2/02/2008

最近の自分の考えていることは、










最近の自分の考えていることは、

自分の人生は自分で決めて、自分の生きたいように生きる。



良くも悪くも他人を頼らず、自分の事しか考えないから、組織はつぶれても個人はつぶれない。



一言で言えば自立している。



ちょっと異常な人たちに興味ある。



変だったり、不合理に見えるものには全部、何かを気づかせてくれる可能性がある。


芸術と採算の両方を理解する優秀なプロデューサー。



独自性にこだわり大衆性も忘れない。


お金の量が幸せの量ではない。



体制に順応的な人が増えていて社会的健康の面から見ると誠に心配。


自己陶酔頬かぶり。



育ちのいい野蛮人。



自由度の広さ。

2/01/2008

愚直に実行せよ! 中谷巌










愚直に実行せよ! 人と組織を動かすリーダー論 中谷巌


リーダーの資質1:「志」がある
 リーダーに求められる第一の資質は、「志」があるということである。大きな「志」がなく、私利私欲だけで動く人間はすぐ見透かされてしまい、そうなったらもう人はついてこなくなる。

リーダーの資質2:ビジョンと説明能力がある
 優れたリーダーになるための第二の条件は、「志」を具体的な行動に移すためのビジョンであり、そのビジョンの意味を人々に明確に示す能力である。

リーダーの資質3:愚直な実行力がある
 リーダーは必ずカリスマ的でなければならないか。決してそんなことはない。カリスマ性はないが、現場に良く足を運び、自分の成し遂げようとしていることが現場レベルでしっかりと実行に移されているかどうか、とことんこだわる人。派手さはないが目標にこだわり、あくまで愚直にそれを実行に移す人。こういうリーダーこそ、実はリーダーとして尊敬され、人々の信望を集めているというケースは決して少なくない。

リーダーの資質4:「身をもって示す」姿勢がある
 リーダーになるための第四の条件は、コミットメント(決意)である。


利口な日本人は、あまり目立つような場所に長い間自分を位置づけることを回避する。日本では、
リーダーになるより、リーダーを支える参謀役のほうが安全なのである。そして、リーダーになった場合には、なるべく周囲の意見を良く聞き、御輿の上に乗っかって、良きに計らえと言っている方が長続きするのである。


「惜しまれて去る」。―――どれだけ意図的であったかどうかはともかく、まさに日本的美学にぴったりの行動パターンであった。


日本の強み――それは「現場の当事者意識」である。現場に当事者意識を持たせ、
現場の力をうまく結集できれば、信じられないくらいの力が出るのが日本人だ。これは、階級社会が確立している欧米や東南アジア諸国とは決定的に異なる点である。このことを明確に理解でき、それにふさわしい行動をとれるということが、成功する「日本型リーダー」の条件であると思う。


エリートとは「いかに社会のために自分が役に立てるかを常に考え、行動している人」と定義できる。


岡崎久彦氏によれば、明治のリーダー、たとえば、幕末から維新にかけて日本の近代化に大きな貢献をした勝海舟、西郷隆盛、福沢諭吉、陸奥宗光などの「知の巨人」は、エリートとしての自覚、責任感が強烈だったが故に、節目節目に筆舌に尽くしがたいほどの猛烈な知的「修行」を行なったという。
彼らには一生のうち何度か、二、三年あるいはもっと長い期間にわたって死にものぐるいの勉強をしている。この死にものぐるいの勉強(それは「勉強」という言葉をはるかに超えた「修行」であった)を通じて、リーダーとしての見識や志を身につけていったのである。
岩倉具視使節団がメンバーの立ち居振る舞いが素晴らしいと各地で絶賛されたのも、このようなあくなき修練の賜物であったと言えるだろう。


「悪いことをしても露見しないならやっても良い」とか、「隙あらば人を欺いてもうまい汁を吸おう」という考え方は、もとより伝統的日本人の美意識からすれば許容できないところである。


留学や海外駐在など、海外での生活をした人なら誰でも経験していることであるが、自国の文化や歴史をろくに知らない人間、自分の国を愛することのない人間はおよそ相手にされない。もちろん、自国の歴史や文化を深く知る能力と同時に、外国のことも勉強することが望ましい。


「真の心理」とは、誰のチェックも受けることなく、自己の利己的、打算的な欲望を抑えて「正しいこと」(その正確な定義は存在しないが)を実践する力である。「社会」も「神」も自分の行動を規定する倫理規範を与えてくれないとき、あなたの「倫理」はどうなるのか。傍若無人に悪の限りを尽くしてしまうのか。それとも、何らかの倫理観があなたの悪事を止めてくれるのか。


