8/29/2007

空手と気



空手と気(気の起源・思考の深さ)/宇城憲治

茶道の裏千家宗匠 千玄室氏との対談の折、次のようなことをお聞きしました。

「お寺に行って、日本人は仏像だけを見る人が多いですね。ところが外国の人はあくまでも、仏像は日本人の信仰の対象のものだと思うんですね。そうすると自 分たちが協会へ入っていくのと同じ気持ちを持たなきゃいかんということで、むしろ日本人よりも神聖な気持ちでお寺や神様を見に来ていますね。観てわからな くても、とにかく頭を下げていますしね、そこの雰囲気の中へ入ろうとする。これが非常に大事なことだと思うんですね。日本人は今、国際化、国際化と言って も外国のことばかりを見つめて、日本のことを見つめない国際化なんですよ。だからむしろ閉鎖社会だと思うんです。閉鎖社会の中で、ちょっとした知恵だけで 物事を解決しようとする、これは小細工なんですね。こういう小細工は駄目ですね。やっぱり外国人のように、ものの雰囲気に入ろうというオープンなハート、 そういうものを持たなければ、日本人の石頭はなかなか開けていけないんじゃないかなと思うね。

外国に行って、最近よく『どうして日本から来る人は、みんな日本のことを知らないんだ』と聞かれるんです。外国の人たちは、少なくとも自分たちの国の文化 を誇りをもって説明できるんですよね。ところが日本人はそれができなくなっている。これはやはり戦後の民主主義の間違った考え方がひとつ。それから教育の 根本的な問題、それから家庭の躾にあると思います。躾、マナー、エチケットというのは最低限、人間が心得ておかなければならない日常のひとつの”行事”で あると思うんですよ。人様に迷惑をかけない、いやな思いをさせない、それが根本だと思うんです。」

最近の日本は平和すぎてあらゆることにおいて頭脳優先になっています。頭脳は架空の世界でも生きられて嘘も言えますが、身体の世界は現実を直視するもので 嘘がありません。百度のお湯に手を入れた瞬間、熱いと思う間もなく手を即座に引っ込めるように、身体は正直です。百度だから熱いと頭に言い聞かせて手を 引っ込める人はいません。そんなことをしたら火傷という事実が残るだけです。このような事象はまさに自分の身体が勝手に教えてくれるもので、その結果、瞬 時に行動が出来るのです。

歴史の中の事実の裏にある真実、そして不変の真理を仮想ではなく現実としてとらえるには、絶対世界の中で身体を鍛え、心を磨き、心身の一致を目指すことが必要であると思ってます。そのような身体をつくる最高峰が伝統、文化、躾だと思います。

バイオリンの川畠成道さん

貯蓄するように練習を積み重ねていくのです。・・・・派手に聴かせるというよりも自分で自分の足下を一歩一歩作っていく、・・・(そうして)音楽というのは構築していくものだというところを徹底して教えていただきました。

何度も何度も挫折をしているから強くなっていくわけですし、人にも優しくなれるのではないでしょうか。そして、それが僕の音楽にも表れていくのではないかと思ってます。

頭脳優先の身体動作は単一的で、部分体となり、重心は浮き、身体の気はとまってしまいます。

一方、身体で考える、とらえる場合は居つきがなく統一体になっています。重心は沈み、身体には自然と気が流れます。これが現場主義、国民主体とする考え 方で、活力の根源はここにあると思っています。戦争反対を唱える多くの人が戦争体験者であるという真実を見てもわかるように、身体で経験した人は真実をと らえていて嘘がありません。

武道はまさに、個が生と死の場に臨む形で稽古するからこそ、平和な時代においても必要とされ、活かされるものとなります。武道が、ただ平和の世に安全に行 われるものであれば、その本質、原点は見失われ、武道ではなくなるということです。少なくとも生と死の場のような緊張のある場を想定して稽古することが大 事であると思います。

