9/01/2007

スピリチュアリズム/苫米地英人






スピリチュアリズム/苫米地英人

催眠技術は催眠下でした学べません。これは空手や気功と同じで身体から身体への伝達です。催眠下で催眠を学ぶ。するとなんとなくその方法論がわかるというものです。
ちょっとした声色の使い方、眼の動かし方、突然黙って下を向いて間を空けて変性意識が少し深まった瞬間に声を発して誘導する―もちろん手法的にはかなり初歩的ですが、そういった細かい技を江原氏は自然に身につけているいるわけです。
素地は単純で被暗示性が高い「催眠に入りやすい人」、それだけです。

江原啓之氏などの言っていることは、宗教史的に言うと輪廻転生を前提としてヒンドゥー教的カルトです。実はスピリチュアルのみならず、流行っている新宗教はすべて差別的な思想を持つという興味深い共通点があります。
それは「人間を超えた存在」という超人思想であり、選民思想です。もっとはっきり言うとナチズムに繋がるものです。

「神様はひとり」という絶対神の世界、ユダヤ・キリスト教やイスラム教の世界では、逆に日本的な戯れ意識であったり、占いを信じたり、霊の教えることを信じたりすることなどは本来ありえないのです。
本来、キリスト教は霊能者と言われるものを認めず、逆に歴史的には魔女として火炙りにしてきたくらいです。

根本的な問題は、今の世の中がスピリチュアルなものに対して肯定的に動いているということです。21世紀はスピリチュアルに対して否定的に動かなければいけません。しかし、現実には、どうしてもスピリチュアルにはまっていく人がいます。

ある宗教団体をカルトと考えるか否かの判断基準は、一言で言うと、社会がすでに持っている価値観からどこまで遊離しているかということです。
実際に家族や友人が何らかの宗教団体に入ったときに、ただちにやめさせる出来かどうかの判断基準は、「入信する前に言われたことと入信してからやっていることが同じかどうか」ではないかと思います。

江原啓之氏はを中心に述べてきましたが、江原さんのスピリチュアルの中身は一言で言えば、アートマンの永続性と輪廻転生と魂の世界の階層性です。それはすでに述べたようにオウムの論理でありチベット密教、バラモン教の論理です。
何 が危ないかと言えば、彼の進めている論理には次のステージがあるわけで、その論理的な帰結として来るものが危ないわけです。今の彼は混乱しているように思 えます。自分に見えているものをどう処理するかについて戸惑いがある印象を受けます。まだ発展途上で、彼の本を読んでも、言動を見ても、ただの「自分探し 君」です。

瞑想を行うと、人間は大量のドーパミンを出して、気持ち良い体感を得ることができるわけです。それによって、より長時間の抽象度の高い瞑想をすることができます。
数学者にとって数学の世界が気持ち良いのと同じで、それが瞑想のからくりです。非常に抽象度の高い空間を、気持ち良く、五感をもって感じることが出来る訓練、それがヨーガの訓練です。
実は、古くから伝わる密教とは、身体性を用いて脳内のドーパミンを大量に出すことができる秘術なのです。

最終的に地下鉄サリン事件に至ったオウム真理教は、スピリチュアリズムが行き着くある種の論理的帰結であったと私は思います。スピリチュアルズムが表で語らない「この世は幻である」という本質的な思想を実践しました。あの世が主でこの世は単なる幻である。

私 は、現代日本のスピリチュアルの総本山は中沢新一だと思います。そして、布教の最大の担い手として江原さんがいるとしたら、それを中沢が別のベクトルで、 つまりさもスピリチュアルと関係のないように見せかけて、いきなり登場させた本と言うのが、今をときめくコメディアン大田光とのコラボレーション作品であ る「憲法九条を世界遺産に」だと思います。

いわゆる脳死体験とは脳が壊れていくときの現象です。ドーパミンをはじめとするありとあらゆる脳内伝達物質が、脳が壊れるときに大量に放出されます。ですからまず、気持ちが良い。