リーダーの「直感」を誰にもわかる形に変換する(「概念化」する)必要がある。「概念化」が適切に行われないと、リーダーの「直感」は部下に伝わらない。リーダーがいかに優れた「直感力」の持ち主であっても、「直感」の中身、その意図するところが十分明確に部下に伝わらなければ、リーダーの「直感力」が大きな組織力に転化されることはないであろう。


リーダーに求められる資質として、大きな「志」を持っていること、それを具現化するビジョンがあること、ビジョンを明確に説明する(直感力を概念化する)能力があること、リーダーが明確なコミットメントをしていること、人々に尊敬される「教養」を磨いていること、「大局観」をしっかりと持っていることなどを指摘してきた。


しかし、いくら「志」があり、「説明能力」があっても、組織を動かすのはあくまで現場である。つまり、組織の「実行力」であろう。自らの志を組織の末端にまで行き渡らせ、それを着々と実行する力、これこそ組織を成功に導く前提条件なのである。どんなに良いことを考えついたとしても、どんなに「志」があっても、「実行力」の伴わないリーダー成功しないのである。


どんなに高い「志」を持ち、ビジョンや戦略に長けていても、組織を動かし、人を動かす上でおそらく最も重要なのは、「愚直な実行力」である。リーダーが正しいと思うことを執念を燃やしてとことん実行するまで見届けるという姿勢である。これが現場の「当事者意識」に火をつけ、これまでの惰性を止め、変革を呼び起こすのである。


リーダーシップを発揮するのは、必ずしも高邁な「大きな志」を持ち、ビジョンや説明能力に長けた「人徳」豊かな教養人である必要はない。むしろ、大衆心理を巧みに操り、彼らのやり場のない不満や不安感を巧みに操縦することに長けた天才こそ、リーダーにのし上がる最重要な能力だったのであろう。


フロイトは、人間とはそもそも自分が心酔し、心の底から服従できるような存在を探し求めており、状況次第では、権力によって支配され、「虐待される」ことすら望んでいる、と述べている。


過去にこだわるだけでなく、将来、自分はどういう人生を歩みたいのかを考えよ(ニーチェ)


自分が最も大切にしている目標を達成するためには、過度の理想主義に陥ってはならない。状況を見極め、便宜主義や抜け目なさも駆使せよ(マキャベリ)


改革リーダーに「演技」の臭いがつきまとうようだと、それはすぐに見抜かれてしまう。かけ声は勇ましいが、現場に足を運ばないリーダーや必ず実行に移すというあくなき執念が欠落しているリーダーは、すぐに見透かされてしまう。そうなると、まず改革は成功しないし、逆に、リーダーが本気である場合には、協力者が増え、改革成功の確率が高まる。


リーダーは自分でリーダーになろうと思ってそうなるのではなく、身をもって示しているうちにいつの間にか他人によってリーダーにさせられてしまう、そういう存在である。そういう状況が生まれてくると、それがさらにリーダーにエネルギーを与え、身をもって示す行動に拍車がかかり、ますます支持者が増えていく。リーダーと支持者がだんだんと一体化し、互いにより大きな行動へと輪が広がっていく。
リーダーが変革を起こす者であるとすれば、こういうリーダーと支持者の一体化こそ、変革を成功させる最終的な条件になるのであろう。


もう一つ、重要だと思われるのは、日本文明というものにしっかりした理解を持つということだ。
日本がこれだけの成功を収めた本当の理由は何なのか。世界の人々がこのことに対する納得のいく説明を求めているのに、日本人はなかなかこれができない。自分の依って立つ国の歴史や文明に無関心な人が多すぎる。これでは、日本人は「根無し草」になってしまう。
自分を説明できない人、自分の国の歴史や文化を外国人にきっちりと話せない人はまず国際的なリーダーになれない。
これも、戦後日本の教育の盲点になっている。ここの部分も意識的に勉強する必要がある。

1/31/2008

日経8/17/2006








日経8/17/2006
本を読み考える。

ヒトの根源の活動の前に先ず検索。

「ネットには答えがあるし早いもん」手軽さが好奇心を鈍らせ、近道への欲求が募る。

検索上手でもさまざまな刺激や体験から培う”知的体力”は零点になりかねない。
「その場の空気が分からなければ、利用者をひきつけられない」ネットビジネスの最先端にいるからこそ、妄信する危険性を肌で感じる。

自分の目や耳で確かめ、必要なサービスを考え抜く。

「本当に必要なものは手に入らない」
ネットはヒトの感性や知覚に影を落とし、時に脅威ともなる。

その欠陥をどう克服し、過去と違う進化の階段を上るか。

今日の備忘録


















今日の備忘録

①『脱出』 ジョン・ブアマン監督。ジョン・ボイト、バート・レイノルズ主演。
②『大いなる勇者』 シドニー・ポラック監督。ロバート・レッドフォード主演。
③『愛と野望のナイル』 ボブ・ラフェルソン監督。パトリック・バーギン、イェーン・グレイン主演。


