分のまわりに向かって、自分を偉そうに見せている型は問題外である。
自信があって機会を狙っている者は、一挙に真価をあらわす日を期して待っている。


一連の施策にこめられた神谷の構想は、モータリゼーションが進展しやすいように、社会が動いてゆくための環境づくりであった。真当な販売は押し売りではない。欲しい人に商品を提供するのが筋道である。
欲しがる人がいないのに物が売れるか。納得ずくで取引を広げるためには、欲しがる気持が世間一般に高まっていなければならない。それゆえ車の便利さ宜しさを、実感でわかる人を増やせばよい。


世の人は他人を応援してやろうと待ち構えているのではない。人間は誰でも必ず猜疑心のかたまりである。
そして何かを成しとげようと努める者には、できるものかと冷たい軽蔑の視線を注ぐ。能力もないくせに力んでいやがると不愉快になる。世に出て何かを為すとは、世に逆らい世間を敵にまわす謀叛の行為である。どこの誰が同情してくれるものか。





成功とは世間を味方に引き寄せた段階を言う。あくせくと血の汗を流して苦しんでいるとき、鐚一文貸してくれなかった悪鬼羅刹が、満面に笑みをたたえて借りてくれと躙り寄ってくる。当方の人格がすぐれているからではない。すべては信用であり見込みであり賭けであり投機である。


ちょっとまわりを見渡してごらんなさい。老人は一方的に自分のことを喋っているだけ、ほとんど会話になっていないのが普通である。中年以上の同窓会で、健康問題と薬の効き工合を封じたら、途端に話題がなくなって座が持たない。六十歳を越すあたりから、自分自身のことにしか興味を示さなくなる。相手が話しかけている間はひたすら辛抱している。先方の声がやっと終るのを待って、たちまち喋りだすのは自分のことばかり、お互い他人の言うことなど、聞いているふりして聞かない。
ほぼ六十歳を越すあたりから、家庭でも職場でも会合でも、無意味な自己主張が一方通行で発射されている。このあたりに精神の定年が訪れるのを常とする。


人を悪く言うと一種の自己催眠のようなものにかかって、その人を悪く言わなかったとき以上に、その人が悪く思われる。反対に人をほめると、ほめる前以上にその人がいいように思われる。だから、なるべく人を悪く言ってはいけないのだ。


映画は元来、不良青年がつくるものだ。僕が言い出した言葉に「不良性感度」というのがあるが、これが鈍いと面白い映画にできない。       岡田茂

1/23/2008

日下公人さん










道徳という土をなくして経済の花は咲かず 日下公人

社長になったり偉くなったりした途端、急に舞い上がるような人間は愚か者である。周りで見ている人はよくわかるが、本人は気づかない。地位が上がったとき、舞い上がって周囲を見下す人は珍しくないが、こうしたとき舞い上がらず、公私混同しない人が本物のエリートである。

①仲間に入れてくれ
②差別しないでくれ
③公平にやって欲しい
④入れてくれない理由を教えてくれ
⑤その基準は何か
⑥その基準はおかしい
⑦もっと次元の高い基準がある
⑧たとえば、公平・平等・機会均等・自由・民主・進歩・人権、等々
⑨この地域だけは別とかのローカル・スタンダードをつくるのはよくない

①アメリカでも教授の地位はそんなに高くない
②それ以外の世界によいポジションがたくさんある
③日本で学者の地位が低いのは、一般人の知的レベルが高いからである
④日本でも学者以外に成功の道がたくさんある
⑤理科系の学問は別として、文型の学問は空虚なものが多いので、それを埋めるべく、学者は色々な制度をつくる。
学位、試験、称号、資格(特に国家資格)等々で、 ますます空虚になるが、それをわからない程度の人が、あるいはわかっても職業だからやめられない人が、それを続けている。

パワープレイ








パワープレイ

並んで歩くときには、相手の左側に位置するように歩くと、相手の正常な思考を奪うことができる。
私たちは無意識のうちに心臓を守ろうとするので、他人が左側にいると落ち着かない気分になる。
逆に、相手をリラックスさせたい場合には、戦略的に右側を歩けばいい。
意識的に心臓から離れてあげることで、相手の警戒心はゆるむだろう。


