10/20/2007

英語を学べばバカになる


「英語を学べばバカになる グローバル思考という妄想」薬師院仁志著(光文社新書)


下からの民主主義を揚げる社会において、上から押しつけられた秩序は好まれない。人々は、そのような規制や枠組みを最小限にしようとする。逆に言えば、すべての個人や集団が自由に振る舞うことができればできるほど、その社会は民主的だということである。まずは、自由ありきなのだ。とは言え、誰もが自由に振る舞うとなると、当然のことながら、争いや衝突も多くなる。それぞれの者たちの自由な意思や行動が、相互に対立してしまうのである。だが、下からの
民主主義を旨とする社会では、たとえ対立が起きても、上から仕切る力は弱い。そこで、裁判が多発することになる。かくして、アメリカは、世界に類を見ない訴訟社会になったのである。


ヨーロッパ型の民主主義思想では、何が正しいのかは全員に共通のルール(一般意志の表現)の中で定められるべき事柄であって、個別の争いの中で決めることではないのである。全員が同じ約束事に従うことが民主主義の原則なのであって、裁判に負けた方が勝った方の個別意志に従うのでは、民主主義にならないのだ。ただし、ルソーの考える民主主義を実現するためには、立法者という特権的存在を必要とする。アメリカ流の民主主義は、この特権的存在を認めないか、せめてその力を最小限にしようとするのである。何が正しいのか。アメリカにおいて、それは上から押しつけられることではない。それを決めるのは、異なる意見を持つ者同士が互いに自説をぶつけ合う直接対決である。言わば、ヨコの争いなのだ。進化論を主張するにも、裁判で勝たなければならない。こうなると、もはや何が正しいかではない。勝つか負けるかの二分法なのだ。まさに、勝てば官軍の世界なのである。ソ連が正しくなかったかということが、すなわちアメリカが正しかったのだという奇妙な論法もまた、ここから生まれてくる。アメリカでは、何事も、単純な二分法に還元されてしまいがちなのである。


だから、アメリカの社会で自分の自由を守るためには、自らが闘わなければならない。上からの秩序枠組みを当てにできない以上、人々は自らの力で自分の立場や利益をつねに主張し、発信しなければならないのだ。その結果、アメリカ人たちは、つねに強い自己主張を前面に押し出さねばならないだけで
はなく、コミュニティーを作り、教会を作り、NGOやNPOを作り、数を集めて徒党を組み、自分たちの意見や立場を発信し続けることを余儀なくされる。そして、そこでの議論は、「ディベート」という名の言い負かし合いの形を取ることになるのである。


だが、アメリカ的発想は、平等を犠牲にしてでも自由を重視し、上からの指導に対する服従を嫌う。共産主義は、たとえ平等を保障しようとも、アメリカ人から見れば、自由に対する国家的抑圧でしかないというわけである。ドイツ人やフランス人が、イラクの民主化を、上から、啓蒙的な統治によって始めるべきだと考えたのに対して、アメリカの多数派が、独裁者の追放と自由選挙によってそれを一挙に実現しようとした理由もまた、同様である。アメリカは、上からの民主化を拒否したがゆえに、戦争を選んだのだ。アメリカ型の民主主義は、よくも悪くもそれしか考えられないのである。


いずれにせよ、ヨーロッパ人の目には、アメリカ型の民主主義が、かなり原始的なものに映るだろう。


何でもかんでも下からの投票で決めることだけが、民主主義ではないのである。

国家などの上部機関が個人的権利の保証者ではない以上、アメリカでは、自分たちの権利は自分たちで守らなければならないからである。コミュニティーを作ることは、上からの支配に抵抗するためであると同時に、いやそれ以上に、ヨコの勢力争いの中で身を守るためでもある。

端的に言えば、アメリカにおいて、コミュニティーとは、集団の縄張りに他ならない。上を当てにできない以上、自分の場所は自分で確保しなければならない。それは、一人の人間や一つの家族でできることではない。だから、仲間が集まって縄張りを囲み、自分たちの意見や立場を声高に発信し続けなければならないのである。


コミュニティーの経済的同質性は、人種的同質性よりもさらに顕著である。一つのコミュニティーの内部では、たいてい同じような家ばかりが建っている。統一された美しい街並みというやつである。だが、その統一性は、行政当局の計画性に由来するものではない。それは、経済的地位の同質性の反映に他ならない。一つのコミュニティーの内部では、すべての世帯がほぼ同じような収入で生活している。だから、同じような家に住み、同じような自動車を持ち、同じような身なりをしているのである。


白人と黒人が同居するコミュニティーはありえても、金持ちと庶民が一つのコミュニティーに同居することは、まずありえない。


アメリカ型の「小さな政府」は夜警国家に近く、国民生活の保証者ではない。だからこそ、医療や福祉や教育といった公益でさえ、市民自らが主張し、自分たちの力で守ってゆかなければならないのである。だが、これは、諸刃の剣だ。その発想を逆から見れば、国家は、個人の貧困に対する責任者ではないことになるからである。アメリカでは、貧困もまた、基本的に個人の責任とされる。それは、国家が責任を取ることではなく、善意ある者たちの慈悲によって救済されるべきものなのである。そこでは、市民同士のヨコの関係が、助ける側と助けられる側に二分される。たしかに多くのNPO団体は公的な資金補助を受けている。それでも、アメリカにおける福祉サービスは、公的に保障された権利としてではなく、善意ある立派な皆様からの施しとして恵んでもらえるものなのである。