『男の行動学』
『動物と暮らす』
斎藤令介 著(集英社文庫)

『父と息子の教科書』



ヘミングウェイは「善とは何か、それは後味のよいことである。悪とはなにか、それは後味の悪いことである」
スタンダールは「素直さや善良さ、これこそすべての人が身につけるべき最高の道徳です」


自然には厳しい面とやさしい面とがある。人がその厳しい面にふれるとき、自然は人を逞しく育ててくれる。人がその優しく美しい面にふれるとき、自然は豊かな感性や情操を育んでくれる。美しい自然の中で何も考えずにに佇むだけで、少なくともその間は、詩人の心を取り戻すことができる。


考え方が変われば行動が変わる
行動が変われば態度が変わる
態度が変われば習慣が変わる
習慣が変われば人格が変わる
人格が変われば運命さえ変わる


日本自然保護協会
http://www.nacsj.or.jp/


理想的な両親や環境の中で育った子供が大人になると、くだらない人間になっている例をよく見る。


規則や規律を強調する人間は、自分の良識のなさ、自制力のないことを告白しているのである。
自分を縛る規律がないとやっていけない、というのはとても幼稚な精神だ。


自分は何も考えたり判断しなくても他の人がやってくれ、しかも数人のグループで行くからどんな激流も恐くない。


この国の人間は誰かに支配されたり、命令されたくてうずうずしているということだ。



一 問題に対する知的好奇心がひじょうに高い(芸術分野では、問題に対する感性がひじょうに豊かである)。
二 新しい考え方や方法を取り込む進取の精神が高い。
三 伝統、権威、社会的常識、体面などにとらわれることが少ない。
四 未踏の分野にチャレンジする知的冒険心を強く持っている。
五 失敗して危機的状況に陥っても、それに耐えられる性格的強さがある。
六 長期間にわたって知的集中を持続できる。
七 実験的精神がひじょうに旺盛である。
八 人間関係や組織に対しては冷めた態度であり、心底から同調しない。

1/30/2008

自己嫌悪ってなんだ?















自己嫌悪ってなんだ?


人間は二つに分かれる。

こういう言い方はじじい臭いな。

「やってみます。」という人間と、「むりですよ。」という人間と、である。

どうやったらできるかを考える人間と、すぐにできない理由ばかりを考える人間と、である。

そして、できる人間は自分でできるようになるのであり、できない人間は外からなにを言われてもできない。自分で決めて、自分で成長するしかない。



口先だけで偉ぶりたがるがまったく口ほどにもないサラリーマンは、ただ楽をしたいだけ、マイペースを崩したくないだけである。

職人のように技量が見えないから、ごまかしだきく。他人のせいにできる。

どちらがプロであるかは一目瞭然である。「そこなでやることはない」ではない。「そこまでやる」のがプロの仕事なのだ。





伊丹はこのようにも書いていた。

「私の経験では勉強のできない奴は概してずるい奴だった」(『女たちよ!』新潮文庫)。

「勉強」といってしまうとちょっとニュアンスがちがってくるが、頭が悪いということは、自分(の行動や思考)を客観視することができないということだ。





自分は認められていないと心で感じる者は、他人につらくあたる。このバアサンのようにである。だが自分を認めすぎている者もまた他人につらくあたる。





強さとは心の強さだ。

強いとは、心が強いことである。

復元する心であり、破れてもつくろうことのできる心だ。

さまざまな感情をしることによって、心は深くなりうる。

さまざまな経験をすることによって、心は広くなりうる。

ひとつの物事をつきつめることによって、心は粘り強くなることができる。





人と人の関係とは、心と心の関係のことである。

人間は心で生きている。

しかし、関係が無ければ心もない。

心は生じない。

関係が無ければ心は動かない。

人から認められたいと思うのは、心である。

認めてくれないといって神経がささくれ立つのは、心である。勝ったと思うのは心であり、負けたと思うのは心である。

試合に負けたのに、負けてないと強弁するのではない。

人生は試合ではない。

苦しみや重さを知るのは、心があるからである。

生きるとは、心が生きていくことである。

1/29/2008

竹熊健太郎











竹熊健太郎


俺がIKKIで連載した、韮沢早という架空のマンガ家を追ったフェイク・ドキュメンタリーからの引用ですが、ここでのさいとう氏の談話は本人に取材した本物です(前にも要約紹介しましたがこれが正確な引用)。

竹熊「才能があっても消えてしまった人って、すごく多いでしょう」
さいとう「多いです。よく言うんですけれど、この仕事に必要な条件で、才能なんてのは全体を十としたら二ぐらいのもの。三が努力、五は運ですね。絵が描けるというのは、野球選手がボール投げられますというのと同じことであって、出発点にすぎない。あとは努力と運だということを、よく言うんです」
竹熊「その場合の努力とは何でしょうか」
さいとう「どうやれば自分を一番生かせるかを見きわめることです。それには、自分の能力を冷静に見なければ。ところがこの世界に入って私が一番驚いたことは、みんな自分を天才だと思っていることでした。でもね、たとえ才能があったとしても、それだけではダメなんですよ」
(「追跡者~幻のマンガ家・韮沢早を追え!」月刊IKKI/2001年5月号/小学館 より)



