11/17/2007

キャンティ物語










キャンティ物語

ヘアーについて(黛敏郎)のコメント
夢を欠く自己陶酔
舞台は、ただ耳を聾するボリュームによってしかダイナミズムを表現できない音響と、絶叫することが迫真性だと錯覚するセリフの洪水・・・・。劇の芸術的感動というものは、決して体当たり精神だけで与えられるものではなく、まず的確な表現力が前提となることは、どんな前衛劇にも当てはまる真理である。ついでに前衛性についていえば、客席と交流したり、ギリシャ劇のコロスのような役割を群衆が果たしたりする程度の「ヘアー」の前衛性は、いわば使い古された前衛性である。
とにかく、それでも客席では、いささか白けた顔の大人たちをしり目に、若者たちはムード的に熱狂し興奮する。それはそれで良いことかもしれない。しかし、「大人なんかに分かるもんか」式自己陶酔には、学生紛争のヒロイズムと同質のものが感じられて極めて日本的だ。

アーティストになるにはコツコツやるしかない。それでなければ、ひとつの技術を身につけることはできない。他のことを捨ててもコツコツやる人でないとアーティストにはなれない。

象郎、日本には体得するという学び方がある。たとえば、日本舞踊の世界を考えろ。四つや五つの小さな女の子に、恋の仕草や艶っぽい踊りを何度も何度も稽古させる。何年も稽古してるうちに、その子も年頃になって人を恋する気持ちが分かってくる。その時、舞台の上で気持ちと踊りがひとつになる。ある時期が来ればやってることの意味は分かる。人が体で覚えたことは、その時期が来れば、その人に才能があれば必ず分かる。それまでは黙って型を覚えていればいいんだ。

自分でプロデュースの仕事をするようになってから、親父が言ってたことが、体の中にしみ込んでいることが良く分かった。

加賀まりこ・芸能人がすべて気安いテレビタレントになってしまったいま、彼女はプロフェショナルの気配を感じさせる数少ない女優のひとちと言える。

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