アメリカでは社会保障に加入できない人間が大量に存在する一方で、ほとんどすべての大企業および多くの中堅企業では、会社が従業員の社会保障を引き受けている。デトロイトのゼネラル・モーターズ社などは、自動車生産のための企業体であるというより、「自動車を生産することで費用がまかなわれる一種の社会保障システム」だとさえ言われている。ともあれ、ここでも公的なサービスが私的に担われているのである。



アメリカでは、宗教も商売なら、教育も商売だ。そこでは、学生や生徒は顧客であり、大学や学校はお客様のご要望にお応えしたサービスを提供する教育業者だと考えられている。教育は、サービス業だというわけである。


実際、ヨーロッパの伝統的な教育観に照らせば、教育はサービスではない。ヨーロッパにおいて、教育は、基本的に国家の制度である。


軍隊は、兵士が嫌がっても厳しい訓練を課し、敵軍を殺すよう指導する。裁判所は、無罪だとシラを切る被告にでも有罪判決を言い渡す。そして、学校は、生徒が嫌がろうが不満を持とうが、しなければならない教育を義務として強制するのである。学校では、何よりも、万人に共通の普遍的知識が教えられなければならない。教師の仕事もまた、正しいこと、知るべきことを教えることであって、生徒を満足させることではないのである。このような教育観は、ヨーロッパ特有の民主主義思想に基づいている。学校は、知識や文化に触れる機会のない者たちに対しても、上からそれを平等に分け与える任務を担わなければならない。放っておけば社会の上層部に独占されてしまう知識や文化を、国家が責任をもって、すべての国民に開放するというわけである。

考えてもみよう。現実問題として、書物に触れる機会、外国や外国語に触れる機会、美術や音楽に触れる機会は、生まれ育った境遇によって非常に異なっている。所属する家庭によって文化的レベルに差があるのは、否定しようのない事実であろう。自分たちの身の回りを見ても、書物に囲まれた家庭もあれば、文字といえば漫画と競馬新聞だけしかない家庭だってある。図書館や美術館に通う親の子もいれば、ゲームとブランドだけにしか興味のない親の子だっている。それは、否定しようのない現実なのである。そのような状況の中で、生徒や保護者の要望に合わせた教育を行えばどうなるか。間違いなく、不平等を固定化することにしかならない。学問や文化と縁もゆかりもない家庭環境に育った子どもたちは、誰か外部の者が強制的にでも教えてやらない限り、上流階級の仲間入りをするために必要な知識や教養を自ら望むことなどありえないのである。


アメリカにおいて、教育は、私事であり、商売である。たとえば、アメリカで教育マルチメディア王国(Jones Knowledge Group and Knowledge TV)を創設したグレン・ジョーンズ氏は、「教育は、地球上で最大の市場であり、最も成長している市場であると同時に、現在の当事者が需要に応えていない市場でもある」と述べている。要するに、教育は商売なので、新しいメディアを駆使した教育ビジネスによって世界中で儲けようということである。


中村敬氏が紹介する一九九八年のデータによると、アメリカでは、たとえ大学生になっても外国語の履修者がわずか六%にすぎないらしい。大学生でも、その九四%は外国語を学ばないのだ。アメリカの語学教育は、世界最低水準であるとさえ言えよう。


結局、英語を本当に必要としない者が、世間の風情にあおられたり強制されたりして、英会話学校に通い、英語教材を買い集めても、挫折を繰り返す可能性が高いのだ。この挫折は、豊かさの反映でもある。英会話に何度挫折しても、それでも英会話学習費を払い続けられるということは、豊かさの証拠であると同時に、その人にとって英語が不要だという事実の裏返しでもあるのだ。英語ができなければ本当に生きてゆけないというのなら、今日の日本のような状況が生まれることもない。


アメリカでは、人間もまた「品質管理」される「コンテンツ」だというのも凄い感覚だが、そうなることを望むような感覚は、もっと驚きだ。それはさておき、アメリカでは、各種の学位や資格が、就職や昇進の際にかなり物を言うことは事実である。企業の重要な地位には、それに見合った資格や学位を持った人材を登用することが、非常に合理的だとされているのであれる。叩き上げでこの道一筋四〇年などという伝統的な日本型発想は、そこでは通用しないようなのである。


私には、今日ほど、世界中の至るところで、宗教的、民族的、文化的、地域的な対立が先鋭化している時代はないのではないのかとさえ思える。人間の距離は縮まらなかった。世界は一つにならなかった。地球市民など幻想である。これは、私一人だけの考え方ではない。英語以外で表現される情報に少しでも目をやれば、グローバル化など幻想に過ぎないということについて、容易に気づかされる。裏返して考えれば、われわれ日本人は英語ばかりに目を奪われるあまり、逆説的にも、英語世界という非常に限られた世界に閉じこもっているということなのである。