だから、最初に才能があって、次に努力と運がなければならない
。運なんて、それこそどうすればいいんだと思うでしょうが「運も才能のうち」ですからね。この言葉の意味は「運」が向こうからやってきても、その人に才能と努力がなければ、運はそのまま去っていくということですよ。運をつかむためにも、持って生まれた才能と、日頃の努力が肝心だということです。

鈴木カツ音楽対談














鈴木カツ音楽対談

鈴木惣一朗
パッケージがなくなったら、演奏と歌っていうのがすごく大事になるんじゃないかな。



ジャック・ジョンソンを聴いて「フラット・ミュージック」っていうの。つまり舞台の高さにない音楽、目の前で演ってくれる音楽っていうのがこれから支持させるんじゃないかな。歌うってことに対して抵抗感がない、すごくカジュアルな行為なんですよ。Jポップが行き詰まったのは、力が入りすぎたんじゃないかなと思う。
いい音楽っていうにはジャンルの隙間にあるよね。エアポケットっていうかさ。
最近思うのは、Jポップを聴いてJポップを作るっていうミュージシャンが多い。アコギの弾き方といかを見ててもわかる。ニール・ヤング見ろよって言いたい。ギターってもっとグラインドさせて弾くもので、タッチでセンスが変わる、すごく表情豊かな楽器なんですよ。それを、サウンドホールに対して平行に弾いてる人は、絶対Jポップしか聴いてないんですね。
今のジャズには、かってのロックのようなサブカルの勢いがありますね。ノラ・ジョーンズもブルーノートなのに内容はカントリーでしょ?要するにジャズというフォーマットを使いながら、実はなにをやってもいいわけ。でもロックではもうやりつくされてしまった。僕もプロダクトを始めるときに、最近はジャズを基盤にしてフォークとかカントリーをぶつけていく。オルタナっぽくロックをやろうとか、今いちばんダメ。ルーツ・ミュージックとしてのモダン・フォークとかブルースの方が、今は過激だと思う。

沢野ひとし
クラプトンは思想のある音楽家だから、若い子にも伝わるんだよ。その辺のギター小僧には真似できないよ。思想のないやつは絶対ダメ。

山内雄喜
巧いとかヘタじゃなくてさ、やるってことが大事なんだよ。音楽を聴いてもらうんじゃなくて、音楽のあるところに入っていって、一緒に楽しむってほうが最近いいなぁって思うの。聴き手も弾き手も一緒でね。ガチンコで聴くんじゃなくて。
僕は、沖縄もハワイとの共通点ってのがある気がする。メロディのことじゃなくて、なんかフラットな気分なんだよね。演奏するほうも聴き手も、みんなが音楽を共有している感じ。

1/28/2008

ROCK AND ROLL HEART 鳥井賀句














ROCK AND ROLL HEART 鳥井賀句


お前は小さなアングラ劇団で芝居をやりながら、隣街のジャズ喫茶でバイトしたり、美術大学で絵のヌード・モデルをやっていた。
お前の好きなものはパティ・スミスにランボー、エッシャーの版画、アントニオーニの映画に寺山修司の演劇だった。
相変わらず俺の暮らしは貧しかったけど、俺たちは互いの仕事の休みの日を見つけては、映画やロック・コンサートに出かけて行った。


シンプルなコード進行、ティーン・エイジ特有のフラストレーションや性への欲望を赤裸々に歌いあげた詞、イギーの狂おしいヴォーカルは、まさにこれぞ“元祖パンク”と呼べるものである。


イギーとストゥージズに関しては、他の追随を許さない暴力的なステージ・アクト・・・熱くなったワックスを体に塗りたくる、割れたガラスの破片でわが身を切り裂く、折れたドラム・スティックで自分を打つ等々が語り草になっている。
今回、イギーにその辺のことを尋ねてみると、「当時は、俺たちの音楽なんか別に好きでもない奴らに対して“注目を集めるためなら何だってやってやる!!”っていう理論を持っていたんだ。
“できないことなんてないんだ。人を殺さなきゃいけないなら殺してやる!”ってね。
それと同時に、俺はアーティストとして、パフォーマーとして、自分が観客である場合に欲求しうるものすべてを観客に与えようという理論を持っていたんだ。
俺にとってのロックとは、テレビよりも真実の自分自身を世界にアピールする方法なんだと思う。
俺が見た多くのコンサートに欠如していた深くてへヴィなものを提示したかったんだ。


