8/25/2007

君はいつでもはじめられる




君はいつでもはじめられる 片岡勝




第1章◎自分の人生なんだから好きにいこう


裸の自分で勝負するのは面白い
仕事は自己実現の道具
ビジネスで社会と向き合う
働くことが何よりも充足感を生む
ボヘミアンで世界を動き続ける
失敗しても成功しても実験は面白い
自由に生きる舞台は自分でつくる
尖り続けることがオンリーワンへの道
社会変革が僕のミッション



第2章◎個人が試される時代


変革を加速しないと格差はますます広がる
「総中産階級」時代の考え方では生き残れない
お金より情報に人は集まる
一流の人間は自分で仕事をつくる
自分で仕事をつくり出さないと職場は奪われる
動けることは選択肢の幅を広げる
スピードが勝敗を分ける
一人ひとりが決断を求められる時代
多様なニーズに対応する多様な人材が必要
小さな単位の変化が世界を変える
脇役が主役になる時代
世の中にはたくさんの競技場とルールがある



第3章◎他人との関わりの中で自分が見えてくる


社会との関わりの中で自分を見つめ直してみる
コミュニティが豊かになれば個人も豊かになっていく
国民総幸福(GNH)は次の時代の指標
自分だけよければいいという社会はコストがかさむ
「選択と集中」を可能にするもの
財は使ってこそ意味がある
シリコンバレーの危機感がどん底のアメリカを救った
現場にこそ答えがあり、知恵がある
依存しないで自らつくるということ
問題解決を実現していくと、エネルギーが循環しはじめる
今こそシェアする社会を実現する
ビジネスの原点は問題解決
社会には喜ばれる仕事がいくらでもある
ベンチャーは冒険なのだ



第4章◎自分の感性を大切にして生きる


全部自分でやる時代になる
やりたいことをやっていると時間密度は濃くなる
人は面白いことに動く。自分の感性にふれるものを求める
気になるなという気持ちを大切にする
困ったことに気づく感性を持つ
捨ててみるとスッキリする
今いるところから離れてみると違う世界が見えてくる
ギャップや格差がアイデアを生み出す
リアルな想像が“創造”への近道
次の時代の担い手は現場でもがいている人
人と人との関係の中に知恵がある
右脳をもっと活用する
イメージには面白いことが明確に現れる
左脳で考えすぎると動きが止まる
解決への糸口はイメージをつくること
準備が不十分と言う人は、だいたい死ぬまで準備をしている
動きが止まると競争力が失われる
決めてしまうことくらい楽なことはない
1回にすべてをかけるのではなく、しゃれでやる
反省と後悔はしない
ビジネスは経営者の生き方が商品
自分の中に元気をつくり出す「元気表」
小さなハードルを一つひとつ越えてみる
自分の言葉で話しはじめたらそれが自信
軸を持って振り向かずに行こう
マイ・ワールドをつくってしまった人ほど強いものはない
事業の継続にはABCの法則がある



第5章◎チームでやって自分も成長していく


勝手にやる会社がいい
悪い部分もオープンにしてつき合う
摩擦の中からエネルギーが生まれる
プータロー認定
仲良しグループでは組織ができない
仲間と動けばエネルギーが増幅される
一人の覚悟が人を動かす
判断の軸があいまいだとエネルギーが落ちる
問題を起こす人もまた大切
新しいことをはじめるには「よそ者、若者、バカ者」を活用する
外部の多様性が組織を成長させる
チェックではなく、互いに前へ進む関係を持つ
1以下累乗は限りなく0に近づいていく



第6章◎古いルールに縛られない


次の一歩を踏み出すチカラは特別なものではない
常識の延長線上には次の時代がない
“らしさ”に縛られていないか
リスクをとる人が新しいものをつくる
正解を求めない
軸のない人は批判ばかりが上手
成功よりも失敗をしない方向でものごとを決めてないか
命令をされなかったら、考える癖がついた
個人の気概からすべてがはじまる
創造的な仕事にまじめさは必要がない
まじめと真摯はまるで違う



第7章◎今を突き抜けていこう


自分から変わっていく
加速しないと出口は見えない
本気でやれば応援者は集まる
がんばらなくてもいい、面白がっていこう
身の丈でやれる実感を持つ
面白がる、スピードがある、ネットワークを持っていること
有限性に気づいたことがあるか
欲を捨てると将来が見える
つくり続けることは壊し続けること
いかに自由を獲得し続けるか
狂気を持って生きる



世の中には階段を上がる人と作る人がいる。この場合の階段は、既成の概念とでも言ったらいいだろうか。



すでに作られている階段を上ること――出世をする、お金を儲ける、権威を持つ等――だけが楽しいと思っている種類の人々がいる。



金でも学歴でもなく、タフでどこでも生きられて、素でいられる。やりたいことがやれるというのが、
かっこいいことなんだと、完全に考え方が変わった。こうして価値観が変わると、とたんに僕は元気になった。