いずれにせよ、経済や情報のグローバル化が世界を一つにするなどというのは、とんでもない幻想だ。世界は、むしろ分裂しつつある。そんな中で、アメリカに追従していれば安泰だという考えもまた、時代錯誤の幻想に過ぎない。そして、英語が世界語になるということもまた、同じような幻想なのである。


ホメイニ師は、「われわれはイスラムを望む、イスラムだけを望む」と言った。この言葉は重い。ホメイニ師を支持したイランの民衆は、自由主義も資本主義も望まなかった。近代人であることも地球市民であることも望まなかった。ただ一つ、イスラムだけを望んだのだ。人々が怒り、告発したのは、単なる経済的格差ではない。人々は、自分たちの価値観、文化、伝統に対する尊厳を傷つけられたことに怒ったのである。


いずれにせよ、今後、インターネットがさらに普及し、ハリウッド映画やアメリカの衛星放送が世界中に広がれば広がるほど、世界各地の人々の間に、知らなければ持つこともなかった文化的敵意を誘発してしまう危険性がますます高まることになるだろう。


日本の社会に、英語やアメリカ型の文化を過度に持ち込むことは、周囲の人間に違和感や嫌悪感を与える危険性ばかりか、せっかく英語を学んだ当人を社会的不適応に陥らせてしまう恐れさえある。英語教育の拡大が、かえってローカルなアイデンティティを刺激するという逆効果には、十分に注意しておく必要があるのだ。古くから根づいた文化による反撃の危険性を過小評価してはならないのである。


贋エリートは、国民から認められた指導者などではなく、“自ら主体的に”自分たちの利益や価値観を追求する特権階級にすぎないというわけである。たしかに、地球市民は、非営利的なボランティア活動に熱心である。だが、利益というものは、金銭的な売上高だけで計れるものではない。非営利活動をすること自体が個人やその所属団体の社会的評価を上げ、発言力を増すこともまた、充分な利益なのである。端的に言えば、地球市民としてグローバルに活躍することが、一種のブランド価値を生み出しているのだ。


流行りものに乗り遅れて人生を棒に振る者はいないが、流行を追いかけるだけで人生を終える人は多い。あえて言えば、英語もそのようなものなのである。

10/19/2007

神田昌典365日語録


--神田昌典365日語録--
http://www.kandamasanori.com/


  

キーワード:
自分の人生に向き合って生きる人を、成功者という。



解説:
世間ではお金持ちであったり、名声があったりする人を成功者と呼ぶ。
しかし、その両方をもっていても、自分の人生を生きていない人は悲しい。
自分の人生に真剣に向き合って生きている、理由がわからなくても、
とにかく生きている、それを成功という。






キーワード:
安定とは、焼け野原でも紙とペンがあれば、翌日から稼げる能力で

ある。

解説:
これからの安定とは、どれだけ変化に対応できて、生き残っていけるかだ。
戦争がおこって日本が焼け野原になっても、紙とペンさえあれば、
翌日には現金を稼げる才覚を持つ人が、一番安定している。
売れるスキルと収入は直結する。売れるスキルを身につけよう。





キーワード:
弱きものは、相手を打ち負かし、強きものは、相手を許す。

解説:
間違いを犯さない人間はいない。
罪を糾弾することは簡単だが、本当に難しいことは罪を許すことである。
相手を打ち負かせば、あとには悲しみが残るだけ。

キーワード:
大義名分を持った会社は、業界地図を塗り替えやすい。


解説:
お客は、単なる利益目的の会社より、大義名分をもっている会社に集まる。
社会貢献を進めるビジネスという方針を打ち出すと、一瞬にして、
お客にとって共感しやすい、魅力的な会社に変わることができる。
そして一度、仕組みを作り上げてしまえば、一気に全国展開できる。



キーワード:
ネーミング戦略とは、名前だけで業界地図を塗り替えること。

解説:
「キズ・ヘコミ110番」と言われると、だれでもその店にいけば、何ができるのか直感的にわかる。
このようにバカでもわかるネーミングというのは、それだけで業界を変えるインパクトがある。
ネーミング戦略を行って、一気に全国展開しよう。

キーワード:
教育が行き届いていない市場に、マーケティング発想を持ち込むと、非常に短期間で成功できる。だから、ダサ
い業界は狙い目。

解説:
ダサい業界の見分け方は簡単だ。
電話帳をみると、全面一頁の広告を出している会社があまりない。
広告をみると、取り扱い商品・サービスと電話番号しか書かれていない。
価格は見積もりベースで、明朗価格やパッケージ価格がない。
こんな状況が見受けられれば、非常に狙い目の業界であることが分かる。


キーワード:
儲からないのは、単純に、あなたがそう決めているからである。

解説:
ダラダラとビジネスをするな。徹底的にやれ!何が何でも儲けろ!
利益がでないなら、でるように事業を変革しろ!
利益がでない商品は取り扱いを止めろ!
利益がでない活動は、でるように変えろ!
やるなら、とことんまでやる。徹底的にやる。
すると、その事業をやめても、絶対、次の展開に役立つ。