おしゃべりな相手から発言権を奪い返すには、手に持っているモノを落として会話を中断させる、その場からいなくなる、というふたつの作戦があることを覚えておこう。


私たちには、「対称性(シンメトリー)は美である」という思い込みがある。
右と左がきちんと真ん中でバランスがとれているほど、美しいと評価する傾向にあるのだ。
心理学では、これを「シンメトリーの原理」と呼んでいる。

1/22/2008

いろいろ、








いろいろ、



自己チュー
目に余るような人たちはよく・自己チュー・と言われるが、その態度は個人主義とは違う。

なぜならその自分とは、社会や公的な世界と対峙した自立した自己ではない。

自己責任の欠けた自己、容易に全体主義に揺さぶられる危ない存在でもある。


芸術と採算の両方を理解する優秀なプロデューサー、お金の量が幸せの量ではない。
独自性にこだわり大衆性も忘れない。

自分の人生は自分で決めて、自分の生きたいように生きる。

良くも悪くも他人を頼らず、自分の事しか考えないから、組織はつぶれても個人はつぶれない。

一言で言えば自立している。

ちょっと異常な人たちに興味ある。

変だったり、不合理に見えるものには全部、何かを気づかせてくれる可能性がある。

ライフデザインの方法









ライフデザインの方法


①自分が何をしたいかを、だらだらと順不同に書いてみる。夫婦一緒でもいい。

②年代毎のイベントを記し、未来年表にする。

③大きな紙に支出曲線と収入曲線を書く。

④二つの線が交差したところから次の交差点の間に生まれる面積が資金のゆとりか不足。

⑤別の紙に時間曲線を書く。夫婦の不平等がやはり面積で現れる。

⑥キャッシュフローの苦しくなる「綱渡りの十年」と将来、時間摩擦の起きる「時限爆弾の時代」は、ほぼ同時。
キャッシュフローの苦しさを緩和し、時間摩擦を事前に回避する手立てを講じるため、結婚の中間決算を節目々々で試みること。

1/21/2008

佐藤洋二郎








佐藤洋二郎(作家)

先日、電車の中で、まだおさないこどもに、絵本を広げ「お勉強」をさせている若い夫婦を見た。父親は勤め人風だったが、妻が女の子に指示するのをおだやかな表情でみつめていた。中年のおっちゃんのこちらは、なにも子供のうちから、生き方の幅を狭めるようなことをしなくてもいいではないかとながめていたが、電車をおりてからも妙に心がざわつき、大丈夫なのかと心配になってきた。

わたしたちが生きていく自信は「学歴」を身につけることでも、知識があることでもない。自分がやろうとしていることに、どれだけ一生懸命やってきたかのほうが重要なのだ。自分はこれだけがんばったのだからという自信のほうが生きていく糧になる。

親や人様のことを聞いて行動するよりも、好きなことを辛抱強くやることのほうが将来につながる。人生はやる気と忍耐があればなんとかなるものだ。おれはあれだけやったのだからと踏ん張りもする。ひとつのことを懸命にやっていれば、見えていなかったものも突然見えてくるときがある。近頃の若い人たちが堪え性がないもの、なんでも上滑りに生きているからではないか。一芸に秀でることは、どんな職業でも年季がいるが、肝心なおとながそのことを教えなくなった。

あまやかされたり必要以上に手をかけられたこどもはどうなるか。わがままで忍耐力のない人間や、「お勉強」はできても、いざというときに右往左往して、なにもできないおとなになってしまうのではないか。政治家はよく教育論を唱えているが、近頃の親の自信のなさも、政治の無策ではないかとうがった味方をしている。

hollywood ending











hollywood ending

自らは「ハリウッド エンディング」をやらなくては大衆の支持は得られない。
自らの仕事に対する「こだわり」は重要。こだわりがないと仕事なんてできない。
しかし、こだわりすぎると誰も相手にしてくれない。
しかし、ブルース・スプリングスティーンのような「こだわりの評価」を得ていたミュージシャンが突然大成功を納めてしまうこともある。
当然、ウディー・アレンも過去にオスカーを取っている。