気軽にはじめてみればいい。自分のゴールに向かって小さくても一歩踏み出せば、不安は解消してしまうし、
きっと自分への可能性が見えてくる。そうすれば、もう君の目の前には自由な階段が広がっているのと同じだ。
そこには面白いことがたくさん待ち受けているにちがいない。



お金を回そうと思ったら、勤勉に働くことを最初に考えない。まず時代が将来何を必要とするかを見極めることが大事なのだ。



死ぬまで尖り続ける。これは自由を確保する上でどうしても必要なことだ。
角が取れて丸くなってしまうと新しいことができなくなる。丸くなってみんなの意見なんて聞きはじめたら終わり。
闘争心がなくなるし、発信力もなくなる。人もリーダーと認めなくなる。
世間におもねて、金儲けを一番に考えるのもいけない。手の内が小さくなり、大きな実験ができないようになる。
新しいものを生まないうちに、潰されてしまう。
つまらない計算はしない。思ったことは何でもやる。違うと思ったら距離をとる。僕はそういうふうにした。
嫌なヤツともつき合わない。そんなのできっこないと思うかもしれないが、地球上には何十億と人がいるから、無理してつき合わなくても、
きっと気の合う人は世界のどこかに必ずいる。



とにかく金さえ儲かればいい、やりたいようにやるという幼稚な自己中心主義の人もいる。僕はそういうやり方は続かないと思う。
ビジネスは結局人との関わり合いなので、他人に配慮できない人はいずれ誰にも相手にされなくなってビジネスも回らなくなる。



自分だけでなく全体のことも見ることができる人が、社会に関わって自立していける人だろう。



これからの社会には、「面白い」の二極化現象が起きてくると思う。面白い人同士、既成の常識人は常識人としか集まらない。
お金のあるなしは、たいした差ではないかもしれない。



何が違うのかと言ったら、時間密度の差。時間密度の差は、自分らしさの象徴だと言えるだろう。自分が楽しいことでの密度が重要だ。
生きる意味と言い換えることができるかもしれない。



面白いことをやると人が動く。生産も消費もそれが動機づけになっている。そのためには自分が面白がらないとはじまらない。
これが本当にいいのか、面白いんだろうかと悩んでいるうちに面白いものもどんどん変わっていく。それでは面白さに乗り遅れる。
面白いことに直接乗っかっていこう。今の時代は変革期。やりたい放題やるヤツがチャンスをつかむのだ。



僕の場合、サラリーマンを辞めた後、最低限の生活を実験した。新聞、つき合い、車も全部捨てた。新聞を見ないから考える。車がないから歩く。
するといろいろなものが目につく。景色がまったく違った。小さな花が咲いている、風が吹いていることも気づかなかったサラリーマン時代の自分に気づいた。
気づかないというのはビジネスにとっては致命傷だ。
今のまま守っていても仕方ないと気づいている。でも、すべて捨てろと言われてもそうは生きられない。こういう人は、基本的に捨てるという意識がない。
キープし続けたいという人もいるけれど、キープするほどのものがあるんだろうか。余計なぜい肉を捨てる。古い考えを捨てる。物分りの悪いパートナーを捨てる。
まずは、いろいろ捨ててみることがスタートかもしれない。



A―飽きず、B―バカになって、C―コツコツやる。これがABCの法則。賃借対照表を読めなくても、財布にお金が残っていたらいいと思い込む。
自分の基準で生き残ればいい。



あの人と一緒に働きたい、あの人のミッション、ヴィジョンでやりたいと思わせるのが求心力である。
数の論理ではもはや何も動かせない。そのかわり誰か一人の魅力が人を動かす。高いミッションとパッション、そしてリスクをとる生き方が、その人に
求心力を生んでいく。お金だけでは人は動かないのだ。



1.つき合いの範囲が狭い
2.まじめだが真摯でない
3.コスト意識がない
4.専門性がない
5.スタッフが組織にしがみつこうとしている



自分を素にして生きてみると、あまり怖いものがなくなってくる。僕は素で生きるほど楽なことはなく、自由度も高いと思っている。
人はその場面場面でいろいろな“らしさ”に縛られていないだろうか。男らしく、女らしく、学生らしく、大人らしく、銀行員らしく・・・。
“らしさ”にはリスクが少ない。“らしさ”の枠に安住してしまい、序列に甘んじてしまうと、緊張感がなくなって、多角的に状況を把握できず、自分の判断ができなくなってしまう。



何かをやろうとする時、相手に合わせるいい子は問題なくものごとを進め、無事に終えて肩の荷が下りる。それに対して自分の生き方でぶつかっていく人は茨の道かもしれないが、自分のポリシーを貫いた達成感を得て自信へとつなげていける。



死ぬまでいかに自由を獲得し続けるか。
ビジネスが上手くいった時に自分が必要とされ、抜けられなくなる。自分が束縛され、嫌になる。これではいけない。そうならないために、今、僕は後継者をつくっている。自分がいなくなった時にも、きっとこの人がやってくるという人を育てている。



