10/20/2007

英語を学べばバカになる


「英語を学べばバカになる グローバル思考という妄想」薬師院仁志著(光文社新書)


下からの民主主義を揚げる社会において、上から押しつけられた秩序は好まれない。人々は、そのような規制や枠組みを最小限にしようとする。逆に言えば、すべての個人や集団が自由に振る舞うことができればできるほど、その社会は民主的だということである。まずは、自由ありきなのだ。とは言え、誰もが自由に振る舞うとなると、当然のことながら、争いや衝突も多くなる。それぞれの者たちの自由な意思や行動が、相互に対立してしまうのである。だが、下からの
民主主義を旨とする社会では、たとえ対立が起きても、上から仕切る力は弱い。そこで、裁判が多発することになる。かくして、アメリカは、世界に類を見ない訴訟社会になったのである。


ヨーロッパ型の民主主義思想では、何が正しいのかは全員に共通のルール(一般意志の表現)の中で定められるべき事柄であって、個別の争いの中で決めることではないのである。全員が同じ約束事に従うことが民主主義の原則なのであって、裁判に負けた方が勝った方の個別意志に従うのでは、民主主義にならないのだ。ただし、ルソーの考える民主主義を実現するためには、立法者という特権的存在を必要とする。アメリカ流の民主主義は、この特権的存在を認めないか、せめてその力を最小限にしようとするのである。何が正しいのか。アメリカにおいて、それは上から押しつけられることではない。それを決めるのは、異なる意見を持つ者同士が互いに自説をぶつけ合う直接対決である。言わば、ヨコの争いなのだ。進化論を主張するにも、裁判で勝たなければならない。こうなると、もはや何が正しいかではない。勝つか負けるかの二分法なのだ。まさに、勝てば官軍の世界なのである。ソ連が正しくなかったかということが、すなわちアメリカが正しかったのだという奇妙な論法もまた、ここから生まれてくる。アメリカでは、何事も、単純な二分法に還元されてしまいがちなのである。


だから、アメリカの社会で自分の自由を守るためには、自らが闘わなければならない。上からの秩序枠組みを当てにできない以上、人々は自らの力で自分の立場や利益をつねに主張し、発信しなければならないのだ。その結果、アメリカ人たちは、つねに強い自己主張を前面に押し出さねばならないだけで
はなく、コミュニティーを作り、教会を作り、NGOやNPOを作り、数を集めて徒党を組み、自分たちの意見や立場を発信し続けることを余儀なくされる。そして、そこでの議論は、「ディベート」という名の言い負かし合いの形を取ることになるのである。


だが、アメリカ的発想は、平等を犠牲にしてでも自由を重視し、上からの指導に対する服従を嫌う。共産主義は、たとえ平等を保障しようとも、アメリカ人から見れば、自由に対する国家的抑圧でしかないというわけである。ドイツ人やフランス人が、イラクの民主化を、上から、啓蒙的な統治によって始めるべきだと考えたのに対して、アメリカの多数派が、独裁者の追放と自由選挙によってそれを一挙に実現しようとした理由もまた、同様である。アメリカは、上からの民主化を拒否したがゆえに、戦争を選んだのだ。アメリカ型の民主主義は、よくも悪くもそれしか考えられないのである。


いずれにせよ、ヨーロッパ人の目には、アメリカ型の民主主義が、かなり原始的なものに映るだろう。


何でもかんでも下からの投票で決めることだけが、民主主義ではないのである。

国家などの上部機関が個人的権利の保証者ではない以上、アメリカでは、自分たちの権利は自分たちで守らなければならないからである。コミュニティーを作ることは、上からの支配に抵抗するためであると同時に、いやそれ以上に、ヨコの勢力争いの中で身を守るためでもある。

端的に言えば、アメリカにおいて、コミュニティーとは、集団の縄張りに他ならない。上を当てにできない以上、自分の場所は自分で確保しなければならない。それは、一人の人間や一つの家族でできることではない。だから、仲間が集まって縄張りを囲み、自分たちの意見や立場を声高に発信し続けなければならないのである。