キーワード:
ノアの箱舟がそこにあったとしても、
ほとんどの人は洪水がくるまで、行動を起こせない。

解説:
世の中の大多数の人間が、時流の動きに鈍感だ。
だから、時流の動きを予測できる敏感な人は、
簡単に儲かるビジネスができる。
時代を読む目、そして変化に対応していく力をつけよう。



キーワード:
美とは、物語を凝縮して見せることである。

解説:
たとえば感動する絵画。
なぜ感動するかといえば、そこに制作者の物語が見て取れるからである。
商品も同じ。
そこに商品制作者もしくは会社の物語が、一瞬にして感じ取ることができるか?
そのように込められたエネルギーを、人間は美しく感じる。

キーワード:
ノアの箱舟がそこにあったとしても、
ほとんどの人は洪水がくるまで、行動を起こせない。

解説:
世の中の大多数の人間が、時流の動きに鈍感だ。
だから、時流の動きを予測できる敏感な人は、簡単に儲かるビジネスができる。
時代を読む目、そして変化に対応していく力をつけよう。


キーワード:
自分の人生に向き合って生きる人を、成功者という。

解説:
世間ではお金持ちであったり、名声があったりする人を成功者と呼ぶ。
しかし、その両方をもっていても、自分の人生を生きていない人は悲しい。
自分の人生に真剣に向き合って生きている、理由がわからなくても、とにかく生きている、それを成功という。


キーワード:
真実は、常に優しい。

解説:
人間は、一度浮かんだ自分の思考に振り回され、人を傷つけ、自分を傷つける。
たとえば、「あの人は約束を守らない」という思考がいったん浮かぶと、
その表現が一人歩きする。
本当に、「あの人は約束を守らないのか」。いつも、絶対に?
裏にある真実を知れば、あなたも傷つかない。



キーワード:

自分が若いときに販売した商品の価格帯が、その後、仕事を変わったときにも付きまとう。
解説:
低額商品を売っていた人は、高額商品を売ることができない。
逆に高額商品を売っていた人は低額商品を売ることができない。
販売する商品の価格帯が変えられないのは、セルフイメージの問題。
価格帯を変えたければ、セルフイメージを変えなければならない。

10/18/2007

Jポップの心象風景


「Jポップの心象風景by烏賀陽弘道」



「うたや歌い手・演奏者が聴き手に与える情報」とは、必ずしもレコードディスクに記録された音楽の内容だけを指すのではない。歌手やバンドのふるまい、行動、発言、コンサートのあり方、テレビCMで作られるイメージ、彼らを囲む大衆の反応、あるいはメディア上の報道のされ方など、歌手やバンドが主体ではない情報まで、大衆が受け取る情報はすべて含まれる。こうした情報をすべて受け取ったうえで、大衆は認識を形成するからである。

ユーミンについて、

鶴見はさらに、日本の歴史に登場するアメノウズメの後継者たちを何人か同書で分析し、彼女たちに共通する要素を次のように分類している。

(一)美人ではない。しかし、魅力がある。
(二)なりふりかまわない。世間体にとらわれぬ自由な動きをする。
(三)その気分に人びとをさそいこんで一座をたのしくする。
(四)生命力にあふれている。それが他の人たちの活気をさそいだす。
(五)笑わせる。人のおとがいをとき、不安をしずめる。嘘をついてでも、安心させる。
(六)わいせつを恐れない。性についての抑制をこえるはたらきをする。
(七)外部の人が、その一座に入ってきても、平気である。開かれた心を持っている。

鶴見がいう「アメノウズメたち」には、こんな名前が挙がっている。オカメ、オタフク。ストリッパー・一条さゆり。終戦間近から歌説法で天皇制を批判した天照皇大神宮教の教祖・北村サヨ。小説家・瀬戸内晴美(寂聴)。同じく田辺聖子。私は、鶴見が指摘するアメノウズメ像は、ユーミンにもよくあてはまると思う。


前述の林真理子との対談で、ユーミンは「お客様の前でマゾです。サービス業じゃないけど、ステージで、これでもか、というぐらいサービスする」と冗談めかして語っている。ファンであれ一見であれ、客が楽しめないと気が済まないらしい。「コンサートでは、ファンじゃなくても楽しめるものをやろうと思っている。(・・・)私はプロレスも映画も歌舞伎も(含めた――引用者注)、全部の娯楽の中で並べられるようなステージをやりたいと思っている」(同前)


つまりユーミンは、大衆が経験しながら言葉にできない感情を、歌に乗せて言葉にする。すなわち、普通の人間には聞くことのできない「心の発する声」に耳を傾け、それを誰にでも理解できるような「言葉」と「歌」に翻訳し、表現する媒介者が彼女なのだ。

ブルーハーツ(ハイローズ)について、

この『人にやさしく』(八七年)という歌のタイトルがそのまま示すように、甲本の詞には、精神世界の価値を追求する傾向が強い。そんな歌が、物質主義に酔いしれる社会にぽんと出ると、本人の自覚とは無関係に「異議申し立て」「反抗」といった俗語で理解されてしまう。これが、当初ブルーハーツが「パンク」と呼ばれた理由である。ブルーハーツをよく聴くと、七〇年代末に英国に現れた一群のパンクバンドのように攻撃的でも否定的でも、冷笑的でもない。むしろその逆である。

