8/11/2007

「人生万葉歌」

阿久悠「人生万葉歌」


みっともなさの中に背中合わせで隠れているカッコよさを上手く体現できるところかもしれない。

歌謡曲はリアクションの芸術かもしれない。

送り手がいかに意欲的であり、情熱的であっても、リアクションがない限り何の価値もない。

毎日、ひとつでもふたつでも何かが跳ね返ってくることを期待しながらボールを投げ続ける。

今、何が欠けているのだろうか。

今、何が欲しいのだろう、というその飢餓感の部分にボールが命中したとき、歌が時代を捉えたといってもいい。

歌の場合、「いいね」という噂を聞いた人がその後、実際に歌を聞く確率は非常に高い。

また、流行っていればテレビやラジオでも、街を歩いているときでさえも常に耳に入ってくる。

歌の場合、聞けば4,5分で済んでしまうものだから耳になじみやすいこともある。


昭和懐旧



昭和懐旧  阿久 悠


合掌。




昭和とともに歌謡曲時代は一度終わりました。今はミュージックはあってもソングがない。

歌謡曲というのは世の中の人との真ん中にあったものです。

歌で伝えたいこと、感じたいことは現在もあるはずなんですが・・・・。
今の歌は詞と旋律で紡ぐソングではなくメロディーだけが聴こえるミュージック。

「外」がなく「内」だけに目を向けた厚みのない身辺雑記のような曲が流れている。

若い人たちに社会性がなくなっているせいだろうと思う。

つい、昭和懐旧の気分にとらわれる。

家族が広い部屋でぐだぐだする時間が必要です。

時々話しかけ、話しかけられた方は、あしらうのではなくそこそこ返事する。

無理をすると疲れるので、そこそこです。


8/10/2007

「デタラメ思考」で幸せになる!



「デタラメ思考」で幸せになる!・ひろさちや

昔の国王は税金泥棒でしたが、明治以後の日本の天皇制国家は、もっと質が悪い。誰かが言ってましたが、「大日本帝国憲法」や法律は、
兵役の義務があって・・・われわれの生命を奪い、
納税の義務があって・・・われわれの財産を奪い、
教育の義務があって・・・われわれの魂を奪った、
のです。泥棒なんかじゃない。人間をまるごと盗んだのが国家です。
だから、国家というものは悪いものです。できればなしですませたい。ないほうがいい。それがインドの原始仏教の考え方でした。

道徳というものは、一時代、一地域でしか通じないのです。
日本の道徳は、よその国では通じません。日本の国内においてだって、戦前の道徳は時代に通じません。

道徳というものは、強い者はそれに拘束されません。そして弱い者だけが道徳に縛られます。道徳は、強者が弱い者いじめをするための道具ではないでしょうか。すると、われわれは、道徳なんて馬鹿にしたほうがいいのです。

我々日本人であれば、自然に日本の風物に愛着を感じますが、そのような愛国心で、これを、-心情的自発的愛国心-と呼べばいいでしょう。
だとすると、そのような心情的自発的愛国心は、教育によって強制されるものではありません。教育によって教えられる愛国心は義務的強制的愛国心--脱税摺るな!脱税した政治家に投票するな!!--だけです。そこのところを、保守的な政治家がわかっていないのです。

釈迦が教えられたことは、あなたたちは、
--世間にふりまわされるな--
--世間を馬鹿にせよ--
ということでした。それは、つまりは、あなたが、
――自由人であれ!――
のメッセージです。

--世間の奴隷になるな--
--欲望の奴隷になるな--
――自由に生きよう!――
奴隷の反対は自由人です。われわれは自由人になるべきです。

庶民はあくせく働いて金儲けをしたところで、それで貴族になれるわけがありません。だから、ヨーロッパの庶民たちはのんびりと生活を楽しみます。また、仲間同士が助け合って生きるのです。その結果が、ヨーロッパ型の資本主義になったのです。
それに対してアメリカ型の資本主義は、競争原理に立脚しています。アメリカは階級のない社会ですから、全員が(タテマエ的には)平等です。そこで「よーい、ドン」で競争して、その競争に勝った者が成功者になります。この場合、競争において求められるのは、フェアプレイの精神です。フェアで自由な競争こそが、アメリカ型の資本主義の底を流れる精神です。

