7/21/2007

ユダヤ人ならこう考える


ユダヤ人ならこう考える! by鳥賀陽正弘(うがや・まさひろ)
PHP新書です。ユダヤ本が巷に溢れているが、これは英語の勉強?にもなるし、すぐ読めて良い本だよ。サブタイトルの「お金と人生に成功する格言」で釣られるね。欲深な私の深層心理に訴えかける。



「明日のことは、神に任せよ」
“Let God worry about tomorrow.”

「人はトラブルを背負うために生まれた」
“Man was born for trouble.”

「腹が減ったら歌え、悲しかったら笑え」
“When you are hungry,sing,when you are hurt,laugh.”

「われわれは、みんな不運で愚かなのだ」
“We are all schlemiels.”

シュレミール(schlemiel)「ダメ男」「生まれつきツキのない男」
「シュレミールとは、風呂に入って、自分の顔を洗うのを忘れた男だ」。
全くのバカではありませんが、ちょっと間が抜けている、愛すべき人間なのです。


「お金がすべてを、良くするのではなく、むしろお金がないことのほうが、すべてを悪くする」
“It's not that money makes everything good, it's that no money makes everything bad.”

「お金が人生のすべてでないと言う連中に限って、いつまでたってもお金が貯まらない」
“When someone says life is not for the sake of money,he will never earn money.”

「貧乏になると、最初に顔に表れる」
“Poverty shows first on your face.”

「お金を稼ぐより、節約することのほうが難しい」
“It is easier to make money than to keep it.”

「しゃべりすぎると、戯言になる」
“If you talk too much,you talk nonsense.”

「よく旅をする人は、知識が豊富だ」
“A person who travels knows a great deal.”

あなたは顕在意識型か、潜在意識型か










最近読んだ本(タイトル忘れた)。

【あなたは顕在意識型か、潜在意識型か】
<顕在意識型の特徴>


・左脳で計算、設計し、理論的で自分でやるという意欲が強い。ワンマンになりやすい。


・一貫性があり、時として人に譲らないことがある。妥協性が少なく、融通のきかない時もある。


・自分の目や耳で確かめないと納得しない。


・権利と義務を型にはめたがる。


・意志は強いが、折れると案外もろいところがある。


・目がきつくなりやすい。


・縦線のつながりばかりを考え、横のつながりが少なくなりやすい。


・独善的、独裁的になりやすい。


・人の意見をうち消すか、反発しやすい。


・「恕」の心が少なく、世間が狭くなりがちで敵を作りやすい。晩年はあまりいいとは言えない。


・科学的でないと、あるいは立証できないと納得できない。


・織田信長型が多い。


・病気であれば、悪いところばかり考え、その原因、関連性を考えることが少ない。


・取引根性が強く、一プラス一は二でないと納得しないタイプ。例えば、一個百円のリンゴを千円分買うと十個であって、おまけで十一個の時もあるとか、大きいリンゴが入っていて九個の時もあるという意識が少ない。


・世の中は全て実力であって、バックアップや、縁の下の力、陰の力、あるいは何かに守られているということに気がつかないことが多い。


・足を組んだ時、右足を上にし、上を向いて寝た時に左足を右足首の上に乗せる癖がある。ただし、肝臓、左腎臓が悪い時、弱っている時や右膝や左足首の悪い時、弱っている時にも、この姿勢をとることがある。


・歩く時にいきなり歩くので、意識が前だけにきており、後ろは留守になっている。したがって、足の力が抜けにくく、柔軟性がない。このような人は、背中を伸ばしても胸骨と肋骨の上部が上がらないため、品物を持つような時には手首に力が入る。これを私は「我」と呼んでいる。「我」とは、現在意識のことである。