「ハリウッド エンディング」という非独創。
「こだわり」という独創。

しかし、大衆が支持するのは「ハリウッド エンディング」。
「こだわり」は滅多に見向きはされない。

ところが、「ハリウッド エンディング」のほとんどは時代と共に陳腐化する。
同時に、多くの「こだわり」も討ち死にする。

1/20/2008

他人と深く関わらずに生きるには










他人と深く関わらずに生きるには・池田清彦


大人になっても、だれかにかまってもらいたい、だれかに面倒を見てもらいたい、だれかに甘えたい、というのは、赤ん坊の感性を引きずっているのである。赤ん坊と母親は非対称だから、赤ん坊はひたすら甘える身であり、母親はひたすら面倒を見る身であるのはやむを得ない。しかし、大人になれば、自分と他人は対称だから、自分だけ甘えたり、自分だけわがままを言うことはできない。自分が甘えるということは、相手の甘えを許すことであり、自分がわがままを言えば、相手のわがままも許さざるを得ない。
だから、他人に自分の心の中にズカズカと侵入されたくない人は、自分も他人に甘えてはいけないのである。

ルールは守れるなら、守った方が良いが、絶対に守らなければならないものではない。状況によっては守らない方が都合がよい時には、守らなくてもよいのである。ただし、どんな状況の時にどんなルールなら守らなくてよいかは自分で判断する他ない。与えられたルールをただ墨守するよりも、最終的には自分で判断して行動する方がステキではないか。

日本の学校は、個人の自立を妨げるように機能しているとしか思えない。他人を当てにして、他人にものを平気で頼み、断られるとムカつくような人を育てているように思える。知人や親友や時に知らない人に何かを頼むことはよくあるだろうし、そのこと自体は別にとがめられるようなことではない。しかし、人には色々事情があり、あなたの頼みを常に聞いてくれるとは限らない。頼みを聞いてくれた時は素直に感謝し、断られてもムカついてはいけないのである。

自由に生きることは結構しんどい。他人を当てにして生きた方が楽かもしれない。しかし、他でない自分の人生なんだから、最後は自分で決める他ないのである。
あなたはあなたにとって世界で一人しかいない唯一の個人である。世間の物語が通用するかどうか、それもあなたが決める他ないのである。他人を当てにしないで生きるとは、社会と隔絶して生きるということでもないし、他人とコミュニケーションをもたずに生きるということでもない。自分の食いぶちは自分でかせぎ、自分の人生は自分で決定する、というごく当たり前のことにすぎない。

親が自分のなし得なかった夢を子供に託す気持ちも判らないでもないが、才能の半分くらいは遺伝するのだから、あなたもできなかったし、子供の興味を示さないことを無理強いしても時間とお金のムダである。子供が真にやりたいことをサポートしてやることと、無理強いすることは違うのである。ない才能をたたいても普通は埃しかでないものだ。

他力を頼まず自力で生きて、力が尽きたら死ぬのが最も上品な生き方だ、ということだ。働けなくなったら、金を稼げなくなったら、誰かに面倒を見てもらうのは当然ではないのである。そうなったら野垂れ死ぬのが当然なのだ。それは自分ひとりで自給自足の生活や狩猟採集的生活をすれば、当たり前の帰結である。
自由に自力だけで行きようする人は、最後は野垂れ死にを覚悟する必要がある。自由に生きたいけれど、死にそうになったら助けてくれという人は、自由に生きる資格はない。そういう人は、不自由に生きて不自由に死ねばよい。ただし、不自由に生きて不自由に死ねよりも、自由に生きて、野垂れ死ぬ方が、はるかにカッコイイと思うだけだ。死んだ後まで戒名など付けて、ウジウジと現世とつながっているのは下品である。人は死ねば死にきりである。それでよいではないか。

デュパルク













デュパルク
http://www.geocities.co.jp/MusicHall/6119/museum/duparc/
デュパルク:死ぬ前に自分の作品の殆どを燃やしてしまったという変人なのか、完璧主義者なのか分からないフランスの作曲家。