今、アメリカ社会は危機的状況にあります。下層労働者のあいだでは競争に参加しようという意欲がなくなったのですが、ではヨーロッパ社会の労働者が持っている連帯感・仲間意識が醸成されるかといえば、それは無理です。社会そのものが競争原理に基づいているのが、仲間同士の足の引っ張りあいです。妬み・嫉みの感情しか生まれません。とくに人種のあいだの反目からくる妬み・嫉みが、アメリカ社会を根底から腐敗させています。わたしは、アメリカの没落はもうすでにはじまっていると思います。

自由とは、自分の意見をしっかりと肯定することである。

つまり、ここで大事なことは、わたしたちにはほとけさまの物差しは、
--わからない--
ということです。それがどういう物差しかわからないから、わたしたちにはそれがデタラメに見えるのです。


わたしたちは、仏教を勉強して、
--人生は「空」だ--
と見るようにしましょう。「空」なる人生を、世間の人はあくせく、忙しく生きています。でも、われわれはそんな生き方をしないでもいいのです。もちろん、したってかまいませんよ。あくせく、いらいら、ガツガツと生きたい人は、どうぞそう生きてください。そのことを知っておいてください。そうすると、もっともっと人生をラクに生きられます。

--あきらめ--
です。きれい、さっぱりあきらめてしまえばいいのです。
ただし、あきらめることは、ギブ・アップすることではありません。そうではなくて「明らめる」のです。そのことが、自分の思うがままになることではないことを、しっかりと明らかにするのです。

人生を旅に譬えるのであれば、人生のたびには目的地はありません。というより、目的地があってはならないのです。たとえば東京から出発して、目的地である大阪に着いて、それで「はい、終わり」というわけではありません。
人生のたびは、その道中がすべてです。プロセスだけが全てです。
人間がある方向を目指して歩んでいく、その歩みそのものが人生です。
だとすれば、人生は急いではいけません。走るなんてとんでもない。

ゆったりとした旅をしましょう。目的地なんでないのです。
目的地があると、わたしたちは目的地に着いてからおいしい物を食べようと思い、旅の途中では粗食になってしまいます。馬鹿げた考えです。それじゃあ、かりに目的地に着けずに途中で死んでしまえば、おいしい物を食べずに終わるのです。人生の旅では、死んだ後ではおいしい物は食べれませんよ。
毎日毎日、おいしい物を食べればいいのです。
いや、おいしい物を食べるのと、おいしく物を食べるのとは違います。おいしい物は金がなければ食べられないかもしれませんが、おいしく物を食べるのは誰にでもできます。今日から早速、おいしく物を食べるようにしませんか。

人間らしく生きるには、ゆったりとしたいい加減のペースで、人生の旅を続けることです。
途中でいっぱい寄り道をしながら・・・・。


8/09/2007

「狂い」のすすめ



「狂い」のすすめ・ひろさちや

「まともな意見」=常識。赤提灯で得々として語っているサラリーマン親父の「意見」なんてものは、商業新聞や週刊誌に書いてあることと同じです。いわゆる体制護持的な思想、それを弱者は自分の「意見」だと思っている。思わされているのです。世間の奴隷、常識の奴隷になっているのです。

「風狂」とは、風雅に徹すること一休禅師は「風狂の禅者」でした。狂った時代にあって狂った生き方を選んだ一休は、だから自由人であったのです。世間が押し付けてくる道徳なんかに囚われることなく、自由ののびのびと、そしてあっけらかんと生きています。

日本の企業の管理者に奴隷根性の持ち主が多いから、自分が奴隷であるから、社員までも奴隷にしたいのです。そして、奴隷になっている社員がまじめでいい社員と評価されるのです。日本はそういう狂った社会です。狂った社会に忠誠を誓えば、その人は奴隷になってしまう。だから、狂った社会にあっては、こちらが狂う以外に自由人になることはできません。
「ただ狂え!」の『閑吟集』の言葉、あれが自由への呼びかけなんです。