コミュニティーの経済的同質性は、人種的同質性よりもさらに顕著である。一つのコミュニティーの内部では、たいてい同じような家ばかりが建っている。統一された美しい街並みというやつである。だが、その統一性は、行政当局の計画性に由来するものではない。それは、経済的地位の同質性の反映に他ならない。一つのコミュニティーの内部では、すべての世帯がほぼ同じような収入で生活している。だから、同じような家に住み、同じような自動車を持ち、同じような身なりをしているのである。


白人と黒人が同居するコミュニティーはありえても、金持ちと庶民が一つのコミュニティーに同居することは、まずありえない。


アメリカ型の「小さな政府」は夜警国家に近く、国民生活の保証者ではない。だからこそ、医療や福祉や教育といった公益でさえ、市民自らが主張し、自分たちの力で守ってゆかなければならないのである。だが、これは、諸刃の剣だ。その発想を逆から見れば、国家は、個人の貧困に対する責任者ではないことになるからである。アメリカでは、貧困もまた、基本的に個人の責任とされる。それは、国家が責任を取ることではなく、善意ある者たちの慈悲によって救済されるべきものなのである。そこでは、市民同士のヨコの関係が、助ける側と助けられる側に二分される。たしかに多くのNPO団体は公的な資金補助を受けている。それでも、アメリカにおける福祉サービスは、公的に保障された権利としてではなく、善意ある立派な皆様からの施しとして恵んでもらえるものなのである。


アメリカでは社会保障に加入できない人間が大量に存在する一方で、ほとんどすべての大企業および多くの中堅企業では、会社が従業員の社会保障を引き受けている。デトロイトのゼネラル・モーターズ社などは、自動車生産のための企業体であるというより、「自動車を生産することで費用がまかなわれる一種の社会保障システム」だとさえ言われている。ともあれ、ここでも公的なサービスが私的に担われているのである。



アメリカでは、宗教も商売なら、教育も商売だ。そこでは、学生や生徒は顧客であり、大学や学校はお客様のご要望にお応えしたサービスを提供する教育業者だと考えられている。教育は、サービス業だというわけである。


実際、ヨーロッパの伝統的な教育観に照らせば、教育はサービスではない。ヨーロッパにおいて、教育は、基本的に国家の制度である。


軍隊は、兵士が嫌がっても厳しい訓練を課し、敵軍を殺すよう指導する。裁判所は、無罪だとシラを切る被告にでも有罪判決を言い渡す。そして、学校は、生徒が嫌がろうが不満を持とうが、しなければならない教育を義務として強制するのである。学校では、何よりも、万人に共通の普遍的知識が教えられなければならない。教師の仕事もまた、正しいこと、知るべきことを教えることであって、生徒を満足させることではないのである。このような教育観は、ヨーロッパ特有の民主主義思想に基づいている。学校は、知識や文化に触れる機会のない者たちに対しても、上からそれを平等に分け与える任務を担わなければならない。放っておけば社会の上層部に独占されてしまう知識や文化を、国家が責任をもって、すべての国民に開放するというわけである。

考えてもみよう。現実問題として、書物に触れる機会、外国や外国語に触れる機会、美術や音楽に触れる機会は、生まれ育った境遇によって非常に異なっている。所属する家庭によって文化的レベルに差があるのは、否定しようのない事実であろう。自分たちの身の回りを見ても、書物に囲まれた家庭もあれば、文字といえば漫画と競馬新聞だけしかない家庭だってある。図書館や美術館に通う親の子もいれば、ゲームとブランドだけにしか興味のない親の子だっている。それは、否定しようのない現実なのである。そのような状況の中で、生徒や保護者の要望に合わせた教育を行えばどうなるか。間違いなく、不平等を固定化することにしかならない。学問や文化と縁もゆかりもない家庭環境に育った子どもたちは、誰か外部の者が強制的にでも教えてやらない限り、上流階級の仲間入りをするために必要な知識や教養を自ら望むことなどありえないのである。


アメリカにおいて、教育は、私事であり、商売である。たとえば、アメリカで教育マルチメディア王国(Jones Knowledge Group and Knowledge TV)を創設したグレン・ジョーンズ氏は、「教育は、地球上で最大の市場であり、最も成長している市場であると同時に、現在の当事者が需要に応えていない市場でもある」と述べている。要するに、教育は商売なので、新しいメディアを駆使した教育ビジネスによって世界中で儲けようということである。