僕が「面白い」と思うのは、展開がある、可能性があるということだ。将来、時代を画するかもしれない出来事のことだ。
逆に、誰かが面白がったものを、あとからついてきて面白いなんて言う人間は、はっきり言って大嫌い。面白いことまで、人の真似をするのは創造性のカケラもない。面白いことこそ、その人個人が体験を享受すべきものだからだ。

8/24/2007

整体的生活術


整体的生活術 三枝誠


ただし、転地、転職、転婚で人生を変えろといっても、それは、コロコロと職を変えろといっているわけではありません。でも何かひとつ、少し無理をしてでも新しいものを手に入れたりすると、そこからガラガラガラッと人生が変わってくるんです。
それから服装を変えるだけでも人生は違ってきます。そこで大事なのは、ちょっと無理をすること。転機の時、品物はバーゲンで買わないことです。私は安売りという概念が嫌いです。

涙が出るほど無理をして、高くても良い物をエーイと思いきって買うと、そういうエーイと思いきって買った苦しさの部分には運が上がる秘訣があるものです。

ある人が偉大な能力を持っていた場合、それと一緒に大きな欠落部分も持っています。
才能というのは言葉を換えれば、欠落ですからね。でも、その欠落を補ってくれるものがあって、初めて物事は動きだします。欠落を埋めた瞬間、初めて市民権を持ち、超人的な力が発揮されてきます。

仮に、才能ということを言おうとするなら、才能がある人ほど、間主体を大切にしなければなりません。人は、どんな人間関係を結ぶかによって、あっけないくらいに変わるものです。

天与の才能というものが少しはあるとするなら、自分自身を潰すような場所からは立ち去って、自分自身を活かしてくれる場所に出向く能力のことだと思います。ですから、ちゃんと「ノー」が言えることも大切な才能のひとつです。

大事なことは、気のパイプを自分は誰とつなげるかということです。

やはり人はクリエイターとして、なにかを生み出さなければいけないと私は思っているんです。
クリエイターに条件があるとするなら、その一番の条件は、孤独を知っていることでしょうね。
孤独は悪いことではないし、悲しいことではない。

大切なのは、孤独、忍耐、そして笑顔。クリエイターは孤独、忍耐、笑顔、そして、マメでなければいけない。

さらには、丈夫であることも大事。自分が健康であって、初めてものを作ることができるし、人間として生きていけるものなのです。

色恋沙汰で自分が狂った時期がないと、わからないということはある。狂われるのも迷惑ですが、狂ったことのない人間には語れないということもあるわけです。

好きとか嫌いとかいう感情は、非常に主観的な感情でしょう。でも、この主観的な感情も、ある外部的な事件が起こったり、社会的な制裁を受けたりして地獄をみると、人間は主観的な感情から距離を置くという、客観視を覚えるようになってきます。