・階段の上がり下りは、右足からしている。


・自分の身体と心、また自分と相手との中和を考えないで物事を判断し行動している。





<潜在意識型の特徴>


・左脳の働きを右脳に反映させ、音楽、絵画、美術などの感受性や、剣道、合気道、柔道などの武術、哲学や宗教的分野の素質を持っている。


・左脳と右脳で構成される脳の新皮質の下部に位置する、本能的な脳である古皮質の働きを活かしている。


・謙譲の心を持ち、融通性を備えている。


・権利と義務の基本は守りつつ、義務を先行する精神を持っている。


・心の柔軟性を持ち、自分にはより厳しい。


・目は平常やさしいが、潜在意識の働いた時には険しい。


・取引根性は少なく、誰かに助けられているという意識が強い。


・徳川家康型が多い。


・生かされ生きていると思う。


・物事の関連性を広く持ち、縦の考え方だけでなく、横のつながりを考えた言動をしている。


・民主的で、周りの人の意志に対応して行動する。


・創造性を持ち、何か判らない事柄があると「なぜだろう」という疑問を抱き、探求する心を持っている。


・「損して得取れ」「雨降って地固まる」の精神。進むためには退くことの大切さも知っている。


・人のよいところを見る傾向があり、感謝の気持ちが多い。・足を組んだ時、左足を右膝の上に置くことが多く、上を向いて寝た時には右足を左足首の上に乗せる癖がある。ただし、胃、右腎臓が悪い時、弱っている時、左膝や右足首が弱っている時にも、この姿勢をとることがある。・階段の上がり下りは、左足からする。

貧しさ










貧しさ

他人に思いやりが持てないのは貧しさゆえ。

上昇志向が強いのも貧しさゆえ(そういう点では、ハングリー精神がときに限定された領域での、いわゆる成功に必要とされるのはもっともなこと)。

他人と同じことをしたがるのも貧しさゆえ。

ここでいう貧しさとは、経済的な貧しさではない。


役者 その世界/永六輔


役者 その世界/永六輔

「丸山定夫・役者の一生」より、
彼のいい所と悪い所。
無学。利己的。不勉強。学問を尊敬し憧れている。怠惰。本を割合に買う。但し読まぬ。
スポーツに憧れる。しつっこく粘り強い。臆病。涙もろい。偽善者。但し心は優しいのだ。
酒飲み。誰にでも惚れる。浪費。生活の無設計。一言にして言えば良い事が解る癖に実行出来ない人間。

吉本隆明
芸人のもっている反体制思想などは、なんの意味も無い。というよりも、むしろ芸人は体制の幇間、腰ぎんちゃくとしてのみ芸としての本質を保つことが出来る存在である。

花田清輝
資本主義における理想的な商品はことごとく安物の模造品でなければいけません。

佐倉繁
芸能人よ、思い上がれ。思い上がることによって、通常、人が触れえぬ人生の深奥をさぐるべし。

高石友也
否応なしにプロになったんです。趣味で歌っている余裕はないんだ。歌おうと思ったら、それで稼がなきゃならない。

7/20/2007

稲増龍夫先生に納得


稲増先生って知ってるかい?ここでは説明は省くけど、この先生の見識に納得しました。エンターテインメントビジネスの末席を汚す者として勉強になります。


稲増龍夫先生(法政大学社会学部教授)、
http://www.inamasu.com/professor.html

かつての「若者」は、よくも悪くも、「大人」と対立・葛藤する一つの世代として存在しましたが、今は個人主義が進み、みんな、ばらばらで、一つの世代というくくりでは語れず、「若者」は「大人」に無関心で、自分とは無関係と考えています。

これは縦型社会の崩壊に大きな原因があります。

昔は、豊かさを求めるという点では、みんなに共通の目標がありましたが、今は、それも実現し、そんなに頑張らなくても何とか生きていく道はあり、フリーターでもいいやなどと、生き方が多様化しています。

生き方が多様化し、個性を重視するから、「若者」は他者との比較や競争を嫌います。
それが若者から覇気を奪っている一つの要因です。また、かつては、傷心している他者にはかかわり、いたわることが優しさでしたが、それが干渉しないことが優しさだと変化し、自分も他者からの干渉を嫌うようになります。

