11/09/2007

健全な肉体に狂気は宿る






健全な肉体に狂気は宿る


基本的に人間というのは、困難な場所においては、自分の世界を狭めるものなんですよ。
健康なときだったら、全世界を相手にして生きることができる。でも、困難な状況では、とても世界全部を相手にすることなんてできません。だから、とりあえず一番小さなところまでキューっと絞るんです。


コントロール願望の強い人というのは、相手と自分の区別がつかないわけで。区別がつかないから、自分が思う幸せを相手に強要する。親はよかれと思ってやってることが、子どもにとってはいい迷惑だということは間々あることなんです。
でも、自他の基準が違うということがわからない。そうやって育てられた子どももまた自分が母親になると、同じことを自分の子ども相手に繰り返す。世代を超えても少しも「変化」しない。


子どもに対する親の仕事というのは、どうすれば子どもが気持ちよくなるのかということを考えることに尽くされると思うんです。


子どもの身体感覚にさえ目配りしていれば、あまり余計なことは言わなくても済む。快適というのがどういうことか、人から気づかわれるというのがどういうことかを気づかわれる側として子どもが経験していれば、そのうち自然に他人の快適さを気づかうことができる人になれると思うんです。そういうものって実地経験で覚えるしかないから。


「自分はこれがしたい」ということは一生懸命言うんだけれど、「自分は他人のために何ができるのか?」という問い方は思いつかない。
でも、「誰が自分の支援を必要としているか?」という問いを自分に向ける習慣のない人間は社会的には本当は何の役にも立たないんです。


ファンタスティックな「ライフスタイル・マガジン」が売れるというのは、言い換えると、自分のライフスタイルを自分で決めることができない人がすごく多いということでしょうね。子どものころからマニュアルで育ってきた世代が、三十代、四十代になっても、相変わらずマニュアルがないと暮らせないということなんじゃないですか。


「強く念じれば望みは実現する。ただし、自分の望んだ時期には実現しない」って書いてありました(笑)。
歳をとってみると、なるほどなあと思うんですよね。


自分自身が時間とともにどんどん変わっていくのに、遠い昔に立てた「人生設計」にいつまでも固執することに何の意味があるのか、一度ゆっくり考えて欲しいです。


ロングスパンとショートスパンと、どちらもないといけないんですけどね。例えば、ビジネスというのはショートスパンなんです。
四半期決算で収益が出たかどうかで測るわけだし、現にやったことに対してすぐにリアクションが返ってくる。ビジネスってある意味ほとんど無時間モデルなんです。
でも、例えば、家族なんてものすごいロングスパンじゃないですか。結婚生活とか親子関係みたいなものというのは、自分のやったことが正しかったかどうかなんて、四十年、五十年経たなければわからない。だからビジネス的に四半期の収益で成否を測ることのできる家庭生活なんてありえないですよね。だから、ロングとショートの両方がいるんです。


いま家庭がうまくゆかなくなっている原因の一つは、全部がショートスパンになってきて、本来ロングスパンで成否を見るはずの結婚や親子のあり方を「早く決断しろ、早く結果を出せ」というビジネス的な時間感覚が歪めているせいじゃないかな。


人間がまわりから受ける影響ってすごいですよ。無意識のうちに、信じられないくらい簡単に影響される。精神レベルだけじゃなく、身体レベルでも。誰にも経験があると思うんですが、ある種のフィジカルな波動みたいなものがあって、その人のそばにいるだけで、こちらの生命エネルギーがどんどんすり減っていってしまうような人間が現にいるんです。


もう少し広い視野を持つとか、もう少し高い視点から自分自身を含む風景を鳥瞰的に見取るということができないと、マジョリティとともにあるべきか否かの判断はできない。生態系の全体のバランスが崩れないなら、ある集団が全滅することだってあり得るんですから。
そのとき、そのマジョリティにとどまるかはずれるかの判断ができる人間とできない人間がいるわけです。マジョリティを見切ってそこから逃げる能力というのは、ふつうの家庭教育や学校教育では教えてくれない。当たり前ですけどね。特に母親は絶対教えない。だって、母親にとって子どもは「弱い生物」としてインプットされているんですから。母親は本能的に子どもに対して「つねにマジョリティと行動をともにしなさい」という圧力をかけてきますね。