『Michigan Brand Nuggets』


69年にデトロイトをベースに創刊されたロック・マガジン『クリーム』も、ストゥージズやMC5を大いにバックアップした。
後にパティ・スミス・グループのギタリストとなるレニー・ケイも寄稿者の一人で、彼は“デトロイト~アン・アーバーにはロックン・ロール・カルチャーとも呼ぶべき強い共同体が存在する。この地のロックンロールは中産階級的道徳や抑制をぶち破り、ストリートの上でドラッグやあらゆるタブーをワイルドに展開している”と書いている。


こうして60年代末、西海岸を中心としたヒッピーたちのフラワー・ムーヴメントがアメリカ全土を支配していた中で、デトロイトのストゥージズやMC5は、決して“愛と平和”などに惑わされることなく、常にロック本来のエナジーと怒りを、エモーションに求め続けたのである。



何よりもイギー・ポップ自身がロックン・ロールという音楽と行為と思想を、自らの存在のすべてを賭けて求め続けてきたからに他ならない。どうでもいいようなくだらないロックのレコードを1000枚集めて聴くよりも、イギー・ポップのアルバムを10枚だけ100回ずつ聴いたほうが、きっとずっと深くロックという音楽を認識できるだろう。


「俺は失敗し続けていたいとは思わない。俺は過去に多くの失敗を犯してきた。だから俺は成功したいと思っている。俺は本当に心底素晴らしいアーティストになりたいんだ。俺は自分がグレイトであるとは思っていない。だから俺には俺の望む者になるまでやり続けねばならない多くの仕事がある。それが、俺が決してギブ・アップしない理由なんだ」(イギー・ポップ、1986年)


もっといまわしく、もっとワイセツに、もっと毒々しく、もっとよこしまに・・・・・・


当時のシーンにあってヴェルヴェットの革新性そして孤高性とは、ひとつにはリアリズムに徹し、あくまでも都市の狂気と喧騒の中に身を置きながら、人間存在の真実と苦悩を見つめていこうとするその姿勢にあった。


西海岸の連中が“髪に花を飾ってピース、ピース”と能天気なエコロジストを気取り、カントリー~田園思考に走っていったのに対し、ヴェルヴェットはあくまでも都市ニューヨークにとどまり、多くの人々がタブー視していた麻薬による歓喜と苦悩、サドマゾ、同性愛、死・・・等の人生の暗黒部を照らし出すような題材を詞のテーマに揚げていった。


西海岸の連中のような花柄Tシャツにジーンズではなく、黒いサングラスにレザー・ジャケットといった彼らのルックスも、そのモノクロな質感とイメージを決定づけた


ヴェルヴェットの功績とは、他の誰もがタブー視していた人生の暗部(本質)に一切の妥協なく深く入り込んで行ったこと、アヴァンギャルドとポップの精神を融合させたこと、“都市音楽”としてのロックを常にストリートに立って描き出したこと、そしてロック・ミュージックというものが、単なる娯楽以上の意味を語ることができるのだということを、身をもって表現したことだと言えるのではないだろうか。


“ルー・リードは最も過小評価されている現代アメリカの詩人である。”


その意味において音楽の中に歌という形で、歌詞という言葉の表現領域が参入してきた時、我々は演奏力やメロディに対する感覚的な対応とはまた違った形で、否応なしにその言葉に対峙せざるを得ない。たとえばここにどんなに素晴らしい歌唱力と演奏力を誇るバンドがいたとしても、彼らが歌っているその歌詞がどうしようもなく差別的な発言や愚鈍な言い廻しに満ちていた時、あなたはその歌や演奏を心底楽しめないどころか嫌悪感を抱いてしまうかもしれない。つまりメロディやインストゥルメンタルに対しては気分的に対応できても、言葉というものは常に観念を、思考の内実を語ってしまうから、あなたはその歌に対し意識的に意味づけをせざるを得なくなるだろう。


私はロックという音楽が現代においてこれ程の影響力を持ち得たことのひとつは、肉体を開放しようとするその強烈なビートや、あらゆるものを雑食的に取り入れようとしてきた自由でフレキシブルな精神以上に、ロックン・ロールが歌という形で、常に言葉による批評性を媒介としてきた表現形態であったことが大きいように思う。ビートルズやローリング・ストーンズ、ボブ・ディランやこのルー・リードといったアーティストたちは、それまでのティン・パン・アリー的な三文ラヴ・ソングとしてのポップスではなく、ある種の文学的感受性とビートニク的自己探究、旧世代に対するカウンター・カルチャー側からのステイトメント・・・といったものをロックの歌詞の中に詩的に織り込むことによって、ポピュラー・ソングの歌における歌詞の表現の幅を拡大しただけでなく、歌詞の言葉を通して彼らの思想や批評精神を社会に伝達してきたのだ。それは詩というものがロックン・ロールという音楽と一体となる事によってもたらされた極めて浸透力の強いコミュニケーションであり、ひとつの新しいメディアとして存在していた。故に、彼らの歌の多くはその思想の過激さや表現のリアルさによって、ラジオやレコード倫理規定委員会や世のPTA連中から度々の規制や弾圧を受けてきたのである。