自分の外側にもう一人の自分がいるという意識を持って、その俯瞰的な客観視の能力で、つらくてもしばらく頑張ってみる。

そうすると、そのあとに何がくるかというと、前向きの諦観というか、明るい絶望感みたいなものが出てくるのです。

つらい出来事があって、とても苦しい気持ちを体験すると、最初はだだっ子のようだった主観性が、客観性に変わって、そのあとにちょっと弛むんです。

自分では天動説だと思いこんでいたものが、ある時、絶望や挫折を味わって地動説になり、もう一度天動説に戻る。自分のつらい体験でそれを知る。

私のいう「身体尺度」とはそういうことです。

手首を切って血を流したり、身体ごといろんなものを抜けた人間が主観を超えて、客観を覚えて、もう一度、自分を中心に考えるところまで戻ってくる。

ユーモアがわかるというのも、自分を客観視できる人間かどうかということでしょう。

逆に、絶望感というのも、知性や忍耐力がない人には味わうことができないものです。

人間には、“溜め”の時期というのもあって、悲嘆とか慟哭といった状態を味わうような、自分にとっての耐え難い出来事と出会ってしまう時期があるんです。

そのときに激しく混乱した感情、あるいは深い悲しみをぐーっと我慢していると少しずつ抜けてきて、何かが見えてくるというのはあるものなんです。

要するに平均値でものを考えないようにしているんです。

自分の考えていることが、たまたま大多数の人の意見と一致するならそれはそれでいい。

ただ平均的なことが、即、正常なことだという考え方は大変危険だと思ってる。

「平均的なものは、別に正常でも健康でもない!」

私は、感謝という感情は、センスの問題であって、努力の問題ではないと思っています。

たとえば男女が別れる時だって、相手に嫌われているならば修繕は可能。

だけど、愛の反対は憎しみや嫌悪じゃなくて無関心だし、別れの際にとにかく一番こわいのは、感謝の言葉です。

別れの際の女性に「ありがとう」と心底言われた日には、どういう修繕も男女関係にはできません。

感謝というのは、本当に過去になってしまったものに対して抱く感情ですからね。

その感謝を現役でつきあっている人間に強制するというのは、非常にむずかしいことなのです。

ですから、感謝ほど自然に出てこないと意味がないものもありません。

身体的に無理な状況で感謝の感情を持とうとすれば、やはり身体を壊します。モラルの強制は、身体を壊す。

モラルというものも強制ではなくて、自然に発生するものなんですから。

物事をはかる尺度も身体に置いておくほうが、圧倒的に正しい。

この身体尺度から離れれば離れるほど、人間は他人の痛みも他人との距離も何もわからなくなってしまいます。

簡単にいえば、身体尺度というのは、わからないことは身体に聞けということなんです。

迷ったら、身体が行きたがっているほうへ行けばいい。そういうことには、いつも敏感でいたほうがいいと思いますね。

家風、なんていうのも身体記憶の一種です。

単なる遺伝よりも、親の教えや家風のほうが影響力を持つ怖いものだと思います。

たとえば、結婚しようとする二人の仲が、家風が違うということで壊れたりすることがありますが、あれは、つまり身体記憶が違いすぎると上手くいかないといういことなんですね。

私が見た一級の人間の特徴は、自分を客観的に見る能力、現状をちゃんと分析できる能力を持っている人ということですね、自分自身を一歩離れたところに置いて、それでいてきちんと自分を愛している。

やはり、一級の人というのは自分の身体に対する意識が高い人です。

二級の人間というのは、優れた編集の能力、情報を取捨選択して再構築する能力を持っている人だと思います。

その編集能力は一級の人間も持っています。

自分でものを作り出すことも、編集する能力も両方持っているのが一級の人でしょうね。

三級の人間というのは、保身的な人です。

地方でちょっと有名な人とか、地方の道場で一番だとか、そういう人は一見したところ他人に対してとても威張っていても、実は非常に脆いということが多いですね。

四級の人達は、いわゆる善男善女です。

不愉快にはならない人たちだけど、いろんな状況に流されて生きている人達ですね。

五級というのは、権力に弱いくせに権力を振り回す人間。なんらかの権威に守られていて、その権威をカサに自分が威張る。

競争社会に身を置かずに、狭い世界でエラソーにしている人達です。

それから一級の人と三級の人との大きな違いは、一級の人には、恐怖心をモチベーションにしないという強さがあるということでしょうね。

生きていく動機づけが、恐怖心ではなくて好奇心なのです。

恐怖心をモチベーションにしない人は、いまや希少価値です。

“考えないで怒る”というのも、とても難しいけれども大切なことです。

なぜならば、頭で考えていると、怒るタイミングを逃してしまう。悪く思われるんじゃないかとか嫌われるんじゃないかとかいろいろ考えているうちに、“怒りの機”を逃してしまうのです。

怒り方がヘタな人は、人の上に立てません。

十歳までの記憶というのは、とても大きいんですね。

記憶というものは本当に身体に染みつきます。

住居の話をしていると、身体記憶の話になってくる。

身についたもの、つまり身体記憶を書き換えるということは身体を変えるということでもあるんです。

たとえば、金持ちには金持ちの身体というものがある。

それから初代の金持ちの身体と2代目の金持ちの身体というのもあるんです。

金を稼ぐ身体と金を管理する身体とは違う。

そうすると、金持ちの身体じゃないかぎり、金持ちになってはいけない、ということが言える。

なぜならば、身体と金は、当然つながっていますから、金持ちの身体を持っていない人がいきなり大金を持っても、使いこなせないから単に貯めこむだけか、あるいは無駄に使ってしまうだけということになります。

身体記憶を入れ替えるしかない。

親と違うことをするというのは大変なことですから、結果としては身体が変わってきます。

自分がこれから親とは違う生き方をしようと思ったら、まず、見た目も変わります。

体つきだけでなく、顔も変わる、歩き方も変わる。逆にいうと、小さなことから変化をつけることで生き方を変えることができます。

住まいもそういうものの延長にあります。ですから当然、身体記憶と住居というのは、とても深い関係があるわけです。

「足湯くん」





8/23/2007

黒井千次




黒井千次(7/26/2007日経夕刊)


老いは自分の内側から訪れると言うより、他人によってある日突然もたらされるという面があります。

自分は結構若いし、何でもできると思っていたのに段々身体が付いていかなくなる。少しずつ自分で老いに気付くということは確かにある。

でも、それ以上にショックが大きいのは、全然意識していないことを他人から言われたときでしょう。

放っておくと、人は自分が年を取ったとは本気で思いたくないのかもしれない。

生涯青春ということがさかんにいわれます。そうなると人生の終盤に近い老人の老人らしい生き方というのはなくなる。時代は理想的な老人像がない時代なのです。

世の中全体がそれを求めていない。老いは否定的なイメージでしか語られない。しかし、老いたからこそ手に入れることができる何か、老いの果実があるではないか。それを意識しないまま最期まで行っちゃうのはちょっと寂しい。