「変人」戦略というものを採用する人がいるわけですね。春日先生とかぼくとか。「変人」というのは最初からマジョリティの端っこの方にいるわけですよね。群れの中にはいるんだけれど、いつでも逃げられるように端にいる。真ん中にいると逃げられないから。マジョリティの中にいれば絶対に安心だと思っている人は、どのへんに立ち位置をとるかなんてことはあまり気にしないんですよ。


人間というのは、他人から聞いた話というのはあまり軽々には信用しないくせに、自分がいったん口にしたことばというのは、どれほど不合理でも信用するんですよ。だって、自分で口にしたことばの現実変成力を自分の人生を賭けてでも証明しようとするから。
自分の口で言ったことは、言わないことよりも実現可能性が高いですから、他人のことばはどれほど合理的でも信用しないが、自分のことばはどれほど不合理でも信用するというのは、ある意味「正解」なんです。


身体は正直ですからね。そして、身体の方が賢いんです。身体は本能的になんとか生き延びようとしているわけですから、長生きできない方向に人間が行こうとすると、「やめなさい」と言ってくれるはずなんです。


「身体が感じる違和感に、忠実になれ」ということですよね。


ぼくもときどき人に対してひどいことを言うことがあるんですが、そのときの基準は一つだけ。悪口を言ったあとで気分が良くなるかどうか(笑)。
やっぱり身体に訊いてみるしかないわけです。だから、学生にもよく言うんですよ。「とにかくデートしなさい」と。そして、一緒にご飯を食べてみて、美味しかったら相性がいい、一緒に食べてご飯がまずかったら相性が悪い、と。


甲野善紀先生や竹内敏晴先生や光岡英稔先生も、みんな身体の内側の変化をみつめるといういうことをされているでしょう。
その方たちに共通するのは、何が「正しい」かじゃなくて、何が「気持ちがいいか」ということを探求しているということですよね。
身体のどこにも無理がなく、詰まりもなく、凝りもない、気持ちがいい状態を探り当てられれば、どのような条件に置かれても、その「いちばん気持ちのいい状態」にまっすぐ戻ることができるでしょう?そのときの「安定状態に一気に戻る」動きが爆発的なエネルギーを生み出すわけだから。身体的な気持ちよさというのは、そのまま武道的な意味での強さにつながっているんです。


ひとりひとりの人間にはその人にとっての「最適サイズ」というものがあって、それよりも大きくしても小さくしても、身体には障害が出てきます。
ぼくたちが探さなければいけないのは、今の自分にとっての最適サイズなんです。生存に一番有利で、身体的ポテンシャルが発揮できて、かつどこにも過負荷のかからないぴったりの体型というものがひとりに一体ずつ必ずあるはずなんです。それより太っても痩せても、どちらにしてもパフォーマンスは下がる。


人間が精神的に健康である条件について、四つばかり挙げておきたい。
●自分を客観的に眺められる能力。
●物事を保留(ペンティング)しておける能力。
●秘密を持てる能力。
●物事には別解があり得ると考える柔軟性。


客観的に自分を眺める能力が必要なことは当たり前であろう。反省とか良識とか羞恥心とかバランス感覚といったことに通じるわけで、これがないと育ちの悪いガキと変わらない。

ペンディングする能力、あるいは(精神的な意味で)中腰の姿勢に耐えられるだけの余裕といったものもきわめて大切である。
それは忍耐力とか不安に耐える力と言い換えられるかもしれない。あるいは一種の能天気さとか楽天性、「ま、何とかなるさ」とやり過ごせるだけのいい加減さに近いものかもしれない。気取って言えば、希望を持ち続けられる能力と称してもよかろう。

おしなべて我々は待つことが苦手である。待っているとイライラする。不安になる。猜疑心を抱いたり、悪い想像をしてそれに振り回されたり、被害者的になったり、ときには妄想レベルにまで思考が暴走する。基本的に、待つことは精神衛生上きわめて悪い。

だが世間の諸事は、すぐに結果や結論が出ることは少ない。大概はじっと待ちつづけたり保留しておいたりしなければならない。つまり生活にメリハリがつかな。生殺し状態にされる。保留がいくつも生じることで将来への準備や心構えは困難となり、未来は不透明で曖昧となる。不条理感が立ち上がってくる。

だが我々はそうした生煮え状態に耐えなければならない。焦ったり捨て鉢になっては、元も子もなくなる。待つ能力、保留しておける能力は、本人のみならず周囲の人々にも安定した気分を与えてくれる。

