1/02/2008

動き革命/小森君美











動き革命/小森君美



より大きな力を加えようとすれば、顔は正面に向けていなければなりません。

また身体も顔を向けた反対方向にズレていき、そのためにそれまで行っていた動きとは別の動きになるということも重要なポイントです。

「思い悩むと目線は下がる。空想・夢想のたぐいだと目線は中空をさまよう。現実を客観的にとらえる目はまっすぐに前に向いている。」

一般論として私が良く口にする言葉ですが、これは目線と心の関係です。しかも両目の間、少し下にある花は目が向いた方向を向きやすいもので、これはヒトだけに限らず他の動物にも言えることですが、鼻が向いた方向へ身体が動いていくことは大変多いです。



「蹴らない前進」が速い

地面を蹴る歩きに比べ、身体を直接前方に送り出す「体重移動」の歩きでは、本人が大きな力を使った感覚を持たないのに、はるかに大きなスピードを得ることができます。

おもしろいのは、体重移動の歩きでは、後ろ足が地面から離れる瞬間が早くなるという現象が起きていることです。これは優れた陸上短距離選手が走るとき、後ろ足が地面から早く離れるのと同じです。



ものにとらわれることなく動くことができれば、幼児と同じように「天真爛漫」な動きが出来ることでしょう。天真爛漫な気持ちで動けば、その動きは必ずのびのびとしたものになっていきます。のびのびと動くことは、普段と同じようにしか動いていないのに、想像もしないような威力が伴ってきます。威力など別に追求しているわけではないのに、動いた結果として威力が出てしまうのです。



速く動こうというときに、自分が思っているよりも速く動かされると、身体は自動的にブレーキをかけようとします。それは身体の生理的な限界を超えているからです。自分が希望する以上の動きをやってしまうと、身体が壊れてしまうこともあります。



のびのび動く・・・・「舒展(じょてん)」

手をしっかり握ると、前腕が緊張します。さらに精神的緊張が加わったり、あせりが伴ったりすると肩が上がります。肩が上がるということは、肩関節の可動域が小さくなることを意味します。また肩が上がることによって、僧帽筋という首と肩と背中をつなぐ筋肉に緊張が起こり、上半身各部の動きが制限されることになります。

上半身が緊張すると、上半身と下半身の間での連携がとれなくなります。この状態では、下半身の動きは日常の習慣に基づいてなされているだけで「魂のこもっていない動き」にならざるを得ません。また全身の動きが連携してないわけですから、力んでいるわりには出力の小さな動きになってしまいます。

筋肉の緊張は、「力ずく」で動く人でも同じように起こりますから、力んで動く人にも、上半身と下半身の連携がとれた動きはできないことになります。

逆にのびのびした動きを行えるようになると、小さな力しか出していないように本人は感じていても、全身が協力して動いた結果としての「出力」は大きくなります。結果としていい仕事をしているのに、ひどく疲れたり、筋肉を傷つけたりしないですむようになります。



『整体動作』

整体動作とは、全身が一つの目的のために同時に協力して動く動作のことですが、そのためには全身が同時に動くような身体を持たなければなりません。これはただの柔軟体操やストレッチ体操でできるようなものではなく、高度に発達した「感覚のネットワーク」なしには考えられないものです。

全身が同時に協力して動けば、本人はそれほど意識して力を入れないにもかかわらず、大きな威力を出すことができます。これは大きな仕事を行う仕事を行うことができる「能力」であり、結果を出す上では非常に重要なことです。



「刺激に対する反応」は過不足ないのが一番いいという結果に到達したのですが、なんでもかんでも、大きな筋肉にモノを言わせて力ずくで動いていると、必ず反作用が自分の身体に返ってきて自分の身体を痛めることになります。

「刺激に対する反応」という面では、決して「大は小をかねません」。大きな刺激に対しては大きいなりの、小さな刺激に対しては小さいなりの反応が最も目的にかなうものといえます。



大切なことは目的の達成であって、いかに大きな筋力を使ったかではありません。動きの合理性から言えば「出来るだけ小さな力で目的が達成」できれば、それにこしたことはありません。ただ「小さな力」でということばかりに気を使うと、非常に長い時間がかかって間に合わないことがあるかもしれませんが。

動いた結果目的が達成できていればいいと考えれば、当然動きのほうが力よりも先にくるべきなのです。

だから筋肉の仕事は、必要な動きをするための最低限度の力を発揮することであり、それ以上の仕事をすることは、他のものがやらなければならないはずの仕事を妨害しているだけです。

大切なことは、身体の各部がそれぞれに応じてきちんとやらなければならない仕事をきっちりこなすことであって、こういう動き方のことを「整体動作」と呼ぶのです。



腰を落として、両脚足に不必要な緊張が発生せず、適度な緊張と弛緩が同時に存在するとき、体幹部をどちらに向けるという行為に両脚足が協力してくれます。このときの動きは一見何気ないですが、非常に強い力が発生してます。



ゆっくり動くと言うことは、日ごろなんとなくやっている動きの中に潜んでいる問題点を洗い直す上で大きな効果があります。

一般的に「速い動き」では我々の「感覚」がその速さについていくことができませんから、正確な位置関係や方向、角度などについて詳しい認識を得ることができませんが、ゆっくりした動きの中では、「感覚」が正確に自分自身を把握することができます。従って「速い動き」ではできる誤魔化しも、ゆっくりした動きではできません。