ニューヨークの近郊、「テレビ二台とキャデラック二台」を持つ、物質的に裕福な家庭に育つ少女が、物質的な豊かさとはうらはらの精神的な空虚感、不安を、ラジオからふと流れてきたロックンロールによって一瞬のうちに救われてしまう。このルー・リードの歌う世界に、甲本が語る十二歳のときのロックとの出会いは、文化や国の違いを飛び越えて酷似している。理性を超えた神秘体験という意味では、音楽は文化を超えて宗教的ともいえる「救済体験」をもたらすようだ。


今もロックは「生きることの不安から解放してくれる救済体験」であるがゆえに、甲本はデビュー以来十五年以上、休むことなくバンド活動を続けているのではないか。つまり彼は、今も自分自身の救済を求め続けているのだ。だからその視点は低い。聴き手と同じ救済を求める者の側にいる。甲本ヒロトの姿がどこか布教者に似ている理由は、そんなところにあるのかもしれない。


スピッツについて、

――スポーツや勉強ができるというのは、社会が用意した価値観ですよね。そこで自分は評価されない存在だ、と。
草野 あと「人にあてにされたい願望」っていうか・・・・・・そうですね、今はすごく恵まれているというか、ステージに出て行けばお客さんがわーっと期待して出迎えてくれるような状況があるけど、小学校のころ、「眼中にないっ子」だったころは、川で溺れ死んだところで両親ぐらいしか泣いてくれないのかな、と。


・希望に対する「絶望」
・受容に対する「孤独」
・喜びに対する「痛み」
・自信に対する「不安」
・信頼に対する「不信」
・安定に対する「不安定」


B'zについて、

ゆえに、B'zがエアロスミスやジミ・ヘンドリクスといった「大家」を上手に真似すればするほど、日本人は無意識に認識するはずである。彼らが「権威」である欧米ポピュラー音楽の精神性とその権威の後継者であることを。特に理由もなく感じてしまうはずである。「カッコいいな」「上手だな」と。いずれにせよ、上手なコピーであることは、B'zの権威、あるいは人気を高めこそすれ、減じることはまったくないのだ。

10/17/2007

Jポップとは何か-巨大化する音楽産業-



かなり古い本(3年くらい前??)だが、一応復習兼ねて。

「Jポップとは何か-巨大化する音楽産業-」 鳥賀陽弘道 著



シーケンサー+MIDI+サンプラ-

デジタル化でいちばんのとばっちりを受けたのがスタジオミュージシャンだ。

音楽制作の現場にデジタル技術が入って起きた変化をまとめておく。
①演奏や録音から「手作業」が激減した。
②楽曲をつくり演奏する作業が「集団」から「個人」になった。


その場のミュージシャンの演奏の応酬、やりとりというか化学反応で「とんでもないものができちゃった」というのが少ないんです。


音楽録音が「集団作業」から絵描きや小説家と同じ「個人作業」になりつつあります。
でも第三者の耳が介入しない一人の作業で創ったものは、どうもインターネットで公開されている個人日記のような感じがするんです。
自分で自分のつくった世界に浸って喜んでいるといか・・・・・・。


プレイヤーの独自の楽器の音とかは出てこない。どれも似たような音になる。音楽にとってはマイナスです。
それでも音がきれいなので、スタジオに持ってこられると直しづらいんですよ。

短時間でどんどんつくる、音楽自体が消耗品の時代になった。

音楽は「作品」ではなく「商品」になったんですよ。


これが重なるうちに、日本のメジャーレコード会社は、物議をかもしそうな歌の発売をことごとく自主規制する、神経質なまでのリスク回避体質に陥っていった。
違法行為といった明らかなスキャンダルだけではない。現実の生々しい社会現象を取り上げたり、批判的に歌ったりする、社会性を帯びた作品でさえ敬遠される。


広告は基本的に、最大多数の消費者が商品を購買するよう説得するのが目的であり、そのため 「社会のマジョリティが合意済み、あるいは合意可能」な表現の範囲内でつくられる。


逆に音楽表現は本来、マジョリティの合意を目的としない。
マジョリティが合意していなくても、ふだんは社会に届かないような少数の人々の声を言葉にしたり、マジョリティが気付かないような内容を歌にして世に出したりできる、極めてレンジの広い表現形態である。

しかし、タイアップの成功のせいで、日本のメジャー音楽産業は、この広い表現レンジの大半を自ら放棄してしまった。
その意味で、タイアップの力でヒットチャートの上位に顔を出すような曲は、最初から表現の多様性を放棄し、最大多数が合意可能な範囲でつくられている。


筆者は「音楽が企業の営利活動と手を結ぶことそのものが商業主義で許されない」というような原理主義的な芸術至上主義には、賛同しない。
しかし、ヒットを出すという目的のために広告タイアップの力を借りるなら、音楽は、その表現の自由のかなりのレンジを放棄しなくてはならない。


こうして、通信カラオケの登場以降、消費者が歌手やバンドを見る視点に変化が生じた。
CDを買う動機にも、その音楽や歌手が、購買者のセルフ・アイデンテティーを定義しうるかどうか、つまり購買者にとって「自分にふさわしい音楽や歌手かどうか」が重要な要素になったのである。