時代の変化に調和できない方が老人として自然です。変化に上手に適応している人の中にはありようもない貴重なものが、時代に取り残された人の中にはある。みんなが一斉に走っている時に、そうじゃないだろってブツブツ言いながら歩いている人間を書きたい。



8/22/2007

「B級自由民」宣言




「B級自由民」宣言・山谷哲夫


「上に政策あれば、下に対策あり」

そのもそも日本人男性は、世界的にもそんなに見栄えはよくない。まず、顔の彫りが浅く、平面的だ。背も高くないし、がに股も多い。何よりも着こなし、色のセンスがいま一つだ。奥さん任せにし、自分の着るものさえ自分で選んでいないからだ。何よりも決定的なことは、奥さん以外の女性に恋をしていないから、外見に気を使わないことだ。

ぼくらも、頭の髪の毛だけでなく、肝心の中身も薄く、凡庸でもある事実を謙虚に自覚したほうがいい。例えば、僕らの会話に古典である近松、蕪村が出てくることはまずない。その身を切るような、つらい自己認識を踏まえた上で、攻めて外見を今以上に上品、おしゃれしたい。

ゴミ捨て、掃除、洗濯、布団干し、皿洗い、ご飯炊きなど、細々した家事が、僕は全く苦にならない。また、子供の三者面談に、母親のほうが出なくてはならないという掟はない。

僕は今まで、あまりに自由業、特に映画関係者、物書き等の末路を見てきた。多くは50歳代に入ると仕事が激減する。かんじんの感受性が年とともに鈍磨するのだから、仕方ない面もある。ギャラも新人に比べると、明らかに高い。そして、何よりも一言多く、使いづらい。








8/21/2007

ドル覇権の崩壊/副島隆彦



ドル覇権の崩壊/副島隆彦

私はそれを2008年末から09年にかけて起こるであろうと冷酷に予測する。その時、米ドルは暴落を開始する。1ドルは2年後には100円を割るだろう。そして80円にまで突入していく。

中国がアメリカを世界覇権国の地位から追い落とし、自分たちが次の世界帝国になる。世界の覇権が、アメリカから中国に移るためには、ニューヨークの金融市場を中国が仕掛けて大暴落させることがどうしても必要である。そして、その事態が数年後の2010年ごろ起きるであろう。中国人はそのことを躊躇しないだろう。中国人がニューヨークの株式と米国債を大量に一気に売り浴びせる日が迫っているのである。それが、1929年のニューヨークの株式大暴落の再来である。

だから、私たちは中国の人民元を今のうちにたくさん買っておけばいい。黙っていても倍にはなる。なんとかして人民元を買えばいい。
いまは1米ドルが7.6人民元であるから、これが半値の3.8人民元にまで米ドルは下がる。それには3年(2010年)くらいかかるだろう。

世界の金融の動きを的確に未来予測しながら、どのような事態に対しても自分の資金を守れるように自由自在に動ける体制を常に整えておくことである。この先は大きくはドル大暴落であり、アメリカを中心とした世界の金融体制の瓦解が迫っていることに気づくことである。

2008年の終わりごろからドルは下落を始めやがて1ドル100円を割っていくであろう。90円台を維持するか、もしかしたら80円台まで下がるのではないか。それが2009年、2010年にかけて起きる。つまりドルの暴落が始まる。それは円高になるということだ。

私は1ユーロは200円まで行くと思う。だから今のうちにまだまだユーロ建て金融商品を買えばいいのである。米ドルとの関係で言えば、1ユーロが1.4ドルを超えて1.7ドルくらいになるだろう。ユーロはこれからもますます強くなる。その理由は、ドルが暴落するからである。だからユーロの外貨預金やユーロ建ての投資信託などに私たちは投資すべきである。

リバータリアニズムは、反過剰福祉・反税金・反統制経済を主張し、官僚統制を何よりも嫌う、強固な自由経済(フリー・エコノミー)重視の思想である。

ローマ帝国の昔と今は全く同じである。これと合わせて、定期的に5年に一度、10年に一度の割で、戦争をして外国の征服によって冨を得た。さらに贅沢のための資金調達を行った。戦勝国になればたしかにぶんどり品がたくさんある。

金・ドル体制(IMF=世銀体制)は、1971年8月の「ニクソン・ショック」で明らかになった。
この「ドル・石油兌換体制」の成立によって、米ドルは生き延びたのである。1971年のニクソン・ショックによって瓦解したはずなのに、形だけは、主要な国々の協調による世界の通貨の安定、という方策が作られた。



この新たに成立した、それまでの「金・ドル体制」に代わる、「ドル・石油体制」のことを、修正IMF体制=ロックフェラー石油通貨体制という。その実質は、背後から世界の全てを操っている現在の“実質の世界皇帝”であるデイヴィッド・ロックフェラー(92歳)の指図によるものである。