先 祖がいなければ今の自分は存在しないんですから、それは感謝すべきことですが、先祖の霊が今ここにいますと言って、本来は魂なんか認めないはずの仏教の家 にも位牌があってチーンやるのは、日本人がみな洗脳済みだからです。そして、それをいいことに一大ビジネスをやっている人たちがいる。
「祟り」を 洗脳のメカニズムで説明すれば、「祟り」という言葉それ自体がトリガーで、アンカーとは、言わば日本の歴史上に営々と築き上げられてきた臨場感世界です。 それは、過去からずっと日本人全体に埋め込まれてきた「死への怖れ」などさまざまな迷信であり、一言すれば「日本教」です。
スピリチュアルがますます跋扈する今の時代に、それと立ち向かうには、まずあなたがそれを認識することからはじめなければなりません。互いが互いを洗脳し合い維持しあっているのが今の世間のありようなのですから、まず、あなたがそれに気づけばいいのです。
霊も祟りもありません。祟られる人は「自分で自分に祟っている」のです。

ス ピリチュアリストの人たちが、「確かに非科学であるけれど、スピリチュアリズムのメッセージで人々が幸せに生き、幸せに死んでいけるのだから何が悪いので しょう。」と言っている声が聞こえてきます。何が悪いかと言えば、その優しく、美しく聞こえるメッセージの後ろに、まさに釈迦が否定した、アートマン思 想、輪廻転生、絶対差別思想がしっかりと入っているからです。
これが、過去にヒトラーを生み出し、戦争を起こし、世界では人種やカーストの差別を生み出し、日本では穢れの思想に代表される差別を生み出し、最近ではサリン事件を引き起こしてきた中心教義なのです。それが悪いのです。
そ して、それらのメッセージで幸せに生き、幸せに死んでいけると思っている人たちは、幻覚や妄想の世界に取り込まれることによって、幸せになれると勘違いし ているだけなのです。もちろん、スピリチュアリズムは来世のご利益しか約束しませんから、今生きている人たちの苦難は、「魂を磨くため」という言い訳を使 いますが、それは詭弁です。誰も救われません。

スピリチュアルとは「間違っていても信じたい」と思うことです。それに対して科学とは、徹底的な吟味をし、自分で打つ立てた考えを自ら批判し懐疑するものだということです。
ス ピリチュアルがますます跋扈する今の時代に、それと立ち向かうには、まず皆さんがスピリチュアルの実態を認識することから始めなければなりません。スピリ チュアルに囚われない認識力とオリジナルな思考力を身につけることが「本当のあなたの思考」「本当のあなたの夢」を手に入れるための基礎的な技術なので す。

8/31/2007

これからの運命傾向 8/9/2007

和太郎くんの占いメモより、

これからの運命傾向 8/9/2007

2007年は2006年の変わってきた状況に応じて、個々のシステムやコンテンツ、流通の完成度が問われている。理想と現実のギャップの中で、出来ることから、長く続けていける業務、本当の意味でやりたい業務に改善していく必要がある。

この44歳から54歳にかけての運気は、確かに今までのシステムや信頼してきた組織のパイプは細く、薄くなってきている。よって、少しフィールドを広げて協力・信頼関係を築けるブレイン・スタッフをはっきりさせていくことが重要になる。

2008年は大きな変革があり、2009年は本音として進めていく人や縁に落ち着いていくだろう。


(近い未来について)