目的意識があると、われわれはその目的を達成することだけに囚われてしまい、毎日の生活を灰色にすることになります。失敗したっていいのです。出世できなくてもいいのです。下積み生活でもいい。それでも楽しく生きることができるのです。

本当の「人生の危機」は、あなたが世間から「生き甲斐」を押し付けられたときなんです。まさにそのとき、あなたは奴隷になったのであり、自由人としてのあなたは死んでしまったのです。それが、それこそが、本当の意味での「危機」だったのです。

-カタツムリが旅に出て、ナメクジになって帰ってくる-わたしたちは常識や既成概念、世間の物差しを持っています。そういう殻を背負ったカタツムリです。旅をするのは、そうした殻を捨てるため。殻を捨ててナメクジになって帰ってくる。そうした気持ちでする旅こそ、最高の旅なんです。

人生を目的地主義で生きると、60年、70年の生涯が、たった4ヶ月と6日になってしまいます。人生に目的を設定してはいけません。意味を持たせてはいけません。生き甲斐なんてないのです。

明日できる仕事を今日するな。他人ができる仕事を自分がするな。
ともかく、ゆったりしましょう。家康のように重荷を背負ってあくせくする必要はありません。重荷は他人に背負わせるとよい。そういう気持ちを持つことが大事です。

家族制度は封建的だという理由で、家の解体をやってもけたのです。その結果、見事な「核家族」になりました。こんな国は、アメリカの中下層と中国、それにイスラエルだけです。その他の国では、家族制度はしっかり残ってます。

-正しいことは言わないでおこう-
正しいことというのは、わざわざあなたが相手に言ってあげなくても、相手がよく知っていることです。言う必要はありません。

8/08/2007

仏教に学ぶ老い方・死に方







仏教に学ぶ老い方・死に方 ひろさちや



「商売人というものは、客のお金に頭を下げるんや。なにもあのお客に頭を下げているのんと違う」



―大阪の商人は、金には頭を下げるけれども、金持ちには頭を下げない―



『閑吟集』というのは、室町後期につくられた歌謡集です。編者不詳。庶民の生活感情を伝えた当時の歌が収録されています。その中で、わたしのいちばん好きな歌が、《何せうぞ、くすんで、一期は夢よ。ただ狂へ》です。


「何になろう、まじめくさって、人間の一生は夢のようなもの。狂えばいいのだ」と訳せばいいのでしょうか。


“くすむ”というのは、《きまじめである。まじめくさる》(『大辞林』)といった意味で、世間の物差しに自分を合わせて、それに忠実に生きる生き方です。要するに世間の奴隷ですね。そんな馬鹿げた生き方をするな!『閑吟集』はそう忠告しています。


じゃあ、どうすればいいのですか?


―――ただ狂え!―――狂えばいいのです。


世間の物差しを否定するのです。考えればわかることですが、もともと世間の物差しのほうが狂っているのです、それは人間を商品化してしまった、おかしな物差しです。


だから、その狂った物差しから狂うことによって、わたしたちは「まとも」になることができるのです。私はそう思います。






老いることは商品価値の低下であるが故に、老人たちが老人であることを恥じ、少しでも若くあろうとしてがんばっている姿。


どう考えても悲しいですね。


老人が尊敬される日本にするためには、老人がみずから老人であることを誇りに持たねばなりません。そのためには、人間を商品価値で測る物差しを捨てるべきです。


諸悪の根源は、人間を商品価値で測る物差しです。でも、その物差しを捨てるためには、社会を根本から変革せねばなりません。


早い話が革命が必要です。


いっさい貨幣というものをなくした社会にせねばなりません。それは共産主義社会ではありません。強いて言えば、縄文社会です。


とすると、日本の人口は数百万人ぐらいにせねばならない。だから、絶対に不可能です。じゃあ、どうすればいいのでしょうか・・・・・・?また振り出しに戻ってしまいました。






