11/24/2007

橋本治







橋本治
古典芸能の世界で、「自分が出る」というのは、とても恥ずかしいことである。芸というのは、「自分」を消してからでなければ生まれない。「じぶん」が残っていればシロートで、シロートというものは、「自分を消す」という表現の基本をまだマスター出来ていない存在なのである。

キイワード式のダイジェスト型マスターは、「万巻の書を読まなければならない教養主義に対するアンチだ」と、誤解されている。教養というものは、別に万巻の書を読まなければ身につかないものではない。必要なのは、所詮「何冊かの本」だ。何冊かの本の一冊一冊を納得のいくまで読み込まなければ、「教養」を「教養」たしめる構造を理解出来ない。その根本がなかったら、本を何万冊読んでも同じだ。「万巻の書」という発想は、実は「教養」の発想ではない。これは、範囲を決める「一般教養」の発想である。「本を読むのはしんどいな」と思う人間には、その「範囲」が「万巻の書」のような膨大かつ巨大なものに見えるだけである。そして、「範囲」が決まっているからこそ、その「万巻の書」は、「これだけ読んどけば大丈夫」という形で、凝縮されてしまうのである。

たまに街へ出て、自分がよく知っていたはずの街がとんでもない変貌を遂げていることを知ったりして思うのは、ただ「ここはもう自分の知る街ではないな」だけである。「自分にとってはもう必要ではない」とう意識があるから、そんなことしか考えない。「この街をどうするかは、この街を必要とする人の考えることで、この街への批評は、この街を必要とする人の責任だな」としか思えない。

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