①ヘヴィ・メタルの様式美的な、あるいは直線的な発散型サウンドではなく、ブルースやブギ、ブリティッシュ・ビートをルーツとする横揺れのロックン・ロール型ハード・ロックの復権
②ダルでルーズな乗りに絡むファンキーなうねり
③“セックス、ドラッグス&ロックン・ロール”に代表される、不良の音楽としてのロックのかっこ良さへの再認識
④現代性を取り入れながらも、常にルーツとなるブルース・フィーリングを失ない
⑤アメリカの20代の若者たちにとっての少年時代のロック・ヒーロー
・・・・・・こういった事項が要因となって、現在のエアロスミス・リヴァイヴァルが成り立っているのだと思う。


早いハナシが、結局、ロックン・ロールっていうのは、セクシーで悪っぽくて、ルーツを極め、カッコイイ、ファンキーな音楽だったってこと。それがエアロスミスだったんだよ。


ロック・ミュージシャンは常にストリートやキッズの気持ちを忘れてはならないと思っている。
高度な芸術家としてのミュージシャンや崇高な哲学者としてのアーティストが存在することは別に否定しないが、僕はあくまでもストリートに立ち続けるロック・ミュージックにこだわり続けたい。


つまり俺の言いたいのは、パンクでもロックでもヘヴィ・メタルでも、イメージや他人様の作りあげた概念に捉われるなよ・・・ということさ。結局のところパンクであろうとなかろうと、人は自らの1回限りの人生を、自らの個有性において生きていくだけだということだ。精神パンクだろうとファッション・パンクだろうと、営業パンクだろうと、そんなもんは勝手にやってくれよ。安全な道を行くのも、ヤバい橋を渡るのも、アンタのやり方次第さ。ロックで世界は変わりはしないが、人の心を変えられるかもしれない。だがそれをどう受け止めて行くのかは、全く個々の存在においてでしかない。要は変わったアンタが何をし、どうなって行くかだ。その時“パンク”というお題目はそれだけの意味でしかない。万物は流転するのみだ。


頭脳警察は“反抗と怒り”をテーマに“ふざけるんじゃねぇよ、テメエの善人ヅラをいつかぶっ飛ばしてやらあ!!”と歌い、当時のドロップ・アウトの若者の気持を代弁していたのである。それは今から考えると“早すぎたパンク・ロック”と呼べるものだったのだと思う。


ストーンズのキース・リチャーズが最近あるインタビューで言っていた。“ロックっていうのはガキの音楽で、10代の子がデュラン・デュランを聴いているっていうイメージしか持たれてないけど、俺はブルース・マンのマディ・ウォーターズが50過ぎまで本物のブルースをやり続けたみたいに、50になってもロックンロールをやり続けられるんだってことを証明したいんだ”と。
これからの日本のロックがより本物を目指すのなら、海外の聴衆や、30過ぎの洋楽ファンをも納得させてしまうだけの存在感と音楽的才能を持ったアーティストがどんどん登場しなくてはならないと思う。そうでないと、いつまでたっても真の意味でのロックが日本に浸透することはないだろう。


ロックン・ロールというのは、ピンナップ雑誌のアイドルの写真のように、20歳を過ぎたからといって“卒業”してしまえるものではないのだ。ロックン・ロールとはいつまでも夢を見続ける奴らの、おしきせの人生を拒み続ける奴らの、いつまでも不良少年のマインドを忘れない奴らの、そして目一杯カッコよく決めたい奴らの、永遠の子守唄なんだ。


(済)極論をい言えば、歌詞のくだらない歌は結局下らないというのが僕の考えだ。


ロックン・ロール・プリズナー

1/27/2008

こんなバンドがプロになれる! 高垣 健










こんなバンドがプロになれる! 高垣 健


君たちは、自分自身だけが頼りじゃないか。

使い捨ての業界なんだよ。

一生とは言わないが、少しでも長く、大好きなロックを続けるために、デビューについては、慎重に真剣に、自分の音楽を鍛えてほしい。

才能を磨いてほしい。

この世界では、「持続力」が最大の武器になるんだよ。
そしてスタッフの皆さん。

どんなにすばらしいアーチストでも、横にいるスタッフによって、大きく成長するか全くダメになるかが分かれてしまうんだ。

僕が、ライブハウスで、とてもステキなロックバンドに出くわしても、彼らについているマネージャーと話が合わなくて辞退させてもらったことがいっぱいある。
その後の結果を見ると、そのまま他社からデビューしたものの全く売れないまま終わったか、新しいマネジメントに交代して成功したか、のどちらかだ。
プロダクション、レコード会社のスタッフの役割は、一人のアーチスト、一組のバンドの人生を変えてしまうくらいの、責任の大きい、重要なものである。