捨てるというのは、それを笑い飛ばすことです。馬鹿にするのです。


というよりも、それに代わる、―もう一つの物差し―を持つことです。


実際には、いま世間で通用している「人間を商品と見て、その価値を計る物差し」を捨てることは、なかなかできることではありません。


われわれは幼児のころから、その物差しを教え込まれてきました。すっかり洗脳されてしまっています。だから、それを捨てることはほとんど不可能です。


でもそこで、もう一つ別の物差しを持ちます。そうすると、世間の物差しが「絶対」でなくなるわけです。絶対でなくなれば、われわれはその呪縛から解放されます。わたしたちは世間の呪縛から解放されて、「自由」になれるのです。






そもそも国家というものは、知人のお坊さんが言っていましたが、われわれ庶民から、納税の義務でもって・・・・・・財産を掠め取り、兵役の義務でもって・・・・・・生命を強奪し、教育の義務でもって・・・・・・魂を奪い去る、ものなんです。いまは兵役の義務はありませんが、うかうかしていると国家の代りに大企業が過労死という形でもってわれわれの生命を略奪しかねません。






老いをどう生きるか・・・・・・といえば、基本的には「世逃げ」のすすめになります。


そして、具体的にどうすれば「世逃げ」ができるかといえば、世間と道徳と他人にむやみな関心を持たないことです。


そもそも日本人は、世間や道徳、他人に対して関心を持ちすぎています。


若いあいだは仕方がないとして――本当は若者だって、あまり世間・道徳・他人に関心を持たないほうがいいのですが――、老人にまでなって関心を持ち続けるのは感心できません。



―四住期―
1 学生期・・・人生の最初の時期。この期間は師より真理を学ぶ。
2 家住期・・・家にあってそれぞれの職業に専念する期間。
3 林住期・・・森林に住む機関。つまり家を出て隠居する時期。
4 遊行期・・・その森林も出て、放浪の生活をする期間。






人間社会においても、現実に強者と弱者があります。その場合、強者のほうの義務を大きくすることによって、「公平」が回復されます。


ところが、現代日本の社会は平等をタテマエにしていますから、義務に関しては強者と弱者が同じになります。そうすると、当然、弱者のほうが負担が大きくなります。


タテマエの平等が結果としての不平等をもたらすことになります。人間が発明したもう一つの文化は、―布施―の思想であり、これは主として仏教が教えるものです。


これも現実社会に強者と弱者があり不平等であるのを、強者の負担を重くすることによって公平を保とうとする思想です。


布施は、強者から弱者への施しです。けれども、どうやら日本人は布施の思想を誤解しているようです。日本人にかかると、布施は、強者が弱者に恩恵的に、また恣意的に施すことになってしまいます。


だが、仏教が説く布施は、そのようなものではありません。強者は人間の義務として、弱者に施しをすべきです。それが仏教の本来的な意味での布施です。


したがって、布施において感謝すべきは、施しを受けたほうではなしに、施した者です。


つまり、貰った者が「ありがとう」というのではなしに(言ったってかまいませんが)、施した者が、「あなたが受けてくださって、わたしは人間としての義務を果たすことができました。


「ありがとう」と言うのです。そうしたとき、本当の布施になるのです。
<俺がおまえに施してやったんだぞ。お前は俺に感謝しろ>といった気持ちがあったのでは、本当の布施にならないとされています。


ところが、平等をタテマエとする日本の現代社会では、この布施のこころが機能しません。


施しがなされても、それは見掛けだけの施しであり、施した者はそれをいつか取り返したいと思っています。


つまり、施しは一時的な貸し付けであり、将来の返済が予定されています。


その将来の返済が期待できないときには、強者は弱者に布施しようとはしません。そうすると、弱者に救いがなくなります。


しかし、日本人は平等をタテマエにしていますから、日本には弱者は存在しないのです。だから、弱者の救済がなくても困りません。平気でいられるのです。






人間、誰だって、独りで気ままに生きるほうが気楽でいい。


それで、気楽な暮らしができるうちは、気ままに会社人間でいて(いや、仕事をしててもいいのです。しかし、子どもと離れて仕事中心で生きている姿勢が問題です)、退職後は遊んで暮らしておいて、独りの生活がつらくなったから子どもと一緒に住みい・・・・・・というのは、わがままでしょう。