妻の事や場所など、何かひとつ力のある場所(パワースポット)と繋がってコミュニケーションを広げる必要あり。

また、妻の心情、不安多く、修復する必要あり。

少し孤立している時にあれば、人との縁を少し広げて情報をふくらましていくことは必要。


大阪発の飲食系は求め過ぎなければかえって良い。野心を抱かず進むが良し。

音楽葬関連は、北方面を求むるが良い。

マネージメントについては、手前に障害あってゆっくり進むことになる。急がば廻れ。儲けは後からついてくる。


吉凶転換の日

8/13,8/25,9/6,9/18,9/30,10/12,10/24,11/5,11/17,11/29,12/11,12/23,1/4,1/16

この日に会うべき人に会うこと、先祖供養、神仏祈願すること、

やるべきことをやること、この日を活かすべし。


鹿島神宮、香取神社、神栖神社


知恵と客観性とヤル気

リスクと責任を取ることで知恵が出る。

高学歴は劣等感が少ない

メモ魔 ・学んだこと・感じたこと・ルール化したこと

ついている人、与え好きの人、全力投球

幸せ(自己)と成功(他者)の為に人は生きる。

好きな人に会うと人相も良くなる

引き算より足し算の生き方

我々の心は異常事態で暮らしていると、間もなく、それに慣れてしまう。適応のメカニズムを持つ。

パニックが過剰自己防衛であるのに対して正常性バイアスは虚構的自己防衛である。

日本や米国では、災害時に避難命令が出ても実際の避難者は5割を越えない。

打つべき手は打つ。

発想を柔軟に。ますます競争は激しくなる。

あたまの固いプロよりも先見性のあるアマチュア

意思決定の遅れは致命的。

自分を表現する100個のセンテンス


2010年から2015年より、地球の気温は急激に冷える→氷河期への突入

基本的生命力

本能の力の低下、情念の枯渇

情念は、その要素に性欲・食欲、攻撃的本能。→真に鍛えたタフな本能の力


わからないことはしない。

自信のないことはしない。

責任の取れないことはしない。

やりたくないことはしない。

世のためにならないことはしない。


ウソはつかない。 

安いモノは買わない。

相手の立場でモノを考える。

言動が一致しているか?

責任を転嫁してないか?

言い訳をしてないか?

感情的な反対か、理性的な反対か?

聞き上手に勝る話し上手なし。

怒らず恐れず悲しまず

正直、親切、愉快に!!


8/30/2007

「人間嫌い」のルール


「人間嫌い」のルール・中島義道



これほどの労力を払って人生を降りようとするのは、人間のある面がひどく「嫌い」だからである。人間が不純だからでない、不道徳だからでない、利己主義だか らでない、むしろ「よいこと」を絶対の自信をもって、温かい眼差しをもって、私に強要するからなのだ。とりわけ共感を、つまり他人が喜んでいるときに喜ぶ ように、他人が悲しんでいるとき悲しむように、私にたえず強要している。これを拒否して生きることはできない。だから、私は自分を徹底的にごまかして生き 延びてきたのである。そういう風に私を作った他人の鈍感さと傲慢さが嫌いであり、それにうまく合わせてきた自分のずるさと弱さがきらいなのである。


日 本社会をすっぽり覆っている「みんな一緒主義」、言葉だけの「思いやり主義」「ジコチュー嫌悪主義」が、少なからぬ若者を苦しめ、「もう生きていけない」 と思わせ、絶望の淵に追いやっている。善人どもは「いじめ」が問題になると、「あなたはひとりではない!」というメッセージを送ってのうのうとしている。 だが、自殺にまで追い込まれた少なかぬ者は、「みんな一緒主義」の砦を打ち砕き、みんなから排斥されてもひとりで生きていける、というメッセージが欲しい のだ。


「ずるい人」

平 気で嘘をつき、自分を実際よりよく見せようとあらゆる工作をし、相手に対してくるくる態度を変え、権威者や権力者にはおもねり、非権威者や非権力者を足蹴 にする人である。表面では正義感ぶって、裏に回るといかなる卑劣なこともしでかす人、こういう人が、これまでの人類の歴史で肯定的に評価されたことはな かった。


ひ きこもりやニートのほとんどは、先の定義において人間嫌いであるわけでない。人間嫌いという領域に属する者もいるであろうが、彼らの多くは、心の病とは無 縁である、―原因はさまざまであれ―単に社会性の欠如した者、他人とのコミュニケーション能力の欠しい者にすぎない。いまの苦境を抜け出してどうにか社会 復帰したい者、だがその端緒がつかめない者、あわよくば棚からぼた餅が落ちてくることを願っている者、ニーチェの言葉を借りれば「蓄群的功利性の持ち主に すぎない。


親切を押し売りする人は、他人がそれを拒否することなど考えもしない。いや、こんなに親切にしているのに、それを不快に思うとは何と無礼なと憤り、もっとたちの悪いことに「心の貧しさを悲しみ」、そこでぴたりと思考を停止してしまう。


困っ ている人、苦しんでいる人を見かけたら、淡々とした気持ちで助け、さらりとその場から立ち去る。そして、自分が何をしたか「忘れてしまう」のである。こう した助ける者と助けられる者との関係が、最も気持ちのいい人間関係を取り結ぶと私は信じる。できれば、助けるときも、助けられるときも、こういう淡白な関 係でいたい。


昔 の仲間たちとそれを懐かしむことが好きではない。中高年の鈍重さと醜さを曝け出して、「こんなことがあったなあ、あんなことがあったなあ」と笑い転げるこ とが嫌いなのである。その和気あいあいとした雰囲気は共感ゲームで充たされ、大量の欺瞞が飛び交い、みなどこまでもよい気分でいたいという欲望がグロテス クなほど露出されていて、気持ちが悪いのだ。


オルテガ

大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じあると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、ほかの人々と同一であることに喜びを見出しているすべての人のことである。