全く新しい時代に突入して、全く新しい世界試合(ワールドゲーム)が開始されるだろう。今度は、1971年の後の収拾策のような、「ドルを金ではなく、石油で裏打ちする」という手法は使えない。それではどうするか。それは金を中心にして、そのほかの鉱物資源も担保に差し出し、さらには、石油、天然ガスなどのエネルギーから、農産物(穀物)に至るまで、すべての実物資産(タンジブル・アセット)を、まとめてバスケットの中に入れて、それを信用の源泉にする、全く新しい通貨体制を作るということだ。この新通貨体制に移行しなければ済まない。



国民というものは、指導者たちが煽動すると、このように易々と戦争に動員されていくものである。人類の歴史は、このように愛国心と民族主義という考え方を鼓舞(インスパイア)するといとも容易に焚きつけられて、無謀な対外戦争への道を歩まされる。その数年後には、必ず大きな失望と幻滅が襲い掛かってくるというのに。戦争というものは、古来、だいたい3年から4年で、それを支える国民の熱狂と支持が消えうせるものなのである。剥き出しの報復感情と、メディアを使って操られた国民が幻滅し、国民に自覚を促すのには、それなりの時間がかかるのである。



狂暴なネオコン派高官たちは、世界中にアメリカ的な価値観を押し広げ、「アメリカ人の生活文化が理想の生活である」といsて、それを世界中に上から強制することによって、各民族の行き方とそれぞれの国民文化を破壊し廃止させ、アメリカ中心としお手本とする、単一、単調の文化(モノ・カルチャー)の世界を建設することを目指した。それをもって、「世界人類の理想社会の建設が行われ、実際には、人類の理想が達成されるのである」と考えた。これがネオコン思想である。



皮肉なことに、今や誰でも分かるとおり、だから今度は逆にドルの優位は米国の強大な軍事力に依存しているのである。ドルの信用力の源泉はアメリカの軍事力なのである。「ドル・軍事力世界通貨体制」と呼んでもいいものである。そして米国の強大な軍事力はやっぱりまたドルの信用力に依存している。
帝国というのは、見かけは強大だがその内実は逼迫していていつも不安である。“お山の大将”は案外弱いのである。日本人はアメリカをあまりにも強大な国だと勝手に思い込んでいる。だからアメリカと対等に交渉しようという愛国的な国家指導者を育ててこなかった。



ロックフェラー家は自分たちが、「世界のお山の大将」である、自分たちが最高指導者であり経営者であるから、アメリカ全体を管理し、更に世界を管理しなければならない、そうなると自分たちの自国通貨であるドルを売り払って、ドルを売り崩すことは絶対にできない。ここがミソである。お山の大将というのは山の上に一人でふんぞり返って王座に座っている人である。下の方や、周りから鉄砲の玉が雨あられのように飛んでくる。そして徐徐に身動きが取れなくなる。これが、世界覇権国なるものの運命である。これは歴史の法則であり、こうして身動きが取れなくなる。デイヴィッド・ロックフェラー(92歳)は徐々に力がなくなりつつある。それでも、彼は98歳、いやもしかした104歳まで生き延びるのではないかと心配(あるいは驚嘆)されている。彼が生きている間は、彼が持つ強大な権力は崩れない。彼が死ぬまでは世界皇帝である。だからロックフェラーは、自分と競争して、自分に挑戦してくるアメリカの新興の財界人たちを痛めつける。決して自分と同格の地位には就かせない。ここにアメリカ財界人たちの大きな対立・抗争の構造がある。




8/20/2007

いのちの力 望月勇





いのちの力 望月勇


トルコからインドへの旅の途中も、腹の立つことが多くて、いつも心の中で人々を批判ばかりしていました。
その結果、人々からあまり印象のよい待遇を受けませんでした。むしろひどい仕打ちを受けました。
人々からだけではありません。犬や牛や、はたまたバスや汽車やホテルまでもが、私に反感を抱いているように感じられたのです。

だいたい、最初に感じたことを無視して行動した後に、「あの時、最初に思った通りにやっておけばよかったのに」と後悔することが、案外多いのではないでしょうか。

執着する物を手放す

病から抜け出す方法とは、潜在意識からネガティヴな思い込みを開放することであることを学びました。

自分の体を非難すると、非難した部分から仕返しを受ける

怖いと思う気持ちが、怖い状況を作ってしまう

今現在は、将来の原因、将来は、現在の結果であることに気付いた人は、よりよい将来を望むなら、今をより生きる生き方を選ぶことでしょう。

スポーツでも、楽器の演奏でも、くり返し反復練習を積み重ねることによって、上達してゆくのです。
それと同様に、願望を現実化するには、くり返しイメージすることが最も重要なのです。くり返すことで、そこに宇宙の無限の力が働いてくるからです。