そこでは購買動機として「その曲が好きかどうか」以外に、歌い手やバンドのファッション、容姿、マスメディア上での振る舞いや発言、果てはCDジャケットや広告のデザインなど、音楽以外の要素が重みを増す。


自己愛型消費で重要なのは「うた」そのものではなく「そのうたを購入すると、どんな自分になるのか」だからである。


消費者がポピュラー音楽を楽しみたいと思ったとき、日本はその選択の多様性が乏しい環境にある。

まず、価格の多様性がない。日本盤CDの価格は「再販売価格維持契約」(再販制)によって、全国一律にレコード会社が定めた価格が守られているためだ。
日本のレコード産業は、価格競争という他産業ならごく当たり前の競争を公的な「規制」によって免除された特殊な業態だといえる。


特にアメリカと比べると、日本は音楽を公共財として扱う傾向が非常に少ない。

わかりやすい例でいえば、アメリカに比べFM局の数が非常に少ない。
FMラジオとは、CDとちがってお金がなくても音楽にアクセスできる手段である。
したがってニューヨークでは、貧しくても音楽に接する機会が保たれている。

一方、東京圏で聴取可能なFM局はせいぜい十局だ。
しかもその局も内容にそれほど大差はない。トークが多くて音楽が少ない。
音楽はヒットチャートものが多い。

コンテンツの多様性では、ニューヨークには遠く及ばない状態が長く続いている。
こうした環境では、商品として音楽を買うことだけが音楽へのアクセス手段になってしまう。
言い換えれば、お金がなければ、音楽にアクセスする機会が極端に少なくなる(有線放送やCS放送はFMに比べてコストがはるかに高い)。

貧乏か金持ちか、所得によって音楽へのアクセスに差が出る。


日本のレコード価格は再販制度によって固定されている。
おかげでインフレーションの間ずっと、インフレ率分の「実質値下げ」を享受できた。
ところが、消費者物価指数が下がり始め、貨幣価値がデフレーションに突入した九七年ごろを境に、CDの価格は「実質値上げ」に突入した。

レコード産業は「インターネットからのダウンロード」「CDをパソコンで焼けるCD-Rライターが普及してコピーが増加したこと」「携帯電話にお小遣いを奪われた」などと様々な「CDの売れ行きを減らした犯人」を挙げている。
もちろん、どれも多次元方程式の変数のひとつではあるだろう。


CDの売り上げは急減しているが、日本人の音楽への需要は衰えるどころか、むしろ増えている。

「レコード不況」ではあるが「音楽不況」ではないのだ。
着メロやDVDという新しい音楽メディアが登場し、CDが食われているというだけなのだ。
つまり、音楽を消費者へ運ぶメディアの一部が、CDから着メロやDVDという新興メディアへと移行し始めているのである。


モンゴル800がメジャーの力に頼らずに成功できた環境のひとつには、メールやウェブサイトというインターネット・マスコミュニケーションの存在が間違いなくある。
かつて、テレビ・ラジオや雑誌・新聞など、旧型マスメディアにプロモーション媒体としてアクセスするには、専従の宣伝スタッフや予算を持つメジャーレコード会社が独占的に有利だった。

が、インターネットという安価かつ簡便な自己発信型マスメディアが登場したおかげで、インディーズとメジャーの間にマスメディアへのアクセス力に差がなくなってしまった。


インディーズの成功が示したのは、かつてメジャーレコード会社が独占していた財産「コンテンツ(楽曲・歌手)の開発能力」「マスメディアへのアクセス力」「レコード録音施設」「販売・卸しの流通網」「資金力」「組織力」がいずれもメジャーの独占物ではなくなりつつある、という事実である。

つまり、かつては「メジャー会社からデビューするのがプロデビュー」だったのが「プロデビューするのにメジャーレコード会社である必要はどこにもない」という時代が来てしまったのだ。



CDが売れなくなったことについて、「外部の敵」を非難することには熱心だが「自分たちが送り出す楽曲は、今のままでいいのか」という真剣な議論や検討の声が聞こえてこないのだ。