こ うした大衆は、知的に徹底的に怠惰であるから、何事においても、「わかりやすいこと」を求める。「わかりやすい」とは、何の努力もしないでわかるというこ と、書物なら寝っ転がって読んでもわかるということである。彼らにとっては、わかりにくい書物は全面的に著者が悪いのだ。


人間嫌いは、あらゆる人間からの独立を目指すと同時に、あらゆる土地、風土、故郷からの独立を目指す。


世の中は、二十歳の男には寛大であっても四十歳の男には寛大でないということを知っておけば、それでいいのだ。


私 は、常に崖っぷちを歩いてきたからこそ、そして思いがけず多くの人に助けられて生きてきたからこそ、どんなに型破りの生き方があってもいいじゃないかと心 から思う。一見、不安定に見える職業に就いていても、将来の見通しが立たないように見える状況に投げ込まれていても、その人固有の人生の「かたち」を描き きることはできると思っている。


この世のほとんどの不幸は、他人に過剰に期待することに起因するのではないかと思う。他人に期待することがなければ、他人を恨むこともない。他人の賞賛を求めることもない。


大 原則として、他人の人生に過度の期待をかけてはならないと思う。勝手に相手に期待して、その期待がかなわないとき、「こんなはずではなかった」と相手を責 めるのが卑劣な弱者というものである。人間嫌いが人間嫌いらしく生きるには、こういう人間関係からみずからを解放しなければならない。他人に夢を託しても ならず、他人から夢を託されてもならない。この関係の重荷からだけでもすっかり解放されたら、人生はどんなに楽になることであろう。

子供は親に、妻は夫に「ああしてくれ、こうしてくれ」と過剰に期待するから、それがかなえられないと激しく憎むようになる。同じく、親は子供に、夫は妻に、よい子であるように、よい妻であるように過剰に期待をかけるから、失望するのである。


人間嫌いにとっての理想的人間関係とは、相手を支配することなく、相手から支配されることのない、相手に信頼や愛をおしつけることも、相手から信頼や愛をおしつけられることもない関係である。


そ のころから、自分のえげつないほどの実利的で世俗的な能力、すなわちさまざまな形で人々を組織する能力、権力者に近づく(遠ざからない)能力、自分のアカ デミニズムとジャーナリズムにおける「地位」を担保にして、人を支配する能力、あるいは人に好まれる能力・・・つまり自分の生き方の「賢さ」に嫌悪感を覚 えるようになってきたのだ。


人間嫌いをその中核で動かしている動力は自己愛である。なるべく自分の感受性と信念とに忠実に、すなわち普通の言葉を使えば、なるべくわがままに生きたい。他の人のわがままも許すから、こちらのわがままも許してもらいたい。

これが一番受け容れられないことだが、―人間の平等を認めないで、善良な市民の趣味に対してはひどく不寛容である。とくに、言葉遣い、身のこなし、着ている物に関して、私を侵害しなければ最低限いいとしても、(私の基準で)趣味の悪い人と一緒にいることは不快である。


家族主義的人間嫌いは、いまなおわが国の妻帯者の中に少なからず残存しているようである。彼は実存の深いところで妻に依存しているので、妻から切り離されて世間の寒空にひとりおっぽり出されたら生きていけない。


外部との間に厚い壁をめぐらせ、我が家のいかなるマイナス面も絶対に外部に漏らしてはならない、という子供たちに厳しく命じた。


こうした虚栄心だらけの家庭が厭でたまらなかったにもかかわらず、結婚して私は同じような家庭を築いた。


人間嫌いのルール

  1. なるべくひとりでいる訓練をする

  2. したくないことはなるべくしない。

  3. したいことは徹底的にする。

  4. 自分の信念にどこまでも忠実に生きる。

  5. 自分の感受性を大切にする。

  6. 心にもないことは語らない。

  7. いかに人が困窮していても(頼まれなければ)何もしない。

  8. 非人間嫌い(一般人)との「接触事故」を起こさない。

  9. 自分を「正しい」と思ってはならない。

  10. いつでも死ぬ準備をしている。



人間嫌いの分類学

  1. 動物愛好型

   弱い人間嫌い。人間は嘘を付くから嫌い。その点、動物は正直でいい、という思想を基本的によりどころにしている人。動物園勤務の人に多い。幼稚園、保育 園や小学校も。あるいは、童話作家。これは、「人間嫌い」というよりも「大人嫌い」。良寛、宮沢賢治、灰谷健次郎など。