全部が自分基準ですから、縦型社会の権威も、「若者」には関係がありません。そのため、今の「若者」は、もはや活字離れどころではなく、縦型社会の権威の一つだったマスメディアからも離れ、テレビすらあまり見ず、携帯電話やメールなど、パーソナルメディアを中心にした横のつながりで情報は伝わります。

また、昔は、若さには、未熟だとか、世間知らずだとか、青二才というマイナスイメージがあり、多くの若者は、早く一人前の「大人」になりたがったものでした。今は逆に、若さは柔軟だとか、何にでも挑戦できるというプラスイメージとなり、「若者」は、若いがゆえに持つその特権を、社会に出た瞬間、失うのではないかと怖がって、「大人」になりたがらないのです。

豊かさを実現した今、「若者」に、かわりに何を目標として与えられるか。
今はリストラや何かと「大人」社会の暗い面ばかりを伝えていませんか。
職業を通して自己実現ができるんだということを、「大人」がもっと言わないといけません。

まじめなこと


以前、メモ帳に書いたセンテンスを写します。

知識や学歴は、金銭的に評価されるための手段としての側面を強めてきました。逆言すれば、金にならなければ、知識には意味がない。

官僚や政治家が賄賂を受け取るのは、欲に目が眩んでの行為だと思われていますが、実はそれだけではないように、私は感じています。
彼らは自分のしている仕事が重要であり、大切であることの証明として、多額の金が自分のところに渡らされるのを望んでいる、という気持ちがあるのではないでしょうか。

ちなみに、子供からはなれて自分が社会参加(復帰)したいという母親の対極にあるのが、子供と密着して、その子を「いい子・優等生」に育て上げることにすべての情熱を傾ける母親です。
しかし両者は実は同じものですね。というのは、前者は自分が積極的に社会から評価されたいと思っているのに対して、後者は子供を「いい子・優等生」に育てることで自分が母親として優秀であると社会的に評価されたいと望んでいるにすぎないからです。
このどちらにも「子供自身のため」という視点が欠落しています。そしてそれだけではなくて、親自身の視点さえもなくて、ただ世間からどう見えるのかというおびえだけがある、という状況に陥っています。

彼らは家に閉じこもっているのがいやだったり、家事から逃げたいのでしょうか。
本人はそう思っているかもしれませんが、実はもっと深い理由があるような気がしてなりません。実はみんな、自分自身とほんとうに向き合うのが嫌だから、それから逃げるために働きに出たがっているのではないでしょうか。
子供と向き合うということは、ごまかしようもなく自分自身を見つめ直すということです。

だから逆言すると、自分らしく生きている人間は、たとえその生き様が不器用でも、正直で真剣に生きているのであれば、子供はそのことを見て取るのです。太宰のケースのように。

だから子供には、誠心誠意、率直に接したいと思います。
それは子供と友達のように接することではないし、子供に自分の期待をぶつけることでもありません。
親が真剣に自分本位の行き方を模索することが、親自身、幸福になるための第一歩であり、そんな親の姿を見せてやれたなら、子供のために何よりの贈り物となるでしょう。

自分に出来ることを精一杯やる。
虚しく思われても、滑稽に見えても、他人が評価してくれなくても、子供のために種を蒔き、子供の心に種を蒔くのが、親というものです。

7/19/2007

21世紀の国富論/原 丈人


21世紀の国富論/原 丈人

アメリカは多民族国家で、人種、国籍、年齢、性別を問わずに、多くの異なる文化的な背景を持つ人々が一緒に働いています。文化が違えば同じ言葉でも意味が違うので、何がいいのかを言葉で説明しても、相手にその真意が伝わないことも少なくありません。言葉は、文化そのものなのです。相手に判断を定性分析的なものから定量分析的なものに変えていくために、さまざまな数字(指標)が採用されました。