そういう反省がないまま「外部の敵潰し」ばかりを続ければ、リスナーの反感を買うだけの結果に終わりかねない。

そろそろ「タイアップなどなくとも、人々の心に響くうたをつくろう」というごく単純明快な「製品内競争」が始まってもいいころではないだろうか。

10/16/2007

藤原新也・しかれない時代


藤原新也・しかれない時代・日経夕9/26/07

他人をしかるには、自分に厳しい必要がある。でも今の日本では、大人が自分を律することができない。

日本は基本的に企業社会だが、企業は相互監視の中で生きているから、自分自身を律する必要がない。

それを何十年も続けると、自分を律する方法が分からなくなるだろう。



日本人は戦争後遺症という、重い病を抱えている。

その後遺症が平和主義と暴力否定を生んだ。これは正しい。絶対善。逆に言うと僕らは戦後の絶対善に縛られてきた。

もちろん、僕も戦争も暴力も嫌いだ。

だが、その暴力否定が生活の細部にまで行き渡り、人を諭すために平手でたたくことも暴力と言われ、子供同士のけんかも否定されてしまう。

こんな過保護な国も日本以外にない。

阿久悠語録1998


小室くんがヒットしたのは彼らダンス系の人々に力があって、その間、言葉で闘う側が無力だったと考えるべきです。

文句を言う前に、サウンドを中断してもいいほど引かれる言葉を提示しなくてはいけなかった。。

10/15/2007

色川武大/阿佐田哲也


色川武大の一連のエッセイを読みまくっている。そこで、ふと昔読んだ佐藤愛子のエッセイで彼女が色川さんを理想のタイプと書いていて、鮮明に覚えているので以下に記す。

色川さんはそういう点で私の理想のタイプだった。ザンバラ髪の、「首実検の首」といった風貌だったが、いつも穏やかな、実に大きな人だった。
女にもてることとか、損得とか、えらくなりたいとか、人に好かれたいとか、カッコよく見られたいとか、およそ卑しい野心というものがなかった。ということは時流に妥協することも流されることもなかったということである。それゆえに色川さんは自由だった。

自由をしっかりと身体の奥に止めている男の魅力が色川さんにはあった。
頭のいい男、おしゃれの上手な男、物腰のスマートな男、優しい気配りの男・・・・・・・そういう男たちは増えている。


無芸大食大睡眠 阿佐田哲也


なにしろ私自身五十の坂を越すと、遊び仲間が櫛の歯のように欠けていく。
友人は、欠けたからといって、総入れ歯のように補塡するわけにはいかない。


テレビに向かない芸がある。ご家庭向きでない芸もある。凄い芸の持主だったり、ユニークな才があっても、ブラウン管にはまらない孤高の芸がある。演芸界ばかりに限らないが、こういう人たちはどうしてもマイナーな職場しかなくて、だんだんクサってしまう例が多い。


ヌード劇場ではハマるけれども、大劇場やテレビには生かしにくい。玄人の間ではよく知られ、一目おく存在だったが、一般的にはマイナーのヴォードビリアンという域に止まった。
とにかく彼の創ったギャグを、彼が演ずるとマイナー芸になり、他のタレントが演じた方がずっと受ける、と皮肉なことになったのである。だから、ずいぶんいろいろなコメディアンが、彼のギャグを貰って演じている。泉和助としては、それらのギャグが受ければ受けるほど、心が晴れなかっただろう。


林家三平が、邪道から出て邪道を持ちこたえるのに、いかにも苦しげだった。彼はふんばりとおして壮烈な一生を終えたが、のん気そうに見えるのはうわべだけなのである。
枝雀がそうなるかどうかわからない。


中学の生存競争に、敗戦意識や挫折感を持った者たちなのであろうが、そういうひとつの黒星が、人生を決するものと限らないことを彼等に教えてやりたい。人生にはたくさんの試合があって、勝星や負星が無限に続く。ギャンブルで、小さな勝ちや負けを経験しながら、一方で通産打率をよくしていく気力を持ち、一方ではまた負けの味をかみしめていくうちに、自分以外の者の勝ち負けについても配慮が沸いてくる。すくなくとも私はギャンブルからそういうものを教わった。

10/14/2007

桜井章一/運に選ばれる人選ばれない人



桜井章一/運に選ばれる人選ばれない人



 



違和感が多いといい運はやってきません。出来るだけ違和感のあるものから外れて気分がよくなるほうへ行ったほうがいいのです。



どんな勝負事も、ここ一番の勝負どころというのは、「変わり目」のことを指しています。「変わり目」は必ずやってきます。つまり運がいい時も悪い時も、「変わり目」をとらえられるかどうかで流れが変わってくるのです。



いいものを見つけて自分のものにし、悪いものは見つけたら捨てるのが、「見つける」ということです。「見つける力」はさらに「片付ける力」がプラスされることで、より確かなものになります。



感じ方には、それが心地よいものか違和感があるかということがひとつの基準になります。違和感があればそこから離れることですが、知識に頼るクセがあると違和感がわからなかったりします。考えないで感じることが非常に大切なのです。



流れが悪ければ、流れを変えるきっかけをまずつかむ。



「間の中」に入れば、運のリズムが良くなります。

「間に合う」から外れると、間が抜けて、「間抜け」になります。「間抜け」な状態は運を落とします。間に合っていれば運がいいのです。間に合うには、いつも我が身を「間の中」に入れておくようにすることです。



妬みの感情を抱かないようにするには、自分の中にある不安を打ち消す努力をすればいいのです。他人に勝とうと思うのではなく、自分に勝って自分が強くなる努力をすることです。



私は不愉快な気分にさせれば、自分の負けだと思ってます。人と接する時はいつも人を愉快な気分にさせることや気分よくさせることを忘れないようにしてます。

運をもらいたかったら、気持ちの良い人と付き合うようにすることですが、それだけを思っていると他力本願になってしまいます。さらに自分自身が気持ちの良い人になるように心掛けることが大事なのです。



これから先、混迷と混乱の時代が長く続くでしょうが、そういう時に頼りになるのは情報でもなく知識でもなく的確に感じる力なのです。

迷わないためには、感じる力を磨き、自分なりのブレない座標軸をしっかりと持つことなのです。



本当の一体感とはいいことだけでなく、いざとなればダメなことも一緒に味わうという共生感が根っこになければ生まれません。



ただの他力本願では、運がやってくる道理はないのです。



根と葉を無視して花ばかり求めると肝心なものが見えなくなります。花を追求するとお金が儲かったり、多少の成功は得られるかもしれません。しかし、ふと自分の心を見つめると何もないことに気がついて空虚な気持ちになるはずです。