  1. アルセスト型

   モリエールの古典『人間嫌い』の主人公アルセストのようなタイプ。人間の心の醜さやずるさに辟易して「人間はなぜもっと美しい心をもてないのだろう!」 と嘆くタイプ。自分は純粋だと思っている分だけ、自己批判精神が欠如している。精神的発育不良。太宰治などはこのタイプ。自殺する者も少なくない。


  1. 自己優位型

   アルセスト型は未熟な人間観に基づいているのに対して、このタイプはもう少し実質が伴っている。だからこそ、最もたちが悪いとも言える。人間嫌いのうち では、これが一番多いタイプ。世の中にいるバカな人や鈍感な人や趣味の悪い人などと、どうしてもうまくやっていけない。それは自分が優れているためであ り、彼らが自分の高みに至らないためである。だから、このすべては自分の責任ではない。自分は微塵も変えずにいていいのだ。自分には、愚鈍な輩を嫌う「権 利」があるのだ。典型的には三島由紀夫や芥川龍之介。少し自己反省を加えると夏目漱石。ほとんどの芸術家も、実はこう考えているようだ。


  1. モラリスト型

   人間の心の醜さに嘆き顔を背けるのではなく、それをあえて観察の対象にしようと決意した人間嫌い。人間の細部に至って観察し続け、その滑稽さ、卑小さを 炙り出し、「おもしろい」と呟き、どうにか人間に対する絶望から逃れるタイプ。パスカル、モンテーニュ。カントにニーチェ。


  1. ペシミスト型

人間や人生に対して深い恨みを持っているタイプ。所詮この世は生きるに値せず、人間は醜い、この世は闇だと言い続けることによって、かろうじて均衡を保っている。永井荷風。


  1. 逃走型

 芭蕉や山頭火のように、社会から逃れて放浪するタイプ。あるいは、西行や鴨長明のように、山に篭もるタイプ。サン・テグジュベリのように大空に「ひきこもる」者もいる。彼らは、一般的には人間を愛しているのだが、個々の人間は大嫌いだというコントラストのうちにある。


  1. 仙人型

  きわめて少ないが、世の中を達観した人間嫌いであり、おろかな俗物どもを「優しく見守る」人間嫌いだ。悟りに至った禅僧などはこの部類に入る。



8/29/2007

空手と気



空手と気(気の起源・思考の深さ)/宇城憲治

茶道の裏千家宗匠 千玄室氏との対談の折、次のようなことをお聞きしました。

「お寺に行って、日本人は仏像だけを見る人が多いですね。ところが外国の人はあくまでも、仏像は日本人の信仰の対象のものだと思うんですね。そうすると自 分たちが協会へ入っていくのと同じ気持ちを持たなきゃいかんということで、むしろ日本人よりも神聖な気持ちでお寺や神様を見に来ていますね。観てわからな くても、とにかく頭を下げていますしね、そこの雰囲気の中へ入ろうとする。これが非常に大事なことだと思うんですね。日本人は今、国際化、国際化と言って も外国のことばかりを見つめて、日本のことを見つめない国際化なんですよ。だからむしろ閉鎖社会だと思うんです。閉鎖社会の中で、ちょっとした知恵だけで 物事を解決しようとする、これは小細工なんですね。こういう小細工は駄目ですね。やっぱり外国人のように、ものの雰囲気に入ろうというオープンなハート、 そういうものを持たなければ、日本人の石頭はなかなか開けていけないんじゃないかなと思うね。

外国に行って、最近よく『どうして日本から来る人は、みんな日本のことを知らないんだ』と聞かれるんです。外国の人たちは、少なくとも自分たちの国の文化 を誇りをもって説明できるんですよね。ところが日本人はそれができなくなっている。これはやはり戦後の民主主義の間違った考え方がひとつ。それから教育の 根本的な問題、それから家庭の躾にあると思います。躾、マナー、エチケットというのは最低限、人間が心得ておかなければならない日常のひとつの”行事”で あると思うんですよ。人様に迷惑をかけない、いやな思いをさせない、それが根本だと思うんです。」

最近の日本は平和すぎてあらゆることにおいて頭脳優先になっています。頭脳は架空の世界でも生きられて嘘も言えますが、身体の世界は現実を直視するもので 嘘がありません。百度のお湯に手を入れた瞬間、熱いと思う間もなく手を即座に引っ込めるように、身体は正直です。百度だから熱いと頭に言い聞かせて手を 引っ込める人はいません。そんなことをしたら火傷という事実が残るだけです。このような事象はまさに自分の身体が勝手に教えてくれるもので、その結果、瞬 時に行動が出来るのです。