秘密を持てる能力に関しては、本文で語られているから特に付け加えることはない。わたしとしては、胸にそっと秘密を持つことにもっと楽しさを感じるべきだと思う。心の闇といったものではなく、むしろ光学写真機の暗箱のような豊かな闇を持つことが我々には必要なのである。


では、物事には別解があり得ると考える柔軟性についてはどうか。しばしば世間では心を病んだ人々の思考は支離滅裂とかデタラメに近いものと捉えている。だがそれは間違いである。彼らは往々にしてきわめて論理的である。いや、あまりにも論理的で整合性があり過ぎることが問題となる。

11/08/2007

内田樹


内田樹(うちだ たつる)


私たちの社会からはすでに献酬の習慣がなくなった。今また喫煙の習慣も消えようとしている。共同体の存続よりも個人の健康を優先する人々が支配的になる社会において、人が今より幸福になるように、私は思えない。

デートでご飯に誘うのは、一緒にご飯を食べて、もし同じものがいつもより美味しく感じられたら、それは「この人とはうまくゆく」という指標だし、ご飯の味がしないなら、他の条件が揃っていても、うまくゆかない。こういう判断においては消火器の方が脳よりも賢いのである。

しゃべれば、しゃべるほど、言葉がうつろになっていく。

何でも今を基準にして考えちゃいけません。どちらかというと、昔から流れて来ているから今があるんですからね。歴史を逆に見ちゃいけないということですよ。

音楽の伝播というのは、人々が思っているほど一方向的なものではないし、時代とともに「進化する」というものでもありません。それは時間と空間を行きつ戻りつし、さまざまな非音楽的なファクターをも吸い寄せて、絶えざる変容と増殖を続ける不定形的でワイルドな運動なのです。

ご臨終メディア


ご臨終メディア 森達也・森巣博





森:森巣さんが指摘するように、高収入によって醸成される保守性が今のメディアのスポイルの大きな要因だとしたら、
  その既得権益を自発的に捨てさせることができるかどうかは疑問です。やはり外圧がないと・・・。
森巣:しかしそれなら庶民の味方みたいな面するなと。年に3000万円近くも取っておいて、自分の使命を果たさず、
  夜は会社の金で酒飲んで、「領収書切ってね。あっ、日付は入れないで」なんて言うのですよ(笑)。だからやっぱり給料を、
  15分の1にせいと。
森:森巣さん、減額の割合がどんどん増えてますよ(笑)。



森巣:森さんがおっしゃったとこで、一つの重要な論点が浮かび上がりました。相手を知らないゆえに憎悪しているという点。
  だからこそ知りたくないわけですよね。
森:そうですね。知ってしまったら憎悪できなくなってしまう。それをどこかで感知してしまうから、目をそむけてしまうのかもしれない。
  まぁ、オウムの場合はこれに加えて、彼らに対しての嫌悪が突出して強いですから。それも含めて考えねばならないとは思うけれど。


実際には巨悪を黙認し、かつそれに加担しつつ、正義を背負っているように振舞うジャーナリストたちには反吐が出ます。しかも倒れるのを
待っている。不正を告発するのがジャーナリズムのはずでしょうが。ところが、倒れたものを叩くのがジャーナリズムとなってしまった。


そもそも、ジャーナリズムという仕事―メディアの仕事と言い換えてもいいですが―には、他人の不幸を食い物にして成立する領域が
とても大きい。だから、生来的に後ろめたさがあって当たり前の仕事なんです。賎業くらいに思ったほうがちょうどいいと僕は思っています。
ところが今は、後ろめたさがどんどん希薄になっています。この負い目や後ろめたさが消えたとき、メディアは、暴走するんです。


権力は腐敗する。絶対的権力は絶対に腐敗する。
その権力の腐敗を、国民の代わりに監視するのが、ジャーナリズムの役割なのです。


レン・マスターマンが指摘した、メディアは現実を反映しているのではなく、再構成してから提示するという考えそのものですね。


メディアにおけるリアリティは、本物ではなく、本物らしいということです。これは決して皮肉ではなく、受け取る側の感応力が重要なんです。
だからこそ、メディアが発達することで、リアリティは増大せずに逆に消失するんです。ベトナム戦争とイラク戦争のリアリティを比べてみたらいい。
あるいは三〇年前のビアフラと今のスーダンの飢饉。規模や被害は同じようなものです。むしろ今のほうが悲惨かもしれない。でもメディアが
リアルタイムに、わかりやすく、情報量が増大する過程と並行して、受容する側の想像力が消えていくんです。