これだけ新人のアマチュアバンドが増えて、そのレベルも高くなっているというのに、それに見合うスタッフは圧倒的に不足している、だから、新人アーチストを探す前に、優秀なマネジメントスタッフを探そうということが、僕たちの合言葉になっているほどだ。

また、その逆に、マネジメント・プロダクションもレコード会社のスタッフを徹底的に吟味するというのが常識になっている。
才能豊かなアーチストと、それにふさわしいスタッフがめぐり会えば、作品としてのCDは、必ず売れる。



初めて見るアマチュアバンドのライブで、何だか今までに聞いたことのない曲や、言葉づかいや、ブッ飛んだライブパフォーマンスを見たりしたとき、僕は迷わず楽屋にかけつける。

そんな個性を磨いてほしい。

個性=オリジナリティがあれば、ジャンルは全く関係ない。

しかも、君の努力と研究次第で個性は育つということを、ぜひ、忘れないでほしい。



現在のロックシーンをふり返ってみると、先にも言ったが、ジャンルは関係なくなっている。

楽曲である。
メロディである。

歌詞である。

歌である。

特に、歌詞の内容が、時代を反映しているか、本音の気持ちをあらわしているか。


特に、ロックは個人的な音楽だ。

ごく数人の共感者が、まず最初に現れる。

彼らが「共犯者」となって、ジワジワとその輪を広げていく。

時間がかかる。

根性も必要だ。

挫折するときも多い。

しかし、いつの日にか、これが社会現象になって、君はビッグスターの勲章を獲得する。


テレビCMのタイアップなどで、大々的にデビューを飾ったアーチストの転落は実にみじめだが、ライブハウスで鍛えぬかれたバンドが、何年もかかってトップスターの座に登りつめるのは、最高に気持ちがいい。


アーチストが、自分にふさわしいオリジナルのメディアを作ってしまうことがあってもいいじゃないか。
かつて佐野元春がみずから発行した雑誌「THIS」は、そんな勇気ある試みだったんだ。


大きな威力を発揮するのは、ズバリ「ライブパフォーマンス」である。


こんな興奮や感動を与えられるのは、ライブでしかないと思う。

ライブは君たちを宣伝する最大のチャンスだ。
迷っていた人は、間違いなくその翌日に、君たちのCDを手に入れるだろう。

ライブハウスでもCD即売を見かけることが多くなったが、すばらしいライブが終わったあとのCD売り場にはファンが殺到している。

僕も、関係するライブでのCD即売はいつも気になっている。
特に、新人としてデビューしたばかりのころは、レコード店にそう多くの枚数が出ていないから、ライブ会場で初めてファンの目にCDがふれることも多い。

だから、ライブの良いバンドは、とても貴重な存在なんだ。
最初は、数十人のお客だけを前にしていたバンドも、内容さえ良ければ確実にそのファンの数は増えていく。
次に百人。

さらに、二千人の渋谷公会堂へ、ついには、一万人の日本武道館へ・・・・・・。

順調に進んでも、まぁ五年はかかると思っていいだろう。



年齢層を考えると、ロックに興味を持っている人は、深夜番組や衛星放送のほうが確実に多いはずだ。
ロック専門テレビを見る人の全体数は少ないが、その100%の人が、新人バンドになにがしかの興味を持って見ているはずだ。

また、このようなテレビ局のスタッフは、噂を聞きつけて新人のライブに足を運ぶことも多い。



電波メディア(ラジオ、テレビ関係)のスタッフは、その番組を作ること自体に大きな目標をもっているようだ。
つまり、番組自体が評判となり影響力を持つことが、彼らの製作スタッフとしての達成感を支えている。