歴史の中の事実の裏にある真実、そして不変の真理を仮想ではなく現実としてとらえるには、絶対世界の中で身体を鍛え、心を磨き、心身の一致を目指すことが必要であると思ってます。そのような身体をつくる最高峰が伝統、文化、躾だと思います。

バイオリンの川畠成道さん

貯蓄するように練習を積み重ねていくのです。・・・・派手に聴かせるというよりも自分で自分の足下を一歩一歩作っていく、・・・(そうして)音楽というのは構築していくものだというところを徹底して教えていただきました。

何度も何度も挫折をしているから強くなっていくわけですし、人にも優しくなれるのではないでしょうか。そして、それが僕の音楽にも表れていくのではないかと思ってます。

頭脳優先の身体動作は単一的で、部分体となり、重心は浮き、身体の気はとまってしまいます。

一方、身体で考える、とらえる場合は居つきがなく統一体になっています。重心は沈み、身体には自然と気が流れます。これが現場主義、国民主体とする考え 方で、活力の根源はここにあると思っています。戦争反対を唱える多くの人が戦争体験者であるという真実を見てもわかるように、身体で経験した人は真実をと らえていて嘘がありません。

武道はまさに、個が生と死の場に臨む形で稽古するからこそ、平和な時代においても必要とされ、活かされるものとなります。武道が、ただ平和の世に安全に行 われるものであれば、その本質、原点は見失われ、武道ではなくなるということです。少なくとも生と死の場のような緊張のある場を想定して稽古することが大 事であると思います。

統一体となると、細胞が働きます。そこでいちばん大事なのは、身体の呼吸が止まっていないということです。統一体の、細胞による方法の最大の特徴は、身 体の呼吸が止まらないことにあります。ところが部分体の場合は、トレーニングの主体が筋力となるので、身体の呼吸が止まってしまいます。ほとんどの人は、 身体の呼吸が止まっているにもかかわらず、そのことを意識することはありません。それは、そういう考え、認識がないからです。統一体になることではじめ て、部分体がいかに身体の呼吸を止めるかがわかってきます。

統一体となり、細胞を主体とした動きとなることで、集中力が生まれ、身体で考えることができるようになります。ここからいわゆる身体に気が流れ始めます。頭で考え頭で命令を出す部分体という従来のトレーニング方法と比較すると、別次元の差、変化が出るのです。

「磁石」は磁力で鉄を引きつける。

「地球」は重力ですべてを引きつける。

「人間」は魅力で人を引きつける。

スポーツでは、優勝することが最大の目的になりがちですが、優勝の上にある、己に克つ世界こそ目指さなくてはならないところだと思います。単なる精神論ではなく、融和融合や気の世界、気が出るような自分に進歩成長していくことが重要ではないかと考えます。

「進歩、成長とは変化することであり、

変化とは深さを知ることである。

深さを知るとは謙虚になることである」

修行とは、

妥協もなく、嘘もなく、言い訳もなく、限りなく自分との闘いができる無心の世界。

それは限りなく深く、限りなく高いにもかかわらず、一度その世界に足を踏み入れると、

自分自身に大きなエネルギーを与えてくれます。それが「道」だと思います。

この「道」を歩み出すと、自分に正直になることができ、覚悟ができます。

それは、他を意識したり競争したりする相対の世界から、

自己を見つめる絶対の世界へ移行するからです。

裏切らない身体をつくる

相手に入っていく逃げないから身体は、逃げない心、すなわち裏切らない心の根源でもあります。

身体が逃げたら、心も逃げる。いくら言葉で良いことを言っても、いざとなると身体やそれに伴う心は裏切るんです。

しかし今言ったような稽古を積み重ねれば、裏切らなくなる。そういう人たちの輪を広げていくことが大事だと思います。

相手が入ってこれない迫力、オーラを出さなくてはなりません。

覚悟ができた身体からは気が出、気が通ったら怪我をしない。気が抜けている人は怪我をしやすい。また、欲がある人は、執着があり心身の居つきが起こり、瞬 発力の攻撃に対し後手となり関節技などではポキッといく。それは、力の攻撃に対しては強くても、瞬発力の攻撃に対しては脆く枯れ技と同じです。だから、 ちゃらちゃらした稽古はしてはならない。肝腰を据えて、突く時は真剣に突く。蹴る時は真剣に蹴る。刃物を持っているような真剣な気持ちをお互いが持って稽 古する。そうすると上達の度合いが違ってくる。そういう稽古をしていかなければならない。