子どもと一緒に住みたいのであれば、若いうちにさっさと仕事をやめて、子どもが住んでいる場所に移って、留守番や子守をすべきです。


それが、すでに述べたように、インド人のライフ・スタイルです。世界のほとんどの人々は、そういうライフ・スタイルで生きています。


会社の奴隷になり、身も心も会社に売り渡した日本人の老年が、わびしく、みじめなものになっても、それは自業自得ですよね。


まぁ、ともあれ、長寿社会というのは、そのような問題をわれわれに投げかけています。そのことをしっかりと認識しておいてください。






世間の中にいて、世間の中でそれなりのポストを得て活躍している人間は、やはりどうしても世間の価値観でものを見ます。


世間の物差しを使うよりほかありません。そうでないと、世間に通用しないのですから。そうすると、その世間の物差しの歪みを指摘できる人間は、世間を一歩退いた「出世間人間」です。つまり老人。老人だけが現実社会を批判する権利を持っています。
いや、権利ではなしに、義務かもしれません。というのは、日本の年寄りは、いつまでも世間の中にいて、世間の価値観・世間の物差しにしがみついています。


「生涯現役」だなんて馬鹿なことを言う年寄りが多くて、なかなか出世間人間になろうとしません。


そんな年寄りには、世間を非難する権利もないし、能力だってありません。世間の物差ししか知らないから、別の物差しでもって批判することができないのです。


日本の老人たちは、世間の外に出て、


――もう一つの物差し――


を学び、それを若い人々に教える義務があります。


年寄りがその義務を果たさないと、若い人たちがいつまでも屈辱的な奴隷的人間、商品化された人間でいなければならないのです。


そして、そのもう一つの物差しは、ほとけさまの物差しです。ほとけさまの物差しには、目盛りがついていません。


なぜなら、それは価値観を測る物差しではないからです。分別するための物差しではなく、あらゆる人間をそっくりそのまま肯定するための物差しです。


換言すれば、ほとけさまの物差しとは無分別智です。ほとけさまの智慧です。日本の老人は、そのほとけさまの物差し―無分別智―を学び、それを若者に教える義務があります。






芸術家にしても同じです。画家・音楽家・詩人たちは、貴族のパトロネージュ(引き立て)の下で活動できるのです。


その意味では、古代においては彼らも奴隷的存在であったのです。プロフェッショナルが奴隷の系譜に属するのに対して、アマチュアは貴族の系譜に属します。


だから、プロが尊敬されるのはおかしいのです。ヨーロッパにおいては、現代でもこのような考え方が基本にあります。


われわれ現代日本人は、いささか偏った考え方をしているのです。そこで私の提案ですが、年をとればプロを尊敬することをやめて、――アマチュアリズム――に立脚しましょうよ。


アマチュアであることに誇りを持つのです。
具体的にいえば、下手を楽しむ。あるいは、同じことですが上手になろうとしないのです。日本人はゴルフをするとき(じつはわたしはゴルフをしませんが・・・・・・)、練習をしてうまくなろうとします。それがつまりはプロ意識です。アマチュアは、練習してはいけません。下手なまま楽しむのがアマチュアの特権です。