今、メディアに携わる人間も、確信犯的に状況を悪くしようと思って仕事をしているわけではなく、どこかで日本を長くしよう、自分たちの
理念を全うしようと考えているとは思います。それが硬直し、麻痺し始めている。さらに、僕が危惧している一番の点は、自分たちが
手を汚しているという自覚があれば、まだ改善の余地が存在するんですが、それすら消えてしまったときに、まさに自動律が始まるんです。


みんな一緒の社会のほうが、ずっと怖いのです。異質なものを混ぜて一緒にやる。これが本来の意味での多元主義の立場です。
異物はわからないからといって、排除してしまったら終わり。そこで思考は止まります。わからないものはわからないまま。置いておいて、
一緒に考えればいい。
自分も考える、向こうも考える。自分が何かしようとしたら、嫌なヤツも入れる。好きなものだけで集まっても、仲良しグループができるだけで、
つまらないものしかできない。だから、メディアには、多元性があっていいはずなのに、一元化されて、みんなでいい子グループをやっている。
「救う会」にしろ、「新しい教科書を作る会」にしろ、下部で働いてる人たちは、自分はいいことをしていると、きっとみんなそう信じているので
しょう。福音を伝道しているのだと思っている。


ところが、わからない、理解できない相手は、はじいてしまう。北朝鮮の手先だ、アルカイダの兵士だ、テロリストだ、非国民だと排除してしまう。
なぜかは理解できないけれど、テロリストたちがあれだけのことをするには、それなりの理由があるんだと考えることができない。わからないのなら、
なおのこと相手を知ろうとするために、その考えを聞き、知ろうとするべきにもかかわらず、わからないからといって徹底的に差別する、排除する。


暴走します。悪意は暴走しない。ただし、開き直ります。
森巣:悪意には、ある程度までの、底というべきか天井があるのかもしれない。ところが、善意というのはどこまでも突き進んでしまう。


その無自覚性の積み重ねの先にある社会こそが「怖い」のです(笑)。いつの間にか、私みたいな人間がサヨクと思われるような世の中になってしまった。
私の立場は明瞭です。左翼は難解、右翼は厄介(笑)。アメリカでは、愛国者法(反テロ法)が成立しました。日本もその方向に進んでいる。
愛国者法を成立させたUSAは、私がセックス・ドラッグス・ロックンロールをやっていた頃のUSAではありません。敵を作り、敵を攻撃することが正義と
なりました。おまけに、それに反対すれば非国民です。


今のメディア自身も、善意を体現しようとして、そこに正義という言葉を入れ替えて、その御旗の下、麻痺し始めている状況ですから、社会全体の
善意による暴走という構造は、拍車がかかるばかりの状態になりつつある。
森巣:それでも、表現することを恐れてはいけない。意義申し立ては必要なのです。周囲に気を取られて、保身しているようでは、奈落しか待ち受け
ません。森さんが書かれていたことですが、表現することによって傷つく人がいるかもしれない。それは絶対どこかにいるのです。それを気にしてばかりいたら、
何も書けなくなってしまう。表現とは誰かを傷つける可能性を含むものなのだという自覚は必要です。その加害者性を受容して、表現が開始される。


傷つくであろう人がいるということは、気にはしてほしいし、忘れてほしくない。だからといって、気にしすぎてしまったら、それで機能しなくなってしまう。
後ろめたさを思いっきり持って、ああ、こんなに毎日毎日多くの人を傷つけているって、めそめそ泣きながら仕事をするくらいの気持ちを持続してほしい。
その自覚もないのに、ジャーナリズムや表現に携わってはほしくないですね。


人を刺すのは、自分も刺されることを受け入れて、はじめての成立可能な行為です。自分が刺されることを受け入れないから、現状のように、どんどん
抗議のこないほうに向かってしまった。
森:・・・・・・でもね、刺される窮地にまで自分を追い込む必要はないんです。メディアの特権は、人のことを刺すけれど、自分は刺されない位置にいること
です。とんでもない特権です。だからこそ、それに見合うだけの自覚と働きは、当然要求されるべきなんです。