「勝負強い人間」になる52か条


「勝負強い人間」になる52か条・桜井章一

流れに乗るために大切なことは、頭を使って情報を集めて流れを読もうとする前に、まず素直であらねばならないのだ。

修羅場というのは、「自分の可能性を超えた領域」とでも言えばいいだろう。つまり、修羅場とは、そこに臨む覚悟とか度胸といったものを新たに身に付けられる場所でもあるわけだ。
自分の可能性とか限界を決めているのは、結局のところ、自分の脳だ。だから、人間はふだん自分の頭で考えて「ここが俺の限界だ」と思ったところで止まってしまう。

勝負は常に変化するもの。
それを意識していれば、流れにも敏感になり、やがては流れを見極め、流れを読めるようになる。

人間は前に進むことも大事だが、ちゃんと帰る場所があるということも必要だ。迷ったとき、疲れたとき、一休みしたいとき、立ち戻れる場所がなければ、さまよい人になってしまう。
人間の「心」とは、どこかにあるものではなく、「戻る」ということなのだと、私は思う。自然に戻る。ふるさとに帰る。基本に戻る。素直な気持ちに戻る。そういうことが「心」なのだ。

勝負師は調子が悪くなるということを前提に勝負しなければいけないのだ。「不調こそわが実力なり」。

プレッシャーに強くなるためには「80%」の気持ちを忘れないことが大切だ。つまり、「20%のゆとり」を持つことである。
20%のゆとりが無くて「100%、がんばるぞ」と肩に力が入ると、緊張感が高くなり過ぎてしまう。また、「俺は100%だ」と思っていると相手や物事をナメる感覚が出てしまう。

一度きりの勝負であれば、強い相手と勝負しても勝機はない。
けれども、強い相手とやって負けることほど、勉強になることは他にない。自分は何が足りないから弱いのか、強い相手と戦うことによって、はっきり見えてくるからだ。
それを自覚して鍛錬すれば、今度勝負のチャンスがきたら、少しはいい勝負ができるようになるだろうし、それを繰り返していけば、いつかは勝てるようになるかもしれない。

決断力をつけるためには日ごろの心構えが大切だ。
それは、人間としてごく基本的なことばかりが。
・正直になる
・素直な心を持つ
・勇気を持つ
・物事に正しく真直ぐに向き合う
こういう人間として当たり前のことをしていれば、人間の心が育つ。物事を見る目が育つ。その結果として、決断力がついてくる。

一体感について、ここまでは「相手との一体感」「自然との一体感」「という話をしたが、もうひとつ「自分の中の一体感」ということも重要だ。つまり、頭と体の一体感、心と行動の一体感ということである。
「俺はこういう人間になりたい」とか「私はこれを成し遂げたい」と思ったとき、それを実現するためにもっとも大切なことのひとつは、思ったことはできる限りすぐ実行することだ。
心で思ったことは、すぐに実行する。自分の気持ちにまっすぐ向き合い、素直に行動する。その繰り返しをしていれば、大事なときにも思ったとおりのことを実現できるようになる。

人に対してなにかをしてあげるのが愛ではない。愛とは、「自分の悪を消す心」なのである。
つまり、「悪いことをしてはいけない」のではなく、「悪い感情を消す力を持つ」ことによって、悪いことをしない人間になる。
それが愛であり、本当の強さにつながるのだ。

いくら才能がある人でも、いつもいつも右肩上がりで順調に成功を続けるのは不可能だ。どんなに才能があっても、当然、壁にぶち当たったり、方向性を間違えてしまったりすることがある。そういうときに修正力を持っていれば、次の段階に進むこともできるし、成長することもできる。
つまり、才能を磨くということは、言い換えれば、修正力を身につけるということなのだ。

自立というのは、「準備・実行・後始末」がきちんとできていて、悪いことに抵抗を感じることだ。そうすれば、自分には余裕があるから、余裕がなくて困っている人のことに目がいくはずだ。

男には根性が必要だ。根性のないヤツは強くなれないし、優しい人間にもなれない。
根性というのは、字のとおり「根っこ」である。木や草は、この根があるから生きられる。根がなければ、水も栄養も補給することができない。
根が植物の命の根源であるのと同じように、人間にとって、男にとって、根性というのは生きる根幹なのである。

運がいい人、ツキのある人というのは、いつもニコニコしている。
運が悪い人、ツキがない人というのは、いつもムスッとしている。
人は明るく楽しく生きようとしていれば運も向いてくるし、明るく楽しい人生にできる。

強い人間というのは、必ず「恥の心」を持っている。かつて、それは日本人の美徳だった。
しかし、今の日本人は「恥」や「心」を忘れて、利口に金さえ稼げれば人生の勝者になれるという錯覚を抱いてしまっているようである。
「便利」と「利用」は本来的な人間の「愛」や「心」からもっとも遠いものだ。