統一体となると、細胞が働きます。そこでいちばん大事なのは、身体の呼吸が止まっていないということです。統一体の、細胞による方法の最大の特徴は、身 体の呼吸が止まらないことにあります。ところが部分体の場合は、トレーニングの主体が筋力となるので、身体の呼吸が止まってしまいます。ほとんどの人は、 身体の呼吸が止まっているにもかかわらず、そのことを意識することはありません。それは、そういう考え、認識がないからです。統一体になることではじめ て、部分体がいかに身体の呼吸を止めるかがわかってきます。

統一体となり、細胞を主体とした動きとなることで、集中力が生まれ、身体で考えることができるようになります。ここからいわゆる身体に気が流れ始めます。頭で考え頭で命令を出す部分体という従来のトレーニング方法と比較すると、別次元の差、変化が出るのです。

「磁石」は磁力で鉄を引きつける。

「地球」は重力ですべてを引きつける。

「人間」は魅力で人を引きつける。

スポーツでは、優勝することが最大の目的になりがちですが、優勝の上にある、己に克つ世界こそ目指さなくてはならないところだと思います。単なる精神論ではなく、融和融合や気の世界、気が出るような自分に進歩成長していくことが重要ではないかと考えます。

「進歩、成長とは変化することであり、

変化とは深さを知ることである。

深さを知るとは謙虚になることである」

修行とは、

妥協もなく、嘘もなく、言い訳もなく、限りなく自分との闘いができる無心の世界。

それは限りなく深く、限りなく高いにもかかわらず、一度その世界に足を踏み入れると、

自分自身に大きなエネルギーを与えてくれます。それが「道」だと思います。

この「道」を歩み出すと、自分に正直になることができ、覚悟ができます。

それは、他を意識したり競争したりする相対の世界から、

自己を見つめる絶対の世界へ移行するからです。

裏切らない身体をつくる

相手に入っていく逃げないから身体は、逃げない心、すなわち裏切らない心の根源でもあります。

身体が逃げたら、心も逃げる。いくら言葉で良いことを言っても、いざとなると身体やそれに伴う心は裏切るんです。

しかし今言ったような稽古を積み重ねれば、裏切らなくなる。そういう人たちの輪を広げていくことが大事だと思います。

相手が入ってこれない迫力、オーラを出さなくてはなりません。

覚悟ができた身体からは気が出、気が通ったら怪我をしない。気が抜けている人は怪我をしやすい。また、欲がある人は、執着があり心身の居つきが起こり、瞬 発力の攻撃に対し後手となり関節技などではポキッといく。それは、力の攻撃に対しては強くても、瞬発力の攻撃に対しては脆く枯れ技と同じです。だから、 ちゃらちゃらした稽古はしてはならない。肝腰を据えて、突く時は真剣に突く。蹴る時は真剣に蹴る。刃物を持っているような真剣な気持ちをお互いが持って稽 古する。そうすると上達の度合いが違ってくる。そういう稽古をしていかなければならない。

ただ、投げるじゃ駄目、相手に入っていかないとけない。入っていけば、相手の心が読める。だから衝突が起きない。入っていく技、逃げない身体、その身体が裏切らない心につながるんです。

逃げる身体は心の裏切りにもつながります。だから、入る。「入る」には嘘がない。信じるかどうかというのは、結局は自分の問題です。入ることは自分にとっての最大の自信となります。

外面的に目立とうとする人は内面が弱い。ブランドで身を固めるのも同じです。人間が形骸化してしまった時、精神的な貧弱さが出てくる。身のまわりを眼に見える形で固めたら駄目。内面がしっかりしていれば、心は安定する。心で固めている人は強いんです。

相手に入っていく、それには前へ前へという心と技がなくてはなりません。逃げない身体という実践が先にあって裏切らない心は培われます。逃げない身体は思 いや心ではつくれません。伝統の型にある技と身体に気が流れ覚悟ができてはじめて、それは可能になります。最高の防御となる気は道場の稽古や試合だけでは つくれません。日常の心がけも大事です。

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