自分がくだらない、虫けらみたいな人間なんだというところから出発したほうがいい。正義であったり、公共の福祉であったり、知る権利とか、
表現の自由がどうだとか、そういったことを持ち出すから、どんどんどんどん錯覚していってしまう。
一回原点に立ち返ればいい。メディアという仕事は、ほとんどが人の不幸をあげつらうことで成り立っている。不幸でなくとも、聞かれたくないような
ことまで取材しなければならない場合もあるし、取材方法だって家族には見られたくないようなことばかりしています。そしてその結果、常に誰かを
傷つけることで成立しているんです。そのことに対する後ろめたさを持ったほうがいい。それだけは、絶対なくすべきではないと思っている。
卑しい仕事なんです。その視点から、もう一度、メディアというこの重要なジャンルと、向き合うべきと思っています。


長い博奕体験から、私には言えることが一つある。それは、希望が絶望に変わるのは諦めたときなんです。諦めちゃいけない。
絶望に陥ってはいけないのです。

11/07/2007

奥田民生、日経


奥田民生、日経
音程って揺れるでしょ。ビブラートをかけるとごまかせる。

カラオケ的歌い方と言うか。本当にうまい人はビブラートをコントロールしてやってますから、さらにうまくなる。

ごまかしてる人は、うまく聞こえるけどちっともうまくない。

ソングブック/ニック・ホーンビィ


ソングブック/ニック・ホーンビィ

ピンクフロイドの音は、風通しが悪くて人工的だった。おまけにプログレッシグ・ロックのやつらは、まるでクラッシクの音楽家になりたがっているみたいで、なぜだかポップを見下している感じだった。彼らについて行っても、その先は袋小路。未来はどこにも通じちゃいなかった。

イングランドのポップ・ミュージックを聴いてもイングランドは聞き取れない。・・・・セックス・ピストルズはストゥージスの歯並びを悪くして、やり手のマネージャーを付け加えたようなもの。

出来の悪いものでも許せる気持ちになったのは、最良の歌とはただただ美しく、そして美しいものとは、とくにポップ・ミュージックにおいて、稀少品であるからだ。そう考えてみれば、美しいものを抱きしめずにいるなんて、自傷行為にひとしい。もうぼくは、ポップ・スノッブでいる余裕などない。

ジャクソン・ブラウンの音楽には、若いころなら反応できなかっただろうと思わせるものがたくさん存在している。当時だったら、その繊細さやはかなさを、ただつまらないと勘違いしたはずだ。

ぼくは新しいものを発見しつづけたい。証券取引所に名前があるような店では、発見なんて出来やない。だからあなたには、ウッドや、あなたの家の近所にある似たような店で買物をして欲しい。でなければ、いつかきっとこうかいするはずだから。

音楽を愛してはいるけれど才能のない人間でも素晴らしい音を創造できる。必要なのは耳と、ソフトウェアと、センスのよさだけ。ファンという人種だけが持つ大いなる魅力が、これでようやく世に認めらるようになったわけだ。

音楽を創造するとは―どんな芸術でもおなじだが―空気の薄いところから何かを引きづりだし、もともと何もなかったところに何かを生みだすことであるはずだ。

11/06/2007

最高の自分を生きる 丸山敏秋






最高の自分を生きる 丸山敏秋



◎感謝や感動の心が大きいこと
◎自分の身に起きることはすべてプラス、ととらえること
◎先のことはあまり考えず、目の前のことに精一杯取り組むこと
◎志を高く持つこと
◎ギブ・アンド・ギブの精神で生きること


稽古とは、自分の身体を型にはめ込んでいく訓練である。稽古がはっきりとした目的に
向けて行われるとき、それは修行となるのだ。


修行とは、世俗的な日常経験の場における生活規範より以上のきびしい拘束を自己の心身に対して
課することである。そしてそれによって、社会の平均的人間が送っている生き方より以上の「生」の
Leben mehr alsに至ろうとすることである。「人格の向上」とか「人間形成」とよばれるものは、具体的には、
このような実践的訓練の過程を意味する。
そうした修行には、主として外界の事物に向かう外向的実践(たとえば修道院生活の労働のように)と、
瞑想修行のような自己の心の内部に向かう内向的実践に大別できる。世阿弥が稽古を禅の修行になぞらえたように、
技芸の稽古が修行に進んでいくとき、日本の場合では無我の境地をめざす仏教思想が大きな役割を果たすこととなった。



