12/24/2007

こころ・と・からだ/五木寛之














こころ・と・からだ/五木寛之
本に書かれている事や、人の言う事、社会の常識となっていることを鵜呑みに信じて、自分が今感じている本音を歪めてはならない。僕は、自分の直感に従ってそう思います。

その時に両親が全身全霊で自分たちの愛情を息子さんに伝えた。つまり、精神的な<熱伝導>をしたわけです。息子さんは論理に屈したわけではなく、すべてを投げ打って彼を理解しようとした、その両親の熱に考えを変えたのではないでしょうか。

人間はできるだけたくさん笑い、できるだけたくさん涙を流し、ときには目いっぱい怒る必要がある。そういう喜怒哀楽の感情を深く味わって、自分のなかの<熱を高めることが、結局はその人がいきいきと健康に生きていく上で、大事なことではないかという気がするのです。

以前、作家で探検家のCWニコル氏と話した事があります。そのときに、彼が言ってたのは、極地探検のようなときに最後まで頑張れるのは、”礼儀正しい人"だということでした。
ニコル氏によれば、体育会系の一見バンカラで、物凄く強そうな人が、脱落していったりする。逆に、そんな極地のサバイバル生活のなかでも、きちんとヒゲを剃ったり、身だしなみを忘れない人のほうが、最後まで粘ったというのです。

「あきらめる」というのは、実は「あきらかに究める」ことだと言われてます。物事を明らかにし、その本質を究めること。勇気を持って真実を見つめ、それを認めることが、本当の「あきらめる」ということであるらしい。

強くあるだけが生きていく術ではないと、僕は思います。静かな強さ、優しい心を持つことは、それ以上に大切なことです。永遠の勝利を信じるなかからではなく、いつかは死によって敗れる者としての「あきらめ」のなかから、もう一度再生する人間。

自分を守るということは、いわば自立した人間の第一歩です。自分を守れない人間が他人を守ることなどできません。子供の頃から管理され、守られることに慣れた人間は、いつまでたっても一人前の大人になれないんじゃないかと思います。

ひとつは、薬によって簡単に頭痛がなおせるとするならば、結果的に人間にとってそれは悪い結果をもたらすであろう、ということです。もうひとつ、現在最もありふれた頭痛であるところの筋収縮性頭痛に悩まされている人たちは、実は欲望に踊らされ、欲望を掻き立てる社会の中で平安を失い、押しつぶされそうになっている人たちだ、ということです。

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