いったん、心に願望を思い描いたら、よほどの理由がない限り、途中でその想念の計画を変更しないことです。
あなたの心に思い描いた願望は、あなたが眠っている間も想念の波動となって、宇宙へ働きかけられています。
そうして働きかけられた宇宙の無限のエネルギーは、徐々に、あなたの願望を現実のものとするように宇宙を動かしてくれます。

私は、自分の死のことについて、いつもこんな風にイメージすることにしています。
元気で長生きして、ボケなくて、自分のことは自分でできて、なおかつ、周りの人のことも少しはしてあげられる。
そして、亡くなる二日前に、ちょっと老化現象がでて、「ああ、もうすぐあちらの世界へ行くのだな」ということがわかって、身の回りを整理し、布団を敷いて寝る。
この世の死は、あの世へ生まれること、あの世の死は、この世へ生まれること、と思う。すると、落ち着いてくる。
そして、リラックスすると、脳にベータ・エンドルフィン(脳内麻薬)が、いっぱいに分泌される。
すると、恐怖心が完全に消え、素晴らしく心地よくなって恍惚とした気分であちらの世界へ旅立つ。
誰かが、よく眠っているな、と思って枕もとへ来て見ると、すでに大往生を遂げていた。
と、まあこんな風に、勝手にイメージしています。

人体の右半身がプラス(陽)で、左半身がマイナス(陰)です。
また、上半身がプラス(陽)で、下半身がマイナス(陰)になります。
腕でいうと、右手はエネルギーが出て行く方で、左手はエネルギーが入ってくる方です。
目では、右目からエネルギーが出て行きますが、左目からは、エネルギーが入って来ます。

思い言動が違うと、体がゆがむ

願望を話すと、言葉で成就したことになり実現しにくい

自分の願望は、志を同じくする数人の仲間になら話してもよいと思えますが、なるべく黙って胸に秘めておくべきです。
その多大勢の人々に話してしまうと、その話した願望が現実化する一歩手前で、言葉の世界で実現したことになり、現実にならないことがあるからです。

朝起きた時にはよい言葉を、夜寝る前には心をきれいに

「人間は、この宇宙では、わからないことの方が、圧倒的に多いのだから、よほど自分で確信がない限り、相手の言ったlことを否定しないことです。否定すると、自分の器量が狭くなります。器量は、相手をゆるし、認め、受け入れる心の広さと考えれば、あなたの上司は、いつも、あなたの言うことを否定しているために、段々器量が狭くなったのですね。たとえば、五人分の器量しかない上司には、五人しか部下がいないはずです。現に、あなたも、その部長についていけなくなっているではないですか。

とにかく、どんな問題であろうが、自分の人生で起きてくる問題は、最後は、自分が決断するべきです。
たとえ、その選択が間違っていたとしても、それを自分が選択したことで、自分が自分を生きることになり、そのことで今、生きている実感が得られ、その実感が生きている証になっていくのではないでしょうか。

人間は、表面では、個々一人一人独立していますが、心の深い所では、一つにつながっているのです。
すると、自分を卑下し、自信を無くすと、相手の心は自分が卑しめられ、見下されたと感じてしまうので、そんな相手に対して反発してしまう気持ちが出てくるのだと想います。したがって、彼女の、自分を卑下し、自虐するという心の持ち方が、無意識のうちに、相手に不快で、生意気で、横柄な印象を与え、そのために反発をまねく結果になっていたのです。
反対に、自分を大切に、自信を持っている人は相手に好感を与え、話し方や動作に謙虚さを感じさせます。自分を大切にする心が、そのまま相手の心に通じているので、相手は自分が大切にされていると感じるのです。ですから、自信のある人は周囲から大切にされ、尊敬されることになるのです。

自分で見よ、自分で考えよ、自分で生きよ、でした。
実際、日本人は、誰かが大義名分を唱えると、誰もがすぐそれに賛同してしまう傾向があります。
自分で考えるよりも、皆の意見に同調した方が、確かに楽ですが、それは自分の生き方を放棄していることと同じです。

武道家や気功家は、みんなそれぞれ自分の型を教えますが、覚えたら、最後にはその型を捨てなければなりません。
あなたが形や型にこだわっているうちは、本当の進歩はありません。
そのこだわりを捨てた時、あなたは、初めて内的世界の広がりに気づき、次元の異なる世界の入り口に立つことができるのです。

心の中で、日常的に、無意識に、子供の短所を批判していたことに気が付いた人は、どうか意識的に、心の中で批判をやめてみてください。そして、その代わりに、長所を見つけて、褒めてあげてみてください。
すると、私たちは、子供が、確実に変わってゆく姿を目撃することになるでしょう。
さらに、私たちは、輪廻転生という考え方を、受け入れることができれば、こんなふうにも考えることができるのです。
つまり、私たちの子供は、理由があって私たち両親を選んで生まれてきたというのです。
私たちは、あらゆる体験をするために、生まれる前にシナリオを作って、生まれてきました。
宇宙の何か偉大な力が、私たちを通して、あらゆる体験をするために、今、現在、ここに存在するのです。
もし、あなたが、あなたの言うことを聞かないから、という一方的な理由で、自分の子供に不満を持つようなことがあったら、あなたの心の中で、次のように祈ってみてください。
「息子(娘)よ!私たちを選んで生まれて来てくれて、本当にありがとう、感謝します。あなたが、これから最善の人生を選択して歩むことを、信じています」
祈りには素晴らしい力があります。子供のことで悩む時間があったら、是非、このように祈ってみてください。