技芸あるいは求道の世界でその「道」を究めるためには、よき師に就き、その師を心から尊敬信頼して、技能を修得しなければならない。
道元いわく、「正師を得ざれば学ばざるに如かず」。
技芸の師は普通、あまり教えない。師自身もかつて就いた師から教えられることはなかったし、技芸の蘊奥は教えられるものでもないことを、
経験的によく知っているからだ。型ならば教えられるが、それもあえて無理には教えない。そもそも、「教える」という言葉は稽古の世界にふさわしくない。
なぜなら、日本の技芸では身体などの動きがない、いわば空白余白のところに無限の妙趣を見出そうとするからだ。「せぬところがおもしろき也」
(世阿弥『花鏡』)、「目に見えぬ所をさとって知る事」(宮本武蔵の『五輪書』第七戒)と言うがごときである。動きのないところ、目に見えないことを、
どうやって教えられようか。
したがって弟子は、真似をするしかない。技芸でも学問でも、学びの道は「まねび」、すなわち師の技芸や知識をひたすら謙虚に模倣することからしか
始まらない。模倣するとは、一定の型に身を入れる修練を積むことである。



①善いしつけ
②自分の選んだ芸術に対する情熱的な愛
③師に対する批判抜きの尊敬


まず弟子は最初、師がやって見せることを、良心的に模倣すること以外には、何一つ要望されることがない。
師は長ったらしい説教や理由付けを嫌って、簡潔な教示をするにとどめ、弟子が質問することなどは勘定に入れていない。
彼は弟子の模索的な数々の骨折りを落ちつきはらって静かに眺めており、別に弟子の独立心や創意工夫を期待しないが、
弟子が成長し成熟するのをじっと待っている忍耐心を持っている。両者共に時間をたっぷり持っており、師はせきたてず、弟子は
あわてて手をさし出さないのである。
時期尚早に弟子を芸術家に目覚めさせようなどとは毛頭考えず、師は彼を、手業が無上によくできる有能者に仕立てることを、
自分の最初の使命と考えている。弟子はたゆまぬ勤勉によって師のこの意図に添おうと努める。彼はまるでそれ以上の高い要求は
全然持っていないかのように、いわば自分に愚鈍な心服状態を背負わせる。こうして彼は、何年か経って初めて、完全に自己のものと
した形式が、もはや自分を圧迫せず、かえって自己を解放するという経験を持つようになるのである。彼は一日一日と次第に容易に、
どんな芸術的霊感にも、技術的には造作なく従うことができるようになる、が同時にまた心をこめた観察の中から、霊感をぞくぞくわかせる
こともできるようになる。例えば、筆を持つ手は、彼が心の中で創作活動を始めるのと同じ瞬間に、いち早く狙い誤たず頭に浮かんで
いるものを仕上げてしまうのである。そしてついに弟子は、精神か手か両者のどれが、その作品の責を負うかをもはや知らなくなるのである。
しかしそこまで行くためには、すなわちその技量が“精神的に”なるためには、弓道の場合と同様に、心身の全力の集中が必要なのであって、
これは、どんな事情の下においても放棄され得ないものである。(傍点・引用者)


稽古が目指すのは「自由」の境地なのである。「型にはまる」だけではその「道」を窮めたとはいえない。型をしっかり踏まえながらその型を
超えていくと、いちいちの動作から心が離れ、自由自在に技が繰り出せるようになり、「我もしらず」という境地に至る。そう、「ゾーンに入る」のだ。
そうした稽古の階梯は「守・破・離」あるいは「序・破・急」と呼ばれた。


◎人は、幸福に暮らしているから朗らかなのではなく、朗らかにしているから、幸福な事情がつぎつぎにあらわれてくるのである。
◎世の人は、身体が悪いから働けない、というように考えているが、それは反対である。・・・・・・病気になってからでも、出来る仕事を心配なく
働きつづけていたら、それ以上悪くならないばかりでなく、次第によくなってくるものである。


習慣は成長の敵なのだが、習慣を突き破るところに成長がある、というべきかもしれない。習慣を突き破る上での導き、それが直感だった。
直感は低次の「爬虫類の脳」ではなく、上位の「人間の脳」と「哺乳類の脳」との間の力動から生まれる。すなわち、「下から上」ではなく
「上から下」に作用する心の機能であった。ちなみに、習慣に依存する怠惰怠慢、あるいは自己保存の心意は、「下から上」によるものである。
技芸の世界における達人の開眼に、直感が大きな働きをするとともに、日々の稽古における向上のプロセスにも直感は欠かせなかった。
このようなことから、「気づいたらすぐする」という実践の意義が明らかになる。気付きという直感は、その時その場の状況に応じて、実に多様に
発現する。それをキャッチして行動する場面場面は、いつも異なっていて、常に新しい。すなわち受動的な習慣を突き破り、われわれは
「新に生きる」ことができる。
実践とは非日常的な行為だったが、あることを実践してそれが出来るようになると、習慣化してしまう場合が多い。日常化してしまえば、もう、
実践ではなくなってしまう。直感による「即行」にそうした習慣化は起こらない。「即行」が非日常に止まりっぱなしということも決してない。
「日常→非日常→日常」の好ましいサイクルが「即行」の実践においてもたらされる。