グーグルのような企業は、たしかに現在はもてはやされています。しかし、グーグルも次の時代をつくる技術をもっているわけではありません。広告以外の事業モデルがあまりにもないので、企業としての寿命は短いかもしれません。

これから21世紀型の新しいタイプの産業を生み出していく上でも、形のある「物的工業製品」から形のない「知的工業製品」への移行という非常に大きな転換があることを理解する必要があります。この大きなうねりのなかで今、「知的工業製品」を基盤とした新たな戦略が必要とされているからです。

私は、この計算機能を中心にした考え方から相互コミュニケーションの機能を中心とした発想に変えていこうとする潮流が、今後、新たな産業を興すだろうと考えています。

最先端技術の開発は、ただお金が多くあれば成功する、というものではありません。むしろ、無駄なお金を与えずに目標を設定し、クリアしたところで使える資金を増やすという手法が有効です。お金で済ませるという安易な発想に開発チームを導くことなく、制限をかけながら着地点に向かわせていく手綱さばきが重要なのです。

①果たして技術が本当に動くのかどうかという「テクノロジーリスク」
②開発後、実際に製品が市場で受け入れられるかどうかという「マーケットリスク」
①は学術理論からプロトタイプをつくり、試作品をつくるまでの段階。②はサンプルをもって購入してくれる顧客を探してセールスを行う段階です。

現代のベンチャー企業は、ビジョンが資本と出会ったときに生まれます。つまり、新しい技術やアイディアをもった創業経営者と、これを理解して資金を出すベンチャーキャピタリストという二者によってつくられるのです。次世代の技術開発は、アイディアが財務の軸とつながって初めて可能になります。それはいわば、車の両輪であり、どちらが欠けてもいけないものです。

「役職機関説」においては、会長、社長、副社長といった肩書きは、必ずしも上下関係を意味するものではありません。副社長が部長より、社長が副社長より偉いといった硬直的な考え方に縛られず、それぞれの適性に応じて役職を振り分けているにすぎない。適材適所の発想によって、結果として組織全体の効率が向上すればよい、と割り切るのです。これがアメリカのベンチャー育成がもつ特質であり、会社の成長を最適化する上でも重要な要素となります。

「知的工業製品」で求められるのは、より根本的な発想の転換を促すようなインベンション(発明)、そしてディスカバリー(発見)です。ソフトウェアや通信技術、バイオテクノロジーのような産業で不可欠なクリエイティビティは、むしろ、画家や音楽家といった独創性に富んだ芸術家の創造性に似ているのです。

まったく新しい「知的工業製品」を生み出すためには、研究開発などに大きな資本を投下し、長期にわたりコミットする必要があります。研究開発は、すぐに結果が出るような性格のもにではないからです。

中小企業が何か新しいことをやるとするなら、新しい事業形態をつくるべきです。たとえば分社化して、そこに資本を集め、リスクをとって新しい商品をつくっていく。それが出来ない中小企業は、いわば資産のもち腐れであり、発展の余地がないことが、現在の金融システムのなかではますます明白になってきました。

仕事を通じて生きがいを作り、その結果として個人も金銭的な富や社会的充実感を得る。その実現のために会社があります。しかし今、アメリカでは株価を上げる経営者であれば何でもよいという時代になっています。このような手段と目的の取り違えは、人々を不幸にするに違いありません。

PUC(パーベイシブ・ユビキタス・コミュニケーション:pervasive ubiquitous communication)
つまり使っていることを感じさせず(パーベイシブ)、どこにでも偏在し(ユビキタス)利用できるコミュニケーション機能です。
PUC時代においてはマイクロソフトのような独占状態は起こりえません。マーケットはより細分化が進み、それぞれ小さなマーケットでスタンダードを握る企業がたくさん存在するという状況になるはずです。ひとつのソフトウェアでせいぜい10億から150億円といった、小さいけれども面白いマーケットがこれからの中小企業とって活躍の場になっていくでしょう。このようにハードウェアの得意な大企業と中小企業が両方ともに存在し、棲み分けが可能であるという点でも、日本は有利です