「動きの精度」を上げていく上では、ゆっくり動くということは、重要な練習の一つと言えるでしょう。

この「ゆっくりした動き」が極限までいったものは、外見上、静止して見えます。この状態で自分が普段何気なく行っている動きが持続していれば、「静止しているように見える動き」になります。ここで「動きの感覚」が継続できていれば、それは「活動的な静止状態」と言えます。

中国武術の「たんとうこう」は、まさにこの動きです。」



安定とは全身が完全に自由に動くことが出来る状態でなければならず、不安定というのはどこかの部位が、安定させるための身体の動きに参加できなかった場合に起こる状況だからです。

つまり不安定は身体の中に固定した部分があるから発生しているわけで、よく例にあげられる前に進むという動作にしても、「身体が倒れようとする力を利用して」動くと言いますが、これでは動きの主体が重力になってしまっていて、自分の意志ではありません。自分の動きは自分の「動作目的」を達成するために行うものであり、何かに作用された結果としての動きは、どうしても「あなたまかせ」の部分が出てきます。



ある動きができない人が、「できる人」がその動きを行っているときに肉体の一部を接触させたとしましょう。このときは「できなかった人」がきわめて短時間で「できる」ようになっていきます。

身体運用上の情報は目や耳だけからだけではなく、身体の接触によって伝えることができます。しかもこのときは非常に大量の情報が流れ込んでいるようです。我々の身体にはまだ解明されていない多くの「能力」が眠っていると考えられますが、私はこれを「身体のアクセス」とよんでいます。新しい動きを覚えていく上で極めて有効な方法です。

武術の世界では「技はくらって覚えろ」というのがありますが、まさにその通りです。ただこのとき肌と肌が直に接触していたほうが、より多くの情報が流れるように感じています。うすい布一枚はさんでしまうと、それだけで情報の伝わり方が弱くなっていくようで、スキンシップという情報伝達の方法の有効性を最近になって再認識しています。



人に質問することは、ときに害になる。



「一人練習」「一人稽古」は「自分と向き合う」ことによって「自分自身を理解する」上では、意義が大きい。



型練習は難しいです。優秀な師範の下で、一生懸命、根気強く稽古しなければ、型稽古本来の成果はあげられません。けれども、長年ホンモノの型を練り上げてきた人の動きは、優れたコンビネーション攻撃を一瞬にして無力化してしまう能力を持っています。

本来型を伝える武道・武術には、「コンビネーション」という発想はなく、「一撃必殺」「一発必倒」であったと考えられます。



武道・武術の稽古は、能力を開発していくということ。



マナーを考えると、自分の所属する「階層」の中で、自分の階層に相応しい所作ができなければ、自分の所属する階層にいられないということを意味しています。それは、社会的な「生死」がかかっているわけです。

「相手を思いやる」ということにしても、自分の利益につながることです。我々は一人で生きていくことができませんから、「相手を思いやる」ことによって「自分を思いやってもらう」ことになったのです。



身体重心がブレないということは、効果的な動きを行う上で非常に重要なことです。



つい力が入ってしまいようになるところで、呼吸を「吸気」にしているのですが、「呼気」では力が入りすぎて床を蹴ってしまう動きが、「吸気」に変えることで床を蹴らない動きに変えられます。

床を蹴る動きは、身体重心をブレさせたり、力の無駄使いにつながり、気配を出すことになり、昔に人はずいぶん嫌がったようです。



全身を同時に協力させて動かそう



相手の自然を崩せないようなら、絶対に勝つことはできません。相手が「必然律」を支配してしまうからです。

自分が「必然律」を支配しようと思えば、自分の「必然性」を高めなければなりませんから、目先のことに追われていては無理です。自分にとっての自然を感じ、その自然を、いついかなる状況でも崩さないように動かなければなりません。それが無心で動くということです。



人間が最も人間らしいときに、人間としての「最高」の能力を発揮することができるのです。



無理をすることは不自然とつながります。無理をするということは「理」がないわけですから、成功につながることも少ないのです。無理をしないこと、不自然な動き方をしないことが、「必然」の世界に入っていくためには不可欠な要素といえます。



現代はマニュアルがないと動けない人が増えているそうです。これは長い間、自分の「感覚」を信用して物事に対処してこなかったから、外部からの刺激に対する反応が、その人の中で正確に起こっていないということを意味します。



我々にとって最も大切なことは、トレーニングによって自分の身体を変形させ、それらを獲得しようとすることではありません。まず「自分が持って生まれた能力を、最大限発揮できる心身になろう」ということなのです。



やっていることが正しいのなら、それは武道・武術であれ、スポーツであれ、仕事での動作であれ、日常生活での何気ない動きであれ、全て役立ちます。



「自分が何をするか」という目的意識を持つことは大切ですが、そのために他の事から目をそらしてしまうと、自由な活動ができなくなります。これは生きていく姿勢の「固定」です。目的意識だけに凝り固まると、まったく融通のきかないものになりますが、「精神的な余裕」を持って生きると、「自由な発想」が得やすくなります。余裕が自由な発想を生み、凝り固まった頭からは出てこないモノに発展します。こういう柔軟さを持つことが、生きる姿勢の「安定」です。

あまりに規則正しい生活同様に、自分で自分を縛っていて、それ以外のことができなくなってしまうのですが、何かに「縛られる」ことは、自分で考えなくても生活が送れることを意味していますから、それなりに楽なので、生真面目な人ほどはまりやすい状態と考えることもできます。自分の目的達成のために「安定」した生き方をしたいなら、注意しなければなりません。

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