「純情」の対極がわがまま(エゴイズム)であり、わがままは習慣に安住する。わがままな生き方を変え、機械のように自動操縦されて生きるだけの
人生を乗り越えたいのであれば、「即行」ほど的確な実践はない。


オイゲン・ヘリゲル『日本の弓術』(柴田治三郎訳、岩波文庫、1982年)
同『弓と禅』(稲富栄二郎・上田武訳、福村出版、1981年)
黒田亮『勘の研究』(講談社学術文庫、1980年)

「正しい意思決定の五条件」&「12の徳目」


「正しい意思決定の五条件」&「12の徳目」



これは、私が信じている世の中の仕組みから見つけだしたものです。

①やりたいこと・楽しいことをやる

②自信のあることは、やってもいい

③自分のためだけのことではなく、世のためになること

④責任がとれること

⑤恨まれることはしない





一、 【孝行】親孝行をしましょう。

二、 【友愛】兄弟姉妹は仲よくしましょう。

三、 【夫婦の和】夫婦はいつも伸睦まじくしましょう。

四、 【朋友の信】友だちはお互いに信じ合ってつきあいましょう。

五、 【謙遜】自分の行動・言動を慎みましょう。

六、 【博愛】全ての人を愛し、助けの手を差し伸べましょう。

七、 【修学習業】勉学に励み、職業を身につけましょう。

八、 【知能啓発】知識・教養を身につけ、才能を伸ばしましょう。

九、 【徳器成就】人徳を高め、人格を高めましょう。

十、 【公益世努】社会や公共のために貢献しましょう。

十一、【遵法】法律や規則を守りましょう。

十二、【義勇】正しい勇気をもって、国のために尽くしましょう。


11/05/2007

楽しく上手にお金とつきあう・小林正観


楽しく上手にお金とつきあう・小林正観



たそがれたラーメン屋でお金を使う。

美味しい店、有名な店に入るために行列に並び、20分も、30分も待って食べるというのは、エゴかもしれません。その有名な店の2,3軒隣には、必ずお客さんの入ってない店があります。まずくて有名で、店主の愛想は悪いかもしれません。でも、あえてこのような店に入ってみてください。

役に立つようにお金を使うというのは、「いかに人に、お金に喜んでもらえるか」ということでもあるのです。



お金ができた、と食べ物を変えると運が衰える。

「欲しい、欲しい」と念ずれば念ずるほど、願えば願うほど、「我欲」「執着」「こだわり」のゴミを貯め込んでいることになります。先ずは、その三つの思いを捨てること。



どうお金を使うか、いつも考える。

いざという時に、富をみんなのために放出できる人のところには、お金が集まってくる。「この人のところに貯めておけば、いざというとき助かる」と思われる人は潤うのです。「この人に潤っていて欲しい」と周りの人たちが思っているから、自然とそうなるのです。



喜ばれる存在になると、売り上げはついてくる。

村おこし、町おこしの共通点

1、その町や村で育った人が一度都会に出て生活し、戻ってきて何かを始めた。

2、都会に住んでいた人が仕事を辞め、その町や村に移り住んで何かを始めた。

3、その町や村の外に多くの友人、知人を持っている人が何かを始めた。

外の世界と交流を持ち、外の世界を知っている人が、新しい楽しいアイディアを持ち込み、活性化のきっかけをつくっているようです。ずっとその町や村から出たことがない人が、その地域のよさを認識できないので、そのよさをアピールすることができない。



働くとは「はたをラクにする」こと。

喜ばれる存在になること、それだけですよね。



生きるとは、「頼まれごと」をこなすこと。

自分のやる気や衝動によってつくったものが芸術だと思い込んでいる人が多いのですが、それだけでは、長く世に残るスゴイ仕事はできないようです。

衝動でやったものは、自分のできる範囲でしかやらないことが多い。ところが、「この大きさのもの、こういうものをいついつまでに仕上げてくれ」と言われると、人間は自分を超える力をどこかから借りてこなくてはならない。自分の能力の限界を超えるものを頼まれて引き受けてしまう、ここが重要です。