ただ、投げるじゃ駄目、相手に入っていかないとけない。入っていけば、相手の心が読める。だから衝突が起きない。入っていく技、逃げない身体、その身体が裏切らない心につながるんです。

逃げる身体は心の裏切りにもつながります。だから、入る。「入る」には嘘がない。信じるかどうかというのは、結局は自分の問題です。入ることは自分にとっての最大の自信となります。

外面的に目立とうとする人は内面が弱い。ブランドで身を固めるのも同じです。人間が形骸化してしまった時、精神的な貧弱さが出てくる。身のまわりを眼に見える形で固めたら駄目。内面がしっかりしていれば、心は安定する。心で固めている人は強いんです。

相手に入っていく、それには前へ前へという心と技がなくてはなりません。逃げない身体という実践が先にあって裏切らない心は培われます。逃げない身体は思 いや心ではつくれません。伝統の型にある技と身体に気が流れ覚悟ができてはじめて、それは可能になります。最高の防御となる気は道場の稽古や試合だけでは つくれません。日常の心がけも大事です。

8/28/2007

宇城憲治師に学ぶ心技体の鍛え方



宇城憲治師に学ぶ心技体の鍛え方・小林信也



身体の中に「受信機」があればいい。

人の身体は「型」で変わる。「呼吸」で変わる。「意識」で変わる。

本質的な力が発揮されるのは、身体がひとつになったときだ。

「頭の命令」は次元が低い。基本は「身体で感じて、身体で動く」。

現状を打破する。

「できる自分」を体験させる。指導方法の革命が起きている。

頭脳は筋肉を動かす。身体脳は細胞を動かす。

口の呼吸や鼻の呼吸のほかに、「身体の呼吸」がある。

頭が知らなくても、身体が知っている。

頭が邪魔をする。身体は裏切らない。

武道の世界で一番恥ずかしいのは、すぐ、自分とか私を持ち出す人間だ。

信じていいのは、歴史に裏打ちされた基準。

科学とは、普遍性、客観性、再現性があること。

ライオンは筋トレをしない。敵を襲う前にストレッチをしない。

「姿勢と呼吸」が生み出す力は、筋力が生み出す力と次元が違う。

大切なのは、根本を学ぶこと。枝葉ばかり学んでも意味がない。

師の存在は自己流を戒め、個を伸ばしていく最大の導きだ。

勝ち負けだけを追うスポーツに何の意味があるのか?

高い山を目指す。

内面を感じられるようになると、見えない動きが見えてくる。

理屈を言うより、検証してみれば、正しいかどうかは、すぐわかる。

明るさに「気」が宿る。

生活の中にも「型」がある。いまの日本人はこれを失っている。

光の速さで考える。

頭脳より「身体脳」

0.2秒のトリガーを抑える。

一に目、二に姿勢、三に瞬発力。

生死をかけた「気」の威力。

内面のエンジンを回し続ける。身体のスイッチを切らない。

最近の日本人は「屈筋」しか使えない。「伸筋」を使う方法を知らない。

日本人はみな、「心が生み出す身体の力」を受け継いでいる。

呼吸力一生、伸び続ける。





絶対的な価値観とは、人格を磨くこと。

「ひらめき」のある人間になること。

身体で感じ、身体で行動する基本力を高めること。

人生の「まさか」に動じない、揺るぎない心技体を体得すること。

経済的基盤を持つこと。

喜怒哀楽、感動を源泉に生きること。

文武両道を生きること。




8/27/2007

武道の心で日常を生きる



武道の心で日常を生きる 宇城憲治




師を持つことは「文化を学ぶこと」でもあります。文化には歴史があります。長く伝わる文化は間違いのないものです。歴史を学べば、自分がいま何をすべきか教えてくれます。どう判断し、どう行動すべきか、答えはすでに過去の歴史がはっきりと示している場合が多々あります。

歴史を頭で勉強するのでなく、文化を通して身体で学ぶ。日本古来の伝統を、空手や剣道、合気道などの武道や、珠算(そろばん)、書道、茶道、華道、囲碁、将棋など日本の伝統に見られる文化で学ぶことは大切です。

中でも武道は理想的な文化だと思います。生か死かに直面した、真理があるからです。真理の追求は一番の土台になります。そこから骨組みができあがる。その土台と骨格から、全体がしっかりと見られるようになる。