三木成夫(1925年~87年)氏は、東京大学医学部を卒業し、東京大学解剖学教室、東京医科歯科大学解剖学教室を経て、東京藝術大学教授を務めていた学者(医学博士)ですが、彼は、人間の心(魂)は頭(脳)にあるのではなくて、内臓にあると主張しているのです。

8/19/2007

人間力






人間力

金を失うことは小さい。

信用を失うことは大きい。

しかし勇気を失うことは全てを失うことだ。

だから武道、武術は勇気、胆力を養い気力を練る。



人間力とは、気力を練ることであり、最悪の時にどう判断するかという力を養うんだ。
競争社会では弱みを見せることはマイナスかもしれないけれど、弱さを出し合えない関係はつらい。
だから今、多くの人が疲れているのかな。

日常生活から他人に頼り過ぎず、自分のペースで動く。

事実を明らかにせよ。
あらゆるモノに騙されないこと→真実を探求すること




景山さんのアマン・ダリ?



























景山民夫さんのどのエッセイだっけかな?バリのアマン・ダリだっけ、ホテルのボーイさんが言う言葉。
至言。

人を楽しませる仕事を選ぶというのは素敵ですね。
人の心を明るくしたり豊かにしたりするのが仕事というのはすばらしいです。
人に愛を与えたいと思っていらっしゃる方なんですね。



男は単純でいい



男は単純でいい。


愛する家族を守ること、その一点さえ貫ければいいのだ、理屈はいらない。――現代人が失いがちな、この単純さに徹することは、今の時代、特に難しくなっている。理屈が多すぎるのだ。言うことが自己弁護であったり言い訳であったりして、その分生き方に芯を失ってしまうのだ。


私たちが付くべき相手は証券ディーラーか外国人投資家、そしてほんの一部ですが投資技術の上手な個人投資家ということになります。


ターゲットという言葉をよく使う。標的である。つまり、レコードを発売する時に、どの年代層、どのファン層に狙いを定めるかということである。中・高校生をターゲットにとか、女子大生を標的にとか言う。また、盛り場狙いとか、トラッカー決め撃ちなどという使い方をするのである。要するに、確実に共感を得られそうな層を設定し、ややそれにおもねった形で企画を立てることである。どの商売でもそうであろうが、ある程度のターゲットの設定ができないと、不安で仕方ないのであろう。 ところが、ヒットの面白さは、作品や歌手の力がターゲットを無視するところから始まるのである。狙いどおりに予定した層の支持を得たものは、それはそれで成功であるが、決して歴史的大ヒットにはつながらないのである。ターゲットは保障の役目を果たすとともに、それ以上になることを阻む枷にもなるからである。最近のヒット曲が、予想もつかない雪崩現象に至らないのは、このターゲットを重要視しすぎるため、保証と枷の裏表の関係が、硬直させているからだと思うのである。それはともかく、大ヒットというのはターゲットを無視する。むしろ、標的としていなかった層の意外な反応というのが、社会現象的なヒットにつながっていくのである。 本物を潰すには、偽物を氾濫させるのが一番の上策だ。


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「お茶代は私に払わせて下さい。年寄りに恥じかかしちゃいけない」

浮世は義理と人情でもっている処です

老人のいない家庭は家庭ではない

石井英夫の欠点はえらそうにしないことで、えらそうにしないと世間は安く見るといっても、これまた生まれつきですからいかんともしがたい。

ただそのえらそうでないところで私はこの人と友になったのですから、一得一失はやむを得ないと言わなければなりません。

彼らは五年さき十年さきの考えはないのである。

あるのは「今」である。

今がしのげれば一両年はしのげるだろう。

それからさきのことはさきのことだ。 要するに哲学がないのだ。

産業革命以来人は哲学を放棄したのだ。

私はロシアのような中国のような半ば未開な国があって、日本のような食い物を棄てる国があって、アフリカのような飢えている国があって、世界はバランスがとれているのだと思っている。

世界中がアメリカのような、また日本のような国になるのは望ましくないと思っている。






表参道のヤッコさん











表参道のヤッコさん 高橋靖子



「開拓者というものは、いつも理不尽な思いを吹き飛ばしながら、前に進むんだよ」



私は生きることに苦労しながら、生きることを楽しんでいた。



「東洋人はお金のためだけに仕事をしない。ときには友情のために仕事をするのだ」