7/18/2007


旅に関するいろんな考察として・・・。

放浪とは、勇気を持っていわゆる安定した日常を手放すことだ。今は時期がふさわしくないからと旅の機会を先延ばしにすることなく、自分を取り巻く状況を自分でコントロールして、人生における受身の状態に終止符を打つことだ。



放浪の旅の賢者、エド・バーリン

「人生はゲームだ、と気持ちを切り替えることによってーつまりこの場合は放浪のたびをその内部に組み込んだゲームとうことになるわけだけれどー時間こそが唯一の所有物となり、その時間の中では誰もが平等に豊かな存在であることを知るようになる。もちろん生活していくためのお金は必要だが、充実した人生を送るのに必要なのは時間なのだ。だから、必要最低限の暮らしを確保するのに或る程度のお金は節約して貯めておくにもしても、時間だけは気前良く贅沢に使い、火がともってこそのろうそくであるように人生の価値を自ら創造していくことが大切である。オーケー?」



ピコ・アイヤー『なぜ旅に出るのか』

旅の間は、ある種の禁欲生活を送ることになる。放浪中はたいてい質素になり、もてるだけの荷物を持って、偶然の出会いに身を任せる。これこそ、カミュが「旅行に価値を与えているのは、恐怖心である」と語ったことを意味している。言い換えれば、周りの状況や我々が身を隠しているあらゆる習慣との断絶(あるいは開放)である。



釈迦の教えにもある。「利口な人は、何が起ころうと歩き続ける。彼らは無駄口をきかず、良い時も悪い時もいつも同じである」



「美しければすべてよし」



「とかくこの世はダメとムダ」

洗脳力・苫米地英人


「洗脳力・苫米地英人」はあまり気違いだ。すごいよ、この先生。

「我欲を満たすこと=夢を叶えること=幸せになること」という、これまたレベルの低い論理に脳全体が侵され、思考停止に陥っているとしか思えません。



大人になってから無意識に下す判断の8割から9割が親の物真似である。



「自己実現」とか「なりたい自分になる」なんていうのが、他人から見るといかにみっともないか。早く気付くべきです。



イメージのなかの仮想現実こそが私たちが認識している世界である以上、この仮想現実を揺るがすことで現実世界を揺るがすことができるのです。



残念なことに地球上では多くの人が戦争に明け暮れ、戦争をし、差別をし、自分の欲のためだけに行動しています。しかも、自分のことだけ考えている多くの人が、じつは他人に洗脳され、操られています。「自己実現」とか「成功」とか、当たりの良い言葉に酔いしれて、喜んで奴隷に成り下がり、安全なところでぬくぬくと命令だけしている連中にために嬉々として戦場の最前線に身を置いているのです。
それは、「我欲=煩悩が強すぎる」からです。我欲に自分自身が縛られていて、そこから抜け出せず、本来は自分がコントロールしなければいけないはずの我欲に、すっかりコントロールされてしまっているからです。
逆に言うと、我欲をコントロールできれば、もっとレベルの高い夢を持つことが出来、それを実現することが出来るわけです。



私たちは「止観」をして抽象度を上げる思考をすることで、すでに悟っているのと同じことになり、抽象度の高い夢を抱いて突き進むことで、大いなる夢を実現しているのと同じなのです。
「止観」とは、瞑想でもあります。心の動きを止めて自分自身を見つめる作業、これは即ち瞑想です。煩悩を止めていろいろな宇宙を瞑想で体験する。自分とは、自分と自分以外のすべての関係のゲシュタルトですから、自分を見つめるというのは、宇宙を見つめることでもあります。これが「止観」の基本です。


では、瞑想とは何か。
瞑想とは端的に言えば、「抽象度の高い空間を五感を使ってリアルに感じること」を言います。抽象度の高い空間ですから、この世の出来事によって惑わされるような雑念はここにはありません。「今日のご飯は何を食べようか」「次のボーナスはいくらもらえるのか」といった思考は雑念です。
ですが、瞑想はこの世の雑念よりも高い抽象空間をリアルに体感して、そこに生活してしまうことです。