しかし、特に音楽専門誌のスタッフに関しては、雑誌全体よりも、自分が担当している一つの記事、一組のアーチストの評価や動向が、次の自分の仕事を左右する。

雑誌全体の売れ行きや評判を気にしているのは、おそらく編集長だけだろう。


プロとしての大きな変化は、制限された時間の中で最大の成果を求められることにある。これまでに書いたような、マスコミとのつきあいや取材が増えるのはまちがいない。

限られた時間と環境のなかで、どれだけベストの作品を作り出すことができるか。プロとアマチュアの最大の違いは、ここにあると言えるだろう。



ロックは、自分の身を削っての自己表現だ。

スタッフがいくら優秀であっても、アーチストみずからが切り開いて音楽を作っていく。

しかし、映画やテレビドラマは、監督が絶大な力を持っている。

その要求のなかでいかに自分を表現していけるかが、役者の使命になっていく。


スタッフの条件としては、ポイントが四つある。

「愛情」「知識」「企画」「行動」だ。

アーチストを本当に愛しているか。
議論するときに必要な音楽の知識が、どのくらいあるか。他人をノセルためのプラン、企画力があるか。

誰よりも早い行動力を持っているか。
この四つのポイントは、努力次第で、誰にでも身につけることができるはずだ。

音楽がすきなのは、スタッフとしての常識。
プロフェッショナルに、ビジネスとして「スタッフ」を名乗るのなら、このポイントに向けて、最大の努力を傾けるべきだろう。


オーディションを見るとき、最も気になるポイントは? よく質問されることである。

ずばり、ヴォーカルと楽曲だ。
一、二曲しか聴けないことが多いのでこれがすべてではないが、まずこの二点からすべてが始まる。

いい声、いい歌であってほしいのはあたりまえだが、それ以上に個性的であること、オリジナリティを感じられることが重要なんだ。

他のアーチストにはないものが聞こえてくることである。

ライブパフォーマンスやサウンドは、この歌と曲を引き立たせるものだから、元が悪ければすべてダメと言ってもいいだろう。


よく、ルックスやファッションのセンスを話す審査員がいるようだが、これは、他に話すことが見つからないための言いわけにすぎない。

すべてが揃っているにこしたことはないが、見ばえだけで音楽は語れない。

しかし、いい音楽があれば、そこからファッションとルックスを作り出すことは可能だ。

僕たちは、まずは音だけで仕事を始めるのだから、楽曲、ヴォーカル、本音の会話、この三つが揃えば、ファーストステップはクリアである。


フライング・キッズの再生と成功の例は、音楽活動を長く続けて実を結ぶ、すべてのミュージシャンに当てはまる教訓になると思う。

持続力と、チームワーク。

メンバー間のチームワーク。

メンバーとスタッフのチームワーク。

ロック、ポップスという音楽ジャンルは、アーチストの才能がすべてを左右する世界だから、持続力とチームワークという二点は最大の武器だといっていいだろう。


プロデビューをめざしての練習は、まず、レパートリーを増やすことだ。

つまらない曲が大半でも結構。

百曲作れば、ヒット曲の可能性がその中に一曲はあるはずだし、いろんな意見を聞いているうちに、君の曲作りの内容も自然に進歩してくるはずだから。
アップテンポ、バラード、ロックンロール、ブルース、レゲエ、16ビートのファンク、4ビートのジャズ、6/8のポップス、ビートルズ風、ストーンズ風、ディラン風、ビーチボーイズ風、ギターサウンドのブリットポップ・・・・・・。


僕の個人的な考え方だが、甘い曲には辛い歌詞を、激しい曲には優しい歌詞を。そんな逆説が一曲にまとまっていると、個性が浮きぼりになって、他との差別化をはかりやすいことがよくあるようだ。


リズムの練習を徹底的にくり返すこと。

リズムボックス(ドンカマ)を使って、一定のリズムをキープするように心がけよう。
「ロックンロールはノリ一発だから、ドンカマなんて使わないよ」と言う人もいるが、これは、よっぽど自分のリズム感に自信を持っている人だけのセリフだ。

とにかく、理屈を言う前に、ドンカマを使ってリズムを鍛えよう。

僕が新人バンドをチェックする
ポイントは楽曲とヴォーカルだが、リズムがいいのはその大前提なんだよ。


バンドのメンバーは、一人一人が大事な役割を持っている。

しかし、ヴォーカリストは誰が見ても、バンドの顔である。
バンドのすべてではないが、ヴォーカルによって、そのバンドの表現は一変するんだ。

歌の内容、そのキャラクターは、そのバンドを代表する。

演奏がド下手なバンドだが、ヴォーカルがすばらしいということがある。

時間がたてば、演奏は目に見えて上達してくるものだ。

しかし、その逆には出会ったことがない。

楽器演奏は、個人での練習よりも、チームワークによってうまくなることが多い。

バンドマジックとよく言うが、やはり、バンドのアンサンブルが個人の技術をカバーすることができるからである。


コピーをすることで、あこがれの洋楽アーチストの本音が聞こえてくる。

初めて出会ったミュージシャンとセッションをする機会が増え、新しい音楽仲間ができる。

君が作るオリジナル曲へのヒントになって、作品の幅が広がり、可能性も大きくなる。

リハーサルで煮つまったときには、息抜きのセッションで盛り上がる。

日本語の歌詞をつけて歌ってみたら、思わぬ言葉が浮かんできた。
歌い方にも、新しいトライができる。

ロックンロールの名曲をレゲエに変えて演奏してみると、自分たちのサウンドに近づいた曲になった。

ライブでコピー曲を一曲だけはさんで演奏したときに、ファンが総立ちの大合唱になって、今までになかったような盛り上がりになった・・・・・・。