自分の力を自分で評価・評論できると思っている、それが「傲慢」です。頼まれたら「わかりました」と言ってやってみる、それが「謙虚」。

一般に言う、「傲慢」と「謙虚」とは全然違います。



「イヤなこと眼鏡」を外すと、人生は楽しい。

「お金を貸してくれ」「お金を出してくれ」と言われても、それはお金に用事があるのであって、「私」に用事があるのではありませんから、断っても構いません。

その人はお金に用事があるのですから、「私」ではなくてもどこかお金がでてくればそれでよいわけです。



「夢や希望に満ちあふれた人生」は、「死ぬまで満たされない人生」かも。

努力の反対語は感謝です。もちろん、努力は悪いことではありません。けれども「努力をしなければならない」と思うのは、自分の力しか信じていないこと。つまり、自分の人生をつくっているのは自分だ、という奢り・高ぶり・うぬぼれ・傲慢かもしれません。そういう人は、自分の体の外側のものを全部敵に回しても努力を続ける。それが美徳だと思い込んでいる。

「夢や希望をもちつづけなければならない」と私たちは言われ続けてきましたが、夢や希望に満ちあふれいる人生というのは、つねに今の自分を好きになれず、「まだまだ、もっともっと」と死ぬまで言い続ける、満たされない人生ということなのではないでしょうか。

ちっとも努力してないけど、いつもニコニコと楽しそうで、心に余裕があり、いろいろなことや人に感謝して、周りの人を気持ちよく、明るくさせてくれる人。

「努力、努力」と押しつけがましく、とても偉そうで、一人で頑張っているような顔をして、いつもピリピリと怒っている人。

どちらが楽しそうで、明るく楽しい人が寄り集まってくる人生なのでしょうか。



求めて手に入れるのが人生の前半、折り返しを過ぎたら、捨てて手放す。

「頑張る」「努力する」ことが唯一のよい価値なのだと信じて、そのまま後半生を生きていこうとすると、今度はうまくいきません。後半生では、「頑張る」「努力」が「向かい風」になってしまうようです。人生の折り返し地点を過ぎたな、と思ったら、何かを求めて動くより、今いる場所で「どうしたら喜ばれる存在になるか」、今まで得たもので「どうやってみんなの役に立つか」と考えると、面白い風が吹いてきます。追い風です。



「発想転換」して「執着を捨てる」。

強いものが力を示して上に立つ時代はもう終わり。柔らかなもの、温かいものが協調して力を持つ、そういう時代。「力を持つ」という表現自体が違うかもしれません。強調的なものが中心になっていくのです。



「ありがとう」は神の応援を得る言葉。

本当に幸せを感じる人というのは、足りないものをリストアップするのではなくて、足りているもの、いただいているものをリストアップする人。自分がいかに恵まれているかに気がついた人です。








11/04/2007

暮らしの哲学・やったら楽しい101題






暮らしの哲学・やったら楽しい101題・ロジェ=ポル・ドロワ



身の上をいくつもでっち上げる・人生観が変わる

違う人間を演じてみる・憂鬱の虫を抑える

いい人になったり悪い人になったりする・自分を相対化する

何もしないでただ待つ・気が鎮まる

しあわせになる禅






しあわせになる禅・ひろさちや



家の中で使われる物差しが、世間の物差しのままではいけないと思う。世間の物差しは、人間を「役に立つ、役に立たない」といった観点で評価するから。



要するに、親が世間の奴隷になって、わが子に世間の物差しを押し付けていたのでは、問題は解決できないのです。



宗教を持たない人間が、宗教の代用品として持っているもの(持たされているもの)が、

―美学―

です。「日本人の美学」「男の美学」なんて言いますが、立派な死に方をせねばならない、立派な生き方をせねばならないという強迫観念が美学です。

こんなもの、宗教の代用品にはなりませんよ。



1、莫妄想(まくもうぞう)→余計なことを考えるな!

2、一得一矢→なんだっていい。

3、自灯明→他人のことはほっとけ!

4、放下著(とうげぢゃく)→常識を捨てろ!

5、竿頭進歩(かんとうしんぽ)→がんばるな!