人間は抽象度の高い思考をリアルに感じることで大いなる快感を得ることができます。それは人間の脳がそれを可能にする構造をもっているからです。



仮想世界をリアルに感じることで楽しさ、気持ちよさを体感するということの一例です。こうした思考練習を日頃からしておくと、抽象度の高い思考が楽にできるようになるのです。しかも、リアルに体感できるようになれば、この思考がどんどんと快感につながっていきますから、楽しくて仕方がなくなっていきます。



大きな夢とは抽象度の高い夢です。夢の抽象度を高めていくと、自然に自分という殻から離れていきます。だからこそ、多くの人にできるだけ大きな夢をもってほしいのです。自分やその周りしか幸せになれないちっぽけな夢、生命維持や子孫を残すことなどの本能的欲求を人間としてのIQで乗り越えて、大きな夢を抱いてください。


大きな夢をもった人たちが世の中をデザインし、みんなの夢がひとつになったとき、そこには本当にみんなが幸せになれる世界が生まれていることでしょう。

7/17/2007

新しいアイデアは?


本当に新しいアイデアというものは非常に少ない。ほとんどの場合、それはすでに存在しているアイデア同士の創造的組み合わせである。

●車というアイデア+鋼鉄の発明+蒸気機関の発明=鉄道
●手紙+ワープロ+モデム=Eメール
●ラジオ+カセットプレーヤー+ヘッドフォン=ソニーのウォークマン
●巨大発明とはアイデア同士の創造的な組み合わせな書店というアイデア+インターネット=アマゾン・ドット・コム
●大学というアイデア+新しいテクノロジ-=バーチャル・ユニバーシティや企業大学
●「洗濯仕上げ用圧搾ローラー」と「洗濯板」を使った、昔の洗濯の仕方+逆方向に回る2つの桶を備えた最新テクノロジー=ダイソンの最新型洗濯機

MIT(マサチューセッツ工科大学)のニコラス・ネグロポンテは次のように言う。

新しいアイデアは相違から生まれる。それらは、見解の相違や、比較対照される理論の相違から生まれる、アメリカの詩人ロバート・フロストは、さらに簡潔に、「アイデアは、連想の妙である」と言った。

未来ビジネスを読む


『未来ビジネスを読む;浜田和幸』は為になる。

「未来学」は、どのような事態が起こっても、あわてふためかないで冷静な対処ができるよう準備しておくための実践的学問である。
自分だけは事故に遭わない。
自分の家だけは問題を起こさない。
自分の会社だけはレイオフなどしない。
こうした自己中心の発想の虜になっている人が多い。

大きな流れを読み誤らないための「3つのポイント」
第一は、常識とは発想の違う突出した考えを持つ人々を探し出して「それらのアイディアに常に関心を寄せておくこと」である。
第二に、自分の専門分野には関係ない情報源をキープし、「新鮮な発想や人材の発見に努める」。
第三に、見知らぬ土地や国を旅行し、生活風習や文化、価値観の違いから「当たらし観察や発見を積み重ねる」。

なにがどうなっても、物事の基本はあくまで人間関係である。それを肝に銘じたデザインをしなければ、上手く機能しない。

予期せぬことが突発的に起こることによって、個人の生活など一夜にして激変してしまう。そういう事態を常に想定して、これからは生きてゆかねばならない。

自分をはじめ、国民みなが不満を持っているということは、新しい発想を受け入れる土壌ができているということだ。

7/16/2007

股倉膏薬?


四文字熟語「股倉膏薬」何て読む?そして、その意味は?