日本人はギャンブルをするとき、勝とうとしますね。あれは見苦しい行為です。


勝つためならば、ギャンブルなんかしないほうがいいのです。


ヨーロッパの貴族は、ギャンブルを負けるためにします。


ゆっくりと負けを楽しむ。それが貴族精神です。アマチュアリズムなんです。



本当は、若いころからこのアマチュアリズムを培っておきたかった。


けえれども、世の中の風潮がそれを許してくれませんでした。


だからせめて老後は、アマチュアリズムに立脚しましょうよ。


若いころに奴隷的に馬車馬のごとく働いてきたわれわれは、老いの身になれば、――精神的貴族になっていいのです。


アマチュアリズムとは、じつは精神的貴族になることなんです。奴隷を卒業することです。私はそう考えています。

8/07/2007

三世(さんぜ)をみつめる


三世(さんぜ)をみつめる/ひろさちや&玄侑宗久

ヨーロッパには「ノブリス・オブリージュ」という精神があります。ヨーロッパの貴族の家に生まれた人間は、いずれ皆を統率していく宿命にあるわけだから、厳しい教育を受け、高貴さ・崇高さを養うのが義務であるという精神です。
仏教には「長者」という言い方があります。長者というくらいですからお金持ちです。しかしそれだけではない。また人徳もある人をいいます。いまこの「長者」という概念を一般の人に説明しようとすると非常にむずかしいのは、お金持ちは人徳もあるという常識がまったくないからです。アダム・スミス風にいえば、今はお金が空を飛んでいます。お金がお金を生む投機の世界には人徳など関係ないということでしょう。
ところが長者もそうですし、ノブリス・オブリージュを求められたヨーロッパの貴族もそうですが、お金持ちは必ず人徳もあったわけですね。

意識は丹田に置け
私は演台に立つと、踵を上げて体を揺すって意識を落とします。あがっている状態というのは、意識が頭にあるわけです。ですからちょっと体を動かして意識のあり場所を変えてやる。そうするしかありません。
意識のあり場所は重要なテーマだと思います。体の中心部である丹田に意識を据えたとき、いちばん体から力が抜けます。

明治以降、維新政府は徹底して家族を壊しはじめます。家族を壊さないことには天皇制宗教をつくれなかったのです。ヨーロッパ型であれ、あるいは昔の中国・インド型であれ、家族がしっかりしていれば、だれが天皇を敬いますか。自分の家の宗教がちゃんとあって、家長に絶対権があって、さらに家長に対する尊敬の念があれば、天皇を盲信するようなことはありません。それでは天皇制が成り立たないから、維新政府は家族を壊したわけです。
中国など、昔は家族や親類のなかに優秀な子が出ると、みんなでその子を援助して出世するよう一生懸命に育て上げた。そしてその子が軍の大将にでもなれば、今度はみんなが職を斡旋してもらったり、一族郎党が食わせてもらった。そういうシステムがありました。

家は桎梏か
日本の場合はたしかに明治以降、国家への「忠誠」が求められるようになり、それとともに「家」という大きな砦をなくします。そして戦後になると、かろうじて残っていた家さえも「桎梏だ」「家は悪いものだ」となりました。
イプセンではないけれども、「人形の家」です。人は家に縛りつけられている。そこから自由になりたいと主張しはじめる。しかし家から自由になった人間は会社の奴隷になるしかなかったわけです。そこを見抜けなかったのは戦後の日本人、とりわけウーマン・リブの人たちの愚かさだと思います。

教育は義務か
教育は家庭でやってもいい、いや本来は家庭ですべきものだと思います。子供に教育をするのは親であるべきだというのが私の考えです。
あるお坊さんがこんな事を言ってました。「私たちは納税の義務で財産を奪われ、教育の義務で魂を奪われ、そして徴兵の義務で生命を奪われる」と。まさに至言だと思いましたが、国家とは泥棒の親分のようなものだ、というのはじつは仏教のものの見方でもあるのです。


8/06/2007

マネーの公理


マネーの公理・スイスの銀行家に学ぶ儲けのルール/マックス・ギュンター

第一公理:リスクについて
心配は病気ではなく健康の証である。もし心配なことがないなら、十分なリスクをとっていないといことだ

副公理1いつも意味のある勝負に出ること
副公理2分散投資の誘惑に負けないこと

第二公理:強欲について
常に早すぎるほど利食え

副公理3予めどれだけの利益が欲しいのかを決めておけ。そして、それを手に入れたら投機から手を引くのだ

第三公理:希望について
船が沈み始めたら祈るな。飛び込め。(損切り)