中村敬氏が紹介する一九九八年のデータによると、アメリカでは、たとえ大学生になっても外国語の履修者がわずか六%にすぎないらしい。大学生でも、その九四%は外国語を学ばないのだ。アメリカの語学教育は、世界最低水準であるとさえ言えよう。


結局、英語を本当に必要としない者が、世間の風情にあおられたり強制されたりして、英会話学校に通い、英語教材を買い集めても、挫折を繰り返す可能性が高いのだ。この挫折は、豊かさの反映でもある。英会話に何度挫折しても、それでも英会話学習費を払い続けられるということは、豊かさの証拠であると同時に、その人にとって英語が不要だという事実の裏返しでもあるのだ。英語ができなければ本当に生きてゆけないというのなら、今日の日本のような状況が生まれることもない。


アメリカでは、人間もまた「品質管理」される「コンテンツ」だというのも凄い感覚だが、そうなることを望むような感覚は、もっと驚きだ。それはさておき、アメリカでは、各種の学位や資格が、就職や昇進の際にかなり物を言うことは事実である。企業の重要な地位には、それに見合った資格や学位を持った人材を登用することが、非常に合理的だとされているのであれる。叩き上げでこの道一筋四〇年などという伝統的な日本型発想は、そこでは通用しないようなのである。


私には、今日ほど、世界中の至るところで、宗教的、民族的、文化的、地域的な対立が先鋭化している時代はないのではないのかとさえ思える。人間の距離は縮まらなかった。世界は一つにならなかった。地球市民など幻想である。これは、私一人だけの考え方ではない。英語以外で表現される情報に少しでも目をやれば、グローバル化など幻想に過ぎないということについて、容易に気づかされる。裏返して考えれば、われわれ日本人は英語ばかりに目を奪われるあまり、逆説的にも、英語世界という非常に限られた世界に閉じこもっているということなのである。


いずれにせよ、経済や情報のグローバル化が世界を一つにするなどというのは、とんでもない幻想だ。世界は、むしろ分裂しつつある。そんな中で、アメリカに追従していれば安泰だという考えもまた、時代錯誤の幻想に過ぎない。そして、英語が世界語になるということもまた、同じような幻想なのである。


ホメイニ師は、「われわれはイスラムを望む、イスラムだけを望む」と言った。この言葉は重い。ホメイニ師を支持したイランの民衆は、自由主義も資本主義も望まなかった。近代人であることも地球市民であることも望まなかった。ただ一つ、イスラムだけを望んだのだ。人々が怒り、告発したのは、単なる経済的格差ではない。人々は、自分たちの価値観、文化、伝統に対する尊厳を傷つけられたことに怒ったのである。


いずれにせよ、今後、インターネットがさらに普及し、ハリウッド映画やアメリカの衛星放送が世界中に広がれば広がるほど、世界各地の人々の間に、知らなければ持つこともなかった文化的敵意を誘発してしまう危険性がますます高まることになるだろう。


日本の社会に、英語やアメリカ型の文化を過度に持ち込むことは、周囲の人間に違和感や嫌悪感を与える危険性ばかりか、せっかく英語を学んだ当人を社会的不適応に陥らせてしまう恐れさえある。英語教育の拡大が、かえってローカルなアイデンティティを刺激するという逆効果には、十分に注意しておく必要があるのだ。古くから根づいた文化による反撃の危険性を過小評価してはならないのである。


贋エリートは、国民から認められた指導者などではなく、“自ら主体的に”自分たちの利益や価値観を追求する特権階級にすぎないというわけである。たしかに、地球市民は、非営利的なボランティア活動に熱心である。だが、利益というものは、金銭的な売上高だけで計れるものではない。非営利活動をすること自体が個人やその所属団体の社会的評価を上げ、発言力を増すこともまた、充分な利益なのである。端的に言えば、地球市民としてグローバルに活躍することが、一種のブランド価値を生み出しているのだ。


流行りものに乗り遅れて人生を棒に振る者はいないが、流行を追いかけるだけで人生を終える人は多い。あえて言えば、英語もそのようなものなのである。

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