勝ちに三つの勝ちあり

打ち込んで勝つは、下の勝ちなり
勝って打ち込むは、中の勝ちなり
戦わずして勝つは、上の勝ちなり

「武術を稽古していると理想が高くなる。一般的に理想が高くなると空想になってしまうが、武術をやっていると理想が本当の理想となり、それを実現しようとして努力するようになる。そういうエネルギーが沸いてくる」
これは座波先生の言葉です。


両足を軽く開いて立ち、、足裏全体で体重を支えます。そのとき、大事なことは、かかとを意識するということです。漠然と立っていた最初に比べて、足の裏に身体の重さを感じ、足裏で地面を踏みしめている感じが、だいぶわかってきたのではないでしょうか。


押されても、ふらふらしない。抵抗する力が強くなっている。後ろによりかかるのではなく、足の裏がしっかり地面とつながって、身体の芯から力が沸いている感覚があれば、統一体になった証拠です。


まだふらつく人は、頭であれこれ考えようとせず、まっすぐ前を見据えて、かかとに体重を乗せる意識でやってください。また、他の方法としては、左手の小指を少し曲げ、小指を意識するだけでも同じ安定が得られます。これでだいぶ変化を実感できたでしょうか。

できること、違いを感じることが大切です。かかとが上がっていても、かかとを意識することによって、安定が得られます。


打撃練習、投球練習の基本として、立ち方をしっかりすると同時に、こうした「相手の中に入る」[相手を捉える」稽古を普段から繰り返すことが、本当は重要なことだと思います。

8/26/2007

ポップス雑感




メロディの美しさ、ヴォーカルの優しさ、親しみやすいアレンジ、何か不思議な幸福感、癒される、シンプルだが音楽的洗練度は高い。


売れる事が目的ではないけれど、音楽の世界で発言を続けるには、結果を出さなければいけない。現役性が大事。

武道の力




武道の力 時津賢児



目は二つあるから遠近感がでて物の奥行きを捉えることができるが、目が一つしかなかったら物は立体的には見えない。
それと同じで、日本のことを立体的に捉えるためには、日本の外から日本を眺める目を持たなければならない。
言い換えると、日本の中だけに住んでいたら、日本の姿は立体的に捉えることはできない。
外から日本を見る第二の視点が必要なのだ。



だが、日本社会の延長のような海外生活をいくら長くしても、第二の目を得る持つことは難かしい。
その国の生活習慣の中にどっぷりと浸って、数々のカルチャー・ショックを通過することによって初めて第二の目を持つことができる。
そのためには頭が柔らかく感受性の高い若者のエネルギーが必要だ。
しかし、余り幼いうちに異国の生活にどっぷり浸ってしまうと、言葉は上手になるに違いないが、日本人としての自己の確立がなければ、日本人としての第一の目さえ持つことができない。
日本人としての自分があるから異質な文化と衝突してショックを受け、それによって自分を鍛えることができる。
そうした経験をするのは二〇代の前半が最も適していると私は思う。



日本に帰っていつも驚くのは、自分本位の見方の人が圧倒的に多く、なかなか物を相対的に見ようとはしないことだ。
世界の情勢を客観的に捉え、諸外国との関係を相対的に把握し、日本が置かれている状況を正確にキャッチできる目を養うことが、これからの日本の若者には必要なのだ。



原水爆をかかえた現代世界で、最も戦略的効果の高いのは平和状態をもたらすアクションである。
だがそれは、「平和、平和」と叫べば得られるものではなく、対立しあうさかざまな力関係を認識でき、それらのバランス状態に持っていく彗眼と意思力が必要だ。



武道は戦略と戦いの技術を基にしている。
武的発想でいえば、平和というのは、「相手のことをよく知り、同時に自分のこともよく知っているから、戦いはできない。」そういったバランス状態のことである。つまり、バランスが壊れると戦いはいつでも起こりうる、ということを前提としている。
残念ながら、人間にとって平和というのはユートピアではなく、対立する多数の力の均衡状態である。
こんな言い方は日本人には受けないかもしれないが、長い間、絶えず国境を守って生きてきたヨーロッパ人にとっては常識的な感覚である。
内と外の緊張関係をはらむ国境感覚はヨーロッパ人にとって常識であるが、それが日本人には欠落している。
カルチャー・ショックは相対的に物を見る目をつくるために格好な体験だと思う。