副公理4小さな損失は人生の現実として甘んじて受けよ。大きな利益を待つ間には、何度かそう言う経験をすると考えろ。

第四公理:予測について
人間の行動は予測できない。誰であれ、未来が分かるという人を、たとえわずかでも信じてはいけない。(起こった事に反応する)

第五公理:パターンについて
カオスは、それが整然と見え始めない限り危険ではない

副公理5歴史家の罠に気をつけろ
副公理6チャーティストの幻想に気をつろ
副公理7相関と因果関係の妄想にきをつけろ
副公理8ギャンブラーの誤謬に気をつけろ

第六公理:機動力について
根を下ろしてはいけない。それは動きを遅らせる。

副公理9忠誠心やノスタルジーといった感情のせいで下落相場に捕まってはいけない
副公理10より魅力的なものが見えたら、直ちに投資を中断しなければならない

第七公理:直感について
直感は説明できるのであれば信頼できる

副公理11直感と希望を混同するな

第八公理:宗教とオカルトについて
宇宙に関する神の計画には、あなたを金持ちにすることは含まれていないようだ

副公理12占星術が当たるのであれば、全ての占星術師は金持ちであろう
副公理13迷信を追い払う必要はない。適当なところに置くことができれば楽しめる

第九公理:楽観と悲観について
楽観は最高を期待することを意味し、自信は最悪に対処する術をしっていることを意味する。楽観のみで行動してはならない。

第十公理:コンセンサスについて
大多数の意見は無視しろ。それはおそらく間違っている

副公理14投機の流行を追うな。往々にして、何かを買う最高の時は、誰もそれを望まないときである

第十一公理:執着について
もし最初にうまくいかなければ、忘れろ

副公理15難平買いで悪い投資を何とかしようとするな

第十二公理:計画について
長期計画は、将来を管理できるという危険な確信を引き起こす。決して重きを置かないことが重要だ
金持ちになる意志を持つだけにしろ

副公理16長期投資を避けよ



8/05/2007

金持ち賢者の習慣術


金持ち賢者の習慣術・小泉十三



「本当に大切な自由はただ一つ、経済的な自由だ」
「他人に何かをするためにお金を支払える人が、自分のために何かをするには、人生は短すぎる」サマセット・モーム

老後をはっきりイメージしながら生活する。
”本物”の食事や芸術を味合うためなら、お金を惜しまず使う。
「お金で買えない財産」を大切にする。

ブリジストン創業者・石橋正二郎
「何かをがまんするところがなければ貯蓄はできるものではない。貯蓄のできぬ人は節約と克己心が足りぬからである。あくまでも初志を貫徹せよ。」

「買ったつもり」になって貯金にまわし、必要な時に備える。
自分なりの価値観に沿ってお金を使う。
「お金を使わない楽しみ」を知る。
若いうちは「自分への投資」も同じくらい大切だと考え、お金を使うことを決して惜しまない。
物を増やさないシンプルな生活に満たされて出費を防ぐ。
子供の成長をつねに頭に入れ、子供にとって最善の選択ができるように準備しておく。

現金で買えない物は最初から、「買わない」
自分でできることでも、プロに任せることを知る。
自分の時間を捻出するためにお金を使う。
人付き合いを何よりも大事にして情報やチャンスを得る。

増やさなければ、減っていくのがお金。
そのお金を「どう増やすか」を考える。
プロの耳は借りても、鵜呑みにしない。
「いくら損する可能性があるか」を考える。
失敗の歴史を学ぶいっぽうで、自分も最悪のケースに備える。
「高いリターンがあるからこそ、そのリスクも高い」と考える。
「利益が出る可能性」を重視する。

株の儲けは知恵が一%で、あとはすべてガマン料である。
プラスマイナスゼロなら問題ないと考える。
チャンスを逃さず、すぐに行動を起こして巨利を得る。