答え:
「またぐらこうやく」
金を稼ごうとして、あっちに貼りついたり、こっちに貼りついたりして汲々としている間に信用を失った挙句に財産まで失ってしまうということ。

上記のことを、五木寛之がエッセイで書いていた。納得。

百の名言百の知・谷沢永一


「なぜ、この人だけが成功するのか~百の名言百の知・谷沢永一」と言う本なんだけど、名言よりもこの人の解説のほうが面白いので、それらを。
 

なまじ経験を積んだがために、人柄がすれっからしになって卑しく、他人の顔色を見るだけが能、みんなに嫌われる男がある。
最も厄介で迷惑なのは、博学多識を鼻にかける天狗たちであろう。
歩く百科事典(ウォーキング・ディクショナリー)という揶揄(からかい)の呼び名がある。
なるほど記憶力は抜群で、詰まらんことまで細かく知っているが、映写幕のように頭脳が受動的にしか働かない。
どこに解決すべき問題の、その取っ掛かりが伏在しているか、進んで見出す機能がないから、飾り物にしかならない人もいる。


世間では昔からお喋りに悪人はいないと言い慣わすが、その観察はかなりの率で当たっていよう。
つまりお喋りは他人をほとんど念頭においていないから、他人に計略を施すという企みにまで頭が回らないのである。
そこから直ちに予想される如く、黙っている奴は物騒だから気をつけろ、と言い伝える。

そういうときに閃きを発する人物にかぎって、平素はもの静かに黙っている。
いつも黙っている人の九〇パーセント以上は無能であるが、そのなかに純金の素質が交じっているのだから厄介である。
しょっちゅうやかましく騒ぎ立てている奴は無視すればよい。
職場における自分のまわりに向かって、自分を偉そうに見せている型は問題外である。
自信があって機会を狙っている者は、一挙に真価をあらわす日を期して待っている。


一連の施策にこめられた神谷の構想は、モータリゼーションが進展しやすいように、社会が動いてゆくための環境づくりであった。
真当な販売は押し売りではない。
欲しい人に商品を提供するのが筋道である。
欲しがる人がいないのに物が売れるか。
納得ずくで取引を広げるためには、欲しがる気持が世間一般に高まっていなければならない。
それゆえ車の便利さ宜しさを、実感でわかる人を増やせばよい。


世の人は他人を応援してやろうと待ち構えているのではない。
人間は誰でも必ず猜疑心のかたまりである。
そして何かを成しとげようと努める者には、できるものかと冷たい軽蔑の視線を注ぐ。
能力もないくせに力んでいやがると不愉快になる。
世に出て何かを為すとは、世に逆らい世間を敵にまわす謀叛の行為である。
どこの誰が同情してくれるものか。

成功とは世間を味方に引き寄せた段階を言う。
あくせくと血の汗を流して苦しんでいるとき、鐚一文貸してくれなかった悪鬼羅刹が、満面に笑みをたたえて借りてくれと躙り寄ってくる。
当方の人格がすぐれているからではない。
すべては信用であり見込みであり賭けであり投機である。


ちょっとまわりを見渡してごらんなさい。
老人は一方的に自分のことを喋っているだけ、ほとんど会話になっていないのが普通である。
中年以上の同窓会で、健康問題と薬の効き工合を封じたら、途端に話題がなくなって座が持たない。
六十歳を越すあたりから、自分自身のことにしか興味を示さなくなる。
相手が話しかけている間はひたすら辛抱している。
先方の声がやっと終るのを待って、たちまち喋りだすのは自分のことばかり、お互い他人の言うことなど、聞いているふりして聞かない。
ほぼ六十歳を越すあたりから、家庭でも職場でも会合でも、無意味な自己主張が一方通行で発射されている。このあたりに精神の定年が訪れるのを常とする。


人を悪く言うと一種の自己催眠のようなものにかかって、その人を悪く言わなかったとき以上に、その人が悪く思われる。
反対に人をほめると、ほめる前以上にその人がいいように思われる。
だから、なるべく人を悪く言ってはいけないのだ。


映画は元来、不良青年がつくるものだ。僕が言い出した言葉に「不良性感度」というのがあるが、これが鈍いと面白い映画にできない。       岡田茂